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アクロポリス:近代ギリシアの象徴と記憶

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(1)

アクロポリス:近代ギリシアの象徴と記憶

著者 中井 義明

雑誌名 文化學年報

号 63

ページ 109‑130

発行年 2014‑03‑15

権利 同志社大学文化学会

URL http://doi.org/10.14988/00027767

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アクロポリス:近代ギリシアの象徴と記憶

著者 中井,義明

雑誌名 文化學年報

号 63

ページ 109‑130

発行年 2014‑03‑15

権利 同志社大学文化学会

URL http://doi.org/10.14988/00027767

(3)

ア ク ロ ポ リ ス :

近 代 ギ リ シ ア の 象 徴 と 記 憶

中 井 義 明

一 は じ めに

ギ リシ ア の 象徴 と し ての ア ク ロポ リ ス アク

ロポ リス は本 来﹁ 高所 にあ る城 町﹂ を意 味し

︑何 もア テネ の そ れ のみ を 指し てい るわ けで はな い︒ スパ ルタ にも あれ ば︑ アル ゴス に も あ る︒ アテ ネ のア クロ ポリ スは 海抜 一五 六メ ート ル︑ 付近 の市 街地 より 九一 メ ー ト ルも 高 い石 灰岩 の丘 で あ る!

︒ 頂上 部 は 三 二〇 メ ー トル

×一 二 八 メー ト ル の 不定 形 の菱 形を して おり

︑プ ロピ ュラ イア と呼 ばれ る入 口︵ 図1

︶か ら 東 方 向に パ ル テ ノン

︵図 2︶ と エレ ク テ イ オ ン

︵図 3︶ の 神 殿 が︑ 右 手 に ア テ ナ= ニ ケ の 神 殿が 見 え る︵ 図4

︶︒ こ れら の 神 殿 はア テ ネ が誇 る 歴 史的 記 念 碑 で あ り

︑現 代ギ リシ アを 古代 の栄 光と つな ぐ記 憶の 場で あり

︑ギ リシ ア が ヨ ーロ ッ パ文 明の 源流 とし て ヨ ーロ ッ パ 世 界に 君 臨 して い る 象徴 で も あ る"

︒ ある 研 究者 はE Uの

﹁精 神的 シン ボル

﹂と 評し てい る#

1 プロピュライア(2002年 筆者撮影)

― 109 ―

(4)

有名 なパ ルテ ノン は前 四三 八年 に完 成し たド ーリ ア式 の神 殿で

︑紀 元後 六世 紀に キリ スト 教会 に転 用さ れ︑ 後に 聖 母 に奉 納さ れて アテ ネの 府主 教教 会と して 利用 され たの であ る!

︒ 一四 五八 年 の ト ルコ に よ る征 服 以 降︑ パル テ ノ ン は モス クに 転用 され

︑ビ ザン ツ時 代に 建て られ た鐘 楼は ミナ レッ トに 作り 替え られ た︒ 一六 八七 年九 月二 六日 午後 七 時

︑モ ロシ ーニ 率い るヴ ェネ チア 軍の 臼砲 がト ルコ 軍の 火薬 庫と して 利用 され てい たパ ルテ ノン を直 撃し

︑大 爆発 を 引 き起 こし たの であ る︵ 図5

︶︒ そ の結 果︑ パル テノ ンは 二 つ の廃 墟 と 化し て し ま った

︒一 七 六 六年 ま で に小 さ な モ ス クが パル テノ ンの 中に 建て られ

"

︵図 6︶

︑シ ョワ ズー ル・ グー フィ エ伯 爵︵MarieGabrielFlorentAugustedeChoiseul

Gouffier

︶や エル ギン 卿︵KofarlEth11andElginofarlEth7Bruce,Thomasincardine

︶ らに よっ てフ リー ズや ペデ ィ

2 パルテノン神殿(2005年 筆者撮影)

3 エレクテイオン神殿(2005年 筆者撮影)

4 ニケ神殿(2013年 筆者撮影)

アクロポリス:近代ギリシアの象徴と記憶 ― 110 ―

(5)

メ ント の彫 刻の 類が 持ち 去 ら れた

︒パ ルテ ノン の修 築 は 独立 後の 一八 三四 年に 始 め ら れ︑ 一 八 四 一│ 四 四 年

︑一 八九 八│ 一九

〇二 年 と 続け られ

︑一 九二 一│ 三

〇 年に 北側 のペ リス タイ ル が 修築 され たの であ る!

︒ パル テノ ンの 北側 にあ る エ レク テイ オン はペ ロポ ネ ソ ス戦 争中 の前 四〇 六/ 五 年 に工 事を 中断 し︑ 完成 され る こ とは な か っ た"

︒ しか し 前 四〇 六 年 には 火 災 に 会い

#

︑そ の 後 もヘ レ ニ ズム 時 代 に 火 災が あっ たと 言わ れて いる

$

︒紀 元後 の六 世紀 には 教会 に︑ 一四 六三 年に はト ル コ 軍 司令 官 の ハー レ ム に転 用 さ れ て いる

︒カ リュ アテ ィー ドと 呼ば れる 有名 な女 人柱 は一 八〇 一年 にエ ルギ ン卿 によ って 一体 搬出 され

︑一 八二 一年 に 始 まっ たギ リシ アの 独立 戦争 では 何度 も砲 撃を 受け

︑一 八五 二年 一〇 月二 六日 の嵐 で西 側正 面が 崩落 して いる

︒修 築 は ピッ タキ ス︵K.Pittakis

︶ によ って 一八 三七

│四

〇年 に︑ パカ ール

︵A.Paccard

︶ によ って 一八 四六

│四 七年 に︑ 外 面 はバ ラノ ス︵N.Balanos

︶の 手で 一九

〇二

│〇 九年 に再 建さ れ︑ 一九 七九

│八 六年 に﹁ ア クロ ポ リ ス修 復 事 業﹂ に よ り﹁ 最新 の技 術を 用い て﹂ 修復 され た%

5 ヴェネチア軍の攻撃 httpen.wikipedia.orgwikiFileVenetian_siege_of_

Acropolis.jpg

6 パルテノンの中の小モスク 1837年 鋼板印画(原画 イントン、彫板 ベントリー)

httpwww. antique―prints. deshopcatalog. phpcat= KAT17&lang=ENG&product=P000678

― 111 ― アクロポリス:

近代ギリシアの象徴と記憶

(6)

アテ ナ・ ニケ 神殿 はア クロ ポリ スに 登る 階段 の右 手上 方に あり

︑ペ ロポ ネソ ス戦 争中 の前 四二 七│ 二四 年に 完成 し た 小さ な神 殿で ある

!

