瞬 問の美学への試論
ーアリストテレスを中心に一
(皿)
掛下栄一郎
前号で私は︑プラトンの美論について書いた︒と言ってもそれは︑彼の美論そのものの検討ではなく︑それを彼
の時間論とのかかわりにおいて問うてみたのである︒プラトンやアリストテレスの著作のなかには︑直接に時間と
のかかわりにおいて美が語られている箇所は︑おそらくどこにも見当らないであろう︒それにもかかわらず︑あえ
て彼らの美論と時間論との関連を問うことには︑いぶかりを覚える方もあろうと思われるが︑哲学の根本課題の一
つである時間論との相関関係において美を論ずることは︑近代美学では最も重要なテーマの一つとなっている︒
この問題に関しては︑すでに別の機会に書いているので︑詳論は避けるが︑そもそも時間は︑永遠と瞬間という二
つの極限概念の交点において考えられるものである︒このことは︑洋の東西を問わず共通しているように思われる︒
たとえば︑前号でも指摘したように︑プラトンは時間の成立を次のように語っている︒宇宙万有の造物主︵デミウ
ルゴス︶はまず︑﹁常にあるところのもののうちでも最もすぐれたもの﹂によって︑この万有の身体をつくった︒
このときはまだ時間もなければ︑すべての生き物もつくられていなかった︒やがて造物主は︑それが永遠の神々の
﹁喜び︵β︒ひq舟手餌︶﹂となっていることに満足して︑﹁なおいっそう永遠の原型に似たものに仕上げようと努めた﹂︒
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そして﹁何か永遠を写す動く画像︵①涛oP:⁝臨p98梓ぎp巴︒口︒ω︶﹂とでも言うべきものをつくろうと考え︑﹁一
のうちに静止している永遠を写して︑数に即して動きながら永遠らしさを保つ︑その像をつくったが︑この像こそ︑
まさにわれわれが時間︵閑ぼ︒ぎω︶と名づけてきたものである﹂︵℃耳︒p目目白︒ρ︒︒刈9︒出.プラトン﹃ティマィオス﹄
種山恭子訳岩波版四七頁︶という︒
ここに語られている時間は︑あきらかに︑宇宙の生成︑変化︑運動の根源的必須条件としての時間である︒たと
えばプラトンが﹃パルメニデス﹄で語っているように︑一にして全なる存在は︑無限で︑始めもなく終りもなく︑
あらゆる運動の仕方において不動で︑静止もしなければ動いてもおらず︑時間を分有することも時間のうちにある
こともない︒︵℃螺8・剛霞ヨ︒巳幽︒ω・H︒︒刈占自しつまり︑運動のないところには時間はありえないのである︒要するに
時間とは︑永遠に区切りをあたえ︑無規定なものの規定を可能にするもの︑いわば計測の尺度︵︼B①需O昌︶ である
というのが︑ギリシア人のいだいていた典型的な時間観念であり︑プラトンやアリストテレスの時間論もその例外
ではなかった︒
一方日本語においても︑﹁とき﹂の語が︑﹁とこ︵常11永遠︶﹂と﹁とく︵疾−一瞬間︶﹂との交錯において成り立っ
ていることは︑ほぼまちがいのないところであろう︒︵樫山欽四郎﹃哲学概説﹄一七九頁︶
ところで︑こうした永遠と瞬間という極限概念が︑人間存在にとっていかなる意味を持つものであるかを考える
とき︑われわれは︑﹁とき﹂の問題がいかに重要であるか︑と言うよりもむしろ︑﹁とき﹂を語ることは︑とりもなおさ
ず︑人間存在をその最も根源的な条件において問うことであることに気づく︒人間にとっては︑みずからの有限性
の自覚において︑考えないではいられない不可避的問題として提示されるのが︑無限︵永遠︶の問題だからである︒
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瞬間の美学への試論
いずれにせよ︑瞬間と永遠との交錯において考えられる﹁とき﹂の問題は︑有限と無限との相関関係を︑みずか
らの存在の根源的条件とする人間にとっての最高の問題︑言ってみればそれは︑最も根本的な真理を問うこと︑最
も深い実在をたずねることにほかならないのである︒
一方﹁本源の美﹂を問うたプラトン以来︑美学の問い続けてきた究極の価値としての美も︑こうした最も深い実
