付 章 薬師寺南大 門及 び中門の発掘
1序
口本調査は平城京薬師寺伽藍 の全規模を明 らかにす る第一段階であ るが
,同
時に南大 関 と六条 大路 との関係を追及 し,伽
藍 の中軸線を明 らかにす ることに よって,平
城 京条坊研究 の重要 な 資料 を得 る 目的 を持 ってな された ものであ る。 この ことは「 大安寺南大門及び中門の発掘」にも記 した とお りであ る。
発掘 の結果
,現
南 関両袖の築地位置は動いてお らず,南
大 門の位置 も亦現南門 と中心を合わ せ てい る ことが判 ったが,南
大 門中門共その大 きさは,薬
師寺縁起 の記載寸尺に基いて従来考 え られ ていた もの とは全 く異 な り,は
るかに大 きい規模を持つ ものであ る こ とが 明 らか に さ れ,尚
旧地表は現地表下2.5な
い し5.5尺
下にあ って,南
大門並に中F]基 壇上面はあ ま りひ どく削 りとられ てお らず
,
したが って旧礎石位置等 もほぼ これを推知 し得たのであ った。本研究は文部 省科学研究費に よった ものであ り
,発
掘は主 として浅野清が担 当 し,奈
良国立 文化財研究所建造物 研究室並に考古学研究室の協 力を受けた。同研究所の杉山信三,田
中一郎,鈴木嘉吉の三氏お よび実測を助けた東京大学工学部建築学科大学院学生沢村仁君の労な らびに 薬師寺の多大 な御好意に対 し
,深
甚 の謝意 を表す ものであ る。2発 掘 の 経 過
本発堀は昭和29年 8月27日に着手
, 9月
27日に終了,同
30日に埋立を了 った。 あいに く台風 期に際会 したため,
日数の割合には仕事がはか どらなか った。手掛 りには南大門 と中門の中間 と考え られ る所に南北の トレンチを入れた。上部に置 き上 で あ る砂層があ り
,そ
の下は粘土質の瓦を混 じた埋立上 とな り,最
下に土器 片を多量に包合 した第 1図
編者注 大岡実 。浅野清・村田治郎・杉山信
・福山敏男・鈴木嘉吉「大安寺南大門
,中
門ナ││
第 2図
及び回廊の発掘」(『日本建築学会論文集』50号 昭和30年3月)
」 こ
南大門
27翠
埋 土 の層が二段 あ り
,下
の層 の上には薄い粘土層が作 られ ていた。 これ らの層中に も瓦片を含 んでい る。その下は 固い,表
面 に砂利を混 じた粘土層 とな った。 これ を まず北方に掘 りすすめ る と,床
面上に花筒岩 の玉 石が 出,中
段 と表土直下に凝灰岩片が現れ,つ
い で瓦が丁寧に積上 げ られ てい る部分 に達 した。 この瓦 中には奈良時代の文様 のあ る軒平瓦 や軒丸瓦を含み,す
べて下方の土器包含層中に入 り
,
この上には粘土層が きて,さ
らに上 方 の土器包含層が重 ってい た。 これを除 くと,そ
の下か ら東西にのび る玉石列 (第9図)や
凝灰岩 の布石 が 見 出 され,土
器 包含土を取去 ると
,少
し北方に後退 して粘土層のみの壇 側が現れた。 なお これ よ り北方の地 盤 では,表
土を除 くと凝灰岩 片が一面に散乱 してお り,こ
れ が中門旧地表 の敷石の名残か と相 像 された。一方 トレンチを南方へ進 めたが
,こ
こでは大安寺の場合 と異 な り,建
物 基壇 内の上築の構造 がいわゆ る版築 ではな く,粘
土 を固めた もので,層
状 に もな らず,固
さ もあ ま り固 くないので,壇端 を見分 け るのが容易 でなか った。然 しやがて床面に凝灰岩片が現れ
,次
い で又現れ,付
近 には凝灰岩片が嵌入 してお り,
この辺 で土器包含層が絶えてお り,
これ よ り北方では瓦を含ん だ層が土器包含層の上に重 ってお るのに対 し,南
方は清浄 な粘土 とな る。 よって ここを階段 の 裾 と見て,東
方ヘ トレンチを進 めてい くと,斜
に下 る粘土層の表面に凝灰岩が所 々にの ってい て,推
