ル ネ サ ン ス の 華 エ リ ザ ベ ス 一 世 と ホ ー ム レ ス の 女 性
‑ 無 名 の 女 性 た ち
石 井 美 樹 子
女 王 陛 下 と ホ ー ム レ ス の 女 性
アリス・バルストンの名を耳にした人は︑法制史のそれも特殊な分野の専門家でもないかぎりいないであろう︒
わたしもスーザン・アムッセンの論文﹁エリザベス一世とアリス・バルストンー近世イギリスにおける性︑階級︑
そして特出した女性﹂に出あうまで知らなかった︒一七世紀のイギリスの女性浮浪者に関する研究は皆無に近いの
で︑この論文に多くを負いながら私見をまじえ︑女王陛下と女性浮浪者の生涯を互いの合わせ鏡にしつつ︑当時の
女性たちが置かれていた渦や澱みを掬いあげたい︒
アリス・バルストンは高貴な生まれの女性でもなければ︑教養ある女性でもない︒彼女は︑一七世紀のイギリス
社会の最底辺に生きたホームレスの女性である︒なのに︑今日まで彼女の名が伝えられているのは︑アリスが犯罪
をおかしたからである︒四度も裁判にかけられ︑ドーセット市の裁判調書(一六二〇年から=ハニ四年)にその経
過が記録されている︒浮浪者にしては珍しいことに︑死亡した年(一六二九年)さえわかっている︒
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一 六 世 紀 後 半 か ら 一 七 世 紀 初 期 に か け て ︑ イ ギ リ ス は め ざ ま し い 経 済 発 展 を と げ ︑ 国 威 は 高 揚 し た ︒ 経 済 発 展 は
常 に ︑ 大 都 市 へ の 人 ロ の 流 入 を う な が し ︑ 物 価 の 高 騰 ︑ 家 族 崩 壊 な ど 深 刻 な 社 会 問 題 を 引 き 起 こ す ︒ ア リ ス は ︑ 繁
栄 す る 社 会 か ら お ち こ ぼ れ た 多 く の 名 も な き 貧 民 の 一 人 で あ る ︒ 社 会 の 最 底 辺 に 生 き ︑ 辛 酸 を な め ︑ 極 貧 の ︑つ ち に
亡 く な っ た ︒
エ リ ザ ベ ス 女 王 と ア リ ス ・ バ ル ス ト ン ︒ 権 勢 の 頂 点 を 極 め た 女 王 と 社 会 の 最 底 辺 で 生 き た 女 性 ︑ 最 高 権 力 者 と 浮
浪 者 ︒ 対 照 的 な 二 人 に は 共 通 す る 点 が あ る ︒ と も に ︑ 父 権 社 会 ︑ 男 性 優 先 社 会 の 制 約 を 受 け た ︒ と も に 夫 を 持 た ず ︑
特 殊 な 身 分 ゆ え に 普 通 の 女 性 と は 違 っ た 生 き 方 を 強 い ら れ た ︒ ほ と ん ど の 女 性 が 無 名 の 民 と し て 歴 史 の 闇 に 埋 没 し
た が ︑ 二 人 の 生 涯 は 文 字 に よ っ て 記 録 さ れ 今 に 伝 え ら れ て い る ︒ エ リ ザ ベ ス 女 王 は ︑ 特 権 階 級 の 女 性 た ち の 実 像 に
迫 る 重 要 な 鍵 を 握 っ て い る ︒ い っ ぽ う ︑ 裁 判 調 書 に 記 さ れ た ア リ ス は ︑ 社 会 の 底 辺 に 位 置 し た 当 時 の 女 性 の 真 の 姿
を 伝 え て い る ︒ 双 方 を あ わ せ て 透 け て 見 え て く る の は ︑ 当 時 の 女 性 の 置 か れ た 現 実 で あ る ︒
結 婚 し な い 女 王
イギリス初の女王君主は︑メアリー↓世(在位一五五三‑一五五八年)である︒その後︑イギリスには︑五人の
女性君主が誕生した︒エリザベス一世(在位一五五八‑一六〇三年)︑オレンジ公ウィリアムと共同統治したメア
リー二世(在位一六八九‑一六九四年)︑アン女王(在位一七〇二ー一七一四年)︑ヴィクトリア女王(在位一八三
七‑一九〇一年)︑現女王のエリザベスニ世︒ちなみに︑国王は三十五名である︒
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一五五八年︑エリザベスが登位したとき︑姉のメアリー一世のときと同様に︑国民は女王を例外的な女性とみな
して受けいれた︒女王は弱い女の身ながら︑政治体としては︑国王である︒つまり︑両性具の君主であるエリザベ
スを特異な存在とすることで︑女王を戴くという異例の事態を乗り越えようとしたのである︒
一五五八年一一月にエリザベスを君主に推挙した枢密院議員たちは︑女王はいずれ結婚するであろうと信じて疑
わなかった︒女王は二五歳という結婚適齢期にある︒当時は︑九〇パーセントの女性が結婚した︒修道院制度が廃
止され︑独身女性を受け入れる施設が姿を消したので︑結婚率がいっきに上昇した︒女王はちかいうちに夫を持つ
であろう︒女王を君主として仰ぎはするが︑実権は女王の夫を中心とする側近たちが握る︒その期待とともに︑エ
リザベスの時代は幕を開けた︒
イギリスの歴代の君主のなかで︑結婚しなかったのは︑ジョン王(在位一一九九ー一二一六年)とエリザベス一
世だけである︒ジョン王には男色の傾向があり︑結婚するそぶりさえ見せなかった︒君主のもっとも重要な役目は
後継者を残すことであるから︑君主が生涯結婚しないことはありえない︒結婚適齢期をとうに過ぎ︑三七歳で即位
したメアリー一世でさえ︑高齢出産にともなう危険を恐れながらも︑スペインのフェリペ(のちのフェリペニ世)
と結婚した︒結婚をお膳立てしたのは︑フェリペの父︑神聖ローマ帝国皇帝力ール五世である︒むろん︑イギリス
をハプスブルグ家の衛星国とし︑宿敵フランスに対抗するためである︒スペインとの縁組は︑メアリーが望みうる
最高の結婚であった︒しかし︑この政略結婚に反対する国民の声は強く︑結婚を阻止しようと︑反乱が一度となく
起こった︒だれもが︑宗教がカトリックに舞い戻った・?凡に︑イギリスがスペインの属国になるのではないかと危
惧した︒メアリー女王の側近たちはこの結婚を承認したが︑結婚式の前の議会で︑フェリペを女王の夫として迎え
はするが︑政治体としてのメアリーは︑﹁王(男性)﹂であると定め︑フェリペの力を制限する法的措置をとった︒
エリザベスには︑王女時代に︑幾度となく結婚話がもちあがった︒メァリー女王時代には︑フェリペに後押しさ
れたサヴォイ公エマヌエル・フィリベルトと強制的に結婚させられそうになった︒しかし︑﹁いまは結婚する気持
ちにはなれません﹂といってきっぱり断った︒
即位すると︑女王に結婚を迫る周囲の圧力はいっそう強まる︒
女 性 の 君 主 を 戴 く こ と
エリザベスが即位したとき︑ヨーロッパは﹁女性の時代﹂をむかえていた︒スコットランド女王メァリーの母メ
アリー・ド・ギーズはジェームズ五世と死別したあと︑幼い女王︑娘メアリー・スチュアートに代わって摂政とし
てスコットランドに君臨していた︒メアリー・スチュアート(フランス皇太子フランソワと結婚)の嫁ぎ先のフラ
ンスでは︑アンリニ世が馬上槍試合で致命傷を負い︑落命すると︑妃カトリーヌ・ド・メディチが︑つぎつぎに王
位に就く息子たちの摂政として政権を牛耳ってゆく︒ブルゴーニュでは︑カール五世の妹ハンガリー王未亡人メア
リーがカール五世の代理として君臨していた︒その前の総督はカールの叔母マルガリーテであった︒
このような状況のなか︑知識人や聖職者たちは︑女性君主の是非をめぐって熱い議論をたたかわせた﹃フランソ
ワと死別したスコットランド女王メアリー・スチュアートが帰国すると︑長老派教会の牧師ジョン・ノックスが女
性君主に対する激しい説教を展開して︑論陣をはった︒メアリーはノックスを宮殿に招き︑彼の説教に耳を傾け︑
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折 り 合 い を つ け よ う と 努 力 し た が ︑ ノ ッ ク ス は 態 度 を や わ ら げ よ う と は し な か っ た ︒ エ リ ザ ベ ス は ノ ッ ク ス を ふ く
め 女 性 君 主 を 誹 誘 す る こ と ば や 動 き に た い し 断 固 と し た 態 度 で 臨 ん だ ︒ だ が ︑ 女 王 に 敵 対 す る 活 発 な 情 宣 活 動 が 止
む こ と は な か っ た ︒ 一 五 七 三 年 の こ と ︑ 女 王 を 誹 諺 す る 怪 文 書 が ロ ン ド ン に 出 回 っ た ︒ 怪 文 書 に は ︑ 女 王 は 国 の シ
ン ボ ル に す ぎ ず ︑ 実 力 を 掌 握 し て い る の は 側 近 た ち で あ る と 記 さ れ て い た ︒ 女 王 は 激 怒 し ︑ パ ン フ レ ッ ト の 回 収 を
命 じ る と と も に ︑ パ ン フ レ ッ ト を 所 持 し て い る 者 を 厳 し く 罰 し た ︒