︒一 六八 六年 にヴ ェネ チア 軍の 包囲 を受 けて 神殿 は解 体 さ れ︑ 石 材は ト ル コ軍 の 砦 に利 用 さ れ て いる

︒ア テナ

・ニ ケ神 殿の 再建 はシ ャウ ベル ト︵E.Schaubert

︶︑ ハン ゼン

︵Chr.Hansen

︶ の協 力の 下︑ 一八 三五 年 に ロス

︵L.Ross

︶に よっ て始 めら れ︑ 一八 四四 年に ピッ タ キス

︵K.Pittakis

︶ に よっ て 完 了し た"

︒そ の 後一 九 三 五

│ 四〇 年に 再び 解体

・再 建さ れ︑ さら に一 九九 八年 に三 度目 の解 体と 修築 が始 めら れ︑ 二〇 一〇 年に 完了 した

#

︒ 一八 三四 年に 都が ナフ プリ オン から アテ ネに 移さ れる と︑ アテ ネの アク ロポ リス は近 代国 家ギ リシ アの 象徴 とし て 特 別な 意味 を付 与さ れる こと とな った

︒本 稿で 論じ るよ うに

︑ア クロ ポリ スは 近代 国家 ギリ シア が作 り上 げた 民族 主 義の シン ボル

︑西 欧の 知識 人ら が自 らの 理想 をギ リシ アに 押し 付け た西 欧文 明 と民 主主 義の 源流 とし ての 権威

︑そ して 近世

・中 世を 通り 越し て古 代と 近代 を 直接 結び つけ る記 憶の 場と して

︑多 様な 役割 を期 待さ れて きた ので ある

︒ こ のよ うに アク ロポ リス はギ リシ アが 自ら 求め る国 民統 合の 象徴 とし ての 側 面と

︑ヨ ーロ ッパ がギ リシ アに 求め てき た西 欧世 界へ の帰 属の 証と して の二 重 の顔 を担 って きた ので ある

︒こ の矛 盾を 端的 に表 して いる のは 今回 の財 政危 機 によ る混 乱の 中で

︑二

〇一

〇年 五月 四日 に 共産 党KKE

︵KomounistikoKomma

Helladas

︶系 の 労 働組 合 が アク ロ ポ リ スに 掲 げ た大 段 幕 であ る

︒そ こ に は﹁ ヨ ーロ ッパ の人 民よ 立ち 上が れPeoplesofEurope/RiseUp

﹂ と記 され てい た︵ 図 7︶$

︒ 公務 員 給 与の 抑 制 とい う ギ リ シア 政 府 の政 策 に 抗 議 し て 公 務 員 の 労 働 組合 がゼ ネス トと いう 形で 抗議 運動 を展 開し たが

︑そ の労 働組 合が ヨー ロッ パ

7 「ヨーロッパの人民よ立ち上がれ」

The Telegraph04 May 2010 Photo : AFP

アクロポリス:近代ギリシアの象徴と記憶 ― 112 ―

(7)

の 全労 働者 に連 帯を 呼び かけ

︑そ の垂 れ幕 をア クロ ポリ スに 掲げ ると いう 点で ギリ シア とヨ ーロ ッパ

︑そ して アク ロ ポ リス の関 係が 見事 に表 現さ れて いる と言 えよ う︒ 周知 の通 り︑ 二〇

〇九 年一

〇月 一九 日︑ 成立 した ばか りの パパ ンド レウ

︵G.A.Papandreou

︶ 内閣 はギ リシ ア の 財 政 赤 字 のGDP

比 が それ ま で 公表 さ れ て きた 三

・七

%で は なく

︑EU の 基準

︵三

%︶ を 大幅 に 超 え た 一 二・ 七% で あ る こと を明 らか にし

︑そ れま での ギリ シア 政府 が赤 字額 を隠 蔽し てき たこ とを 認め たの であ る︵ 二〇

〇四 年九 月二 三 日 カラ マン リス

︵K.A.Karamanlis

︶首 相は 三% を超 えて いる こと を認 めて いた

︶︒ これ がギ リシ ア国 債の 一段 階格 下 げ

︵﹁ A A−

﹂か ら﹁ BB B+

﹂へ

︶を 結果 した ので ある

︵一 二月 八日

︶︒ 考え てお かな くて はな らな いの がギ リシ アの 理想 と現 実の 矛盾 とい う問 題で ある

︒西 欧人 の古 代ギ リシ アへ のイ メ ー ジが 高く 理想 化さ れる 一方 で︑ 彼ら が目 にす る現 実は その 理想 から は程 遠い 現実 の世 界で あっ た︒ そこ から 生ま れ て きた のは 古代 ギリ シア と現 代ギ リシ アは 違う ので はな いか とい う主 張 で ある

!

︒現 代ギ リシ ア人 が古 代 ギ リ シア 人 の 子孫 で は なく

︑長 い 中 世 の 間に スラ ブ人 やア ルバ ニア 人と の混 血が 繰り 返さ れ︑ ギリ シア 人と し て の 純 潔を 失 っ て し ま っ た と い う 説 で あ り︑ フ ァ ル メ ラ イ ヤ ー

︵J.P.

Falmerayer

︶ に代 表さ れる 考え 方で ある

"

︒ もう ひと つは 輝か しい 古代 文明 を支 えた のは 古代 の恵 まれ た自 然環 境 で あり

︑古 代ギ リシ ア人 の子 孫が その 自然 環境 を破 壊す るこ とに よっ て 現 代ギ リシ アの 自然 環境 は恐 ろし く劣 化し てし まい

︑文 明も 衰退 して し ま っ た とい う 主 張 で あ る

︒こ の 考 え を 代 表 す る の が カ ー タ ー と デ ー ル

8 ギリシア危機とパパンドレウ http : //www.cartoonstock.com/newscar toons/directory/g/greek

― 113 ― アクロポリス:

近代ギリシアの象徴と記憶

(8)

︵V.G.CarterandT.Dale

! や ポン ティ ング

︵C.Ponting

"

な どで あろ う︒ 同じ こと は現 代に おい ても

︑と りわ け最 近 の

﹁ギ リシ ア危 機﹂ を通 じて 西欧 のジ ャー ナリ ズム にギ リシ ア政 府の 無責 任と 無能 力︑ ギリ シア 国民 の当 事者 意識 の 欠 如を 揶 揄 する 記 事 や漫 画 に 窺う こ と が でき る

︵図 8︶#

︒そ の よ うな 相 矛 盾す る 二 つ のギ リ シ アに 対 す るイ メ ー ジ の 中で 独立 以来 アク ロポ リス は近 代ギ リシ アの 象徴 とし て語 られ

︑見 ら れ て きた の で ある

$

以 下

︑独 立 後の ギ リ シ ア が自 らの 象徴 とし てア クロ ポリ スを どの よう に作 り上 げて きた のか を議 論し てみ たい

︒ 二

独 立 戦争 以 前 のア ク ロ ポリ ス 大英

博物 館が 所蔵 し︑ ネッ トに 公開 して いる 一六 八七 年の 事件 を描 く 版 画は アク ロポ リス の上 に様 々な 建造 物が あっ たこ とを 示し てい る︵ 図 9

%

︒ア ク ロポ リ ス 台地 西 側 の プ ロ ピ ュ ラ イ ア の 少 し 後 方 に﹁ フ ラ ン ク の塔

﹂と 呼ば れる 中世 後期 に 構 築 され た 高 い塔 が 聳 えて お り&

︑こ の 塔 とパ ルテ ノン の間 の空 間に 家屋 や兵 舎と 思わ しき 構築 物が 点在 して い る

︒パ ルテ ノン の南 西に はミ ナレ ット と呼 ぶ尖 塔が 聳え 立ち

︑ア クロ ポ リ ス台 地に はモ スク やミ ナレ ット

︑兵 舎や 倉庫 など の建 築物 が密 集し て い るの が見 て取 れる

︒そ して アク ロポ リス の側 背に 設置 され たヴ ェネ チ ア 軍の 臼砲 から 砲弾 が発 射さ れ︑ その 砲弾 が弧 を描 きな がら パル テノ ン の 屋根 に命 中し てい く様 を実 線で 示さ れて いる

︒こ れは 近世 のア クロ ポ

9 ヴェネチア軍による砲弾の命中 http : //i574.photobucket.com/albums/ss189/gorjak/

Venetian_siege_of_Acropolis.jpg

アクロポリス:近代ギリシアの象徴と記憶 ― 114 ―

(9)

リ スが

︑今 日私 たち が目 に し てい るア クロ ポリ スと 随 分 様相 が違 うこ とを 示し て い る︒ 一八 世紀 には そこ にモ ス ク や教 会︑ 住宅 など が建 て ら れて いた

︒古 い絵 画や 版 画 を見 ると アク ロポ リス の プ ロピ ュラ イア とパ ルテ ノ ン 神殿 の間 やパ ルテ ノン の 東 側に 数多 くの 家屋 が建 ち 並 んで いた こと を知 るこ とが でき る!

