トマス・ハーディと日本
著者 那須 雅吾
雑誌名 主流
号 45
ページ 19‑32
発行年 1984‑02‑20
権利 同志社大学英文学会
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000014956
19
ト マ ス ・ ハ ー デ ィ と 日 本 '
那 須 雅 五 口
Thomas Hardy(1840‑1928)は世界人類の相互関係がくもの巣(aspider's web)の如く緊密に連係し合っていて,世界のどの国に如何なることが起きて
も,それは全世界を震揺させるほどの影響力があると ,The Life of Thomas Hardy (1962)の中で述べている 乙れはナポレオン戦役をテーマにした 一大叙事詩,The Dynasts (1903‑1908)の構想がほぼ出来上った頃, 1886 年3月にハーディが記したメモであるが それより4年ほど以前の1882年に 彼はすでにその大叙事詩創作を考えていた.その頃,彼は人閣の意志,知性,
理性に関係なく,人聞を動かす衝動的な力が潜在している乙とに注目し, a history of human automatism, or impulsion"を描くこと2を作家としての 彼の最大の夢としていたのである.
その大叙事詩創作の一つの意図はただ単なる個人の内にひそむ物欲,嫉妬 心,占有欲,野望などの衝動的情念なるものが一度行動へと発展すれば,そ の個人を取り巻く家族,社会,国家,全世界までも渦中に巻き込み,その結 果いわば地上における地獄絵図を描き出すほどの恐るべき,巨大なエネノレギ ーへと如何に増幅,拡大していくか,その過程を描き出す乙とであった.そ の典型的人間像をハーディは英雄ナポレオンの中に見出したのである.
しかし,そのことはこの地球という小宇宙が個人,社会,国家,世界全体 との密接,不可分な連鎖的関係から成り立っており,更にその関係は小宇宙 と大宇宙においても同様であるというハーディ自身の,いわゆる, くもの巣 的世界観形成への道程を意味していたものでもあった.
ハーディは日常生活においても,夜になるとランプを手にしてくもの巣を
20 ト7ス・ハーディと日本
見入っていることがしばしばであった8というから,彼がくもの巣に異常な ほどの好奇心と愛着をもっていた乙とが理解出来る.しかし,その様な一見 奇行としか見えない彼の行動の背後で,あのトルストイの『戦争と平和』の 英国版とも云える一大叙事詩の構想が着々と練られていた乙となど,家人の 誰一人として気付かなかったことであろう.とりわけ,我々にとって最も興 味があり,驚異である乙とはそのハーディが見入っていたというくもの巣的 世界地図の中に我が国,日本も書き込まれていたことである.
我が国にハーディが紹介され始めたのは今から90年ほど以前の1890年(明 治23年〉頃からであるが,それ以後現在に至るまで彼の作品は次ぎ次ぎと翻 訳され,読み継がれ,研究され続けてきたのである土中でも夏目激石5など はその先駆者的紹介者の一人として,重要な役割を果していると云えよう.
しかし,それはあくまでハーディの作品,批評などを通しての間接的関係に 過ぎないことであるが,その関係がハーディと直接交友のあった知人,友人 と日本との関係ということであれば,今迄遠い存在として考えられていたハ ーディも我々にとってより身近な,親近感のある存在になってくるのではな かろうカ入
ハーディと親交があり,日本と直接関係のあった人物の中で,先ず第ーに 挙げられるのは EdmundBlunden (1896‑1974)であろう.ブランデンは 1924年春,東京帝国大学からの招へいにより来日, 1927年夏まで同大学で英 文学を講じ,我が国の英文学研究に多大の影響を与えた.そのプランデンと ハーディとの出会いと交友関係は, 彼がハーディの住居 MaxGateを訪ね,
数日間滞在した1922年7月15日から始まっている しかも, ブランデン自 身はその出会いまでにそれほどハーディの作品に親しんでいた訳ではなく,
彼の詩集 WessexPoems (1898)の数編を読んでいた程度であった. しかし,
その数編の詩の中でも FriendsBeyond"が彼の心に最も印象深く残って いたことは,その後の両者の交友関係を考えれば非常に興味深いことである.
