• 検索結果がありません。

1950年代前半における平和教育 の展開と学校観をめぐる相克

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "1950年代前半における平和教育 の展開と学校観をめぐる相克"

Copied!
37
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

1950年代前半における平和教育 の展開と学校観をめぐる相克

京都・旭丘中学校の事例に即して

佐 藤

はじめに…  本研究の意義と課題

(1)従来の50年代(「教育の逆コース」)研究と本研究の位置について

 先行研究の多くは,教育政策対教育運動という図式でこの時期をとらえ,こ の期の教育運動が教育実践の中心に平和と民主主義を据えることによって公教 育における価値を構成しようとしていたことを肯定的に紹介している。事態を こうした枠組みでとらえること自体は,この期の民衆の教育要求のある側面を 正しく把握するうえで有効であったことは疑いない( )。

 しかし,先行研究がとった方法的視点の有効性を認めたうえでなお1950年代,

とりわけ前半の教育現実を構造的に把握しようとするとき,国民の教育意識が 教育政策や教育運動に与えた影響をいっそう重視する必要があると思われる。

 結論を先取り的にいえば,戦後の民主的教育改革以降,教育活動のなかに定 着しつつあった平和と民主主義の思想が,文部省主導による学校管理政策の強 化と,学校教育(とりわけ中等教育)の位置づけについての国民の意識変化の

なかで,「変質」していくかどうかのせめぎあいの時期と位置づける視点が求め

られているのではないだろうか。

 こうした設定をすることによってこそ,この時期以降,今日に至るまでの政 策や運動のなかの動揺や矛盾を的確にとらえる準拠枠を形成できるのではない

だろうか。本稿は,こうした視点から50年代前半の教育現実をどのようにとら

えるべきかを考えるひとつの試みである。

(2)

(2)旭丘中学校を対象とする理由

 1954年5月11日から20日まで京都市教育委員会側と北小路昂,寺島洋之助,

山本正行の三教諭を中心とする自主管理側との間での分裂授業は,旭丘中学校 事件としてよく知られている。事件の発端は前年の12月,日頃から旭丘中学に 不満をもっていた保護者有志が学校・教育委員会に対して「1生徒がだらしな い,2授業が充実していない,3政治(思想)教育をしている」として訴えた

ことに始まる。とくに「政治教育をしている」ということばを使って教育委員 会や,地域の保守層は,これを格好の材料として日教組や旭丘中学校の実践へ

の攻撃を強めた。「政治教育」の中心人物とみられたさきの三人の教師に対して

転任・退職勧告を出すなどの強行措置を実行した。これに反発した旭丘中学校

の教師集団は転任拒否闘争をおこないこれまでの実践の正しさを訴えたのであ る。事態はそれにとどまらず,教育委員会側は,旭丘中学校に通う生徒と保護 者に対し,教委側で用意した別の学校(岡崎勧業会館)で授業を受けるよう勧 告した。そしてついには先に述べたような分裂授業となり1700名の生徒が市教 委側に従った父母と,教師側を支持する父母との間の争奪戦にまきこまれ地域

を二分する事件へと発展したのである。

 この事件の経過については当時,新聞,ラジオ,週刊誌などが大きく取り上 げ,戦後教育史上での一大事件として,今日なお伝えられているところであ

る②。

 この事件は,改憲・再軍備といった政治の逆コースに対応しながらすすめら

れた「教育の中立1生確保」に関する政策と関連して,「偏向教育24例」のひとつ

として国政の場でも取り上げられるほど国民に注目されることとなった。日教

組や,事件をよく知る教育関係者は,「中立性確保」ということの政治的意味と

文部省・警察(公安)が一体となってすすめた「偏向教育」攻撃の不当性を明

らかにする努力を続けた。先行研究の多くが,勤評闘争とならんで,「教育の逆

コース」と対決する「平和と民主主義の教育をまもるたたかい」としてこの時

期を特徴づける根拠とするできごとであった。

 しかし,問題はこのように一見政治闘争であるかのようにみえる「事件」の

(3)

なかに,戦後の教育を理論的に総括するべき内容が含まれているように思われ ることである。

 先に述べた問題意識をやや分節化していうならば,第一は,50年代前半にお ける平和教育実践の特徴とその問題点を旭丘中学校の実践のなかから探り出す

ことである。第二に,「教育における逆コース」は,単に戦後の教育改革を強権

的,暴力的につき崩したというだけでなく,国民の教育意識の変化を伴いなが

らのものであったこと,そして意識変化を促すような政策が同時にとられてい

たことを明らかにすることである。

第1章 旭丘中学校の教育実践の構造

第1節 旭丘中学校教師による新教育批判の意味

 旭丘中学校は1947年に,戦後の新制中学校の多くがそうであったように,待

鳳小学校に間借りするかたちで開校された(3)。このとき生徒数600名,教師12名

であったという。1949年,新校舎が建設され,本格的な出発を果たすことにな るが,その施設・設備は新しい教育を行なううえで必ずしも十分なものとはい

えなかった(4)。このとき校名を現在の旭丘中学校とし,50年には校章,校歌を教 職員・生徒を含めての応募のなかから現在のものとしている(5)。同時に,教師が

指導したものではあったが,のちに旭丘中学校のたたかいに重要な役割を果た

すことになる生徒会もつくられている⑥。

 当初生徒会の役員は学級のいわゆる成績のよい生徒たちが教師による面接で 選ばれるなど,生徒会は生徒による自治的集団としての実質は備えていなかっ

た(7)。「学校新聞」も49年7月に出されているが,それも生徒会の新聞ではなく

発行責任者は校長となっている。ただ,創刊号に生徒のひとりが「我々は生徒 会の手で指導者を選び学芸会でも運動会でもその他学校行事を企画運営すべき

であろう」と述べているのは注目される。

 しかし全体としては,生徒会の出発の経緯を見てもわかるように,文部省の

 『新制中学校・新制高等学校望ましい学校運営の指針』を参考にしたものであっ

(4)