定 の誤 らない こ とが判 った (第4図)。 これ で大体南大門 と中門の一 角に取付いたのであ るが,中
間の方に後世 の改修 が多 く加 っていたため と,今
一つは縁起 の記載寸尺 の中,桁
行寸 尺が全 く誤 っていたため,尚
全 貌の見当づけ られ るまでには,か
な りの 曲折 を見なければな ら なか った。今一つの困難は大安寺の場合 よ りも樹木が要所に密生 していて,思
うよ うに掘進められ ない ことで
,そ
れ が調査を非常に面倒に した。先ず南大関の発掘経過を記そ う。南大門北側階段跡 らしい ものに手掛 りがついたので
,
これ を束方へ据拡げる。表面の所 々に凝灰岩片が付蒲 した粘上の檎固い層が斜面状に北へ下 り,壇
第 3図
薬師寺南大門及び中門跡実測図
10 0 1020304050尺
= 日 tl 劇 Ч 引 H H 川 朴
碧
275
の尽 きる当 りで床面が補下 り
,又
北方 で上 る。 この部分には凝灰岩片が散乱 してお り,布
石 の 据 え られ た跡 と見 られ る。最初縁起に記す寸尺に 引かれて,門
の桁行を狭 く予想 して,東
北, 西北の隅を捜 したのであるが,布
石 が更に東 西に長 く延びて問が予想 よ り進 かに大 き くな ることが判 って来た。西方では端 で布石がな くな ったが
,南
折 した部分が現れ て先ず西北隅が決 ま り,次
に階段 の東端 の,次
い で西端 の北方へ突 出す る布石が現れ (第5図)最
後に 東 北 隅 が 出 た。隅の折れ 曲 り部分を少 し出 しておい てか ら,間
を少 し飛ば して,築
地際を掘 る。東側築地 際 では,布
石 の内方上に地覆石 の端 が載 ってい るのを発見。その南面は欠損 してお り,残
った のは断片 であ るが,位
置は動いた形跡 な く,布
石 とも南端は綺麗に切 られ てお り,基
壇 が築 地 際 で終 っていた ことが察せ られた。 したが って築地 も亦旧位置を保 ってい ることが知 られ る訳 であ る。地覆が現れたのは これが初め で,
これに よって,今
まで見 出され ていた布石 は,地
覆 の外下に来 る ものであることが明 らかにな った。 なお これ らの布石や地覆の南端か ら少 し北ヘ 戻 った当 りを境に して土質が変 り,南
方築地 際 の ものは美 しく,北
方 の ものは汚 い。 この南方 の粘土層は層位を明瞭に見せないが,西
側築地際 では布石の上面か ら3尺
程上 まで存在 してお り,或
は 旧築地 の土が残 ったのか も知れ ない。西側築地際 では地覆の端に,東
石 まで残 され て いた (第6図)。こ うして築地内側に於け る南大門基壇石 の状況が判 ったので
,壇
上 で礎石据 付跡を捜 し始め る。階段両端 の耳石の通 りは,常
識的 に見 て端か ら二つ 日の礎石位置に当 るはず なので,広
く 表 土 を象Jいで,東
側 の同所付近 を しらべ る。 この付近は最近 まで交番詰所にな っていた の で,漆 喰敲 き等が現れたが
,
これ らを除 き,そ
の下 の赤い粘土をのけ ると,清
浄 で均― な粘土 とな り,極
く浅 い くばみが出来,そ
の中か ら2個
の玉石が現れた。大安寺南大門同様表上が多 く削 られ てい るた め,礎
石下詰石は この程度 しか 出ないのであろ う。次には これ と西方の階段 耳石 の通 りとの間を3分
した地点を さがす。 先 の西隣 の位置では,最
近 の修理 の際 の足場 柱 をいけ た 穴が出たのみ。 ここは礎石が薄か った のであろ うか。その西隣 では多少 くばみが出 き, 4個
の石が出た。西の階段耳石の通 りで も小 さい石が
3〜 4個
出た。更に東西両端礎石跡 を掘 った が,東
方 では始め小範囲の くばみ と根石 ら しい ものが1個
現 わ れ た の み。(後に更に掘拡げて, 周辺から3〜 4個 の石が出た。)東