在の一つの姿にほかならないことは︑もはやあきらかであろう︒私がたえず念頭に置いているのは︑このような美
の時間論的背景である︒ただこうした見解は︑前号でも指摘しておいたように︑プラトンやアリストテレスにおい
ては︑直接に相関的に語られているわけではない︒前号でのプラトンの検討においても︑その美質と時間論との明
確な関連づけは︑当然のことながら不可能であった︒にもかかわらず︑あえてここでふたたび.アリストテレスにつ
いて︑同じことを問おうとするのは︑たといアリストテレス自身が︑明確にその関連を指摘してはいないとしても︑
前述の理由から︑この両者の間には必ず深いかかわりがあるはずであり︑そこに近代美学に見られる緊密な相関関
係を類推することが︑必ずしも無謀な企てとは思われないからである︒
たしかにプラトンの語っている時間は︑デミウルゴスによってつくられた時間︑無規定なものの規定を可能なら
しめる︑客観的な尺度としての時間︑運動とのかかわりにおいて考えられる︑出来事と出来事とのあいだの関係を
示す相対的時間である︒そこには内的︑主体的︑絶対的時間の見解はいまだ存在しない︒しかしわれわれは︑ただ
一つそこに︑時間にかかわるきわめて興味深い指摘を見た︒瞬間︵8Φ犀ω巴9ロΦω︶についての見解がそれである︒
運動と静止の接点において︑考えないではいられない奇妙なものであるが︑それ自身は運動でも静止でもなく︑も
ちろんそれ自身時間ではなく︑時間のうちにもないが︑時間はそれなしには考えられないのが瞬間である︒前号で
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は︑この﹁奇妙な時間﹂としての瞬間論には︑或る種の根源的なものへの指摘が含まれているのではなかろうかと
いう疑問を投げかけておいたが︑このことは︑これから検討しようとしているアリストテレスの時間論にも共通し
て言えるところである︒
時間を︑単に客観的な計測の尺度と解してしまうことによってわれわれは︑時間の本性の最も深い別の側面を
見失っているのではなかろうか︒いずれにせよ︑古来︑時間に対して深い問いを投げかけた思索家︵プラトン︑ア
リストテレス︑アウグスティヌス︶が︑いずれもこの瞬間の壁に直面しているという事実は重要である︒時間の深
い本性は︑このあたりに潜んでいるように思われる︒
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何はともあれ︑まず時間についてのアリストテレスの見解を聞いてみることにしよう︒時間に関してのまとまっ
た考察は︑﹃自然学﹄第四巻に見られる︒︵凄一ω8け︒δ幹勺ξω一8・一タ陶画凸卜︒雷困︒のの国α憲︒口・O民︒&アリストテレス
﹃自然学﹄出隆︑岩崎允胤訳岩波版一六四頁i一九〇頁︶
アリストテレスもまたプラトンと同じように︑そして一般にギリシア人がそう考えていたように︑時間は計測の
尺度の一種︑つまり﹁運動の︑および運動することそのことの尺度﹂と定義する︒もっとも︑そうは言っても︑時
間がただ単独に︑そのもの自体として存在するものであるというわけではない︒永遠と瞬間の接点として︑単純な
客観的把握をこえたその不可思議な本性を︑彼もまた常に念頭に置いていたようである︒
﹁時間の儲る部分はあったが︑今はもうあらぬ︒だが他の部分は︑まさにあろうとしているが︑なおいまだあ
らぬ︒﹂﹁時間はまったく存在しないのではないか?あるいは辛うじて︑またおぼろげに存在するだけではなかろう
瞬間の美学への試論
か?しという問いから彼の時間論は出発する︒たしかに﹁時間の或る部分はあったし︑他の部分はあろうとしてい
るが︑そのいずれの部分もありはしない︒﹂﹁しかも時間は︑無限の時間にしても︑任意に切りとられたそのときど
きの時間にしても︑これらから合成されている︒だが誰でも︑あらぬものどもから合成されたものが︑実在性を分
有するということは不可能なことと考えていよう︒﹂それではいったい時間とは何か?