たことは明かである。同書のいう学校運営への生徒の参加の組織としての生徒

自治会は,「学校長から学校をよりよくすることがらのうち生徒に任せ与えられ

た責任及び権限のうち範囲内において,生徒のできる種々の事柄を処理する機

関」(8)であるとの規定に異論をさしはさむ教師はほとんどいなかった。そればか

りかこの本は教師のあいだでぼろぼろになるまでまわし読みされたという。

 このように最初当時の文部省の指導・助言の文書を頼りにし,それを忠実に 実行しようとしていた旭丘中学校が,なぜ後には,当の文部省・政府によって

「偏向教育」の典型とまでいわれるようになったのか。このことを明らかにし つっ,旭丘の実践がどのような構造を持っていたのかを検討するのが,本節お

よび次節での課題である。

 旭丘中学校の実践について詳しく分析している先行研究でもある,東京大学

教育学部紀要第2巻『公教育における教育価値について』(9》は,実践の時期区分

を後述する人権躁躍問題(1952年12月)をさかいにして二つに区分している。

本稿も基本的にこの時期区分にしたがいつつ,旭丘中学校の平和教育の生成過

程を概観することにする。

 (1)新教育の可能性と現実との溝

 旭丘中学校の実践を語るうえで,重要なことのひとつに教師集団の若さとそ のことがつくりだした雰囲気がある。先にもふれたように旭丘中学校が独立の

校舎をもった1949年には,生徒数の増加とともに教師の数が一一挙に倍以上の49

名となったが,その多くは旧師範学校の卒業生ではなく,戦前戦中とはいえ伝

統的に自由な雰囲気をもった旧制高校の出身者であった(1°)。しかも,彼らは前

任校における教育のあり方になんらかの不満をもっており,旭丘ではより自由 な実践を試みたいと願っていた人々であった。こうしたことから,当時理想と

しては掲げられていたものの,他の多くの学校では実際に試みられることのな かった職員会議における議長の輪番制を導入するとともに,校務分掌を個人の 希望と全員の討議によって決定するなど教職員同士の権利と自由を互いに尊重

する気風がつくられていた。また,お茶汲み接待などにおける男女差の廃止や,

PTAからのいっさいの金銭の贈与の辞退など,こまかなことではあるが,教育

という職場にふさわしい民主的なモラルが形成されていった。

(5)

 しかし,このようなモラルは一朝一夕でできあがったものではなかった。

 50年2月から3月にかけて,新制高校初めての入学試験が行なわれたが,旭 丘中学校は前年の9月から準備のための補習授業をはじめている。補習授業は 毎日行なわれ,冬休みも続けられた。その結果市内第一の評判をとるほどの進 学成績をおさめることとなった。しかし,このときの過労によって,ある教師 が病気になったことをきっかけに教師たちは補習教育に疑問をもちはじめた。

彼らはこのことをふまえた議論のなかから「新制中学校制度の背景をなす教育 哲学に目をむけ,新しい民主的教育の理念について考え,その立場から伝統的

な優勝劣敗主義の学校教育のあり方に根本的な疑問を抱くに至った」(11)。

 またこの頃,老齢の3人の教師に対する市当局からの転退職勧告が出されて

いる。これに対して旭丘の教師集団は,「教育力の優劣は,相互の批判と援助に

より向上させるべきであり」「人間の能力は発掘されるべきものだ」という論理 で対抗し,この勧告を撤回させている。

 こうしたことからもわかるように,外部からの納得し難い攻撃には教師集団 が一丸となってたたかう気風はこの頃からあったことは事実だが,その闘い方

は当時の労働組合運動がよくおこなっていたような組織的な闘い方とは言い難

いo

  「当時のことをふりかえってみると,旭丘中学校はその初期から毎年組合へ 執行委員を出していたが,組合の班としての意識はまだ低く,その底には労働 組合運動の歴史的意義すら充分知っていないものが多かったというのが実情で はなかったか」という元教師の発言が象徴するように,組合員であることが,

学校の運営や人事方針と対立する契機とはなりえなかった。ここには旭丘中学 校の教師集団が比較的若く,その意味で戦前の教育運動からの断絶において成 立していたという特殊な事情がはたらいていた。もっとも,この時期は校長を 含め全員が組合員であったことや,日教組自身明確な学校管理に関する方針を もち得ていなかったこともあって,組合の方針と文部省・教育委員会の学校管 理政策とが渾然一体となっていた。そのため,学校運営や人事をめぐる問題に

っいては,矛盾として自覚されにくかったという事情もある。いずれにせよ,

この当時はその根拠に,戦後教育改革の理念を用いており,その意味で新教育

(6)

の精神がふんだんに取り入れられていたということができよう。

 こうした教師集団の態度は生徒集団にも大きな影響を与え,規律に欠けると ころはあっても自由に思ったことを発言できる空気がつくられていた。そのよ うななかで自主的な態度を成長させてきた生徒会は図書館の管理をいっさい生 徒に任せるように要求し,さらに運動会も生徒の自主的な運営に委ねられるこ

ととなった。その結果,図書館は京都市のモデルライブラリーに指定されるま でに成長し,運動会は来賓席を廃止して狭いグラウンドを有効に活用するとと

もに,教師と生徒がともに楽しめるような工夫をした。

 旭丘新聞の改革も51年になっておこなわれた。校長の検閲制度が廃止され,

新聞部員,生徒会役員,顧問教師,校長が対等・平等の立場でつくる「新聞審 査委員会」が設けられ,ようやく実質的に生徒会の新聞となった。ところで,

この改革もまた,文部省の発行した『新制中学校・高等学校望ましい運営の指

針』並びに『新しい中学校の手引き』に支えられてのものであった(12)。

 旭丘中学校のこの時期までの実践の傾向は自由主義的な雰囲気に彩られてい たのである。

 そして,それは文部省の学習指導要領をはじめとする著作物を参考にしたも のであり,その意味で戦後の教育改革の理念の展開過程そのものであったと いっても過言ではない性格のものであった。ただ,のちに旭丘の平和教育とし て特徴づけられる多くの事柄もこの時期に基本的な骨格ができあがっていたこ

とは注目しておく必要がある。

 また,もうひとつの注目点は,先にもふれたように,旭丘の教師集団は戦前 の教育運動の遺産を学ぶ条件がほとんどなかったという事情もあり,当時の他 の先進的な実践が,それぞれの民間教育サークルに結集しつつ文部省の「新教 育」批判を深めたことに比べると旭丘のそれは,むしろ理論的に深めたと言う

よりは,こののち,現実と理想のギャップのなかから徐々に生まれていったと

いうべきであろう。したがって,「新教育」批判のあり方も,それを根底から批

判するというのではなく,あくまでも新教育の哲学を現実のなかにどう取り込

むのかという視点からのものが主流を占めていたように思われる。

(7)