エ リ ザ ベ ス 女 王 は 宰 相 ウ ィ リ ア ム ・ セ シ ル を は じ め と す る 経 験 豊 か で 賢 明 な 側 近 た ち に 囲 ま れ て い た ︒ 彼 ら を 選
ん だ の は 女 王 で あ っ た ︒ 当 初 ︑ 側 近 た ち は 女 王 が 女 性 に ふ さ わ し く 振 る 舞 い ︑ ﹁賢 明 な ﹂ 男 性 た ち の 意 見 に 従 う に
ち が い な い と 期 待 し て い た ︒ し か し ︑ 女 王 は あ や つ り 人 形 に な る こ と を 拒 み ︑ 彼 ら の 思 い ど お り に は な ら な か っ た ︒
女 王 の 背 後 で ひ そ か に 実 力 を 行 使 し よ う と し た 者 に は ︑ 人 前 で 口 汚 く の の し り ︑ は げ し く 叱 責 し た ︒ 姉 メ ア リ ー と
は 違 っ て ︑ エ リ ザ ベ ス は 名 の み の 君 主 で は な か っ た ︒ 父 ヘ ン リ ー 八 世 の よ う に ︑ 絶 対 君 主 と し て 権 刀 を 行 使 し ︑ 君
臨 す る こ と を 欲 し た ︒
議 会 は 数 度 に わ た っ て 女 王 が 結 婚 す べ き で あ る と 決 議 し ︑ 女 王 に 嘆 願 書 を 提 出 し た ︒ 女 王 が 結 婚 せ ず ︑ 子 を 残 さ
ず に 他 界 し た ら ︑ 王 位 を め ぐ っ て 国 は 混 乱 す る ︒ 女 王 は 彼 ら の 憂 慮 を 知 っ て い た か ら ︑ 嘆 願 を 無 視 し た り ︑ 軽 視 し
た り は し な か っ た ︒ 嘆 願 書 が 出 さ れ る た び に ︑ 自 分 に ふ さ わ し い 男 性 が あ ら わ れ れ ば い つ で も 結 婚 す る と 誠 実 に 答
え た ︒
結 局 ︑ 女 王 は 結 婚 し な か っ た ︒ 肉 体 上 の あ る い は 精 神 上 の 問 題 が あ っ た わ け で も ︑ よ い 結 婚 相 手 が い な か っ た わ
け で も な い ︒ 女 王 は か な り 早 い 時 期 に 独 身 を 貫 く を こ と を 決 心 し て い た よ う だ ︒ 結 婚 す れ ば ︑ 王 権 を 夫 と 分 か ち も
つことになる︒そうすれば︑女王の権力は半減する︒これが︑女王が独身を貫いた主な理由であろう︒それに︑姉
メアリーとスコットランド女王メァリーがともに︑女性君主が結婚することの愚かしさを夙に教えてくれていた︒
実 権 を 行 使 し た 女 王
結婚や後継者問題ばかりでなく︑外交・国政の重要課題については︑エリザベスは主体性をもって実権を行使し
た︒外国との戦争︑貴族の処刑︑とくにスコットランド女王メアリーの処刑など︑重大な決断をしなければならな
いときは︑女王は熟考し︑決断し︑その決断を翻し︑また決断し︑振り子のように揺れ動いた︒女王に翻弄された
側近は︑決断力がないのは︑女だからだと陰口をたたいた︒誰がどう思おうとも︑女王は慎重を常とした︒
女王が王におとらず一国を立派に統治できるという事実は︑当時の人びとにとっては驚嘆以外のなにものでもな
かったであろう︒エリザベス女王の存在そのものが︑人びとの女性観を根本から問いなおすことをせまった︒だが︑
人びとはエリザベスを例外とみなすことで︑その問題に直面することを避けた︒女王自身も︑女性の地位向上のた
めに努力した形跡はない︒
いつの時代でも︑国王の情事は大目に見られた︒国王が情事で庶子をもうけたとなると︑称賛されても非難され
はしなかった︒王に貞節を期待する者はおらず︑愛人を持たない王はいなかった︒古い話になるが︑碩学王として
名をなしたヘンリー一世(在位=○Ol=三五年)には︑公認の庶子が二〇人もいた︒女王君主の場合は︑そ
うはいかない︒愛情面で︑ほとんど自由を持たない︒エリザベスには︑寵臣レスター伯爵ロバート・ダドリ1と秘
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密 の 結 婚 を し た と か ︑ 伯 爵 と の あ い だ に 幾 人 も の 子 を も う け た と い っ た 噂 が 絶 え な か っ た ︒ 根 拠 の な い ス キ ャ ン ダ
ル は ︑ 人 の 名 誉 を 傷 つ け る い ち ば ん て っ と り 早 い 方 法 で あ る ︒ 噂 は 女 王 の 威 厳 を 傷 つ け た ︒ 女 王 と て も ︑ 女 性 に 貞
節 を 強 制 す る 社 会 規 範 の 制 約 を 受 げ た の で あ る ︒
しかし︑女王は噂という﹁迫宝暑﹂に屈せず︑レスター伯爵を身辺にはべらしつづけた︒六回結婚し︑ウルジー︑
トマス・モア︑トマス・クロムゥエルといった右腕の側近をご都合主義で処刑台におくったヘンリー八世とは異な
り︑女王は友人を大切にし︑信頼した︒宰相ウィリアム・セシルとの二人三脚は彼が亡くなるまで半世紀近くもつ
づいた︒
一五八八年︑スペインの無敵艦隊との決戦の直前︑女王は白いビロードの衣装に身をつつみ︑鎧・兜で身をかた
め︑白馬に乗り︑エセックスのテムズ川河口のテイルベリーの野営地に集合した兵士たちのまえに姿を見せ︑﹁わ
たくしは︑繊細で弱い女の肉体を持つ者ですが︑わたくしのこころと精⁝神は︑王のように勇敢で︑恐れを知りませ
ん︒わが王国の境界線を踏みにじる者にたいしては︑なんぴとであろうとも︑戦いを挑みます﹂と演説した︒
ティルベリーでの演説からもわかるように︑女王は︑女王であると同時に王である︒私的な場面では女性らしく
振る舞ったが︑公的な場では︑女王は自分を﹁王﹂とみなし︑臣下にたいしては常に﹁王﹂として接した︒女王は
いつも﹁王であるわたくしは﹂(≦‑ΦOコロOΦ)と言った︒実際︑王の勇気と決断力を持たなければ︑権力欲の強い
側近をまとめ︑国を統治し︑外国の君主と渡り合ってゆくことはできなかったであろう︒
女王は結婚もせず︑後継者を指名することも拒みつづけた︒女王が生きているあいだに︑次の君主が決まってい
たら︑不満分子は次期王に群がる︒このことを︑女王は身をもって知っていた︒姉メアリーの時代に︑野心家の貴
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族たちがいかにエリザベスを利用しようとしたか︒そのためにエリザベスはロンドン塔に投獄され︑生命を失いか
けた︒一八年ものあいだためらったすえに︑エリザベスはスコットランド女王メアリーを処刑した︒イギリスの王
位継承権を持つメァリー(メアリーはヘンリー八世の姉マーガレットの孫)が生きているかぎり反乱の策謀が絶え
ず︑エリザベスは枕を高くして眠れなかったのである︒
エリザベス女王が男性的な側面を発揮して貴族たちの自生力を抑え︑国を支配したことは︑生涯のライバルであ
ったスコットランド女王メアリー.スチュアートと対照的である︒メアリーは背が高く容姿の美しい女性で︑男の
こころを魅惑する不愚議な力を持っていた︒メアリーに会った男性はことごとく︑彼女の魅力の虜になった︒メア
リーに魅せられたイギリス貴族が幾度となく︑イギリスに幽閉されているメアリーの脱出に力を貸そうと反乱を企
てた︒そのために命を落とした者も少なからずいる︒エリザベスは︑自分を﹁王であるわたくしは﹂といったが︑
女の魅力を利用して男たちを操作するメアリーを︑いつも︑女王(b﹃50Φω)と呼んだ︒イギリスの筆頭貴族第四
代ノーフォーク公爵トマス・ホワードは︑イギリスの王位継承権を持つメアリーと結婚して玉座に登るという陰謀
にかつぎあげられ︑陰謀が発覚して︑一五七二年に処刑された︒メアリーの女の魅力は彼女の力ともなり︑いのち
取りともなった︒メァリーがスコットランド女王の座を追われたのは︑夫ダーンリー伯爵ヘンリーの暗殺者ボズウ
ェルと結婚して民意を失ったためである︒
終 焉 を む か え る ﹁女 性 の 時 代 ﹂
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エリザベス(女王)は︑当時の高貴な身分の女性が受けうる最高の教育を受けた︒エリザベスが︑貴族たちが女
子教育に熱をあげているときに育ったのは幸運といわなければならない︒独身を守ったことのほかに︑女王の治世
の成功のもう一つの鍵は高い教養である︒ラテン語とフランス語とスペイン語とイタリア語を自由にあやつり︑ギ
リシア語に秀で︑楽器の演奏も上手︑舞踏会では優雅に軽やかにステップを踏んだ︒
十六世紀のイギリスは︑女性の人文学者を輩出した︒ラテン語からの英訳版﹃われらが主に関する論考﹄
(bΦ<o§寄雷職鴇§§導o怨融きo象Φごを出版したトマス・モアの娘マーガレット.ローバー︑キャサリン.
