アントナン・アルトーと 演劇のカタルシス
大 坪 裕 幸
序 カタルシスの医療的解釈とは何か
アントナン・アルトーの残酷演劇には,はたして「カタルシス」と見な
されうる効果はあったのか.アルトーが
42歳のときに出版された,自身
の演劇論の集大成である『演劇とその分身』(1
938年)に収められたテク
スト「演劇とベスト」は,かつての疫病ベストに代わって現代では観客ひ
とりひとりに演劇を伝染させることによって社会を治療しなければならな
い,という演劇の使命を説いたものであったり.では,残酷演劇によるこ
のような効果を,悲劇による「カタルシス」が観客になんらかの影響を与
え結果的に共同体の秩序を維持する,という理論と同じものと見なせるの
だろうか.このテクストのなかで,さらに『演劇とその分身』に代表され
る残酷演劇の理論と実践を巡るテクストのなかで,アルトー自身は一度も
この「カタルシス」という演劇用語を使っていない.にもかかわらず,エ
ヴリーヌ・グロスマンは「演劇とベスト」を論じる際にアルトーの晩年の
ノートに書かれた断片「カタルシスとはそれに固有の法則を諸事物から引
き出すものである」
2)を引用し,演劇とベストというモチーフが「
1945年
に作者自身が『演劇とその分身 J を読み返した後に,かつてのそれとはか
なり隔たった意味合いにおいて,ょうやく再び現れた」と述べ,このテク
ストは演劇とベストに共通するカタルシス的な効果を説いていたと結論づ
ける
3).またジョナタン・ポロックは,このテクストにおけるベストが身
体に与える影響の叙述をそのまま演劇の効果と見なしながら,それはアリ
ストテレス的なカタルシスと全く違うとして次のように述べている.「ア
リストテレスはカタルシスの効力を 憐れみゃ恐怖といった感情の再現に帰
しているといわれるが,この種の感情の浄化(
epurationdes a能
cts),ミ
メーシスの喜びによるそれは,それでもやはりベストによってなされる極
限の浄化(
purificationextreme)とはほど遠いものである.アルトーはと
いえば,カタルシスの医療的な意味に回帰している.すなわち毒を含んで
125いて排継されるべき体液を取り除くことによる身体の浄化(
purgation corporelle)に帰っている」
4).しかし,グロスマンやポロックが主張するように「演劇とペスト」が演 劇のカタルシス的な効果を説いたものであるにせよ,そこからアルトーの 残酷演劇にはカタルシスがある,という結論をすぐに引き出すことはでき ない.なぜならアルトーは,残酷演劇の実践を伝染病の集団感染のような ものと見なすだけではなく個人にとっての医療とも見なし,そして錬金術 や秘儀伝授のようなものとも見なしてきたからだ.ゆえに残酷演劇とカタ ルシスの関係について検証するためには,「演劇とペスト」以外の残酷演 劇を巡るテクストを読み直す必要がある.またその一方で,そもそもアル トーの時代におけるカタルシスの概念がどのようなものだ、ったかを見直す 必要があるだろう.
ポロックによると,アルトーはアリストテレスを避けてカタルシスの医 療的解釈に回帰していた.しかしそれは実際にはアルトー以前に既に, ド イツの文献学者ヤーコプ・ベルナイス
QacobBernays)によってなされて いた.ベルナイスは
18ラ
7年「悲劇の作用に関するアリストテレスの失わ れた著作の原理」う)のなかで従来の倫理的解釈,つまり観客は道徳的教訓 を得ることで情念を浄化するという定義からカタルシスを引き離し,アリ ストテレス以前のヒポクラテス的な医療的解釈へと回帰した.ピエール・
ソムヴイルによると本来は「芸術には医療のような効果がある(=身体に 対する医療のような効果を芸術は精神に対して発揮する)」というテーゼ を,ベルナイスは「演劇には医療的効果がある」つまり医療そのものと同 じ効果があるとしたという
6).またジヤン・ボラックによると,ベルナイ スは「詩学』における「演劇には憐れみと恐れとカタルシスがある」とい うテーゼにも新しい光を当てたという.「音楽的あるいは演劇的な上演は 治療となるのだが,その治療においては,不安を生じさせる要素を抑制し たり,昇華したりするのではなく,むしろかき立てて刺激を与え結果的に は吐寓・排出させる(
etre evacue).感情の増大がその緩和に至るのだ」
η.
一言でいうと,悲劇の主人公と一体化・同一化(
s'identifier)した観客
のなかで憐欄(
pitie)と恐れ(
crainteあるいは
terreur)の感情が高まっ
ていき遂には頂点に達して消散する
8),多くの演劇研究者が指摘する
ように,人間の男性を含めた晴乳類のオスの「射精」のメタファーでもあ
るこの定義がベルナイスにおけるカタルシス解釈だ、った
9).またベルナイ
スの姪の夫となったフロイトがこの理論を参考にして,ブロイアーととも
に患者のなかの沈滞した感情を催眠状態で頂点に達するように導いたうえ で解放させる精神医療の方法(除反応(
abr白
ction)による「煙突掃除」
と呼ばれた)を作り出して「カタルシス療法」と名付けたことはよく知ら れているが,はたしてこのような発想をアルトーの演劇論のなかに見出す ことはできるだろうか.例えば
1933年に執筆したとされる「名作と訣別 するために」のなかで,彼はこのように述べている.