時間の本性が︑単なる客観的なアプローチによっては把握不可能であることは︑以上の表現においても鋭く示唆
されているように思われる︒かと言ってアリストテレスに︑近代美学に見られるごとき︑主体の内的充実感として
の絶対的時間意識が語られているわけではもちろんない︒だがここでわれわれは︑プラトンのばあいに注意を喚起
しておいた瞬間の概念に対応するものとして︑﹁今︵8歪昌︶﹂という言葉に注目しておこう︒
ところで︑時間の定義を彼はどのようにしてすすめているのであろうか? ﹁経る人々は︑時間を全宇宙の運動
であると主張し︑黙る人々は︑天球そのものが時間であると主張している︒﹂だがこうした特定の対象は︑それ自
身時間ではない︒また﹁最も一般には︑時間は運動︵匠昌①の一ω︶であり︑一種の転化︵目︒雷び90︶である﹂とされ
ている︒しかし時間は運動そのもの︑転化そのものではないにしても︑﹁転化なしにはありえず﹂︑また﹁運動なし
に存在するものでもない﹂ことはあきらかである︒と言うのも︑﹁われわれは運動と時間とを一緒に知覚する﹂か
らである︒
それでは︑時間とは運動の何か? ﹁われわれが︵時がたった︶と言うのは︑運動における前と後の知覚をもっ
ときである︒﹂つまり︑﹁われわれがこれら両端の項を︑中間項とは異なるものどもであると思惟し︑︵今︶が前の
今と後の今との二つであると︑われわれのこころが語るとき︑われわれは︑これが時間であると言うのである︒﹂
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﹁時間とはまさに︑前と後に関しての運動の数︵鋤葺げ目︒ω︶︑⁝⁝すなわち︑ただの運動ではなくて︑数をもつも
のとしてのかぎりにおける運動である︒⁝⁝ただしそれは︑数えられるものとしての数であって︑われわれがそれ
を数えるところのそれとしての数ではない﹂という︒
﹁運動と時間とは︑互に他によって限定される︒⁝⁝すなわち︑時間は運動の数であることのゆえに︑運動を限
定し︑運動はまた︑逆に時間を限定するから︑⁝⁝われわれは︑ただ単に運動を時間によって測るだけでなく︑逆
にまた運動によって時間を測る︒﹂アリストテレスによれば︑これはちょうど︑数によって馬の多さを知るととも
に︑一頭の馬によって︑馬どもの数を知るのと同様の関係であるという︒われわれは︑散歩が長いとその道程が長
いと言い︑逆に道程が長いと散歩が長いと言うように︑運動の属性︵量性︑連続性︑可分癌性︶は︑同時に時間も
これを持っているから︑﹁時間も運動も︑ともに量eoω8︶であり︑連続的であり︑可分割的である︒﹂要するに︑
﹁時間は運動の︑および運動することそのことの尺度であって︑⁝⁝一方では運動を測るが︑⁝⁝他方運動にとっ
ては︑それが︵時間のうちにある︶ということは︑運動そのことも︑運動のあり方も︑ともに時間によって測られ
るということである︒﹂
以上は︑﹃自然学﹄第十章から第十四章にわたって書かれているアリストテレスの時間論の骨子を要約したもの
であるが︑結局定義としては︑時間も運動もともに量であり︑時間は運動の尺度とされている︒しかし注意しなけ
ればいけないのは︑ここに語られている時間が︑単にそれだけで存在する量や尺度として︑客観的︑対象的に考え
られているのではなく︑常に永遠と瞬間という︑客観的に対象として語ることの不可能なものとのかかわりにおい
て考えられているということである︒
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瞬間の美学への試論
永遠と瞬間との交錯に︑人間存在の根源的条件が見られるとするならば︑永遠と瞬間とのかかわりにおいてなさ
れる時間への問いは︑人間存在にとっての最も根源的なものへの問いを含んでいるのではなかろうか? われわれ
はプラトンにおいて︑そのようなけはいを多少とも感じたのであるが︑アリストテレスのばあいはどうであろうか?