︵ 10図

︶︒ カ ザナ キ︵M.Casanaki

︶と マッ ル ー クー

︵F.Mallouchou

︶に よ れ ば 独 立戦 争の 前に はト ルコ 人の 家屋 や庭 園が アク ロポ リス の上 にあ った と指 摘 し て いる

"

︒し か し それ ら の 多く は 独 立 戦 争で 破壊 され て瓦 礫の 山と なり

︵図 11︶︑

残 され た建 物も

﹁古 代芸 術 への 熱 狂 と 称賛

﹂の 中 で 一八 三 四 年に は じ ま っ たア クロ ポリ スの 整備 事業 によ って 解体

・撤 去さ れ︑ 整え られ たの であ る#

︒ 独立 戦争 中︑ アク ロポ リス の包 囲戦 は二 回あ り︑ 一八 二一

│二 二年 はギ リシ ア軍 によ り︑ 一八 二六

│二 七年 はト ル コ 軍に よっ て行 われ た$

︒ アク ロポ リス 監督 局長 のト ゥー ルー パ︵E.Touloupa

︶に よれ ばそ れは 後世 の建 造物 の撤 去 を 伴う もの であ った

%

ア ク ロ ポリ ス の

﹁浄 化﹂ は 独立 後 の ギリ シ ア 人の 民 族 意 識に 適 っ たも の で あっ た&

︒一 八 三

10 18世紀後半のアクロポリス Stuart & Revett, Antiquities of Athens, II, 1789, Plate I.

11 パルテノンと瓦礫の山 1839年 鋼板印画(原画 サージェント、彫板 ロバーツ)

httpwww.antique−prints.deshopcatalog.phpcat=

KAT17&lang=ENG&product=P 000679

― 115 ― アクロポリス:

近代ギリシアの象徴と記憶

(10)

九 年 に 作 成 さ れ た イ ギ リ ス・ ロ マ ン 派 の 風 景 画 家 パ ー サ ー︵W.

Purser

︶の 原 画に 基 づ く 版画

︵図 12︶ に はア ク ロ ポリ ス に は一 八 七 五 年 に解 体さ れる

﹁フ ラン クの 塔﹂ や家 屋が パル テノ ンの 北側 から 東側 に か け て残 さ れ てい る の を 確か め る こ と が で き る!

︒ イ ン ト ン︵Cpt.

Inton

︶に よ る 原 画 を も と に 作 成 さ れ た 一 八 三 七 年 の 版 画︵ 図6

︶を 見 ると パル テノ ンの 中に 赤い ドー ム屋 根を 持つ 建物 が建 って いた こと が 分か る"

︒ これ はモ スク であ った

#

︒ 三

ア ク ロポ リ ス の整 備 事 業 アク

ロポ リス 整備 の基 本方 針を 定め たの はド イツ 人建 築家 のレ オ・ フ ォン

・ク レン ツェ

︵LeovonKlenze

︶で ある

$

︒ク レン ツェ は一 八三 四年 七月 末に ギリ シ ア政 府 に 書簡 し

︑ア ク ロ ポ リス の上 に残 る後 世の 構築 物を 除去 し︑ パル テノ ンを 再建 する こと を提 案し てい る︒ これ に応 えて

︑ギ リシ ア政 府 は 七月 三一 日と 八月 一二 日の 二度 にわ たっ て勅 令を 出し

︑パ ルテ ノン を再 建 す る こと を 掲 げて い る%

︒ こ の勅 令 を 受 け てク レン ツェ は九 月一 七日 の文 書の 中で アク ロポ リス 再建 の基 本的 なプ ラン を構 想し てい る︒ それ によ ると

﹁先 ず パ ルテ ノン が発 掘さ れ修 復さ れる

︑・

・・

・︒ パル テノ ンに 次い で岩 山の 台地 が西 に向 かっ て︵ 発掘 され 修復

︶さ れ る が︑ そこ に博 物館 が建 設さ れね ばな らな い︑ 次い でエ レク テイ オン そし て最 後に プロ ピュ ライ アが その 周辺 とと も に 発掘 さ れ 浄 化さ れ 以 上の よ う な方 法 で 修 復さ れ る︒&

﹂ と書 き 記 し︑ 先ず パ ル テ ノン の 再 建か ら は じめ

︑そ れ か ら

12 ミューズの丘から見たアクロポリス 1839年 鋼板印画(原画 パーサー、彫板 アドラー).

http www.antique−prints.deshopcatalog.phpcat=

KAT17&lang=ENG&product=P 000681 アクロポリス:近代ギリシアの象徴と記憶 ― 116 ―

(11)

西 に発 掘地 域を 広げ

︑パ ルテ ノン の北 にあ るエ レク テイ オン

︑最 後に プロ ピュ ライ アと その 周辺 の発 掘と 再建 を行 う と いう 大ま かな プラ ンが 記さ れて いる

︒そ の際

︑次 の五 つの 基本 方針 が提 示 さ れ!

︑ そ の方 針 に 従っ て ア クロ ポ リ ス の 発掘 と整 備が 行わ れる とい うプ ラン が提 示さ れた

︵ 一︶

発 掘は アク ロポ リス の全 ての 地点 にお いて 岩山 の表 面に 至る まで 掘り 進め なけ れば なら ない

︵ 二︶

岩 塊が 発掘 され たあ と︑ これ と現 存し てい る残 りは スケ ッチ する か︑ 必要 な場 合に は︑ 写真 で記 録に 残さ れ な けれ ばな らな い︒ その 後で 発掘 され た地 域は 埋め 戻さ れる こと

︑出 てき た瓦 礫は 次の よう な方 法で 投棄 す る こと

︑即 ちこ のよ うな 埋め 戻し によ って アク ロポ リス の大 地は

︑そ れが 恐ら く五 世紀 にそ うで あっ たよ う に

︑可 能な 限り もと の状 態に 戻さ れる

︵ 三︶

岩 塊が 一見 に値 する 場合 には

︑こ れを 埋め 戻す ので はな く︑ 人目 に付 くよ うに し︑ 周辺 の瓦 礫の 山を 隔離 す る 為に

︑そ の周 りを 壁で 囲っ てお くこ と︒

︵ 四︶

ア クロ ポリ スは その 上の 今な お残 され てい る後 世の 全て の建 造物 から 浄化 され ねば なら ない

︵ 五︶

そ こ此 処に 積み 上げ られ てい る石 は調 査さ れね ばな らな い︒ 全く 見る に値 しな いも のは

︑我 々は それ らを 行 な われ る埋 め戻 しに 利用 する こと によ って

︑地 面に 埋め 戻す こと

︒一 見に 値す るも のは

︑相 応し い方 法で 設 置 する こと

︒さ らに

︑個 別の 建造 物︑ 例え ば︑ エレ クテ イオ ン︑ パル テノ ン︑ プロ ピュ ライ アな どに 属し て い るそ れら の石 を選 び出 し︑ これ らの 建物 の近 くに 設置 する こと

︒こ れら の建 造物 に属 さな い全 ての 石は 取 り 除い てお くこ と︒"

― 117 ― アクロポリス:

近代ギリシアの象徴と記憶

(12)

この 五つ の基 本方 針の 中で 特に 注目 しな くて はな らな いの は第 二項 目で ある

︒可 能な 限り 紀元 前五 世紀 にそ うで あ っ たよ うに 復元 して いく と基 本方 針は 謳っ てい る︒ その 上で 第四 項目 にあ るよ うに 後世 の建 造物 は除 去さ れね ばな ら な いこ とが 定め られ るの であ る!

