七世紀後半の瓦か らみた朝鮮三国 と日本 との関係 山 崎 信 二
1.は
じめに2.忍
冬唐草文軒 平瓦 につ いて 一百済 的 な もの と新 羅 的 な もの 一3.湖
東式軒瓦 につ いて 一高句 麗 的 な もの 一4。 樫 原廃寺式軒瓦 につ いて 一新羅 的 な もの 一
5。 おわ りに
要
旨
論文の主要な点は、 日本の7世 紀代の瓦は百済 との関係が強いが、とりわけ法隆寺の瓦 にお いて百済人との関係が強いことが指摘できること。また、7世 紀中葉の百済王子の日本渡来によって、
百済大寺の造営が進められ、百済か らの旧来の渡来人で、倭漢氏の支族であった人々が、百済王族 をと り囲む形で集住 しはじめること。百済滅亡後において、百済王子を難波に配 して日本国内おける百済国 の工としたが、これは法隆寺と密接な関係があること。法隆寺式忍冬唐草文軒平瓦を分類 し編年すると、
これらの瓦を出土する寺院のほとんどすべてにおいて百済人との関係が指摘できることである。一方、
日本の7世紀末の軒平瓦で紀伊上野廃寺・伯者斎尾廃寺などの独特の忍冬文を用いる軒平瓦があ り、こ の軒平瓦は包み込み式の新羅式の作 りであ り、主として7世紀に新羅から日本に渡来した人々の寺で主 に用いられたことを指摘 した。そして、6。 7世 紀の新羅軒丸瓦の編年を行ない、樫原廃寺の瓦におい ては、650年頃と、670年か ら680年頃までの二回にわたって新羅 との関係を有する瓦があったことを述 べた。最後に、高句麗的なるものとして、湖東式軒丸瓦・軒平瓦について述べ、粘土紐桶巻作 り、軒丸 瓦瓦当裏面の丸瓦接合のための刻み、瓦当面の中房の突出と蓮弁の盛 り上が りの点において、湖東式軒 瓦 を生み出したのは高句麗からの亡命者であることを述べた。
キーワー ド
法隆寺式忍冬唐草文軒平瓦 と百済
紀伊上野廃寺式忍冬唐草文軒平瓦と新羅
湖東式軒 瓦 と高句麗
奈 良文化財研 究所
都城発掘調査 部
山崎信 二
1. 1ま
じめに
私 は、 1983年 3月 に「後期古墳 と飛鳥 白鳳寺 院」1と い う論文 を書 いたのであるが、英文 テ ーマ は当時の編 集者 田中琢・佐原真両先生 に よって、6・ 7世紀 にお け る横 穴式石室 と初期 仏教寺 院 と朝鮮 か らの渡来人 との関係 と訳 された。 その後 、私 は藤原官 式の瓦 を除けば、7 世紀 の瓦 につ いて論考 を全 く書 くことはなか った。
ところが、2003年4月 に飛鳥藤原宮跡発掘 調査 部 に転 勤 してか らは事 情が異 なって きた。
1つ 日は、古代 瓦研究会の代表 を毛利光俊彦氏か ら要請 されて受 けるこ とにな り、「ナII原寺式 軒瓦 の成 立 と展 開 (1)(2)」 (2003年・2004年)23、 「法隆寺 式軒瓦 の成立 と展 開」(2005年)4、
「雷文縁 ・輻線 文縁・重 圏文縁 の複弁蓮華文軒 丸瓦 の展 開」(2006年)5、 「重弁蓮華文軒丸瓦 の展 開」(2007年 )6と、5回連続で司会 を行 った こ とであ る。 司会 を行 な う前 に、 これ まで に 発 表 された論 文 を読み、資料収集 を行 なったため に、 それ ぞれの テーマ につ いて、私 な り に独 自の考 えが生 じて きた。
2つ 目は、藤 原転勤 と共 に、韓 国国立文化財研 究所 との共 同研 究の窓口 。実務責任者 にな つた こ とであ る。 そのため、2004年 に新羅王京 の瓦 、2005年に慶 州仁 旺洞 の瓦、慶州天官 寺 の瓦 な どを国立慶州文化財研 究所 において実見す るこ とが で きた。
一 方、科学研 究 費の テーマであ る「古代東 アジアにお け る造瓦技術 の変遷 と伝播 に関す る研 究」(2005〜 2008年
)の
、2006年 度か らの研 究代表 を、 これ も毛利光氏か ら要請 されて受 け る こ とに な っ た。 このため、2006年に風納土城 の瓦 、皇龍寺 の瓦 を実見 す ることがで き た。 この ように して1983年当時の論文作成時 には実見 しなかった韓国の瓦 を、今回親 しく 実見 。拓本 。実測する機会 を得たのである。このように自らの積極的な意志ではないが、 まわ りの方々の段 どりによって再び7世 紀の 瓦 についての資料が私のファイルに増加 しは じめたのである。 この ような時 に、 日韓文化 財論集が提案 された。韓国 との共同研究の窓口・実務責任者 として当然、論文 を書 くべ き 立場 に立たされた訳である。か くして、論文作成 を前提 としての調査旅行 を韓国国立文化 財研究所の段 どりでお こなうことにな り、2006年に帝釈寺の瓦 (国立全州および公州博物館所 蔵)、 中原塔坪里寺址の瓦 (回立清州博物館所蔵
)を
実見す ることがで きた。 さあ、後は論文を書 くだけである。
以下で論 じるのは、主 として「法隆寺式軒瓦の成立 と展 開」お よび「重弁蓮華文軒九瓦 の展 開」 の司会 に際 して、私独 自の見解が生 じて来た内容 を基本 とし、比較資料 として 2004年 か ら2006年 までの韓国での瓦調査の成果 を随所 に散 りばめなが ら、共同研究の責任 の一端 をにないたいと思 う。
七世紀後半の瓦か らみた朝鮮三国と日本 との関係
2.忍 冬唐草文軒平瓦について ―百済的なもの と新羅的なもの 一
日本の7世 紀末の軒平瓦で法隆寺式忍冬唐草文軒平瓦 と呼ぶべ き一群がある。 この軒平瓦 は日本式の作 りであ り、主 として6世紀後半か ら7世紀前半に百済か ら日本 に渡来 した、古 い百済系の渡来人の寺で主に用い られた。
一方、 日本の7世 紀末の軒平瓦で紀伊上野廃寺・伯者斎尾廃寺 などの独特の忍冬文を用い る軒平瓦がある。 この軒平瓦は包み込み式の新羅式の作 りであ り、主 として7世 紀 に新羅か ら日本に渡来 した人々の寺で主に用い られた、 というのがこの章の要点である。
最後に韓国側の資料 として、統一新羅の忍冬文軒平瓦、帝釈寺の忍冬文軒平瓦、中原塔 坪里寺l■の忍冬文軒平瓦について述べ る。
A.法
隆 寺 式 忍 冬 唐 草 文 軒 平 瓦法隆寺式忍冬唐草文軒平瓦の特徴 については、次の3つ の項 目をあげることがで きる。
① 全なの文様 としては、「中央の宝珠形の中心飾 りの左右 に忍冬唐草文をだいたい3回反転 させたもの」7。
② 中心飾 りとしては、中央 に外廓が宝珠形の中心飾 りをつ け、中心飾 りの内廓 は九い も の (A)、 内廓の外側が丸 く内側だけがハー ト形の もの (B)、 内廓の文様全体がハー ト形 の もの (C〜
F)が
ある。 さらに細分すると、内廓 と外廓の文様の間に、遊線がない もの (A〜C)、 右側のみ(D)又
は左側のみ (E)に遊線があるもの、両側にあるもの (F)など がある。③ 唐草文の特徴 として、唐草文の主葉 (茎
)は
2本線で描 き、結節部 を作 ってそ こか ら枝 葉 を派生 させ るものである。唐草文の展開をやや細か く描 くと、第 1単 位 と第2単 位の結節部では、強い曲線・ゆるや かな曲線の枝葉 を3本 程配するが、第2単 位では一方に吉 を配するもの と配 さない もの との 差があ り、他方では3本 の枝葉の うち最 も巻 きの強い曲線の先端付近か ら新たに4本目のゆ るやかな曲線の枝葉 を派生 させている。