プラトンにあっては︑永遠と瞬間とは︑ともに時間でもなければ時間のうちにもなかった︒すなわち︑永遠とし
ての一者は不変︑不動で︑静止も運動もなく︑したがって時間にかかわることなく︑時問のうちにもない︒︵コ彗8・
勺鋤.目︒昌達.9目鵯占畦︶また瞬間も︑それ自身では運動でも静止でもなく︑もちろん時間そのものでもなく︑時間のう
ちにもない︒︵一ぴ一山・Hα軌︶ところが﹁時間﹂は︑この二つの﹁時間でない奇妙な時間﹂なくしては考えられないという︒
プラトンが﹁永遠を写す動く似像︵⑦涛8⁝匹口①8聖目opoの︶﹂の名で語ったものが︑すなわち時間の真の姿である︒
その点アリストテレスではいつそう明快に︑時間は運動の数であり尺度であると定義されている︒ただしそれは︑
プラトンのばあいと同じく︑単に客観的にそうであるというのでなく︑きわめて根源的な条件とのかかわりにおい
てそうであることはさきに示した通りである︒アリストテレスの﹁今﹂の概念が︑プラトンの﹁瞬間﹂に対応する
ものであることも︑すでに指摘しておいたが︑ここでは永遠と瞬間︵今︶という︑それぞれともに時間でないも
のの相関関楚よ・て︑はじめて時間が成立する点に注意し魔・すなわち・﹁常に存在するものども︒永遠︶は・
常に存在するものどもとしてのかぎり︑時間のうちには存在しない︒﹂またすでに過ぎ去ったものでもなく︑まさ
に来ようとしているものでもなく︑現にあるものでさえないのが﹁今﹂であるとすれば︑アリストテレスにおいて
も︑常︵永遠︶と今︵瞬間︶とは︑それ自身としてはともに時間でも運動でもない︒しかしまさしく︑﹁この今に
よって区別されるものが時間﹂であり︑﹁この今が︑時間に前と後との区別があるかぎり︑そのかぎりでの時間を
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区別するしのである︒また﹁時間が連続的であるのは︑実に今によってであり︑時間が分割されうるのも今におい
てである︒﹂しかし︑﹁今どもが相互に接続的であることは不可能﹂であるから︑﹁今は時間のいかなる部分でもな
く﹂︑それが﹁或る限界であるかぎり︑時間そのものではない︒﹂
そして︑﹁もし時間が存在しないなら︑今は存在せず︑今が存在しないなら︑時間は存在しないであろう︒﹂また︑
﹁今は時間を連続させる︒というのも︑今は過ぎ去った時と︑来たらんとする時とを連続させるからであり︑また
時間の限界であるからである﹂という︒つまり︑﹁今は時間の終りでありまた始めである﹂と語られる︒
以上のごとく︑時間の不可思議な本性が︑永遠︵常︶と瞬間︵今︶とを介してまことに巧妙に分析されている︒
これは︑プラトン﹃パルメニデス﹄において展開されている瞬間論とほぼ同じ論旨であるが︑アリストテレスのば
あい︑その論述はいっそう精緻かつ巧妙である︒
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註︵1︶ 瞬間︵80犀の曽甘ず口Φω︶という語は︑アリストテレスでは次のように解されている︒﹁瞬間︵たちまち︑突然︶という
のは︑速いがために知覚されない時間のうちに前の状態から逸脱した物事について言われる︒そしておよそ転化は︑も
ともと物事の或る状態から他の状態への逸脱である︒﹂︵︾﹁一ωけOけO一〇ω ℃げ団ω一〇餌. NboNげ︶
ところで︑このような︑それ自身時間でない永遠と瞬間とが時間をあらしめるという見解は︑言葉をかえて言う
ならば︑永遠を今︵瞬間︶という﹁かぎり﹂によって区切ることである︒プラトンもアリストテレスも︑それぞれ
表現こそちがえ︑こうした区切りにおいて時間の成立を見ようとしているようである︒永遠それ自体は︑常にある
ものとして︑そこには転化もなく運動もなく︑したがって時間のなかにもない︒それに対して瞬間︵今︶とは︑永遠
瞬間の美学への試論
の対極としての極小の時間単位の概念というよりは︑言ってみれば線に対する点のごときもので︑むしろ﹁たちま
ち︵忽然︶﹂とでも呼ぶにふさわしく︑このたちまちは︑動が変じてたちまち静となり︑静が変じてたちまち動と