一方,ハーディの方もブ、ランデンの詩をすでにー,二編読んでいた乙とから
トマス・ハーディと日本 21 すれば,乙の両者は顔を合わす以前からある程度の親近感をお互いの作品を 通して感じ合っていたのであろう.
その頃,ハーディはすでに80歳を越え,作家としての揺るぎない名声と地 位を築いていたが,プランデンはその出会いの瞬間から,凡そ年令,地位,
名声などを少しも感じさせないハーディの屈託のない態度,人柄に強く魅か れ,深い畏敬の念すら抱いている.その出会いから20年後に,プランデンは ハーディについて
ThomasHardy
(19 4 1 )
を若わしているが,その著書に は iSiegfriedSassoon ~乙捧ぐ」という献辞に続いて, 'Remembering Other Days in the Homes of William Barns and Thomas Hardy'というハー ディ訪問の想い出を乙めた言葉が付け加えられている. しかも,このハーデ ィ論が出版された時にはハーディ没後14年という歳月が過ぎ去っていたので あるが,それにも拘らず,乙の著書にはプランデンのハーディに対する,い わば彼自身の父親への思慕の情にも似た深い愛情と尊敬の念が乙められてい る. 乙の様にして,ブランデンがハーディから受け継いだ貴重な精神的遺産 は彼から直接教えを受けた我が国の英文学徒に,更には日本そのものに移植 され,未だに我々の中にも生き続けていると云っても過言ではないであろっ .
乙のブランデンを廻つての人柄,教育者,詩人としての資質,才能その他 の乙とについてはよく知られていることであるが,彼の来日の経緯について はそれほど知られていない.ところが,次の書簡を見るとプランデン来日の 背景には意外にも不思議な偶然性が働いていたことが読みとれるのである.
T O SYDNEY COCKERELL
13. 1. 24
[ C l o u d s H i l l ]
Dear Cockerell...
About the Tokio professorship... not for me I'm afraid. I'm not going to be respectable again. Also I'm not fit either to be respect咽 able, or to preach what 1 don't practis巴.Literature is beyond my grasp as a craft, & 1 don't aspire to it as a science.7
22 トマス・ハーディと日本
乙の書舗の差し出し人が誰であるかは発信地が, 'Clouds Hill'となっている ことから,ほほ想像されるであろうがヲ例のアラブ解放の芙雄アラビアのロ レンス,つまり, T. E. Lawrence 0888‑1935)その人なのである.当時,
ロレンスは「英雄アラビアのロレンス」 という世評から逃れるため, T.E. Shawという偽名を使って? 偶然にもハーディの MaxGate近くに駐屯し ていた英国陸軍戦車隊にー兵卒として入隊していた.
先ずヲ この書簡を一読して感じることは,まさか,あのロレンスが我が国 i乙しかも東京帝国大学の英文学担当教授として推せんされていたとは.乙 の余りにも意外な事実に一瞬信じ難い感情を抱くのではあるまいか.しかし,
更に興味深いことはこの書簡の日付が1924年1月13巳となっていること,プ ランデン来日が同年の春であったこととを考え合せれば,ロレンスが来日を 辞退したために急きょプランデンがロレンスに代わって推せんされ,来日し たという実に偶然的経緯が明らかになってくる点である.また,もしロレン スがこの時来日を承諾していたならば, と仮定してみれば一層その興味は津 津たるものになるであろう.
ブランデン来日の紹介, 推せん者が SydneyCockerell (1867‑1962)で あったことは,この書簡の宛名から十分判断出来ることである.ただ,乙の コッカレノレという人物は Cockerell(1964)の著者, Wilfrid Blunt8 によれ ば,当時の作家達を初めとして色々な分野で良きにつけ,悪しきにつけ相当 な敏腕家であり,多大の影響力の持主でもあった.そのコッカレノレとロレン スが初めて顔を合わせているのは1922年3月ということであるから,上記の 書簡より 2か月後ということになる.従って両者の交友関係は先ず書簡の在 復から始まったのであろう.その後?両者の関係ば二人がハーディ家でしば しば頭を合わすにつれて,次第に親交が深まり, ロレンスがバイク事故によ るあの劇的最後を遂げるまでにコッカレル宛に書き送った書簡は39通にも及 んでいるほどである.