端 では多少小石が出た のみ で,は
っき りした手掛 りは得 られ なか っ た 。
第 4図 南大門北側階段跡
27δ
第 5図 南大門北側階段 より西方の基壇布石を見 る
これ で南大門の北半を定め ることが できたので
,そ
の全貌 も推知 し得 られ るに至 ったわけだ が,念
のため,築
地 の南方 も要所だけ掘 ってみ ることとした。先ず東方で南側基壇 の端を さ ぐり
,兼
ね て旧道路 との関係を求め るため,折
返 しの位置 をね らって道路 の南 の畠中に南北 の ト レンチを入れた。す る と表上下に清浄な粘上の天然層が現れ,地
下3尺
以上に及 んで も異常を 呈 しない。余 りに不思議なので,場
所 を変 え,東
側基壇石 の直上に 当 る所 を掘 ってみたが,今
度は粕土層 の下か ら砂層が 出て
,そ
の下が また粘土層 とな り,天
然層の続 く情況は同 じであ っ た 。よって先 の トレンチ内の一部を思い切 って壼掘 してみ ると,地
下3尺 8,9寸
に至 って瓦其 他を含 んだ黒 っばい土 層が現れ,次
い で焼土層を経 て,濃
鼠 色の瓦 を少量混 じた砂交 り粘土 層 とな り,更
に黒 っぽい粘土層 とな った。そ してこれ らの人工層の中か ら凝 灰 岩 の 列 が 現 れ た が,こ
れは据 りが悪 く,位
置 も補高過 ぎるので,そ
の前後を掘下げ てみ ると,尚
前後に瓦 が含 まれ てい て壇外 と見 られたので,北
方へすすむ と,遂
に東西に続 く凝灰岩布石に達 した。つい で これをた どって東南隅を出 した。別に東西側の基壇 の築地際を掘 った所,東
側 では布石の内 側に地覆 石 の北端部 と,そ
の上に載 った束石が現れ,東
側 で も同様布石,地
覆石及び束石 の断 片が 旧位置 を保 った まま出た。東側 の束 は略完存 してい る ら し く,そ
の上方に凝灰岩 の崩壊 し た ものが認め られたのは,或
は高石 の残存か も知れない。 この他南面階段西端 の耳石の位置を 掘 った所,予
定 の如 く布石 の折れ 曲 り角が整然 と現れた。 尚先に東方 で,基
壇 南端を さ ぐる際 旧道路面に向 って入れた トレンチをた どって行 くと,砂
層 と粘土 層の交互 にな った天然層下 か ら,瓦
を含 んだ鼠 色の汚い上が現れ,布
石 の上端位 の高 さか ら瓦が減 じ,色
も薄 くな って砂 を ま し,床
面 の如 く固い層 とな り,布
石下端か ら補下 る位 で薄黒い粘土層 とな る。 これが地山 ら しい。 この粘土層を追 って南へ進む布石内面 か ら5,6尺
程 来 て,掘
立柱穴 の如 きものに 出会 う。 ここでは地山の層の高 さに瓦を多 く含み (この瓦片の申には新 しいものを含まず,す
べて布目を 持つ。)据
っ て行 くと,周
囲 の粘土 と異 った砂 と粘上 の まじった上にな ってい る。 東 と南 の壁 はか な りは っき りしてい るが,西
と北 は輪お さえ難 く,瓦
を含んだ上 のな くな るのを 目当てに 大 きさを略測す るに約3.3尺
角,深
さは1,3尺
位 であ った。 この穴の相手は これ以上追求 しな か った。最後に道路上 で
,南
列柱礎石据付跡を掘 る。北列を折返 しに して位置を予定 し,掘
ってみ る第 7図 中門南側基壇石 (西方階 段耳石 らしい ものを見る)
第 6図 南大門西側築地脇出上の地覆及び束石
と
,東
よ り第2の
ものは手答 えな く,東
端,東
よ り第3の
ものはか な りよ く根石を残 し,そ
の他は僅 少の小石 を見た のみ であ った。 中列は丁度築地下に な るので
,調
査不能 であ った。中門は
,前
面階段 が2次
或は3次
の改造を受けてい るら しく,凝