︒ そし てこ の方 針に 従っ てア クロ ポリ スの 発掘 調 査 と 再建 の 事 業が 次 の よう な 段 階 を 経て 行わ れた

︒ アク ロポ リス の本 格的 な発 掘作 業が 始め られ たの は一 八三 五年 三月 のこ と で あ った

"

︒先 ず ア クロ ポ リ スに 駐 屯 し て いた 守備 隊の 撤兵 から 作業 は始 めら れ︑ 三月 の末 迄に ロス の監 督の 下で 後世 に建 てら れた 建造 物の 撤去 が始 めら れ た ので ある

︒翌 年の 一八 三六 年か ら一 八三 七年 にか けて プロ ピュ ライ アの 発掘 が行 われ

︑後 世の 建造 物の 撤去 も続 け ら れた

︒一 八三 七年 以降 はエ レク テイ オン の発 掘が 行わ れて いる

︒ 一八 四一 年に なる とピ ッタ キス が監 督す る政 府に よる 発 掘と 並 ん でギ リ シ ア考 古 学 協 会に よ る 活動 が 開 始 され る

︒ 一 八四 二年 には パル テノ ンの 中に あっ たモ スク の一 部が 撤去 さて いる

︒一 八四 四年 から 一八 四五 年に かけ てエ レク テ イ オン の前 庭北 側に あっ た火 薬庫 が撤 去さ れ︑ 一八 五二 年か ら一 八五 三年 にか けて はト ルコ 人の 城塞 が撤 去さ れて い る

︒一 八五 六年 から 一八 六〇 年に かけ て徹 底的 な整 地作 業が 行わ れた

︒そ して 一八 六一 年に これ まで アク ロポ リス で の 発掘 を行 って きた ピッ タキ スに よる 発掘 活動 が終 了す るの であ る︒ この 年ピ ッタ キス はア クロ ポリ スに 残さ れて い た 後世 の建 物を 撤去 し︑ アク ロポ リス 中央 部の 土壌 を完 全に 取り 除い たの であ る︒ 一八 六二 年に 教会 の遺 構が 撤去 さ れ て以 降︑ 一八 八五 年迄 発掘 活動 停止 され る︒ 一八 六三 年九 月暫 定政 府は 博物 館建 設の 布告 を出 し︑ 翌年 博物 館建 設予 定地 東側 の発 掘が 行わ れる

︒一 八七 五年 に は シュ リー マン の寄 付を 受け て二 七メ ート ルも の高 さを 誇っ た﹁ フラ ンク の塔

﹂が 解体 され た#

︒ 一 八七 五 年 以降 は 考 古学 協 会 に よっ て 発 掘が 再 開 さ れる

︒一 八 八 七年 に は エレ ク テ イ オン よ り 東の 地 域 が 発 掘 さ

アクロポリス:近代ギリシアの象徴と記憶 ― 118 ―

(13)

︑ト ルコ 時代 のド ーム を最 終的 に撤 去し てい る︒ 更に エレ クテ イオ ン北 側を 完全 発掘 し︑ そこ から ミケ ーネ 時代 の 宮 殿址 が出 土し てい る︒ ベル ヴェ デー レか ら旧 博物 館東 側及 び南 側ま での 地域 が発 掘さ れ︑ ミケ ーネ 時代 の城 壁の 一 部 が発 見さ れて いる

︒そ の年 の六 月か ら九 月末 にか けて パル テノ ン中 央部 から 西の 端に かけ て発 掘さ れ︑ ミケ ーネ 時 代 の城 壁の 一部 が出 土し てい る︒ そし て一 八八 八年 には 後世 の建 造物 の撤 去は 完了 した ので ある

︒翌 年一 八八 九年 三 月 から 八月 にか けて 部分 的な 発掘 が行 われ てい る︒ この 様に して 一八 三五 年以 来続 けら れて きた アク ロポ リス での 発掘 と浄 化は 一八 九〇 年の オス マン 時代 の最 後の 遺 構 の解 体を 以て 一段 落し たの であ る!

︒ それ は中 世の 建造 物を 含め て後 世の 建 物 の 撤去

︑厚 さ 二 メー ト ル もあ っ た 土 壌 の除 去を 伴う もの であ った

︒そ して その 成果 を次 のよ うに 誇ら しく 宣言 して いる ので ある

﹁か くし てヘ ラス は文 明世 界に アク ロポ リス を高 貴 で︑ あ らゆ る 野 蛮 から 浄 化 さ れた ギ リ シア 精 神 の記 念 碑 と し て︑ また 古代 文化 のす ばら しい 作品 の尊 い無 比の 宝庫 とし て委 ねる もの であ る︒ そし てそ れは すべ ての 文化 的 民 族を 差別 なく 考古 学の 発展 のた めに 研究 や︑ 共同 や︑ 高貴 な競 争に 誘う ので ある

"

﹂ 四

結 論

近 代 化 とは 何 だ った の か 今日

︑数 多く の観 光客 が目 にす る白 亜の パル テノ ンを 頂く アク ロポ リス は近 代ヨ ーロ ッパ と近 代ギ リシ アが 作り 上 げ た 産 物で あ る#

︒ 一 九世 紀 か ら 二〇 世 紀 前半 に か けて 流 行 し た ロ マ ン 主 義

︑古 典 主 義 そ し て 国 民 主 義 の 産 物 で あ る

︒ト ルコ 時代 の建 造物 は言 うま でも なく

︑後 世の 建造 物は すべ て解 体

・撤 去 さ れて し ま った

$

前 五 世 紀の 姿 に 復

― 119 ― アクロポリス:

近代ギリシアの象徴と記憶

(14)

元 す る と豪 語 し たに も か か わら ず

︑実 際 に復 元 さ れた の は 前 五世 紀 の 姿で は な く︑ 近代 人 が 理 想化 し た 括 弧 付 き の

﹁前 五世 紀﹂ の姿 でし かな かっ た︒ 今日 では パル テノ ンは 極 彩 色に 彩 ら れて い た こ とが 知 ら れて い る︒ し かし 我 々 が 目 にす るの は色 を失 った 白亜 のパ ルテ ノン でし かな い︒ アク ロポ リス の建 造物 と景 観に 関す る古 典古 代へ の﹁ 浄化

﹂は アク ロポ リス を中 世の ビザ ンツ 帝国 や近 世の トル コ 時 代の 歴史 から 断つ こと とな った

︒そ の結 果︑ アク ロポ リス には 客体 とし ての

﹁古 代﹂ と主 体と して の﹁ 現代

﹂と い う 二つ のタ ーミ ナル しか なく

︑古 代と 現代 の中 間に ある 中世 と近 世が 欠落 し て し まっ て い る!