オブ・アラゴン王妃の薫陶を受けたメァリー女王︑プラトンをギリシア語で読んだ﹁九日間の女王様﹂ことジェ
ーン・グレイ︑﹃罪人の嘆き﹄(臣Φ富白魯磁職§ミOo臼b貯︑旨錺鼠山讐旨負嵩ミ)や﹃聖書の詩編と祈り﹄
(諄皆⇔亀ぎ同Φ謎oミo︑建図縛§鮮竃㌧p誤瞳)などを著作・出版したヘンリー八世の六番目の妃キャサリ
ン・パー︑七か国語に秀で︑兄フィリップ・シドニーの作品を完成させて出版し︑みずからも﹃詩編﹄や﹃アント
ニーの悲劇﹄などの翻訳に取り組んだペンブルク伯爵夫人メアリー・シドニー・ハーバート︑日記作者アン・クリ
フォード︑同じく日記作者マーガレット・ディキンズ︑恋愛詩や牧歌劇にも手を染めたレディ・ロス︑古典学者と
して名高いミルドレツド・クックとエリザベス・クック姉妹⁝・:︒
女王は自分が受けた最高の教育を治世に存分に生かした︒教養あふれる女王を賛美することばは︑エリザベス時
代の文学にあふれている︒エリザベスの退場とともに︑﹁女性の時代﹂は終焉をむかえた︒ブルジョワ階級の台
頭・富の蓄積とともに父権制が強まり︑プロテスタント化が進んだためである︒かつては神父が担っていた宗教教
育をふくめ︑父親が家族の教育に深くかかわるようになり︑父権制の強化に拍車をかけた︒
エリザベス時代の文人ジョン・フェントンはエリザベス女王をこういって賛美した︒
﹁女王は︑すべての女性の誇りである︒世界の驚嘆である︒世人は女王を賛美してやまない︒﹂
興味深いことに︑ジョン・フェントンは︑ジェームズ一世をむかえたとき︑こういって新しい御世を寿いでいる︒
﹁われらはもはや何も恐れることはない︒王を戴くことになったのだから︒エリザベス女王の時代には︑いまほ
ど幸せではなかった︒なぜなら︑女王が病気になられたり︑お亡くなりになったら︑国はどうなるかわからず︑国
民は不安にかられていたからである︒﹂
女王を戴いたイギリスは異常事態にあったといわんばかりである︒ジェームズ王をむかえてようやく︑通常の状
態に戻ったと︑だれもが感じたのであろうか︒
女王の葬儀で弔辞を述べた聖職者の一人はチチェスター主教だった︒宰相ウィリアム・セシルに長年仕えたジョ
ン・クラバムは︑チチェスター主教の弔辞をこう伝えている︒
﹁チチェスター主教は確信にみちた声でこう言った︒女王が玉座におられたあいだ︑いかに多くの神の御祝福が
イギリスにみちたことか︒女王は信仰の守護者であられ︑平和をもたらす者であられ︑苦しむ者の救い主であられ
た︒女王は力のかぎりこの世を疾走され︑いまや︑永遠の幸福というゴールを手にされた︒女王をどれほど賛美し
ても賛美しきれない︒だが︑女王の偉業を引き継ぎ︑いや増すために︑思いもかけず神様がわれわれのために選ば
れた新しい王を賛美しようではないか﹂︒
弔辞のなかで女王は賛美されている︒しかし︑希望は新しい王にむけられている︒女性君主の時代がようやく去
り︑王が到来したことに安堵しているかのようだ︒
ア リ ス ・ バ ル ス ト ン の 犯 罪
ル ネ サ ンス の華 エ リザ ベ スー 世 とホ ー ム レス の女 性
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さて︑ここで︑話をアリス・バルストンにむけよう︒
一七世紀初頭のイギリスに︑アリス・バルストンのような浮浪者はどれほどいたのだろうか︒戸籍も国勢調査も
なく︑失業者数も定かでない時代だったから︑正確な数字をつかむのはむずかしい︒それに︑地域差もある︒浮浪
を理由に逮捕された人の数は︑ホワイトホール(政府)に報告がなされた年に限ってみると︑ 五六七年から七二
年にかけて︑年問平均︑一千五百人︑一六三一から三九年にかけては︑四千四百七十七人︒女性の浮浪者は︑二〇
から三〇パーセントだったという︒女性浮浪者はだいたい三つのタイプに分けられた︒自分を捨てた夫やパートナ
ーを探すうちに住所不定の貧困者になる場合︑娼婦︑そして未婚の妊婦と母︒
アリス・バルストンがドーセットの裁判官の前にはじめて姿を見せたのは︑雇い主から二五シリングを盗んだと
訴えられたときである(シリングの単位は一九七一年に廃止になった)︒一シリングは=一ペンス︒二五シリング
は三百ペンス︑三ポンドである︒当時の職人の日当は六ペンスぐらいといわれている︒三百ペンスは職人の五〇日
分の給料に相当する︒盗みが露見したとき︑アリスは︑雇い主から盗んだ二五シリングのうち二〇シリングを返し
たが︑五シリングを﹁食料やそのほかの生活必需品﹂に使ってしまっていた︒
この盗みから数か月後︑アリス・バルストンは二人の靴職人を訴えた︒ウッドベリー・ヒルの市(フェア)で︑
アリスは彼らと性交渉を持ち︑その礼に靴職人たちがアリスに金を支払ったと主張したのである︒この種の売春は
法律で禁じられたいた︒いっぽう︑靴職人たちは自分たちが寝ているあいだにアリスに金を盗まれたと訴えた︒
それから数か月後︑アリスが妊娠していることが判明した︒裁判で︑アリスは前言をひるがえして︑胎の子の父
は前の雇い主の男ではなく︑﹁ロング・ロビン﹂という名の男であるといった︒子どもの父親は前の雇い主だと言
い張っていたのは︑監獄で知り合った女性たちに入れ知恵されたためだったというα
それから数年を経て︑一六一一一二年のクリスマス・イブと元旦を︑アリスはとある酒場で過ごした︒酒場に︑盗賊
の一味が居合わせていた︒アリスは彼らの会話を小耳にはさんだ︒耳にした盗賊たちの会話を裁判所に通報し︑そ
れが記録された︒
アリスは一六二九年六月前後に亡くなり︑トマス・ゲング(↓げoヨ器ΩΦ農)なる男が︑アリスの子どもの養育
費を支払うように裁判所から命じられている︒一六二一二年以後に︑アリスは二度目の妊娠をしたようだ︒
アリス・バルストンの犯罪は︑窃盗と不法な性行為である︒最初の盗みで︑雇い主の家を追い出されて投獄され
た︒出獄したあと︑まともな生活にもどることができなくなり︑犯罪を重ねた︒職も住む場所も失ったアリスは︑
ウッドベリー.ヒルのフェアでふたりの靴職人と知り合い︑一時生活を共にした︒アリスの訴えによれば︑男たち
はアリスに性交渉を強要した︒いっぽう︑男たちは︑アリスが彼らの金を盗んだと訴えた︒この事件で︑アリスは
二度目の監獄行きとなった︒
刑期を終えて監獄を出たアリスはすぐに酒場に行った︒そして︑いっしょに刑期を終えた仲間と祝杯をあげ︑そ
のついでに一人の男と性交渉を持った︒その結果︑妊娠した︒当時︑婚外妊娠は犯罪であった︒仕事も家もなく︑
おまけに胎に子どもをかかえ︑命をつなぐためには盗みをはたらくほかなかった︒アリスは︑子どもが生まれるま
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で の 十 か 月 の あ い だ に ︑ 盗 み を 繰 り 返 し て い る ︒
ア リ ス は 他 家 で 奉 公 し な が ら ま と も な 生 活 を お く っ て い た ︒ と こ ろ が ︑ 最 初 の 罪 み を 犯 し て か ら は ︑ 堕 落 の 道 を
こ ろ げ 落 ち て ゆ く ︒ 底 辺 に 生 き る 女 性 が 犯 罪 者 の 烙 印 を 一 旦 捺 さ れ た ら ︑ 名 誉 を 回 復 す る こ と は む ず か し く ︑ 社 会
復 帰 は ほ と ん ど 不 可 能 だ ︒ 頼 り に な る 親 類 縁 者 も 知 り 合 い も な く ︑ 住 む 家 も 食 物 を 買 う 金 も 無 い 女 性 が 落 ち て ゆ く
先 は ︑ 売 春 か 物 乞 い か 窃 盗 で あ る ︒
ア リ ス の よ う な 女 性 た ち の 姿 は ︑ 犯 罪 者 と し て 裁 判 に か け ら れ た と き の 記 録 な ど か ら し か わ か ら な い ︒ も つ と 運
が よ い 女 性 た ち は ︑ 文 盲 で あ っ て も ︑ 筆 記 者 を 雇 い ︑ 遺 書 や 財 産 目 録 な ど を 作 り ︑ 生 き た 軌 跡 を 残 す こ と が で き た ︒