なるというような︑変化の理解のために考えられたもので︑こうした内容を考えないで︑ただの瞬間とだけ考えて
は誤解をまねくことになるという︒︵プラトン﹃パルメニデス﹄田中美知太郎三岩波版二五頁註3︶要は︑瞬間を変化の
契機として考えることであると言えよう︒
われわれは運動における前と後の知覚を持つとき﹁時がたった﹂と考えると︑アリストテレスも語っているよ
うに︑不変︑不動で無時間的な永遠のなかに二つの﹁今﹂が意識されるときに︑はじめて時間の観念が生まれる︒
ここで少し掘り下げて考えてみなければならないのは︑瞬間によって永遠を区切ると言うが︑いったい区切るもの
が時間なのか︑あるいは区切られるものが時間なのか︒さらに︑区切るものと区切られるものとの関係はどうかと
いう問題である︒もちろんこうは言っても前述のごとく︑区切るもの︵瞬間︶も区切られるもの︵永遠︶も︑それ
ぞれいずれかが単独に時間であるわけではない︒区切るものと区切られるものとは︑ここでは常に相関的に考えら
れている点に注目しなければならない︒
したがって︑区切るもの区切られるもののいずれが時間であるかではなく︑問題は︑区切るものの﹁はたらき﹂
の側面から時間を語ろうとするのか︑あるいは区切られるものの﹁現象﹂の側面から時間を考えようとするのかの
いずれかであって︑それぞれの立場によって︑時間の定義はちがってくるのである︒このように考えてくると︑プ
ラトンやアリストテレスの時間論は︑いずれの側に立ってなされたものであるかはおのずとあきらかであろう︒
無時間的な永遠に︑運動があたえられたもの︵永遠を写す動く似像ープラトン︶︑不動の永遠が︑複数の今に
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よって区切られたもの︵運動の数︑尺度ーアリストテレス︶を時間の定義として語っているプラトンとアリスト
テレスの見解は︑言うまでもなく︑瞬間によって区切られる﹁永遠﹂の﹁現象面﹂の客観的考察として語られてい
るのである︒主として時間の﹁ノエマ的側面﹂からの考察である︑という言い方もできるのではなかろうか︒もち
ろんこのばあい︑時間の﹁ノエシス的側面﹂である瞬間︵今︶の﹁はたらき﹂が︑常に相関的に考慮のなかに入っ
ていることは言うまでもないが︒
ここでわれわれは︑こうした時間のノエマ的側面からの考察の性格をいっそうあきらかにするためにも︑これと
は対照的な︑時間のノエシス的側面からの考察について考えておく必要がある︒時間についての見解で︑プラトン︑
アリストテレスのそれと対照的なものと言えば︑すぐさまアウグスティヌスの時間論を思いおこす︒アウグスティ
ヌスの時間論と織綾とのかかわりについては︑また別の機会に論じることにして︑ここでは︑彼の時間についての
基本的見解を問うにとどめたい︒
彼もまたアリストテレスのごとく︑時間の不可思議な性格の認識によってその考察を開始する︒少し長いがその
概要を引用しておこう︒
﹁いったい︑時間とはなんであろうか︒誰がこれをたやすく簡単に説明し去れるだろうか︒⁝・:時間ほど︑われ
われがそれを口にして思い浮かべうるのに︑容易で︑よく知られているものがあろうか︒しかもわれわれがそれを
口にするとき︑とにかく理解しているのである︒⁝⁝それでは︑時間とはなんであるか︒誰も私にたずねないなら
ば︑私は知っている︒もしもたずねる人があって︑答えようとすると︑私は知らない︒しかし︑私は信念をもって
次のことを知っていると言おう︒すなわち︑もしなにものも過ぎ去らなかったならば︑過去の時間はなかったろう︒
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瞬間の美学への試論
またもしなにものもやって来なかったならば︑未来の時間はなかったろう︒またもしなにものも存在しなかったな
らば︑現在の時間はなかったであろう︒それゆえ︑その二つの時間︑過去と未来はどのようにしてあるのか︒いつ︑
過去はもう存在しないのか︒また未来はまだ存在しないのか︒しかし︑現在がもしもつねに現在であって︑過去に