一方. コッカレノレとハーディとの出会いは1911年?当時 FitzwilliamMu‑
トマス・ハーディと臼本 23 seumの館長であったコッカレJレが著名な作家遠の原稿を収集しようとして,
その協力をハーディに依頼したことがきっかけとなっでいる. それ以後,
ハーディのコッカレノレl乙対する信頼が如何に厚いものであつだかは,ハーデ ィが彼を遺産処理の後見人として依託していることからも伺えることである.
ロレンスがハーディの知己となったのは1923年4月頃,つまり,プランデ ンがハーディ家を訪問して約1年後のことであるた その時の紹介者は後に ロレンスの伝記,Lawrence and the Arabs (1927)を著わした彼の親友 Robert Graves (1895一〉であった. 彼は詩人であり,批評家でもあり,一 時はオックスフォード大学で詩学教授をしていた乙ともあった関係で,ハー ディ,プランデンとは以前から親交があった.そのグレーヴスを通して,ロ レンスがハーディと知己になって以後, 両者の関係は僅か4,5年 と い う 短 い期間ではあったが,ロレンスがハーディから如何に大きな影響を受けたか は,彼がハーディを評して, T.H. was above and beyond all men liv‑ ing, as a person.10" と述べている, その心酔ぷりからも伺えるであろう.
T. E.ロレンスについては, 中野好夫著『アラビアのロレンスJl (岩波新 書〉で可成り詳細に紹介されるいるので,乙とで改めて述べるまでもない乙 とであるが,ただ, 乙の書で興味あることは著者が「まえがき」の中で本書 執筆の動機について,次の様ζI述べている箇所である.
「もっとも筆者の場合,ロレンスの関心は新書を書くためにはじまったわ けでない.きっかけは大正末年ごろ,筆者がまだ東大英文科の学生だった ころだが,若いイギリス詩人エドマンド・プランデン氏が教師として赴任 され,筆者もずっとその講義,指導を受けた.その折なにかの雑談ついで にロレンスの話を聞いたのがおそらく最初だったろうと思う.J
乙乙までみてきただけでも,ハーディを中心としたくもの巣的人間関係と 我が国との関係が如何に間接的にしろ,存在していたことが凡そ理解される のであるが,更にハーディと交友があり,我が国と深い関係のあった,もう 一人の意外な人物を付け加えねばならない.その人物は Conder(Condor),
24 トマス・ハーディと臼本 Josiah (1852‑1920)である,
彼は1877年に当時の内閣工部省技術官,工学寮教師として招へいされ来日,
以来40数年間にわたって我が国の建築技術,建築様式向上のために彼の半生 を捧げ,多くの輝かしい業績を遺し, 1922年東京で没している.彼の手がけ た著名な建築物の先ず第ーに挙げられるのは,明治初期,我が国が近代化へ の道を歩み始めた,いわゆる鹿鳴館時代の象徴的建築物である,あの鹿鳴館 (明治16年開館〕を設計,建築した乙とである.更に, Iニコライ会堂J,
「旧東京帝室博物館」等の有名な建築物は彼自身の手によるものなのである.
しかも,彼の我が国への貢献はただ建築面のみに止らず,教育面でも現在東 京大学工学部に彼の銅像が遺されている11乙とからしでも,彼が有能な教育 者であり,当時の我が国の教育に如何に偉大な影響を与えたかが窺えるであ ろう.
しかじ,ハーディとコンドノレとの関係については今日まで我が国では全く 知られていなかったことである.乙の両者の交友関係は RichardH. Tay‑
lor編の ThePersonal Notebooks of Thomas Hardy (1978) 乙よって,
初めて明らかにされたのである.それはハーディが晩年の1920年に彼の建築 関係の!日友 JohnSlaterから英国王立建築家協会の名誉会員に推挙された際,
スレーターの書簡にハーディが返書を送っているが,その書面の中で初めて 次の様に Conderの名が挙げられている.
Y our letter recalls those~ times we had in Bedford Street together. Are ther巴 any such amiable architects now as Roger Smith was?
Not many. AIso, what became of Conder?ー theone who had such a keen sense of humour."
