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仏教における行と業、それらと身体の関係 : 現象 学的解明の試み

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(1)

仏教における行と業、それらと身体の関係 : 現象 学的解明の試み

著者 林 克樹

雑誌名 人文學

号 177

ページ 1‑22

発行年 2005‑03‑20

権利 同志社大学人文学会

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000007633

(2)

仏 教 に お け る 行 と 業 ︑ そ れ ら と 身 体 の 関 係

││現象学的解明の試み││

林 克 樹

はじめに

小論は仏教における﹁行﹂と﹁業﹂の概念がもつ意義を︑人間の行為における自覚︑しかも本質的に身体的な自覚

である﹁わが身﹂の成立という観点から考察する︒事典類を参照すると︑﹁行﹂によって翻訳されたサンスクリット

語は大別して三つある︒︵一︶﹁五蘊﹂の一つであり︑後に﹁十二縁起﹂の第二項としても立てられる

samskara

︵二︶ブラフマチャリア︵梵行

carya

の︵もこの義︶︑三行︶﹁行住坐臥﹂﹂﹁修と浄な行い︶など言清われるときの︵

行を表わす

gamana

である︒このうち︵三︶は仏教固有の思想を表わすというよりも︑一般的な﹁進み行くこと﹂と

いう意味であるから︑ここでは考察の対象とはしない︒︵一︶と︵二︶は異なる語源をもち︑一見したところ全く違

った意味であるが︑小論の成果によれば︑深く意志的であることにおいて両者は媒介される︒それを端的に表わした

ものが親鸞の﹁大行﹂である︒他方︑﹁業﹂は

karman

の翻訳である︒身・口・意の三業として固有に人間的な行為

― 1 ―

仏教における行と業︑それらと身体の関係

(3)

を意味する︒以下においては︑第一節で

samskara

の意味での﹁行﹂と﹁身体﹂の関わりを明らかにし︑第二節では

﹃唯識三十頌﹄の中に﹁業﹂の成立条件についての発生的現象学を読み取ることを試みる︒﹁行﹂が﹁意志﹂を本質と

するのに対して︑﹁業﹂はいわば﹁意思﹂を本質とするが︑いかなる条件のもとに﹁行﹂は﹁業﹂となるかが問題で

ある︒第三節では︑﹁大悲の願﹂から出て意志的自己に成就する﹁大行﹂において︑欲望の在り方の自覚による転換

がどのようにして生じるかを考察する︒

一︑行と身体

﹁五蘊﹂の一つ

samskara

は﹁行﹂と訳される︒﹁五蘊﹂が何を意味するかにも諸説あるが︑現象学の観点からする

と︑﹁存在者を存在せしむる﹃法﹄としての相︵

Eidos

︶﹂

しのこ︑ものういと︒いた用と採を解見の郎哲辻和ういよ

うに解するならば︑﹁形相的還元﹂によって取り出される﹁本質﹂からノエシス・ノエマの相関関係の分析がなされ

る理由が明らかになるように思われるからである︒﹁純粋意識﹂への﹁現象学的還元﹂よって記述されるのは︑﹁形相

的還元﹂を行う以上︑決してとりとめのない経験ではなく︑存在者の存在の﹁かた﹂という意味での﹁形相﹂でなけ

ればならない︒実際︑想像を駆使して﹁自由変更﹂を行い︑たとえば花が花であるとはいかなることかをノエマに問

いただすとき︑色・受・想・行・識に相当する﹁形相﹂が浮かび上がってくるように思われる︒すなわち︑花は空間

物体性︵何ものかがあるときそこに同時に他のものは存在できないこと︶を具え︑感覚によって受け取られ︑感覚の

うつろいを超えて一定の像をとり︑意志や欲望の対象となり︑花ならざるものからの識別によって花である︒﹁五蘊﹂ 仏教における行と業︑それらと身体の関係

― 2 ―

(4)

説は﹁形相的還元﹂の優れた実践例であるとさえ言えそうである︒ちなみに︑﹁五蘊﹂を以上のような意味に解する

のはひとり和辻だけではない︒安田理深も︑たとえば﹁色というものがあるのではなく︑あらゆるものが色という在

り方である﹂

と述べ︑﹁五蘊﹂を﹁存在の法﹂

見るいてっとを解ので様同︑てしとるあ︒

さて︑﹁五蘊﹂において﹁行﹂とは何か︒先には﹁意志や欲望の対象となること﹂という﹁形相﹂を﹁行﹂に対応

させたが︑正確にはどのように規定されるであろうか︒和辻は﹃雑阿含巻二﹄を参照して﹁為作﹂という意味を取り

出し︑次のように述べる︒﹁行とは作用

Akt

である︒すべての存在するものは︑作用されたものとして︑すなわち為

作相において存在する﹂

﹁動活的動能的発自は︒﹂行﹁︑合場のこ﹂

ルあで解見るな異とーでサッフはれこ︒るある ように見える︒﹃論理学研究﹄では﹁作用﹂から

actus

Betätigung

の意味は排除されている

︒しかしながら﹁自発

的能動的活動﹂である﹁行﹂は︑実は単なる志向的作用ではない︒和辻が言うように﹁すべてのものが為作相におい

てすなわち意識作用において存するとは一つの意識内容として統一されてあるということ﹂

であるから︑﹁色・受・

想﹂という﹁形相﹂をもつものを﹁具体的な一の存在物﹂

でしむてっがたし︒るあ﹂と行﹁がのるせさ立成てしろ

それはカントにおける﹁根源的統覚﹂の﹁自発性﹂

いで受のてしと為有を受﹁はるとあ︒うろあでのもきべういあ

るものに︑想を有為としての想であるものに﹂

多用作の用作﹁に共と郎幾す田西︑はで味意ういとる﹂

と呼ぶこと

もできよう︒これは﹁意志的自己の立場﹂

作で用作志意きな容内的覚自は用向で志﹁とるすらか場立のこ︒るああ

る﹂

︑﹁志向は弱き意志に過ぎない﹂

﹁ば︑﹁行﹂を意す志や欲望の対れととな言わなければらるない︒そうであ象

となること﹂と規定することは的外れではない︒﹁意志や欲望の対象となること﹂とは﹁受﹂や﹁想﹂の﹁形相﹂を

もつものが﹁為作相﹂としての統一を得ることである︒それは﹁ノエシスがノエマとなる﹂

こと︑ノエマがノエシ

― 3 ―

仏教における行と業︑それらと身体の関係

(5)