シェイクスピアの作品において,人間は時おり自分を超えるものに関心を持 つにせよ,結局はその関心が人間においてあらわれる結果,いわば心理(学)が つねに問題になるのだ./心理学は未知のものを既知のものに,いわば日常的 なものゃありふれたものに帰着させることに夢中になるが,これがエネルギー の低下と恐るべき喪失の原因であり,それは私にはおそらく最後の段階に達し ているように見える.そして演劇と我々自身が心理学と訣別するべきだと私に は思われるのだ. ( 0 .
C刀 く
p.74‑75)ここでいう「自分を超えるもの」つまり残酷な運命に対する関心が「人 間においてあらわれる結果」とはまさに,そのような運命に対峠する登場 人物の心理の動きにほかならない.アルトーが一貫して拒絶した悲劇の戯 曲の心理(学)的読解
(lecturepsychologique)において,演出家・俳優は 登場人物の心理を「このような状況だったら自分だ、ったらどう思うか」と 想像することによって演技プランを組み立てるが,そこで喚起されるもの は通常の生活における感情,アルトーのいう「日常的なものゃありふれた もの」でしかない.また,ベルナイスの定義通り観客が悲劇の主人公と
「一体化」するということは,上演のストーリーのさまざまな展開のなか で観客が主人公と諸感情を共有する,つまり自分のものとして感じるとい うことであり,そこで喚起される諸感情もまた「日常的なものゃありふれ たもの」である
10).残酷演劇において,俳優・観客が登場人物と心理的 次元で一体化することは決してありえない.ゆえにアルトーにおいてカタ ルシスがあるとすれば,それはアリストテレス的なものとは違うというだ けではなくベルナイス的なものとも違うということを示す必要があるだろ
っ
.
1.
ミ メ ー シ ス と 一 体 化
アルトーがベルナイスからフロイト=ブロイアーのカタルシス療法そし
127てフロイトの精神分析に至る流れをどれだけ意識していたのか,また意識 していたとしてもベルナイス的なものと見なされないように意図的にカタ ルシスという言葉を避けたのかどうかは分からない.だがいずれにせよ,
まずこの「一体化」に関する問題を考える必要があるだろう.ジョナタ ン・ポロックのいうアリストテレス的なカタルシス,「ミメーシスの喜び」
によるそれとは観客が主人公を心のなかで模倣することによって彼に一体 化して自らを消す(自分と対象との距離がなくなる)ことが前提となって おり,モスコヴイツシによると現実の政治においても群衆の独裁者への一 体化という形で見出されるものである
11).ただし観客のこのようなミメ ーシスと一体化について考えるまえに,言うまでもなく現実における人間 の発言や行動のミメーシスとしての俳優の「演技」について言及する必要 がある.
19
世紀後半にヨーロッパで誕生した「演出家」たちは,様々な方法論 と実践を重ねて演劇の上演を現実のたんなる模倣から解き放そうとしたの であり,
20世紀前半の演劇人たるアルトーもその流れのなかにあった.
ここで,俳優の演技を上演の嬰にすることでミメーシスを超えようとした 演劇人としてスタニスラフスキーの演劇論・演技論をアルトーのそれと比 較することは無駄で、はないだろう.ロシアのモスクワ芸術座のスター俳優 かっ演出家だったスタニスラフスキーの著書『俳優修業』,スタニスラフ スキー・システムと名付けられた演技のメソッドの小説仕立ての演技マニ ュアルが説くのは,「俳優は彼が演じる役と感情を共有することによって 役を『生きる』」ということである.このなかで演出家トルツオフの言葉 として繰り返し語られるこのテーゼは,俳優が意識的に「演じる
Jことを 前提としながらそれを超えて役に「一体化」(他にもスタニスラフスキー は「同化j「融合
Jなどの言葉を使っている)することを意味し, トルツ オフによれば人間が自然の一部である以上,俳優の裡には「人間的自然」
が
subconscient(邦訳では「潜在意識
Jあるいは「超意識j となってい るがこれはフロイトの用語とは関係ない)として内包されており,意識的 演技の彼岸に自ずからこの種の自然が現れる.そして自然の創造物が美し いものであるのと同様に,潜在意識による俳優の演技(=舞台上での劇的 創造)は現実の模倣・ミメーシスを超えて美的創造たりうるという.
トルツオフはさらに語る.役を「生きる」ためには,俳優は自分が演じ る登場人物の生き様を舞台上で追体験することでその人物と同じ感情を持 たねばならない.このようなプロセスで俳優の裡に自然に生じる感情は,
128
「情緒的記憶」(仏訳では
memoireaffective)と呼ばれる.人間は誰し も,怒りや喜びといったなんらかの感情あるいは情動(=
emotionある いは
affection)を伴って記憶された出来事を自らの経験として蓄積して いる.ゆえに俳優が演じる際には自分が演じている登場人物が置かれてい る状況に類似した彼自身の経験を思い出し,それに伴う「情緒的記憶」を 呼び出して自分が演じている役の感情として表現できる
12).ここで見出されるのは,(状況に対する)心理的反応の上位に生理的反 応が位置付けられるという認識であり(これは生理学者ジェームス=ラン ゲの言葉「悲しいから泣くのではなく,泣くから悲しい」に集約される)
13),俳優はまず「泣ける状況」を稽古中に作っておいて,次にその俳優が「悲 しかった」過去の記憶を呼び覚ます.ただしスタニスラフスキーの場合は あくまで心理的表現を確実にする(=俳優が演じる役の「内面」を正確に 表現する)ために心理学の上位に置かれる生理学的メソッドを援用してい るのであって,心理的読解を否定して演劇のための生理学および演じる身 体の「生理的変化」を重視したアルトーの方法論とは違ったものである.