(Conder, strangely enough, died in Jヰpanthat very year.)12
ハーディが作家となる以前,彼が建築家を志していたことはよく知られて いることである. 彼は1856年 に ド ー チ ェ ス タ ー の 教 会 建 築 家 JohnHicks に弟子入りし, 1862年にはロンドンに出て,当時の著名な教会建築家 Sir
トマス・ハーディと目玉 25 Arthur・Bloomf1eld(1826‑1899)の助手として採用され, 英国建築家協会 の会員にもなっている.その翌年には,建築家協会と王立建築家協会から論 文,製図部門で賞を受けているほどである,
従って,前掲の書簡でハーディが述べているそBedfordStreet'の恕い出と は,後がブロムフィーノレドの助手として働いた頃のことである.またF その ベッドフォード・ストリートは英国建築家協会のメンバーであった T.Rog‑
er Smith の事務所兼協会事務所の所在地であった, その意味で, ζの場 所は会員同志がお互いに建築の問題を議論し,研究し,発表,批判し合った ハーディにとっては忘れ難い想い出の地なのである.
しかし, この書面で実Jこ不思議なことには,編者がこのコンドノレについて の注釈として,'Conder. strangely enough . . . .'と述べている様i乙 ハ ー デ イ
がかつての旧友コンド jレに言及した同じ年にヲ当のコンドノレ~主役の母国英国
ではなく,異国の地日本で亡くなっているのである.それにしても,彼がこ の世を去る日までも異国の地日本;こ彼を引き止めたのは一体何であったので あろうか.それは波が我が国lこ遺した多大の業損から考えれば,その根本的 動機は彼自身の臼本への国境を越えた深い愛着,愛情であったと云えるので はないであろうか. と云うのも?ハーディのIS友コンドノレの中にハーディと 共通した人類愛の一端を見る想、いがするからである.
以上がハーディと我が国との間接的関係であるが3 我々にとって何よりも 深い関心があるのはハーディと日本との直接的な関係である. しかし,実擦 にはハーディと日本との間に直接的関係が存在していたこと,ハーディが我 が国に深い関心をもって注目していたことなどは従来の我々にとって全く予 想外のζとであり,到底考えられないことであった.従って,今日に至るま でその様な関係の解明など皆無であったのも当然のことである.
それほど従来全く未知のことであったハーディと我が国との関係について,
具体的資料を発掘し,解説,公表した主たる功労者は TheLiterary Notes of Thomas Hardy (1974)の編者L.A. Bijδrkと前述の ThePersonal
26 トマス・ハーディと日本
Notebooks of Thomas Hardy (1978)の編者R.H. Taylorである.
Bijork編の『ハーディ文学ノート』 によれば,ハーディは明治9年 (18‑ 76)頃からすでに我が国の動静について非常に深い関心をもって注目してい た乙とが明らかにされている.当時,ハーディは SaturdayRevieω など を主たる情報源として,日本についてのノートを書き遣している.1876年11 月18日付のノートでは, ハーディが Emerginginto the 1ight'という見出
しで明治初期の日本が旧体制,旧弊からの驚異的脱皮を成し遂げ,文明開化 への道を着実に歩み始めた乙とに次の様な驚嘆と賞讃の意を表わしている.
Emerging into the light ‑Japan一 boundhand & foot by ancient traditions superstitions," &c has cast 0妊itstrammels, emerged from the grave of decay into the broad daylight of everyday life" ‑has been a striking spectacle SR. 18. 11. 76 13
編者の解説では, 乙のノートが乙の年に出版された An English‑Japa‑ nese Dictionary of the Spoken Language (London) I乙ついての Earnest Mason Satow (1843‑1929)による書評の概要にハーディ自身のコメントを 加えたものである14 しかし, 1876年と云えば, ハーディが処女作 Desper‑ ate Remedies (1871)を出版して5年 後,The Hand of Ethelberta (1876) を出した頃である.その頃のハーディは作家としての彼の名がやっと世聞に 知られ始めたばかりの,いわゆる駆け出しの時代であるが, そ の 頃 の ハ ー ディが当時の世界の中では殆んど問題にもされていなかった程の小国日本に それほどの関心をもっていたことは非常な驚きである.