スを映すことによる自覚︑しかも﹁自愛﹂を本質とした﹁感情的自覚﹂

の成立である︒

しかしながら﹁行﹂は意志や欲望の対象に自己を映すことによるのとは全く異なった自覚をももたらす︒しかもそ

れは根源的に﹁身体的﹂なのである︒フッサールは﹁﹃身体的︵

leiblich

︶﹄とは︑明らかに単に﹃物体的︵

körper- lich

︶﹄ということを意味しているのではなく︑この語はかのキネステーゼ的なものを指し示しており︑しかもその固

有の仕方で私の機能を指し示しているのである﹂

ich

述ネ︵す為は私﹁は﹂ゼーテスキべとるれさ定規が性体身︒る﹁

tue

︶﹂という﹁自発的能動的活動﹂の意味での﹁行﹂に気づいていることに他ならない︒西田幾多郎であればこれを

﹁ノエシス的限定﹂

な映して見るのではく他︑﹁自己が直に自にをとれ呼ぶであろう︒そは分﹁意志的自己﹂が自己

自身を見ると言うこと﹂

定態が身体性を規すのる︒﹁我々の身体事こでとある︒フッサール同も様︑西田においてと

は固︑叡智的ノエシスの具体的限定に基礎附けられて居るものである﹂

おテスネキ﹁ていに︒教仏︑でろことー

ゼ﹂︑あるいは﹁ノエシス的限定﹂の意味での自覚を明らかにしたのは唯識の思想である︒﹃唯識三十頌﹄

の第三頌

に言われる﹁阿頼耶識﹂の﹁執受﹂の内容は﹁五根﹂と﹁種子﹂であるが︑このうち﹁五根﹂は眼・耳・鼻・舌・身

の五感を作用の面から捉えた概念である︒五感は単に感官として捉えられたときには﹁五処﹂と呼ばれるが︑﹃雑阿

含巻十三﹄で﹁処﹂が﹁有対﹂であると言われる﹁有対﹂の意味を︑和辻が適切にも﹁﹃抵抗されて﹄ある﹂と解す

るときに指し示す﹁抵抗さるるもの﹂こそが﹁五根﹂である

受受のてしと為有﹁を﹂﹁︒は﹂根﹁︑てっがたし﹂

にする﹁行﹂がなければ成立しないのである︒この﹁自発的能動的活動﹂である﹁行﹂に気づくことこそが﹁阿頼耶

識﹂の﹁執受﹂であり︑その意味で﹁キネステーゼ﹂的身体は五感にではなく﹁阿頼耶識﹂に与えられているのであ

る︒ 仏教における行と業︑それらと身体の関係

― 4 ―

(6)

けれども﹁行﹂はいかにして﹁直に﹂自己自身を見るのであろうか︒﹃内的時間意識の現象学﹄においてフッサー

ルは次のように述べている︒﹁あらゆる作用は何ものかについての意識であるが︑あらゆる作用はまた意識されてい

る︒あらゆる体験は﹃感覚されて﹄おり︑内在的に﹃知覚されて﹄いる︵内的意識︶︒たとえ自然的に措定され︑思

念されているのではないにしても︵知覚するとはここでは思念しつつ振り向けられて把握することではない︶﹂

︒こ

こでは﹁あらゆる作用﹂は対象化されることなく意識されていると言われており︑その意識は﹁内的意識﹂と呼ばれ

ている︒別の箇所には次の指摘がある︒﹁われわれが﹃内的意識﹄をも﹃知覚﹄と呼びたいのであれば︑われわれは

ここに実際知覚と知覚されたものの厳密な同時性をもつ﹂

標とこるれさ化象対とへ指︒が覚感はに的般一は覚知に

よって成立する︒その場合感覚内容はヒュレーとして知覚作用に先立っていなければならない︒知覚作用の現在にお

いて感覚内容は﹁過去把持﹂によって拘留されている︒しかしフッサールが分析するとおり︑﹁過去把持﹂は﹁原印

象﹂の変様である︒前者は後者を前提にしている︒﹁原印象﹂においては作用と内容は一致していなければならな

い︒作用そのものが内容でなければならない︒したがって作用の﹁内的意識﹂は﹁印象的な﹃内的意識﹄﹂

︑作用が

﹁原印象﹂的に﹁感覚されて﹂いることである︒私見によれば︑この事態は﹃唯識三十頌﹄の第一頌に言われる三種

の﹁識転変﹂の第一︵﹁初転変﹂︶︑﹁異熟︵

vipaka

︶﹂に他ならない︒これは﹁行﹂の自己時間化︑すなわち作用が

﹁原印象﹂の変様の中で﹁体験﹂として成立することである︒山形

驫自とれ流を分自で分が洋象印原﹁ばれよにし て︑しかも意識流の根源的流れとして構成する仕方が原意識︹根源的意識︵

Urbewusstsein

︶︺と呼ばれているのであ

る﹂

と意識﹂のことである解源する︒この解釈はステ的根︒阿私は唯識で言われる﹁頼﹁耶識﹂とはまさにこのィ

ラマティの見解と一致する︒スティラマティによれば﹁初転変﹂とは﹁︵次々に︶変化していくことである︒変化し

― 5 ―

仏教における行と業︑それらと身体の関係

(7)

