イタリアにおけるペストの発生とセバスティアヌス 像制作との相関
著者 石坂 尚武
雑誌名 人文學
号 175
ページ 28‑49
発行年 2004‑03‑20
権利 同志社大学人文学会
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000007625
イ タ リ ア に お け る ペ ス ト の 発 生 と
セ バ ス テ ィ ア ヌ ス 像 制 作 と の 相 関
石 坂 尚 武
はじめに
疫病の到来と宗教絵画の制作との間には関連性は存在したのであろうか︒つまり疫病の到来によって刺激されて︑
多くの宗教絵画が制作されるようになったのであろうか││︒
これについては︑先に提示した三点の拙稿
盧と一点の史料紹介︵翻訳︶等
盪ー世中のパッロヨに西は私︑ていお・
近世のペスト流行とセバスティアヌス像︵宗教絵画︶の制作との間には一定の基本的な関連が認められると述べた︒
ペストが繰り返し流行するなかで︑人びとはセバスティアヌス像を制作し︑そのセバスティアヌスに祈願することに
よってペスト死を免れようとしたと述べた︒そのひとつの事例として︑トスカーナ地方の都市サン・ジミニャーノの
︽聖セバスティアヌスの殉教︾の制作をめぐる史料を紹介した
蘯本で識認な的般一︑的基︒ばわいはれそ︑しかしあ
って︑このことについてこれまで研究者によって具体的に数量的に実証されたことはなかった︒ここではこれまで拙
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稿で述べたことの内容的重複を避けながら︑二つの視点から相関関係について数量的に証明してみようと思う︒
第一の視点は︑ペスト前とペスト後とでは︑セバスティアヌス像の制作の数にどの程度の違いがあるかということ
を見てみたい︒これまで美術館や教会や美術書などにおいて私が確認し︑収集したセバスティアヌスの図像のなか
で︑制作時期の明確なイタリアのセバスティアヌスの作品の総数を示し︑そのなかで一三四八年のペスト以後の作品
がどの程度の割合を数量的に占めるかを示すことによって︑ペストの直接的︑本質的理由からセバスティアヌスが制
作されたことを確認したい︒第二の視点は︑イタリアにおけるペストの発生頻度︵回数︶とセバスティアヌス像制作
︵作品数︶との間に相関関係があるか否かに焦点を据えたものである︒これについては︑イタリアにおけるセバステ
ィアヌスの分布状況を調査した私の報告
盻時しに表覧一に的括包を域地と期のとお︑イタリアにけ生るペストの発た
ロレンツォ・デル・パンタの論文
眈討う思とうよし検とてせわ合ね重を︒
!
ペスト前とペスト後の制作数の差異
一三四八年のペスト前に制作されたイタリアのセバスティアヌス像は︑私の直接の訪問ないしは美術書などによる
間接的な確認によるものとして︑以下のとおりである︒
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イタリアにおけるペストの発生とセバスティアヌス像制作との相関
制作期都市所蔵場所基本形人数矢の数
図a五世紀ローマサン・カッリストのカタコンベ諸聖人40
図b六世紀ラヴェンナサンタポッリナーレ・ヌオーヴォ教会諸聖人
2 6
0
図c七世紀ローマサン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ教会単身図00
図d八世紀ヴェネツィアサン・マルコ聖堂単身図00
図e一一世紀ローマスカーラ・サンタ教会殉教図20
これら五点の図像の主な特徴は︑セバスティアヌスの身体に矢が射さっていないこと︵a〜e︶︑殉教図が少な
く︑一点しかないこと︵e︶︑そしてセバスティアヌスの容姿が老人であること︵a〜e︶︑セバスティアヌスは直立
不動の姿であること︵a〜e︶︑モザイクの作品が多いこと︵b・c・d︶などである︒この他に︑カラン・ルスニ
=
ドゥミニュー
Karim R essouni-Demigneux
によると︑ローマのパラティーノの丘のサン・セバスティアーノ教会に︑失われた作品の模写が四点あるという
眇テれは︽セバスィ︒アヌスの生涯そう︒一オリジナルは〇い世紀のものと︾
として連作をなし︑﹁セバスティアヌスの殉教﹂﹁イレーヌの介抱﹂﹁下水に投げ捨てられるセバスティアヌス﹂﹁カタ
コンベに運ばれるセバスティアヌス﹂である︒この他の︑黒死病前のイタリアのセバスティアヌス像は︑失われたも
のもあろうが︑概して作品の数は少ない︒ヨーロッパ全体に視野を広げても︑セバスティアヌス像の作品を見つける
のはなかなかむずかしいのが実情である︒例えば︑私はパリのサント・シャペル礼拝堂に一点の作品﹁セバスティア
ヌスの殉教﹂を認めたが︑これも近代の修復作品であり︑どこまで原作︵一二世紀︶に忠実かはわからないものであ イタリアにおけるペストの発生とセバスティアヌス像制作との相関
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る︒