残酷演劇において俳優は,登場人物の感情を模倣することでその人物に 一体化するのではなく,その人物が力に操られて感情を暴発させている状 態を,演じる行為によって力と関わることで作り出して上演時間の中で持 続させるが,その時にその人物と同じ感情は力の身体への影響を利用する かたちでその都度作り出される.それを示したのが『演劇とその分身』に おけるアルトーの演技論である「情動の体操」,身体のそれぞれのツボと それぞれの器官そしてさまざまな感 情が繋がっていることを前提とした上 で,力の作用を俳優の身体諸器官において維持しながらそれぞれの器官に 対応したツボを刺激することによって,さまざまな情動・感情をその都度 自在に作り出すためのマニュアルだ、った.「コツはこれらの支点に筋肉を 引っ掻くようにして痛みを与えることである」(
O.C.TV , p
. 132).アルトー がスタニスラフスキーを名指しで批判したことはないが,「情緒的記憶」
(memoire affective
)に対抗しているかのようなタイトル「情動の体操」
(athl
と
thismeaffectif)を持つこのマニュアルのなかで彼は,従来の(ス タニスラフスキー的)演技論を批判して「俳優は粗野な経験論者にすぎ ず,暖昧な勘に導かれる接骨医に過ぎない」(
0.c . J V , p. 126)と言ってい る
14)
またアルトーはスタニスラフスキーと同じく俳優を上演の中心においた
が,そこで見出されるのは自然の美しさとしての俳優の演技ではなく自然
129における力の闘いである.俳優は演じる行為によって力を呼び寄せ,力と 力の闘いを諸器官同士の闘い,そして登場人物同士の闘いに置き換えてい
く.ゆえに残酷演劇の上演とは俳優による自然界の複数の力の闘いの,劇 場という特殊な空間そして上演時間という限られた時間内での「凝縮
Jで あり,それはどの劇場でいつ行うにしてもその都度一度限りの創造一凝縮 であり現実の模倣でもなければ同じ戯曲の以前の上演の模倣・反復でもな い.また力の闘いとその均衡はそのプロセスに巻き込まれる人聞にとって は本質的に悲劇でしかなく,ここで通常の言語表現の秩序を逸脱している という意味での「ユーモア
Jが見出されるとしてもそれは現実をアイロニ カルに模倣=風刺する(古典的な意味での)「喜劇」であってはならない.
また,アルトーにとって俳優は上演の要であるのみならず照明・音楽・
舞台オブジ、ェといった舞台上のあらゆる要素と等価でもあり,いわば舞台 全体と一体化する.そしてそれは観客にとっても同じであり,残酷演劇に おいて観客の一体化とはいかなるものかが彼のテクストにおいて描写され ることになる.
2.
観客はスペクタクルと一体化する
「あらゆる感情は諸器官を基盤にしている.俳優はまさに自分の身体の なかで感情を培養することによって,その電圧を充電できるのである」
(O.C W, p. 132
).中国の鋭治療を応用した俳優の演技によって上演時間中
に舞台全体に広がる力の闘いそしてその均衡への収束のプロセスに巻き込
まれる観客は,まず初めに力の闘いが登場人物の感情・情動の発露,力の
放電としてほとばしり出るのを目の当たりにする.アルトーは「情動の体
操」のなかでそれを端的に「触れなければならない身体の各部位(引用者
注一一ツボのこと)をあらかじめ知っておくこと,それは観客を魔術的な
トランス状態に投げ込むことである」( O.C 刀~
p. 132)と書いている.ただ
し,当然だが観客の身体に諸感情を生み出させるために俳優が上演中に観
客のツボを押すことは不可能であり,俳優が諸器官のなかで蓄積する力の
闘いを観客の身体においても持続させるためにはカパラを応用した呼吸法
が必要になる.「どのような呼吸も
3つの拍子を持っている.それはあら
ゆる創造の基盤に
3つの原理があるのと同じであり,この
3原則は呼吸に
おいてもなお,それぞれに対応した形を見出すことができる」(
O.C.IV, p. 127).「この演劇において,私は私自身の運命を生きる.そしてこの演
劇ははじめに息吹を持ち,息吹の後に音と叫ぴを拠り所にする.再び鎖を
繋ぐため,ある拍子の連鎖を作り直すため,その拍子において観客はスペ クタクルのなかで自分に固有の真実をずっと探していたのだから,この観 客が一息一息,拍子ごとにスベクタクルと一体化することを認めなければ
ならない」(
0.CI V ;
p. 132).呼吸とそのリズムを俳優と観客が共有することによって,観客はスベク タクルー一一舞台そのものと一体化する.俳優と観客のこのようなコミュニ ケーションのあり方は,「セラファンの演劇
jlS)と名付けられた散文にお いて,俳優である「私
Jによって描写される.「私が夢に見た叫ぴを描写 するため,生き生きとした言葉と自分のものにした語で描写するため,口 から口へ,息吹から息吹へ,叫ぴを観客の耳に通すのではなく,むしろ胸 に通すため
J(O.C.ル :
p.14う).俳優の言葉,声,息吹は,観客の耳に入る というよりも同じ呼吸を行っている肺に直接入っていく.アルトーはこの ような神秘主義的な呼吸の原理を援用することで,観客のスベクタクルへ の一体化を(あくまで定義上は)可能かっ必然的なものにしたといえる が,彼の構想はこれに留まるものではなかった.例えば残酷演劇の演目の ーっとして
1935年に上演された『チェンチ』の上演プランを,一種の観 客論として読むこともできるだろう.