つつ生成するということは︑因の瞬間︵の存在︶が滅すると同時に︑因の瞬間︵の存在︶とは異なった本質相をもっ

て︑果︵の瞬間の存在︶が果︵の瞬間の存在︶として生成することである﹂

根が﹂れ流的源の︒流識意﹁はれこい

わゆる︽刹那滅︾的に存在することを述べていると思われる︒﹃唯識三十頌﹄第一頌に言われる﹁種々の言語表現が

なされる﹂﹁我・法﹂はその背後に実体的な根拠をもたないということである︒この性格づけは﹁根源的意識﹂にお

ける生起にも妥当する︒フッサールが言うように︑﹁原印象﹂は﹁産出されず︑産出されたものとして生ぜず︑自然

genesis spontanea

︶によって生じるのであり︑それは根源的発生である︒原印象は︹何かから︺成長するのではなく

︵それは胚子をもたない︶︑それは根源的創造である﹂

去様変るざえ絶のへ﹂持把過︒﹁は﹂れ流的源根﹁りまつで

あり︑それによって絶えず﹁原印象﹂が新しく︵流れ去った﹁原印象﹂からではなく︶生じるということである︒

ちなみに︑私のこの解釈は︑先に触れた﹁阿頼耶識﹂の﹁執受﹂をよく説明することができる︒﹁五根﹂の﹁執受﹂

が作用の﹁内的意識﹂であることは見やすい︒他方︑﹁種子﹂の﹁執受﹂とは何であるかついては︑すでに論じたこ

とがある

覚先に見た﹁知覚と知さるれたものの厳密な同︒べの繰でここでは詳細にはり述返さないが︑要点だけ時

性﹂は﹁意識流﹂の始まりの位相にだけ該当するのではなく︑それは﹁過去把持の過去把持﹂である﹁縦の志向

性﹂

の一統の体全れ流生に﹁るす出現てっよ﹂

い原﹁が用作︑ばれす言換︒るてのし立成ていおに相位るゆらあ印

象的﹂に感覚されて成立した﹁体験﹂は︑﹁過去把持﹂がいかに深く後退しても﹁縦の志向性﹂によって︑現に進捗

している﹁根源的流れ﹂において根源的に意識されている作用と﹁先共在︵

Vor-Zugleich

︶﹂

の在り方をしてい

る︒﹁根源的意識﹂は﹁生の流れ全体の統一﹂が﹁於てある場所﹂となっている︒これが体験の潜勢態である﹁種子﹂

が﹁阿頼耶識﹂に﹁執受﹂されるということの意味である︒その結果︑過ぎ去った作用は今なお効力あるものとして 仏教における行と業︑それらと身体の関係

― 6 ―

(8)

機縁に応じて現前化しうるのである︒こうして﹃成唯識論﹄のいわゆる﹁種子生現行︑現行薫種子﹂

を説明でき

る︒

ただし︑私見によれば︑体験の潜勢態は決して﹁阿頼耶識﹂に実的に貯蔵されているのではない︒﹁種子生現行﹂

はなるほど過去の﹁体験﹂の再生であるが︑それは過ぎ去った実在的な作用が再度出現するという意味ではない︒フ

ッサールも言うように︑﹁﹃再生﹄とは内的意識の現前化であり︑それは原的な過程︑印象に対立する︒したがって事

物の過程の現前化を再生と呼ぶことは許されない︒自然の出来事はもう一度再生されることはない︑それは想起さ

れ︑現前化されたものという性格をもって意識の前にある﹂

あ識意に的源根もでまくは︒力効の用作たっ去ぎ過さ

れている作用︑すなわち現行のいわば志向的背景として機能するのである︒それゆえまた︑﹁種子生﹂の意味も︑

﹁阿頼耶識﹂自身の潜勢性から理解されるべきであると思われる︒つまり︑現行と﹁種子﹂の一切が﹁於てある場

所﹂である﹁阿頼耶識﹂の﹁見分﹂

が根拠でありならて︑それ自身はのべは験︑現勢的な経︑すすなわち現れのノ

エマ的に限定された仕方では現れない︒﹁無の場所﹂であり︑﹁空﹂である︒斎藤慶典の言葉を借りて︑それは﹁世界

に実質を与える﹃ヴァーチャリティ﹄﹂

のなくこの場合﹁でヴァーチャルもまでとあると言うこもうできよう︵言﹂

とは﹁仮想的﹂ではなく﹁潜勢的﹂という意味である︶︒

右のように解した場合︑﹁種子生現行﹂から︑﹁空﹂である﹁阿頼耶識﹂の﹁見分﹂と﹁行﹂の自覚である﹁身体﹂

の関わりについて一つの知見を得ることができる︒斎藤の﹁世界に実質を与える﹃ヴァーチャリティ﹄﹂はフッサー

ル晩年の草稿では﹁大地︵

Erde

︶﹂と呼ばれ︑その存在意味に関して﹁身体﹂と比べられている︒﹁大地が﹃根元的な

住処﹄ないし﹃世界の箱舟﹄としての意味を失うことができないのは︑それはちょうど私の身体が﹃原身体︵

Ur-

― 7 ―

仏教における行と業︑それらと身体の関係

(9)

leib

︶﹄としてのまったく比類のない唯一的な存在意味を失うことができず︑あらゆる身体はこの﹃原身体﹄から存在

意味の一部を導き出してくるのと同様であり︑⁝⁝﹂

ー行﹁︑りあで﹂のもな的ゼテ︒スネキ﹁のかはと﹂体身原﹁﹂

に気づいていることとしての身体である︒しかし単なる類比を超えて︑フッサールが本当に言いたかったことが草稿

の末尾近くに置かれた次の文によって明かされる︒﹁私︵

ego

︶は︑現実的な存在者や可能的な存在者のすべてに︑実

在的であろうと非実在的であろうと︑どんな意味の存在者にも先行して生きている﹂

︒真の﹁大地﹂は︽私の生︾

なのである︒他で論じたように

し量︾である︒か︽しながら︽無量無で︑化私の生は我有で味きない︑その意の

生︾は︿どこか﹀に存在しない︒︿どこか﹀が︿どこか﹀であり得るのは﹁大地﹂との関係においてなのであるか

ら︒︽無量の生︾は私が生きるという仕方でしか存在しない︒﹁世界に実質を与える﹃ヴァーチャリティ﹄﹂である

﹁空﹂の働きは︑﹁私は為す﹂という﹁行﹂の自覚としての﹁身体﹂においてしか確証されないのである︒﹁外的な物

体等の触知の最小限の触覚的現前態とひとつになった私の身体の⁝間接的現前もまた︑根源的な世界経験の一契機で

ある﹂

生らに言うと︑︽私の︾︒が﹁大地﹂であるときさうともいうフッサールの言葉そろこから理解できるであ︑

私は真に自由であり︑西田幾多郎と共に言うならば﹁真の個物﹂であるが︑これは﹁無の場所﹂の自己限定として存

在する

は覚としての﹁身体﹂﹁の阿頼耶識﹂の﹁見分﹂自﹂︒最﹁ノエシス的限定﹂の根行源的な意義である︒﹁の

自己限定である︑と表現することもできる︒安田理深が言うように︑﹁行﹂は深く﹁意志﹂的であるが︑それは﹁主

観の自由による意思﹂とは異なり︑むしろ﹁願によって智が働くこと﹂である

え立成の己自る言︒と﹂身がわ﹁で

ある︒この点については最後に改めて考察する︒ 仏教における行と業︑それらと身体の関係

― 8 ―

(10)