︒ 古代 と 現 代の 直 結 は 観 念の うえ でし かな く︑ 古代 と現 代を つな ぐ記 憶の 輪は 失わ れて いる

︒マ クリ ッジ によ れば

︑古 代か らの 連続 性を 示 す 為に 重要 であ るは ずの ビザ ンツ 時代 やキ リス ト教 が評 価さ れな かっ た時 代の 産物 とい うこ とに なる

"

︒ 古代 偏重 のロ マン 主義

・古 典主 義に 対す る反 動が ギリ シア 国内 から 出て 来た のは 当然 であ ろう

︒古 代ギ リシ アと の 失 われ た環 を求 めて ギリ シア では 中世 ビザ ンツ 帝国 を古 代と 近代 を結 ぶ重 要な 過去 とし て求 めら れる よう にな る︒ そ れ は近 代ギ リシ アが 抱え てい た大 きな 矛盾 のひ とつ でし かな い︒ その 矛盾 を突 いた のが ファ ルメ ライ ヤー のギ リシ ア 人 スラ ブ人 説で ある

︒そ のた めに パパ リゴ プロ ス︵C.Paparrigopoulos

︶は

﹃ギ リシ ア民 族の 歴史

﹄全 五巻 を著 さな け れ ばな らな かっ た#

︒ しか しそ れ以 外に もギ リシ アが 直面 して いた 矛盾 はあ った

︒ヴ ェラ=

シュ コラ

︵V.Sykora

︶は 独立 後の ギリ シ ア が 直 面し てい た問 題を 次の よう にま とめ てい る$

︒ 独立 を果 たし たギ リシ ア王 国は オ ス マ ン帝 国 領 内に 居 住 して い た ギ リ シア 系住 民の 三分 の一 しか 包含 して おら ず︑ この 民 族国 家 を 志向 す る ギリ シ ア 王 国が セ ル ビア 人

︑ブ ル ガ リア 人

︑ ア ルバ ニア 人そ れに ブラ フ人 とい う多 くの 他者 を含 んで おり

︑独 立戦 争を 戦っ た地 域の 住民 であ るア ウト クト ネス と 独 立後 ギリ シア に移 住し てき たヘ テロ クト ネス との 確執 に苦 しめ られ るの であ る︒

アクロポリス:近代ギリシアの象徴と記憶 ― 120 ―

(15)

我々 はこ れら の問 題に 潜ん でい る時 代の 文化 を探 らね ばな らな い︒ ひと つは 啓蒙 主義 時代 の思 想で あり

︑今 ひと つ は ヨー ロッ パを 支配 した 古典 主義 の風 潮で ある

︒ 啓蒙 思想 の影 響を 受け

︑バ ルカ ン半 島で は民 族主 義が 台頭 し国 民国 家を 建設 しよ うと する 機運 が高 まっ てい く︒ そ れ らは オス マン 朝の 支配 を﹁ 圧政

﹂と 断定 し!

︑ 自ら の言 葉を 取り 戻し

︑過 去の 栄 光 の 時代 と 結 びつ け る こと に よ っ て 国民 国家 建設 の正 当性 を主 張す るも ので あっ た"

︒ ブル ガリ ア人 はギ リシ ア 語 の 使用 を 排 除し

︑中 世 の ブル ガ リ ア 帝 国の 栄光 に思 いを 馳せ

#

︑ル ーマ ニア 人は トラ ヤヌ ス帝 の時 代に 入植 した 古代 ロー マ人 の子 孫 であ る こ と を誇 り$

︑ ギ リシ ア人 はペ リク レス やテ ミス トク レス の偉 大な 過去 との 繋が りを 強調 す る の であ る%

︒つ ま り一 九 世 紀の 民 族 主 義 者︑ 知識 人に とっ て栄 光に 包ま れた 過去 の記 憶は 自分 たち がそ の直 接の 子孫 であ るこ とを 覚醒 させ

︑彼 らが 建設 し よ うと する 国民 国家 のグ ラン ドデ ザイ ンの 基礎 を成 し︑ 民族 の正 当な 主張 の根 拠と なる もの であ った

︒こ のよ うな 文 化 状況 は本 稿に おい て考 察し て来 たア クロ ポリ ス改 造と 無縁 では ない

︒更 に︑ 近代 ヨー ロッ パ人 が古 代ギ リシ ア文 明 を 受容 して いる が故 に彼 らと の連 帯が 可能 なの だと 考え る&

︒ ここ にギ リシ ア民 族主 義と 汎ヨ ーロ ッパ 主義 とが 融合 する ので ある

︒そ の結 合点 とな るの が古 典主 義な どの 潮流 で あ った

︒マ クリ ッジ が皮 肉を 込め て指 摘し てい るよ うに

'

︑ア クロ ポリ スの 改造 に 大 き く貢 献 し たク レ ン ツェ と ロ ス は ドイ ツ人 であ った

︒そ して 彼ら の改 造計 画は 古典 主義 に方 向付 けら れて いた ので ある

︒イ プシ ラン ティ スが 期待 し た よう に︑ ギリ シア がヨ ーロ ッパ の一 員で あり

︑近 代文 明の 基礎 とな る古 代文 明揺 籃の 地と して 特権 的な 地位 を占 め る とい う考 えが そこ にあ る︒ バイ ロン のよ うな 人々 がギ リシ アの 独立 戦争 に加 わり

︑多 くの 観光 客が 集ま り︑ 一九 八 一 年に はヨ ーロ ッパ 連合 の成 員と して ギリ シア は加 盟を 認め られ てい る︒ これ らは 近代 思潮 の成 果で あろ う︒ しか し そ のこ とは 本稿 で論 じた よう に中 間の 時代 を排 除す るこ とに なっ た︒ 長い 中世 と近 世の 遺産 がア クロ ポリ スか ら除 去

― 121 ― アクロポリス:

近代ギリシアの象徴と記憶

(16)

さ れた ので ある

︒フ ァル メラ イヤ ーの 現代 ギリ シア 人ス ラブ 人説 はそ のよ うな 古典 主義 の風 潮に 対し て冷 や水 を浴 び せ るこ とと なっ た︒ 過去 の記 憶は 歴史 の基 礎で はあ るが

︑同 時に それ は歴 史が 志向 する 方向 と正 反対 でも ある

︒記 憶の 持つ 可変 性は 確 実 な 事 実を 基 盤 とす る 歴 史 とは 相 容 れな い

︒記 憶 は史 料 批 判 の対 象 と なり

︑可 変 化 され た 記 憶 は削 ぎ 落 と さ れ て い く

︒し かし 記憶 が持 つダ イナ ミズ ムは まさ にそ の可 変性 にあ る︒ 近代 ギリ シア 民族 主義 のシ ンボ ルと して のア クロ ポ リ スは 可変 化さ れた 記憶 その もの であ り︑ 独立 国家 とし ての 存在 理由

︑近 代文 明の 母胎 とし ての 自負

︑ヨ ーロ ッパ の 重 要な 成員 とし ての 正当 性︑ 多く の観 光客 を引 き付 ける 求心 力︑ これ らは すべ てア クロ ポリ スが 体現 して いる 記憶 に 依 拠 し てい る

︒そ れ 故に 改 造 さ れた ア ク ロポ リ ス はギ リ シ ア が主 張 し よう と し てい る も の を象 徴 し てい る と 言 え よ う