ロベール・アピラシェは『現代演劇における登場人物の危機』のなかで アルトーの演劇(主に『チェンチ j )に言及し,残酷演劇では登場人物は 彼らを取り巻く群衆のなかに沈んで遂にはそこで名前を失うと書いてい る
16).しかし,それこそがまさにアルトーの演出意図なのであり,アル トーはアピラシェの言う「群衆
Jとしてのマネキン人形,この芝居で使わ れた複数のマネキンによって「迂回しながら,かっ象徴的な方法で,残酷 演劇に再び辿り着く
J(0.C. v, p. 38)と語る
17).先に述べたように残酷演 劇の俳優たちは上演中は舞台上のあらゆる要素とともに一種のシーニュに なるが,彼らが演じる登場人物であるチェンチとその家族たちはアルトー の言う「象徴
Jとしてのマネキンの作用によって,力に操られる自動人形 として非人間化され,またマネキンそして観客とともに「群衆」の一部と なって名前を与えられる前の状態,言いかえれば便宜上名前が与えられて いるにすぎない状態になり,マネキンと同じく「象徴
Jになる.
このような芝居に立ち会う観客は,俳優とではなく彼らが演じる登場人
物と同じ身体を持つことになり,登場人物たちと同じ場所にいて同じ立場
に置かれ,ゆえに前者が後者に一体化することはなくなる.俳優は登場人
物が力に打ちひしがれている受動的な状態を,演じる行為によって能動的
131に作り出す.しかし彼らが演じる登場人物は,劇場内の「群衆」のなかで たまたま力に選ばれて実際に操られてしまう名もなき犠牲者・被害者であ り,もしくはペストのメタファーを用いるならば観客たちよりも力=病の
(感情・情動としての)発現・発症がたまたま早かった病者だともいえる.
ゆえに,身体のツボを刺激することで感情の発現をコントロールできる俳 優の身体と観客のそれには隔たりがあるにせよ,力に関わって発病した登 場人物の身体と「呼吸」によって力に関わりながらもいまだ病が潜伏して いる観客のそれとのあいだには,度合いの差異しかないということにな る.まとめると,観客は力の闘いを俳優とともに呼吸で維持しながら,ま た登場人物やマネキンたちとともに群衆の一員となることで舞台全体に一 体化する.アルトーは『チェンチ
Jの観客についてこう語っている.
私の主人公たちは,残酷の領域に位置しており,善悪の外で裁かれなければ ならない.(……).そして作品全体がとマっぷりつかっているこの残酷さは,た んにチェンチという血なまぐさい物語から生まれたものではない.それは純粋 に肉体的ではなく,精神的な残酷さなのである.それは本能の極限まで到達 し,俳優に自らの存在の根源にまで沈んでいくことを強いるので,彼はぐった りとして舞台を退場するのである.(残酷)は観客に対しでも働きかけ,彼ら が無傷のまま劇場を出ていくことを許すはずもなく,彼ら自身,ぐったりとし て,巻き込まれて,おそらく変身(
transformer)するだろう!
(O.C V, p. 228‑ 229)ここでアルトーが言う「残酷とは精神的なものであり肉体的なものでは ない」ということは,残酷の定義とは運命・宿命であり決して肉体に対す る苛虐趣味(
sadisme)を表すものではないということであり,力は当然 俳優・観客の身体に作用し,上演のなかで観客は「変身」する.アルトー のこの構想は「演劇とベスト」で描写されたペスト患者の身体を残酷演劇 の上演における俳優と観客の身体として定義し直したものともとれるが,
とりあえずこれをアルトーにとってのカタルシス的な効果と見なすことが
できるだろう
18).観客は上演の際に俳優たちに暴力を振るわれたり,ま
た身体を傷つけられるかもしれないという恐怖を味わうということはな
い.しかし彼らは上演に立ち会うだけで,俳優たちと同じ空間を共有する
だけで,精神・身体の両面で最大限のダメージを受けるのである.
3.
残 酷 演 劇 は一度限りの治癒である
残酷演劇の観客は,スベクタクルそのものに一体化する
19).そして彼 らは,力の影響を受けて劇場内で感情を(実際に行動に移すことによって ではないにせよ)発散・放出させることができる.このような力と観客と の関係について,アルトーは晩年においても「聖なる諸原理へのフランス の回帰」のなかでもう一度言及している.
私が思うに,フォードの『アナベラ』の意味は犯罪を舞台上の描写の煽びへ つらいによって犯罪を称賛したり,また生み出したりすることではなく,むし ろ逆に犯罪に深く根付いている諸々のカをひとつの示現(m
anifestation)の なかで麻痩させ,かっ栓を抜くことにある.この示現は行為や出来事のなか で,いやしかし舞台という潜在的かっ無償の場所で,それらの力の本質として の強さとそれらの現実性の要求を獲得した後に,それらのカを中和する(…
… ) (0.C
XII, p.1 1 ‑ 1 2 ) .