一方︑ペスト以後のセバスティアヌス像の作品の量は圧倒的である︒私が入手した︑ペスト後に制作されたと確認
できるセバスティアヌス像︵彫像を含む︶の図版は︑イタリアで制作されたものに限っても︑四〇五点あり︑それは
私が入手した全図版︑すなわち大ペスト前の作品である先の五点︵a〜e︶とサン・セバスティアーノ教会の四点を
加えた四一四点の図版のなかで九八%を占める︒全ヨーロッパのレベルで見た場合︑この数値はさらに高く︑一〇〇
%に極めて近い数値なるだろう︒
一三四八年以後も︑何度も周期的に繰り返し到来するペストを前に︑人びとは必死の思いで疫病のとりなしの守護
聖人セバスティアヌスにすがろうとして︑セバスティアヌス像の制作を注文したのである︒生ある者にとって最大の
関心は命を守ることである︒セバスティアヌスへの祈りは︑他の多くの聖人への祈りと比べて︑程度においても質に
おいても異なったものであったと思われる︒それは︑非常に切実でかつ緊急なものである上に︑願いが具体的であ
り︑かつ集団性を帯びたものであった︒すなわち襲い来る死の嵐のなかで︑﹁疫病からの命乞い﹂という意図やねら
いは︑極めて鮮明なものであった︒疫病によって︑健康な者でさえ︑今すぐに命を奪われてしまう︒しかも︑それは
個人的な災難ではなく︑都市や地域全体に襲いかかかる集団性を帯びた性質の災難である︒それは近隣地域から次第
にやって来て︑都市にやって来るや一気に大量の命を奪う性質のものである︒しかもその疫病による﹁死にざま﹂
は︑奇怪なものであり︑踊り狂うほどの激痛の末に︑醜い黒い肌の色を残すものであった︒このことは人びとに﹁神
罰﹂であることを痛感させるに十分すさまじいものであった︒セバスティアヌスへの具体的にして切実な祈りは︑日
常の平穏な宗教生活のなかで︑漠然と︑いつか私が天国に行けますようにとか︑過去の犯した私の罪を赦してくださ
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イタリアにおけるペストの発生とセバスティアヌス像制作との相関
図 a
図 d 図 b
図 c
図 e
イタリアにおけるペストの発生とセバスティアヌス像制作との相関
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いなどと︑一般的に祈るものとは非常に異なるものであった︒こうしてペストは︑繰り返し襲うことによって︑人び
とをセバスティアヌス像の制作という直接的︑具体的な行為へと駆り立てずにはいない強烈なインパクトを与えたの
である︒当時の人びとにとって︑セバスティアヌス像は︑なくてもすむといった類いのものではなかったのではある
まいか︒このことは︑次に示すように︑ペストの発生回数とセバスティアヌス像の制作数との比例関係となって率直
に現れてくるのである︒
!
ス域地と年の生発トペ﹁るけおにアリタイ﹂私が作成した表1は︑イタリアのペスト研究者のデル・パンタの表2
眄何に域地のどに年がにトスペ︑ていづ基発
生したかを視覚的にわかりやすいものにするために作りかえたものである︒デル・パンタの論文に収められたその資
料は︑ペストが何年に︑イタリアのどの地域にやって来たかを具体的に示す貴重な資料である︒それは︑発生当時の
史料が不足していることから不確かな時期や地域があるものの︑扱う時期が一三四八年から一六五七年までと比較的
長期であること︑また扱う地域がイタリア全体であることから︑ペストの到来の全貌を概観することを可能にしてく
れるものである︒
これによってまずわかることは︑ペストの反復性︵周期性︶であろう︒デル・パンタの分類に基づく表によると︑
一三四八年から一六五七年までに二六回のペストが到来したことになる︒表3では便宜的に︑一三四八年のペストを
﹁第1回目﹂として︑次々と到来したペストにそれぞれ番号をつけた︒この表によって︑ひとつのペストが去った後
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イタリアにおけるペストの発生とセバスティアヌス像制作との相関
北部 北部
島
北部 中部 北部 中部
北部 中部 南部 島 北部 中部 南部 島 北部 26回 中部 22回 南部 13回 島 8回 1582
1583 1584 1585 1586 1587 1588 1589 1590 1591 1592 1593 1594 1595 1596 1597 1598 1599 1600 1601 1602 1603 1604 1605 1606 1607 1608 1609 1610 1611 1612 1613 1614 1615 1616 1617 1618 1619 1620 1621 1622 1623 1624 1625 1626 1627 1628 1629 1630 1631 1632 1633 1634 1635 1636 1637 1638 1639 1640 1641 1642 1643 1644 1645 1646 1647 1648 1649 1650 1651 1652 1653 1654 1655 1656 1657 回数 北部 中部