 (2)新教育の批判的とらえなおしの過程

 しかし,この頃から旭丘中学校の「新教育」理解が試される状況が持ち込ま れるようになってくる。それは最も大きな意味では,サンフランシスコ講和条 約締結・朝鮮戦争などの国際情勢の変化のもとでの日本政府の国内政策の展開 と関わりながら変化した日教組に対する文部省の態度に象徴される教育の反動 化政策が,旭丘中学校にも現実のものとなって押し寄せたことにあるが,この 点は後で論じることにする。旭丘中学校にとっては,その後の実践の質を決定

づけるようなできごとが1952年に相次いでおきている。そのひとつが,「立太子

式記念植樹祭」問題であった。皇太子の立太式をひかえ,育友会(PTA)の役 員たちは立太式の記念植樹を行う計画をたてた。しかし教師の多くは育友会の 予算を使うとはいえ学校の行事として行うことに対して批判的であった。行事 そのものに対する政治的な意味からの判断ということもあるが,旭丘中学校の

自主性(父母からの教育への干渉を排するという意味での教師の自律性を守る)

意識が強かったと思われる(13)。当時の育友会役員は,何らかの意味で有力者の 集まりという要素をもっており(14),おりにふれて学校の教育活動に干渉しよう

とする動きに対して教師たちの反発が強まっていた矢先のできごとであった。

結局,植樹事業は,予算がすでに決定されていたこともあってとりやめとなる が,この時の対立が,後に再び別のかたちをとってあらわれることになる。

 52年のもう一つの大きなできごとは,12月におきたいわゆる人権躁躍問題で ある。事のおこりは,帰宅途中の3年1組の6人の生徒がお互い冗談を言い合っ

ているところに,たまたま通りかかった警察官が「自分を見て笑った」として,

生徒を派出所に連行した事にあった。一時は,京都市会をも巻き込む問題とも

なったが(15),警察当局は「行き過ぎ」を後になって認め,校長・保護者ともに

一応の了解を与える事で処理を行っている。議論の過程で,教師達は警察を相 手とする事の重大性を感じて動揺したが,それでも,生徒たちを信じることが できるかどうかに,これまでの自分たちの実践の質が関わっていることを鋭く

感じとっていた。

  「『子どもは判断力が不十分だから』とか『子どもには聞かせられない』とか

いう言葉が,よくいいわけに使われるが,子どもには子どもの判断力があるの

(8)

だから判断の材料を与えなければ判断力は伸びない。大人の判断した結果だけ を与えていたのでは,いつまでたっても判断力は成長しない。ことに義理だと か,世間体だとかの不合理な先入観をもたないため純粋に判断をする力は大人

よりも大きいことを忘れてはならない」(16)という教師の発言は端的にそのこと

を物語っている。

 また,「補導の方法に誤りがあった」とする校長や保護者たちの「大人の解決」

方法に対して生徒の側からは「旭丘新聞」を通じて,この問題を社会問題とし

て取り上げることが主張されている。「旭丘新聞」号外(52年12月24日)の生徒

座談会では,ある生徒が「警官に考え直してもらうだけではいけない。泣き寝 入りはいけない団結して闘え」といえば別の生徒は「政府や巡査に反対すると アカといわれる。むつかしことだ」が「団結は守らなければならない」とか,

「思想は自由であるからアカといわれても恥ずかしくはない」と述べ,この事 件を「平和をかちとる一つのよりどころにしたい」としている。ここではやや 短絡的ではあるが,憲法で保障されている思想信条の自由や人権が守られてい ない事態を,生徒なりに直感し,平和と民主主義の危機ととらえている。さら にこれらを守るためには,相手が誰であろうと団結してたたかう必要があるこ とを率直に求めている。それは,この座談会の最後にある生徒が「団結しても ダメだとあきらめることは残念です。こういう強い力がどんどんのびていけば 平和を守る力になる」と結んでいることにも象徴されている。

 これまでみてきたように旭丘の「新教育」批判的とらえなおしが実際には,

平和とのからみのなかで問題として認識され出すのは,1952年の人権躁躍事件

以降であることがわかる。

 ではその平和教育の内容というものが具体的にはどのようなものであったの

か,この点を節を改めて検討することにする。

第2節 旭丘中学校における平和教育実践の実質

 旭丘中学校の平和教育という言葉は旭丘事件を語るときに対句のように使わ れ,旭丘の平和教育が文部省の「偏向教育」批判の対象になったのだというこ

とは常識としてとらえられている。ところが,旭丘の平和教育そのものについ

(9)

ては,これまで詳しい分析はほとんど加えられたことがないというのもまた事

実である。

 本節では,文部省学習指導要領及び日教組教育研究集会での平和教育の議論 を参考にしながら,当時の平和教育においてなにが焦点となっていたのかを検 討し,旭丘の平和教育の実践がどのようにそれらの問題と絡み合っていたのか

を検討することとする。

 文部省の学習指導要領は,中学校・社会科についていえば,1951年に試案と して出されているほかは,47年第7学年から第9学年のものが対応している。

 ところでこの学習指導要領47年度版にはト般社会科の意義」と題して社会

科のあり方を次のように規定している。

 「生徒がある一つの社会的な問題を解決するには従来の各教科における学習 内容がなによりも必要である。そしてその解決のための最前の方法は,生徒が もっている知識や経験を,その教科区画にとらわれないで,いずれの教科で取 り扱われたことがらにせよ,社会生活に関するものであれば,すべてこれを取 り集めて,必要に応じて使うということである。一般社会科の単元構成方法の ねらいは,このような考え方にもとづき,生徒が意義ある経験を積み重ねるこ

とによって,自分の生活の価値をはっきりとつかみ,これを次第に高めていく ことができるように,教科課程を組み立てようとするところにある」(1ペー

ジ)。

 また社会科を指導する教師に対して「単元の提出」の仕方について次のよう

に注意を促している。

 「教師が常に注意すべきたいせつな原則は,生徒の興味がなくては,貴重な 学習経験はあり得ないということである。単元の問題は,生徒の解決しようと

欲する問題となるように提出しなくてはならない。(中略)単元を提出するには,

いろいろの仕方がある。生徒からの質問も利用してよいし,同じ話でも,ラジ オで聞いた話は,その内容について,もっと学びたいという意欲を刺激するで あろうし,広く社会で注意をひいたり,論じられたりしている新聞記事も学習 の出発点になろう。また生徒の強い興味をひいている身近な問題は,討議に発 展し,討議はここに問題単元として表示してあるいくつかの大きな問題を解決