︒ 近代 のギ リシ ア民 族主 義が 失わ れた 過 去と 分 断 され た 民 族を 回 復 し よう と し て︑

﹁メ ガ リ・ イ デア

﹂を 展 開 し︑ 二

〇 世紀 初頭 のバ ルカ ン戦 争や 第一 次世 界大 戦へ の参 戦︑ そし てギ リシ ア・ トル コ戦 争へ と発 展し

︑破 局に 及ん だこ と は よく 知ら れて いる

︒ア クロ ポリ スは 近代 ギリ シア 人の 重層 的帰 属意 識を 象徴 する 場と なっ てい る︒ ひと つは 国民 国 家 ギ リ シア へ の 帰属 意 識 を 象徴 し

︑今 ひ とつ は 近 代西 欧 世 界 への 帰 属 意識 を 象 徴す る 場 と して 扱 わ れて い る の で あ る

* ︒ 本 稿 は 二

〇 一 四 年︵ 平 成 二 六 年

︶三 月 にScientzeeLettere

社 か ら 刊 行 さ れ るitsSote,Stan,atioN:UtilitydMemoantasPethofry-

ciety,andIdentity

に 掲 載 予 定 のthryMemoherdanGreeceernodMeof“TolmbSyheT:lispoAcrohe”

を 加 筆 修 正 し た も の で あ る

アクロポリス:近代ギリシアの象徴と記憶 ― 122 ―

(17)

! 註

Frantzi:5−30;Rossiter1973:73.

"

ア タ ナ ッ ソ プ ー ロ ス に よ れ ば

︑ ア ク ロ ポ リ ス は

﹁ も っ と も 強 力 な 国 民 的 シ ン ボ ル

﹂ で あ り

︑ 一 九 世 紀 を 通 し て 建 設 さ れ て き

﹁ 考 古 学 的 な 場

﹂ で も あ る

︵Athanassopoulos2002:273

︶︒ マ ッ ル ー ク ー に よ れ ば

︑ 近 代 に お い て ギ リ シ ア は 道 徳

︑ 自 由

︑ 民 主 政

︑ 平 等

︑ 正 義 の 理 念 と 姿 を 体 現 す る も の と し て

﹁ ヨ ー ロ ッ パ の 学 校

﹂ と み な さ れ

︑ ア ク ロ ポ リ ス は 近 代 ギ リ シ ア の 国 民 的 象 徴 と し て 傑 出 し た 地 位 と 特 別 な 機 能 と 結 び つ け ら れ て い た の で あ る

︵Mallouchou­Tufano2006:1−2.

︶︒

# 寺 門

2005:293

$ 古 代 以 降 の パ ル テ ノ ン に つ い て はOuesterhout2005:293−329;Rossiter1973:87.

%García­Aragon:2

に よ れ ば

︑ 一 六 九 九 年 に ミ ナ レ ッ ト を 持 た な い モ ス ク が パ ル テ ノ ン の 中 に 建 設 さ れ た

&

近 代 の パ ル テ ノ ン に つ い て はEtlin2005:363−395.

ハ ミ ラ キ ス は パ ル テ ノ ン を

﹁ 近 代 ギ リ シ ア の 帰 属 意 識 の 最 も 重 要 な

表 現 体

﹂︵Hamilakis2007:6

︶ と 評 し て い る

︒ 'cf.:1973ersitosR155.Le;70;40:2004sk93.

(Lesk2004:165,n.3etal.

)Lesk2004:199.

* エ レ ク テ イ オ ン の 時 系 列 的 な 変 遷 に つ い て はLesk2004

︒ 独 立 後 の 再 建 や 修 復 を 伴 う 変 遷 に つ い て はLesk2004:653−687

を 参 照 の こ と

︒ +Rossiter1973:79f.

,::2010eeBrde;141985CahououcallM&kinasa34

︒ -19−38:2010eeBrde;:Ca1985hououcallM&kinasa39.

.Aglinurunfis,cropolsnneenthAdmestorbarsalsEurp”UiseR,opeofreesopl“Peginado .anthoussntrvaselciviofandsofkesedHundr:phraelegTekicddayagroupThabout200communistssdofueTonstsoteprethfof

︵9:53AMBST05May2010

︶.

﹁︻ 五 月 五 日

AFP=

時 事 通 信

︼ 首 都 ア テ ネ の 古 代 遺 跡 ア ク ロ ポ リ ス で は

︑ 共 産 党 系 の 約 二

〇 人 が

﹁ 欧 州 の 民 衆 よ

︑ 立 ち 上 が れ

﹂ と 書 か れ た 横 断 幕 を 掲 げ た

︒︵c

︶AFP/LeighThomas

﹂ / 一 九 世 紀 の ロ マ ン 主 義 的 理 想 主 義 の 風 潮 の 中 で ド イ ツ 語 圏 で は 古 代 ギ リ シ ア 人 は ド イ ツ 人 の 祖 先 で あ る と い う 見 方 が 広 ま

― 123 ― アクロポリス:

近代ギリシアの象徴と記憶

(18)

︑ そ の 国 民 的 統 一 の シ ン ボ ル と し て パ ル テ ノ ン 神 殿 を 建 築 の モ デ ル と し て 理 想 化 す る 動 き が 広 範 囲 に 見 ら れ た

︒ そ の よ う な 建 築 家 の 一 人 が レ オ

・ フ ォ ン

・ ク レ ン ツ ェ

︵ 後 述

︶ で

︑ バ バ リ ア 王 太 子 の 野 心 的 な 建 築 プ ロ グ ラ ム に 関 与 し て い る

︒Etlin,

2005:378−381.

! フ ァ ル メ ラ イ ヤ ー の﹃ 中 世 モ レ ア 半 島 史

﹄第 一 部 の 序 文 冒 頭 部 分 が ギ リ シ ア 人 の 間 で 大 い に 物 議 を か も す こ と と な っ た

︒“Das

GeschlechtderHellenenistinEuropaausgerottet.SchönheitderKörper,SonnenflugdesGeistes,EbenmaßundEinfaltderSitte,

Kunst,Rennbahn,Stadt,Dorf,SäulenprachtundTempel,jasogarderNameistvonderOberflächedesgriechischenKontinents

verschwunden....auchnichteinTropfenechtenundungemischtenHellenenblutesindenAdernderchristlichenBevölkerungdesheutigenGriechenlandsfließet.”

︵Falmerayer,1830:III

︶. つ ま り 現 代 の ギ リ シ ア 人 は 古 代 ギ リ シ ア 人 と は 何 の 血 の つ な が り も な く

︑ 中 世 を 通 じ て ス ラ ブ 人 化 し て し ま っ た と フ ァ ル メ ラ イ ヤ ー は 主 張 し た の で あ る

︒Falmerayer1836:240−263

は さ ら に ス ラ ブ 人 化 と 共 に 中 世 後 半 に 生 じ た ア ル バ ニ ア 人 の 進 出 と 拡 大 も 論 じ る

︒Falmerayer,1836:246

は ア ル バ ニ ア 人 の 原 住 地 を マ ケ ド ニ ア と テ ッ サ リ ア の 間 に あ る 山 岳 地 帯 と し

︑ そ の 民 族 性 を

﹁Wildheit

︵ 粗 暴 さ

︶﹂

﹁Härte

︵ 冷 酷 さ

︶﹂ と い う 言 葉 で 形 容 し

︑ 美 や 文 化 に は 全 く 無 関 心 で あ っ た と す る

︒ そ の ア ル バ ニ ア 人 が ギ リ シ ア の 地

︑ と り わ け モ レ ア

︑ す な わ ち ペ ロ ポ ネ ソ ス に 移 住 し て き た の は 一 四 世 紀 の 中 ご ろ 以 降 の こ と で あ っ た

︒ 彼 ら は 傭 兵 と し て ビ ザ ン ツ の 君 主 ら に 雇 わ れ

︑ ア テ ネ や ボ イ オ テ ィ ア に さ ら に 拡 大 し て い っ た と す る

︒ フ ァ ル メ ラ イ ヤ ー の 主 張 に 対 し て ド イ ツ や ヨ ー ロ ッ パ の 親 ヘ レ ニ ズ ム 派 の 研 究 者 や ギ リ シ ア の 知 識 人 や 政 治 家 た ち が 反 論 を 開 始 し

︑ い わ ゆ る

﹁ フ ァ ル メ ラ イ ヤ ー 論 争

﹂ が 繰 り 広 げ ら れ る こ と と な る

︒Sykora

2008

は こ の 論 争 に つ い て 簡 潔 だ が 手 際 よ く ま と め て い る

︒Lesk2004:661,n.31

は フ ァ ル メ ラ イ ヤ ー の 背 景 に ロ シ ア の 領 土 拡 大 に 対 す る 怖 れ を 指 摘 す る

"

Carter&Dale1955

︵ カ ー タ ー

・ デ ー ル

1995

︶.

