レンベルク・チェルノビッツ・ヤシー鉄道会社につ いての覚書
著者 岡野内 正
出版者 法政大学社会学部学会
雑誌名 社会労働研究
巻 35
号 3・4
ページ 51‑73
発行年 1989‑03
URL http://doi.org/10.15002/00006804
レンベルク・チェルノビッツ・
ヤシー鉄道会社についての覚書
岡野内正
目次 はじめに
I設立の綴緯 H役員の柵成 III2ll業の展開
1第ljU1('801-1872年)
2第2)01(1972-1875年)
3第3期(1875-1881年)
結びにかえて [参考文献]
はじめに
筆者はかつて19世紀のE1III貿易体制下ルーマニアにおける外lTiI貿易 と国家財政に関する論稿の末尾で「オスマン帝国銀行グループともいう べき資本家柴IJIの役割(アングロ・オーストリアン・バンク,レンベル
クーチェルノヴィッツーヤシー鉄道会社,そしてルーマニア銀行の間に みられる役員結合の意味)」(拙稿[8],196ページ)を指摘し,その 考察について(W保しておいた。本稿は,この問題を考察する準倣作業と して,オーストリアで設立された鉄道会社,レンペルク・チェルノビッ
ツ・ヤシー鉄道会社(K、k、I〕riv・Lemberg-Czel・I1owitz-Jassy-Eisel趾
1)abnGesellscl1aIt,Leml〕erg-Czernowitz-JassyRailwayC()ml)al1y(Soci6t6AIIoIlyme))に関する若干の資料を検討するものである。
○○
51
レンベルク(Lemberg,Lwow,現在はソビエト連邦ウクライナ共和 国領リポフ(L'vov))はガリツィア(Galizia,Galiciil)の,チェルノビ ッツ(Czel・llowitz,Cern【lu1i,現在はソビエト連邦ウクライナ共和国領 チェルノフツィ(Chemovtsy))はプコビナ(Bucovilla)の,ヤシー
(Jassy,現在はルーマニア領ヤシー(Ia5i))はモルドヴァ(Moldova,
Moldavia)の中心的な都市である。当時オーストリア帝lZl領だったガ リツイア及びブコビナを,カルパチア111脈の刺11に沿って南北に,国家 形成期のルーマニア北東部と結び付ける同社の鉄道が,経済的,政治的,
軍事戦略的に重要な意義を持ったことは言うまでもない。ある鉄道史家 は,三つの都市の名前をとった同社について,「輝かしき名の(splen、
didlyllanled)」と称している(Kallil-BislloI)[5],p、52.)。
186イ年に設立された同社は,1881年にはオーストリア=ハンガリー 帝国領内での大幅な路線延長,組織Wj編を決定している。それゆえ考察 の時期は,Ill1稿[8]と同様に,いちおうルーマニア王国の成立する 1881年までの自由貿易時代に限定しておく。
以下,ウィーンの取り|所年報ともいうべきα"Wss誌に褐ililiされる 記事を中心として,同社の設立の経純,役貝会の構成,事業の展開につ いてみていくことにしたい。
I設立の経緯
同社は1864年1月11日,オーストリア政府よりレンベルクーチェル ノビッツ'''1(35ドイツマイルー175イギリスマイル=266キロメート ル)の鉄道敷設権を取得して同年中に設立された。
利権は全線開通より90年11'1となっており,1867年5月15日にはさ らにチェルノビッツースチャバ(Suczawa;当時の国境の町,現在はル ーマニア領Suceava)11(](12ドイツマイル=60イギリスマイル=91キ ロメートル)の利権がオーストリア政府より迫jjllされている。ルーマニ
52 九九
ア領内のスチャバーヤシ_間(ペレシュティVere5ti-ポトシャニ Boto9ani間,パシユカニPa9calli-ロマンRoman間の2つの短い支
線を含めて29ドイツマイルー145イギリスマイル=224キロメートル)
の利権は,同じく90年間期限で,1868年6月7日/19日にルーマニア 政府より与えられた(CO)"P"ss,1869,s、410,CO"Wss,1876,S、570,
Bl"YHノセ"ISO'7CAWノノ"/eノノjge)Ice/bグノ882p、377.なおルーマニア政府か
らの利権の日付けは⑰)"pass1869,1870年版では7月19日となってい るが,翌年版以降6月7日/19日に修正されている)。そして同年10 月15日の臨時株主総会で社名をそれまでのK、k・priv・Lemberg-Czer・nowitzerEisenbalm-GescⅡschaftからヤシーの名を入れたものに改め ている(Coj"P(ISS,1870,s、372.)。
ルーマニア政府よりの利権については,ルーマニア鉄道史の側からの 研究があり,ウィーン生まれの企業家,ビクトル・オッフェンハイム (VictorvonOfeI1heim,1820-1886)なる人物が取得したことがわかって
いる(Botez,Urma9iSaizu[2],l〕p、74-80.なおこの利権の前史につ
いては,Zane[10],p、248,,.8.)。資本金は当初1250万銀フローリン(n.6.W・Silber;以下H、と略記)
で,額面200n.=20Lst.(ポンド・スターリング)=500Francs(フラ ン;以下fr.と略記)の全額払い込み株式62,500株が発行された。株券 は無記名で,20株ごとに通例年1回の株主総会での投票権が与えられ た。また株券は会社に対する利権の全期間のうちに償還されるものとさ れ,毎年5月に行われる抽選によって決まった株券に対して,11月1 日に額面分が償還された。ただし償還される株券の所有者についても,
株主総会の定める超過配当を受け取る権利は留保された。これらの支払 いはロンドンでは,アングロ・オーストリアン・パンク(Anglo-Aus‐
trianBank)で行われていたようだが,発行の詳細は不lリ)である。なお この償還基金と年5%の配当についてはオーストリア政府が保証してい た。1865年に第1回の発行が行われた社債についても同様の保証があ
53
九 八
つた(CO)"/MSS,1873,s、191,ルノ(/、,1875,S、72,βl"(ノセノハ〃た/17ノルノノeノノノ.