灰岩 の基壇石乃至階段石の 他に花 商岩 の玉石か らな る石列が中央柱間分 の階段下 と思われ る部分に出た他に前面雨落 よ り 南方 の位置 には東西に続 く玉石列が 出てい る (第9図)。 階段 下 の玉石 の下には尚凝灰岩 の布石 が 出ていて,階
段踏石の名残か と思われた (第 10図)。 この基壇石は南大門の もの とは全然異な り,地
覆 とか,そ
の外の布石 と見 られ るものは出ないで,凝
灰石が立並べ られ てい るに過 ぎな い (第7図,第
8図)。 そ してそ の上には下が くずれ て下 ってはい るが或は葛石その も の と見 ら れ る ものの存 していた部分 もあ った (第7図)。 又南面中央3間
の西端に当る位置に階段耳石の 残 片か と見 られ る もの も残 っていた (同図)。 西方は中古池に され て中門に関す るものは殆 ど失 われた ら し く,西
端柱か ら西には遺跡を見 出 し得なか った。 よって東方 で中門 と回廊 の取付部 を明 らかにす る必要があ り,折
重 な る障害物を避けて トレンチを入れた所,丁
度急所に当る と 思われ る箇所に楓樹があ って作業が困難 なため,こ
れ を取除 き,漸
くに して,中
門基壇東南隅 と回廊取付部分を扶 出す ることが できた (第■図)。 但 しここで回廊基壇 の葛石 と見 られ るもの が最初北方 で発見 され,そ
の南方には溝 とその上 の凝灰岩 の蓋が現われ ると予想 したのであ っ たが,こ
の南方 の もの も遂に回廊基壇 の側石 であ ることが判 り,中
門東側基壇石の北端 の仕事第 9図
第 8図 中門南側墓壇石(東方階段耳石附近に当る所)
中門南側中央間の玉石列
第10図 中門南側中央間玉石列下か ら出た凝灰岩布石
第11図 中門東南隅 り回廊取付部付近に亘る基壇石
が後 のつけ足 しであ ることと合わせ て前者は
2次
的 の もの と考え られ るに至 った。 これ らの基 壇石 の外方並に上方には矢張土器包合層が接 してお り,こ
の上器包含層中に も少量 の瓦を含ん でい ることも中軸線付近 で見た の と同様 であ った。中間北側 では
,中
軸線近 くには凝灰岩基壇石列は残 され てお らず漸 く土壇 の端肩に灰其他焼 跡 の土を思わせ る ものが付着 した壇端 ら しい ものが認め られ,そ
の外には瓦を含んだ帯青色の 砂層があ りここに濤が設 け られ ていた ことが察せ られた。 この辺の床土は緑色を帯 んだ粘土層 の上に バ ラスの敷かれた もので,そ
の粘土層の下は砂混 りの帯青色腐触土層 となること,南
大 門の前面東 よ りで掘 った場合 とよ く似 ていた。 尚 ここには避雷針の銅燃線や水樋等が通 ってい て,様
相を一 層複雑に していた。この北側 も西方は池に掘下げ られた ことがあ るので調査不能であるか ら
,最
後に 中関東北隅 を検討す ることとし,
この部 のつつ じの樹を移植 して,そ
の発掘を続け る。始め南方の折返 し 位置 で土質の変化をた よ りに見当づけて行 ったが,既
に攪乱 され ていて判明せず,や
が て中門 東側基壇石並 に回廊北側基壇石の一部が現れたので格好がついた。但 し前者は南側 で見た よ う に石が立 てられ ていないので,元
の ままでないか も知れない。付近には他に凝灰岩や玉石が相 当散乱 していた (第 12図)。中門礎石据付跡発見の端緒は
,中
間壇上に凝灰岩断片が散乱 してい るので,こ
れ を旧舗装用 の もの と推定 してその表面を露 出 していた際,焼
瓦,灰
等 の汚物の固 ってい る所が見出され,これを追 って除いて行 くと手頃な穴が出来た ことであ った。か くしてこれを注意 して掘 って行 くと
,そ
の底か ら礎石下詰石 ら しい石が出たので,
これをllB次探 した のである。何れ も汚い土 が見 出され て,そ
れ が緒 とな り,中
には根石 の彩 しく残 っていて,極