(10)

するきっかけとなるであろう」(5ページ)。

 さらに学習の過程では次のような活動が必要とされることを例示している。

たとえば「目による活動」として「映画を見て,そこに現された思想や観念を

理解すること」,「口による活動」のなかには「新聞記事・論説・詩・書物の一

定の箇所,短い文章の報告など,学習材料を朗読すること。シュプレッヒコー

ルを行うこと」,「知識を得るために団体の主張その他の人に面会すること」,文 書の活動として,「舞台劇あるいは野外劇の脚本を書くこと」,「学校新聞に学校 活動について広告・標語・見出し・記事を書くこと」など(10−12ページ)が挙

がっている。これらはその形態についていえば,旭丘中学校で行われたさまざ

まな活動(17)の基本となったものであり,まさにこれに対して,後に「偏向教育」

の非難が浴びせられたのである。

 しかも重要なことには,同書が,第10学年(高校1年生に対応)ではあるが 社会科として取り上げるべき単元として掲げている「われわれは世界の他国民 との正常な関係を再建し,これを維持するためにどのような努力をしたらよい か」解説では,日本の戦争責任に対する痛切な反省とともに,生徒に次のよう

な活動をするよう求めている。たとえば,その第33項では,「読書の研究・討議 によって戦争の原因を見出すこと」と述べられているほか,「(34)次のようなこ

とで利益を得ようとした人々が戦争で演じた役割について学級討議をするこ

と… (1)軍需品を製造し売却すること(2)軍隊にあって昇進すること(3)うま い営利事業にありつくこと」,「(35)大実業家の何人かが営利のために戦争に協 力した,ということについて証拠をあげることができるか,どうか」「(37)学級

で戦争の経済的,社会的損失について論ずること… (1)家族や友人を失う悲

劇のをもたらす人間生活の損失(2)人間の才能や技能の才能を失うこと(3)身体 強壮な人々を失うこと(4)課税の増加。教育や公衆の福祉のために費すべき金を 戦争に使うこと(5)生産と全経済生活の破壊(6)戦後の惨憺たるインフレーショ

ン(7)世界貿易の縮小(8)民主主義的政治が犠牲にされること(9)道徳的精神的

価値の喪失…  これらの損失が太平洋戦争の結果としてどのように,またど

の程度に起こったのかを明らかにすること」など,戦争の悲劇を多面的にまた 細かく調べ,討論することを指示している。もちろん試案でもあり,このよう

(11)

な具体的な指示がそのまま学校の教育活動に取り入れられたかどうかは疑わし

いが,少なくとも社会科の重要な目的の一一つとして戦争を憎み平和を求める人 間を作り出していこうという意気込みが伝わってくる。

 51年版でも,もともと批判のあった「相互依存の関係」を国際的レベルにま で押し広げるなど( 8),当時の民間教育研究運動からみて,「後退」と評価されざ

るを得ない内容が含まれる(19)ものの,戦争と平和の問題についての取りあげ方 に関しては逆に強化されている側面さえあった。

 たとえば,いま見た47年度版では中学校3年間のなかには盛り込まれていな かった高校1年の最後に取り扱われることになっていた「われわれは世界の他 の国民との正常な関係を再建し,これを維持するためにはどのような努力をし

たらよいか」は,「われわれは,どのようにして世界の平和を守るか」という率

直な課題となって,中学校3年生の第5単元として打ち出されている。「要旨」

には,次のようにある。長いが,当時の文部省の平和教育に対する考え方がよ く出ているし,後に問題にする「偏向教育」キャンペーンの対決点ともなった

文書でもあるので,ここで引用しておく。

 「第1学年から第3学年のこれまでの諸単元の目標や内容を見るときそれぞ れが平和的な国家及び社会の形成者を養成することに,種々な面において深く 結びついていることを改めて認識するであろう。これは,わが国の教育基本法

に基づくものであって,われわれは,このように平和精神に満ちた教育基本法 を持っていることを誇りとするものである。そしてこの単元は世界の平和とい う題目のもとに,これまでの諸単元の学習のしめくくりをつけようとするもの である。人類は長い戦争を繰り返してきた。そして現代の多くの人々は,第一 次及び第二次世界大戦によって,戦争がいかに悲惨なものであるかを身をもっ て体験した。われわれの教えている生徒も,第二次大戦中における悲しい現実 をまだはっきり記憶しているであろうし,戦禍をこうむった諸外国の人々の悲 惨な実情を知るにつけても,われわれは生徒とともに,決して戦争を起こして

はならないという念願を持つ。この念願は日本人だけのものではなく,世界人 類の共通なものであり,これによって国際連合をはじめ,その他の国際機関が

誕生した。

(12)

 しかし現実には二つの世界が対立し,第三次世界大戦勃発の危険性もはらん

でいる。この様な現実のもとにおける平和への教育はどうあるべきであろうか。

これについてはわれわれは,教育の重大な使命を認識しなければならない。そ れはあくまでも国内および世界の平和を念願し,これを守っていくことができ る人間形成をめざすことである。まず,現在の世界の現実を客観的に,わかり やすく生徒に知らせることは必要である。冷厳な現実に目をおおうことは望ま しくない。しかしこの場合も,教師はたとえ一市民としては,それぞれの政治 的意見をもっていても,その方向に生徒をひきずることは許されない。教育に おいてはどこまでも中正な態度を守って,現在世界の人々がその解決の道を発 見しようと努力していることを理解させ,生徒も将来,宣伝や扇動に動かされ ずに,各自の判断を基として,この問題の平和的解決および,よりよい日本お よび世界の建設に向かって努力すべき責任があることを深く自覚させなければ

ならない。

 それにつけても基本となることは,たとえわれわれと主義・主張・利害を異 にする人々に対しても,これを敵視しないで,人間としての親しみを深める教 育を行なうことである。そしてその出発点は,学校や近隣の人々に対する正し い態度の養成であり,さらに国内および外国人に対しても,この態度を発展さ せることが重要である。すなわち『戦争は人の心のなかで生まれるものである から,人の心のなかに平和のとりでを築かなければならない』のユネスコ憲章 の冒頭の句を,はっきりと生徒の心および態度に植え育てることである」