gU"CMファ18821).377.)。
政府の保証金は,オーストリア政府から,レンベルクーチェルノビッ ツ線について年150万Ⅱ.,ゾーェルノビッツースチヤパ線について年70 万Ⅱ.,ルーマニア政府からは,ルーマニア線全線についてキロメートル 当り17,250[r・’224.0976キロメートル合計3,865,683(1..60Cellt.=1, 546,273H、がやはり年純収入として保証された。ルーマニア政府はさら に,キロ当リイ刀フランの建設補助金を11)している(肪泓,1869,s、410, 1875,sS、71-72)。そしてルーマニア政府は1868年,〈スチャパーロマ ンーヤシー鉄道の建設〉を'二l的とする51,535,640レイーフランの公債 を発行して,この資金を訓迷したのである(拙稿[81191ページ)。
11役員会の構成
第1表は,同社の役風のイガ成を示すものである。第1表レンベルク・ヅーェルノビッツ・ヤシー鉄道会社の役員の 柵成,1867-1883年
第1表からいえることは,第1に,ガリツイアのBi族にして大地主,
Iril時にガリツイフ'貯蓄金11|((dergaliz、Sl)ill・kasse,GalicyjskiejKasy
Oszcz9dno§ci),ガリツィア農民銀行(derHaliz・Baucl・Ilbank),ガリッ
イア土地銀行(〔1erGaliz、LillIdesbank)などの役員であり,さらにガリ ツィア州議会(Haliz・Sejm,sejmuklilj()weRogalic.)を通じてのオース トリア帝国内の有力なポーランド系政給家でもある人物群がおそらくは 般大のグループとしてあり,会長,副会艮のポストを占めていることで ある。プコビナやモラピアに関係の深い人物の名がウィーン取締役会の メンバーにみえることも興味深いが,一応,このグループのバリエーシ ョンとして位r(ずけることができよう(この時期のガリツィアの複雑な51
九七
第1表レンベルク・チェルノピッッ・ヤシー 鉄道会社の役員の構成,1867~1883年
(肌1,2】
<会1t>
1867~1873 役職3)
名前】) 備考
アング【]・オーストリアン・パン ク会長(1867~1869),土地信川協 会,ガリツィア貯薪金庫会長,ガ リツィア州鍍会議長(186]~1875)
ガリツィアの人地主。
カール・ルードビッヒ鉄道取締役,
ガリツィア貯諦金庫,ガリツィア 鯉民銀行l((締役,終身貴族風鍍11 (1861~1885>,枢密顧問官(1863
~)。ガリツィアの大地主。
ガリツィア農業信川会社会長(1848
~),レンベルク貯蓄銀行1K締役 (1850~),lii1会及を何度も務めた Kazimierz(lrafKrasickiの 一族?
Leoル、I〃s(Sapielua
CarllllrsfJabIonowski 1874~1879
JoIlannC'.α/Km$icki 1881~1883
<副会ノミ>
1867~1873 1874~1881
前出
ルーマニアの弁護=tでユダヤ人指 郵者Adoll)heSternの兄?
Carlル、jrslJabIonowski Leopol(’(Ritleru.)