北部 中部 北部 中部 北部 中部 北部 中部
北部 北部 北部 北部 北部 北部
北部 中部 南部 島 北部 中部 南部 島 北部 中部 南部 島 北部 中部 南部 島 北部 中部 南部 島 北部 中部 南部 島 北部 中部 南部 島 北部 中部 南部 島 北部 中部 南部 島
北部 北部
北部
北部 島
北部 島
北部 島
北部 島
北部 島
北部 島
1502 1503 1504 1505 1506 1507 1508 1509 1510 1511 1512 1513 1514 1515 1516 1517 1518 1519 1520 1521 1522 1523 1524 1525 1526 1527 1528 1529 1530 1531 1532 1533 1534 1535 1536 1537 1538 1539 1540 1541 1542 1543 1544 1545 1546 1547 1548 1539 1550 1551 1552 1553 1554 1555 1556 1557 1558 1559 1560 1561 1562 1563 1564 1565 1566 1567 1568 1569 1570 1571 1572 1573 1574 1575 1576 1577 1578 1579 1580 1581 北部 中部 南部 北部 中部 南部 北部 中部 南部 北部 中部 南部
北部 中部 南部 北部 中部 南部 北部 中部 南部 北部 中部 南部
北部 中部 南部 北部 中部 南部 北部 中部 南部 北部 中部 南部 北部 中部 南部
北部 中部 北部 中部 北部 中部 北部 中部
北部 中部 北部 中部
北部 中部 南部 北部 中部 南部 北部 中部 南部 北部 中部 南部 北部 中部 南部 北部 中部 南部
北部 中部 南部 島 北部 中部 南部 島 北部 中部 南部 島 北部 中部 南部 島
北部 中部 北部 中部 北部 中部
北部 中部 南部 島
北部 中部 北部 中部 北部 中部 1422 1423 1424 1425 1426 1427 1428 1429 1430 1431 1432 1433 1434 1435 1436 1437 1438 1439 1440 1441 1442 1443 1444 1445 1446 1447 1448 1449 1450 1451 1452 1453 1454 1455 1456 1457 1458 1459 1460 1461 1462 1463 1464 1465 1466 1467 1468 1469 1470 1471 1472 1473 1474 1475 1476 1477 1478 1479 1480 1481 1482 1483 1484 1485 1486 1487 1488 1489 1490 1491 1492 1493 1494 1495 1496 1497 1498 1499 1500 1501
表
1
イタリアにおけるペ スト発生の年と地域発生地域
北部 中部 南部 島 北部 中部 南部 島 北部 中部 南部 島 北部 中部 南部 島
北部 中部 南部 島 北部 中部 南部 島 北部 中部 南部 島 北部 中部 南部 島
北部 中部 南部 北部 中部 南部 北部 中部 南部 北部 中部 南部
北部 中部 南部 北部 中部 南部 北部 中部 南部 北部 中部 南部
北部 中部 北部 中部 北部 中部
北部 中部 南部 北部 中部 南部 北部 中部 南部
北部 中部 北部 中部 北部 中部 北部 中部
北部 中部 北部 中部 北部 中部 北部 中部 北部 中部
発生年
1347 1348 1349 1350 1351 1352 1353 1354 1355 1356 1357 1358 1359 1360 1361 1362 1363 1364 1365 1366 1367 1368 1369 1370 1371 1372 1373 1374 1375 1376 1377 1378 1379 1380 1381 1382 1383 1384 1385 1386 1387 1388 1389 1390 1391 1392 1393 1394 1395 1396 1397 1398 1399 1400 1401 1402 1403 1404 1405 1406 1407 1408 1409 1410 1411 1412 1413 1414 1415 1416 1417 1418 1419 1420 1421
イタリアにおけるペストの発生とセバスティアヌス像制作との相関
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表
2
イタリアにおけるペストの発生の年と地域感染主要都市
ヴェネツィア、ジェノヴァ、ボローニャ、フィレンツ ェ、ローマ、ナポリ
ミラノ、トリノ、ヴェネツィア、ジェノヴァ、ボロー ニャ、フィレンツェ、ローマ、ナポリ