#Ponting1991

︵ ポ ン テ ィ ン グ

1994

︶.

$nic.ht070102000mk0000/20111104wse/neeyon/opihtct/le/sei.jpchainim://tpml

︵ 毎 日 新 聞

︑ 二

〇 一 一 年 一 一 月 四 日

〇 時 四

〇 分

% ギ リ シ ア 人 自 身 が 葛 藤 し て 来 た 帰 属 意 識 の 矛 盾 に つ い て はMackridge2008

︒ マ ク リ ッ ジ に よ れ ば

︑ ギ リ シ ア 人 は 諸 国 民 の 中 で の 自 ら の 価 値 と 優 位 性 を 近 代 で は な く 古 代 か ら 引 き 出 し て い る と 言 う

︒ こ れ な ど も 帰 属 意 識 の 矛 盾 の 一 つ で あ ろ う

︒ そ の 背 景 に は 人 々 の 帰 属 意 識 の 二 つ の 側 面 が あ る

︒ 二 つ の 側 面 と は 他 者 と の 関 係 で 意 識 さ れ る 自 己 の 帰 属 意 識 と

︑ 他 者 に よ る ギ リ シ ア 人 の 帰 属 意 識 で あ る

アクロポリス:近代ギリシアの象徴と記憶 ― 124 ―

(19)

!thealbums/ss://i574.photobucket.com/http:useumMBritishfrom“DestructionFanelliF.by1687”inParthenontheof189/gorjak/

Venetian_siege_of_Acropolis.jpg

"

Dodwell1819:358;Barker&Burford1818:5:

プ ロ ピ ュ ラ イ ア に あ っ た 塔 は

﹁ フ ラ ン ク の 塔

﹂ と 普 通 呼 ば れ て い る が

︑ 一 九 世 紀 の 初 め に ギ リ シ ア を 旅 行 し た ド ッ ド ウ ェ ル は

﹁ 高 い 塔

﹂ と 呼 ん で い る し

︑ バ ー カ ー と バ ー フ ォ ー ド は

﹁ ヴ ェ ネ チ ア が ア ク ロ ポ リ ス を 支 配 し て い た 時 に ヴ ェ ネ チ ア 人 に よ っ て 建 て ら れ た

﹂ と 説 明 し て い る

︒Mackridge2008:305

に よ る と 実 際 に は フ ィ レ ン ツ ェ 人 に よ っ て 一 四

〇 年 こ ろ に 構 築 さ れ た

#Parthe://ihttp:useumMBritishthefromFanelliF.by1687”innontheCaof“Destruction;12:1985hou,oucallM&kinasa574.

photobucket.com/albums/ss189/gorjak/Venetian_siege_of_Acropolis.jpg;

独 立 戦 争 前 の ア ク ロ ポ リ ス の 図 版 に つ い て はDodwell

1821:31,34

を 参 照

︒ 独 立 戦 争 前 の 旅 行 者 に よ る ア ク ロ ポ リ ス の 記 述 に つ い て はDodwell1819:310−360;Leak1821:176−

289.$

Casanaki&Mallouchou1985:12.Stuart&Revett1787:III,5:

一 八 世 紀 後 半 に ア テ ネ を 訪 れ た ス チ ュ ア ー ト と ル ベ ッ ト は ア ク ロ ポ リ ス に ト ル コ 軍 の 小 規 模 な 守 備 隊 が お り

︑Disdar­Aga

と 呼 ば れ る 要 塞 司 令 官 とAsap­Aga

な ど の 副 官 や 将 校 た ち の 官 舎 が あ っ た こ と や

︑ パ ル テ ノ ン の 東 側 正 面 を 描 い た 版 画 の 説 明 の 中 で パ ル テ ノ ン の 中 に モ ス ク が 見 え る こ と に 言 及 し て い る

︒Dodwell1819:358:

ド ッ ド ウ ェ ル は プ ロ ピ ュ ラ イ ア や パ ル テ ノ ン

︑ エ レ ク テ イ オ ン の 破 壊 に つ い て 述 べ る と も に

︑﹁ ヴ ェ ネ チ ア 人 の 塔

﹂を 含 む 複 数 の 塔 や パ ル テ ノ ン の 中 に あ る モ ス ク

︑ 要 塞 の 入 り 口 に あ るtekkie

と 呼 ぶ ト ル コ 風 の 礼 拝 所

︑Dis­

dar

と 呼 ば れ る 要 塞 司 令 官 と そ の 副 官 の 家 屋

︑ 兵 士 ら の 宿 舎

︑ 火 薬 庫

︑ わ ず か に 生 え る 杉 や ヤ シ

︑ イ チ ジ ク の 樹 木

︑ セ メ ン ブ リ ア ン テ マ や ゼ ニ ア オ イ な ど の 植 物 が ア ク ロ ポ リ ス に は 見 ら れ る こ と を 指 摘 し て い る

%Casanaki&Mallouchou1985;Yalouri2001.

&

Yalouri2001:34.

'Touloupa1985:8.

(Casanaki&Mallouchou1985:12

﹁ 古 代 ギ リ シ ア の 精 神 の 後 継 者

﹂ で あ る と 考 え ら れ る 西 ヨ ー ロ ッ パ を 強 く 意 識 し た も の だ っ た と 評 価 し て い る

︒ )http://www.antique−prints.de/shop/Media/Shop/5589.jpg

*log.php?=KAT17&seg=FRA&list=nglatahttpca/shop/ts.deinpr−://www.antique3

― 125 ― アクロポリス:

近代ギリシアの象徴と記憶

(20)

!Cf.Yalouri2001:32.

ヤ ル ー リ に よ れ ば オ ス マ ン

・ ト ル コ に よ る ア テ ネ 占 領 以 降 パ ル テ ノ ン は モ ス ク に 変 え ら れ

︑ 北 西 角 に ミ ナ レ ッ ト が 付 け 加 え ら れ た が

︑ ミ ナ レ ッ ト は 大 英 博 物 館 が 所 蔵 す るF.Fanelli

の 版 画 に は っ き り と 描 か れ て い る

︒ 図 9 参 照 の こ と

"

ク レ ン ツ ェ と ル ー ト ヴ ィ ヒ の ヴ ァ ル ハ ラ 構 想

︑ パ ル テ ノ ン の 関 係 に つ い て はEtlin2005:379−381.

#Cavvadis&Kawerau1906.