Storn
Valeriusnirlcr 1882~1883
<ロンドン取締役会>
1867~1869 W、RoSommerset-
Beaumont
Sj1.W.R・Drake 1867~1883 アングロ・オーストリアン・バンク
ⅡⅡ締役(1874~1883),オスマン帝 111銀1丁発起人,取締役(1863~
1883),ルーマニア銀行取締役
(1870~1883)。
アングロ・オーストリアン・パン ク取締役(1867~1883ハオスマン 帝同銀行発起人,取締役(1863~
1883)。
L、M・Rate 1867~1883
11.G.Ilkl(e)lmann 1867~1869
<ウィーン取締役会>
1867~1877 WIadimirG7q/(ノゼi(Ier
u.)Borkowski ガリツィア貯持銀行監査役(1860
~1869)ロガリツィア土地信川組合 代表(1868~1870),カール・ルー ドビッヒ鉄jii6ll設者,ガリツィァ 抵当銀行会便。
九六
55
柾側1,2)役職3)
名iiiill OctavRillcl.〃o〃
Pielruski
伽考 二12地偏川会社の会12代F1!(1868, 1875),レンベルクのガリツィァ 土地j11行の設立者,ガリツィア州 議会鏑(1,レンベルク姿、会委【」
(1861~1890).」:lIVi身分代表洲会 議Biリ議艮(1872~)。
アングロ・オーストリアソ・バン クⅡ【締役(1868~1872)。
1867~1877
八(IC]fRi(lcrUo'1 sei。]er
GusIavノii(ler【)o〃
SprinHer Leopol〔lSlerI1 AIexaI1dCrB(Iro'2(nei hc〃U、)I,elrin6
1868~1871 1868~1871
iiiilIl
ブコビナ郊外鉄道株式会i1,プコ ビナニヒ地改良I《I会の611没濁,プコ ビブ・ニヒ地(誠ljll行会長,州鑛会継
【](1861~1875),帝阿議会離日 (1861~1864,1867~1873),ポト ツキ内IHIの14難'11.プコピナのギ リシャ人大'1h兆。チェルノヴィッ ツ名愁ili民(1864)。
1868~1873 1867~1869
CoJls(antinノli((c'・['・
'1、chorznicki D'ECarlGiskra
1867~1877
1867,1860~1870 jililオーストリア貯祷fll行監在役 (1870~1879),メーレン(MiihrelI・
モラビア)川縦11,帝IEI縦会議【l (1861~1870),プリュン(BriiHlm 現在チェコスロバキア航プルノ BrJ1o)ilJl〈(1866),内防火lli (1867~1870),IEI会議災(1867)。
アンダ【]・オーストリアン・パン ク取締役(1867~】869)。
ルーマニア外務大iii(1870),文部 大lIi(1876),ヤシー生まれの政治 家。
上の人物の家系あるいはliil一人物?
Car]KlCin I〕.!》.(V、)CarlD
1867 1870~1871
1882~1883 1870~1872
PeterV・Carl)
JohamUノ〕(J'・oll Mustaz(1)za
Adol「Ri(lerUoFlllcrz ルーマニア銀行支配人(1870~
1876)。
モルドバの大ポヤールで政治家,
LnscarCnIargiuの家系?
1870~1871
1872~1876 LascarConsl・Catargi
DnEmilP[oif「or ValeriusRimcl.
1872~1880
1872~1880 iiiiIIl
九五
56
瓢
57 九四任期,2j役職3)
1874~1883
名iiijl) (、考
CIaudiuSノゼjtfe'、u,
KIaudy(,K,K・〃。/》・口(A)
訂
、「・IleinrichE(1.Gil1tl A(ICI「Lauda JuIiusScIDreiber CarlOesterreichcr
La(lislausSIoninski CarlMaador
CasimirCzornyノlitler u・SchwarzeD1belW IiJ】IilBa7oJJRohIw・
RoIlnau
1876~1883
[表注]1)Iリlらかに誤仙とAuわれる場合を除き,lnil?T料にy(liilある場合()で炎示し た。2)fr料に表示された期1111のみを示す.3)Dji3liは以下のとお')。
<会及>1,rlisideI1t,<lii'1会長>Vice-Prlisi(lenl.<1m締役>VerwaluInRs‐
ralh,<総支配人>(BoIueml-Director(-1IISI)ector).<支配人>BelricI)s‐
Direclor(Lcitcr),<支店長>ComildDirigemuut.
