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離散と抵抗:ズデーテン・ドイツ社会民主党亡命組織 (5)

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(1)

離散と抵抗:ズデーテン・ドイツ社会民主党亡命組織 (5)

相馬 保夫

はじめに

1.

戦争勃発後の状況

1.1.

イギリスの戦争目的

1.2.

亡命政策の指針

2.

国家再建か連邦制か

2.1.

ホルムハースト宣言

2.2.

ベネシュの覚書 小 括

はじめに

1938

10

月から

1939

3

月にかけて,ズデーテン地方のドイツへの割譲およびドイツによ る残部チェコの占領と「ボヘミア・モラヴィア保護領」の設立によって,チェコスロヴァキア・

ドイツ人社会民主労働者党の指導者たちは,イギリス,フランスや北欧諸国,カナダなどに亡 命し離散することを余儀なくされた。プラハからかろうじて脱出した党議長ヤークシュらの指 導部がロンドンでズデーテン・ドイツ社会民主党亡命組織として再発足し,抵抗活動を行う体 制を整えたのは,ようやく

1939

5

月のことであった。しかし,彼らの活動は当初からさまざ まな困難に突き当たった。チェコスロヴァキア元大統領で亡命したベネシュとの最初の話合い は,両者の意見の食い違いから平行線をたどった。ドイツ人社会民主労働者党の亡命者の間で も,党指導部がとるべき政策をめぐって方針の対立が明らかになった。

一方,ヤークシュがこの時期に期待をかけていた国際的な社会主義者の連携は成立しなかっ た。プラハからパリに拠点を移したゾパーデ(ドイツ社会民主党亡命指導部)は,オーストリ アの革命的社会主義者による組織「再結集」の試みに同調せず,ヤークシュの連邦構想に対し て「大ドイツ主義的」であると厳しい態度をとった。社会主義者の国際組織である社会主義労 働者インターナショナルは,戦争の危機に直面して意見が分かれ,一致した態度を表明できず,

組織の存続さえ危ぶまれる状況に陥っていた

[

相馬

2008]

1939

9

月,ドイツ軍のポーランド侵攻によって第二次世界大戦が勃発すると,ナチ・ドイ

(2)

ツとの闘いは,ドイツ人やチェコ人,ポーランド人の亡命者だけでなく,彼らが身を寄せたイ ギリスやフランスにとっても共通の目的となった。ヤークシュやベネシュが亡命活動を進める 上で,世界大戦の戦況,本国でのナチの占領体制およびそれに対する抵抗運動の進展とともに,

亡命先での受け入れ状況,とくに政治活動の自由や西欧諸国の対独政策が活動の成否に大きな 影響を与えるようになった。

ベネシュは,本国の抵抗運動と連絡をとりながら亡命活動の主導権をとろうと,イギリスや フランスの政府に亡命政府の承認とミュンヒェン協定の無効を訴えていく。ヤークシュは,ミ ュンヒェン協定以前のチェコスロヴァキア共和国の再建ではなく,連邦制による中欧再編プラ ンを掲げて亡命活動を本格化させていく。

本稿は,

1939

9

月の戦争勃発から

1940

年夏のフランス降伏,イギリスによるチェコスロ ヴァキア亡命政府の承認に至る前までの期間を,ズデーテン・ドイツ社会民主党亡命組織の活 動を中心に取り扱う。ドイツとソ連,中欧地域に対するイギリスの戦争目的政策が確固たるも のになる以前のこの「奇妙な戦争」期,戦争の帰趨は未確定でヤークシュにはまだチャンスが あるように思われていた。

1. 戦争勃発後の状況

1939

9

10

日,ドイツ軍のポーランド侵攻に抗議してパリのゾパーデは,「ドイツ人民 へ!」という呼びかけを発し,「平和と人類に対する恐るべき犯罪の全責任は,ヒトラーとその 体制にある」として「ヒトラーの打倒」を「われわれがヨーロッパのあらゆる民主的勢力とと もに闘いとる目標である」と宣言した

[

相馬

2007

: 334f.]

1)。ヒトラーを倒すための闘争は今 や,反ナチ抵抗運動を担う社会主義者たちだけでなく,ヨーロッパの民主的政府および政治的 諸勢力と連携して行う共通の目標となった。ここでは,ドイツ・中欧の社会主義者にとっても,

ヤークシュとベネシュにとってもきわめて大きな意義をもつことになるイギリス政府とイギリ ス労働党の戦争目的政策を概観した後で,ズデーテン・ドイツ社会民主党亡命組織の「亡命政 策の指針」をとりあげる。

1.1. イギリスの戦争目的

ヒトラー政権が成立した後,迫害から逃れたドイツ人亡命者の多くが向かったのは,政治活 動が比較的容易とされたフランスであり,首都パリは,社共の「統一戦線」,「人民戦線」の動 きの中心となった。これに対し,イギリスは,戦争勃発直前まで亡命者の受け入れを厳しく制 限しており,労働力が不足した職業分野での個別の入国許可を除けば,亡命者を受け入れる場 合にも再移住を前提とし,職業活動を禁止していた。それでも,受け入れ人数はしだいに増えた。

(3)

とくにドイツによるズデーテン併合,残部チェコの占領の後,多くの民間団体が亡命者の支援 に乗り出した。イギリス側の受け入れ機関として設立された「チェコスロヴァキア難民委員会」

1938

9

月設立,

1940

7

月「チェコ難民信託基金」に改称)をとおしてイギリスに亡命し

た者は,

8,000

人から

1

万人にのぼった。その内訳は,チェコ人・スロヴァキア人

3,500

人,ズ

デーテン・ドイツ人

2,000

人,ドイツ本国人

850

人,オーストリア人

475

人などだったが,そ こから海外自治領などに再移住した者も多かった

[Handbuch 1998: 213-270; Röder 1968: 21-24;

Heumos 1989: 28-86]

。イギリス政府は政治亡命者の動向に神経を尖らせると同時に,とくに外

務省を通じて亡命指導者と連絡をとり,情報収集に努めるようになった。

1939

9

3

日,ヒトラーのポーランド侵攻に対して,イギリスとフランスはドイツに宣戦 布告した。イギリス首相チェンバレンは下院での演説で,「今日は私たち全員にとって悲しい日 ですが,私ほど悲しい者はいないでしょう」と述べ,ヒトラー政権が打ち倒され,解放された ヨーロッパが再建される時に期待を託した

[Dokumente 1984: 4]

。だが,ドイツの強力な軍事力 に防戦したポーランドは,軍事的支援を得られないままわずか一ヶ月ほどで降伏する。

9

30

日,パリにシコルスキを首相とするポーランド亡命政府が結成され,すぐに英仏政府によって 承認された。宣戦布告はしたものの,この後,

1940

年春のヒトラーの攻勢まで英仏政府にとっ ては戦闘が行われない「奇妙な戦争」の時期が始まる。

チェンバレン首相の対独「宥和政策」は水泡に帰したものの,イギリス政府は,フランスや その他の諸国の要請にもかかわらず,ヒトラー政権の打倒と平和の回復という以上の戦争目的 を公表することを避けた。ナチとヒトラーをドイツ国民とは厳格に区別し,できるなら軍事行 動を避けてドイツの抵抗勢力によるヒトラー政権の転覆に期待をかけるというのが,この時期 のチェンバレン首相の方針であった