移り行かないとしたら︑それはもはや時間ではなくて永遠である︒それゆえ︑もしも現在が時間であるためには︑
過去に移りゆくから︑時間になるとするならば︑どのようにしてこの現在をも存在すると︑われわれは言えるだろ
うか︒現在が存在するための理由は︑それが存在しなくなるであろうからというのだからである︒つまり︑われわ
れが時間が存在すると本当に言えるためには︑時間が存在しなくなる傾向をもつからだという理由をあげる以外に
ないのではないか︒L︵︾口σq口ωけ冒ロρ08けω牲︒ロω.蟹占↑国虫梓δ肱︑ピ①ωしロΦ=oのド︒け零︒ω︑︑℃・o︒O◎︒村治即位︑今泉三良訳河出書房
版三〇こ頁︶
以上の論旨をさきほどのアリストテレスの時間論に比較してみるとき︑われわれは︑一見同じことを語っている
かのように見えながら︑実は根本的にその見解が対照的であることに気づくのである︒時間の矛盾した不思議な性
質についての考えについては︑ほとんど共通しているものの︑ここでは時間のノエマ的側面についてはまったく語
られていない︒時間が運動の数や尺度のような客体としては︑まったく語られていない︒ここで問われているのは︑
時間とは何かということであるよりもむしろ︑私にとって時間とは何かということである︒区切られるものよりも︑
区切る主体の﹁はたらき﹂がより多く問題になっているのである︒
アウグスティヌスの言う時間とは︑もはや対象として量的に語られる時間ではない︒把握しようとしていかにし
ても把握できない︑根源的矛盾をはらんだ時間︑そしてそのような時間を常に考察し続けていることにおける一種
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の内的充実感︑﹁今﹂をおいて他に﹁とき﹂はあらずとする自覚こそが真の時間である︑と語っているようである︒
彼の言う﹁現在﹂とは︑まさにこのようなものとしての時間にほかならない︒﹁そこに未来としてあるならば︑そ
こにはまだ存在していないのだ︒他方︑そこに過去としてあるならば︑すでにそこには存在していないのだ︒それ
ゆえ︑どこに存在するにしても︑またそれが何であるにしても︑現在として以外には存在しない︒﹂︵塗g×=︒︒.
戸q︒HN.前掲書︑三〇五頁︶
アウグスティヌスによれば︑こうした﹁現在﹂の意識こそが時間であり︑これをおいて他に時間はない︒それが
根源的矛盾のうえに語られるという点からすれば︑スピノザが﹁実体﹂に関していみじくも表現したように︑あら
ゆる規定が否定となる︵o§巳ω島Φ8N郵貯鋤鉱◎oω件昌Φσq緯一〇︶ような︑絶対に規定できないものとしての︵Φご︒・pげω・
oぼ8ぼ傷簿興騒げ雲霞︶性質を持つのがすなわち時間である︒また︑こうした﹁とき﹂の意識は︑デカルトの﹁コ
ギト︵ooσq一8︶﹂と親密な血縁関係にあるようにも思われる︒プラトンやアリストテレスの時間論が︑ギリシア思
想の基本的性格を反映してか︑もっぱら時間のノエマ的側面からのアプローチであったのに対して︑アウグスティ
ヌスのこの時間論は︑一貫してノエシス的側面に沿って展開されており︑これは︑歴史的な時間の流れのなかに︑
永遠とともに神が到来する一瞬の時熟の瞬間に時間の真の姿を見ようとする︑ユダヤ教やキリスト教の終末論的時
間観を受けついだものであることはあきらかである︒
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以上プラトン︑アリストテレスの時間論にアウグスティヌスの見解を交えながら︑時間論の本質について考えて
みたのであるが︑それによって︑時間とは人間存在の根源的条件に発する最も本質的な観念であって︑時間を問う
瞬間の美学への試論
ことは︑とりもなおさず︑人間をその究極の状況において問うことになることがあきらかとなった︒このような重
要な問いとして︑古来多くの哲学者が独自の時間論を語っているが︑それぞれその定義としての表現は千差万別で
ある︒しかしこれは︑各人の時間についての根本的見解がそれぞれに異なっているからというよりはむしろ︑時