[溢料111所]CO"vjnss,1868~1885名号,拙稿[7],79~81ページ,’'11縞[8],164~165 ページ,OcsCc〃cjcAisc比sBiog”pAiscAcsL“ikolJ,1815-J”0,〃log'Yzpノル ScノlesLc工"80几之l"・GcscノljchtcSlMoJMcl('℃p(Js1lWeJllQE'lcyAlopcdi(l PolUsz“肋、ノj((ノリ1,0'・oOcjIldiscACNn(jo"αノーljiog'粒Phie,ノsZol・in Ro",『"uicj,ハノ,Dic(o"qrEPucicIoPc`icノfo"u『",PolsAaSゎIu"iA Biogl・(q/iCz,J),,Bi、(lreiter[1],SllLによって作成。
九
58
政治事`情と関連して,人名事典にみえるこれらの人物の経歴には興味深 いものがあるが,本稿では立ち入らない。さしあたり,Kieniewicz [6],邦訳155-161ページを参照)。なお鉄道関係では,カール・ルード ビッヒ鉄道(Karl-Ludwig-Bahn)の関係者の名が注目されよう。とり わけルーマニア線の利権を取得したオッフェンハイムのような鉄道技師
との結合関係は,同社の設立の事情を思わせるものがある。
第2のグループはロンドン在住の取締役グループで,アングロ・オー ストリアン・バンク,オスマン帝国銀行の取締役を兼任する2名が核と なっている。第3のグループは,ブカレストの取締役グループで,ルー マニア,特にモルドヴァの大地主にして大臣級の有力政治家からなって いる。
これら3つのグループは,アングロ・オーストリアン・パンク,ルー マニア銀行における役員兼任を通じてロンドン一ウィーン,ロンドンー ブカレストの資本家が結び付き,カール・ルードピッヒ鉄道の技術者を 通じてブカレストがウィーンを結合することによってこの独自な鉄道会 社を形成することになったといえよう。
ここに,東部ヨーロッパの穀倉地帯の大地主とロンドンの資本家との 結合による,国家保証のもとでの鉄道の建設という自由貿易世界システ ムの図式が,みごとに浮かびあがってくる。
H1事業の展開
1872年,同社のオーストリア線は,経営不振から差し押さえとなり,
1875年にようやく再出発することになる。それゆえ,差し押さえの時 期をはさむ3つの時期を区分して,同社の事業展開を考察してゆくこと にする。
第2,3表は,それぞれ同社の貸借対照表(Haupt-Rechnungs-Abs‐
chluss,Haupt-BiIanz)及び経営収支(Betriebs-Ergebnisse)をまとめ
59
九
航2表くレンペルク・チェルノピッツ・ヤ
[Ⅱ】
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【H1
11[
「M]
KB71169 M]CO5蛆I51冊
LXJ-KJdⅡ「己J-qJLuJ-L
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[表注]】)<ihlRCIounzuIlcIuI化lricbIB=liiF】、(uIluIwunlIsQlelIDTiIcl(lcrStaalsgamn1ic>と IiirdicTmcDruu)NolprLiUlicOdcss昨llul8n「(OSI>として31上さオ'ているc4)<ACccplc glBl)llllnCzomowiI志uczIlWn>27903M゜を念むa6)この年以降,1875年度まで ろがO1jilフtu-リン=2.5フランの111で伽、〔して合』Iしておいたc8)<Belricbs-I〕Clicit 9)<TrnciTll『ugs-KoSlenJa殿y、l(isc)IinDIl>27,9191L,1.1.Ol8FrJuc・を含む。
21上されノニフ[、-リン勘定をオーストリアIHIに,フラン勘定をルーマニア線に算入しノー。
て、T注とIfiI膿にしノニ。13)ITI(対H1渋の肥臥ffLoただし187211:度についてはルーマニア鯉 fUrSludicnundTrncirunlmrrLinionLcnll)erg・Net了cbnoJassy-KisChine1APurud とを芯:I:変えfXがらあら'〕れろが161磁に処脱し'gcl5)<Verme10rungundWrvolls【ii昨
’6)<MnIerial-Vo「riiIhe>を含む。17)<CurRverlustun(lMdo「CSpescnboiAus‐
{I男に川めてくGamnIic、ZwBcIuUssG〔1.「,IIuoiini筋cIlcnl(eHiDruIlH>が31上されている。
ScIIul(】(beRclD・ACC(}''1①)>1.000,000Ⅱ、を念bg1879fF度に500.00011.を81上してこのJji 魂)<1.ocalb・Czcrnowilz、Nowosicl>45qCOOjI、を含む。
[Hf*1111所]C0,78poss、1砿8~188511;の名リによって111,〔〈
九
60 間
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(詞iQi・段lI1T念む)
BaukostenolcrlJil】ien オーストリIルーマニア
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必】H1絢髄臓脇 GamMie-ZuSCMjsse JI-ストリIルーマニア
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仇務滑川定 Diver田0 1兆bitoron
現金,有任 uE券残高 Cassa-und 旧「(ekteJU- bestXindc
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1878 I879 1880 1881
1882 1883
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23,551.518
(GB)
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(5)
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同様にLノーが.ルーマニア線についてはCompqSs’1873.s、730の摸『7率(3570219「1.87KI.