[Tyrell 1987: 5; Kettenacker 1977, 51 -59; Dokumente 1984:

XI-XIX, 10]

。だが,ミュンヒェン会談に始まるイギリス外交の失態によって,また独ソの連携

による戦争の帰趨がはっきりしないことから,政府が確実に打てる手が限られていたことも確 かである。

そうした状況をよく表しているのは,イギリスの世論でも戦争目的の論議が始まりつつある 中,外務省内で行われていた議論である。

1939

10

31

日付で外務次官補ストラング(

William

Strang

)が記したメモは,戦争目的に関するフランス政府覚書への回答を準備するためのもの

で,この時期の政府内での関心のありかをうかがわせる

[Dokumente 1984: 47f.]

ストラングはまず,「われわれは,ドイツの挑戦に対して世界でのわれわれの地位を守るため,

ヨーロッパに平和と自由を確立し,西欧文明を防衛するために闘っている」と述べ,主たる戦 争目的として,ドイツを敗北させ,ドイツが二度と平和を撹乱する力をもたないようにするこ とを挙げた。ただし,敗戦後のドイツに対する政策は,前の大戦後のような過酷な講和方式と

(4)

は異なり,攻撃力は剥奪するが自衛力は維持させる,全般的軍縮は日本とロシアの協力,ドイ ツの西欧システムへの復帰を待って行なわれる,ポーランドとボヘミアへの一定の現物補償を 除けば賠償も課さない,という緩やかなものであった。

戦後の領土に関する取り決めは,「ロシアの再登場」のため今から予見することはできない。

ドイツがポーランドから引き上げれば,ロシアが介入するだろう。それでも西欧諸国にとって は,近い将来,ドイツがポーランドに居座るよりは,ロシアがそれに代わることの方が危険性 は少ない。というのも,ドイツの敗北後に東欧について定められる領土の取り決めは,おそら く「西欧諸国が支配できる範囲」にないだろうからである。このようにストラングは,ドイツ 敗北後のポーランドがソ連の影響下におかれることを予想した。しかし,メモの後段ではそれ とは一見矛盾する戦後のドイツ・中欧の再編策が構想される。

講和を結ぶとすれば,ドイツがボリシェヴィズムに転向し,ロシアと密接な関係を結ぶとい う危険を避けるために,「非ナチのドイツ」が最良の解決法だという。ドイツは,弱体化させら れるが壊滅されず,東欧における領土と影響力をロシアに明け渡し,西欧を防衛するため英仏 伊と四カ国協定を締結する。戦時の経済分野での英仏の密接な連合は,平時にはドイツとイタ リアを含むものとなる。こうして,西欧諸国と協力関係にあり,ソ連を牽制できるヒトラー後 のドイツが考えられた。

ストラングの構想ではさらに,中欧とバルカン半島は「西欧システムの前哨基地」として一 つか二つの政治的・経済的な連邦制に組織され,トルコもそれに組み込まれる。ボヘミアを中 欧グループに加えることは可能であろうが,ポーランドの将来はまだ不確かである。ドイツの 崩壊後,ポーランドは,ロシアが影響力をもち完全に占領してボリシェヴィキ化されるか,そ れともロシアがバルト諸国と結んだのと同様な同盟関係に入れられるかであろう。

このようにストラングのメモは,ドイツの敗北と寛大な講和を予測するとともに,ソ連に対 する警戒心から「非ナチのドイツ」を西欧システムに結びつけ,中欧・バルカンにそれを補完 する連邦制を結ばせるという興味深いプランであった。メモは,ドイツの敗北を第一の戦争目 的に掲げながら,同時にその決定的な弱体化をめざすものではなく,かえって西欧システムへ の組み込みを想定していた。さらにそれは,ヒトラー後のドイツよりもソ連の共産主義に対す る警戒心を露わにしており,非ナチ化されたドイツおよび連邦制を結ぶ中欧・バルカン諸国に ソ連を牽制する役目をあてがうことを予測していた。

メモは,ヒトラーとドイツ国民とを峻別し,早期に戦争を収拾したいというチェンバレン政 府の戦争目的に適合的であった。だが,同時にそれは,力による勢力均衡を想定し,中欧・バ ルカン地域に対するイギリスの中・長期的な構想を示唆するものでもあった。この時期,ヴェ ルサイユ体制下の国民国家システムの不備,国際連盟による平和維持の失敗を繰り返さぬため

(5)

の方策として,連邦を結ぶ可能性が様々な方面から議論されていた。

1940

年から

41

年にかけ て,イギリスが単独でドイツに立ち向かうようになると,中東欧・バルカン地域の連邦制の構 想が政府や外務省のプランから浮かび上がってくることになる。

ストラングのメモは,「ヒトラー政権の打倒」という当面の目標をこえて,ヒトラー後のドイ ツの処遇と西欧システムの再建,中欧・バルカン地域の将来像を手探りしつつあった外務省内 での議論を下敷きにしていた。メモは,

11

8

日付のフランス政府覚書に対するイギリス政府 の回答案の基礎の一つになった。そこでは,ドイツと中欧の将来については今後の協議に任せ ることとされ,ポーランドとチェコスロヴァキアの独立の回復という当面の目標をこえた領土 問題の詳細な議論に入ることは時期尚早であると斥けられた

[Dokumente 1984: 54-56]

チェンバレン政府が戦争目的の詳細な議論に立ち入ろうとしなかったのに対し,戦時内閣へ の入閣を拒否し,政府への批判を強めていたのは,野党の労働党であった。とくに党首アトリ ーは,労働党がこれまで「理不尽な攻撃に反対し法の支配に賛成する確固たる立場」をとって きたことを強調し,ドイツに対する「カルタゴの講和」ではなく,民主化されたドイツを含み 大小の国民が共存できる「新しいヨーロッパ」国際秩序の建設と「世界規模での大胆な経済計 画」を訴えた

[Dokumente 1984: 32f., 57-66]

1940

2

9

日,労働党は自らの「講和目的」を発表した。それは,起草した下院議員ドー

ルトン(

Hugh Dalton

)によれば,公の議論で党が主導権を保ち,党員が共産党や平和主義者

の宣伝に惑わされないようにするとともに,「ドイツにおける反ナチ分子を鼓舞する」ためのも のでもあった。そこではとくに,「ヒトラー体制の打倒」が「社会的公正,民主的自由の維持と 拡大,自由な人民の平和的国家の建設という労働党の綱領を達成するのにきわめて重要である」