云うまでもなく,当時の日本は文字通り,古い日本から新しい日本を目指 して苦難に満ちた一大転換期,激変激動の時代を迎えていた.明治元年の江 戸城開城,五箇条の御誓文発布を手始めとして,明治2年版籍奉還,明治4 年廃藩置県,明治6年征韓論をめぐって政府分裂(西郷,副島種臣,後藤象 三郎,板垣退助,江藤新平等辞職),明治7年副島, 後藤, 板垣等による民 選議員設立建白書提出,明治9年元老院がすでに「日本国憲法按」第一次草
トマス・ハーディと日本 27 稿を作成. 乙れほど矢継ぎ早の,目まぐるしいほどの改革,変動によって,
新生日本の基盤がわずか10年間足らずの年月でほぼ完成していることを考え れば,ハーディならず、とも,世界各国が一様に驚嘆したのは当然なことであ ったかも知れない.
しかし,不思議なことにハーディのノートは前のノートから約一週間後の 11月25日付になると急変して, Depravityof our Exemplars'と い う 見 出
しで我が国への失望と不満が次の様に吐露されている.
Depravity 01 our Exemplars ‑ We have been imitating thc pure ornament of Japanese: to our horror the Japanese have eagerly be‑ gun to imitate the hideous English style15,
乙の様なハーディの日本への態度の急変は一体何を物語っているのであろう か.それについて,乙の「ノート」の前文から先ず読みとれることは日本人 が古来から創り上げてきた我が国独得の繊細な感受性,美的感覚による自然 と調和した素朴な装飾品,芸術品,生活様式などに見られる伝統的な美につ いてハーディが如何によく精通,熟知していたか,という点である.そのこ とは,ハーディが彼の故郷ドーセット地方に対すると同じ様に,日本l乙対し でも,いわば彼の心の古里と云えるほどの親近感,郷愁的魅力を感じていた からであろう.それだけに,我が国の文明開化と称していたものが実際には その日本独得の伝統的な美,日本人特有の精神的な美質を余りにも簡単にか なぐり棄て,専ら西欧的なもの,特に英国的なものの模倣,真似ごとに過ぎ ない乙とをハーディが知ったとしたら,
r
ノート」の後半に見られる様な彼 の失望,落胆は当然のことではあるまいか.しかし,それにしても後半部分の thehideous English style'という言葉 は一見奇異な感じを与えると同時に,何故に乙の様な言葉をハーディに述べ させているのであろうか,という疑問が残る.と云うのは,問題がハーディ の母国英国の乙とでもあり,また当時の英国は世界の七つの海を制覇し,世 界に誇れる近代文明の国,大英帝国として揺るぎない栄光と繁栄の座をほし
28 トマス・ハーディと日本 いままにしていたからである.
と乙ろが,乙の様な疑問,発想こそハーディの世界観からすれば,最も危 険で,狭量な民族主義的ナショナリズムの発露であり,彼の批判の対象とし て見逃すことの出来ないものであったのである.つまり,ハーディにとって は大英帝国,アメリカ合衆国などと云った物理的,地理的区別,境界は全く 無意味,無用なもので,殊に thesentiment of Foreignness川 6などは乙の 地球上では凡そ不必要なものに過ぎなかったからである.換言すれば,彼に とっての世界とは一つのものであり,彼の最大の関心事はそのーなる世界人 類全体の精神的繁栄による共存共栄そのものであった.それが,いわばハー ディのくもの巣的世界観の本質になっていると云えよう.