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フローリン100=祇鮪フIj-リン10.125,1フラン-000175紙幣フローリン)による。
仰斗{(銀フ[j-リンICO=紙幣フローリン10352,1フラン=0.4525紙幣フローリン)による。
=0.01836紙輔うuj-リン)による。12)CO"lpdSS,1879,s、580の換算率(銀フローリン 幣フローリン102.67)による。ⅢI)とのイI;以降0紙幣か銀lYかの催Ⅱlが明記されていないが,
〔YH$Ⅲl所]CO"RpqSs,1872~188511;の各号によって作成a 八九
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(nt位:肌フローリン・端数は切りすて)
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Zj「USC、>としてAf止さ11ノー’3M9611.を含む。4)オーストリア(Rの紙、ドフビリーリンの換灯〔;l8I1iilllZと
=773.鋤3Frcs、98(61.....1(1.2で2.16151F「崎.)によるc5)CD''』"“s,187,1.s、396の換卯.;II u-リンに換仰。6)<IMY)A命,Ihl当.Ill介料,利子等>の72.731「1.を含む。7)Cbl'1pass,1875.
フローリンいI〔輔とみなLてIC)ⅡWこしてjMlTに換W[。8)CO"1J)('s5゜1876.1<S、572~573の換〕J8l9(剛 9〉<八ⅡRemcinoIlotriobs-AusI9al1cm>として31上された6のCIO)CO'JIpa鋪.1877.s、7COの摸 11)CO"uJxIss・’878.ss、550~551のIiW率(狐フローリンIDO声IjWWソUD-リン】01.7701フラン IDO零祇幣フローリン100,55)による。13)CO"ujmSS1I880,S、567のIiQi)1111(111フuJ-リンIDO書'11(
銀フ【フーリンとみなしておいた。 八
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’第1期(1864-1872年)
同社線の開通は1869年ともいわれており(Kalla-Bishop[5],p、
52),1864年の設立から1868年のルーマニア線利権独得,社名変更まで は同社にとって設立期といってよい。さらに言えば同社の事業が全面展 開するのは,ルーマニア線が全面開通する1870年以降のことである。
それゆえ表3表にみるように,Ct)"ノノ)(YSS誌上に経営収支が発表される のも1870年度以降である。ただし貸借対照表の万は,1864-1866年の 建設費を一括して資産の部に計上した1866年度末(同年12月末日)以 降,公表されている。第2表をみながら:初期のオーストリア線のみの時 期について検討してみよう。
まず資産構成については,〈建設費〉の比重が高いことが目をひく。
1866年末で資産=負債総額のじつに88%,1867年末で82%,ルーマニ ア線の建設開始に伴う株式,社債の新規発行によってほぼ倍額に増資し た1868年末にようやく71%にまで下がるが,1869年末にはルーマニ ア線の〈建設費〉増大によって再び84%に跳ね上がっている(第2表 より算出)。このく建設費〉については,1867年にオデッサーブカレス ト線,1869年にヤシーーキシネフ線の設計費,それぞれ35,40711及び 27,919H,+14,018fr・が計上されていることが注'三|される(第2表,表 注3,9参照)。黒海に臨むロシア帝国の港湾都市オデッサ(Odessa)と,
新生の統一公1劃ルーマニアの首都ブカレスト(Bukarest,Bukuresti)を
結ぶこの野心的な計画については不U1だが,CO"WSダ誌は,1870年4
月28日の同社株主総会について次のように報じている。
……さらに総会は,取締役会が,ヤシーからキシネフにいたる線を オデッサまでのロシアの鉄道につなげ,その鉄道が特別の連合体 (Consortium)に委託さルただしその建設と経営はレンベルク・チ
64 八七
エルノビッツ・ヤシー鉄道によって引受けられるように,全力をあげ ることを承認した。また一方ではレンペルクからタマショフ (Tamaszow)近くのガリツィア・ロシアl正1境に,他方ではレンベル クからシュトリイ(StI・yi)及びシュコーレ(Skole)を経ll1してガリツ ィア・ハンガリー州境(Lilndesg1℃nze)に至る鉄道利権を狸得し,そ の資本を調達することについても同様である。……
(COノノノノmss,1871,s、396.)