とされ,党が連合国の戦争目的を支持することが表明された。ただし,講和が「名誉ある講和」

となることがドイツ国民に知らされれば,戦争の短縮につながる。「民主主義の勝利」は,「武 器か経済的圧力か,それとも――いっそうよいのは――ヒトラー政権に対するドイツ国民の勝 利と新しいドイツの誕生か」によられなければならない。さらに,ポーランド,チェコスロヴ ァキアの国民には自由の回復,オーストリア国民にはドイツ国家の枠内にとどまるかどうか自 由に選ぶ権利が認められ,民主主義と社会主義に基づく「新しい世界秩序」が構想された

[Dokumente 1984: 112-116; Burridge 1976: 42-47]

労働党は,政府に批判的な姿勢をとりつつ,政府の戦争目的政策をこえぬ範囲内で自らの要 求を定式化し,支持者をつなぎとめようとするとともに,ドイツ人の反ナチ抵抗運動に期待を かけた。それによって,ドイツやオーストリア,ズデーテン・ドイツの社会主義者が労働党と の提携を模索していたことに対応したのである

[Cf. Brooke 1992, 34-56; Glees 1982, 29-42]

2)

(6)

1.2. 亡命政策の指針

ベネシュと対抗するため,ヤークシュはこの時期,イギリス外務省と労働党への働きかけを 強めていた。

1939

5

月の亡命組織発足の後の困難な状況について彼は,

10

23

日の党執行 部会議の席上で真情を吐露した3)

「私は戦争勃発前に事態を過小評価していました。今や党は危険にさらされています。私 たちは,はっきりと責任を定めなければなりません。ベネシュが戦争勃発後すぐに政府を宣 言するという前提は的中しませんでした。彼はイギリス人と困難を抱えているだけでなく,

オススキー(

Štefan Osuský

)とも困難を抱えています。私たちが排除されるかもしれないと いう恐れも古臭くなりました。極秘で報告しますが,私はイギリス外務省にとりあえず口頭 で繰り返し,私たちのことを無視して決定が行なわれるのなら耐えられないと説明しました。

イギリス側は先取りする気はありません。もし彼らがロシアの危険に配慮して強力なドイツ を望むのなら,私たちは見捨てられるかもしれません。

故郷ではあらゆる根拠から人々の感情はひどく反プロイセン的になっており,共和国のよ い面への追憶が呼び覚まされています。チェコ人のドイツ人嫌いが増大していることは深刻 な危険です。

実際に起こったことをきっぱりと否認するとしたら,それはまったく誤りでしょう。私た ちは,チェコ人による拒否の後で私たちの行動の自由を回復するために自治の要求をはっき りとさせなければなりません。」

ヤークシュにとって,とりわけ深刻だったのは,徴募が始まっていた軍への入隊問題および チェコスロヴァキア亡命指導部との関係であった。すでに党指導部は,亡命指導部とズデーテ ン・ドイツ人問題での合意がなければ,チェコスロヴァキア軍ではなく,イギリス軍への自発 的入隊が優先されるという立場を党員・支持者に表明していた。その際,ヤークシュが重きを おいていたのは,「州政府を有するズデーテン・ドイツの自治」に基づく「連邦国家」の構想で あった

[Vondrová 1994: Nr. 13, 30f.]

10

月末,ヤークシュはベネシュと話し合う機会をもつが,その報告の中で,「話し合いは,

われわれとチェコ人外国指導部との関係を友好的に明確にするためのもう一歩を意味します」

と書いた。それによると,彼はベネシュ側に,国際情勢が不確かな中で,「ミュンヒェン以前の 国境線でのチェコスロヴァキア国民国家の無条件の再建に賛成する声明を発することはできま せん・・・。われわれの課題はむしろ,故郷での意見が有利に展開することを妨げず,ズデー テン・ドイツ人が主体として来るべき国政的決定に組み込まれるよう準備することです」と伝

(7)

えていた4)

そのような経緯から党指導部は,ベネシュとの今後の交渉の基礎となる「亡命政策の指針」

1939

年末にまとめた

[Vondrová 1994: Nr. 14, 31-34]

5)。指針は,ヤークシュが

1939

年春から 夏にかけて執筆した未完の覚書「ヒトラーの後で」の構想

[

相馬

2007: 161-164]

に依拠しなが ら,それを修正したものであった。

指針はまず,「中欧における民主的社会主義の再生の前提は,ナチ政権の倒壊およびその権力 政治的・イデオロギー的な基礎の同時的な破壊である」と述べ,党創設者ゼーリンガー(

Josef

Selinger

)を引き合いに出して,「われわれは,諸民族和解的な社会主義の精神で自決権が適用

されるために闘う」と決意を表明した。その上で,ズデーテン・ドイツ問題について,ミュン ヒェン協定以前の体制ではなく,「民主的な形態での新たな国家創設を準備しようとするなら,

ズデーテン・ドイツ住民の代表者を招聘し,新国家の国境線,構造,内容に関わるあらゆる問 題を自由な協定の方法で解決する」ようチェコスロヴァキア側に呼びかけた。そして,「ズデー テン・ドイツ人の特殊な生活利害が,中央集権的な大ドイツにおいても,新しい中央集権的な チェコスロヴァキアにおいても効果的に守られない」が故に,領域的・人的自治に基づく「連 邦制原理」の採用を要求した。それは,「自治を有する地方政府の形態での行政的中心」をもち つつ,孤立したドイツ人地域については「人的自治」を適用するというもので,「言語地域の行 政区画がとりわけ交通技術的な理由で不可能ないくつかの箇所でのみ,住民交換が考慮される」

はずであった。

ヤークシュはここで,党内からもゾパーデからも「大ドイツ主義的」として非難された「内 陸ヨーロッパ連邦」構想ではなく,最初のベネシュとの話合いで持ち出したいわゆる「第

4

次 プラン」の線でドイツ人地域についての領域的・人的自治の解決を提案したのである。彼も意 識していたように,「犯罪的なゲシュタポのやり方がチェコ国民に引き起こした感情的な反応」

から,「民族自決」に基づくドイツとの連邦制の計画は支持を得られなかった。ここではむしろ,

その代わりに,「中欧の新秩序の枠組み内で生活可能な経済地域の創出」が「われわれの課題」

であると主張され,「オーストリア,ハンガリー,ポーランド,ルーマニアの住民が自発的に,

チェコ人,スロヴァキア人,ズデーテン・ドイツ人との大規模な連邦制的共同体を結ぶことを 決意するなら,われわれは,民族問題の自治による解決によって最高度の経済協力と文化交流 を可能にする連邦制的協力の体制に賛成するだろう」と述べられていた。

この指針は,ベネシュとの会談の基礎となっただけでなく,イギリス外務省にも改訂されて 渡された。これに基づいてヤークシュは,

1940

1

月,デ・ヴィッテ(

Eugen de Witte

),タウ

プ(

Siegfried Taub

)とともに「ズデーテン・ドイツ住民内の民主的諸勢力の代表」として外務

省に,「自由と自治をめざすズデーテン・ドイツ人事務局(

Sudeten-German Office for Freedom

(8)

and Home Rule

)」の承認を求めた。ヤークシュらはこの組織を基礎に,「チェコスロヴァキア 国民委員会」との交渉が始められるべきだと考えていた。しかし,外務省側は,彼らが十分に ズデーテン住民を代表していないという理由でこれを断った