従って,ハーディは彼の作品中だけではなく,機会ある毎に西欧における 物質文明,合理主義文明の過度の発展,更にその発展への過信に対して常に 鋭い批判の目を向けている.彼と同時代の英国人達が大英帝国の栄光と繁栄 にひたりきり,その永遠なる乙とを信じて疑わなかった頃,ハーディの深い 調察力と冷徹な目はその栄光の惨さは勿論の乙と,その繁栄の根底にひそむ 醜悪さ,有害性を逸早く見抜いていた.だから,ハーディの目には物質文明 に酔い痴れ,ただ物質,物欲のみで生きている英国,自然から遊離し,人間 性すら喪失した英国は余りにも醜悪な病める英国の姿としてしか映らなかっ
たに違いない
一方,当時の日本の立場としては一日も早く欧米の先進国に追いつき,追 い越すことが何よりも国家の急務であった乙とも事実である.そのためには,
先ず日本古来の姿から脱皮し,新しい西欧文明の模倣,吸収によって西欧諸 国に追いつく乙とが先決の問題であったのである.明治4年に政府が岩倉具 視を特命全権大使として,木戸孝允,大久保利通などを欧米各国の視察,調 査のため,約2か年Jとわたって派遣しているととも,その一つの表われであ ろう.その成果は着々と実り,あの鹿鳴館時代に象徴される日本近代化への 開花を見る乙とになるのである. しかし,その鹿鳴館は明治16年 (1883)に
トマス・ハーディと日本 29 開館,翌17年には乙乙で西洋舞踏会が始められているが,乙の鹿鳴館という the hideous English style'の一つである建築物を設計, 建 築 し た 人 物 が 前述の様にハーディの旧友コンドJレであったととは実に皮肉なととである.
いずれiとせよ,この様な我が国の近代化への一連の動きは欧米先進諸国への 仲間入りを意味していた反面,日本古来の伝統美,独自性の喪失の始まりを
も意味していたのではなかろうか.
とのハーディの「ノート」から約31年後の1907年に,ハーディは一日本人,
K. Minoura17宛lと次の様な書簡を送っているのであるが, これは現在まで のところ,彼が日本人宛ζi書き送った唯一の書簡という乙とになるであろう.
To a Japanese correspondent
Mr K. Minoura, Vice‑President, House of Representatives, Tokio.
August 13. 1907 Dear Sir:
" r
am unable to express well‑defined opinions on Japan, and her people.r
can only express a hope, which is that your nation may not become absorbed in materiaI ambitions masked by threadbare conventions, Iike the European nations and America, but that it may deveIop to an en1ightened spirituality that shaIl ‑become a shining examplt'." 18ζれは前述の如く, R. H. Taylor編の『ハーディ・ノート』で初めて明ら かになった書簡であるが,何よりも先ず感じる乙とはζの様な書簡が,今か
ら70数年前に,ハーディ自身の子で直接日本i乙書き送られていたζと自体,
全く驚きの一語に尽きるということである.乙の書簡で最も興味深いことは この書面がただ単なる一個人, K. Minoura宛ではなく, 当時の衆議院副 議長宛になっているζと, しかも,その文面には日本国民への深い親愛の情 から我が国の将来に対する友情あふれた直言,願いがこめられていることで ある.
30 トマス・ハーデdと日本
乙の書簡に書き記されている「物質的野心に汲汲としないで, (世界の) a shining example' として目されるような精神性豊かな国家へ発展され ん乙とを」というハーディの我が国への期待,願望は彼自身の首尾一貫した 信念の披歴でもある.そのととは彼の作品の中でも, visible'なものより invisible'なものを, real'なものよりも imaginative'なものを, ζmat巴ri‑ al'なものよりは spiritual'なものを常に強調し,追求し続けているととに
も表わされている.
しかし, 乙こでハーディが述べている「英国やアメリカのような H ・・国に ならないように」という日本への希望は裏返して考えれば,我が国が将来そ のような欧米諸国と同じ道を歩みはしないかという彼自身の深い懸念と憂い の表われであり,友情ある忠告を意味しているとも考えられよう.と云うの も,当時日本がすでに日清戦争(1894),北清事変(1900),日露戦争(1904
ー の
などを経て,英国,アメリカ同様に植民地政策,富国強兵政策を着々と進め ていた頃で、あったからである.更に,乙の書簡から7年後の1914年には第一 次世界大戦が勃発していることから考えると,ハーディが乙の書簡を書き送 った頃,彼はすでにその様な大戦の起る兆し,危機感を予感していたのかも しれない.