ここで言われているフォードの『アナベラ j とはかつて「演劇とベス ト」のなかで史実のベストと同じく「悪」を啓示している悲劇として紹介 していた『あわれ彼女は娼婦jのことであり,アルトーは『演劇とその分 身
Jの再版の企画が持ち上がった際もう一度「演劇とベスト」を読み直し て,かつての自分の考えが正しかったことを書いたといえる.殺人や近親 相姦を主題にした芝居はそれを観た者の精神に悪影響を与え犯罪を生み出 す,という一般的な批判に答える形で彼が主張するのは,現実の社会や共 同体のなかではなく劇場で力 情動を発散し排出することによる演劇の効 果であり,これは方法論的には違うにせよ社会の秩序の維持というベルナ イス的なカタルシスのマクロな効果と近いものだといえる.ただし悲劇が 犯罪を助長するという批判に対する反論は,『演劇とその分身』のなかで は少し違う形で行われている.主に大衆と演劇との関係について論じた
「名作と訣別する」のなかでアルトーは,本質的な演劇作「残酷」を主題 にした演劇)を目の当たりにした観客が外へ出て「戦争や暴動や偶発的な 殺人」を行うことは絶対にありえないと言い(0
. c.J V , p
. 80),続いてこう 述べる.
演劇の身振りは暴力的ではあるが,それは無償のものであるということを忘 れないでほしい.またこのことも忘れないで=ほしい,演劇がまさに教えるのは
133
[悲劇の]行動・筋立て(=
action)の無益さなのだ.それは一度[舞台で]な されたから,もはや[現実の社会で再ぴ]なされるには値しない.そしてまた 演劇はまさに教える,その行動のせいでやはり無益なものとなる[舞台の]状 態には高度の有用性があるということを.[たんなる力の過剰と放出としての 悲劇の]行動はしかしながら,一転して,昇華(
sublimation)を生み出すの だ.(
αcIV, p. 80,傍点イタリック体,なお[ ]内は引用者が付け加えた 注釈)
ここで言われる
actionは悲劇の登場人物の行動であり,またそれを中 心にした悲劇の筋立て・ストーリー展開そのものでもある.舞台で「一度 なされたからもはや(現実の社会で再ぴ)なされるには値しない」という ことを上演が観客に「教える」(
enseigner)というとき,あきらかにひと りひとりの観客の認識,観客の主体が問題になっており,観客の身体に力 を関わらせることによる同毒療法(ホメオパシー)あるいは現実世界での 力への感染・発病に備えて「免疫」を付けるということ以上の意味を持っ ている.上演が最終的に観客に教えるのは,人聞を動かす力の存在であ り,また上演において既に自らの身体がその力に関わったという事実であ るといえるが,ではこの「昇華」とは何なのか.カミーユ・デユム
1)エは このように述べている.「アリストテレスによれば,悲劇はネガテイブな 情動とみなされた憐潤と恐怖を我々から取り除く.それに対してアルトー によれば,悲劇は我々から残酷を解き放っ.それは我々が残酷を悪魔被い の様態で生きることによってであり,あるいはさらに精神分析によって再 び採用されている原則によれば,〈昇華〉の様態で生きることによってで ある」
20).デュムリエは昇華を精神分析の用語一一性欲動や攻撃欲動を,
社会的価値や芸術的価値の獲得に向かう欲求に置き換えることーーと見な しているが,それをふまえて「悲劇が残酷を解放する」ということを解釈 するとどうなるか.これに関しては,この「名作と訣別する」のなかでア ルトーが観客の思考について述べている箇所をふまえて考える必要がある だろう.
多くの暴力的な場面が自らの胤をある観客に通わせ,その観客は自分のなか
で高度の筋立ての移り変わりを感じ,電光のように異常な出来事のなかに自ら
の思考の異常でありかっ本質的な運動を見て一一ーそのとき暴力と血は思考の暴
力(性)に使役している (……).(
αc.nく
p.78)舞台上で解放される「残酷」は,観客の思考と身体の両方に関わってい る.力の闘いとその収束によって最後に見出される真の(空間的)秩序は 身体・諸器官が辿り着くべき理想的なものであるが,それと同時にその秩 序に向かう過程としての力の闘いは既成の言語秩序・論理展開から解放さ れた思考の真の(時間的)流れでもあり,観客は上演において「自分のな かで高度の筋立ての移り変わりを感じ」「自らの思考の異常でありかっ本 質的な運動」を見出す.つまり彼らは時間的にも舞台=上演に一体化し,
その時にその上演の「暴力と血」の描写自体は上演の目的ではなく,人聞 の宿命としての残酷を表現するための手段でしかなく,ひいては思考その ものの残酷な流れを作り出すための手段でしかなくなる.一方でこのよう な悲劇を表現する側,演出家・俳優は,現実世界で真の秩序に向かおうと する自然の力に操られることによって我々全ての人聞が持ちうる欲求を,
演劇的創造,舞台上での真の秩序の創造への欲求に置き換える.そして観 客もまた「暴力と血」の背後に自らの思考そのものを見出して上演と一体 化しつつ,また舞台に一体化して「暴力と血」の原因となる感情・情動を 登場人物たちとともに発散しつつ,この創造のプロセスに巻き込まれ,結 果的にそれが「昇華」となる.ベルナイス的なカタルシスにおいて「射 精」をいくら繰り返しでも性欲やリピドーが完全に消滅することはあり得 ないが,昇華はたとえ一度限りでも十分である.残酷演劇の上演は観客に 教える,劇場を出た後で「暴力と血」を繰り返すべきではないし繰り返す 必要もないことを.なぜなら彼は,劇場のなかで演出家・俳優とともに既 に創造=昇華を終えているのだから.