間を︑﹁定義として﹂いかに言いあらわすかという表現のちがい︑拠って立つ基盤のちがいに起因するものと思わ
れる︒かくしてわれわれは︑﹁とき﹂の﹁姿﹂に考察の基点を置く立場と︑﹁とき﹂の﹁はたらき﹂に基点を置く立
場を考え︑前者にプラトン︑アリストテレスの時間給を想定し︑後者にアウグスティヌスのそれを想定し︑前者は
いわば時間のノエマ的探究であり︑後者はノエシス的探究であると区別してみたのであるが︑この見解の当否はな
お今後の検討に待たねばなるまい︒差し当ってわれわれは︑このような見解においてとらえられた時間論が︑それ
ぞれの思想家の美論といかにかかわり合っているかの検討を進めねぽならないであろう︒
以上の考察を背景に︑最後にアリストテレスの詳論について考えてみよう︒プラトンとともにアリストテレスも
また︑﹁美的なもの﹂についての貴重な考察を沢山残している︒とりわけわれわれにとってきわめて重要な点は︑
プラトンの言論が︑どちらかと言うと美的なものの本質論︑美そのものについての形而上学的考察がその中心とな
っており︑美的なものの創造の原理についてはあまり語られていなかったのに対して︑アリストテレスのばあいは︑
その博論が︑美の本質についての形而上学的考察であるよりは︑より多く美的価値創造の理論であることである︒
美学の源流をプラトンに見出しうるとするならば︑アリストテレスはまさしく芸術学の祖と言うべきであろう︒
この点から見て最も重要な著作は︑言うまでもなく﹃詩学﹄である︒現存の著作は︑詩の一般論にはじまり全二
十六章より成っているが︑内容のほとんどは悲劇論である︒後半の喜劇論が後世において散逸してしまったと考え
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られている︒それはともかく︑まずここではその最も重要と思われる見解を︑いくつか指摘してみよう︒
まず︑悲劇はもちろん︑喜劇︑叙事詩その他詩のすべては︑﹁模倣の様式︵巨旨①ω①一ω︶﹂︵︸.響曾︒一⑦ω・℃︒︒膏p
Φ陛8匹げ同ψ閏・切暮︒ゲ①μお㎝ドH窟刈P℃.卜︒Oアリストテレス﹃詩学﹄松浦嘉一訳岩波版五七頁︶であるとされ︑プラトンに
おいてはきわめて低い評価しかあたえられていなかった模倣︵日一目Φω芭というはたらきに︑新しく重要な意味が
付与される︒模倣は単なる物真似ではなくむしろそれは︑観る人の個性を通して対象を再現させるはたらきであっ
て︑芸術の創作とはまさにこのはたらきを言う︒﹁対象をちがえて模倣することによって︑別個の芸術が出来上る﹂
(凶ー乙・一同.H霧国・℃.H9削掲書エハ○頁︶という言葉は︑芸術の本性を鋭く指摘している︒同じノートルダム寺院を︑ マ
チスが描けばマチスの芸術が生まれ︑ピサロが描けばピサロの芸術となる︒こうして描かれたノ:トルダムは︑必
ずしも仕上げの良いカラー写真のごとき精巧さはなくとも︑それ以上の﹁芸術的感動﹂をわれわれに喚起する︒こ デフォルマシオンのばあい模倣とは︑模写でもなく写実でもなく︑個性を通しての再現であり︑むしろ変形でさえある︒
イマジナシナン レアリザシオソ 芸術作品創造の原動力と考えられている想像力が︑対象の正確な模写による実現ではなく︑むしろ対象の歪曲
イルレアリザシオソであり︑非現実化であるとする近代芸術学の基本的な見解が︑すでにアリストテレスにおいて示唆されているのであ
る︒この問題は︑後述する詩人と歴史家との対比の問題とともに︑時間論に深くかかわり合っているように思われる︒
さきにプラトン︑アリストテレスーギリシア的時間解釈と︑アウグスティヌスーキリスト教的時間解釈を対照的
に語っておいたが︑前者は︑区切られた永遠の現象としての姿をもっぱら表現し︑計測できる数︑量︑尺度として
時間を扱い︑後者は区切る側の主体的なはたらきを常に意識し︑そこに感じる一種の内的充実感に裏付けられた時
間をもっぱら問題にする︒ただしこのいずれの立場も︑それぞれの対極の立場を常に考慮に入れたうえでの見解で
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瞬間の美学への試論