[Brandes 1988: 56-58]

6)

2. 国家再建か連邦制か

このようにしてヤークシュがチェコスロヴァキア亡命指導部との交渉を準備している間,ベ ネシュの側は,依然としてフランス大使オススキーらとの指導権争いに決着をつけられないで いた。

1939

10

15

日,ベネシュは,国民党指導者シュラーメク(

Jan Šrámek

),イングル

Sergej Ingr

)将軍,ジャーナリストのリプカ(

Hubert Ripka

)らと「チェコスロヴァキア国

民委員会」を結成し,フランス政府から承認された。だが,スロヴァキア人の利害を代表する オススキー,ホジャらとの対立は容易には解消しなかった。その背景には,「イギリスがチェコ スロヴァキア政府を望まないが,ベネシュの指導権を承認したのに対し,フランスは行政権を もつ政府を認めたものの,ベネシュを指導部から排除したい」という英仏両政府間の見解の違 いがあった。しかし,ベネシュは,戦争勃発前にすでに本国の抵抗運動組織といち早く連絡を つけ,自らの指導権の承認をとりつけていた

[Brandes 1988: 37-42, 119f.]

こうしてロンドンのヤークシュとベネシュは,イギリス政府による承認をめざしてズデーテ ン・ドイツ問題の将来について交渉を重ねることになった。争点は,ミュンヒェン協定以前の 国境線でのチェコスロヴァキア国家の再建か,それとも連邦制によるその再編かにあった。

1940

年春,双方の側でまとめられた綱領的文書でいっそう明確になった対立点をここではとりあつ かう。

2.1. ホルムハースト宣言

1940

1

17

日,ヤークシュは,亡命組織の党員にあてて,在英グループのメンバーが「重 要な決断」の前に立たされていると書いた7)

「諸事件の経過から,私たちイギリス・グループのメンバーは重要な決断の前に立たされ ました。私たちは,戦争開始以来,戦争の全期間これまでの規模で難民救護を継続すること は当てにできないということを意識していました。私たちはさらに,私たち忠誠共同体に所 属する者が道義的・政治的な理由からヒトラー政権の打倒に寄与しなければならないことに ついてはっきりわかっています。ズデーテン地方の将来の国法的な地位に関する一定の先行 する問題が解明されなければ,私たちは,チェコ在外軍への無条件の入隊を勧めることはで きません。したがって私たちは,私たちの従軍能力のある友人たちにイギリス軍への自発的

(9)

入隊を勧める道を選びました。」

問題は,難民救護の継続性,チェコスロヴァキア軍への徴募,そしてズデーテン地方の国法 的地位にあり,それらは互いに絡み合って解決を困難にしていた。

亡命者の世話をする難民委員会は,ロンドン市長チェコ救済基金からの資金とともに,イギ リス政府が

1939

1

月にチェコスロヴァキアに提供した援助の一部を使うことができたが,

8,000

人から

1

万人に及ぶ亡命者の生計を支援するには限度があった。そればかりでなく,ズデ

ーテン地方から亡命したドイツ人社会民主党系の人たちは,労働者・職員出身が多く,イギリ ス社会からもチェコ人亡命グループからも孤立していた

[Röder 1968: 23f.; Heumos 1989:

247-250; Menschen im Exil 1974: 77-97]

8)

チェコスロヴァキアから亡命した軍指導者は,前の大戦の先例に従い軍団の編成にとりかか ったが,ポーランドではプルハラ(

Lev Prchala

)将軍の指揮下に「チェコ人

-

スロヴァキア人軍 団」が編成され,フランスで軍を組織しようとするイングル(

Sergej Ingr

)将軍と対立した。

フランスに在住するか亡命したチェコスロヴァキア志願兵は,戦争勃発後,フランス軍内に独 自の部隊として編入された

[Brandes 1988: 34-38, 54; Heumos 1989: 86-92, 141-144]

。ベネシュは イギリスにもチェコスロヴァキア部隊を設立することを計画しており,これに対し,ヤークシ ュは,ズデーテン地方の将来の国法的地位が解明されなければ,チェコスロヴァキア軍への入 隊を勧めないという立場をとったのである。これは,チェコスロヴァキア軍への志願を進める 亡命グループ内反対派に対する牽制の意味もあった。しかし,党員の中には,「イギリス軍への 志願が国籍またはパスポートの喪失という危険をもたらすのではないかという疑問」が起こっ ていた。こうして軍隊問題は,ズデーテン地方の将来ともイギリスでの滞在にも影響する重要 な問題に発展した。

事態を打開するため,ヤークシュは,「亡命政策の指針」に基づいてベネシュに「友好的な平 和的共存の協定案」を送ろうと考えた

[Vondrová 1994: Nr. 19, 44]

3

10

日,エセックス州ロ ートンのホルムハースト・ホステルで開催された党執行部の会議は,「ヨーロッパの民主的・連 邦的再編の枠内におけるズデーテン地方の将来の地位」に関する宣言を全会一致で決議した。

開催場所の名前をとって「ホルムハースト宣言」と呼ばれるこの文書は,この問題についての 亡命組織の綱領ともいえる性格を有した9)

宣言は最初に,「われわれは,ヨーロッパの中央部および南東部においては国家組織の問題は,

民族誌的な原理に基づいて解決することができないという歴史的な経験から出発する。この地 域で国民的統一国家をつくりだそうと試みるなら,それは交通と経済,勤労大衆の福祉の要請 と解決しえない矛盾に陥る」と述べて,ズデーテン問題を「ヨーロッパの全体的和解」という

(10)

枠組みで考える必要性を説く。それは,ヤークシュがまさしく「ヒトラーの後で」において展 開した考察の前提であった。そして,自分たちが「ヨーロッパ大陸における最後のドイツ人平 和派」として闘い,「ズデーテン地方の最強の民主的な運動を代表」しているという自負から,

次の

7

点にわたって亡命組織の立場を表明した。

(1)

戦争について,「ヨーロッパ大陸における人間の自由と諸国民の自由は,西欧民主主義

諸国の武力が成果を挙げるかどうかにかかっている」。ナチとの闘いは,「自由を愛する ドイツ人みなの義務である。ドイツとヨーロッパは,この戦争で自由と権利が支配する ように奪還されなければならない」。

(2)

講和目標として,「自民族および文明化された世界の前に,われわれは,ナチ政権の壊

滅以外に平和に向かう道はないと証言する」。「自由なヨーロッパに向けての自由なドイ ツ人の貢献は,革命の実行でしかありえない。その課題は,自民族における帝国主義的・

軍国主義的な精神を根絶させ,あらゆる支配領域を捨て去り,ドイツ人を東と西,北と 南の仲介者の役割に戻すことである。ズデーテン・ドイツ人の特別の使命は,その際,

ドイツとスラブとの間の掛け橋となることである」。

(3)