め て明瞭な もの もあ った が (第13図),東
端列 の南端 の もの等は最初に取付いた端の柱位置上,緒
をは っき り捉 え得 ない ため,困
難 を極めた。最後に二三 の問題が残 された。第一は南大門 と六条大路 との関係 である。興福寺の場合 の よ うに南大門か ら東西へ少 し離れ てか ら
,築
地が南折 して道路が南方へ追いや られ るか,そ
れ と も門が大路へ前半を突 出す るものかを知 る必要を感 じたのであ る。それには南大門か ら興福寺 の場合 の よ うに東西に離れた場所を試掘 してみ ることとした。南大間中心か ら136.5尺西方が 丁度小 さい問のあ る場所 であ るが,興
福寺 の築地の南折す る地点 も南大門中心か ら140尺
程 で あるか ら,
ここで道路 と門の間を試掘 してみると,果
して幅4尺
程に玉石を敷詰めた ものが,深 く旧床面上か ら現れたのである。 これが築地下の石敷の名残であるとすればそのものずば り
第12図 中門東北隅で出た基壇石 及び柱礎石据付跡 (左端)
第13図 中門中列東 より第3 礎石据付跡
279
であるが
:道
路 の舗装か も知れない。 尚 これを道路南 の畠中で探 してみ ると,所
々欠損は して い るが,ず
っ と南 の川堤 の手前 まで続いてい る。(提の手前で土管が埋設されていた。)念
のた め,これ と対称の東方 で も道路南で試掘 してみたが
,こ
こは粘上 の天然層が実に深 く,地
下11尺 に 及 んで もな くな らないので遂に これを放棄 した。一方小門の内部並に門の下を掘 ってみ ると, 門 内に も同 じ石敷が続 き,こ
れに対 し,現
門下に も元 の門の基壇 と見 られ る もの が 現 れ た の で,こ
れ らの石敷は通路の舗装 であ ると判定 され るに至 った。第二 は,『縁起』の南大門及び中門の寸尺に於て
,梁
行寸尺は今回発掘 の もの と正 し く一致す るのに桁行寸尺が会わない点 であ る。但 し中門の桁行51尺 とい うのは正に中央3間
分 に当 る し,南大門 の50尺 とい うのは
,中
央間 の柱間寸尺18尺 に隅 の柱 間16尺 を加えた値 である。だか ら両 門は後に改造縮少 されて,縁
起 の寸尺 に改め られたのではなか ろ うか とい う疑 間が起 る。然 も 中門 では玉石 で囲れ て前面階段 の輪郭 ら しい もの(両側には凝灰岩切石をおく)が
正 に1間
分 あ っ て,門
を3間
に縮少 した とすれば話が合 う。そ こで今一度そ うした縮少の形跡は認め られない が念をお してみ ることと した。そ こで先ず一つ起 った疑間は中門で基壇 の築土中か ら瓦片が出 た り,又
壇表 よ り下方 と見 られ る所に凝灰岩を混 じてい ることであ る。南大門にはそ うした疑 問はないが,念
のため,東
北隅柱礎石跡 とその両隣 の礎石跡 との間に トレンチを入れ て,こ
こに雨落濤 の形跡 で もないか
,
しらべ てみた。全然手答えがない。そ こで試みに壇 を掘割 ってみ るに,壇
側 と壇 の上面 は一様 の粘土層 でその中には瓦 も混 じてお り,(何
れも上代の瓦片で水平に おかれる)2尺以上 も下 ると,細
かい砂利を混 じた固い層 とな り,南
方に 向 って補上 ってい る。そ うすれば瓦 の混入は創建 当初か らと見 られ よ う。
中門では中央間だけ
,後
に地上げ してはいないか との憶測を以て これを しらべた。土壇 の表 面 のみ でな く中段に も凝灰岩片のあ ることは,注
意を要 し,東
端間 中柱通辺か ら南方に亘 って も,中
段に凝灰岩片が線状に存在す るのが認め られたが,こ
れ らは同一水位にあ り,板
石 の中 がぬけて,周
囲が残 された もの と見 られ るので,元
は ここに一面に凝灰岩が敷かれ ていた よ う に考え られた。然 もその石の上面は,東