(106−107ページ)。

 旭丘の教育に実践においても,この学習指導要領を参考にしながら進められ

たことはよく知られているところである(2°)。

 その一方で旭丘中学校の教師たちは,日教組の推進する平和教育実践に対し ても並々ならぬ関心を示している。例えば,寺島洋之助は日光で開かれた第1 回日教組教育研究大会(第8分科会「平和教育をどのようにすすめるか」)に出 かけ,その感想を旭丘新聞に発表している。もっとも,旭丘中学校分会(班)

は,50年以降北小路を京都市中教組副委員長として送り出すことができるほど の組織力と日教組への結集を見せていたのだから当然といえば当然ではある。

(13)

とはいえ,そのほかの民間教育研究運動に対しては,意外なほどの無関心ぶり を示していた旭丘中学校の教師たちにとっては日教組による教育研究運動とは いっても,わざわざ一参加者として出かけて行くというのは相当の意味を持つ

ものと考えられていたとみるべきであろう(21)。

 ここで重要なことは,50年代初頭の日教組と文部省との関係であり,少なく とも教育実践のレベルでは必ずしも敵対的なものではなかったという事実であ る。実際,この大会の分科会での討議でも,平和教育をどのように展開するか ということでは,教科書批判があるものの全体としては学習指導要領に示され

たものを活用していくという雰囲気がみられる。たとえば,高知県の代表は「新

教育理想の追究が同時に平和の追究と同一であることを認識する必要がある」

と述べるとともに「新教育は,しばしば学者によって説明されるプラグマチズ ムの教育思想によってのみおこなわれるものではない」としてその可能性の追

求を主張している(22)。また秋田の代表は全体として文部省の社会科の考え方に

は一貫した社会科学的筋金がないとしながらも,学習指導要領(51年版)に示 された課題に着目しながら,とくに先にふれた中学校3年生の最終単元「われ われはどのようにして世界の平和を守るのか」の意義を,次のように高く評価

している。

 「この単元を本当の平和の道を切り開く単元としなければならない。(中略)

平和という言葉を口に出すこと自体もう危険視されるような恐ろしい傾向が強 くなりつつある今の時代にこの単元は教員の気持ちを奮い立たせてくれ

る」(23)。

 52年の第2回研究集会でも,学習指導要領との対決というかたちではなく,

その不十分なものを実践のなかで補い,組み替えていこうという姿勢が大勢を

しめている。

 日教組は,51年以来の教育研究集会の成果をふまえながら,53年6月に開か

れた第10回定期大会で運動方針のなかに平和と独立を守る闘いの章をおき,「こ

の闘いは,日教組のあらゆる闘争を貫く最高方針であり,日本の完全独立と平 和確保のため全力をあげて闘い,日本の平和勢力の中核となって前進しようと

するものである」(24)との決意を述べて憲法学習運動を中心とした平和教育の推

(14)

進を明確に打ち出した。闘争の組み立て方とその方法では次のようになってい

た。

 「1平和運動はどのようにして組み立てるか。… 教育は平和の環境のなか

で,自由に行われなければならない。『平和教育』や『平和運動』は教職員の日 常活動のなかに行われなければならない。

 2平和教育はどのようにして実践するか。… たとえば山口県教組の『平和 教育カリキュラム』の如く,地方の特色と地方の行事を生かして,地方色豊か

な中に,明るく親しみやすい『平和教育の実践要領』をつくり,モデル学級,

モデルスクールを通じて,広く支部,県と縦にはもちろん,子供に止まらず,

母親学級,成人(青年を含んで)学級と横にも広げられる。『平和教育』に当たっ ては『憲法の中の平和条項』,『国連憲章』,『ユネスコ運動』等広く世界人類が

平和愛好の精神をもち,その努力を続けていることを理解させることも是非必

要である。『憲法学習運動』は平和教育の重要な部門であり,これらのテキスト

をつくり,子供から大人に,職場から他の団体や,組織にまで広げていかねば

ならぬ」(25)。日教組はこのあと平和月間中の行動について指示第7号を出して,

憲法学習運動の展開,映画「ひろしま」の試写会,大衆討論を中心に運動を展 開した。ただし,ここでの「平和カリキュラム」は,学習指導要領社会科編を

参考に構想されたものであったし,「テキスト」も文部省編の『新しい憲法のは なし』をそのまま利用したものであった。

 このように,日教組の50年代前半の平和教育実践の展開は,文部省の学習指 導要領の枠組みを闘いの武器としながらすすめられたといっても過言ではな い。だからこそ,後にふれることになるが,日教組は53年に本格化した社会科 改訂の動きに対しては「社会科を守れ」というかたちでの闘争を組織したので

ある(26)。

 旭丘の実践もまた,新教育の核心部分を平和教育の文脈でとらえる限りにお いては文部省学習指導要領をべ一スにしてすすめられたものであった。たとえ ば,さきの学習指導要領の「口による活動」を実践すべく,新聞・雑誌の記事 を積極的に取り上げ授業のなかに盛り込もうとしたり,山本実践では生徒がふ だん感じていることを,文章に綴らせながら「私の家」がどんな様子かをあり

(15)

のままに書かせる努力をしている(27)。ここには,あくまでも現実の問題から出

発して教育内容をつくり出そうという姿勢があらわれており,学習指導要領の もつ経験主義・体験主義的な色彩までもが含まれていた。また,先にも少しふ

れたが,「偏向教育」批判の対象の一つとなった寺島学級の新聞『入道雲』の記

事にある「アンケート・8年前あなたはどこで何をしていましたか」を見ても,

素朴に戦争の当時のことを載せているだけであって,日本の戦争責任を追求す るだとか,過去にさかのぼって天皇制批判をするという意図で編集されたもの ではないことがわかる。もっとも,このアンケートは原爆記念日特集の一環と

して実施されたものであり,再軍備が現実の日程にのぼっているなかで,「戦争

は天災ではありません。人間がおこすものです。だから人間の力でくい止める

ことができるのです。正しい批判,抵抗,団結,この三つを忘れずにみんなで 自信と希望をもって頑張りましょう」と戦争反対を明確に打ち出している点は

あきらかではある。しかしそれとても,「この三つをみんなで実行すれば,二度

とあの悲しい目に合わなくてもすみます」と結んでいるように,分科会での論 議の中心であった,学習指導要領のもつ非歴史性を克服しようとする他の実践

の水準にはとうてい及ぶものではない(28×29)。

 旭丘の平和教育をなんらかの意味で教科内に限定しようとすれば,先の学習 指導要領に示されていたような社会科的方法をさまざまな活動のなかに取り入 れたことを除けば,映画「ひろしま」をみて,その感想を述べあうという程度 のものでしかない。そこでは意識において平和教育を行なおうとするものが あったとしてもその方法や内容を探求するという努力は十分には実らなかった ように見える。