講和の精神として,「この戦争の後で締結される講和が持続するかどうかは,それが解

放されたドイツ民族の同権に基づく協力のもとで成立するかどうかにかかっている」。

「われわれは,ズデーテン地方の住民に対しても和解の講和を要求する。彼らの国家帰 属については,

20

年の間に

2

回も一方的に決定された」。サン

-

ジェルマンの講和,ミュ ンヒェンの決定による押しつけは民族問題を解決しなかった。「われわれは,ヨーロッ パの平和のために,ズデーテン地方の国家的命運について最終決定を準備するのに努力 している。この決定は,ズデーテン・ドイツ人の自由な,同権に基づく協力の下に行わ れる。われわれは,

300

万人のズデーテン・ドイツ人に自決権を要求する。われわれの 運動の偉大な伝統に連なって,われわれは,ヨーロッパの連帯の精神で自決権が適用さ れるよう闘う。それ故,われわれが自決権を支持する表明は,ズデーテン地方がボヘミ ア,モラヴィア,シレジアの歴史的領域と経済的・地理的に結びついていることの承認 を含んでいる」。

(4)

チェコ人の解放闘争に対して,彼らの「自由と国家的自立を求める要求は,民主的な観

点からは異論の余地がない。ボヘミア,モラヴィアにおける住民の居住状況から,これ ら諸邦のドイツ人の運命は,その人数が多かろうと少なかろうと,つねにチェコ人の国 家の問題と結びつけられる。ズデーテン・ドイツ社会民主党は,したがって,ドイツ・

チェコ問題の民主的な解決のための闘いをゆるぎない断固さでミュンヒェンの決定ま

(11)

で推し進めた。」「ミュンヒェンの国境線がたびたび民族誌的原理を侵犯して引かれ,将 来も正しい解決にならない」ことは見誤っていないが,「しかし,われわれは,ズデー テン・ドイツ人の一部として,とりわけわれわれの民族の利害を代表しなければならな い。この立場からわれわれは,ヘンライン運動の勝利とミュンヒェンの破局に行き着い た誤りが繰り返されることを回避することを望んでいる。

200

万人のスロヴァキア人に 国家民族のあらゆる特権が与えられ,さらに

50

万人のカルパチア・ロシア人に地方自 治が保証されたのに,他方では,

300

万人のズデーテン・ドイツ人が「マイノリティ」

としてとり扱われるというのは,国家建設の根本的な誤りであった。旧チェコスロヴァ キアは事実上,多民族国家であった。住民のほとんど三分の一の意志に反して,共和国 はチェコスロヴァキア「国民国家」と宣言された。中央集権的国民国家という一方的に 定められた形態は,われわれの犠牲的な和解政策の努力を破産させた。

20

年間の経験に 基づいてわれわれは,したがって,

300

万人のズデーテン・ドイツ人がまたもやチェコ 人の政策の経済的・歴史的要求のたんなる対象として扱われるだけなのを認めるわけに はいかない。チェコ人の政策が一方的な押しつけの方法を断念し,民主的な形態での国 家の再編を用意するつもりがあれば,所与の時にズデーテン・ドイツ住民の代表を招待 し,国境線,国家の建設と内容に関するあらゆる問題を自由な協定のやり方で解決する ことが,彼らの任務である。この方法だけが,ズデーテン・ドイツ住民の中の和解勢力 に,チェコ民族との国家共同体の再建という意味で自決権を適用することに成功裏に賛 成する土台を生み出すことになろう」。

(5)

ズデーテン・ドイツ人の将来について,「われわれは,ドイツ・チェコの国境問題を強

制的住民交換によって解決するという方法を非民主的で野蛮なやり方として拒否する」。

「ズデーテン・ドイツ住民の社会的未来が確保されるのは,高度に発達した熟練労働を 基礎にした場合だけである」。

(6)

「最善の解決」である「連邦国家における自治」について,「

300

万人のズデーテン・ド

イツ人は,州議会と州政府とからなる,自分たちの全体利害の中心的な代表を必要とす る」。「チェコ人の政治が連邦制的国家構想を受け入れる場合には,目的にかなった領域 的・人的自治の組み合わせによって,行政区画の問題もうまく解決することができるだ ろう。それとの関連で,行政の民主化と非中央集権化も不可欠である」。「連邦原理によ って再組織されたチェコスロヴァキア」は,外交政策においても近隣諸国と協力し合え るだろう。

(7)

「大規模な連邦制的解決」について,「社会主義的な観点から,われわれは,政治的・

経済的なナショナリズムを克服するために闘っている」。「われわれは,ヨーロッパの連

(12)

邦的再編が究極的には必要であるということに賛同する」。「ズデーテン問題はヨーロッ パの問題である」から,「ボヘミア,モラヴィアの枠を越えるあらゆる連邦制的な解決」

をわれわれは支持する。

以上から,注目すべき点を挙げると,第一に,ヤークシュが「ヒトラーの後で」において展 開した「内陸ヨーロッパ連邦」の構想は影を潜め,「犯罪的なナチ政権」と闘って社会主義と民 主主義に基づく「ヨーロッパの連邦的再編」をめざすという一般的な言い方に道を譲っている。

これは,宣言でも言及されているように,イギリス労働党のアトリーやフランス社会党のブル ムの講和目的に関する声明に歩調を合わせたものとも考えられる10)。宣言は,ベネシュらチェ コスロヴァキア亡命指導部に向けられると同時に,英仏の政府や労働党・社会党,ドイツと闘 う国々の世論に向けての立場表明でもあった。

第二に,ズデーテン問題の解決について,宣言は,チェコスロヴァキア「国民国家」による

「一方的な押しつけの方法」を非難し,「ズデーテン・ドイツ人の自由な,同権に基づく協力」

の下に「自決権」を要求するとしながらも,「われわれが自決権を支持する表明は,ズデーテン 地方がボヘミア,モラヴィア,シレジアの歴史的領域と経済的・地理的に結びついていること の承認を含んでいる」,「ズデーテン・ドイツ住民の中の和解勢力に,チェコ民族との国家共同 体の再建という意味で自決権を適用する」と述べた。ブランデスが指摘するように,そこには

「亡命政策の指針」よりも「チェコスロヴァキアよりの方向への強調点の移動」が確認できる

[Brandes 1988: 58f.]