あることは︑すでにしばしば指摘したところである︒
時間のノエマ的側面への配慮を強調する前者の説く時間は︑正確に持続し推移する時間︑物理的︑計測的︑歴史
的時間であるとすれば︑ノエシス的なアプローチによって主張される後者の時球は︑いわば主体の一瞬の内的充実
によって実現される時間であって︑そこには前者に見られる物理的︑計量的正確さは存在せず︑合理的な因果法則
の塒外にある︒芸術創作のいとなみにおいて︑美的価値が生み出される場は︑このいずれの時間のはたらく領域で
あるかは︑もはやおのずとあきらかであろう︒
﹁詩人の仕事は︑実際におこったことを描くのでなく︑おこりうること︑すなわち︑蓋然︵8Φ幹︒ω︶︑もしく
は必然的に可能なこと ︵8曽昌印σq閃巴︒ロ︶ を描くことである︒⁝⁝歴史家と詩人との差別は︑韻文と散文との差
別にあるのでなく︑ 一方は実際にあったことを描き︑他の一方はありうることを描く点にある︒:・⁝詩は普遍性
︵犀騨什げ○一〇づ︶を描き︑歴史は個別性︵げΦ評pω8づ︶を描く︒﹂︵量ユ﹂×・一ホ冨占も・ω心前掲書七六頁︶さきほどの模倣の エステティック原理と同じく︑ここでもまた芸術︵詩︶の本質が示唆されており︑同時に︑﹁美的な世界﹂とは︑日常の物理的︑
自然的︑歴史的諸法則とはまた別の法則の支配する場であることが暗示されているのである︒
﹁詩人は︑実は可能だがとうてい信じられない出来事よりも︑むしろ︑実は不可能だが本当にありそうな出来事
の方を選ぶべきである︒﹂︵凶ぼ9×著く・犀8曽も・逡前掲書=七頁︶﹁政治学ならびに他の学術において正しいものが︑
必ずしも詩においては正しくない︒﹂︵葦F×図タH参︒σら・㊤︒︒前掲書二九頁︶﹁われわれは︑詩の目的にそうために
は︑ありそうにも思えぬ可能事よりも︑むしろ︑ありそうに思える不可能事を選ぶべきである︒﹂︵筐α・××<・置臼σ・
戸目OO前掲書 二四頁︶
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以上の引用もすべて︑詩︵芸術︶の本質に関する的確にして鋭い指摘である︒詩︵芸術︶の世界は︑自然的事実
の世界ではないこと︑そして政治学ならびに他の学術︵一般に科学と呼ばれているもの︶の方法は︑美的なものの
探究には通用しないこと︑あるいは科学的真理は︑必ずしも美的価値に合致するものではないことなどを︑われわ
れはこれらの簡潔な表現のなかに︑はっきりと読み取ることができるであろう︒
以上︑アリストテレスの時間論と美論の骨子を︑主として﹃自然学﹄と﹃詩学﹄からの引用によって概説したま
でであるが︑最初にも指摘しておいたように︑この両論が︑相互に関連づけられて書かれている肝癌はどこにもな
い︒しかし︑それにもかかわらず両者のあいだには︑その根底において深くかかわり合っている緊密な関係のあり
そうなけはいだけは︑予示しえたと考えている︒この予示が︑それほど見当違いではないものなのか︑あるいはと
んでもない見当外れであるのかは︑もちろん今後の検討にゆだねられるべぎ問題ではあろうが︑ただ次のことだけ
は︑それとは別に︑きわめて確実なこととして指摘しておくことができるであろう︒すなわち︑時間の検討は哲学
の最も根本的な課題の一つであって︑それによって同時に︑人間存在の根源的条件が問われる可能性が生まれ︑そ
のとき考察する時間は︑常に相関的にかかわり合っている二つの根源的な立場−自然的︑物理的︑分析的立場と︑
美的︑超越的立場一から定義され︑表現される︒しかし一方︑美的なものの世界とは︑それは想像的なものであ
るがゆえに︑物理的︑分析的立場によりは︑よりいっそう超自然的︑直観的な場に根ざしているということであ
る︒このことをアリストテレスにおいて的確に指摘することは︑まだ必ずしも充分に可能であるとは言えないにし
エステティックても︑時間論によって︑美的なものについてのその人の見解を占うことは︑充分に可能であるように思われる︒
︵一九七五年十月二十日︶
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