二︑業と身体

﹁行﹂は﹁自発的能動的活動﹂であるが︑まだ人間的行為そのものの意義をもたない︒仏教において人間的行為を

表わす概念は﹁業﹂である︒ヴァスバンドゥは大乗の立場に転向する以前に﹃成業論︵

karma-siddhi-prakarana

︶﹄

を 書き︑﹁業﹂の本質を﹁思︵

cetana

︶﹂と見定めた︒﹁思﹂は﹁意志﹂と区別される﹁意思﹂を表わす語として都合が よいし︑現象学の観点からは﹁思念︵

Meinen

︶﹂の含意をもつものと解することができる︒ヴァスバンドゥは﹁思﹂

の過程をさらに三種に分節化する︒すなわち︑﹁審慮思﹂︑﹁決定思﹂︑﹁動発思﹂である︒﹁審慮思﹂と﹁決定思﹂は

﹁意業﹂︑﹁動発思﹂は﹁身業﹂および﹁口業﹂を形成する︒安田理深の説明を借りると︑﹁審慮は選択︑決定は決断︑

発動︹動発︺は表現である︒選択が決断を通して表現されるところに意思の過程が成り立つ﹂

︒﹁思﹂の過程はカン ト的な意味での﹁選択意志︵

Willkür

︶﹂によって性格づけられると思われる︒カントは言う︒﹁⁝選択意志の規定根

拠は⁝ある客観の表象であり︑またこの表象の主観に対する関係︑つまりそれによって欲求能力が客観の現実化に向

けて規定される関係である︒しかし主観に対するこのような関係は︑対象の現実性についての快と呼ばれる﹂

︒こ

の言明から︑快の感受性︑表象可能性︑愛着の対象である自我︵主観︶が人間的行為の条件として取り出される︒

﹃唯識三十頌﹄はこの条件がいかにして成立するかを発生的に分析している︒

ヴァスバンドゥは第三頌で﹁それ︹阿頼耶識︺はまた⁝⁝常に︑触・作意・受・想・思にともなわれている﹂と述

べる︒﹁触・作意・受・想・思﹂は五蘊のうちの﹁受・想・行﹂を﹁心所︵

caitta

︶﹂︑すなわち意識において生起する

― 9 ―

仏教における行と業︑それらと身体の関係

(11)

ものとして再編した概念である︒﹁触︵

sparsa

︶﹂は︑﹃成唯識論﹄には︑﹁三和して︑変異に分別して︑心心所をして

境に触れせしむ﹂

こが一緒になると・を三和という識境︑理とある︒安田深・によれば﹁根﹂

︒﹁根﹂は五感の作用

と悟性的意識の作用︑合わせて﹁六根﹂であり︑﹁境﹂はそれぞれの﹁根﹂と志向的相関関係にある対象︑﹁六境﹂で

ある︒﹁識﹂とは︑安田が言うように﹁三和﹂がたとえば﹁眼根によって︑色境を縁ずる︹対象化する︺ことによっ

て眼識が生ずる﹂

田︒また︑同じく安にきよれば﹁変異に分るでこ︑とであるとすると意が識内容と解すること別

して﹂とは︑﹁三和﹂がすなわち﹁触﹂ではなく﹁三和が縁となって触を生ずるという縁起関係﹂があることを意味

する

てものが為作相においすてなわち意識作用においのべ︒はそうすると︑﹁触﹂と要すするに︑前節で見た﹁て

存すること﹂︑﹁一つの意識内容として統一されてあること﹂に他ならないと言うことができる︒では︑﹁根・境・識﹂

の三はいかにして﹁一緒になる﹂ことができるのであろうか︒これについては前節で言われた﹁処﹂の﹁有対﹂︑す

なわち﹁﹃抵抗されて﹄ある﹂ことから理解することができるであろう︒作用が作用として︑対象が対象として成立

するためには﹁自発的能動的活動﹂である﹁行﹂に気づくことである﹁キネステーゼ﹂によって﹁ヒュレー﹂が構成

されなければならないということである︒この﹁ヒュレー﹂をこそ作用は対象化する︵縁ずる︶ことができるからで

ある︒そうすると﹁根・境・識﹂が一つとなる﹁三和﹂はかの﹁知覚と知覚されたものの厳密な同時性﹂︑すなわち

﹁原印象﹂における事柄である︒﹁三和﹂と﹁触﹂の﹁縁起関係﹂を発生的順序ではなく基づけ関係と解するなら︑

﹁触﹂の核心部分は︑いかなる観念性をも媒介とせずに世界と﹁原印象﹂的に接触することであるという言い方もで

きるであろう︒

次に﹁作意︵

manaskara

︶﹂は︑安田によれば﹁心︵

manas

︶を用かせる︑心を動かす︵

kara

︶﹂

でとるあ︒味意うい そ関の体身とられけ︑業と行るおに教仏係

― 10 ―

(12)

フッサールの語を用いるなら︑﹁作用の気もちが萌しかけていること︵

Aktregung

︶﹂

であると思われる︒すでに見た

ように︑﹁原印象﹂が﹁根源的意識﹂において﹁流れ﹂として構成されるという事態が﹁阿頼耶識﹂における﹁初転

変﹂であった︒これは﹁原印象﹂の﹁過去把持﹂への変転に他ならない︒レヴィナスと共に言うならば︑﹁流れとは

自己自身と合致することを止め︑射映のパースペクティヴの中で呈示されるようになる原印象の変様であるのみであ

る﹂

たじる︒両者は転変し意が識の中ではもはや同時生れ︒さこの変様によって感覚れずたものと感覚作用との的

ではない︒﹁厳密な同時性﹂は﹁根源的意識﹂と根源的に意識されたもの││﹁根源的流れ﹂││とのあいだにのみ

成立するのであり︑流れが流れ去った結果として構成されたもの││レヴィナスが言うように対象の﹁射映﹂を行う

﹁ヒュレー﹂としての感覚内容︑および内的知覚の対象となる作用││は﹁過去把持﹂の志向性によって過ぎ去った

時間客観としてのみ拘留される︒この志向性の活動空間とは︑まさにかの意識の転変から生じる︽ずれ︾がもたらし

た隔たりなのである︒フッサールは﹃イデーン

蠢験﹁が﹂我自﹁がるい﹂てれさ体﹄てえ具を性向志﹁︑ていおに遂

行する主観として﹂﹁生きて﹂いないような場合を指して﹁作用の気もちが萌しかけていること﹂と呼んだ

︒かの

︽ずれ︾の発生はまさにそれに該当するであろう︒安田理深は﹁作意﹂と﹁触﹂の二つが他の三つの﹁心所﹂︑﹁受・

想・思﹂の前提となる︑と見ている

思感覚︑表象︑念もの作用は﹁キ︑の︒に私もこの見解賛う成である︒といネ

ステーゼ﹂によってあらかじめ﹁ヒュレー﹂が構成されていてこそ対象化を行うことができるのであるが︑当の作用

は意識の転変がもたらす︽ずれ︾にのみ胚胎することができるからである︒ちなみに︑感覚︑表象︑思念の作用の成

立は︑第一頌で言われる﹁識﹂の第三の﹁転変﹂︑すなわち﹁対境の了別︵

visayasya v ijnapthi

︶﹂に相当する︒

﹁受︵

vedana

︶﹂と﹁想︵

samjna

︶﹂は︑﹁五蘊﹂においてと同様︑感覚作用︑表象作用と見てよい︒これらは上述の

― 11 ―

仏教における行と業︑それらと身体の関係

(13)