残酷演劇を観ることの医療的効果は情動かっ身体に関わるものである が,同時にそれは観客の精神に力に関する新しい知識を与える.これはあ る意味,フロイト=ブロイアーのカタルシス療法からフロイトの精神分析 への流れ(ただしアルトーの場合は両者が混在しており,また観客が知る のは「我々」の無意識である)に沿っている
21).この点に関してフラン コ・トネリは,アリストテレス的な定義のカタルシスはアルトーにはない として残酷演劇の観客は「知
J(connaissance)を得ると分析し引「治癒 がここで意味するものは無知から本質的な知への移行である」と結論づけ る
23).ただし残酷演劇の観客が得る知,「残酷
Jについての知はある種の 精神分析的なもの・実用的なものである前にグノーシス的なもの・啓示的 なものとしての知でもあった.
1932年に残酷演劇を巡る他のテクストに 先立つて書かれた「錬金術的演劇」においては演劇が錬金術の「大作業」
135
(le Grand Oeuvre
)の比倫で示されていたが,後者において錬金術師は 究極の物質たる賢者の石を作りだすことによって,自然・世界・宇宙につ いての究極の知を得ることができる.またこのテクストではさらに演劇が 古代ギリシャのエレウシスの密儀に喰えられていたが,この密儀の「奥 儀」(エポプテイア)において秘儀伝授を受ける者は心身ともに浄化され 完全な状態になって「神性 J に一体化する.ゆえにアルトーはまず真の秩 序と力の均衡を創造するという演劇の使命を神秘主義的な比喰でまとめた のち,そこに至るプロセスは力による心身の治療・治癒かつ力についての 精神分析的な知識の習得でもあるとして,医療的メタファーで定義し直し たといえる.
アルトーによると古代ギリシャのエレウシスの密儀が実現したのは「抽 象的なものと具体的なものの複雑に入り組んでいるが唯一の融合」であ り,それらの秘儀は「物質と精神の観念と形態の具体的なものと抽象的な ものの対立関係を解決し,消滅さえさせ,あらゆる外観・仮象を唯一の表 現に融合したはずであり,その表現は精神化した金
(1orspiritualise)だ
ったはずである」(αC 刀~
p. 50)と言っている.そしてそれを,残酷演劇 を巡る書簡のなかで演劇の使命として「一言でいうと,演劇はある種の実 験的証明にならなければならないのであり,具体的なものと抽象的なもの との深遠な同一性を証明するべきなのです」( O.C 刀~
p. 50)とまとめてい る
24).アルトーが「精神化した金」と形容するように秘儀伝授と錬金術 の作業には共通点が見出されることはユングやエリアーデをはじめ多くの 論者が指摘しているが,アルトーにとってはもちろん演劇が錬金術かっ秘 儀伝授たりえなければならないし,前者の最終段階としての大作業または
「大いなる秘法」アルス・マグナ,また後者においては小密儀・大密儀を 経た最終段階としての奥儀となる.言いかえれば残酷演劇の上演は観客に とって,それ以上のものはもう見られないような最後の,かっ最良のスベ クタクルでなければならない.また医療のメタファーを使う場合でも残酷 演劇の使命は同じであり,
1933年にアルトーは「演劇と残酷
Jのなかで
「一度受けたら忘れられない魂の治療のように作用する演劇こそ必要」
(O.C IV, p. 82
)と言っている.この「魂の治療
Jに関してはヒポクラテス
の言葉「医術は身体を治療し,芸術は魂を治療する」を連想するのが妥当
だが,ここでは「一度」の魂の治療を観客が忘れないような,より正確に
いえばひとりの観客がたった一度見ただけでも忘れられないような本質的
な悲劇の上演こそが演出家・俳優に求められている,と見なすこともでき
136るだろう.演劇人はそのような完壁な治療を施す医師でなければならない し,信者に最後のイニシエーションを施す秘儀伝授者でなければならな い.残酷演劇は究極のスペクタクルを創造し,観客に究極の治療を施しつ つ究極の知をもたらす.そしてそのために必要不可欠なのが『あわれ彼女 は娼婦』のような「残酷」な戯曲,演出家や俳優や観客の前にまず劇作家 自身が「我々
Jの無意識の欲望を完全に「昇華」させた結果としての究極 の悲劇であるといえるだろう.
4.
残酷演劇のみが医療である
観客が自分を動かす力に関する精神分析的な知を得ることで劇場を出た 後,犯罪者として逸脱することなく社会人としての主体を持ち続けること はあくまで演劇が及ぽす副次的な効果であり,これまで見てきたように決 してそれ自体,それのみが上演の目的ではない.しかしいずれにせよ,ア ルトーが演劇を精神医療に近づけていたことは事実である.
先に挙げた「名作と訣別する」のなかでアルトーは,演劇の医療的効果 を主張するまえに,精神医療のほうが演劇に近づいてきたことを指摘して いる.「我々はこれから詩についてのこの高度の観念,古代の偉大な悲劇 作家たちが語っていた〈神話〉の背後にある演劇による詩についての観念 に戻ることができるかどうか」「ある支配的な力と全てを導くある概念の 自覚かっ獲得に達することができるかどうか」,「それらの概念は効果を発 揮するときは自らとともにエネルギーを持つから,我々のうちにこれらの エネルギーを再び見出して最後には秩序を創造して生の価値を再び引き上 げることができるかどうか」(O.C 乃 く
p.77‑78)と残酷演劇がなすべき課題 を挙げたのちに,彼はいささか唐突に,そして簡潔にこう述べる.