特 権 階 級 の 女 性 た ち は 文 字 を 所 有 し て い た か ら ︑ 手 紙 や 日 記 や 覚 え 書 き や 家 計 簿 や ︑ 創 作 な ど を と お し て 生 き た 証
拠 を 残 し た ︒
わ れ わ れ が 日 常 経 験 し て い る よ う に ︑ 問 題 が 起 き て も ︑ 裁 判 沙 汰 に な ら ず に 済 む 場 合 の ほ う が ず っ と 多 い ︒ ア リ
ス は 犯 罪 を 犯 し ︑ 裁 判 に か け ら れ た の で ︑ 生 き た 証 拠 を 残 し て い る ︒ し か し ︑ 問 題 も 起 こ さ ず 平 凡 に 生 を 終 え た
普 通 の 女 性 た ち は 時 の 闇 の な か に 葬 り 去 ら れ ︑ 痕 跡 を 残 す こ と は な い ︒
ア リ ス ・ バ ル ス ト ン 事 件 が 伝 え る こ と
ア リ ス ・ バ ル ス ト ン の 裁 判 記 録 か ら は ︑ 女 性 が 名 誉 と 生 活 基 盤 を 失 う の が い か に た や す い か わ か る ︒ 最 初 の 盗 み
が ︑ 彼 女 の そ の 後 の 人 生 を 決 定 し た ︒ 社 会 か ら は じ き だ さ れ ︑ 名 誉 を 回 復 す る こ と も ︑ 職 を 見 つ け る こ と も で き な
か っ た ︒ た っ た 一 つ の 罪 の た め に ︑ 靴 職 人 と の 事 件 で は ︑ 確 た る 証 拠 も な く 犯 人 に さ れ た ︒ 罪 を 一 つ で も 犯 せ ば ︑
別 の 事 件 の 罪 ま で な す り つ け ら れ て し ま う ︒ 弱 者 に 苛 酷 な 社 会 の メ ヵ ニ ズ ム で あ る ︒
女 性 が 犯 し た 罪 の 大 半 は 窃 盗 と 婚 外 妊 娠 と 幼 児 殺 し で あ る ︒ 女 性 は 婚 外 妊 娠 で 罰 せ ら れ る が ︑ 男 性 の 場 合 ︑ 証 拠
を 見 つ け る の が 困 難 な た め に ︑ お お か た が 罰 を の が れ た ︒ 男 性 に た い す る 告 発 は ︑ 性 的 な 問 題 も あ る が ︑ 多 く は 社
会 的 な 問 題 ︑ あ る い は 土 地 ・ 財 産 ・ 仕 事 な ど に か ら む 経 済 的 な 問 題 で あ る ︒ ほ か に ︑ 酒 を 飲 み す ぎ る ︑ 家 族 を 虐 待
す る ︑ 給 料 を 運 ん で こ な い な ど な ど ︑ 問 題 は 広 範 囲 に 及 ん で い る ︒
女 性 の 場 合 は ︑ 結 婚 し て い る か ど う か ︑ 家 族 が い る か ど う か ︑ い か な る 家 系 の 出 で あ る か ︑ 金 持 ち で あ る か ど う
か ︑ 読 み 書 き で き る か ど う か が ︑ そ の 女 性 の 価 値 を 判 断 す る 基 準 と な る ︒ ア リ ス の よ う な ︑ 金 も 家 族 も 地 位 な も も
た な い 女 性 が 社 会 規 範 を 一 度 破 っ た ら ︑ 社 会 復 帰 は む ず か し く ︑ 更 生 へ の 道 は ほ ど 遠 い ︒
エ リ ザ ベ ス 女 王 も ア リ ス ・ バ ル ス ト ン も 等 し く ︑ 男 性 優 先 の 父 権 性 社 会 の な か で 生 き た ︒ か た や 女 王 ︑ も う い っ
ぽ う は ホ ー ム レ ス の 浮 浪 者 ︒ 身 分 に は 天 と 地 の 差 が あ っ た が ︑ 二 人 と も 同 じ こ と を 社 会 か ら 期 待 さ れ た ︒ そ れ は ︑
ま と も な 結 婚 を し て 子 を 生 み 育 て ︑ 従 順 で 宣 籔 ⁝な 妻 と し て ︑ 慈 し み 深 い 母 と し て 生 き る こ と で あ る ︒ だ が ︑ 二 人 は
そ の 規 範 に 従 わ な か っ た ︒ 女 王 の 場 合 も ア リ ス の 場 合 も で き な か っ た と い っ た ほ う が よ い か も し れ な い ︒
男 性 よ り 富 ん だ 女 性 も い た し ︑ 男 性 よ り も 能 力 が あ り 教 養 あ る 女 性 も 大 勢 い た ︒ し か し ︑ 女 性 の 場 合 ︑ 何 よ り も
男 性 に 従 順 で 貞 節 で あ る こ と が 求 め ら れ ︑ 従 順 さ と 貞 節 に よ っ て ︑ 女 性 の 価 値 が 値 踏 み さ れ た ︒
イ ギ リ ス 国 教 会 の プ ロ テ ス タ ン ト 化 が 進 む に つ れ ︑ カ ル ヴ ァ ン 主 義 を 奉 じ る ピ ュ ー リ タ ン 的 な 女 性 観 が 力 を 強 め
て い っ た ︒ ピ ュ ー リ タ ン は 女 性 の 貞 節 と 従 順 を こ と さ ら 重 ん じ た ︒ 女 性 の 従 順 が 問 題 に な っ た と き は ︑ 男 性 が い か
ル ネサ ンス の 華 エ リザ ベ ス ー 世 とホ・一ム レ スの 女 性
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に 横 暴 で 理 不 尽 で あ っ て も ︑ 女 性 に 勝 ち 目 は な い ︒ 男 に 逆 ら う 女 と い う レ ッ テ ル を 貼 ら れ た だ け で ︑ 社 会 の つ ま は
じ き に な る ︒ こ の よ う な 社 会 の な か で ︑ エ リ ザ ベ ス に と っ て も ア リ ス に と っ て も ︑ 女 性 ら し く 振 る 舞 い ︑ 貞 節 で あ
る こ と は な に よ り も 大 事 な 財 産 で あ っ た ︒ 女 王 が 男 性 の 領 域 を お お っ ぴ ら に 侵 し た り ︑ 貞 節 を 疑 わ れ た り し た ら ︑
名 誉 が 傷 つ け ら れ ︑ 権 力 が そ が れ る ︒ 社 会 規 範 か ら 外 れ る 行 為 を 理 由 に ︑ 力 が 制 限 さ れ ︑ 反 乱 の 誘 惑 が 頭 を も た げ
る だ ろ う ︒ 処 女 王 と し て あ が め ら れ る こ と を 女 王 が 望 ん だ の は ︑ 社 会 が そ う 要 請 し た か ら で あ る ︒
ア リ ス の 人 生 は ︑ 父 権 性 社 会 か ら ド ロ ッ プ ア ウ ト し た 女 性 が い か に 悲 惨 な 運 命 を た ど る か を 物 語 っ て い る ︒ だ れ
ひ と り と し て ア リ ス の 更 生 を 期 待 し て は い な い ︒ 裁 判 に か け ら れ て も ︑ ア リ ス を 弁 護 す る 人 は な く ︑ 犯 罪 者 の ま ま
一 生 を 終 え た ︒ 無 力 な 女 性 の 現 実 ︑ ア リ ス を 守 る 男 性 の 不 在 ︑ ま と も な 身 分 の 欠 如 ︑ 婚 外 妊 娠 ⁝ ︒ ア リ ス は 社 会 か
ら は じ き だ さ れ ︑ 人 間 と し て の 尊 厳 す ら 守 る こ と が で き な か っ た ︒
最 高 権 刀 者 の エ リ ザ ベ ス 女 王 は ど う で あ ろ う ︒ エ リ ザ ベ ス 女 王 は ﹁弱 い 女 の 身 な が ら ﹂ と ︑ 女 性 で あ る こ と を 卑
下 す る こ と ば を し ば し ば 口 に し ︑ 神 経 質 な ほ ど に ︑ 自 分 の 貞 節 を 主 張 し た ︒ 内 に 燃 え る 情 熱 も 恋 も 総 り 殺 し て ︑ 処
女 王 と し て の 印 象 を 国 民 に 強 く 印 象 づ け よ う と ︑ あ ら ゆ る 策 を 講 じ た ︒ 国 王 の 場 合 と ち が い ︑ 女 王 は 国 民 の 信 頼 を