 むしろ旭丘中学校の平和教育実践が,この時期の平和教育のあり方としてあ る優れた特質を持っていたとするならば,それは平和の問題を常に具体的な日 常生活との関連で位置づけ,真に平和を守るためには,平和を阻害しているも のとの闘いを学校のレベル,地域のレベルで組織していかなければならないこ

とを子どもにつかませたということがまず第一にあげられる。それは人権躁躍 問題などにみられる生徒の行動のなかに顕著に現われていたように,日常の生 活のなかで人権や民主主義の問題を平和の問題に関わらせて構造的にとらえる

(16)

力が生徒たちのなかに確実に生まれていたことがものがたっている。この点は,

旭丘中学校事件のなかでは逆に「旭中の生徒は,なんでもかんでも再軍備反対 に結びつける」(3°)というかたちで「偏向教育キャンペーン」の材料に使われる要 因となったのであるが,この問題については次章に譲る。

 第二には,このような実践に適合的な学校運営の形態が,教師集団の取り組 みのなかから生み出され,いわば学校を「平和の原理」(31)にもとついて発展させ

ようとしたことのように思われる。みてきたように,旭丘中学校においては,

学校の運営に関する規範意識は教師のなかではむしろ50年代初頭までの文部省 による学校管理についてのさまざまな指針に原型を求めていたように思われ る。たとえば,先にみた学校新聞の取扱いについてもそうであったように,ま た生徒会や生徒の集団を形成する上でも,民族的差別(32)や男女差別(33)を徹底し て排除しようとしたことにみられるように,やや形式的に流れる側面はあった ものの,全体としては新教育のなかにあった素朴ではあるが率直な平和と民主 主義を求める理念を素直に発展させる方向をめざしていた。そのなかで,なん でも誰に対してでも率直に物事がいえる関係を作り上げていく努力がなされ,

学校のなかでの教授一学習過程を垂直的な権威・権力的関係ではなく,ともに 学びあう関係であるとの認識が,教師集団内部にも生徒集団のなかにも,そし

てもっとも重要な教師一生徒のあいだでも打ち立てられようとしていた(34)。そ

のことが,教師による平和への熱望が率直に授業のなかでも,時として十分な 配慮もなしにかたられる事態を生みだしたのだともいえる㈹。これは教育方法 論からは一見強引ともみえようし,そして事実「偏向教育」キャンペーンのな かでは批判の対象となったものではあるが,逆にいえば,おかしいことは誰に

対してでも批判できるという相互の了解があってこその産物であった(36)。筆者

が「平和の原理」という熟していない概念をあえてここで使ったのは,単に教 師が平和や民主主義を価値として生徒に教えこむということではなく,生徒自 身が自分という存在をかけがえのないものとし,それと同時存在する他者に対

しても同じ価値を見いだし得るような教育的関係が旭丘の実践構造をかたちつ

くっていたと考えるからである。

 次章では,このような実践の構造をもっていた旭丘中学校が「偏向教育キャ

(17)

ンペーン」の対象となっていくメカニズムについて,この期の教育政策と国民 の教育意識の相互浸透過程を視野にいれながら問題にしたい。

第2章 旭丘中学校「事件」の社会学的考察のために

第1節 平和教育における「民主的道徳」解釈の正統性をめぐって

 吉田(自由党)政府は,「逆コース」の一つの頂点ともいえるMSA交渉(37)が

行われた1953年を前後とするこの時期,日教組が学習指導要領さえも平和教育 の武器としている状況に対するいらだちを露骨に示している。

 52年暮れに岡野文相によって諮問された「社会科の改善とくに道徳教育,地 理歴史教育について」を教育課程審議会が,翌年8月7日づけで発表したが,

諮問原案にあった「道徳教育の強化」を「基本的人権の尊重を中心とする民主 的道徳の育成」と読み替えて答申した。これは文相の諮問の趣旨とはまったく 正反対の答申であった。そこで,翌日の8月8日には第12回中央教育審議会総 会にこの問題はかけられ,とくに基本的人権という言葉についてわざわざ次の

ような但し書きをつけて文相に提出されるはこびとなった。「(教育課程審議会)

答申の一般的事項(四)中に基本的人権の尊重を中心とする民主的道徳とある の意味は,民主的道徳の中心は人格の尊重,ひいては社会公共への奉仕にある との意味に解すべきであるから,これが実施にあたってはその趣旨に沿い遺漏 ないように努めること」という一文である。ついで8月22日,文部省から発表

された「社会科改善についての方策」からは「基本的人権」ということばはまっ

たく姿を消し,逆に大達文相が国会の文部委員会で教育勅語正当論を展開した 際に言及した「正直,親切,忍耐,協力,規則を守ること。国を愛する心情を

養い,他国民を敬愛する態度を育てること」(38)などの徳目が大きく取り上げら

れていた。この時期文部省は,上にあげたような「民主的道徳」についての解 釈をなんども繰り返している。このことの意味はいったいなんであったのか。

本節では,旭丘中学校の平和教育実践に対する「偏向教育」キャンペーンのな かでの文部省による「民主的道徳」解釈が果たした役割を探ることを中心に議

(18)

論をすすめたい。

 文部省は,学習指導要領47年版,51年版を通じて「相互依存の関係」を理解 させること,そして「公共の福祉」をその重点にしていたこと,さらに教師に は「中正な」態度をとるように求めていたことからすれば,53年の社会科の改

善方針はその延長上にあるとの解釈も成り立つ。しかし51年版学習指導要領は,

先にみたように「現実には二つの世界が対立し,第3次世界大戦勃発の危険性

もはらんでいる」という状況認識を示した上で,「現在の世界の現実を客観的に,

わかりやすく生徒に知らせることは必要である」と述べていた。そこには「あ くまでも国内及び世界の平和を念願し,これを守っていくことのできる人間形 成をめざす」平和のための教育を,現実のなかで具体的な問題にからませて追 究していこうという意図が明確にうかがわれていたことを思えば,断絶を意味