ミラノ、ヴェネツィア、ジェノヴァ、ボローニャ、フ ィレンツェ、ローマ、ナポリ
ミラノ、トリノ、ヴェネツィア、ジェノヴァ、ボロー ニャ、フィレンツェ、ローマ、ナポリ
ミラノ、トリノ、ヴェネツィア、ジェノヴァ、ボロー ニャ、フィレンツェ(?) 、ローマ
ミラノ、ヴェネツィア、ジェノヴァ、ボローニャ、フ ィレンツェ、ローマ、ナポリ
トリノ、ヴェネツィア、ジェノヴァ、ボローニャ、フ ィレンツェ
トリノ、フィレンツェ
ヴェネツィア、ジェノヴァ、ボローニャ、フィレンツ ェ、ナポリ
ヴェネツィア、ジェノヴァ、フィレンツェ ヴェネツィア、ジェノヴァ、ローマ
ミラノ、トリノ、ヴェネツィア、フィレンツェ、ローマ ヴェネツィア、ボローニャ、フィレンツェ
ヴェネツィア、ボローニャ、フィレンツェ、ローマ、
ナポリ
ミラノ、トリノ、ヴェネツィア、ボローニャ、フィレ ンツェ、ローマ、ナポリ
ミラノ、ヴェネツィア、ローマ ジェノヴァ、ローマ、ナポリ、パレルモ
ミラノ、ヴェネツィア、ジェノヴァ、ボローニャ、ロ ーマ
ミラノ、ヴェネツィア
ミラノ、ヴェネツィア、ジェノヴァ、ボローニャ、フ ィレンツェ、ローマ、ナポリ
トリノ
ミラノ、ヴェネツィア、ジェノヴァ、パレルモ トリノ
パレルモ
ミラノ、トリノ、ヴェネツィア、ボローニャ、フィレ ンツェ
ジェノヴァ、ローマ、ナポリ、バーリ、カリアリ
*1=北部 2=中部 3=南部 4=島
**
ペストとチフス L. Del Panta, 80.
感染地域
*1, 2, 3, 4 1, 2, 3, 4 1, 2, 3 1, 2, 3 1, 2 1, 2, 3 1, 2 1, 2 1, 2, 3, 4 1, 2, 3 1, 2 1, 2 1, 2 1, 2, 3 1, 2, 3, 4 1, 2 1, 2, 3, 4 1, 2 1 1, 2, 3, 4 1 1 1, 4 1 4 1, 2 1, 2, 3, 4 1347−1350
1360−1363 1371−1374 1381−1384 1388−1390 1398−1400 1410−1413 1416−1420 1422−1425 1428−1431 1435−1439 1448−1451 1456−1457 1463−1468 1476−1479 1485−1487 1493 1499−1506 b 1509−1514**
1522−1530**
1555−1556 1564 1575−1580 1598−1599 1624 1630−1631 1656−1657
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イタリアにおけるペストの発生とセバスティアヌス像制作との相関
の︑ペストが流行していない年︵﹁ペスト休息年﹂と呼ぶことにする︶を北部の立場でそのまま機械的に数えてみ
た
眩のるあで年四・八は均平年︒息休トスペの中間期のこ︒
表3で注目されることは︑一四〜一六世紀半ばまでの場合︑数年の期間の休息︑平均して四・九年の休息の後に︑
ペストは次々と容赦なくやって来たということである︒このことが人間の心理に及ぼす影響の深刻さは想像を絶する
ものであっただろう︒この休息期間こそは︑人びとが︑次のペストを生き抜くために何らかの手立てをする期間であ
った︒そう思われる証拠として︑従来のミサの励行に加えて︑﹁贖罪﹂││ペストは﹁神罰﹂と理解されたので︑﹁贖
罪﹂が必要と考えられた││としての﹁巡礼﹂や様々な種類の﹁善行﹂︵個人的︑集団的︶が新たな勢いをもってお
こなわれるようになったのである︵少なくともそのふしがある︶
眤︑よにネームコで方一て︒し行平とれそてしそる
妨疫・保健活動が行われたが︑他方︑直接セバスティアヌスに向かって疫病除けの祈
顰で︒がっあたのたれさな 表3ペスト休息年
第一回目後
⇒
九年間休息第二回目後
⇒
七年間休息第三回目後
⇒
六年間休息
第四回目後
⇒
三年間休息第五回目後
⇒
七年間休息第六回目後
⇒
九年間休息
第七回目後
⇒
二年間休息第八回目後
⇒
一年間休息第九回目後
⇒
二年間休息
第一〇回目後
⇒
三年間休息第一一回目後
⇒
八年間休息第一二回目後
⇒
四年間休息
第一三回目後
⇒
五年間休息第一四回目後
⇒
七年間休息第一五回目後
⇒
五年間休息
第一六回目後
⇒
五年間休息第一七回目後
⇒
五年間休息第一八回目後
⇒
二年間休息
第一九回目
⇒
七年間休息第二〇回目後
二四年間休息第二一回目後
⇒
⇒
七年間休息
第二二回目後
一〇年間休息第二三回目後
⇒
一七年間休息第二四回目後
⇒
三〇年間休息
⇒
第二五回目後
四年間休息二
⇒
ヌスティア作ス像制セとの相バのと生発トスペるけおにアリタイ関― 3 6 ―
次に︑セバスティアヌス崇敬とセバスティアヌス像の注文に大きな刺激・作用を及ぼしたはずの︑ペストの流行の
パターンや形態││進行方向︑速度︑感染地域││について見てみよう
眞︒
最初ペストは︑ジェノヴァのガレー船によって黒海沿岸の都市カッファから運ばれ︑一三四七年九月末︑まず始め