得 る た め に ︑ 真 実 は ど う で あ れ ︑ ﹁貞 節 ﹂ で あ ら ね ば な ら な か っ た の だ ︒
女 性 は 結 婚 す れ ば 夫 の 支 配 下 に 置 か れ ︑ 裁 判 を 起 こ す 権 利 は む ろ ん の こ と ︑ 持 参 金 や 実 家 か ら 相 続 し た 財 産 を 管
理 す る 権 利 も 失 う ︒ 女 王 と て も ︑ こ の 制 限 か ら 自 由 で は な か っ た ︒ 女 王 が 夫 を も て ば ︑ 王 権 は 半 減 さ れ る ︒ 独 身 を
貫 け ば ︑ 権 力 を 独 占 で き る ︒ そ の た め に は ︑ 大 き な 犠 牲 を 払 わ な け れ ば な ら な い ︒ 独 身 に た い す る 偏 見 ︑ 重 責 を ひ
と り で 担 ・ユ 可 酷 さ ︑ 後 継 者 の 欠 如 と そ れ に 伴 う 社 会 不 安 ︑ 孤 独 と の 闘 い ⁝ ︒
︑
女 王 は 結 婚 を あ き ら め た ︒ し か し ︑ 最 後 ま で 女 ら し さ を 装 い ︑ 王 の 心 で 武 装 し た ︒ 女 王 が 本 当 に 処 女 の ま ま 天 国
に み ま か っ た の か ︒ 事 実 が ど う で あ れ ︑ 処 女 王 と 賛 美 さ れ ︑ 葬 ら れ た ︒ い っ ぽ う ︑ ア リ ス は 未 婚 の 母 と な っ て 身 を
も ち く ず し ︑ 社 会 の 最 底 辺 に 沈 ん で い っ た ︒ 女 王 と 女 浮 浪 者 は ︑ 男 社 会 の 圧 力 を 受 け ︑ そ の 制 約 の な か で 生 き ︑ 異
な る 軌 跡 を 描 き な が ら も ︑ 合 わ せ 鏡 の よ う に 当 時 の 女 性 た ち が 置 か れ た 現 実 を う つ し だ し て い る ︒
エ バ の 末 商 と し て ︑ す べ て の 女 性 は 平 等 だ っ た ︒ エ バ の 末 商 と し て ︑ す べ て の 女 性 は 男 性 よ り も 罪 に 陥 り や す い
(と い わ れ て い た ) ︒ と い う こ と で は ︑ 女 性 は み な 平 等 で あ っ た ︒ つ ま り ︑ 女 性 は す べ て ︑ 女 王 で あ っ て も ︑ ア リ
ス ・ バ ル ス ト ン で あ っ て も ︑ 中 世 以 来 の 男 性 優 先 の 社 会 規 範 に よ る 差 別 を 受 け て い た の で あ る ︒ キ リ ス ト 教 が 女 性
た ち を こ の 頚 木 か ら 解 放 し よ う と 努 力 し た 痕 跡 は な い ︒ 女 王 が ︑ 女 性 君 主 と い う 特 殊 な 立 場 を 利 用 し て ︑ 女 性 の 地
位 の 向 上 に 努 め た 形 跡 は な い ︒ そ ん な こ と を し た ら ︑ 男 性 の 反 発 を か い ︑ 反 乱 を う な が し か ね な か っ っ た か ら で あ
る
エ リ ザ ベ ス 女 王 と ア リ ス ・ バ ル ス ト ン は ︑ 普 通 の 女 性 の 範 疇 に は 入 ら な い 極 端 な 例 で あ ろ う ︒ し か し ︑ 当 時 の す
べ て の 女 性 が 同 じ よ う な 運 命 を 背 負 い ︑ 同 じ よ う な 足 枷 を か け ら れ て い た ︒
信 仰 を と お し て 自 立 す る 女 性 た ち ー 信 仰 に 殉 じ た ア ン ・ ア ス キ ュ i
弔辞は故人の一生をしめくくる︒人びとは追悼のことばに耳を傾けながら︑いま一度︑故人の歩いた道をふりか
えり︑その人柄をしのび︑霊のやすらかなることを祈る︒イギリス国教会でも︑葬儀では︑牧師や説教者が故人を
ル ネサ ンス の 華 エ リザ ベ ス ー世 とホ ー ム レス の女 性
し の び な が ら ︑ 聴 衆 に 説 教 を す る ︒ 一 七 世 紀 の 初 頭 に ・ 葬 儀 の 説 教 が い く つ か ま と め て 出 版 さ れ た % そ の な か に は ・
故 人 と な っ た 女 性 を し の ぶ 説 教 も あ る ︒ 説 教 か ら は ︑ 彼 女 た ち の あ り し 日 の 姿 が 浮 か び あ が っ て く る ︒ 当 時 の 規 範
に 照 ら し て よ い 妻 で あ り ︑ よ い 主 婦 で あ り ︑ よ い 母 で あ っ た か ど う か ︒ と く に ︑ 故 人 の 信 仰 生 活 が 重 視 さ れ て い る ︒
故 人 は 生 前 ︑ よ き 信 仰 生 活 を お く っ た か 否 か ︒ よ き 信 仰 が 家 族 や 周 囲 の 者 た ち に ︑ よ い 影 響 を あ た え た か ︒
説 教 者 た ち は 例 外 な く ︑ 妻 た ち に む か っ て ︑ 主 に 仕 え る よ う に 夫 に 仕 え 従 い な さ い と 説 い た ︒ そ れ で も な お ︑ 夫
と は 違 う 信 仰 を 選 び ︑ み ず か ら の 道 を 歩 む 女 性 た ち が い た ︒
女 性 は 男 性 に 従 属 し な け れ ば な ら な い ︒ し か し ︑ 女 性 に 課 せ ら れ た 従 属 性 は ︑ 信 仰 生 活 を と お し て の み 乗 り 越 え
る こ と が で き る ︒ た だ 信 仰 に よ っ て の み ︑ 女 性 は 性 差 別 か ら 解 き 放 た れ ︑ 神 に ち か づ く こ と が で き る ︒ 信 仰 を と お
し て 自 立 を 果 た し た 女 性 は 少 な く な い ︒
女 性 た ち が 宗 教 に 生 き が い を 見 い だ し た 本 当 の 原 因 を 探 り あ て る の は 難 し い が ︑ 女 性 た ち が 信 仰 に 深 く か か わ る
よ う に な る 主 な 原 因 は 二 つ あ る と 考 え ら れ る ︒ 一 つ は ︑ 女 性 は 本 来 的 に 男 性 よ り も 感 情 的 で あ り ︑ 見 え な い も の に
献 身 す る 傾 向 が 男 性 よ り も 強 い こ と ︒ も う 一 つ は ︑ 家 事 と 育 児 に あ け く れ る 単 調 な 日 常 生 活 の な か で ︑ 精 神 的 な 充
実 感 を 望 む よ う に な り ︑ そ れ を 宗 教 に 求 め る こ と ︒ と く に ︑ 性 格 の 強 い 個 性 的 な 女 性 は 宗 教 に 生 き が い を 見 い だ す
傾 向 が あ る ︒ 家 事 や 育 児 は 男 性 の 仕 事 ほ ど 価 値 を 認 め ら れ て い な い ︒ 家 事 に あ け く れ る 日 常 生 活 か ら し ば し 逃 避 し ︑
生 活 の 外 に 生 き る 目 的 を 見 つ け ︑ だ れ に も 答 め ら れ ず に ︑ 内 面 を 発 露 で き る と こ ろ は ︑ こ の 時 代 ︑ 宗 教 以 外 に な か
っ た ︒ 宗 教 に 献 身 す る こ と に よ り ︑ 夫 や 父 の 束 縛 か ら 逃 れ て 自 分 自 身 に 立 ち 返 る こ と が で き る ︒
女性は﹁弱く愚か﹂だとみなされてきたが︑キリスト教は強い意志をもつ女性を意図的に取りこみ︑神の御業の
証明のために用いてきた︒聖書のなかにも︑信仰に生きる女性は数多く登場する︒現実世界でも︑たとえば︑一四
世紀の神秘主義思想家で﹃キリストの降誕に関する黙示﹄を著したスウェーデンの聖女ビルジッタや︑彼女に深く
帰依し︑キリストの幻視につき動かされて聖地にまで巡礼し︑イギリス初の自伝を遺した商人の妻マージェリー.