私が提案するのは,演劇においてこの基本的な魔術的観念に戻ることだ.これ は現代の精神分析において再ぴ取り上げられているもので,患者の治癒を得る ためにある状態の表面的な態度を彼に取らせるというものである.それは彼が
再び導かれることが望まれている状態なのだ.(αC 刀~
p. 78)ここで言われる精神分析の演劇的な試み,「患者がある状態の表面的な
態度を取る」というものが具体的に何なのかはこの箇所のみでは分からな
いが,例えばヤコブ=レヴイ・モレノの「心理劇」,フロイト=プロイア
ーにとっての「演劇のような医療
Jを経て演劇そのものとなった精神医療
137を連想することは可能だろう.ただし正確にはベルナイスとフロイト=ブ ロイアーにおける演劇とはあくまで観客にとってのそれ,つまり正確には
「観」劇には医療的効果があるということであり(催眠状態の神経症患者 は過去を思い出しながら,主人公たる過去の自分に一体化する),彼らの
「観」劇のような医療にとって患者は観客であり,モレノの心理劇,演劇 そのものである医療にとって患者は俳優である
25).そして逆にアルトー の残酷演劇にとっては,第一に俳優が(ベスト)患者となり観客も彼らと 同じ状況におかれたうえで治癒する.残酷演劇のこのような効果をカタル シスと定義するにせよそれを否定するにせよ,アルトーは演劇を「魂の治 療」と呼びその医療的効果を「昇華
Jと呼ぶことで,時代の流れのなかで 精神医学の側からも論じられていた「演劇が個人・集団に及ぼす効果」に 演劇の側から応じたといえる.
ドミニック・パリュカンはモレノの心理劇について論じた『演劇におけ るカタルシス,精神分析そして集団心理療法』のなかで,西洋演劇におけ る様々なカタルシス理論をニーチェの『悲劇の誕生
Jに倣ってデイオニユ ソス的なものとアポロン的なものに分け,アルトーを前者のほうに入れて いる
26).パリユカンによればデイオニュソス的なものは「超越の探求,
個人を意味の限界から解放し同時に社会の諸規則から自由にする新しい経 験の探求」であり,モレノはこちらに分類される.またアポロン的なもの は「社会への統合」が目的として挙げられフロイトはこちらに入り,言い かえればここでカタルシス療法から「理性(による無意識の制御)」に進ん だフロイトと観劇から演劇に進んだモレノが分けられている
27).そして パリュカンにとってモレノの心理劇が真の精神分析としてフロイトのそれ から離れ演劇そのもの,演じる身体のカタルシスを重視する医療になった 以上,演劇の側もまた真のカタルシスを持つものが振るい分けられて心理 劇と呼応しなければならないのであって,その意味では俳優・観客がとも
に患者であり演じる身体が何よりも優先される残酷演劇はパリュカンに選 ばれるに値するものだった
28).真の精神医療は演劇となり,逆に真の演劇たる残酷演劇は医療たりう
る.しかしアルトーが晩年に残酷演劇を復活させようとした時,彼は演劇
を医療のようなもの,医療に比されるものとして語ることを,逆説的に医
療のタームを用いながら拒絶する.
1947年の「俳優を錯乱させる
Jのな
かで彼はこう書いている.
(……)真の演劇
lはその無軌道の創造の短気で興奮した引力を立て直すために 行われていた./そうだ,万有引力はひとつの地震でありひとつの恐るべき情 念の急襲だ/それはひとりの俳優の四肢の上で修正される/狂乱状態において ではなく/ヒステリー状態においてではなく/トランス状態においてではな
く/(・・…).
(Antonin紅 白
ud,0四vres,Paris, ed. Gallimard, 2004, p. 1う
20)万有引力が劇場で,そして演じている俳優の身体の上で本来の「力」そ のものになっていく時,その身体は証乱(仕
enesie)の状態にあるのではな いし,ヒステリー患者の身体の状態にあるのでもないし,医療における患 者のまた祈祷における信者の「トランス」と呼ばれる状態にあるのでもな い.かつて俳優が「観客を魔術的なトランス状態に投げ込む」と書いたア ルトーは,このテクストの他の箇所でもう一度,その当の俳優の身体はト ランス状態ではないと書く (
ibid.,p. 1う
21).おそらくここでアルトーは,
演じている俳優の身体の状態がシャルコーの催眠やメスメルの動物電気に よる治療における患者のそれに,または古代の狂操状態を導く信仰,例え ばデュオニユソス崇拝における信者のそれや
fヘリオガパルス」で自身が 描写したキュベレの儀式における神宮たちのそれに,あるいは宗教的儀礼 のなかで脱我した信者のそれに比されることを拒絶し,その身体は「トラ ンス」と形容される状態にはないことを繰り返し強調している
29).そし て彼は古代ギリシャの秘儀宗教について,このように書く.
筋肉から筋肉へ/体系立てて傷をつけられた俳優の身体の上で,ひとは普遍的 な衝動の展開を捉え,かっ彼の身体それ自体の上でそれらの衝動を修正するこ とができる./それはかつてオルフェウスやエレウシスの密儀の時代に行われ ようとしていたひとつの技術だが,失敗に終わったのだ.なぜならそこではあ る古い犯罪の成就のほうがはるかに問題になったからだ./(・…・)〆演劇全体 が要請していたあの新しい痘撃する密かな人体構造・解剖学(
anatomie)の形 成と〈創設〉よりも.