この2本の曲線の組み合わせか らなる複合 曲線 こそが、法隆寺式軒平瓦の最大の特徴であ り、その祖型 (法隆寺東院下層出±
215A)に
おいては、第1単位か ら長 くゆるやかにのびる曲 線 と、第2単 位の短 くて巻 きの強い曲線の先端が文様の配列上、たまたま接 していたものが、次の法隆寺西院創建期 においては (216A)強固に結合 された もの として、一本の枝葉 を分 離・分割せ しめ、複合 曲線 なるものを生み出 しているのである。即 ち、 この文様 は法隆寺 の軒平瓦 においてのみ初期の展開の仕方が追えるのであ り、法隆寺の工房 とで もい うべ き 空間で派生 した文様なのである。
これを中心飾 りの判別で きるもので、全 国の法隆寺式忍冬文軒平瓦 を分類す ると次の よ
山崎信二
:
第 珂図
法隆寺式忍冬唐草支軒平瓦 (1:5)
法隆寺(1・2)平隆寺(3)山村廃寺(4)新部大寺(5)下大田廃寺(6)繁昌廃寺(7)吸谷廃寺(8)仲村廃寺(9)
七世紀後半の瓦か らみた朝鮮三国 と日本 との関係
うになる (なお、*印 は唐草文第2単位に菅のあるものである)。
① 中心飾 りの内廓が丸いもの (A)と、内廓の外側が丸 く内側だけがハー ト形の もの (B)
法隆寺
215AS(*第
1図 1)、 法隆寺216A8(*第
1図2)、 平隆寺例。(*第1図3)、 山村廃寺 例Ю(*第1図4)、 播磨新部大寺例H(*第
1図5)、 播磨下大 田廃寺例ワ(*第1図6)、 播磨 繁昌廃寺例13(第1図7)。 吸谷廃寺例 (第1図8)、 讃岐仲村廃寺例る(*第1図9)② 内廓の文様全体がハー ト形のもの、遊線はない (C)
法隆寺216B8(第2図1)、 法輪寺216Dい (*第2図2)、 近江樋 ノロ瓦窯例▼(*第2図3)、 伊 賀三田廃寺例
B(*第
2図5)、 摂津細工谷瓦窯例Ю、摂津芦屋廃寺例20(*第2図4)、 土佐比 江廃寺例劉 (*第2図7)
③ 内廓の文様全体がハー ト形のもので、右側のみ遊線があるもの (D)
法隆寺216C8(第2図8)、 摂津大田廃寺例22(第2図9)
④ 内廓の文様全体がハー ト形のもので、左側のみ遊線があるもの (E)
河内渋川廃寺例23(第3図1)
⑤ 内廓の文様全体がハー ト形の もので、左右両側に遊線があるもの (F)
法隆寺
218AB(第
3図2)、 中宮寺218Bい (第3図3)、 法起寺217Cい (第3図4)、 額安寺例(第3図5)
⑥ 内廓の文様全体がハー ト形の もので、左右両側に横方向の二本の遊線があるもの 豊前虚空蔵寺例
2(*第
3図6)まず、① について述べ よう。法隆寺215Aは、法隆寺式軒平瓦の祖型であ り、籠型 を用い る最初の軒平瓦で、7世 紀中頃の年代である。
次に法隆寺216Aは、法隆寺西院伽藍の金堂 。塔創建瓦である。その実年代 は、天智八年 (669)の 、「是の冬 に、斑鳩寺 に災け り」、天智九年 (670)の 夏四月に、「法隆寺 に災け り、
一屋 も餘 ることなし」(『日本書紀』)、 以後に製作 された軒平瓦であるか ら、上限を675年頃と 考 えてよいだろう。
Bグ
ループの中では、法隆寺216Aと平 隆寺例 との前後関係が微妙であ り、他 は法隆寺 216A以後の もの とみて誤 りない。平隆寺例 との比較では、右側第 2単 位の「複合 曲線」 は、平隆寺例が硬化 してお り、平隆寺例か ら法隆寺
216Aへ
の影響 はあ りえず、や は り法隆寺 216Aが先行するとみてよい。山村廃寺例 も、法隆寺216Aの模倣であろう。播磨新部大寺例 も法隆寺216Aの模倣だが、山村廃寺例 よ り模倣の仕方が よくない。播磨下太田廃寺例は播 磨新部大寺例の模倣であ り、吉の形骸化、結節部の形骸化 な ど、かな り年代 の降るもの と 考 えてよい。讃岐仲村廃寺例 は播磨下大 田廃寺例の模倣であろう。 なお、播磨繁 昌・吸谷 廃寺例は吉を持たないが、播磨新部大寺例の模倣であろう。山崎信 二
2
聘
>■
rr・―
t…VP魯7
三
=
第2図
法隆寺式忍冬唐草支軒平瓦 (1:5)
法隆寺(1,8)法輪寺(2)樋ノロ瓦窯(3)芦屋廃寺(4)三田廃寺(5)細工谷瓦窯(6)比江廃寺(7)太田廃寺(9) TⅢ孝
甲 ♂
「 i::li:::;:,ヽ
七世紀後半の瓦か らみた朝鮮三国 と日本 との関係
f
﹂
一 一 畑
0
/ ヽ
脚 序 ヽ
第3図
法隆寺式忍冬唐草支軒平瓦 ほか (1:5)
渋川廃寺(1)法隆寺(2)中宮寺(3)法起寺(4)額安寺(5)虚空蔵寺(6)堂ヶ芝廃寺(7・8)勝山南遺跡(9〜 12)
∈
山崎信二
以上をまとめれば、次のようになる。
法隆寺
216A(第
1図2)一
→ 平隆寺例 (第1図3)山村廃寺例 (第1図4)
磨新 部大寺例 (第1図
5)→
下太 田廃寺例 (第1図6)→
讃岐仲村廃寺例 (第1図9)L繁
昌・吸谷廃寺例 (第1図7・ 8)法隆寺216Aの 年代の上限が675年頃として、讃岐仲村廃寺例は組み合 う軒丸瓦の文様構成 および断面形にみ られる文様の平坦さか らみて、藤原官期併行 とみてよかろう。即ち、こ れらの諸形態は675年頃から700年頃までに製作 されたものと想定できる。
②のグループについては、法隆寺216Bに蓄はないのに、他の5例には吉があるから、216B は祖型 とはなりえず、法輪寺216Dが 祖型であることは明らかである。法輪寺216Dに 酷似す るのは近江樋 ノロ瓦窯例 と伊賀三田廃寺例で、法輪寺例 とかな り近接 した年代にあるとみ てよいだろう。摂津芦屋廃寺例は、必ず しも法輪寺例の直接の模倣 とは言えないが、文様 自体はかなりしっか りしていると言ってよい。摂津細工谷瓦窯例は唐草文第2単位に吉がな いので、法隆寺216Bを模倣 したものと考えられる。土佐比江廃寺例は、法輪寺216Dの 影響 下に生まれたものとしてよかろう。以上をまとめると次のようになる。
法輪寺
216D(第
2図2)一
→近江樋ノロ瓦窯例 (第2図3)
伊賀三 田廃寺例 (第2図5) 摂津芦屋 廃寺例 (第2図4)
土佐比江廃寺例 (第2図7)
法隆寺
216B(第
2図1)一
摂津細工谷瓦窯例 (第2図6)法輪寺 については『上宮聖徳太子伝補閉記』に、「斑鳩寺被災之後、衆人不得定寺地。故 百済入師率衆人、合造三井寺」 とあって、石 田茂作氏 は「法輪寺忍冬文 こそ」「基本形態」
で、「法輪寺建築に流いて先づ使用 された」25と論 じたことがある。
そこで法輪寺216Dと 法隆寺216Aと の比較が必要になって くるが、法輪寺216Dの唐草文第 2単位の「複合 曲線」 は、法隆寺216Aのような微妙な形態ではな く、
216B'Cの
ように定型 化 しているのが注意 される。 したがって、法隆寺216Aと 法輪寺216Dと が同 じ頃に出現 した とみることは可能だが、 まず法輪寺で「此の忍冬文宇瓦 を先づ試用 し」「使用 され」、「それ が好評であった為法隆寺再興 に大々的に使用 した」25とみることはで きないと思 う。法輪寺216Dの年代 は、法隆寺216Aの創建年代 に近い670年代の後半 と考えてよいだろう。
そ して、最後の摂津細工谷瓦窯例は、やは り藤原宮期併行 とみてよいだろう。
① のグループは、中心飾 りに右側のみ遊線のある法隆寺216Cと 摂津太田廃寺例の 2例 で ある。法隆寺216Cは 、西院伽藍の創建期の瓦であるが、組み合 う軒丸瓦は法隆寺37Bで 、文