キシネフ(Kischine((・ChiツIuau,現在ソビエト連邦モルダビア共和匡1
領Kishi,〕ev)は当|痔ロシア航となっていたベッサラビア(Bcssal・abia)
の中心的な都市であり,ヤシーの111-つ隔てた西(1111に位置し,そのまま 河を下ればオデッサはすぐである。かつてのオデッサーブカレスト線計 画はヤシー経['1であり,ヤシーーキシネフ線はその一部をなすものかと も思われるが,同社の利権の南端の都市ロマン(R()man)から港湾都市 ガラツイを経てブカレストに至る線の利権はすでにルーマニア政府によ って1868年にプロシアのl)1..Strussbergのグループに与えられてしま っている(Bolczetal.[2],I〕l).80-85,尺(!/)()ノゾ[9],p、3.なお池田博 行[4],271-281ページにこの人物の評伝がありこの事件についても 言及されている。)。前年末に設計費を計」:しておきながら1868年末に 何の言及もないのは,このような事情からの計画の変更を意味するのか もしれない。いずれにせよ,同社はヤシーーキシネフ線の利権獲得に最 終的に失敗し,ヤシーからキシネフに至る途'11のルーマニア・ロシア国 境の町ウンゲニ(Ungllelli)までの21キロメートル余りのイリ権は,1872 年,ルーマニアの企業家01..EIiadに与えられ,国営化されている (Botezetal.[2],pl〕、94-95,1〕、117)。そして後半のガリツイア横断鉄 道計画は,後述のように1881年になってやや違った形で実現すること になる。いずれにせよ,この項'三|には,路線拡張に対する同社のnM極的 な姿勢が示されていると言えよう。
65
八六
次に注|」されるのは,1868年末の貸借対照表に,〈1867年末までの経 営赤字〉1,511,965.66几,〈1868年分の経営赤字>811,784.71H、とい う項目が登場していることである(CO"Wss,1870,s、371.)。翌1869年 度末決算には,さらに〈経営赤字〉3,248,464.llllとして巨額の計上 がなされている(ルノ(f,1871,s、396.)。またルーマニア線の開通する 1870年度には貸借対照表が掲載されず,かわりに経営収支(Betriebs- Ergebnisse)の細目が公開されて赤字経営の内実が明らかにされている (〃j(1,1872,s531.)。以上のことから,オーストリア線も当初から赤 字であり,その実態が粉飾しきれぬまま現れてきつつあるものと解する
ことができよう。
そこで今度は,資金調達についてみよう。
株式の第1回発行については先に述べたが,1868年には同様にして 5万株1000万H、が発行され,倍額の増資が行われている(CO"WS3, 1870,s、372.)。他方,社債は1865年の第1回発行に続いて,第2回 1867年,第3回1868年と,路線拡張に合わせて毎年のように発行され ている。いずれも額面30011.=30Lst.=750f1..の債券が,第1,2回は 4万ずつ,第3回は5万2千,したがって第1,2回は1200万n.’第3 回は1560万0.,総計3960万(1.が発行されている。こうして利権獲得の 過程で,社債が株式資本を大幅に上回る榊造が形成されたのである。社 債は優先債(Priol・itiits-Oboigationel】)であり,年5%の利払い,70年 賦の額面での償還にあたって株式に対する優先権が与えられていた.株 式の支払所(Zahlstellel1)が,ウィーン本社会計課(Hauptcassa)及び ロンドンのアングロ・オーストリアン・パンク(利札(Coupon)のみの 場合レンペルクの同社会計課も可)となっていたのに対し,社債の場合 は,上記にレンベルクの同社会計課を加え,さらに利札のみの場合,
「ベルリンのRichter&ComI).,ドレスデンのM・Kaskel,ライプチッヒ のA11gem・DeutscheC1・edit-Anstalt,プレスラウのSchlesischerBaル kvereill,パリのLeopoldS.’〈Olligswarter,フランクフルト・アム・マ
66 八五
インのvonEl・langer&SU1lne,ベルンのv()I〕Wattellwyl,Ernst&
Comp.,アムステルダムのLil)l)ID】:11〕I】,R()sell(1)111&Comp.,ハンブルク のLiebenKOlligswartel.,最後に,ブカレストのBallquedeRumaine」
と,ヨーロッパ全土にわたる金融業者名が列挙されている(ルノ(/、,SS 394-395.)。社(iIi発行による同社の大規棋な大衆的資本動員政簸を示す
ものといえよう。
第4表は,同社の株式及び社債の相場,株式配当を示している。
1869年末をピークとするこれらの相場の動きには,1870年代初頭に いたるブームの様相がみごとにしめされている。全面的な班業展|刑に先 立つ時期に最術8%もの配当が'1'ていること,先にリ|用した野心的な計 画などは,このような状況のもとに理解されねばならない。
ルーマニア線の主要部分'よ,1870年6月111に開通(ただしポトシ ャニまでの支線の開通は1871年11月1日)する(Botezclal[2],p,
120)。そしてこれ以降,オーストリア線とルーマニア線のそれぞれにつ いて,収入及び支出の細目がわかる(第3表)。ただしここでは,ルー マニア線ではく旅客運賃〉の収入が高いが,オーストリア線ではく貨 物〉収入が圧倒的であること,文}[}面でもこの違いは人員柵成の点に反 映されているが,両線ともく人件費〉支出が圧倒的であること,そして 両線とも赤字であり,その額は大幅に増大していることを指摘するにと どめたい。なお同社は多くのイギリス製機関J|(を持っていたといわれて いる(Kalla-Bishop[5],I).52)。
2第2期(1872-1875年)
1872年10月7日,同社のオーストリア線はオーストリア政府商務省 令によって差し押さえとなる(C()"Wss,1873,S、728)。差しlI1lさえの原 因となった未払金は3,037,66911.で,|前I社は第4回の社価発行(同様 の優先Iilil8,OOOx300n.=540万山ただしベルリンのコンソーシアム によって77.5で取引されたといわれ,受取額は4,116,334[I.という)
67
八四
第4表レンペルク・チェルノピッツ・ヤシー鉄道会社の株 式Ⅲ社債の各年末の相場,配当,1866~1881年
,,,剛,朧篭当(鯵)
社伏年 '866 1867 1868 1869 1870 1871 1872 1873 1874 1875 1876 1877 1878 1879 1880 1881
I 11 1V
66
05877655555555555
noao n・a、
86.63 100.75 93.75 81.80 75.50 69 7q50 69 55 58.13 61.88 74.13
m.a、
752)
n.ao noa、
7650 8125 77.75 77.25 72.30 73 77.75 78.75 77 76 76 86
,.ao n0a.