南隅基壇石の上面に相当す る位 の高 さであ った と推定 され る。そ こで先に発据 した礎石据付跡 の下に更に一段 と低い古い礎石据付疲跡を さ ぐりあて 得 ないか と思 い試 みたが,こ
れは無駄 であ った。 こ うして尚割切れぬ点 も多少残 ったのであ る が,こ
の辺 で一応調査を打切 ったのであ る。3 遺 跡 に関 す る考 察 平 面 の 規 模
平面寸尺 の決定方法は大安寺 で行 った場合 と同様 であるが
,中
軸線については,東
西両塔間 の距離 の2等
分点か ら(西塔は擦礎による)両
塔 中心を結が線に垂直 な線 を作 る と,そ
れ は 南 門 の中心を通 らず して (南門は南大門遺跡の中心にあり)1・07尺 東方に来 る。又南門中心か ら南大門 基壇 布石 の線 に垂 線 を作 ぅた所,両
塔を結が 中心は通 らずに1.99尺西方に落ち る。 よ って 図 の中軸線は南大門基壇 の線 とは直角 とせず,南
門中心 と両塔を結ぶ線 の中心を結 んだ もの とし た。 この線は幸い,中
門の中列柱 間の中心を通 るのであ る。 中門は西端が失われてい るので東 半に従 って これを決めた。 旧尺の一尺は現尺 の .975と した。 これは東塔 の実測値に よった ものであ る。
230
南大門 桁行
5間
中央3間
各18尺 両端16尺 梁行2間
各16尺 中 門 桁行5間
中央3間
各17尺 両端 15尺 梁行2間
各12.5尺 基壇 の大 きさは,(南
大門は地覆石外面の線,中
間は壇石の外面による)南大 門 東西110,96尺 南北57.13尺 中 門 束西
91.0尺
南北43.22尺 南大 門中問間心 々87.38尺
南大門階段 の幅は54.5尺
,従
って軒 出の下限 は 南大 門 平 で14.135尺 妻 で14.725尺Hヨ F弓 9.4225ナ磁 6.0125ナ く
南大門は恐 ら く15尺 以上 の軒 出を持 った入母屋造
,従
って手先 の多い斗棋 を持ち,中
間は軒 出9.5尺
以上,傍
軒 の出6尺
以上 で,切
妻造,手
先 のない斗棋を持 ったであろ う。現在 の地盤 は南 岡付近 で著 し く高 く
,中
門遺跡付近 では追かに低 く, 2尺
余 り下 ってい る。これは元 々南大門基壇 が中門基壇に比 して著 しく高か った のに基因 し
,礎
石据付跡か ら知 られ る よ うに,現
南大門跡 の地表 は中間跡 の地表 よ りもず っと余計に削 り取 られ て い るの に 拘 ら ず,尚
その よ うに高いのであ る。壇 外の旧地表は,現
南門付近 の最高点 よ りも5尺
程 下 に な る。南面階段 の出が4.8尺
程 あ る ことか ら推 して,石
階 は5級
を下 らず南大門壇 の高は大安寺 南大F弓と同様5尺
程に及 んだ のでないか と思われ る。中F]の 垣 の高は変更を受けていて複雑だ が,南
大門 よ りは遜かに低 く,現
状 か ら推す とそ の半分位 であ ったか と察 せ られ る(礎石跡か ら推すと壇表は削られていないらしい)。南大 関の基壇 の構造は大安寺 の「衛大 門
,中
門 と同様 であ るが,地
覆に束柄を存 しない点が異 な り,石
の大 きさは,布
石 の見付幅は復原尺 の1.2尺 と見 られ,(実
際の大きさは1.4尺位)高
さは 復 原尺 の1尺
に近い。地覆は幅 1.4尺 高 1.00尺 程 で,何
れ も大安寺の もの よ り大 きい。築地際 の束の見付幅は 1.28尺 〜1,35尺〜1.42尺,同
厚 .52尺〜 .55尺〜 .62尺側面後部を欠取 り,羽:]石と相欠 きにな って納 る。
中門基壇 の構造 は全 く異 な り
,地
覆 も布石 もな く,厚 6,7寸
の凝灰岩が地上に直 接 又 は そ の下に玉石をか って立ち,そ
の上に葛石をおいた もの らしい。再石は現存せず,唯