七世紀後半の瓦か らみた朝鮮三国 と日本 との関係
様が平坦 なことか らみて、 どんなに遡 って も天武朝であろう。摂津太田廃寺軒平瓦は、 き わめて稚拙 な文様である。 しか し法隆寺軒丸瓦37Bと摂津太田廃寺軒丸瓦 とが同籠で、組み 合 う軒平瓦の中心飾 りに右側のみ遊線のあるのは、法隆寺216Cと 摂津太田廃寺例 との2例 し か 日本では存在 しないことは注 目して よい。法隆寺37Bは 絶傷進行か ら5段階に追えるが、
摂津太日廃寺例は抱傷が2段 階 目の比較的初期の ものである。
①の左恨]のみ遊線のあるものは河内渋川廃寺の1例のみであ り、それは右側のみ遊線が ある法隆寺216Cの 文様 を表裏反転 した もの と考えることもで きる。
⑤のグループの左右両狽1に遊線があるものは法隆寺218Aなどであ り、218Aは西院伽藍の 創建瓦で、軒九瓦37Daと 組む可能性が指摘 されている。中宮寺の218B、 法起寺の217Cお よ び額安寺例 もほぼ同時期の もの と考 えられる。法起寺出土の217Cに ついては、『聖徳太子伝 私記』所収の岡本寺の項 に「法起寺塔露盤銘文」20がぁ り、それには乙酉年 (685)に恵施僧 正が堂塔 を構立 し、丙午年(706)の三月に露盤 を営み作 るとあることか ら、700年頃の年代 と
してよかろう。⑤のグループの瓦全体の年代が、ほぼ藤原宮期 にあるとみてよいであろう。
次 に⑥ の豊前虚空蔵寺例 について、藤原宮期 とみ ることもで きるが、一方、和銅六年 (713)以降 とみる見解 もある94。
以上が法隆寺式忍冬唐草文軒平瓦の実年代である。
B.法
隆 寺 式 忍 冬 唐 草 文 軒 平 瓦 と組 む軒 丸 瓦 (法隆寺 式軒 九 瓦)中心飾 りのタト狽Iが丸い文様 をもつ軒平瓦 (①のグループ
)に
おいて、 まず法隆寺216Aは軒 丸瓦37A(蓮
子1+7+11)と
組む (第4図1)。 線鋸歯文縁複弁蓮華文軒丸瓦。播磨新部大寺例 は組む軒丸瓦が不明だが、下大田廃寺 (第4図6)。 仲村廃寺 (第4図7)は
線鋸歯文縁複弁蓮 華文軒丸瓦 と組む (前者の蓮子は1+4+8、 後者の蓮子は1+7+8)。 一方、繁昌廃寺 は単弁蓮華 文軒丸瓦 と組むようである。なお、法隆寺軒丸瓦37Aの範型は四国へ流出 し、阿波西原瓦窯 で軒九瓦が焼成 (第4図2)さ
れる。次に、平隆寺の軒平瓦は面違鋸歯文縁複弁蓮華文軒丸瓦(蓮子
1+6+12:第
4図3)と組み、軒丸・軒平瓦のセ ッ トは伊予中ノ子廃寺・朝生田廃寺 にも あるとされる。 しか し伊予の同絶軒瓦 は、 じつは大和の平隆寺 に近接す る瓦窯で出土 した 多数の軒瓦 を柳原多美男氏が大和の骨童屋・収集家か ら入手 して、それを伊予で出土 した と主張 したにす ぎない、 と私 は考 えている。一方、山村廃寺の軒平瓦は、線鋸歯文縁有子 葉単弁蓮華文軒丸瓦 と組み合 う。中心飾 りがハー ト形 の もので遊線 のない軒平瓦 (②のグループ
)に
おいて、 まず法輪寺 216Dは複弁蓮華文軒丸瓦 (法隆寺37E:第4図4)(蓮子1+8+16)と
主 として組み合い、古式 の法隆寺37Aと 同絶の軒丸瓦 (第4図8)が
補足瓦 として組む とされる。一方、近江樋 ノロ瓦 窯軒平瓦は、手原廃寺 (第4図5)や
東光寺跡出土例か らみて面違鋸歯文縁複弁蓮華文軒丸瓦(蓮子
1+6+12)と
組み、伊賀三田廃寺で も面違鋸歯文縁複弁蓮華文軒丸瓦 (第4図9:蓮子1+山崎信 二
F 日
坦
第4図
法隆寺式軒丸瓦 (1:5)
法隆寺(1)西原瓦窯(2)平隆寺(3)法輪寺(4・8)手原廃寺(5)下大田廃寺(6)仲村廃寺(7)三田廃寺(9)
芦屋廃寺(10)
七世紀後半の瓦か らみた朝鮮三国と日本 との関係
lilll\ 、
携 鞠 Ю 寡 塞 多 E子 を 筆
ll
第5図
法隆寺式軒丸瓦 な ど (1:5)
長林寺(1)法隆寺(2・ 7)中宮寺(3)額安寺(4)東光寺跡(5)西琳寺(6)法起寺(8)益須寺(9〜11)
山崎信二
6+12)と
組む とみて よい。 さらに摂津芦屋廃寺で も、面違鋸歯文縁複弁蓮華文軒丸瓦 (第4 図10:蓮子1+6+11)と
組 む。以上軒九・軒平瓦 をセ ッ トとしてみ ると、近江樋 ノロ瓦窯 例・伊賀三田廃寺例・摂津芦屋廃寺例 は (あるいは長林寺・西琳寺例も含むか)、 面違鋸歯文縁 や中房蓮子の配置か ら軒丸瓦は平隆寺例 に酷似す る一方で、軒平瓦の方は法輪寺例 に酷似 することがわかる。次に中心飾 りの右側のみ遊線のある軒平瓦 (③のグループ
)に
ついては、法隆寺216C、 摂 津太田廃寺例 とも軒丸瓦が37B(第
5図2)と
組み合い、同籠であることは先述 した。中心飾 りの左右両側 に遊線のある軒平瓦 (⑤のグループ)に
おいては、 まず法隆寺218Aは線鋸歯文 縁複弁蓮華文軒丸瓦37Da(第
5図7:蓮子1+6+10)と
組む とされ、中宮寺では線鋸歯文・珠 文縁複弁蓮華文軒丸瓦53A(第
5図3:連子1+6+11)と
組み、法起寺では線鋸歯文縁複弁蓮 華文軒丸瓦37F(第
5図8:蓮子1+8+16)と
組むようである。額安寺で も線鋸歯文縁複弁蓮華 文軒丸瓦 (第5図4)と 組む。グループ⑤ については、線鋸歯文縁複弁蓮華文軒丸瓦 と組む傾 向が強 く、中官寺例では珠文縁 まで加 わ り、藤原官の軒九瓦 と同一の特徴 を持つ ようにな って きている。以上述べて きたことを軒丸・軒平瓦を組み合わせて年代 を考えると次のようになる。
(1)軒
平瓦 の祖 型 は、斑 鳩寺又 は法 隆寺東 院下層 の軒平瓦216Aで
あ り、7世紀 中葉 の 年代である。(2)法
隆寺金堂のセ ッ トをなす軒瓦 の組 み合せ37A‑216Aが
、や は り法 隆寺式軒瓦 の セ ッ トとして は最古 であ り、その年代 は675年 前後 である。軒九瓦の断面 にみ える中 房が円形に突出する特徴 をもつ。(3)次
に古 いのが、平隆寺例 。法輪寺例 。近江樋 ノロ瓦窯例 。伊賀三 田廃寺例・摂津芦 屋廃寺例であ り、法輪寺 を除けば軒九瓦 は面違鋸歯文縁で、軒丸瓦の断面 にみ られる中 房が まだ円形 に突出す る特徴 を保 っている。 これ らの諸例 と山村廃寺例が670年 代後半 以降の天武朝 (672〜686)の 瓦であろう。(4)本
論で述べ た残 りの軒丸瓦・軒平瓦 は持統朝 。文武朝の年代 の もので、 ほぼ藤原宮 の時期 と併行する年代 にある。軒丸瓦の断面は平坦で、軒平瓦文様は形式化 している。C.法
隆 寺 式 軒 瓦 が なぜ 百 済 と関係 が あ る の か① 法隆寺の創建 と再建
法隆寺の創建 と再建時の造営主体 については必ず しも明 らかではない。創建 については、
聖徳太子 による造営 と、太子追善のための造営 との説があ り、再建 についてはさらに不明 な点が多い。そこで まず、仏像光背 などに記 される具体的な人物名 をあげ、そこか ら造営 主体 と工人を考えることとし、天皇 と聖徳太子 を除 く人名 をあげると次の三例がある。
A.癸
未年 (推古三十一年:623)銘
の釈迦 三尊像27にとよ、 司馬鞍首止利仏 師が造 る こ と七世紀後半の瓦からみた朝鮮三国 と日本との関係
を記す。
B.法
隆寺 金堂 の広 目天像 光背271こ、「 山 田大 口費、上 而、次、木 開二 人作也 」 と記す。