事実,第一次世界大戦はハーディの生涯における最大の衝撃であり,一大 痛恨事であった.それは彼にとって,まさに地上における煉獄,地獄絵図を 見せつけられる想いであったに違いない. そのことは彼が絶望の余り
r
西欧文明は滅亡し,黒人や黄色人種がその身代わりをすれば良いのだJ19 とま で云い切っているζとに,彼の西欧文明への絶望感が如何に深いものであっ たか,が如実に表わされている.ハーディの西欧文明批判は,先ず人類の進 歩とか発展とか称するものがすべて物質的か,科学的なものに過ぎず,凡そ 人類の精神的進歩などとは無縁のものである乙とに向けられている.その証 拠としで,現代人はあの悪名高きローマ帝国時代と比べてみても,隣人や動 物などに対して遥かに非情で、あり,凡そ愛他精神や人類愛などの精神性に欠
トマス・ハーディと日本 31 けでいることを指摘して,西欧文明への鋭い批判をあびせかけている.
ζの様な西欧の物質文明への批判に見られるハーディの精神主義一愛他精 神,人類愛ーがただ単に一時的なものでないことは彼が亡くなる2年ほど前 の1926年,米国,マサチューセッツ州, Weymouth の独立記念日の祝辞の 中で,岡市の繁栄が a material kind円O なものにならないように訴えてい ることにも示されている.その乙とはハーディが彼の人生の最後の最後まで 終始一貫して,人類の物質的繁栄より精神的繁栄に夢を託し,世界全体の共 存共栄を願い続けていた乙とを明白に物語っていると云えよう.
注
1 F. E. Hardy, The Li/e 0/ Thomas Hardy (London: Macmillan, 1962 ,) p. 177. 参照.
2 Ibid., p. 152.参照.
3 E. E. T. (Hardy's Parlour Maid), The Domestic L~ル 0/Thomas Hardy (Dor幽 set: the Toucan Press, 1963), p. 14.参照.
4 山本文之助編『日本におけるトマス・ハーディ書誌Jl(東京:篠崎書林, 昭和37年〕 参照.
5 ハーディに言及したものとしては『激石全集』全17.巻(東京:岩波書底, 昭和49‑51 年〉の第9,13, 14, 16巻であるが,殊に第9巻の「文学論」中の Tess論,及び Far From the Madding Crowd についての激石独得のコメント, 批評は特l乙興味深い.
6 Edmund Blunden, Guest 0/ Thomas Hardy (Dorset: the Toucan Press, 1964), pp.7‑9.
7 David Garnett (ed.), The Letters 0/ T. E. Lawreπce (London: Jonathan Cape, 1938), p. 450.
8 Wi1frid Blunt, Cockerell (London: Hamish Hamilton, 1964).以下本論におけるロ レンスとの関係についての記述は本書に依る.
9 Timothy u'Sul1ivan, Thomas Hardy (London: Macmillan, 1975), p. 154. 10 The Letters 0/ T. E. Lawrence, p. 592.
11三省堂編集所編『コンサイス人名辞典一外国編一Jl (東京:三省堂, 昭和52年), p.320参照.
12 Richard H. Taylor, The Personal Notebooksザ ThomasHardy (London: Mac.巳 mi1lan, 1978), p. 273.
13 L. A. Bijork (edふ TheLiterary地 tes0/ Thomas HarめらVol.1, Text (Swe‑
32 トマス・ハーディと日本 den: Acta Universitatis Gothoburgensis, 1974 ,) p. 89. 14 Ibid., Notes, p. 319.
15 Ibid., Text, p. 89.
16 The Life of Thomas Harゐ"p. 375.参照. 乙れは1917年2月, the Royal So・
ciety of Literatureの秘書宛の書簡.
17
箕浦露支
(1854→
929); 1881年改進党入党, 四 0年間会開設以後,衆議員議員に毎 回当選, 1903年衆議院副議長就任, 1915年 第2次大隈内閣の逓信大臣.1926年大阪松島 遊郭移転に絡む疑獄事件に連座,幸いに無罪となったが,不遇の中に1929年に没した.(三省堂編修所編『コンサイス人名辞典一日本編一Jl(東京:三省堂,昭和51年)) 18 The Personal Notebooks of Thomas Hardy, p. 257.
19 The Life of Thomas Hardy, p. 387.
20 Harold Orel (edふ ThomasHardy's Perso耳alWritings (Lawrence: University of Kansas Press, 1966)" p. 253.