にメッシーナ︵シチリア島︶を襲った︒それからカターニャ︵シチリア島︶に進むとともに︑リグリア海を北上して
いった︒この第一回目のペストは︑それ以後の周期的に発生したペストと異なって︑その進行方向は正反対であっ
た︒第二回目以降︑ペストは︑ふつうアルプス以北の地域で発生し︑南下してイタリアに達し︑まず最初にフリウー
リ地方に感染する︒あるいは︑場合によっては海を渡ってやって来た船舶によってヴェネツィアやジェノヴァの港に
運ばれる︒そしていずれの場合もふつうイタリア半島を北から南へと進んで行く︒だから︑フィレンツェなどの中部
イタリアの人びとは︑北部でペストが発生したという知らせを聞くと︑ペストが近々自分たちの住む中部にやって来
るのを予感し︑覚悟と警戒の念を強めたのであった︒フィレンツェの商人ジョヴァンニ・モレッリが一五世紀初頭
に︑息子のために書いた﹃回想録﹄のなかにはこう記されている︒彼にとってトスカーナの北に位置するロンバルデ
ィーア地方やロマーニャ地方の疫病の動向は極めて重大な関心事であった︒
﹁私としてはお前に以下の助言を与えたい︒お前も︑他のどの話よりも真っ先に聞いているだろうが︑来年か再
来年には疫病がフィレンツェにやって来るのだ︒なぜなら疫病は我々の都市よりも先にまずロマーニャとロンバ
ルディーアを襲う︒そしてたいていの場合︑翌年にフィレンツェにやって来るからだ︒あるいは遅くともその年
の冬には都市のコンタードか都市郊外に疫病の徴候がはじめて感じられるだろう︒
眥﹂
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イタリアにおけるペストの発生とセバスティアヌス像制作との相関
しかし︑ごくまれに南から北へと逆行するペストもあった︒一四二二年にシチリアと南イタリアに発生したペスト
は︑それ以後次第に北上していき︑全イタリアに広がったものであった︒また珍しいペストとして︑一六二四年のペ
ストのようにシチリア島で発生したものの︑それ以後北上せずに︑半島には波及しなかったペストもあった︒
ペストの進行の速度はどうあったか︒ペストの進行の速さは様々であった︒最も速い例が一三九九年のペストであ
る︒一三九九年にフリウーリ地方で最初に記録さてから︑わずか数カ月でナポリにまで達したという︒一方進行が遅
い例は一三六〇年〜六三年のペストであった︒年代記作家A・コッラディによると︑半島の南端に達するのに約四年
間かかったという
眦なと比べものにならいが位に甚大であった他害︒大また一三四八年のペ被ストについてはそのこ
とから︑進行速度がかなりはっきりと把握できている︒およそ以下のとおりである
眛︒
一三四七年九月末メッシーナ
一〇月カターニャ︑シチリア島
一二月レッジョ・カラブリア︑サルデーニャ島︑コルシカ島︑エルバ島
一二月末ジェノヴァ
一三四八年一月ピサ
一月末ヴェネツィア
二月ルッカ
三月フィレンツェ︑トスカーナ地方︑ボローニャ︑モデナ イタリアにおけるペストの発生とセバスティアヌス像制作との相関
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四月ペルージャ︑パドヴァ︑ヴェンティミリャ
五月オルヴィエート︑シエナ︑アンコーナ︑リミニ︑ナポリとナポリ王国
五月末ヴェローナ
六月ファエンツァ︑チェゼーナ︑レッジョ・エミーリア︑トレント
七月ピアチェンツァ︑フェッラーラ
八月フリウーリ︑ローマ︵?︶
九〜一〇月ヴァレーセ
このように見ると︑デル・パンタの﹁イタリアにおけるペスト発生の年と地域﹂の表を読む上で注意すべきこと
は︑ペストは︑ひとつの時期に記載された地域︵北部や南部など︶すべてにおいて同時に発生したわけではないとい
うことである︒例えば︑﹁一三七一年〜一三七四年﹂のペストは︑表では﹁北部中部南部﹂とあるが︑これらの
地域において同時発生したわけではない︒このペストは足掛け四年間に及びながらも︑有機的なかたまりとしてひと
つのペストと見なされるためにこのように記載されているのであって︑実際にはこのペストは北部から少しずつ南下
して汚染地域を移動していったのである︒ペストが猛威を振るう期間それ自体は長くなく︑ふつう数カ月であった︒
だから︑北部を中心に襲っていた時には︑まだ南部は汚染されていなかったのである︒
次にこの表によってわかることは︑北部から発生したペストは︑その勢いの度合いの違いによって北部での流行だ
けで終わったり︑南部や島嶼にまで達したりしたのである︒浜辺に打ち寄せる波のように︑大きさにむらが認められ
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イタリアにおけるペストの発生とセバスティアヌス像制作との相関
る︒もしそのペストが非常に強い勢いのペストであれば︑南部や島嶼に達し︑勢いがある程度強いペストであれば︑
中部にまで広がる︒そして勢いがあまりない場合││これは一五五五年以降︑特に目立つようになる││そのペスト
は北部だけで終息してしまうのである︒
!