書紀 の 白雉元年 (650)の「是 歳 、漢 山口直大 日、詔 を奉 りて千仏 の像 を刻 る」 に対応 す る もの とみ られ る。
C.法
隆寺 の銅板 造像 記 一枚271こは「 甲午年 三 月十八 日、鶴大寺 の徳聡 法 師 、 片 岡王寺 の 令 弁 法 師、飛 鳥寺 の弁聡 法 師 ら三僧 、所 生 の父母 の恩 に報 い むが ため、敬 みて観 世音 菩 薩像 を奉 る」 と し、 この三僧 に共通す る「族 は大原博士 、百済 に在 りて は王 、此 の 土 にては王姓」 と記す。 甲午年 は、持統八年 (694)と す るのが定説であ る。この光背銘 の銘文、 それぞ れ に射応 す る年代 にお いて、法隆寺 の軒平瓦 に は注 目すべ き 次の ような特徴があ る。
Aの年代 に近 い もの:法隆寺 の手彫 り忍冬唐草 文軒平瓦。法隆寺例で は切 り抜 きの型紙状 の もの を小 さな針 で粘土 瓦 当 に とめ て、工 具 で忍冬唐草文 を彫 り込 む。一方 、 坂 田寺 で は フ リーハ ン ドで工具 を用 いて忍冬唐 草 文軒平瓦 を彫 り込 む。手彫 り忍冬唐 草 文 軒平瓦 は坂 日寺 と法隆寺 に しかない。坂 田寺 は倭漢氏支族である鞍作村主の氏寺であ り、 その うち鳥 仏師は仏工 として有名であ り、 また
Aの
光背にも止利仏師と銘文を刻む。Bの 年代 に近いもの:法隆寺の型押 し忍祭唐草文軒平瓦。法隆寺では213A、 213Bの 2種 の型押 し軒平瓦があ り、百済大寺 と考 えられる吉備池廃寺では法隆寺213Bの型押 しを用い て軒平瓦 を製作す る。吉備池廃寺 の方が籠傷が進行 してお り、法隆寺用の型押 し具を使っ たことがわかる。吉備池廃寺・百済大寺の造営長官は舒明十一年紀 (639年
)で
は、倭漢氏 である書直縣である。Cの年代に近 く、法隆寺再建当初の もの :法 隆寺西院創建軒瓦は
37A‑216Aの
組み合 わせ が金堂所用瓦であ り、その うち軒丸瓦37Aの範型が後に四国へ流出 し阿波西原瓦窯で焼かれ、また軒平瓦216Aについては摂津堂 ヶ芝廃寺例 と同施であろうと考えられてきた。一方、最 近の発掘成果によると、摂津勝 山南遺跡で も、法隆寺216Aと 同籠の軒平瓦が 出土 し、法隆 寺37Aに文様が酷似する軒丸瓦が (これはどうも別範らしい
)出
土 している。1996年に藤澤一夫氏 は「摂津百済寺考」28において「堂 ヶ芝町」の寺跡が、百済寺 に当た ると確言 している。堂 ヶ芝廃寺のす ぐ北側 には細工谷遺跡があ り、「百済尼」「尼寺」 と記 された墨書土器が出土 し、 この遺跡が百済尼寺 と考えられている。。一方、堂 ヶ芝廃寺か ら 南へ約800mの勝山南遺跡では、先述の法隆寺216Aと 同範の軒平瓦が出土 し、軒丸瓦 も
37A
にきわめて酷似 していることが明 らかになっている29。この堂 ヶ芝廃寺・細工谷遺跡・勝 山南遺跡の場所は「摂津百済寺」「摂津百済尼寺」等の 地であ り、その造営氏族 は、天智三年 (664)三月紀の「百済王善光王等 を以 て、難波 に居 らしむ」か らみて、百済王善光 と考え られる。 ここでCの 法隆寺銅板造像記に記す大原悼士
山崎信 二
が百済王氏であることが注 目される。善光 (禅広
)は
舒明朝 に豊章 と共に来 日し、父義慈王 が唐 に敗れた時、豊環は百済に帰 り、善光 は 日本 に とどまる。善光の子、昌成は幼年 に父 に随って来 日した。かつて、平子鐸嶺 は「この昌等 よ り分れて百済王の大原史はいでたる 可 し」30と論 じたが、 このように、法隆寺西院創建軒平瓦216Aは、百済王族 との関係が濃厚 であるとみてよいのではないだろうか。さらに、 この「摂津百済寺」の場所 は、 日本 に とって次の ような重要な場所であった可 能性が高い。即 ち、利光三津夫氏は「百済亡命政権考」飩において、善光を して難波 に居 ら しむとい う天智三年の記事 は、「 日本 における百済亡命政権の樹立 を述べた ものではないか と思 う。何 とな らば、難波は大和朝廷が海外 に通ず る門戸であって」、「この由緒の地難波 に善光 を居 らしめたことは、観念的には善光 を百済 に居 らしめたこととな り、 ここに天智 三年紀 の記事 には、 日本国内に百済国を建設す るとい う意味が秘め られていると解せ られ る」&と している。
以上、Cの 段 階で百済 と密接 な関係があることが判明 したが、A・ Bの 段 階での法隆寺 と 百済 との関係 はどうであろうか。
まず、
Aの
段階 として司馬鞍首止利仏師がいる。彼の一族 は初期仏教史の開拓者 として描 かれ、祖父司馬達等 は百済か ら招来 した仏像 に関係 して描かれ、父の多須奈 は用明紀 にお いて天皇の奉為 に出家 して修道 し丈六の仏像及び寺 を造 り奉 らむことを請ひ、娘の嶋女 は、善信尼 と呼ばれ、崇峻元年に百済に留学 して戒律 を受けている。そ して、『扶桑略記』では、
祖父達等 は「大唐漢人」 と書 き、父 は「百済仏工鞍部多須奈」 と書 くが、 日本の初期仏教 が百済か ら導入 されたのであるか ら、仏教方面 における蘇我氏の補佐役 としての鞍作氏が 百済 と密接 な関係 にあるのは、当然のことと言わなければならない。
次 にBの段 階の山口大日費であるが、彼 も倭漠氏支族であ り、『新撰姓氏録』右京諸藩上 に、「 山口宿禰
坂上大宿禰同祖。都賀直四世孫都黄直之後也」 とあ り、百済 との具体的な 関係 はわか らない。 しか し、 この時期、法隆寺用の型押 し具 を用いて百済大寺の軒瓦 を製 作 したことは注意 しておかねばならない。
以上か らみるとA・ Bの時期 には、法隆寺の軒平瓦は倭漢氏一族の鞍作氏・山口直氏お よ び本宗家 と密接な関係があ り、Cの 時期 には百済王族 との密接 な関係があることになる。
そこでCの 時期に関係があるとみ られる百済王族の大原史の出自を F新撰姓氏録』32で抜 き 出 してみると、「漢」 と書いた り「百済」 と書いた り、やや混乱があるようにみえる。
左京諸藩上
漠
大原史。漠の人、西姓令貴 自り出づ。
右京諸藩下
百済
大原史。漢の人、木姓阿留素西姓令貴 自り出づ。
摂津諸藩
漢
大原史。漢の人、西姓令貴 自り出づ。
しか しこれは混乱 とい うより、ある種 の特殊 な事情 を反映 しているのではないだろうか。
七世紀後半の瓦からみた朝鮮三国と日本との関係
舒 明朝 三年 (631)に、 百済王子 の豊章 ・善光 が 日本 に渡 来 した とされ、舒 明十一年か ら皇 極 元 年 頃 に百 済 大 寺 が造 営 され た。 百 済 か らの 旧来 の渡 来 人 で、倭 漢氏 の支族 で あ った 人 々 は、 百済王族 を と り囲む形 で集住 しは じめ る。 その最 も大 きな核 は百 済大寺 であ ろ う が、他 の一つの核 が法隆寺 であ り、別の一つ は摂津 であ ろ う (650年頃は四天王寺が核ではなか ろうか)。 斉 明六 年 (660)百済 が 減 亡 し、 王 子 豊 環 を呼 び返 して国王 とす るが 、天智二年 に63)豊蜂 は高句麗 に逃亡す る。一方、弟 の善光 は 日本 に とどまっていたが、天智三年 (664)
三 月、 日本 国内 に居住す る百済 国王 と して難波 の 「摂津 百 済寺