とおり︑志向性の活動空間によって可能となるのである︒先に考察した人間的行為の条件のうち︑快の感受性はまさ

に﹁受﹂によるものであるし︑対象の表象可能性は﹁想﹂によるものである︒この二つと業の本質である﹁思﹂のあ

いだには基づけ関係がある︒なぜなら︑感受性をもたない存在者に選択意志というものは考えられないし︑また︑カ

ントが言うように︑﹁意志︵

Wille

︶﹂とは﹁表象に対応する対象を産出するか︑あるいは少なくとも自分自身を対象

の産出に向けて︵自然的な能力が十分であろうとなかろうと︶規定する︑すなわち自分の原因性を規定する﹂﹁能

力﹂

であるからである︒

では︑人間的行為のもう一つの条件︑すなわち愛着の対象としての自我︵主観︶はどのようにして成立するのであ

ろうか︒これを説明するのが第一頌に言われる﹁識﹂の第二の﹁転変﹂︑﹁思量︵

manana

︶﹂である︒第二の﹁転変﹂

は現象学的には︑﹁根源的意識﹂において﹁原印象﹂が自己構成する﹁根源的な流れること︵

das u rsprüngliche

Strömen

︶﹂││唯識で言う﹁初転変﹂││が﹁縦の志向性﹂をとおして﹁流れ︵

der S trom

︶﹂という一種の対象性を

もって現出することであると言うことができる︒それは﹃デカルト的省察﹄で論じられている﹁最低次の対象的基礎

der unterste g egenständliche Grund

︶﹂

︺の対象的基礎と低してつねに内次最でーある︒フッサル︹は言う︒﹁これ在

的時間性が︑自己を自己のうちで自己自身に対して構成している流れる生が機能している﹂

︒なぜこのような対象

性が現出するのであろうか︒現勢的な﹁原印象﹂の変転は﹁自然︵

genesis spontanea

︶﹂である︒それに対して﹁過去

把持﹂の志向性によって把持されているものは現勢的な変転との関わりにおいてのみ存在できるのであり︑その意味

で意識によって﹁産出されたもの﹂という性格をもち︑﹁流れること﹂において﹁流れること﹂自身から区別される

のである︒自己自身から区別されるものは︑その差異こそが志向性の活動空間であるかぎりにおいて︑ある種の対象 仏教における行と業︑それらと身体の関係

― 12 ―

(14)

性を獲得することができるのである︒なるほどこの対象性は外的および内的知覚の諸対象からは区別しなければなら

ない︒実際自我意識においては﹁流れる生﹂は主題的対象ではない︒それでも︑顕在的な対象化が進捗する以前に︑

﹁志向性﹂があるところにはいつもすでに︽微細な︾対象性が存立しているのである︒言い換えれば︑ここにはまだ

﹁徹底化された還元﹂

てるあでとこういとるいっを残が性朴素るすと要必︒

いずれにせよ︑第二の﹁転変﹂︑﹁思量﹂によって成立するのは対象性に基づいた自我意識である︒﹃摂大乗論﹄は

これを﹁染汚意︵

klistam m anas

︶﹂

た象学的に示しのをはヘルマン・シ現性とこ呼んでいる︒の錯ような意識の倒ュ

ミッツである︒シュミッツによれば﹁私﹂という語は代名詞というよりも﹁いかなる対象をも表わさない副詞﹃今﹄

や﹃ここ﹄と同様に﹂理解されなければならないのである

性た果を割役な要重が﹂体︒身﹁はていおに握把のこし ている︒シュミッツは言う︒﹁感性的に知覚されたものは﹃身体

物体的︵

körperlich

︶﹄と呼ばれうるであろうし︑ 自分の身体

物体の辺り︵

Gegend

︶に自分自身に属するとして無媒介的︵非感性的︶に感知されたもの︵

das Gespürte

︶あるいは感覚されたもの︵

das E mpfundene

︶は﹃身体的︵

leiblich

︶﹄と呼ばれうるであろう﹂

︒ここで注目

に値するのは︑﹁身体的﹂であることが﹁非感性的に感知されていること﹂として定義されている点である︒これは

﹁身体﹂を五感の対象ではなく﹁阿頼耶識﹂の﹁執受﹂と見る唯識の考え方と基本的に合致する︒第一節で論じたよ

うに︑﹁阿頼耶識﹂においては﹁自発的能動的活動﹂である﹁行﹂を無媒介に見ること︑キネステーゼ的身体的な

﹁私は為す﹂の自覚が成立しているのであり︑それは対象に自己を映して見る自覚とは根本的に異質であった︒そし

て対象に自己を映すという︽鏡の構造︾が﹁自愛﹂を本質とした﹁感情的自覚﹂をもたらすのであった︒人間的行為

の条件である愛着の対象としての自我︵主観︶は︑第二の﹁転変﹂によって現出する﹁最低次の対象的基礎﹂である

― 13 ―

仏教における行と業︑それらと身体の関係

(15)

﹁流れ﹂に自己を映して見ることによって成立すると言うことができる︒

さて︑感受可能性︑表象可能性︑愛着の対象としての自我︵主観︶の三者はどこに共通の根をもっているであろう

か︒私見によれば︑それは﹁作意﹂の﹁心所﹂に求められる︒上述したように︑﹁根源的意識﹂において﹁原印象﹂

が自己を流れとして構成するということは︑﹁原印象﹂が自己自身と合致することを止めて︑作用の萌しが胚胎する

︽ずれ︾を生じさせることであり︑これが﹁作意﹂に相当する︒﹁縦の志向性﹂は︑なるほど感覚作用や表象作用のよ

うな顕在的対象化の働きではないが︑それが志向性である以上︑やはり︽ずれ︾から産出されてくるものであり︑そ

の点では志向作用一般と本質的に何の違いもないのである︒それゆえ﹁行﹂を﹁業﹂に転化する因は﹁作意﹂にある

と言うことができる︒換言すれば︑﹁行﹂は﹁作意﹂を縁として﹁受﹂﹁想﹂﹁思﹂を貫いているのである︒こうして

﹁身体﹂が﹁罪業の束﹂である理由も説明できる︒身・口・意の三業に表れる﹁思﹂は﹁自発的能動的活動﹂である

﹁行﹂を核心とするゆえに﹁阿頼耶識﹂に﹁身体﹂として﹁執受﹂されるのである︒

三︑大行と身体

﹃教行信証﹄行の巻冒頭には次のように言われている︒

﹁謹んで往相の廻向を按ずるに︑大行あり大信あり︒大行とは則ち無碍光如来の名を称するなり︒この行は即ちこ

れもろもろの善法を摂し︑もろもろの徳本を具せり︑極速円満す︑真如一実の功徳宝海なり︒かるがゆえに大行と名

づく︒しかるにこの行は大悲の願より出でたり︒即ちこれ諸仏称揚の願と名づけ︑また諸仏称名の願と名づく︑また 仏教における行と業︑それらと身体の関係

― 14 ―

(16)