地域での発生頻度とセバスティアヌス信仰の相関
このように北部と南部との間に疫病の流行の頻度に地域差があることを見ると︑このことが宗教絵画のあり方にも
影響してくることは十分考えられるのではないだろうか︒すなわち︑もしセバスティアヌス信仰の強さがペストの到
来の頻度と関係しているとすれば︑ペストの到来の率が低く︑感染死亡者の少なかった南イタリアでは︑﹁セバステ
ィアヌス像の教会所蔵率﹂︵分布状況︶は北イタリアでのそれと比べて低いものとなるように思われる︒これについ
て︑イタリアの教会三五三箇所を訪ねてセバスティアヌス像の所蔵状況を調べて作成し︑﹃文化史学﹄に掲載した私
の﹁調査報告﹂︵二〇〇三年︶
眷のれており︑我々こてこでの仮説の正現っにとよると︑このこがなそのまま数値とし さが証明されているといえるかもしれない︒以下の表では﹁北部﹂からはヴェーネト州︑エミリア
=
ロマーニャ州︑ロンバルディーア州の三州︵以上︑アペニン山脈以北︶をピック・アップし︑﹁南部﹂からはカンパーニア州︑バジ
リカータ州︑プーリア州の三州をピック・アップし︑﹁セバスティアヌス像の教会所蔵率﹂を示した︒これらの州を
ピック・アップしたのは︑他の州と比べて私が訪問した教会の絶対数が多かったからである︒なお︑今後︑南部の教
会の調査を増やしていくつもりである︒ イタリアにおけるペストの発生とセバスティアヌス像制作との相関
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セバスティアヌス像の所蔵状況︵彫像も含む︶
点検した教会の数所蔵している教会の数作品所蔵総数州の所蔵割合
ヴェーネト州
3 4
1 3
1 7
3 8
% エミリア=
ロマーニャ州2 5
1 1
1 4
4 4
%ロンバルディーア州
6 7
2 4
3 1
3 6
%北部三州
126
48
62
3 8
%カンパーニア州
1 7
34
1 8
%その他二州711
1 4
%南部三州
24
45
1 6
%北部の三つの州のなかで私が訪問して点検した教会の総数は一二六箇所であった︒そのうち四八箇所の教会にセバ
スティアヌス像が認められた︒よって北部三州の﹁セバスティアヌス像の教会所蔵率﹂の平均は︑三八%となる︒こ
れに対して南部三州の場合はどうだろうか︒州の所蔵割合は一六%である︒そうすると︑北部の三八%の所蔵率に対
して︑南部の所蔵率は一六%であり︑北部は南部よりも所蔵率が二・四倍であり︑歴然とした差が認められるのであ
る︒
北部と南部の﹁セバスティアヌス像の教会所蔵率﹂を︑一三四八年から一六五七年までを扱うデル・パンタの表の
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イタリアにおけるペストの発生とセバスティアヌス像制作との相関
なかの発生頻度と比べてみよう︒﹁北部﹂の発生回数は二六回︑﹁南部﹂の発生回数は一三回である︒北部は南部より
も頻度が二倍高いことになり︑北部と南部のセバスティアヌス像の所蔵率とかなり一致することがわかる︒ペストの
﹁発生頻度﹂と﹁セバスティアヌス像の教会所蔵率﹂とに相関関係が認められるのである︒
では︑中部はどうであっただろうか︒ここではトスカーナ州とラツィオ州の二つの州をピック・アップする︒この
二つの州は中部において私が数多く調査できた州である︒
点検した教会の数所蔵している教会の数作品所蔵総数州の所蔵割合
トスカーナ州七七一九二一二五%
ラツィオ州四一一〇一五二四%
中部二州一一八二九三六二五%
﹁中部﹂二州の﹁セバスティアヌス像の教会所蔵率﹂は二五%である︒これは﹁北部﹂と﹁南部﹂の中間に位置す