― ケ所にそ れ ら しい ものの載 った所が あ ったが,こ
れは原形 の ままでな く,下
の石が少 しくずれた上に載 せ られた ものの よ うであ った。但 し回廊南狽JのものはF衛大 間の地覆 と同形式 の もので,凸
字形 の断面を持ち,羽
日石は この上方 の突起 と前面合はせに納 り,前
上 角に欠込みがあ って薦石を 咬み合わせた よ うであ り(その有効高は 3寸)そ
の地覆 の上端が,中
関基壇石の底 と略一致 して い る。従 って回廊基壇は原初 の ものを残す と見 られ るが中門の ものは全部や り直 してい るもの と思われ る。壇 の中段に見 られ る凝灰岩 片は,元
の敷石のす り減 った残片 と見 るべ く,第
二 次 には回廊壇上が中問 よ リー段低 くされてい るが,元
は中門 と同 じレベルであ ったのであろ う。そ の程度 なれば 中段 の石 の高 さと一致す る。第
2次
には壇外 も前記の よ うに土器包含土 で埋立 て,そ
の上に粘土をおいた であろ うか ら,南
大門で も地覆外の布石は埋 って しまい,こ
の中門 の基壇石底 も土中に埋 って支え られた であろ う。然 しその時 も階段耳石 ら しい ものが中央3間
分 の外に存在す ることか らす ると,矢 張3間
の階段 で,門 は5間
であ ったであろ う。(rllし前記のように背面東北隅東側に見出された凝灰岩は立てられず
,横
にねせて用いてあった。後に倒されたものか, 28ヱ或は異った方式で石が積重ねられていたのであろう。何れにしても位置は適当な所にある。)
共後階段 を正面1間に改造 したのであろ うか
,南
側 中央1間
両腸には 凝 灰 岩 布 石 も見 出 さ れ,又
丁度1間
分 の階段 ら しい位置を囲 って玉石が列 ってい る。 尚二次的 な南側基壇 の外方3,4尺
をへだ てて玉石がな らび,基
壇東南隅 では壇につれ て北折 し,更
に回廊 の基壇にそ って 東 折 してい る。 これは側面 で幅が減 じてはい るが雨落溝 の如 きものの岸積 であろ うか。 尚回廊南 には この溝 の蓋 の よ うな凝灰岩板石が存在す る (第■図)。これ らの玉石 の下には
,中
間南正面 中央間の辺では凝灰岩布石が2条
程,更
に南方 では,幅
の広い路面を舗装 した凝灰岩 の板石か と思われ る幅の広い ものが
,極
め て薄 くな って存在 して いた (作業困難のためこれを追及し得なかったのは遺憾であった)。 これ らヤよその高 さか ら云 って も原 初 の もの と見 られ,壇
に近 い部分 の ものは階段段石の名残か と思われ る。南大 門中心 よ り西方 140尺 (復原尺
)を
距 てて現在小門のあ る位肥には早 くか ら小門があ り,幅
4尺
余 の石敷 の路が南方川の堤に達 してい る。 これは南大FЧ等 の原地盤 と続 くものであるか ら,建
立 当初か ら存在 していた ものか も知れ ない。小問の地盤は石段一段だけ高 くされ てい る。4 出土遺 物 につ い て
出土 品は瓦 の他は小量 の釘
,釦
金具,古
銭,土
器,障」器 等である。土器 と しては埋土中に多 量 に投入 された土師 の皿 の破片があるが,須
恵器 は全 然 出ていない。瓦 も自然に軒か ら落下 し た ままの状態 で現れた ものはな く,何
れ も埋土 中に混入 された ものであ るか ら,必
ず しも出土 地に深い意味は認め難い。 出土瓦の文様 の積類は円瓦27flff,平瓦29rrt,同 種 で2個
以上 出た の は 円瓦 で7種 ,平
瓦 14種,時
代は奈良 よ り室町時代に及んでい る。更に5個
以上 出てい るのは 円瓦 で3種 ,平
瓦 で5種
である。 この内には平瓦に平安時代の もの1種
を含むが,他
は奈良時 代に属す る。妓 も多数出上 し,重
要 な ものは,図
示 の3種
であるが(第14,第 15,第16図)平