オブ・ケンプのような︑感受性が強く篤い宗教心を持った女性たちが︑世俗の人びとや宗教界に大きな精神的影響
をあたえた︒ルターに端を発するプロテスタントは︑信仰において男女に差はないと主張し︑進歩的な考えの女性
を取りこむことに成功した︒
イギリスでは︑一五三四年に︑ヘンリー八世がローマと決別して国教会が設立され︑プロテスタント国家の仲間
入りをした︒とはいえ︑霊界の首長がローマ教皇からイギリス王に替わったにすぎず︑ヘンリー八世時代のイギリ
ス国教会はローマカトリックの伝統をひきずっていた︒当時の国教会主義者は︑従来のカトリックの伝統を守ろう
とする保守主義者と︑カトリックの伝統を一掃し︑ただ聖書によってのみ神に近づくことをめざす進歩的原理主義
者の二派に分かれていた︒進歩的な原理主義者は︑カトリックの伝統のなかでも︑聖餐式︑カトリックのミサ典礼︑
聖職者の貞節の厳守︑聖日の行列︑煉獄の存在︑イコン︑マリア像などの聖イメージを槍玉にあげ︑迷信︑あるい
は時代遅れのしろものとして排除しようとした︒とくに︑聖別されたパンと葡萄酒をキリストの肉と血とであると
する秘跡を否定し︑キリストのシンボルにすぎないとした︒カトリックの信仰を棄てない人は国教会委棄者として
迫害されたが︑パンと葡萄酒をキリストの肉と血とであることを認めない過激な原理主義者も異端とみなされた︒
この時期に︑異端者として処刑された者は六〇人とも七〇人ともいわれている︒そのなかに︑女性の殉教者が四︑
ル ネサ ン スの 華 エ リザ ベ スー 世 とホ ー ム レス の女 性
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五入まじっている︒その一人はアン・アスキューである︒
アンが︑アリス・バルストンのように︑異端審問にかけられ処刑されなかったら︑彼女の名が歴史に残ることは
なかったであろう︒
一五四六年五月二四日︑ヘンリー八世の枢密院は︑﹁トマス・キムと︑その妻は︑召喚状を受けとってから一〇
日以内に出頭するべし﹂としためた召喚状を二人の従者にもたせて︑トマス・キムのもとに遣わした︒
この召喚状には︑﹁トマス・キムと︑その妻﹂と記されているけで︑アンの名もアンの実家の名も記されていな
い︒結婚した女性は︑夫の姓で呼ばれるのが慣習であった︒
一五四六年六月一八日︑三度目に召喚されたときは︑アンの名は︑枢密院の報告書に明記された︒
リンカンシャーのトマス・キムは︑アン・アスキューという名の女性と結婚しているが︑妻とともに枢密院に
召喚された︒トマスの妻は︑正当な理由がないのに︑彼が夫であることを拒絶している︒キムは︑再召喚される
まで︑帰宅を許された︒キムの妻は宗教を論じ︑自説を曲げず︑考えは向こう見ずで︑悪しき思想を持ち︑いかゆに教え諭しても効果がなく︑ニューゲイトに投獄され︑法にしたがって審問を受けることになった︒
アンはカルヴァンよりさらに過激な改革者ツヴィングリに心酔しており︑聖餐式でのパンと葡萄酒をキリストの
肉と血とであるとする秘跡を認めなかった︒そのために︑一五四五年三月=日に逮捕され︑二週間拘禁されて異
端審問を受けた︒いったん釈放されたが︑同年の六月一三日に再逮捕され︑﹁二人の逮捕者とともに︑異端審問を受
けた︒だが︑このときも︑彼女を有罪に追い込む証言者があらわれず︑釈放された︒
一五四六年六月︑アンは三度目の異端審問を受け︑原理主義的な信仰を理由に︑有罪とされ︑七月一六日に︑同
じ罪を被せられた三人の﹁異端者﹂とともに︑スミスフィールド刑場で火あぶりにされた︒二五歳の若さであった︒
アンの殉教は︑保守主義者にも改革主義者にも同様の強い衝撃をあたえた︒
アンを糾弾した保守主義者たちのなかには︑ロンドン司教エドマンド・ボナー︑ウィンチェスター司教スティー
ヴン・ガーディナー︑大法官トマス・リオゼズリ︑第三代ノーフォーク公爵トマス・ホワード︑枢密院議員リチャ
ード.リッチ卿(トマス.モアを有罪に追いこんだ法律家)など︑そうそうたる有力者が含まれている︒彼らの思
惑は︑アン・アスキューの背後に見えかくれする高位貴族の改革派の女性たちの名をアンの口から吐かせ︑彼女た
ちの夫たちを失脚させることにあった︒アンのパトロンとして︑ハートフォード伯爵エドワード・シーモァ(故ジ
エーン.シーモア王妃の兄)の妻アン︑枢密院議員でヘンリー八世の側近アントニー・デニーの妻ジョアン︑ライ
ル子爵ジョン・ダドリーの妻ジェーンなどの名があがっていた︒みな︑改革主義者として名高いキャサリン・パー
王妃と親しい夫人たちであった︒キャサリン・パーは︑冒非人の嘆き﹄(憲Φ卜山臼魯慰眠§⑦ミ山讐聴し︑﹃天国
のことを瞑想するようにするための祈り﹄(臣ΦぎヤO儲恥貯.ミ旨鴫暮Φ§賎出旨8穿勘く窪肯§匙慰駄O旨恥)を
上 梓 し 出 版 す る ほ ど 教 養 豊 か な 女 性 で ︑ 進 歩 的 な 思 想 の 女 性 た ち が 王 妃 の ま わ り に 集 ま っ た ︒ 王 妃 は 聖 書 講 読 会 を
主 催 し ︑ た が い に 信 仰 を 深 め あ っ た ︒ ﹁女 は 神 の こ と ば を 口 に す べ き で は な い ﹂ と 信 じ る 保 守 主 義 者 た ち に と っ て ︑
キ ャ サ リ ン 王 妃 は め ざ わ り な 存 在 で あ っ た ろ う ︒ 彼 ら の 最 終 的 な 狙 い は ︑ キ ャ サ リ ン 王 妃 を 玉 座 か ら ひ き ず り お ろ
す こ と に あ っ た の か も し れ な い ︒ だ が ︑ ア ン は 酷 い 拷 問 に も か か わ ら ず ︑ キ ャ サ リ ン 王 妃 の 名 を 口 に す る こ と は つ
ル ネサ ン スの 華 エ リザ ベ スー 世 とホ ー ム レスの 女 性
いになかった︒アンは︑ハートフォード伯爵夫人と︑デニー夫人からお金をもらい︑王妃のいとこニコラス.スロ
ックモートンの訪問を受けたことを認めた以外︑王妃との関与は否定した︒
アンはリンカンシャーの紳士(シエントリー)階級のウィリアム・アスキュー卿を父として一五二一年に生まれ
た︒一〇代の終わり頃に︑だいぶ年の離れたトマス・キム卿と結婚させられた︒キムは姉マーガレットの婚約者だ
ったが︑姉が結婚式をまえに亡くなったので︑姉に代わってアンがキムと結婚した︒一昔まえなら︑アンのような
宗教的な傾向の強い女性は修道院に生きる場所を求めたが︑修道院が取り壊されたので︑結婚以外に生きる場所が
なかった︒アンは夫とのあいだに二人の子をもうけたが︑家庭生活になじめず︑夫とは不仲であった︒宗教をめぐ
って教区牧師と言い争ったことを期に︑アンは婚家を追い出された︒アンはヘンリー八世が第一番目の王妃キャサ
リン・オブ・アラゴンを離別したときの理由(キャサリンはヘンリーと結婚する前︑ヘンリーの兄アーサーの妻だ
った︒﹃レビ記﹄(二〇・二二)はきょうだいの伴侶との結婚を禁じている)に倣い︑キムが姉の婚約者だった事実
(婚約は結婚と同様の重みをもつ)を理由に離婚を教会法廷に申し出たが︑拒絶された︒夫と別居してからは︑キ
ャサリン・パー王妃のように︑実家の姓を名乗り︑ロンドンに赴き︑神のことばを説き宗教活動を展開した︒
アンは三度逮捕され︑三度異端審問を受けた︒保守派の異端審問官たちはアンの新約聖書の知識の正確さに舌を
まいた︒たとえば︑大法官リオゼズリが︑アンに﹁女は神のことばを口にしたり語ったりしてはならないと︑聖パ