る︒また中部におけるペストの﹁発生回数﹂は二二回であり︑これもまた﹁北部﹂と﹁南部﹂の中間に位置する︒
所蔵率発生回数
北部三八%二六
中部二五%二二 イタリアにおけるペストの発生とセバスティアヌス像制作との相関
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南部一九%一三
以上︑地域におけるペストの発生回数と地域の教会におけるセバスティアヌス像の所蔵率との間に﹁一定の相関関
係﹂が認められた︒これは一定の成果といっていいのではないだろうか︒次にやや詳しく示すように︑なお一定の留
保面*を伴うものの︑ペストと宗教絵画︵セバスティアヌス像︶との密接な関係について︑ある程度まで数量的に実
証したといえるのではあるまいか︒セバスティアヌス像の所蔵状況からペストを見ていく先行研究が皆無のなか︑こ
の研究は一定の価値を有すると自負する︒
なお西ヨーロッパにおいてペストが消滅した一八世紀中葉以降は︑確認した限り︑教会において新たに制作された
セバスティアヌス像を見出すのはむずかしく︑私の調査した三五三の教会のうちわずか一点のみ確認されたにすぎな
い︒
*ペスト発生とセバスティアヌス像制作の相関関係に対する一定の留保面について
ペストの発生と︽聖セバスティアヌス像︾との相関関係については︑厳密にいうと︑様々な条件が伴い︑そう簡単に割り切れな
い側面があることもまた留保しなくてはいけない︒やや細かい内容になるが︑以下︑これについて補足したい︒
まず同じ﹁一回﹂のペストであっても︑個々のペストの被害は地域によって異なる場合があるかもしれない︒同じペストであっ
ても︑ある地域で与えた心理的脅威や被害が︑別の地域に広がった時に︑そこで同じ程度のものとなるとは限らない︒またある時
期︑ある地域において美術家によって描かれた︵彫られた︶一点のセバスティアヌス像が︑必ずしも︑他の地域における作品と比
べて内容的に同じ扱いをしていいとは限らない︒例えば︑壮絶なほどに矢が満身に刺さったセバスティアヌスの作品と︑一方︑優
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イタリアにおけるペストの発生とセバスティアヌス像制作との相関
雅な服を着て一本の矢を手に持っているセバスティアヌスの作品とは︑同じ一枚の絵であっても︑同じ扱いではすまされないだろ
う︒また州や県によって教会のタイプに偏りがでないようにする配慮・調整︵例えば︑調査するどの地域においても修道院の存在
の割合を均一にする︶も必要であろう︒そして何より︑私の研究において︑教会の訪問数が現在︑統計学的に許容される数にまで
まだ達していないことも問題である︒
また人間の意識と反応は︑我々の知らないところで思わぬ動きを示すことがある︒このため地域や時代によってはセバスティア
ヌス像の制作の傾向・動向が︑現代の我々からは想像もつかない動因によって動かされたことがないとはいえない︒同じ北部のな
かであっても他の州︵地方︶と非常に異なった傾向を示す州︵地方︶があるかもしれない︒したがって︑例えば︑同じ州に属する
両極端の傾向を示す二つの州を含めた形で︑その数値を平均化してノーマルな数値を得ても︑それは真実を隠蔽するだけで︑意味
のあることではない︒ここで示したデータの量はまだ十分なものではなく︑また全体から一方的に状況を見下ろしたに過ぎな
い︒この意味で︑ここで示した疫病と宗教絵画との相関関係はあくまで条件付の﹁一定の相関関係﹂というべきである︒それは状
!
況 !
証 !
拠 !