諸仏咨嗟の願と名づく︑また往相廻向の願と名づくべし︑また選択称名の願と名づくべきなり﹂

﹁無碍光如来の名を称すること﹂すなわち称名念仏の行が﹁大行﹂と呼ばれている︒親鸞はサンスクリット語を挙

げているわけではないが︑称名が万行諸善を難行として︑それと択んで立てられた易行であるかぎり︑この場合の

﹁行﹂は明らかに

samskara

ではなく︑さしあたりは

carya

の意味であろう︒さて︑親鸞の言葉でまず注目したいとこ

ろは︑﹁この行は大悲の願より出でたり﹂という箇所である︒この意味は︑廣瀬杲によれば︑﹁﹃大悲の願﹄の廻向成

就﹂が﹁大行﹂である︑ということである

仏名称仏諸﹁はいるあ﹂願の嗟咨諸︒﹁はに般一︑はと﹂願の悲大﹁の

願﹂と呼ばれている﹃大無量寿経﹄四十八願の第十七願

え量無の界世方十︑きとんを︵るなと仏れわ︑いとた﹁の

諸仏︑ことごとく咨嗟して︑わが名を称えずんば︑正覚をとらじ﹂︶に親鸞が与えた名前である︒廣瀬は言う︒﹁﹃大

悲の願﹄の廻向成就ということは︑﹃大悲の行﹄であり︑﹃大非の行﹄であるということです︒﹃大悲の行﹄というこ

とは︑﹃絶対非の行﹄︑﹃絶対否定道﹄であるということでしょう︒念仏︑﹃南無阿弥陀仏﹄とは︑一切衆生のいのちの

営みが︑どのようなものであろうとも︑その一切衆生のいのちの営みを︑﹃往生浄土﹄といういのちの営みに転換せ

しむる事実の根源にはたらく事実なのです﹂

わて見を味意の﹂定否対絶﹁ちな︒す﹂非大﹁に﹂悲大﹁は瀬廣い

る︒﹁往生浄土﹂ならぬいのちの営みに対する﹁絶対否定﹂である︒﹁人間の意識が欲していたもの︑望んでいたもの

は︑実は﹃大悲心﹄は決して与えない︒むしろ望んでいる意識を破壊していくような道を与えるのです﹂

︒﹁人間の 意識が欲していたもの﹂とは︑﹁行﹂に貫かれた﹁思﹂を本質とする行為︑﹁選択意志︵

Willkür

︶﹂の自由に基づく行

為の対象であろう︒したがって﹁往生浄土﹂ならぬいのちの営みとは︑根本的に︽鏡の構造︾をもち︑自我の思念に

よって世界を染め上げていくような生き方である︒それは我有化できない私の生を我有化しようとする無明の欲望か

― 15 ―

仏教における行と業︑それらと身体の関係

(17)

らくるものである︒この欲望は森岡正博が﹃無痛文明論﹄で﹁身体の欲望﹂と呼んだものの性格││﹁快を求め苦痛

を避ける﹂︑﹁現状維持と安定を図る﹂︑﹁すきあらば拡大増殖する﹂︑﹁他人を犠牲にする﹂︑﹁人生・生命・自然を管理

する﹂││を帯びている

Körper

きで明説はでけ︵ういとつもを︶だ体︒はこのような欲望人身間が生理学的なな い︒むしろ欲望の身体性の本質は︑﹁阿頼耶識﹂の﹁執受﹂によって﹁身体︵

Leib

︶﹂として成立する﹁行﹂が深く意

志的であることのうちに存するのである︒

ところで︑廣瀬杲は﹁大悲の願﹂を﹁現実の願﹂︑﹁事実の願﹂と呼んだことがある

︒それによって﹁本願の名号

は正定の業﹂

に瀬の意図を次のよう解はする︒﹁本願の名号廣私で明あるという意味を説し︒ようとしたのであるが

正定の業﹂であるとは︑称名が成仏を目指す行為であるということではなく︑自我の思念から発した行為が現実の抵

抗に突き当たることによって自我の殻が破られていく︑その意味での﹁絶対否定道﹂であるということである︒現実

の抵抗に突き当たることができるのは意志的自己である︒行為が﹁行﹂に貫かれているからこそ︑私は現実の只中に

大悲

大非のはたらきを感得することができるのである︒﹁行﹂が深く意志的であるゆえにのみ︑﹁大悲﹂は﹁いのち

の営みを転換せしむる事実の根源にはたらく事実﹂でありうるのである︒第一節で見たように︑﹁身体﹂は﹁行﹂の

﹁ノエシス的限定﹂によって成立する︒西田幾多郎は﹁叡智的世界に於てノエシスの方向に立つものは︑いつも反価

値的である︑自己自身の底に深く見るもの程︑悩める自己でなければならぬ︑悩める魂こそ叡智的世界に於る最も深

い実在である﹂

あ的自己に背く者でる本︒この自己に背く者来うと己語った︒﹁悩める自﹂いは﹁叡智的自己﹂とに

おいてこそ﹁大悲の願﹂は﹁廻向成就﹂する︒そのゆえは︑自己に背く者と如来の﹁願﹂が共に深く意志的であるか

らである︒西田が言うように︑﹁我々の自己は個人的意志の尖端に於て絶対者に対するのである﹂

︒かそしるあでら そ関の体身とられる︑業と行けおに教仏係

― 16 ―

(18)