ウロは教えている﹂というと︑アンは慎重にことばを選んで︑大法官の解釈の間違いを指摘した︒そのときのこと
が︑異端審問の経過を克明に綴った﹁異端審問﹂(穿勘臼貯珪§ω)のなかで︑次ぎのように記されている︒
わたしは︑大法官にご︑つ答えました︒わたくしはあなたと同じくらい使徒パウロの教えの意味を知っておりま
す︒﹃コリント信徒への手紙この第一四章のなかで︑パウロは︑婦人たちに教会では黙っていなさい︑婦人た
ちは教会で語ることはゆるされておりませんといっているのであって︑神のことばを口にしてはならないといっ
ているのではありません︒それから︑わたしは︑大法官にたずねました︒これまでに︑説教壇にのぼって説教し
た女性を見たことがありますかと︒大法官は答えました︒一人も見たことはないと︒それをきいて︑わたしはい
いました︒哀れな女性たちのあらさがしをしないでください︑パウロの教えに背き法を破ったのなら別ですが蜘
アンは︑女性が語ることを禁じられているのは︑教会のなかにおいてであって︑日常生活全般にわたってでない翫
教会のなかで発言することこそ禁じられているが︑女性が神のことばをロにしてならないと︑聖パウロはいってい
ないと︑反論したのである︒
アンは雄弁だったが︑ときには沈黙によって︑審問に対抗した︒﹁聖餅を食べたねずみは︑神のめぐみを受けた
か否か﹂ときかれたときには︑アンは何もいわず︑ただ微笑した︒答えるに足らない愚問であることを︑微笑によ
ってほのめかしたのだ︒またアンは︑謎めいた︑ほとんど判じ物のようなことばで審問官たちを上手に煙にまいた︒
﹁祭壇の︑?えのサクラメント(パンと葡萄酒の聖体)は︑まことのキリストの肉体であるか否か﹂という核心に迫
る問いにたいしては︑アンはこう答えた︒﹁それなら︑わたくしがおたずねいたしましょう︒ステファノはなぜ石
打ちの刑にあって死んだのでしょうか︒﹂アンは答えを︑﹃使徒言行録一の七章と一七章に求めた︒神のことばを宣
べ伝えるステファノは︑神は﹁天地の主ですから︑手で造られた神殿などにはお住みにならない﹂(﹃使徒言行録
ル ネサ ン スの 華 エ リザ ベ スー 世 とホー ム レス の女性
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一七・二四)と主張したために︑殺された︒アンは︑神は人間の手で造られたもの︑すなわち聖餅などに宿らない
ことを暗示し︑カトリックの秘跡を間接的に否定したのである︒この時期になっても︑国教会の極端なプロテスタ
ント化を防ぐために一五三九年に発令された﹁五ヵ条﹂(穿O\}O鮮9㌦駿\一﹁職O︑Φ⑭)は健在だった︒この法律にも
とづき︑聖餐式の秘跡を認めない人は異端者と断罪されたのである︒
審問官たちは︑正確な聖書の知識を武器に反論するアンに手を焼き︑憎しみを募らせた︒死刑をいいわたしたあ
とでも︑アンを拷問にかけた︒これはあきらかな違法行為であった︒アンは骨が砕け︑肉がはみでるほど酷い拷問
を受けても︑自分の信仰を棄てようとはしなかった︒
一五四六年七月八日︑アンを拷問にかける五日前︑枢密院は︑聖書講読を禁じる触れを出した︒
﹁今後︑八月末日以降︑男︑女︑年令︑身分の差を問わず︑ティンダルあるいはコヴァディル訳の新約聖書を読
んではならず︑受けとっても︑所持しても︑貰っても︑所蔵していてもならない︒﹂
死を覚悟したアンは︑異端審問での問答を書き綴り︑世話係に持たせて牢外に持ち出させた︒アンの﹁異端審問﹂
は︑オッソリー司教をつとめたことのある亡命中の劇作家ジョン・ベイルの手に渡る︒プロテスタントに傾倒する
ベイルはアンの﹁異端審問﹂に深く感動した︒そして︑多くの人にアン・アスキューの殉教と彼女の﹁異端審問﹂
を知らせたいと願い︑彼女の生涯についての物語を書き添えて︑エドワード六世の時代になってから(一五四七年
に︑続いて一五五〇年︒一五八五年に再版され︑多くの読者をつかんだ)出版した︒ベイルは﹁アンは主イエス・
⑬キリストの貴重なる血によって聖人に列せられた﹂と記している︒
﹁異端審問﹂は︑異端狩りのお先棒をかついだスティーヴン・ガーディナー司教の教区でも読まれ︑ガーディナ
1司教は摂政エドワード.シーモアに宛てた一五四七年五月一二日付けの手紙のなかで﹁非常に有害で︑扇動的︑
中傷的な文書が出回っている﹂と︑報告している︒ガーディナーは同じ年の六月六日にも︑摂政に手紙を書き︑ア
ゆンの文書がたやすく手に入ることについて苦情を述べている︒
メアリー女王が玉座につきふたたびカトリックの世になると︑アン・アスキューの死に勇気づけられて︑多くの
市井の女性がプロテスタントのために殉教した︒
国教のプロテスタントからカトリックに回宗したイギリス女性のことも語ろう︒
少し時代はくだるが︑レディ・フォークランドこと︑エリザベス・ケアリーも信仰を理由に夫と別居し(夫ヘン
リー・ケアリーはのちに第一代フォークランド伯爵となる)︑自分の信仰を貫いた︒
一六〇二年に︑エリザベスはヘンリー・ケアリーと結婚し︑一一人の子どもをもうけた︒子どもたちにフランス
語︑スペイン語︑イタリア語︑ラテン語︑それにヘブライ語まで教えたという︒エリザベスは一六〇〇年に︑自作
の叙情詩と牧歌詩を収めた﹃イングランドのヘリコン﹄(穿魁§亀︑硫零ミ8)を出版した︒エリザベスは︑﹁学問
の愉しみ﹂(﹃舞⇒言σq.︒・qΦ一茜茸)と呼ばれて敬愛を集めた︒一六一三年に出版されたフランス風のセネカ劇︑嫉妬
に狂︑つ夫ヘロデ王に殺されるマリアム王妃の悲劇を扱った﹃マリアムの悲劇﹄(ぎ鴫o身鼠§鼠勘臼)はイギリス
における女性作家の手になるはじめての創作劇である︒
一六二二年︑エリザベスは夫の赴任地アイルランドから単身帰国すると︑カトリックに回宗したのちに︑﹁貞節
の誓い﹂(夫妻の別居を許す中世時代からの慣習法)をし︑夫と別居した︒母につづいて六人の子どもがカトリッ
クに回宗した︒四人の娘はフランスのカンブレーのベネディクト派のイギリス系修道会にはいり︑二人の息子は修
道士となった︒
エリザベスは夫と別居してから︑無韻詩の
いる︒ ﹃リチャードニ世の歴史﹄(§o霞陰9qミ霞o富ミさを出版して
ル ネサ ンス の華 エ リザ ベ スー 世 とホ ー ム レス の女 性
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キ ャ サ リ ン ・ ブ レ タ ー の 信 仰
葬 儀 の 説 教 は ︑ 聖 職 者 の 女 性 観 に よ っ て 歪 め ら れ る こ と が あ っ た ︒ 歪 み は プ ロ テ ス タ ン ト の 聖 職 者 よ り も カ ト リ
ッ ク の 聖 職 者 に ︑ よ り は っ き り 見 ら れ る よ う だ ︒ 改 革 派 (プ ロ テ ス タ ン ト ) に 属 す る 聖 職 者 は ︑ た と え そ の 女 性 の
生 き 方 が 社 会 規 範 や 教 会 の 教 え か ら 外 れ て い た と し て も ︑ 司 牧 者 に 耳 を 傾 け た か ど う か を 重 視 す る 傾 向 が あ る ︒
おキャサリン・ブレター(内o停巴昌Φ切話け叶興oqげ)の葬儀のときの説教が︑一六〇二年に出版された︒貴族でない女性を悼む説教が印刷されたのは︑イギリスでは︑これが最初である︒
キャサリンは次ぎの三つの点で普通の女性とは異なっている︒
まず︑キャサリンのために説教が二度なされている︒ランカスター地方では有名な二人の説教者︑ウィリアム.