(ibid., p. 1521,傍点イタリック体)
身体に関する魔術かっ科学たる真の演劇は,かつてオルフェウス教のイ
ニシエーションやエレウシスの密儀の時代にそれらとともに生まれるべき
だったが,その時に生まれそこなったからこそ今再びそれを復活させなけ
ればならない.アルトーはここでは演劇を秘儀伝授と同列に並べている
が,晩年のノートにははっきりとこう記している.「秘儀伝授者が「私は
139おまえの前に生きた」と言うのは嘘だ/なぜなら l イニシエーションは 嘘だからだ/演劇がそれにとって代わるだろう」(
O.C.xχp.
411).演劇は 医療でもあり秘儀伝授でもある,というだけでは十分ではない.演劇こそ が,そして演劇のみが真の秘儀伝授であり真の悪魔殺いであり真の医療で あり,演出家こそが伝授者であり医師である.精神医療が演劇を奪ったか らこそ,医師が演出家のように振る舞って患者を俳優または観客のように 扱うからこそ,彼らから演劇を取り戻さなければならない.
ではアルトー自身にとって,演劇のような医療とはどのようなものであ ったのか.何年ものあいだ精神病院に監禁されていた彼にとって治療と は,当然だが治癒するために行われるもの,病を治して社会に復帰するた めのものだった.シャルコーのサルベトリエール病院の催眠療法におい て,患者たちは医師=「偽の」演出家への愛情転移によって彼の意のまま に動く自動人形(automate )としての俳優で、あったが
30)'彼ら患者はフロ イト=ブロイアーにとっての観客の立場を経て,モレノにとっては自主的 に演じる俳優となった.そしてアルトーもまた精神病院のなかで,退院後 に演劇人かっ詩人として社会的に認められながら生きるために,それらの 役を「自主的」に演じることを医師たちに「強制」されていたのである.
具体的には,アルトーが精神病院で一人で、演劇実践や詩の朗読を行ってい た病室は,彼の精神と身体に真の秩序と均衡を取り戻すための治療場かっ 儀式の場でありながら,同時に社会という偽りの秩序の手先である医師た ちに与えられたもの,という両義性を持っていたということになるだろ
う31).そもそもパリュカンが「社会への統合」を目的とするアポロン的なもの
に対してデイオニユソスの側においたモレノは,最初に実践した演劇的療
法を「自発性の演劇」と名付け,またその後は心理劇の実践の基盤として
社会的倫理的価値の探求を目的にした「アキシオドラマ」そして「ソシオ
ドラマ」を,社会人としての主体を取り戻させるために患者=俳優に演じ
させていた.それに対してアルトーの場合,残酷演劇の観客は上演が終わ
ったら社会に戻るが俳優は力が凝縮され放出される空間としての舞台で演
じ続けなければならないのであり,彼らは(おそらく演出家によって)錯
乱させられる演じざるをえない状況に常に追い込まれる.そして,この世
で唯一の治療場であり儀式の場である劇場において指導者は演出家のみで
あり,俳優は彼のもとで観客を治療する医療家でありながら社会からはみ
出した病者でもあり,彼らに自主性・自発性はない.一言でいうと,俳
優・演出家にとって演劇とは従来の精神医療とは違った,終わらない治療 である.ゆえにアルトーの演劇観・演劇論にカタルシスと定義できるもの が見出されるとしたら,それはベルナイスの医療的解釈をカタルシス療法 から精神分析に至る流れに沿って批判的に継承したものでありながら,同 時に医療そのものとは極めて遠いもの,近づくことを拒絶しているような 異様な概念だ、ったと結論付けざるをえないだろう.
注
1
)大坪裕幸「秩序と均衡を求めて アントナン・アルトーと力の演劇一」
『立教大学フランス文学』第
39号 ,
710頁参照.
2) Evelyne Grossman, Artaud,
≪
l'aliini Authentique ≫, Farrago, 2003, p. 1ラ
9.3 )
Antonin Artaud, Oeuvres Completes(以下 o . c . と略)
XVIII, ed. Gallimard, 1981, p. 138.4 )
Jonathan Pollock, Le Rire du Momo, Antonin Artaud et la littirature anglo‑amiricaine, Kime, 2002, p. 40.う
)
Pierre Somville, Essai sur la poitique d'Aristote et sur quelques aspecお
de sa postirit.乙Vrin,197, ラ
p.82‑8う参照.
6 ) 原題は
Grundzugeder verlorenen Abhandlungen des Aristoteles uber die Wirkung der Tragodie.7) Jean Bollack,
≪
Un homme d'un autre monde ≫, in Jacob Bernays Un philologue juif, Presses universi問
resdu septen凶
on,p. 172.またボラッ
クによると,観劇のこのような効果が共同体の秩序の維持に役立つ.「悲劇と いうものはある政治的機構を受け継いでいる.その機構とは昔,理性によって ひとつの集団の情動的生活における暴力を軽減することに役立つていたのだ」
(ibid., p. 17
ラ ) .
8)
グレゴリ・ベイトソンはこの定義をふまえたうえで,バリ島演劇に見出され るプラトー状態について論じていた.ギリシャ悲劇におけるプラトーは一瞬で 消えるが,ベイトソンによるとバリ島演劇におけるそれには持続性が見出され るという.
9) Petit Robert
に倣ってカタルシスを
purgationdes passionsと定義するな ら
purgerは余分なもの,例えば体内の毒素を取り除くことであり,これにベ ルナイス的な解釈を加えると,それはまさに「射精」であるということになる だろう.
10)