。ドイツ人地域について州議会と州政府を有する「領域的・人的自治」に

よる「連邦制的国家構想」という点では,ミュンヒェン協定以前の党の政策に逆戻りしている 観さえある。さらに,「指針」ではまだ残っていた「住民交換」について,宣言は,「ドイツ・

チェコの国境問題を強制的住民交換によって解決する」という方法を「非民主的で野蛮なやり 方」としてはっきりと拒否した。

「ヒトラーの後で」が「大ドイツ主義的」であるとの非難,本国でのナチ政権の弾圧に対す るチェコ人抵抗運動の反独的姿勢,そしてスウェーデンやイギリスの反対派グループの批判な どから,ヤークシュは徐々に軌道修正を行い,世論にも訴えるという手法をとるようになった。

ヤークシュら在英亡命組織の指導部が発したこの宣言の成否は,ベネシュとの交渉だけでなく,

イギリスの政府や世論の支持を得られるかどうかにもかかっていた。

これを受けとったベネシュは,宣言が「チェコスロヴァキア問題に対して積極的に立場を表 明し」,「チェコスロヴァキア国家出身のドイツ人の運命をわが国民の運命と結びつけた」こと を歓迎する返事を送っている

[Vondrová 1994: Nr. 23, 55f.]

(13)

2.2. ベネシュの覚書

ちょうど同じ頃,ベネシュは,ロンドンに滞在したアメリカ国務次官ウェルズ(

Benjamin

Sumner Welles

)の求めに応じて「戦後のチェコスロヴァキア:その要求と構想」という覚書を

作成し,イギリス外務省にもその写しを送っていた。覚書は,「英仏におけるチェコスロヴァキ ア国民の責任ある代表者」としてこれまで避けてきた,「その将来の綱領,その要求と希望,並 びにドイツによってチェコスロヴァキアに対してなされた不正の補償についての考えを公式に 宣言する」ものであった

[Dokumente 1984: 144-148]

覚書は,第一に,「ミュンヒェンの直前・直後に行われたあらゆる措置と決定は,それらが,

チェコスロヴァキアの国内外の関係に関わる限り,チェコスロヴァキア政府と国民の承認およ びそれらとの相談なく,ヒトラーの圧力と暴力の威嚇によってとられたものであり,チェコス ロヴァキアによってけっして認められない」とし,チェコスロヴァキアに対してなされた「不 正はすべて償われなければならない」と論じた。

第二に,ボヘミア・モラヴィア保護領の設立は,「ハーハ大統領に対するベルリン政府の恥ず べき威嚇行動の後」,「不意に圧力と暴力によって実行された」。スロヴァキアは,「ベルリンか らの命令と暴力の威嚇によってチェコ領土から切り離された」。しかし,「スロヴァキア人の圧 倒的な多数は,今日,統一したチェコスロヴァキア国家に賛成して」いるから,「戦後..

,チェコ...

人とスロヴァキア人は

..........

,再び一つの国家に統一され

............

」,「スロヴァキアとハンガリーとの国境線 の不正は正されなければならない」(強調原文,以下同様)。

第三に,「チェコスロヴァキア共和国の自治単位であるルテニアの問題は............................

,国際連盟のそれを 含む署名されたあらゆる国際的な約束に配慮した後で,戦後..

,第一にルテニア人の自由な............

決断..

によって決定される.........

」。

第四に,共和国の住民は「人種的にひじょうに混在して」いるが,経済的・戦略的に「ミュ

..

ンヒェンの国境線が将来のチェコスロヴァキア国家の国境線として受け入れられない......................................

」ことは 明らかである。「もっともよくもっとも公正な解決は,実質的にかつての........

歴史的国境線が回復さ..........

れ.

,とくに一方のボヘミア..........

,モラヴィアと他方のドイツ............

,オーストリアの間の山岳地帯のかつ................

ての自然国境が維持される

............

ことである」。したがって,「将来のチェコスロヴァキア国家には

................

, 再びドイツ人

......

マイノリティ

......

が残るだろう

......

」。

第五にしかし,「いくつかの国境線の調整は,領土的・経済的に互いに補償を行うことを基礎 に将来は可能だろう。そして,多くの場合に,われわれは,住民の移動およびできるだけ民族 的に同質的になる地域の創出を考慮しなければならないであろう」。

第六に,新生チェコスロヴァキアに関しては,「チェコ人の多数とスロヴァキア人の多数が将 来のスロヴァキアの政体について,平和と友好のうちに民主的な手段によって協定を結ぶべき

(14)

である」。将来の共和国では「非中央集権化の原則.........

」が従来以上に貫かれ,それは「ドイツ人に も適用される」だろう。最終的な国境は,「住民の交換と移動の原則」がどれだけ適用されるか にかかっている。

第七に,ベネシュが外相時代に追求した「連邦制的な中欧」の問題について,現状ではポー ランドおよびその他の中欧の小国との協力が第一に考えられる。戦後のドイツ問題に詳しく立 ち入るつもりはないが,チェコスロヴァキアとバルカンの安全保障という点から「独立したオ ーストリア」が再建されるべきであり,「もしドイツの残りの部分がなお統一されるとするなら,

将来のヨーロッパには再び,その平和を守るため一種の集団安全保障および新しい共同の国際 的組織の問題が起こる」であろう。

覚書は最後に,「チェコスロヴァキアは,ヨーロッパおよびヨーロッパの平和にとって必要な ものである。もしそうだとすれば.........

,ヨーロッパ全体のために...........

,そして厳しい試練にあっている..............

チェコスロヴァキア国民に対する正義のために.....................

,この戦争がチェコスロヴァキアを再び自由に....................

する

..

ことをわれわれは

........

く確信している

.......

」と結論づけた。

以上のようにベネシュの覚書は,ミュンヒェン協定によるズデーテン地方のドイツへの併合,

その後のボヘミア・モラヴィア保護領の設立とスロヴァキアの切り離しを償われるべき不正と 断じ,ミュンヒェン協定以前の国境線の回復を主眼とするものであった。ズデーテン・ドイツ 問題については,

1919

年のパリ講和会議におけるベネシュの覚書「ボヘミアにおけるドイツ人

問題」

[

相馬

2007

: 83-88]

と同じく,経済的・戦略的な結びつきを根拠にボヘミア・モラヴィ

アの歴史的国境線の回復が主張された。

注目すべきことは,ベネシュが,改めて「住民の交換と移動」による国境線の調整の可能性 を示唆し,「将来のチェコスロヴァキア国家には................

,再び..

,ドイツ人....

マイノリティ......

が残るだろう......

」 とあえて強調した点であり,ドイツ人を加えた将来の国制については,従来よりも「非中央集

....

権化の原則.....