J隣
接 地 に移 動 す る。 この 王 家本流 は、皇親 、藤原、丹比 、大伴等 と同等 の優 遇 を受 け、 その後 百済王敬福へ とつ な が るので あ るが、一方王家支流 の大原史は8世紀代 を通 して次 第 に百済か らの旧来の渡来人 の中に同イとしてい くのであろう。② 百済人 と日佐氏・紀臣同族
法隆寺式軒瓦最古の組合せ は法隆寺西院金堂所用瓦
37A‑216Aで
あるが、次 に古いグル ープとして、平隆寺例・法輪寺例 。近江手原廃寺例 (近江樋ノロ瓦窯例)。 伊賀三田廃寺例・摂津芦屋廃寺例 を先述 したが、 この他 に軒丸瓦 を主体 に してみると古式の もの として大和 長林寺 (第5図1)。 河内西琳寺 (第5図6)。 近江益須寺 (第5図
9)を
あげることがで きる。これ らの瓦 を総体 としてみると、軒平瓦は法輪寺例 を手本 とし、軒丸瓦は面違鋸歯文縁 の平隆寺例 を手本 としているものが多 く、古式の瓦文様の波及に際 し、単独寺院の文様で はな く、法輪寺的要素 と平隆寺的要素 とが結合 して、影響 を及ぼ した可能性が高いと思わ れる。
法輪寺 (三井寺
)は
、F上宮聖徳太子伝補閉記』331こ、「斑鳩寺被災之後。衆人不得定寺地。(中略
)百
済聞師。 円明師。下氷君雑物等三人合造三井寺。」 とあ り、F聖徳太子伝暦』Mには、「又百済開法師。円明法師。下氷君新物等三人。合造三井寺云々。」 とあ り、百済か ら渡来 した聞師 (開法師
)な
どによる知識層による造寺活動 をうかがわせる。一方、平隆寺 については F聖徳太子停私記』26に、平隆寺「此寺勢野郷、太子安息、平群 臣等之香花供養時所也」 とあ り、平群氏の氏寺である可能性が高いが、北の平群谷には紀 氏神社があ り、紀氏 との関係 も合せて考えるべ きであろう。
さらに大和の例 としては長林寺があ り、九瓦 に「長倉人寺瓦」か、又は「長倉寺瓦」 と 刻む文字瓦が出土 してお り35、 長は「お さ」で、長林寺が 日佐氏 と関係がある可能性が高 く なる。『新撰姓氏録』大和 国皇別には、「 日佐
紀朝臣同祖。武内宿禰之後也。」 とある。そ して長林寺 と同範の法隆寺式軒丸瓦が藤原京左京六条三坊 (木之本廃寺
)で
出±36してぃるこ とも、見逃せ ない重要な点だと思 う。木之本廃寺 は百済大寺 と直結する寺院であ り、長林 寺の百済的要素の強いことはここにも示 されているように思 う。次に近江の諸例であるが、これ らの瓦は野洲郡 と栗太郡 にある。
山崎信二
野洲 郡 には益 須 寺37と福 林 寺38がぁ り、栗 太郡 には手原廃寺17と樋 ノ回瓦 窯ンが ある。ただ し、益須寺 と手原廃寺 の距離 は
3kmし
か隔 たってお らず、微 妙 な位 置 と距離 の関係 にあ る。瓦 の文様 で言 えば野洲郡 出土瓦 は法 隆寺例 に似 てお り、栗 太郡 出土 瓦 は法輪寺・平 隆寺例 に似 る。
まず、益須寺 は持統七年 ・八 年紀 に よる と、益須郡 の賤泉が発 見 され た後 、多 くの病 人 が益 須寺 に宿 泊 して治療 したた め、益須郡 の この年 の税 を免 除 し、初 め て睦泉 を発見 した 葛 野羽衝 と百済 土羅 羅 女 に、 絶 ・ 布 ・鍬 を賜 ってい る。益 須寺 と百済人 との関係 が想定 で
きる。
次 に福林寺 は、東寺文書 に収 める康和三年 などの弁官宣 旨39に よると、天武天皇の御代 に 石城村主宿禰が鎮護 国家の奉為 に福林寺 を建立 とい う。天智三年紀では、栗 田郡人磐城村 主殷の名がみえ、天平宝字八年紀 には押勝 を斬 った人物 として石村村主石楯がみえる。石 楯は天平神護元年に坂上忌寸 を賜姓 されてお り、倭漢氏である (ただし、磐城村主と石村村主 が同一かどうかは確言できない)。
さらに手原廃寺であるが、この寺の1.5km東 には高野の地名があ り、式内高野神社がある。
F新撰姓氏録』の右京諸藩下 には、「高野造
百済国人
佐平余 自信之後也」 とある。 これ も百済人 との関係が想定で きる。
この他 に野洲郡の記述 として注 目すべ きものに、F新撰姓氏録』の山城国皇別の 日佐 (お
さ
)の
条がある。聯己朝臣同祖。武内宿禰之後也。」 とし、欽明天皇の御世 に、同族 4人 、国 民35人を率いて帰化 とある。最後に、「是近江国野洲郡 日佐。山代国相楽郡 山村 日佐。大和 国添上郡 日佐等祖也。Jと
あって、平安時代初期 には、 日佐氏 は野洲郡の氏族が最 も栄えた ようである。 日佐 は百済の姓 とみなされ、「 日佐」は古代朝鮮語 に由来す る もので、実体 は 百済か らの渡来人 と考 え られる。 しか も、欽明朝での渡来伝承 をもつ とすれば、欽明元年 二月紀の「百済人己知部投化。置倭 国添上郡 山村。今 山村 己知部之先也」 との関係が想定 できる。以上の ように近江 の諸例 については単一の理由でな くい くつかの事情が交錯 しているよ うだが、野洲郡の益須寺 と福林寺 は野洲郡 日佐氏 との関係が強 く、栗 田郡の手原廃寺 (及び その瓦を焼成した樋ノロ瓦窯
)は
、百済滅亡時の亡命百済人に関係するもの と考えてお きたい。最後 に伊賀三田廃寺であるが、軒瓦 をみると法隆寺式軒瓦の組合せ、東大寺式軒瓦の組 合せ において、極めて中央 と直結 した姿 を示 している。三田廃寺 は阿拝郡 にあるが、伊賀 の人で壬 申の乱の東道将軍 として活躍 した、紀臣阿閉麻 呂 と関係があるのではないか と思 う。天武三年二月に紀 臣阿閉麻 呂は卒す るが、「天皇大悲之。以労壬 申年之役、贈大紫位」
とある。阿閉麻 呂の菩提寺 として再建 された可能性のある伊賀 国内の寺 院 を求めれば、三 田廃寺 をおいて他 にない ように思われるのである。紀臣阿閉麻 呂は紀氏 同祖 としての 日佐
七世紀後半の瓦からみた朝鮮三国と日本との関係
氏 との関係 もあったのではないだろうか。
③ 百済人 と倭漢氏
百済人お よび倭漢氏 との関係 を示す と思われ る寺院は、 これ までにもふれて きたが、以 下では大和 山村廃寺・摂津芦屋廃寺 について述べ よう。
山村廃寺 は山村忌寸の氏寺 と考 えられ、『新撰姓氏録』3つの大和 国諸藩40に1よ、「山村忌寸己 智同祖。古祀公之後也。」 とある。 ところが、 山村忌寸安野 らは、『三代実録』貞観六年条 に「左京人山村忌寸安野。夏野。全子等賜姓紀朝 臣。紀角宿禰之後也」 とあるように、864 年紀朝 臣の氏姓 を賜わる。おそ らくこれは仮 冒ではあるが、紀氏 との密接 な関係 は うかが える。そ して、実体 は山村詐智の後であ る山村忌寸氏40の一族であろう。欽明元年紀 には
「百済人己知部投下。置倭国添上郡山本す。今 山本す己知部之先也。」 とある。
次 に摂津芦屋廃寺は章屋漠人に関係す るものであろう。 まず、F新撰姓氏録』の摂津国諸 藩には「葦屋漢人。石 占忌寸同祖。阿智王之後也。」 とある。石 占忌寸401ま「坂上大宿禰 同 祖」であ り、倭漢氏である。和泉国諸藩 には葦屋村主は「出 自百済意宝荷羅支王也。」 とあ る。『日本霊異記』下巻第二に、大和興福寺の禅師永興 は俗姓 は葦屋君の氏で、摂津国手島 郡の人であ り、一名市往の氏 とも言 った とある。『新撰姓氏録』右京諸藩下40には、「市往公 出自百済国明王也。」 とあ り、明王 は武寧王の子、聖明王である。一方、正倉院文書には天 平神護元年の「検仲麻呂田村家物使請経文」 のなかに、「葦屋倉人嶋麿」がみえ、F新撰姓 氏録』摂津国諸藩には、「蔵人