て﹁かかる意志と意志との媒介は言葉によるの外はない﹂

介悲大﹁えゆれそ︒るす媒︒を志意と志意が﹂号名﹁の

願﹂は個人的意志を否定して絶対者とエクスタシー的に合一することを迫るのではなく︑個人的意志の在り方を転換

させようと説得的に働きかける意志である︒したがってまた︑﹁大悲の願﹂は︑意志の自己限定としての﹁身体﹂を

否定するのではなく︑﹁身体﹂の在り方を転換させようと説得的に働きかける意志である︒それは││再び森岡正博

の言葉を借りるならば││﹁生命﹂が﹁身体を超え出ようとする身体﹂であるかぎりにおいて︑﹁身体の欲望﹂を

﹁生命の欲望﹂

私るほど自我の殻︵﹁を︑もっとも深いところなはにき転換せしむるはたらで﹂ある︒﹁生命の欲望で

縛って︑がんじがらめにしている張本人﹂である﹁深層アイデンティティ﹂︶の解体を余儀なくするが︑比較や評価

と無縁な自己肯定の根拠である﹁私が私であるための中心軸﹂に沿って生きようとする欲望である

︒第一節の言い

方を再び用いるなら︑それは︽私の生︾が大地である生き方である︒﹁﹃大悲の願﹄の廻向成就﹂は﹁親鸞一人﹂

いう﹁真の個物﹂の成就である︒如来廻向とは﹁わが身に﹂賜るのではなく︑﹁わが身を﹂賜る廻向である︑という

ことでもある︒

注引用文中の︹︺内の語はすべて引用者による補足である︒

和辻哲郎﹁原始仏教の実践哲学﹂︑所収

: ﹃

和辻哲郎全集﹄第五巻︑岩波書店︑一九七七年︑一二七頁︒

安田理深﹃呼びかけと目覚め︱名号︱﹄︵﹃安田理深講義集﹄

蠢九頁七八一︑年八九︶一︑房書生彌︑︒ 蘯

同書︑一八九頁︒

和辻哲郎︑前掲書︑一二七頁︒

― 17 ―

仏教における行と業︑それらと身体の関係

(19)

同右︒

E.Husserl,LogischeUntersuchungen,zweiterBand,ersterTeil,Husserliana,Bd.XIX/1,hrsg.v.U.Panzer,MartinusNijhoff,1984,

S.393.

和辻哲郎︑前掲書︑一三九頁︒

同右︒

I.Kant,KritikderreinenVernunft,KantsgesammelteSchriften,hrsg.v.derPreusischenAkademiederWissenschaften,Bd.III,S.

132.

和辻哲郎︑前掲書︑一二七頁︒なお︑この箇所は和辻が﹃雑阿含﹄巻二︵四六︶から引用したものである︒ここで述べられ

ているのは﹁五蘊中の行をも行であるところのものに為作するところの︑高次の行﹂であり︑﹁五蘊を五蘊たるものに為作

するところの根本的な行を注釈しているのである﹂から﹁五蘊の一たる行とは区別して理解されなければならぬ﹂︑﹁しかし

この場合にも﹃為作相﹄が行であるという行の意義には変わりはない﹂︒私見によれば︑なるほどここで述べられている

﹁行﹂は後の﹁縁起説の立場で発達したもの﹂であるかもしれないが︑﹁行をも行であるところのものに為作する﹂とは︑意

識内容がいかなるものであれ︑それに根源的な統一を与える作用であるということであり︑根源的統覚の意義を強調したも

のである︒五蘊の一としての行はさしあたり単なる意志の作用に違いないが︑この後見るように︑それは﹁自覚的内容﹂を

もつ意志であり︑その限りですでに根本的に統覚のはたらきをもつのである︒

西田幾多郎﹁叡智的世界﹂︑所収

: ﹃

西田幾多郎全集﹄第五巻︑岩波書店︑一九六五年︑一二八頁︒

同右︒

同書︑一三一頁︒

同書︑一二九頁︒

同右︒

同書︑一三八頁︒

E.Husserl,DieKrisisdereuropäischenWissenschaftenunddietranszendentalePhänomenologie,Husserliana,Bd.VI,hrsg.v.W.

Biemel,MartinusNijhoff,1976,S.110. 仏教における行と業︑それらと身体の関係

― 18 ―

(20)

西田幾多郎︑前掲書︑一五九頁︒

同書︑一四〇頁︒

西田幾多郎﹁自覚的一般者に於てあるもの及それとその背後にあるものとの関係﹂︑所収

: ﹃

西田幾多郎全集﹄第五巻︑岩波

書店︑一九六五年︑二八二頁︒

小論における﹃唯識三十頌﹄のテキストへの言及は次の書に依拠している︒竹村牧男﹃唯識の探求︱﹃唯識三十頌﹄を読む

︱﹄︑春秋社︑一九九二年︒この書には梵文からの現代語訳が注釈付きで掲げられている︒また︑テキスト中に登場する基

本概念の理解に関しても︑同書における竹村氏の解説に多くを負っている︒

和辻哲郎︑前掲書︑一四六頁︒

E.Husserl,ZurPhänomenologiedesinnerenZeitbewusstseins,Husserliana,Bd.X,hrsg.v.R.Boehm,MartinusNijhoff,1966,S.

126.

Ibid.,S.111.

Ibid.,S.110.

山形

驫局︱﹄︑法政大学出版︑象一九九三年︑八八頁学現洋性﹃感情の自然︱内面との外在性についての情感︒ 瞑

Stiramati,Trimsikavijnaptibhasya,in:SylvainLevi,Vijnaptimatratasiddhi,DeuxTraitésdeVasbandhu,Vimsatika,Accompagnéed’

uneExplicationenProseetTrimsikaavecleCommentairedeSthiramati,Paris,1925,p.16.訳文は以下のものを参照した︒荒牧典

俊訳﹁唯識三十論﹂︑所収:長尾雅人・梶山雄一・荒牧典俊訳﹃大乗仏典

15

世親論集﹄︑中央公論新社︑二〇〇五年︑四一

︱四二頁︒

Husserliana,Bd.X,S.100.

拙論﹁罪業の束としての身体︱﹃社会的身体﹄の存在論のために︱﹂︑所収

: ﹃

社会科学﹄第七二号︑同志社大学人文科学研

究所編︑二〇〇四年︑を参照されたい︒

Husserliana,Bd.X,S.81.

Ibid.,S.58.

Ibid.,S.81.

― 19 ―

仏教における行と業︑それらと身体の関係

(21)

瞿 Dharmapala,Vijnaptimatrata-siddhi-s.本書は漢訳のみ伝わっている︒﹃大正新脩大蔵経﹄第三一巻︑一九二五年︑一〇頁上段︒

なお︑よく知られた定式に相当する部分を字句どおり引用すると次のとおりである︒﹁能薫の識等は種より生ずる時に︑即

ち能く因と為して復た種を薫成す︒三法展転して因果同時なり︒⁝⁝能薫は種を生じ︑種は現行を起こす﹂︒

Husserliana,Bd.X,S.128.