したと考えるべきであろう。

 このあたりのことをもう少し,くわしくみていくことにしよう。教育課程審 議会答申の出る直前の6月23日に,大達文部大臣は文政基本要綱を発表した。

そのなかで社会科について,「わが国再建の根本が国民の道義の高揚と愛国心の

振起にあるという見地から小,中,高校などにおける道徳教育についても現状

を十分に検討して,これを充実徹底させる。そのためには社会科教育について も文部省で定めた指導計画は完全なものとは言えないので,教育内容の改善を

はかる」と述べている。同じような主張は天野文相の時にも行なわれていたが,

学習指導要領への公然たる攻撃としては現われていなかった。「不十分性」への

批判というかたちではあっても,担当大臣が自らの刊行物に対して公然と批判

したのだからその影響は大きかった。教育課程審議会は,大達の愛国心の強調

に対して「(これまでの社会科の)その基本的なねらいは正しいのであるから,

今後もこれを育てていきたい」と内容的には反駁し,これまでの社会科の役割 を評価しようとしたが,かたちのうえでは「その学習が,どこの学校でも効果

をあげるためには現在の学習指導要領を改訂(する必要がある)」と改訂作業に

は言質を与える結果を出さざるを得なかった。その後の文部省による,47年版 並びに51年版学習指導要領とそれを利用して行なわれている平和教育への批判

はすばやく,なおかつ慎重に行なわれた。例えば,さきに示した文部省・「社会

(19)

科改善についての方策」で基本的人権の問題をいっさい記さなかったかと思え

ば,翌23日の「社会科改善についての解説」では,「世論の一部には社会科を廃

止したほうがいいという案もあるのに対して,教育基本法に示されている人間 形成の理念をいかすべく,社会科をよりいっそう教育に貢献させようというこ とである。だから今度の改善には逆コースなどということはみじんも考えられ る余地はない」と述べている。また,7月13日付の文部広報では,「教育の中立

性」について次のように述べている。

 「教育の中立性についての法律上の意味を考察してみると教育基本法8条2 項の主旨は法律に定める学校は一党一派に偏った政治的意見が持ち込まれては

ならない。また政党勢力が学校の中に入り込み,学校を利用し,学校が政治的

闘争の場となることが禁止されるのは当然である。」

 これらの議論の組合せは日教組が推進していた憲法・教育基本法・学習指導 要領に基づく平和教育実践に対して一定のくさびを打ち込むものであった。憲 法や教育基本法を否定するのではなく,そこに示されている人間形成の理念を 実現するための学校は政治的に中立でなければならないという論理は,俗耳に 入りやすいことがらである。しかも文部省がうちだした「民主的道徳」それ自 体はひとつひとつとってみるならば,批判のしにくいものである。

 このようなかたちで,平和と民主主義を守るという立場を政府・文部省がま がりなりにもとれば,現実の問題を取り扱うこと(それは51年版学習指導要領

までは文部省自体が提起していた立場)それ自体があたかも政治的であるかの

ような印象を強く与えることになる。

 これは日本人の統合のシンボルとして平和と民主主義が定着していることを 見て取った上で,平和の問題を棚上げにして,憲法・教育基本法の民主的条項 のなかにある「中立性」を前面に押し出すという,高度な戦術であった。

 この「中立性」を突破口にして,民主主義というシンボルに「愛国心」,「社

会秩序を守る」,といった内容を付与しようとしたものである。

 以上のことは旭丘中学校事件のなかにも反映されている。そのことは次の二

つの事実を提示すれば十分に理解されよう。

 以下は,旭丘中学校が国会の場で「偏向教育」の一例として論議されたとき

(20)

におこなわれたやりとりの一部である。「15人組」の指導者水上毅氏が証人とし

て須藤五郎(無所属クラブ)の質問に応えている場面である(39)。

 須藤…  「(水上証人が)平和教育に関する旭丘の闘いということを非常に

強く強調されて,なにか平和教育というものが偏向教育であるかのごとく説明

していらしたと思うのですが,平和教育は憲法においてちゃんと明らかにされ ておる。日本は平和を守らなければならん国であるということが明らかにされ ている。そうして平和教育をするということは教育基本法の精神でもあると思 うんですが,その学校の先生達が児童を戦争にやらないために,再び戦争をお こさないために平和教育をやるということが,どうして偏向教育という認定に

なるのか,その点をうかがいたい。」

 水上… 「ただ今おっしゃるとおりでありまして,平和教育そのものについ て私どもは全然異論がございませんが,その現れている現れ方が最前申しまし

たように,政治色を帯びた現れ方があるので心配をいたしているのです。」

 もう一つの例も同じく,参議院文部委員会での証人尋問である。長谷部ひろ

(無所属クラブ)の質問に応えて,証人・福田知子氏(「15人組」のひとり)の

発言である(4°)。

 福田… 「私思いますのに,いつの世の中でも世の中がいろいろとすぐに明 日にも変わるかも知れません。原子爆弾が落ちてくるかもわからない世の中で ございますけれども,いつの世の中でも人の道は変わらないと思うのでござい ます。子供が平和に暮らすために,人間の真の平和を守るために,秩序を守る ために,その人道とか,道徳というものは絶対に変わるものじゃないと思うの であります。それを今の中学校時代の子供にはぜひ教えていただきたいと思う

のです。」

 このように平和教育それ自体については,本音はともかくも「全然異論がご ざいません」と応えざるを得なくなっている。そこで,問題になってくるのは

その平和教育の内容ということになるわけだが,水上によれば,「政治色を帯び

たものが」問題だということになっている。水上・福田の論理は「平和」を一 つの道徳的徳目としてとらえるならばかまわないが,旭丘中学校の「平和のた めの教育」という言い方それに自体に政治性が現れているのだという主張を中

(21)

心に組み立てられている。そしてそれは,現実とのからみのなかから平和の問 題を子どもに考えさせるという学習指導要領の立場を否定することにほかなら ない。この立場について,須藤は「私は平和教育に二つはないと思います」と

のべて,「政治色を帯びた平和教育」と「政治色を帯びていない平和教育」とを 並べるのは虚構の論理であると批判している。ことの当否は別としても,水上・

福田がこのような論理展開をおこない得る土台には,明らかに先の文部省の「民 主的道徳」についての解釈に使われた方法論がいかされている。

 おそらくこの問題は旭丘中学校事件をはじめとする教育二法をめぐる情勢分 析を今の時点で総括するときにも決定的な役割を果たすのではないかと思われ るが,本稿ではこの点にはこれ以上立ち入らない。しかし,一般の国民に対し て平和と民主的道徳の関連がどのようなものであるのかを,具体的なかたちで 十分に明らかにする仕事が,日教組の平和教育実践に課せられていたことだけ