石 占忌寸同祖。阿智王之後也。」 とある。
芦屋廃寺が どの氏族 と関係す るのか厳密 には決め難いが、大 きくみて倭漠氏の葦屋漠人 と関係 し、百済人 とも関係するとみていいのではなかろうか。
④ 呉勝 と百済人
摂津太田廃寺・播磨下太田廃寺・讃岐仲村廃寺 について述べ よう。
『播磨国風土記』揖保郡の条「太日里」 に、「太田と称 う所以は、昔、呉の勝、韓国よ り 度 り来て、始め、紀伊国名草郡太田村 に到 りき。其後分れ来て、摂津 回三嶋賀美郡太 田村 に移 り到 りき。其が又、揖保郡の大 田村 に遷 り来け り。是は、本の紀伊国大田を以ちて名 を烏す な り」 とある。
摂津太田廃寺 は法隆寺軒平瓦216Cと 同範の瓦 を出土 し、播磨下太田廃寺 には軒丸瓦・軒 平瓦 とも法隆寺式の軒瓦がある。呉の勝 は、「韓国よ り度 り来」たのであるが、呉の字の付
く人名の出自は、百済・加羅諸国等の韓南部諸国に限定 されるという指摘がある・ 。 一方、讃岐仲村廃寺の軒瓦は、かつて藤井直正氏が指摘 したように42、 播磨下太田廃寺の 軒瓦の組合せ と文様が類似 している。 同 じく『播磨 国風土記』訪磨郡の条「漠部里」 に、
「漢部里」 に、「漢 と称ふは、讃藝 (さぬき
)の
国の漠人等、到来た りて此庭 に居 りき。故、漢部 と琥 く」 とあるが、播磨大田村 と漢部里 は、現姫路市の西 と東で、
13kmほ
ど離れてお167
山崎信二
り、 両 地 名が直接 結 びつ くもので はない。 ただ、摂津 太 田廃 寺 も、播磨 下大 田廃寺 も、讃 岐仲 村廃 寺 も百済 を中心 とす る朝鮮 半 島南部 か らの渡 来 人 と密接 な関係 を もって建立 され た寺 院である と考 えて よいだろ う。
D.紀
伊 上 野 廃 寺・ 伯 者 斎 尾 廃 寺 式 忍 冬 唐 草 文 軒 平 瓦法隆寺式忍冬唐草文軒平瓦 とは別のグループの、系譜の異 なる忍冬唐草文軒平瓦が突然 現 われ、す ぐに消 えてい く。 これは紀伊上野廃寺 で出現 し、同 じ頃に斎尾廃寺 に伝播 し、
さらに文様の省略化 した ものが備後の伝吉田寺に現われる。
紀伊上野廃寺軒平瓦は4種の範 (報告書4のaI・ aⅡ・aⅢ・aⅣ
)が
あ り、中央 に宝珠様中心 飾 りをもつ もの 1種(aI:第
6図2)、 他は偏行唐草文軒平瓦 (aⅡ〜aⅣ)で
ある。斎尾廃寺軒 平瓦44は 1種 の範で、宝珠様中心飾 りをもつ均整唐草文軒平瓦で、伝吉田寺軒平瓦15も 1種 の 範であるが、 こち らは偏行唐草文軒平瓦である。この全体 として6種 の範型の文様は、均整唐草文 (斎尾と上野
aI)と
偏行唐草文 (上野aⅡ〜aⅣ、伝吉田寺)、 唐草文の途中に結節のあるもの (斎尾と上野aI〜aⅣ)と結節のない もの
(伝吉日寺)、 唐草の各単位 に三葉形の吉 を有す るもの (斎尾と上野
aI:第
6図3)、 2・ 3の枝葉 の うちの 1本 が唐草の茎に巻 きつ くもの (上野aⅢ :第 6図4、 上野aⅣ :第 6図5)、 1単位に2本 の枝葉が唐草の茎 に巻 きつ くもの (上野aI:第
6図2)、 吉がおたまじゃくし様 に変形 した も の (伝吉田寺:第 7図6)な
ど、かな りの多様性がある。しか しすべてに共通す る特徴 としては、反転す る唐草 の構成が一つの約束事か らな りた っているのである。即 ち、反転する唐車が5本の支葉か ら成 り立ってお り、 まず茎に近い第
1支
葉が強 く巻 き込み、次 に第2・ 第3支 葉が短か く、第4支葉が きわめて長い もので、最 後 に外側の第5支葉が外側 に巻 き込むという点である。 ここに、紀伊上野廃寺・伯者斎尾廃 寺式の忍冬唐草文軒平瓦の文様上の特徴が認め られるのである。法隆寺式では、反転する 唐車 は3〜4本の支葉か ら成 り立ち、「3本 の枝葉の うち最 も巻 きの強い曲線の先端付近か ら 新たに4本 目のゆるやかな曲線の枝葉 を派生 させている」特徴 をもち、その差は明瞭である。ところで法隆寺式忍冬唐草文軒平瓦の大部分が、桶巻 きで粘土円筒形 を作 り出 し、絶型 を打 ち込んで文様 をつけ、その後4分割する (即ち日本式である
)の
に対 し、紀伊上野廃寺・伯者斎尾廃寺式忍冬唐草文の6つ の範でで きた軒平瓦は、すべて文様のある木製籠 を水平 に 置 き、瓦 当部に粘土 をつめ込み、平瓦粘土 を垂直 に立てて接合 し、接合粘土 を瓦当 と平瓦 にまきつけるように作 りあげる特徴 をもっている (即ち新羅式である)。
か くして、 これ らの軒平瓦 を出土する寺院 と新羅 との関係 を検討す る必要が生 じるので ある。
E。 上 野 廃 寺 ・ 斎 尾 廃 寺 式 軒 平 瓦 と新 羅
『 日本霊異記
Jの
下巻第三十 に、「老僧観規は、俗姓 を三間名干岐 といひき。紀伊国名草七世紀後半の瓦か らみた朝鮮三国と日本 との関係
一
第 6図
紀伊上野廃寺出上の軒瓦 (1:5)
山崎信 二
郡の人な りき。」「先祖 の造れる寺、名草郡の能応の村 に有 り。名 をば弥勒寺 と日ひ、字 を 能応寺 と日ふ」 とあ り、名草郡野応郷 について、F和歌 山県の地名』46は、「名義 は野 にて応 は添声 にす ぎない」 を引用 し、「郷名の もととなった現和歌 山市上野・北野 を含む地域 に拡 大比定すべ き」であるとする。即ち、能応 は紀伊上野廃寺の所在地である。
F新撰姓氏録抄』未定雑姓、右京 に「三間名公。弥麻奈国王、牟留知王の後 な り」「意富 加羅国の王子、名 は都努我阿羅斯等」47とぁる。都努我 は新羅や金官加羅の最高官位号「角 干」 をツヌカ (ン
)と
訓んだ ものか とす る48。 R「ち紀伊上野廃寺 は新羅・金官加羅系 の寺院 であると考えてよいだろう。次 に伯者斎尾廃寺であるが、 これは北2.5kmに ある日本海岸 と関係があろう。持統三年に 政府 は出雲国司に詔 して、風浪に道値へ る春人 を上げ送 らしめているが、斎尾の北の人橋 町あた りが朝鮮か らの漂着民移動の一拠点 とすれば、先 に紀伊上野廃寺で想定 した三間名 公 との関係 を、斎尾廃寺 において も同様 に想定 して よいのではないだろうか。即 ち三間名 公の先祖 「意富加羅国の王の子、名は都努我阿羅斯等」321ょ、海の北 をめ ぐりて、出雲国を 経て、越の国に至れ りとい う伝承 をもつ ものであ り、紀伊 一出雲 ―越前 とい う、 日本海側 の水逗を得意 とする氏族ではなかろうか。
F.統
一 新 羅 。帝 釈 寺 。中 原 塔 坪 里 寺 址 の 忍 冬 唐 草 文 軒 平 瓦韓国における忍冬唐草文軒平瓦 について述べ よう。 まず慶州の忍冬唐草文軒平瓦、次に 益山帝釈寺の忍冬唐草文軒平瓦、最後に中原塔坪里寺址の忍冬唐草文軒平瓦である。
① 慶州の忍冬唐草文軒平瓦
慶州の忍冬唐草文軒平瓦の うち最古の ものは「三国末〜統一初」の年代が与 えられてい るが、660年の唐 。新羅連合軍 による百済減亡お よび668年の唐 による高句麗滅亡以降を統 一新羅時代 と呼ぶ とすれば、 これ らの軒平瓦の年代 を統一新羅初期 にお くことがで きよう。