」が貫かれるとしながら,チェコ人・スロヴァキア人の多数によるスロヴァキア政 体の決定ほどにはっきりとした表現が用いられていない点である。住民移動による国境線の調 整についても,すでに

1919

年段階でマサリクやベネシュが考えていたことではあるが,ドイツ 人マイノリティの残存という言い回しには,国内抵抗運動からのドイツ人追放の要求に対する 対応がうかがわれる。ベネシュはすでに

1939

9

月,反ヤークシュ派のケスラー(

Fritz Kessler

) らとの話し合いの席で,「保護領での独裁の虐待行為」から,チェコ国民の一部では「ドイツ人 の国外追放のような馬鹿げたことが話されています」と述べていた

[

相馬

2008: 160]

11)。ドイ ツ人の「強制追放」という問題は,ナチ犯罪者・共謀者の責任追及という脈絡でやがて

1941

年以降,もっと公然と論じられていくことになる

[Brandes 1999]

覚書の写しを受け取ったイギリス外務省中欧課のロバーツ(

Frank Kenyon Roberts

)は,

3

(15)

28

日付で辛辣なコメントを記している。彼によると,ベネシュ覚書には「われわれが異議を 唱えなければならないひじょうに多くの点」があった。

①ミュンヒェン協定はベネシュ大統領とチェコスロヴァキア政府によって承認されたのであ るから,「ヒトラーがそれを破棄する以前に事実上無効であった」とは認められない。②チェコ 人・スロヴァキア人に対するあらゆる不正と損害が償われなければならないというベネシュの 主張は,そこに「民族的マイノリティの移住」が含まれているから認められない。③スロヴァ キア人の圧倒的多数がチェコスロヴァキアを支持しているという主張は疑わしい。④「ルテニ ア問題の最良の解決は,おそらく現在のようにこの地方をハンガリーの支配下におくことであ ろう」。⑤「ズデーテン・ドイツ人をチェコ国家に残したままミュンヒェン以前の国境線を回復 する権利」が主張されているが,ベネシュは,「ドイツ人マイノリティに対する保証と協定の提 案についてひどく曖昧である」。⑥ベネシュは,「ドナウ流域で密接な連邦関係をつくるという 原則についてはむしろ曖昧にしか語らない」。

この覚書が回覧された外務省では,メイキンズ(

Roger Mellor Makins

)がこれに賛意を表し,

次官補のストラングは,戦後の中欧の状況についてほとんど予測できないので,ベネシュが言 ったり考えたりすることは「さほど重要ではない」と切り捨てた。チェコスロヴァキアがミュ ンヒェンで受けた恐るべき不正と被害を償うことを主張したのは,対独強硬派のヴァンシター ト(

Robert Gilbert Vansittart

)だけだった

[Dokumente 1984: 149-151]

ベネシュの覚書に対する外務省専門家のコメントは概して厳しく,そこには,ドイツ人マイ ノリティや中欧連邦制について曖昧なベネシュに対する不信感とともに,戦後の中欧地域につ いて領土・国境問題が予測不可能であるという認識があった。さらに,ミュンヒェンでのイギ リスの失策を認めようとしない外務官僚の姿勢も投影されているように見える。

2

24

日にチ ェンバレン首相がバーミンガムで行った演説でも,ポーランド人とチェコ人の独立の確保とい う以上のことは述べられていなかった

[Dokumente 1984: 118-120]

いずれにしても,ベネシュの覚書は,ヤークシュらの,ドイツ人地域の自治に基づく連邦制 的国家再編プランに対して何も答えておらず,むしろミュンヒェン協定以前の国家の再建と民 族的同質化によるマイノリティ問題の解消を志向するものであった。

小 括

1939

9

月,イギリスとフランスはドイツに対して宣戦布告したものの,軍事的支援は行わ ず,戦闘が

1

ヶ月あまりで終息した後,いわゆる「奇妙な戦争」の時期が始まる,この時期,

イギリスは,フランスやその他の諸国からの要請に対し,ヒトラー政権の打倒という以上の戦 争目的を公表しようとはせず,むしろ反ナチ抵抗運動による政権の打倒に期待をかけていた節

(16)

がある。しかし,外務省内ではすでに,第一次世界大戦後の講和の失敗という教訓からドイツ に対する寛大な取り扱いを検討し,中欧・バルカン地域における戦後の連邦制を展望する議論 が始まっていた。政府への批判的姿勢を強めていた労働党は,民主主義と社会主義に基づく「新 しい世界秩序」を構想していたが,政府の一般的な戦争目的をこえる目標の提示はさし控えて いた。

ロンドンでズデーテン・ドイツ社会民主党亡命組織を立ち上げたヤークシュら党執行部は,

戦争勃発後の困難な状況を乗り切り,対等な立場でズデーテン・ドイツの将来についてチェコ スロヴァキア亡命代表部と交渉を進めるために,

1939

12

月に「亡命政策の指針」をまとめ,

それをもとに

1940

3

月,「ホルムハースト宣言」を発表した。それは,ヤークシュ自身の覚 書「ヒトラーの後で」を基礎にしながら,それとは強調点を異にしていた。すなわち,党内外 からの「大ドイツ主義的」との批判や本国抵抗運動の反独的な立場表明を受けて,そこでの「内 陸ヨーロッパ連邦」の構想は影を潜め,それに代わり,戦後チェコスロヴァキアの自治と連邦 制,それを含んだヨーロッパの連邦的再編を見通すものに重点が移されていた。イギリス外務 省からズデーテン・ドイツの民主主義勢力の代表と認められないまま,ヤークシュら亡命組織 の指導部は,党内を結束させるとともに広く世論に訴える姿勢をとったのである。

一方,ベネシュの方は,いち早く国内抵抗運動の支持をとりつけるとともに,チェコスロヴ ァキア国民委員会を結成して亡命活動の主導権とイギリス政府からの承認を得ようと奮闘して いた。同じ

3

月にベネシュはアメリカ政府あての覚書「戦後のチェコスロヴァキア」を作成し,

その写しをイギリス外務省にも送った。その内容は,ミュンヒェン協定で定められた国境線の 無効とそれ以前のチェコスロヴァキア共和国の再建を主旨としており,ドイツ人マイノリティ の存続にも触れていたが,同時に「住民の交換と移動」に含みをもたせたものであった。外務 省はこの段階でベネシュの覚書をさほど深刻には受け止めず,むしろ覚書に批判的であった。

戦況がまだきわめて不確定なうちは,ベネシュの国民委員会がイギリス政府からチェコスロヴ ァキア代表として認められる可能性は乏しかった。

以上のように,戦争勃発後,ヤークシュもベネシュも,彼らが拠点をおくイギリス政府もし ばらくは手探りの状況が続いた。だが,「奇妙な戦争」の時期が終わり,フランスの敗北によっ てイギリスが単独でドイツとの戦いに立ち向かうようになると,状況は一気に流動化していく。

*本稿は,平成18~20年度科学研究費補助金 基盤研究 (C)(一般)「第二次世界大戦期における中 欧社会主義者の反ナチ抵抗運動と戦後ドイツ構想」の研究成果の一部である。

(17)

1) “An das deutsche Volk!” in: Neuer Vorwärts, Nr.325, 10. September 1939.

2) ゾパーデの代表フォーゲル(Hans Vogel)とオレンハウアー(Erich Ollenhauer)は,193912月末にロン ドンに赴き,労働党の指導者とイギリス政府の戦争目的について会談し,その紹介で外務省とも話し合いを 行っている[Glees 1982, 31-36]

3) “Protokoll der Exekutivsitzung am 23. Oktober 1939, in London, Westbourne Terr.,” in:

Friedrich-Ebert-Stiftung/Archiv der sozialen Demokratie [FES/AsD], Seliger- Archiv. Nachlaß Wenzel Jaksch, E 17, J 11.