瓦 の2種
も同系統 の文様 であ り,他
に これ と類似 の ものが今1 4flあ り(以L3種
合わせて54個出土)円 瓦 の方 も図示 の もの と似て総調子 の異 った ものがあ る (図示のようなもの 1個 のみ出土,合
わせて 13個となる)。 これ らが創建当時 の瓦 であろ う。 尚中F]礎 石跡か ら室町時代以後の新 しい瓦が出第15図 建立当初の平瓦に擬せられる瓦当
第14図
建立 当初の円瓦 と推定 され る瓦 当
第16図 建立当初の平瓦に擬せられる瓦当 (その2)
てい るのは
,礎
石抜取後埋 った もの であるが,こ
こか ら図示の円瓦 と同系統の ものが4個
も出 てい ることは看過 し難 く,当
初か ら混 じた と見 られない こともないが,或
は地上げに伴 って礎 石 を多少あげたのではないかを思わせ る。若 しその よ うな工事を した とした ら,
これは建物が 焼失乃至転倒 して再建 した際 でなけれ ばな らない。文献に よって知 られ る もの を擬 す る なれ ば,天
禄4年
の火災の後か,正
平16年 地震に よる転倒後があげ られ よ うが,こ
れ と関連 した基 壇 に凝灰岩 を用いてい ることや倉1建時 の瓦 が埋 ってい る ことな どか ら推す と,む
しろ天禄焼失 後に擬すべ きであ る う。5結
び薬師寺伽藍 の規模 については
,尚
多 く検討すべ き問題を残 してお り,回
廊,講
堂等 の位置,大 きさ等に関 して も
,発
掘 調査 に期待 され るのであ るが,今
回その第一着手 として,南
大門及 び中間の位置,大
きさ其他 を明 らかに し得た ことは喜 びにたえない。特に縁起 の記載 と桁行寸 尺 を甚だ し く異に していた ことは予想外の収獲 で,弥
発掘 に よって,全
伽藍規模が 明確に され るこ との必要を痛感 させ られ る次第 である。 尚中間基壇が創建当時 の ままでな く,改
築 され て い ることが察せ られ るに至 った ことも薬師寺建築の歴史に示唆 を与 えるものであ る。又南大門の規模が
,金
堂 が比較的小規模 で柱間寸尺 も小 さいのに拘 らず,大
安寺 の南大門に 匹敵す る大建築 で,大
柱 間を持つ ことが明 らかにな った如 き,奈
良時代 の建築を考え る上に も 大 きい反 省を促す ものであ った。 中門は流石に大安寺 の もの よ りも梁行 に 於 て 著 し く小 さい が,
これは回廊が単廊であ ったか否かを明らかに され る時が来れば,一
層問題 が鮮 明にな るで あ ろ う。尚南大 問は築地 を中心に して
,前
半 を築地外に 出 してい る ことは大安寺 の場 合 と同一 であ る ことがは っき りしたのであ るが,六
条大路は この築地外に接 していたのであ るか,或
は更に南 方に よっていた ものであ るか等の問題が残 る。西方小問前 で発粉Eされた石敷は これを解決す る かに見えたが,結
局単な る通路 とな って,こ
れ のみ では判定の しよ うがない。 これは他 日の間 題 と して別 な方法に よって解決す る工夫がな されなければな らゑ こととな った。その他南大 門 の南束 で出た掘立柱穴 の如 きものについて も他 日追求す る必要があるが
,薬
師 寺 の創立前 の地盤 につ いて も,深
く掘 下げた南大問南側や 中門北側 で知 られた のに よる と,深
い砂や粘上の腐触上 であ った ら しく
,そ
の上に人工的に粘上を敷 き,バ
ラスを入れ てい るよ う であ る。又南大間中心か ら東方140尺付近 でみた よ うに,天
然層が地下 11尺 に及 んで もな くな らない ことは,天
然地形に相当高低 のあ った ことを示唆す るもので,創
建 当初 の立地 条件につ いて も,将
来 これ を解 明す る必要 を感 じさせ られ る。23θ