これ らは文様細部で若千の差 はあるが、大 きくは一つのパ ター ンの文様構成 をとる。即 ち、左右両端か ら中心に向かって唐草文が流れ (均整唐草文)、 中心飾 りを配す ることはな く、
唐草文の 1単 位 は4〜6本の枝葉か らなる点が共通 している。 また文様構成 として、 まず茎 に近い支葉が強 く巻 き込み、つ ぎに短い と支葉 または3支葉があ り、 さらに次の支葉が長 く 屈 曲 し、最後の支葉が外側 に強 く巻 き込む点が共通 している。文様の細部の変化 を『雁鳴 池」49所収の軒平瓦文様でみると、左右両端か ら中心へ流れる唐草文が中央で交叉す るもの
(雁鳴池軒平瓦14:第8図3、 以下雁鳴池略す)、 接するもの (四天王寺例にある)、 やや離れるもの
(軒平瓦15〜18:第8図 4〜
7)が
あ り、 さらに唐草文の途中に結節のあるもの (軒平瓦14:第8図3、 軒平瓦18:第8図7)とない もの (軒平瓦15〜17)と の両者がある。新羅例の文様構成におけ る細部の大 きな差 としては、2番 目に配置 される支葉が 1本 の もの(軒平瓦15〜18:第8図4〜7)
と3本 の もの (軒平瓦14:第8図
3)の
両者がある。 日本の上野廃寺・斎尾廃寺軒平瓦では2番七世紀後半の瓦か らみた朝鮮三日 と日本 との関係
層 r
5
隣 =
第7図
斎尾廃寺 の瓦 な ど (1:5) 斎尾廃寺 (1〜5)伝吉田寺 (6)
171
山崎信二
目に配置 され る支葉 は2本で あ り、 この点 は異 なるが、それ以外 の1単位 と しての文様構 成 は新羅例 と日本例 とで基本 的に同一である と言 って よい。
なお、 これ らの新羅 の軒平瓦 の断面 図が公表 されて はい ないが、私 が実測 した新 羅王京 出±50の雁 鴨池14に 類似 の軒平瓦 (唐草中央で交叉 し、2番 日配置の支葉が3本 からなり、唐草文の 途中に結節をもつ
)の
図 (第8図1・2)を
示 した。統 一新 羅初期 の軒平瓦 の製作技 法 の特徴 で ある包 み込 み式 の軒平瓦であ ることは明瞭であ る。② 益山帝釈寺の忍冬唐草文軒平瓦
益 山帝釈寺の忍冬唐草文軒平瓦は、1978年の黄壽永氏の「百済帝釈寺考」証において図示 されてお り、責氏の論考以前 において も以後 において も、 日本の瓦研究者の論文では百済 時代のもの と述べたものが多い。黄氏の紹介 した破片は国立公州博物館所蔵瓦 (第8図
8)で
あ り、平瓦部凹面 に布 目痕 と糸切痕 を残 し、平瓦部凸面端部 に顎部粘土 を貼 りつけて瓦当 部粘土 を作 り出 したことはわかるが、 この 1破 片ではこれ以上の製作技法のイメージはわか ない。一方、国立全州博物館所蔵の益 山帝釈寺の瓦 (第8図9・ 第9図
)は
瓦当部が完形で、平瓦 部 もかな りの程度残 るものがあ り、この破片か ら製作技法をイメージしてみ よう。まず技法的な観察点は次の とお りである。
i)平
瓦部凹面には枠板痕はない。)平
瓦部凹面 には糸切痕 と布 目痕が残 る。布 日痕 は左側面 (①―B)イこ接す る部分では 布 目が続いていることを示すが、右側面 (①―A)に
接す る部分では布端 は、ほ ぐれて 続かないようである。)平
瓦部両側面の残 る例 では、左側面 (①―B)│よ、 ほ とん どが破面であるが、 よ く見 ると平瓦部凹面 に接する部分に0.3〜0.5mm程度の我面 (裁線?)を
残す。右側面 (①―A) はケズ リ・ナデツケで仕上げ られている。)複
数の個体 を観察で きたが、瓦当文様は1つの範であると判断 した。v)瓦
当裏面 は1つの谷 と2つ の山を もつ 凹凸状 の断面であ り、 回転 ナデ に よって仕上 げている。① ―Bの 破面は、回転ナデを切 っている。 また顎部の形態 はいずれ も同 じ断 面形であ り、最終的には同 じ断面形態に仕上げようとする意図が読み とれる)平
瓦部凸面端部 に顎部粘土 を貼 りつ けるのであるが、その際、瓦当お よび顎部 は下 向きで接合 されている (粘土の接合の傾きで判断できる)。以上か ら製作技法 を復原す ると、破面 によって分割 されていることか ら、桶巻作 りは確 実であ り、1枚作 りではない。 まず、非開閉式の円筒桶 に布 を2枚は りつけ、粘土板 をまき つけ、顎部粘土 を加 える (この時、瓦当予定部および顎部は下にある)。 粘土円筒の付 いた非開 閉式桶 を上下にひっ くり返す (ちなみに、帝釈寺の軒平瓦は軽量であり、桶共の上下反転は、それ
七世紀後半の瓦か らみた朝鮮三日 と日本 との関係
発 I亜 ■
戸 三
第8図
韓 国の忍冬唐草支軒平瓦 (1:4) 新羅王京(土・2)雁鳴池(3〜7)帝釈寺(8・9)
鞄曇驀義
'︐ /
山崎信二
ほど困難ではないと考えてよい)。 瓦 当予定部分 は粘土 円筒 の上方 にあ り、上か ら抱型 を打 ち込 み文様部 を作 る。 その後、顎部断面 を 1つ の谷 と2つ の山 を もつ 凹凸状 に回転 台上で仕上 げ るために、ケズ リ・ナデを丹念 に行なう。その後、非開閉式の円筒桶 を粘土円筒か らとり 出 し、布 もはずす。
粘土円筒のまま乾燥する。
内側 にきわめて浅い裁線 を作 り、外側か ら叩いて破面 を作 り出す部分 と、切 り取 りによ って側面 を作 り出す部分 とをあ らか じめ判断 し、瓦当の文様位置に合わせて分害」す る。お そ らく粘土円筒に残った2枚の布 目痕の個 々の布位置の中心部に我線 を入れ、外か ら叩いて 粘土円筒 を2分割す る。その後の2分割 (即ち全徳としては4分の1分割
)は
、切 り取 りによっ て行 なう。 この切 り取 り部分 は、平瓦部凹面か らみると布 目の達 しない部分 に該当す るよ うに切 り取っているのだと思 う。以上の ように帝釈寺の忍冬唐草文軒平瓦の製作技法 は、 日本の桶巻作 り軒平瓦 とよ く似 た所があ り、全形 を仕上げて4分割する点ではよく似ている。 しか し、 日本の桶巻作 り軒平 瓦では全形 をあ らか じめ仕上げて、半乾燥後 に範型で文様 を打 ち込むのであ り、範型打 ち 込み後は顎部の整形 などは行 なっていない。 これに対 し帝釈寺の軒平瓦 は、顎部粘土の作 り出 し、桶 を付 けたままでの上下反転、生粘土の段 階での範打 ち込み、その後の顎部粘土 の整形 などが終 って、やっと円筒桶 と粘土円筒 とを分離す るのであ り、帝釈寺の方が手間 がかかることは明瞭である。 日本式の方が効率が よい。 しか し日本式の場合 は、粘上が半 乾燥 した後での絶打 ち込みであ り、文様の出は浅 く、 シャープさに欠けるのに対 し、帝釈 寺例では文様の出は深 く、鮮 明な出来ばえである。以上か らみると、 日本の諸例 と帝釈寺
との間で、製作技法上は関係ないと言ってよいように思われる。
さらに、帝釈寺の忍冬唐草文軒平瓦の平瓦部凹面 に枠板痕がないことか らみると、非開 閉式桶 の使用 は明瞭であ り、 これは新羅の影響 を受 けている と言 って よい。 したがって、
この軒平瓦の年代 は、唐・新羅連合軍による百済減亡年の660年を遡 ることはない といって いいのではないだろうか。
ところで、 日本の紀伊上野廃寺例 との文様の酷似性 は注 目に値す る。文様 的には優劣付 け難 く、共通 した年代の もの といえよう。そ して、文様 もまた新羅系の文様であ り、獣面 と唐草 を組み合せた文様 は、 この帝釈寺・紀伊上野廃寺 (別種の軒平瓦にある)、 そ して統一 新羅時代の慶州の瓦において表現 されている。