4) “Mitteilungen an die Vorstandsmitglieder der Treuegemeinschaft sudetendeutscher Sozialdemokraten vom 31.

Oktober 1939,” in: FES/AsD, Seliger-Archiv, 1.

5) そ の 案 は ,“Entwurf. Richtlinien für die Auslandspolitik der Sudetendeutschen Sozialdemokratie,” in:

Bundesarchiv. Stiftung Archiv der Parteien und Massenorganisationen der DDR [BA. SAPMO], RY 20/II 145/81, Bl.32-38. Cf. Bachstein 1974: 217- 220.

6) ヤークシュは,194021日付で外務省あてにこう書いていた [Brügel 1974: 22]

「私たちは,チェコスロヴァキア国民委員会への加入によってズデーテン・ドイツ住民の将来の地位につい ての決定を先取りすることを恐れています。他方で私たちは,あたかも私たちがミュンヒェンの決定および その結果としてズデーテン地方の大ドイツへの編入を私たちの将来の政策の基礎として受け入れたかのよ うな印象が引き起こされることはすべて避けたいのです。/ 私たちは逆に,所与の時期に中欧の将来につい て平等な立場でチェコ国民委員会と話し合い,・・・ナチ政権の倒壊の後のズデーテン問題の取り決めに影 響を与えるであろうその他の人たちすべてと関係をもつ機会があれば,歓迎するでしょう。/ したがって,

私たちは,この種の準備活動の公認の基礎となるはずの自由と自治をめざすズデーテン・ドイツ人事務局を 創設することを意図しています。・・・私たちは,外務省からズデーテン地方の民主主義勢力の公認の在外 代表として承認されることを期待いたします。

7) “An die Mitglieder der Treugemeinschaft Sudetendeutscher Sozialdemokraten in England. London, 17.

Jaenner 1940,” in: BA. SAPMO, RY 20/II 145/84, Blatt 1-13; Vondrová 1994: Nr. 16, 35-37.

8) 難民救護に関わった児童救済基金の中心として活動したウォリナー(Doreen Warriner)は,彼らについて,

「私は,堅実で効率的なドイツ人気質,彼らの忠誠と共感を知り,このような類の社会主義を理解すること ができました。ズデーテン人の間には,故郷,言葉と感性を愛する率直さがありました。彼らは大家族をも ち,それを離れることを好みませんでした」と書いている [Heumos, 249]

9) “Deklaration der Sudetendeutschen Sozialdemokratie über die künftige Stellung des Sudetengebietes im Rahmen einer demokratisch-föderalistischen Neuordnung Europas. Beschlossen in London am 10. März 1940,” in: BA. SAPMO, RY 20/II 145/81, Bl.39-54, auch in: Sudetendeutsches Archiv [SA] München, Wenzel Jaksch, Schriftlicher Nachlaß, F3 (english version); Der Sozialdemokrat. Halbmonatsschrift der Sudetendeutschen Sozialdemokratie, London, Nr. 2, 16. April 1940, 29-34 ; Prinz 1973: Nr.3, 83-90; Vondrová 1994:

Nr. 21, 49-54. Cf. Bachstein 1974: 221-223.

10) マルメーで発行されていた「忠誠共同体」の情報紙『ズデーテンの自由』は,戦争目的・講和目的について

のイギリス労働党の立場表明に注目していた。“Für ein freies Europa! ,” in: Sudeten-Freiheit. Informationsblatt der Treugemeinschaft Sudetendeutscher Sozialdemokraten, Nr. 4, Oktober 1939, 1-2; “Für ein neues Europa. Der Friedensplan der englischen Arbeiterbewegung,” in: Ibid., Nr. 5, November 1939, 8; “Die Friedensziele der Labour-Party,” in: Ibid., Nr. 6, Dezember 1939, 5.

11) ボヘミア・モラヴィア保護領におけるチェコ人抵抗運動組織の間では,当局による弾圧の影響ですでに1939

年にはドイツ人の大量追放が主張されるようになっていた。その噂はパリやロンドンの亡命者にも伝えられ,

パリではズデーテン・ドイツ人社会民主党員3名によってそれに抗議する小冊子『300万人のズデーテン・

ドイツ人が国外移住すべきだというのか』が出版された [Kural 1999: 83-86; Raška 2002: 38-40; Brandes 1988:

56]。小冊子は,“Le Probleme du Transfert de Populations Trois Millions Sudetes Doivent-ils Emigrer? / Drei Millionen Sudetendeutschen sollen auswandern? ,” in: BA. SAPMO, RY 20/II 145/82, Bl.1-44.

(18)

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Češi a sudetoněmecká otázka 1939-1945. Dokumenty, Praha

(20)

Diaspora und Widerstand:

“ Treugemeinschaft sudetendeutscher Sozialdemokratie ” (5)

SOMA Yasuo

Einleitung

1. Die Situation nach dem Ausbruch des Kriegs 1. 1 Kriegsziel Großbritanniens

1. 2 Richtlinien für die Auslandspolitik 2. Wiederaufbau des Staates oder Föderalisierung?

2. 1 Holmhurster Deklaration 2. 2 Memorandum von Beneš Zusammenfassung

Wenzel Jaksch (1896-1966) war ein sudetendeutscher Sozialdemokrat, der während des Zweiten Weltkriegs im Exil in London sowohl gegen den Nationalsozialismus als auch gegen den Vertreibungsplan der tschechoslowakischen Exilregierung energisch Widerstand leistete. Sein Lebenslauf spiegelt die welthistorischen großen Umwandlungen in Mitteleuropa in der ersten Hälfte des 20. Jahrhunderts wider. Trotzdem sind im Rahmen der Widerstandsforschung in Deutschland seine Tätigkeit und seine Beziehungen zu der Sopade und den anderen deutschen und österreichischen Widerstandsbewegungen bisher selten behandelt worden. Diese Abhandlung befasst sich deshalb mit der Diaspora und dem Widerstand der sudetendeutschen Sozialdemokratie um Wenzel Jaksch. Dabei wird auf zwei wichtige Forschungsansätze eingegangen: die Untersuchung von Mark Mazower über die ethnischen, religiösen und sprachlichen Minderheiten in Europa und die klassischen Studien von Arno J. Mayer über die Kriegsziel- und Friedenspolitik während und nach dem Ersten Weltkrieg.

Im letzten Heft wurde die Neukonstituierung der Partei als “ Treugemeinschaft

sudetendeutscher Sozialdemokratie ” vor dem Zweiten Weltkrieg in ihrer Beziehungen zu dem

tschechoslowakischen Exilpolitiker Beneš, der Sopade und der Sozialistischen

Arbeiter-Internationale betrachtet. Jetzt wird die Situatuon nach dem Ausbruch des Kriegs vor

allem in Bezug auf das Kriegsziel Großbritanniens, die Auslandspolitik der Sudetendeutschen

Sozialdemokratie und das Memorandum von Beneš untersucht.

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