、。a0
8250 90 87.75 87.30 83.50 85 88 8150 77 73.50 78,50 89
,.a.
n.a。
乃祀aa 000051550●●帥郷加M洞門犯拓・印肥氾皿、、
76 77.25 77.25 71.50 63 63 67.25 79,50
noao
8L672I
[表注]l)フローリン表示と思われる数値を額面に対するパーセンテージ で表示した。2)ポンド表示と思われる数値(βl"、dett,sCWiciQZ hMelJige"Ce/b1,1882,1).377にPricemarke(linq"Icial Listとして1Mれろ)を;11ソドの額iniに対するパーセンテージで示 した。
[資料'11所]CO"Lpass,1874~1883,β【"、de0Z'80/6/iCiaノノグMeノノjgellCe/b'・
’882,p、377によって作成。
八
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によって支払いを行った(ルノ(/、,1874,s396.)。同社取締役会はオース トリア線についての権利を失い,枢密顧問官でオーストリア鉄道総管理 府経営局長(k、k・Hofrathul】(1VorstandderBetriebs-Abtheilungder k.k・Genel・al-II〕spectiondel・Osterr、Eisel〕bahnen)CarlBarychar Ritterv、Mal・ienhort及び同監査長(Ober-Illsl)ector)FerdillaI】dPerl が管財人に就任している(ルノ(f,S,393.)。こうして1875年7月末日ま でこの体制が続くのである(〃〃.,1877,s.700)。
1873-1874年のウィーンにおける恐慌と鉄道会社の倒産,その後の政 府の国庫助成政策の変化と国有化への動きについては,さしあたり池田 博行[4],264-268ページに簡潔な整理がある。同社について注目さ れるのは,1873年にすでに路線拡張の調査,設計費用が計上されてい ることである(第2表,注14)。これについても「1874年5月24日の 法律にもとずいて」レンベルクからNetfeba(Tomasz6w)を経て州境 に至る線には,マイルごとに最高42,100(1.の純収入が国庫より保証さ れるなどの助成措置がとられることになっていた(ルノ。,1876,S、570.)。
この線についての調査は1875年まで続けられ,路線拡張に関する交渉 もこの時期を通じて続けられている(〃〃.,1877,SS,700-701.)。
貸借対照表の資産の部については,他のあいまいな項目の比率が減少 し〈必要物資補給>の比率が増大していることが,この時期の営業の好 調と関連して注目されようが,むしろ資本金及び負債の部の変化に著し いものがある。すなわち,かつて46%を占めた株式の比率は,社債発 行とともに減少してゆき,1873年にはついに25%にまで落ち込む。逆 に社債の比率は同年で50%となる。同時にこの頃から政府袖助金の占 める比率が上昇してゆき,同年で20%,1875年には24%で株式資本の 比率と逆転する(第2表)。配当はすでに1871年以降,最低の5%とな っておりJ株式,社債の相場も,落ち込んでいた(第4表)。営業の方 は1873,1874年と,両線とも空前の利益をあげており(1874年にはそ の原因として「穀物輸出の増大」(/りれ,1876,s.573.)が挙げられてい
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八
ろ),以後,黒字基調は持続する(第3表)が,高配当を可能とするほ どではない。差しilllさえ,政府補助の榊大による経営の安定化を前提と して,むしろ新たな利椛Iq1iI卜が追求されていたのがこの時期であるとい えよう。
3第3期(l875-l881jIi)
差し1111さえの最後の日である1875年7)130日の定例株主総会,同年 末に開かれた臨時株主総会は,オーストリア線の拡張(A11)rechtbahn,
D1]iesterballl),'1,arll6w-Lcluch6wllllの国有鉄道の吸収),増資の基本 方針を|}}す(CW"p“s,1877,sS、700-701)。以後,一方で帝国議会での 鉄道政策に関する議論,他力で金融市場の11iIlfjlをにらみながら,様々に 交渉が続けられていく。墹資については,社IIlt発行にするか株式発行に するか論議があったが,結局1877年に7500株150万(1.の株式が発行 された(/b〃.,l8791SS、582-583.)。路線拡張についても}'11折があったが,