③ 中原塔坪里寺址の忍冬唐草支軒平瓦
中原塔坪里寺址 は、忠清北道の中原高句麗碑の東南約1.5kmに位置する寺院址で、1993年 に韓国教員大学校博物館か ら報告書が出版 されている。2。 忍冬唐草文軒平瓦は3点 出土 (第10
図1〜
3)し
てお り、技法的には次の特徴がある。七世紀後半の瓦か らみた朝鮮三回と日本 との関係
第 9図
帝釈寺の忍冬唐草文軒平瓦 (1:3)
︐/
山崎信二
i)平
瓦 部 凹面 に は布 目痕 と糸切 痕 が残 る。)平
瓦 部 凹面 に は枠 板 痕 とみ て よい痕 跡 が の こ る。)瓦 当か ら平瓦部に移行する部分での粘土断面をみると、粘土を折 り曲げたような、
しわが入 る
)瓦
当裏 面 に は布 目が部 分 的 に残 り、 そ の後 の調 整痕 (丹念な回転台上の ヨコナデ)に
よって大部分が消 されてい る。瓦 当裏面 の一部 に格子状叩 きの残 る ものがあ る。
以上3つの破 片か ら全体 の製作工程 を復原す るのはむつか しいが、一枚作 りで はな く、桶 巻作 りで あ る こ と、平 瓦 都 凹面 に枠 板痕 が あ る こ とか ら閉開式 の棉 を使 用 した こ と、 な ど は確実な点であろう。瓦当部分 は粘土 を折 り曲げて、瓦当部に抱で文様 を付 けた もの とみ られる。 この粘土 を折 り曲げるときに布 を使用 したようであ り、瓦当裏面の布 目痕 はおそ らく、 この時の ものである。瓦当文様の出は浅 く、粘土押 し込み用の範ではな く、打 ち込 み用の範のようである。
以下、誤 りをおそれず に製作工程 を推測すれば、開閉式の桶 に粘土板 を巻 きつけ、格子 叩 きによって全体 を叩 き締め、その後、桶 と布 をはずす。 この段階で、粘土円筒のみにな る。次に、粘土のやわ らかい うちに瓦当予定部分 を折 り曲げて、日縁部状の ものをつ くる。
この時、折 り曲げやすい ように、2ケ所又 は4ケ所、部分的な切 り込みを入れたか もしれな い。籠 を上か ら押 しつける。 この時、布 をもった手で、下か ら支 えて、上下か らはさんで 押 しつけて、瓦当文様 を作 り出す。日縁部状のものの上で、これを4回 繰 り返えす。その後、
瓦当裏面 を整形するために、丹念 な回転台状の ヨヨナデを行なう。その後、4分割する。以 上がその推定であるが、 これを前提 としての、他者 との比較 はやめてお く。 もう少 し、広 い部分の完形 に近い個体 でない と、確実 な製作工程復原は困難である。文様か らみると、
中心飾 りの有無 は不明だが、中央か ら左右 に反転す る忍冬唐草文軒平瓦であ り、内外の支 葉が強 く巻 き込み、その中間部に短い2〜3本の支葉 を配す るのが特徴である。唐革 に結節 を有 している。年代 は、8世 紀前半の ものであろうか。
3.湖 東式軒瓦について 一高句麗的なもの 一
湖東式軒瓦 について山崎は1983年の「後期古墳 と飛鳥 白鳳寺院」1において、次の ように 主張 したことがある。
第1に、愛知郡・蒲生郡に「軽野寺式」軒瓦が分布するのは、天智四年紀の百済人を「近 江の神崎郡 に居 き」、天智八年紀の百済人等 を「近江国蒲生郡に遷 し居 く」などの記述、即 ち百済か らの亡命者たちと深 く関わ りあうであろうという事。
第21こ、 日本において重弧文軒平瓦が発案 されて約20〜 30年後 に重弧指圧文軒平瓦が出現 し、いわゆる「軽野寺式」軒瓦が湖東 に分布す るのは、百済の亡命者 との関係が考 え られ
∈
'一
鯵 7
七世紀後半の瓦か らみた朝鮮三国と日本 との関係
第10図
中原塔坪里寺址の忍冬唐草支軒平瓦 (1:3)
177
山崎信二
ることである。
私は、今、 自分の論文 を読み直 して、百済 を強調 しす ぎたのは、瓦の分析か らの結果で はな く、『日本書紀』の記述 と瓦文様 とを安易 に結びつけようとしたためであると反省 して いる。
一方、小笠原好彦氏 は、2001年に「湖東式軒丸瓦の成立年代 と系譜」53と して、「湖東式軒 九瓦に関連するものを中国、朝鮮半島に求めると、百済の公州にある大通寺址、西穴寺l■、 南穴寺址 の軒丸瓦 に共通性 をもつ ものをみいだす」 として、「公州の大通寺址、西穴寺址、
南穴寺址の瓦当文様が愛知郡の氏寺に導入 されたことの背景」について、述べている。
しか し、公州の これ らの軒丸瓦は、資料 を紹介 した軽部慈恩氏54自身が、「 この瓦の文様 は新羅統一後 に成 った慶州地方 よ り出土の ものに類似の点 もある」 と記 しているように、
統一新羅後の もの と考えて よいのである。即ち、「大通寺例」 も「南穴寺址例」 も、珠文帯 をもつ外 区内縁 を含んで高 く突出す るのが特徴であ り、 これは統一新羅の軒丸瓦の特徴で ある。 さらに、公州のこれ らすべての瓦は無子葉単弁 (別名、素弁
)の
軒丸瓦であ り、湖東 式軒丸瓦の有子葉単弁 (別名、単弁)や
重弁の瓦 とは、蓮弁の形が全 く異なるのである。したがって、 これ までの見解 をすべて白紙 にもどし、湖東式軒瓦の文様上の特徴、技法 上の特徴 を再整理す る必要があ り、中国の瓦・朝鮮の瓦 を全体 として比較 して、最 も類似
した瓦を捜 し出す必要があるといえよう。
A.湖
東 式 軒 瓦 の 文 様 上 の 特 徴湖東式軒九瓦 を分類 。細分 し、編年 をお こなったのは1997年の重岡卓氏の、「「湖東系軒 丸瓦」 に関す る基礎的考察」。5とぃ ぅ論文である。重岡氏の説明を少 し言い換 えて表現す る と、重弁のグループが 1群 であ り、「弁の表現 について凸線の省略や反 りの単調化」55(凸線 は弁中央の稜線のこと
)を
考慮 に入れて、外 区の珠文数の多い順 に並べ ると、湖東A(51個
)→湖東
BI(36個 )→
湖東BⅡ (36個)→
湖東F(24個)の
形 (重岡氏の表現による)式
変化がた どれるとい うものである。次に、有子葉単弁のグループが2群 であ り、「外 区外縁の重圏文 が断面三角の ものか ら凸線への変化」55ぉょび、外区珠文数を考慮 に入れて並べ ると、長寺A(珠
文数56〜 64個)→
長寺B(48?個
)・ 湖東CI(42個
)。 湖東CⅡ (42個)→
湖東D(26?個
)→湖東
F(30?個 )の
形式変化がた どれるとしている。2群 においては長寺A・ 長寺Bの軒丸瓦が破片で中房部分が不明であることか ら細かな検 討がで きないが、湖東
CIで
は、中房 を十字形に区画する点は注 目してよい。一方、2005年に資料紹介 された湖北 における華寺遺跡56の軒丸瓦は、中房の突出、中房の 十字形の区画、珠文数の多 さ (47〜48個
)な
どか ら注 目すべ きものである。仮 に、長寺A・B
の中房 に十字形の区画があるとした ら、湖東の 1群 。2群 お よび湖北例 を含めて次の ような 編年が可能になると思 う57。
第 11図
湖東式軒丸瓦 (1:5) 長寺遺跡(1・ 2)華寺遺跡(3)野々目廃寺(4)
七世紀後半の瓦か らみた朝鮮三国 と日本 との関係
註55重岡論文などによる
小八木廃寺(5)軽野塔ノ塚廃寺(6〜10)
τ 峯 子
題
179