瞽識ついては︑竹村牧男﹃唯の﹂構造﹄︑春秋社︑一九八に分﹁考見分﹂はほぼノエシスとえ見てよい︒﹁阿頼耶識﹂の﹁五

年︑七三頁を参照︒

斎藤慶典﹃フッサール起源への哲学﹄︑講談社選書メチエ︑二〇〇二年︑一九七︱一九九頁︒

E.Husserl,GrundlegendeUntersuchungenzumphänomenologischenUrsprungderRäumlichkeitderNatur,in:PhilosophicalEssays

inMemoryofE.Husserl,ed.M.Faber,HarvardUniv.Press,1940,p.323.訳文は以下を参考にした︒新田義弘・村田純一訳﹁自

然の空間性の現象学的起源に関する基礎研究︱コペルニクス説の転覆︱﹂︑所収

弘立義田新・孝弘松・木雄静浦滝・元田 :

編﹃講座・現象学3︱現象学と現代思想﹄︑弘文堂︑一九八〇年︑二九〇頁︒

矍 Ibid.,p.325.邦訳二九二頁︒ 矗

拙著﹃奥行の生と世界︱フッサール主観性理論の研究︱﹄︑晃洋書房︑二〇〇二年︑を参照されたい︒

E.Husserl,ZurPhänomenologiederIntersubjektivität,TexteausdemNachlass,Husserliana,Bd.XV,hrsg.v.I.Kern,MartinusNij-

hoff,1973,S.304.

西田幾多郎﹁自由意志﹂︑所収

: ﹃

西田幾多郎全集﹄第六巻︑岩波書店︑一九六五年︑三一三頁︒

安田理深︑前掲書︑二九︱三一頁︒

小論におけるこの作品への言及にあたっては以下を参照した︒佐藤密雄﹃大乗成業論﹄︑仏典講座

41︑大蔵出版︑一九九〇

年︒この書には﹃成業論﹄の漢訳テキストと︑解説が収められている︒

安田理深﹃﹁唯識三十頌﹂聴記︵一︶﹄︵﹃安田理深選集﹄第二巻︶︑文栄堂︑一九九九年︑二二三頁︒

I.Kant,KritikderpraktischenVernunft,Kant’sgesammelteSchriften,hrsg.v.derKöniglichPreussischenAkademieder

Wissenschaften,Bd.V,1908,S.21.

砒一﹃段中頁一一︑巻︒三脩第正新大大蔵経﹄ そ関の体身とられけ︑業と行るおに教仏係

― 20 ―

(22)

礦 安田理深﹃﹁唯識三十頌﹂聴記︵一︶﹄︑二〇二頁︒

砠 同書︑二〇六頁︒

礪 同書︑二〇九頁︒

硅 同書︑二一一頁︒

E. Husserl, Ideen zu einer reinen Phänomenologie und phänomenologischen Philosophie, erstes Buch, Husserliana, Bd. III, hrsg. v.

K. Schuhmann, Martinus Nijhoff, 1976, S. 263.﹁作用の気もちが萌しかけていること﹂という訳語は︑渡辺二郎訳﹃イデーン 蠢

︱2﹄︑みすず書房︑一九八四年︑から学んだ︒

E. Levinas, “Intentionalité et Sansation”, in En découvrant l’existence avec Husserl et Heidegger, p. 155.

Husserliana, Bd. III, S. 263.

硼 安田理深﹃﹁唯識三十頌﹂聴記︵一︶﹄︑二〇一頁︒

Kant, Kritik der praktischen Vernunft, S. 15.

E. Husserl, Cartesianische Meditationen, Husserliana, Bd. I, hrsg. v. S. Strasser, Martinus Nijhoff, 1973, S. 99.

碣 Ibid.

碵 フッサールはC草稿の中で﹁生き生きした現在への還元﹂を﹁徹底化された還元﹂と呼んだ︒Vgl. K. Held, Lebendige Gegen-

wart, Phaenomenologica 23, Martinus Nijhoff, 1966, S. 66.フッサールは﹁それ自身すでに基づけられた能作である﹂﹁私に素朴

に課せられた私のすべての統覚を括弧に入れなければならない﹂と指摘した上で︑次のように述べている︒﹁しかし基づけ

られた志向的能作とは︑﹃意識流﹄として超越論的 内在的な時間を貫いている普遍的な意識生︑ないし意識 自我であ

る﹂︒それゆえ﹁私に素朴に課せられた統覚﹂とは﹁意識流﹂という対象性にのめり込むことによって自己を﹁意識

我﹂として統覚することである︒

碪 Asanga, Mahayanasamgraha. これについては以下を参照した︒長尾雅人﹃摂大乗論 和訳と注解﹄上︑講談社︑一九八二年︑

九〇頁︒

H. Schmitz, Die entfremdete Subjektivität : von Fichte zu Hegel, Bouvier, 1992, S. 28 f.

H. Schmitz, System der Philosophie, Bd. II, erster Teil, Bouvier, 1965, S. 5.

―21―

仏教における行と業︑それらと身体の関係

(23)

親鸞﹃教行信証﹄︑所収

系永大想思本日﹃編郎三家星・之充田石・豊元野 :

11

親鸞﹄︑岩波書店︑一九七一年︑二一頁︒

廣瀬杲﹃真宗救済の道理︱廻向論︱﹄︵﹃廣瀬杲講義集﹄第七巻︶︑文栄堂︑一九八五年︑一五五頁︒

中村元・早島鏡正・紀野一義訳註﹃浄土三部経﹄︵上︶︑岩波文庫︑一九九〇年︑一五七頁︒

廣瀬杲︑前掲書︑一五五頁︒

同書︑一四〇頁︒

森岡正博﹃無痛文明論﹄︑トランスヴュー︑二〇〇三年︑一〇︱一六頁︒

廣瀬杲﹃偏依と独存︱諸佛称名︱﹄︵﹃廣瀬杲講義集﹄第四巻︶︑文栄堂︑一九八二年︑一九四頁︒

磬﹁正信念仏偈﹂︑﹃日本思想大系

11

親鸞﹄︑六五頁︒

西田幾多郎﹁叡智的世界﹂︑﹃全集﹄第五巻︑一七五頁︒

西田幾多郎﹁場所的論理と宗教的世界観﹂︑所収

: ﹃

西田幾多郎全集﹄第十一巻︑岩波書店︑一九六五年︑四四二頁︒

同書︑四四三頁︒

森岡正博︑前掲書︑二一〇︱二一一頁︒﹁﹃生命の欲望﹄とは︑⁝⁝苦しみを前向きにくぐり抜けることを通して︑いまの自

分の枠組みを解体し︑所有物を捨て去る方向へと自己を変容してゆこうとする欲望である︒みずからを解体しながら︑まっ

たく未知の世界へと自分を開いてゆこうとする欲望である﹂︒

同書︑一六二︱一八七頁︒

金子大栄校注﹃歎異抄﹄︑岩波文庫︑一九三一年︑八七頁︒ 仏教における行と業︑それらと身体の関係

― 22 ―

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