ハリソンとウィリアム・リーの二人がそれぞれキャサリンについて語り︑彼女の生き方を賛美している︒
第二に︑一六〇二年にキャサリンを悼む説教が出版された際に︑作者は不明であるが︑キャサリンの生涯に関す
る記述が付された︒
第三には︑キャサリンのための説教が含まれている説教集は︑一六四〇年までに︑少なくとも六版を重ねた︒六
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版も重ねた説教集は類がない︒どれほど多くの人に愛読されたかが分かる︒付録のキャサリンの生涯は一六一二年
と一六三四年に︑単独で出版された︒それを︑サミュエル・クラークがイギリス人の宗教改革者に関ずる書を著す
際に︑自著のなかに含めた(一六五〇年)︒こうして︑市井の一女性の生涯が後世に伝えられることになった︒
キャサリンはチェシャーに生まれ︑実家の名はブルーエン(切≡Φコ)といった︒両親を亡くし︑だいぶ年のはな
れた︑宗教心の篤い兄ジョンに育てられた︒一五九九年にウィリアム・ブレターと結婚してリヴァプールに移り︑
二年後に︑風邪をこじらせて二二歳の若さで亡くなった︒
キャサリンと夫ウィリアムは緩やかなプロテスタント主義にあきたらず︑ともに原理派のピューリタンになった︒
ウィリアムはリヴァプールの警察署長だった︒ウィリアムが︑国教会の信徒になるのを拒否しているカトリック信
者を逮捕しようとしたことからチャイルドウォール教区で暴動が起こり︑ウィリアムの家畜や馬が襲撃された︒キ
ャサリンが亡くなったとき︑ウィリアム・ハリソンとウィリアム・リーはキャサリンを弔う説教をとおして︑説教
台からカトリックを厳しく批判したのである︒カトリック教徒たちは︑キャサリンが死の床で悪魔の誘惑に屈した
との噂を流していたが︑二人の説教者は噂を打ち消し︑キャサリンが立派なキリスト教徒として天国に旅立ったと
強調した︒このときなされた説教にキャサリンの生涯が付されて︑一六〇二年に出版されたのである︒
キャサリンの生涯でもつとも興味深いのは︑夫との関係である︒キャサリンは︑夫が召使に腹をたてているとき
には︑怒りを鎮めるように矢を諭し︑貧しい店子からは無理に家賃を取らないように助言した︒夫の家畜や馬を襲
撃したカトリック教徒にたいしては︑﹁あなたを呪った人たちを祝福するように﹂と勧め︑﹁懲らしめをあたえるの
は袖様にお任せしなさい﹂と語っている︒キャサリンは夫をさりげなく優しく導く女性であったようだ︒二人の説
教者はともに︑ウィリアムが妻キャサリンの導きのおかげで︑よりよい信仰生活をおくるようになったと述べてい
る︒篤い宗教心に支えられて︑短い結婚生活ではあったが︑キャサリンは夫とよい関係を築いたようだ︒
ル ネサ ンス の華 エ リザ ベ スー 世 とホー ム レ スの 女 性
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中年女性の再婚
レディ・マーガレット・ハーバート・ダヴェナーズもまた︑キャサリンのように︑家庭で主導権を握っていたよ
うだ︒彼女も︑篤い宗教心ゆえに歴史に名を残している︒
マーガレットはシュロップシャーの特権階級の家に生まれた︒若くして︑ウェールズ出身のリチャード.ハーバ
ート・モンゴメリーと結婚した︒夫は一五九六年に亡くなり︑マーガレットは一〇人の子どもと残された︒二人の
息子︑エドワード・ハーバートとジョージ・ハーバートは︑のちに作家として名をなす︒
夫が亡くなってから一二年ほど経ったころ︑マーガレットはサー・ジョン・ダヴェナーズと再婚した︒マーガレ
ットは四〇代であったが︑夫の年令はその半分ぐらい︑容姿の美しい男であった︒ジョンの収入だけでは︑大家族
を支えきれなかったようで︑結婚すると︑ジョンはロンドン近郊チェルシーにある妻の家に移っている︒
当時は︑四〇代の女性の再婚率は︑四〇代の男性の再婚率にくらべてずっと低かった︒,若い妻をめとる男性は多
かったが︑マーガレットとジョンのように︑妻の年令が夫の年令の倍というケースはまれである︒とくに︑ロンド
ンのような︑地方とくらべて男女の出会いの機会が多いところでは︑若い男が年配の未亡人と結婚する例は少なか
った︒
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そもそも︑未亡人の再婚はうんさくさい目で見られた︒一六世紀のスペインを代表する人文主義学者で︑ヘンリ
ー八世の娘メアリー王女の教育顧問を務め︑キャサリン王妃の依頼で﹃キリスト教徒の女性教育﹄を上梓したホア
ン・ルドヴィゴス・ビベス(一四九ニー一五四〇年)は︑年配になってから夫を亡くした場合は再婚せず︑祈りと
神への献身の日々をおくるように勧めている︒大いなる徳を備え円熟した未亡人は︑若い女性の手本となるべきで︑
社会にやたらに姿を見せずに︑ひっそりと暮らすように︑すすめている︒
教会は結婚を子孫を後世に残すために必要な制度と認め︑結婚を祝福した︒子を産む能刀のない年配の女性が若
い男を夫にすることは︑夫が子を持つ可能性を阻むことになるから︑悪しき行為と非難された︒
マーガレットの再婚のような︑年令や身分違いの結婚は︑階層社会のおきてを破るものとして︑非難された︒ウ
ィリアム・ゴージュは一六二二年に︑﹁家庭における義務﹂(OhuoヨΦω蔚巴∪三δω℃い8自8)という説教のなか
で︑﹁子どものような夫と結婚することは呪わしいことだ﹂と非難している︒
若い男が︑経済力があり︑見識も常識も備えた年配の女性を相手に主導権を行使し︑一家の主人としての地位を
確立し守ることは︑不可能ではないにしても︑困難をともなったであろう︒説教者たちはこぞって﹁妻が馬にのり︑
夫が徒歩で旅をすることは嘆かわしい﹂︑﹁自然は夫の肉体を妻の上に置き︑夫の顔を妻を支配するために造った﹂
と︑説いている︒
当時の社会規範からすれば︑マーガレット・ハーバート・ダヴェナーズは肉欲にかられて若い男との結婚に走っ
たと椰楡されてもしかたがなかった︒マーガレットが︑教会と社会の非難に恐れをなした形跡はない︒慣習や教会
の教えに隷属することのない︑自由な精神の持ち主であったようだ︒
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未亡人は︑男性と同等に法的に自立した女性とみなされ︑家や財産を管理する権利をあたえられた︒そのいっぽ
うで︑夫のない身であるがゆえに︑社交の機会が限られ︑交際範囲が限定された︒
経済的に自立し常識も見識もある未亡人マーガレットが再婚し︑夫の支配下に入る道を選んだ理由はなにか︒マ
ーガレットは再婚によって︑社会的な身分をあげた︒二番目の夫ダヴェナーズはダンビー伯爵の弟にあたり︑伯爵
は皇太子チャールズの友入でもあった︒それで︑マーガレットは︑身分の高い人たちと交際できるようになったの
である︒再婚してからほどなく︑ダンビー伯爵邸でもよおされた劇作家ジョン.マーストン(一五七五頃‑一六一二
四年)演出の余興に︑マーガレットも招待されている︒
セント・ポール大寺院の主任牧師であり︑有名な詩人ジョン・ダン(一五七三‑一六三一年)はすぐれた説教師
だった︒ときの国王チャールズ一世をまえにしばしば説教している︒ジョン・ダンはマーガレットのために詩を書
き︑彼女に献上した︒また︑一六二五年にロンドンが疫病に見舞われたときには︑ダンはチェルシーのマーガレッ
トの屋敷に避難している︒一六二七年︑マーガレットが亡くなったとき︑葬儀でジョン・ダンは故人を悼む説教を
した︒ジョン・ダンは︑マーガレットの再婚は神の御心にかなうものだったと述べている︒マーガレットとジョン
は互いを補い支えあう関係にあったようだ︒マーガレットは朗らかな女性で︑家政のやりくりや財産の運営も上手
だった︒夫はしっかり者で︑マーガレットより年長に見えたという︒
説教者はこぞって︑家庭における夫は︑牧師のような存在で︑妻をふくめて家族の信仰生活を正しく導く義務が
あると教えている︒マーガレットと最初の夫がどのような信仰生活をおくったかはわからないが︑ジョン・ダンの
説教から推察するかぎり︑二番目の結婚で信仰生活の主導権を握ったのは︑妻マーガレットであった︒マーガレッ