1881年4月30[1の定(ダ'''1t主総会で,定款を改iピし,240万(1.までのjW 資を行ってガリツィア横l0i鉄道(galiziscllenTral〕sversalbal〕11)の建設 を行う旨,決議された。このガリツィア横断鉄道は,レンベルクからス トリイ及びスタニスラウ(Stanislau;現在の[Val】o-Fral】kovsk)までの アルプレヒト大公鉄道(Erzhel・zogA1bl・eclltl)fll〕l】),ストリイからキー ロフ(Chyrow;K11il・ov)までのドニエステル鉄道(k、k・I)I1iesterba・
hll),グリポウ(Gril)ow)からザゴルツ(ZaHorz)までの延長を含むタ ールノウーレールチヨウ国イ丁鉄道(k、k・Tal・Il6w-Leluch6werStaats・
bahll),オルロ(Orl6)国境への支線,場合によっては第1ハンガリー-
ガリツィア鉄道(del・el・sIellllngar.-gilliz、EiseIlbahIl)をも含む,とさ れていた(〃〃.,1882,sS、444-445,〃ノイノ7/cノハCl'7℃〃ノルノcノノIgG)lcM)グ
ノ8821).377.これらの鉄道線については不{リ1な点も多いが,さしあたり,
池田博行,前掲書,第1ハンガリー-ガリツイア鉄道についてのKall【l -Bishol〕[5],pI).56-57などを参照.)。1881年以降の展開は本稿の範
70 八
1111外であるからひとまずおき,この時期についてみよう。1877年の増 資は同社の資金イル成を変えるものではなく,前期のパターンは基本的に 接続する。しかしながら,〈補助金〉の比率は,前述のように両政府合 計で1875年に24%になり,株式資本金の比率を超えて以後,絶対額,
比率ともに年々1W大していき,1880年で30%を超え,1883年には38
%となり,相対的に低下した社債の比率を凌いで最大項'1となってい る(第3表)。1889年の同社の分割国営化(KaⅡa-BishoI)[5],l).52, Botezetal.[2],p、116.)は,この延長線上に考えることができよう。
経営収支の面では,1877年,1878年のとりわけく軍事輸送>の項lS1 の増大によるルーマニア線における純益の突発的な増大が注目されよう (第3表)。これはロシアートルコ戦争に伴うロシア軍の兵員輸送による ものであり(ルノI/、,1879,s、582.),このとき11柳輸送問題に直iiiiしたロ シアi1(は,ウンゲニ駅にM1柵したロシアの広軌111の車両を通過させるた めに,狭軌のルーマニア0111に軌道敷設工事を行ったといわれている(池 H1博行[3],101ページ)。〈軍事輸送>収入は,1879年以降オースト
リア線でも計上されるようになり,同社線の軍耶的な重要性が誇示され るかのどとくである。この2年間をおいても,同社の連t1f収入はほぼ安 定した水準に達し,黒字基調は定着したことが第3表からわかる。
株式,Iili券相場は,トルコ,エジプト政府などがデフォールトとなっ た1875,1876年からロシアートルコ戦争の1877,1878年にかけて,最 低の線を推移しており,1879年になってようやく反発をみせている。
配当についても,徴業状態の改善にもかかわらず,ついに妓低限の5%
を上回ることはなかった(第4表)。
結びにかえて
以上,レンベルク・チェルノビッツ.ヤシー鉄道会社それ自体の腰|刑○
八を検討してきた。
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オーストリア,ルーマニア両政府の国庫による収益保証と,1860年 代半ばの鉄道ブームとを前提として,同社は,全ヨーロッパ規模の資本 の動員によって鉄道建設を実現したのである。穀倉地帯ガリツィア,プ コピナ,ルーマニアの大地主と,ロンドンの銀行資本とは,同社におい てみごとに結合していた。しかしながら,-時は主要路線の差し押さえ にまでなった同社の経営は,結局,|Tl家の補助金増大によって維持され たのである。したがって,以上検討してきた同社の展開は,さらに,ア ングロ.オーストリアン.パンクが拠点をおくウィーン金融11j場の役割 とあわせて,階級的,民族的利害の錯綜するオーストリア(=ハンガリ ー)帝国,国家形成期のルーマニア資国家権力の性格との関連で,検討 される必要があるだろう。ただしここでは問題の指摘にとどめざるをえ ない。
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