はたしかである。

第2節 学校のあるべきすがたについての把握の様式

学校教育の中立性を媒介にした,民主主義へのもう一つの内容付与は教育の

なかに競争原理を導入することであった。

 そもそも「事件」が表面化する発端をつくりだした「−15人組」の大部分の人々 が主観的には「『偏向教育』を問題にしたのではなかった」と述べているところ

にこそ注意する必要があろう。もちろん事件の首謀者たちの何人かは,時の政 府と同じような政治的意図をもっていたことは明らかではあったが,鶴見和子 が指摘しているように,少なくとも旭丘中学校の教育に不満をもった人々の多 くは明確に「政治的偏向」に対して批判したというわけではなかった。12月5 日の「父兄有志」による校長への「申し入れ」の項目は58項目におよんだがそ

のうち,「行儀が悪い」が20項目,「教育が充実していない」が14項目,「政治教

育をおこなっている」が18項目,その他「家庭教育と学校教育がくいちがう」

などであった(41)。

 これらは,いわゆる「15人組」と呼ばれている人々から出されたものである が,この中ですら必ずしも旭丘中学校の教育が「偏向している」ということを

(22)

前面に出しているというわけではなく,むしろ後の鶴見らの面接に際して,自

分達の要望が政治問題化したことについては否定的な態度を見せている(42)。

 また鶴見はさきの抗議の内容について次のようにコメントしている。

「①行儀が悪い②教育が充実していない③政治教育をおこなっている。この3 項目は,①日常生活の習慣に関するもの②教育の技術に関するもの③教育の内 容に関するもの,とくに社会のすすんでいく方向に対する価値判断を含む。と

いうように,それぞれ独立した問題である。ところがそれら各々の具体例は,

論理的必然的に関連のあるものとしてこれらの父兄(「申し入れ」を提出したい わゆる「15人組」…  引用者注)にうけとられている。『行儀が悪いのは政治 教育をおこなっているからである』『教育が充実していないのは,政治教育をお

こなっているからである』というように①と②は,③という結論の前提とみな されているのである。すくなくとも①と②の具体例は,③が事実であることの

例証として取り扱われている。」「『行儀が悪い』という,誰にも目につきやすい

ことがらと『偏向教育』とを論理的必然性をもつものとしてむすびつけるため

には,並々ならない強烈な動機が働いているように思われる」

 たしかに鶴見のいうように,①②と③は論理的には別々のものである。しか し,彼らのなかでは「中立性信仰」と「基礎学力」重視論はぬき難く結びつい ていたことも事実である。調査団の聞き取りでは,次のような発言が相次いで 出されている。

 「中学生としては基本的な教育をしてもらって,再軍備や政治の問題がでて きたときに結論を出してほしくない。公立学校なんだから,まず基礎学力をつ

けてほしい」。「子どもはよみかきそろばんのことをしっかり教えてもらったら いいので,学校にいるときは政治教育をしてもらいたくない」。「大学になって,

その方向にいくんならしかたないけど。子どもには政治教育の面でせっかちす ぎたんでしょうね。勉強もしっかりやっていただいて,しつけもある程度やっ て,その上でそういうこともやっていただくんならよかったんでしょうけ

ど」(43)。

  これらの発言は,鶴見が,「15人組」を政治的意図を持った「中心人物」と

そうではない「その他大勢」とに分けて「『15人組』の人々の多くは政治教育を

(23)

問題にしていたのではない」ことを例証するために挙げた発言である。ここか

ら,鶴見は,「並々ならない強烈な動機が働いているように思われる」と結論を 下して,「15人組」の「中心人物」たちは①②と③と強引に結び付けようとした

というように描き出そうとしている。しかし,この発言をみる限り,鶴見の結

論とは逆に,「その他大勢」の人々は①と②に独自の重みを感じていたからこそ

③の問題が浮かび上がってきているのではないかと思われる。つまり,旭丘の 教育では③があることによって①②が不十分なものになっているのではないか という不満がでてきているように見えるのである。ここには「15人組」の多く の人々は「自分たちは『偏向教育』を問題にしていたのではない」と主観的に 意識していたかどうかという以前に,中学校は「政治教育」によって平和を守 る人間形成をめざすことよりも基礎学力をつけるところであるというイメージ が「中立性」問題を仲立ちにしていっそう強められているといえるのではない

だろうか。

 もっとも,ここでいう基礎学力とは何かということについては,必ずしもあ きらかではない。この点では学校への批判グループは,高校への進学率をあげ ていることからすれば,それが一つの指標となっているようである。一方,教 師の側からも「進学率は落ちていない」との反論がなされている。いずれにし ても,この論議に収れんしていってしまったことよって,学歴や進学率が基礎 学力をイメージさせるものとなっていることがわかる。ここに学校は「学力」

「学歴」といったメリトクラティクで中立的な外観をもつ指標によって組織さ れなければならないという議論の戦後日本的な原型を見るのは読み込みに過ぎ

るであろうか。

 そしてこの問題に対して教師側,父母側がともに自覚的でなかったことが,

旭丘の教育実践とそれを批判する父母の側の亀裂を深める決定的な問題となっ

ているのではないだろうか。

 旭丘中学校の教師達のなかには,明確なかたちをとっていたわけではないが,

自分達の教育実践が平和のための教育であることを自覚していくなかで,独特 の学力観が芽生えていた。たとえば,寺島は学級新聞『入道雲』のなかで次の

ように呼びかけている。

参照

関連したドキュメント

 英語の関学の伝統を継承するのが「子どもと英 語」です。初等教育における英語教育に対応でき

私は昨年まで、中学校の体育教諭でバレーボール部の顧問を務めていま

 学部生の頃、教育実習で当時東京で唯一手話を幼児期から用いていたろう学校に配

 学部生の頃、教育実習で当時東京で唯一手話を幼児期から用いていたろう学校に配

小・中学校における環境教育を通して、子供 たちに省エネなど環境に配慮した行動の実践 をさせることにより、CO 2

小学校における環境教育の中で、子供たちに家庭 における省エネなど環境に配慮した行動の実践を させることにより、CO 2

社会教育は、 1949 (昭和 24