$nnddemParthenonwürdedaasacPlateaudesFelsensgegeh,...NZheuerstwürdedannderPartnoirtnaufgedecktundrestaurn

Westen,wohindasMuseumgebautwardensoll,danndasErechtheionundendlichdiePropyläenmitihrenUmgebungab­undaus­

geräumtundinderobenangeführtenArtrestaurirtwarden.

%Cavvadis&Kawerau,1906:20/22.

&

1.DieAusgrabungenmüssenanallenPunktenderAkropolisbiszurOberflächedesFelsensvordringen.

2.NachdemderFelsfreigelegtist,musssowohldieserwiedieerhaltenenRestegezeichnetoder,wonötig,photographiertwerden;sodannistausgegrabene

GegendzuzuschüttenunddiegewonnenenSchuttmasensindinderWeisehinzuwerfen,dassdurchdieseZuschüttungderBodender

Akropolismöglichstsohergestelltwird,wieervielleichtim5.Jahrhundertwar.

3.WoderFelseineSehenswürdigkeitbot,istdiesenichtzuzuschütten,sondernsichtbarzulassenundsindMauerndarumzuziehen,

umdieumliegendenSchuttmassenabzuhalten.

4.DieAkropolismussvonallenaufihrnochübrigenspäterenBautengesäubertwerden.

5.DiehierunddainHaufenzusammenliegendenSteinemüssenuntersucht

warden:dievollständigunbrauchbarensindunterdemBodenzugraben,indemmansiezudenstattfindendenZuschüttungenver­

wendet;

・・

・・ ' ク レ ン ツ ェ が 復 元 構 想 し て い た 紀 元 前 五 世 紀 の ア ク ロ ポ リ ス の 姿 は 現 在 ミ ュ ン ヘ ン のNeuePinakothek

に 所 蔵 さ れ て い る 油 絵 に 描 か れ て い る

︒ ( ア ク ロ ポ リ ス で の 修 復 と 発 掘 に つ い て はMallouchou­Tufano2006:2

が 簡 潔 に ま と め て い る

︒ 但 しdeBree2010:33

に よ る と 小 規 模 な 発 掘 が ピ ッ タ キ ス に よ っ て 一 八 三 三 年 に 行 わ れ て い る

アクロポリス:近代ギリシアの象徴と記憶 ― 126 ―

(21)

!Mackridge2008:306.

"

Casanaki&Mallouchou1985:17.

erWerkundeizigartigeSchatzkammererhabenereigderantikenKunst,welchealleKulturvölkerdgrrwüeheeinalsGeistes,enischiech #übergiebtHellasdercivilisiertenWeltalsdieAkropolisSoeinvornehmes,vonallemarbarentumgereinigtesDenkmaldesB

ohneUnterschiedeinlädtzumStudium,zurMitarbeitundzumedlenWettstreitbehufsFörderungderarchäologischenWissenshaft!

$Athanassopoulos2002:273

は こ う し て 作 ら れ た ア ク ロ ポ リ ス を

﹁ ア ク ロ ポ リ ス の 近 代 版 の 考 古 学 的 情 景 の 創 作

﹂ と 評 し て い る

%Beard,2002:102

は 一 九 世 紀 か ら 二

〇 世 紀 に か け て の ア ク ロ ポ リ ス 整 備 事 業 を

﹁ 考 古 学 的 浄 化

﹂ と 評 し

︑Bryer2001:6

﹁ 破 滅 的 な 破 壊

﹂ と 酷 評 し て い る

&

Mackridge2008:307,n.43:

ア テ ナ イ 市 内 で 破 壊 さ れ た ビ ザ ン ツ 時 代 の 教 会 は 二 四 七 に 上 る

︒ 'Mackridge2008:306.

( 村 田

2012:28−30.

)Sykora2009:5.

*Murgescu2005:27;

ク ル リ2013:161.

+Murgescu2005:13;

ク ル リ2013:148 ,Murgescu2005:27;

ク ル リ2013:161:

エ フ ゲ ニ オ ス

・ ヴ ル ガ リ スEvgeniosVoulgaris -Murgescu2005:28−29:

ク ル リ

2013:163:

ル ー マ ニ ア 人 の 請 願 .Murgescu2005:28:

ク ル リ2013:162:

デ ィ ミ ト リ オ ス

・ カ タ ル ツ ィ スDimitriosKatarzis /Murgescu2005:31:

ク ル リ2013:165:

ア レ ク サ ン ド ロ ス

・ イ プ シ ラ ン テ ィ スAlexandrosYpsilantis 0Mackridge,2008:306.

参 考 文 献 伊 藤 重 剛 ほ か

︑ 一 九 九 一 年:

﹁ 古 代 地 中 海 都 史 の 研 究1 C G に よ る ア テ ネ の ア ク ロ ポ リ ス 復 元 の 試 み

﹂﹃ 日 本 建 築 学 会 九 州 支 部 報 告

﹄ 第 32 号

︑ 三 三 七

│ 三 四

〇 頁

― 127 ― アクロポリス:

近代ギリシアの象徴と記憶

(22)

・ G

・ カ ー タ ー

︑ T

・ デ ー ル

︵ 山 路 健 訳

︶︑ 一 九 九 五 年:

﹃ 土 と 文 明

﹄ 家 の 光 協 会

︒ 関 隆 志

︑ 一 九 九 八 年:

﹁ ア ク ロ ポ リ ス

︵ ア テ ネ

︶ の 改 造

│ ペ リ ク レ ス の 建 築 プ ロ グ ラ ム と そ の 意 図

﹂﹃ 人 文 研 究

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︑ 八 五 一

│ 八 七 七 頁

︒ 寺 門 征 男

︑ 二

〇 五 年:

﹁ ア ク ロ ポ リ ス 景 観 と 環 境 デ ザ イ ン

﹂﹃ 千 葉 大 学 教 育 学 部 研 究 紀 要

﹄ 53 巻

︑ 二 九 三

│ 三

〇 一 頁

︒ 中 井 義 明

︑ 二

〇 四 年:

﹁ ギ リ シ ア と 環 境 破 壊

﹂﹃ 環 境 考 古 学 ハ ン ド ブ ッ ク

﹄︵ 安 田 喜 憲 編 著

︶ 朝 倉 書 店

︑ 六

〇 五

│ 六 一 三 頁

︒ 古 山 夕 城

︑ 二

〇 一

〇 年:

﹁ ギ リ シ ア の 文 化 財 と 国 民 意 識 の 形 成

│ ア テ ネ

・ ア ク ロ ポ リ ス の 近 現 代 史

﹂﹃ 明 治 大 学 人 文 科 学 研 究 所 紀 要

﹄ 第 67 冊

︑ 二

│ 二 七 頁

︒ ク ラ イ ブ

・ ポ ン テ ィ ン グ

︵ 石 弘 之 訳

︶︑ 一 九 九 四 年:

﹃ 緑 の 世 界 史

﹄ 朝 日 選 書

︒ ク リ ス テ ィ ナ

・ ク ル リ

︵ 総 括 責 任 著

︶︵ 柴 宜 弘 監 訳

︶︑ 二

〇 一 三 年:

﹃ バ ル カ ン の 歴 史 バ ル カ ン 近 現 代 史 の 共 通 教 材

﹄ 世 界 の 教 科 書 シ リ ー ズ 37

︑ 明 石 書 店

︒ 村 田 奈 々 子

︑ 二

〇 一 二 年:

﹃ 物 語 近 現 代 ギ リ シ ャ の 歴 史 独 立 戦 争 か ら ユ ー ロ 危 機 ま で

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