の域を越えていない︒したがって今後の課題は︑一方でデータを増やすとともに︑他方︑個別的な視点をもって︑個々の作
品と個々の都市の被害状況を点検すべきである︒すなわち様々な地域・時期の状況を見ながら︑色々な美術家︑注文主からうみだ
されたセバスティアヌス像の個々の作品について︑先の拙稿で示した五〇点の点検項目
眸的し較比・析分に体に具︑てっがたし︑
しかる後に︑整理し全体的判断に向かうことが重要であろう︒これが達成された場合︑説得力のある︑興味深い傾向が浮き彫りに
されてくるかもしれない︒
そもそも︑セバスティアヌスの制作とペストの到来とを関連させて結びつけることは︑基本的にはまちがっていないと考える
が︑両者を機械的に直結させることは問題である︒右に述べたことのほかに作品に関わるいくつかの注意点が伴うことも考えてお
かなくてはならない︒
まず︑いうまでもなく︑ペストが発生したところに必ずしも︽聖セバスティアヌス像︾があるとは限らない︒これには少なくと
も二つの理由が考えられる︒まず第一に︑制作して教会に設置したにもかかわらず︑その作品を紛失︵盗難・火災︶する場合があ イタリアにおけるペストの発生とセバスティアヌス像制作との相関
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るからである︒あるいは何かの理由で︑破棄したり︑移転︵その後紛失︶させたかもしれない︒あるいはそのフレスコ画の作品の
保存状態が悪く︑
餝てによって教会が倒壊し失戦われたこともあり得る争や離合して消えてしまった場が震ありうる︒あるいは地︒
しかし︑こうした教会での作品の消失の条件はイタリアのどの地域でもふつうあまり変わらないはずであるから︑常に念頭にし
ながらも過度に神経質になる必要はないだろう︒長期に展望し︑かつ広域に地域を視野に入れた時に︑作品を消失した少数の教会
の存在は全体のなかで薄められてしまうだろう︒したがって︑もし州レベルや﹁北部﹂﹁南部﹂レベルなどの広い次元においてセ
バスティアヌス像の所蔵率に地域差が出た場合︑基本的には︑やはりペスト発生の頻度︵あるいは与える脅威の強さ︶に差が存在
したかもしれないと考えていいだろう︒
ペストが発生したにもかかわらず︑あるいは人びとがその発生の脅威を抱いたにもかかわらず︑︽聖セバスティアヌス像︾が描
かれない第二の理由は︑その地域や時代の特定の宗教的心性が作用したことが考えられるかもしれない︒実は︑セバスティアヌス
だけが疫病や病気の守護聖人ではないということから︑他の聖人を描くことによって疫病からの庇護を祈願するという場合もあり
うるのである︒
例えば︑ロクス︵伊ロッコ︶がいる︒ロクスは︑疫病患者の看護に尽力した実在の人ともいわれる聖人である︵ロクスについては︑ヴェネ
ツィアにその名前を冠した有名な信心会がある︶︒また双子の兄弟と伝えられるコスマスとダミアヌスがいる︒二人はセバスティアヌスと同じ
く︑初期キリスト教の殉教者で︑無料で医療活動をしたと伝えられる医師であった︒また反宗教改革期の実在した聖人カルロ・ボロメオがい
る︒ペスト患者の治療活動をおこなった徳の高い人としてロンバルディーアやピエモンテで人気があった︒また旧約聖書のヨブは堅忍不抜の精
神で苦難や病を克服した人として人びとから崇敬された︒またキリストを肩に担いで川を渡ったとされるクリストフォルス︵クリストーフォロ︶
は旅人の安全を守るほかに︑ペストなどの急死を防ぐ守護聖人としても崇敬された︒さらにゲオルギウスは異教徒と戦う聖人であるが︑セバス
ティアヌスとともに描かれるとき︑疫病除けの聖人として崇敬された︒このほか修道院制の創始者といわれる修道院長アントニウスや一三世紀
後半のアウグスティノ会隠修士であるトレンティーノのニコラウスがいる︒このほかに︑その地域の伝説やその他の考えから導かれる守護聖人
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イタリアにおけるペストの発生とセバスティアヌス像制作との相関
︵都市の守護聖人など︶が疫病除け聖人として機能する場合がある︒例えば︑ペスト期の絵画のなかにはある聖人が都市を疫病から救う場面が描 かれているものがある︒シモーネ・ディ・ウォブレク︵
Simone di W obrek
︶作︽聖女ロザリアがパレルモの町を疫病から救う︾︵一五七六年︶︑ジョヴァン・バッティスタ・ティエーポロ︵一六九六︱一七七〇︶作︽聖女テクラがエステの町を疫病から救う︾︵テクラは医療にも携わったとい
われる︶などである︒
こうしたセバスティアヌス以外の別の疫病除け聖人は︑セバスティアヌスと同じ機能を果たしているのであるから︑それらをセバスティアヌ
ス像に読み替える必要があるように思われる︒私は︑教会を訪問して点検した時に︑こうしたセバスティアヌス以外の疫病の守護聖人が描かれ
ている時は︑注意して記録に残している︒次の調査報告にはこのことを考慮したいと思う︒しかし︑一般的に見て︑こうしたセバスティアヌス
以外の守護聖人が︑セバスティアヌスを完全に排除して描かれるという地域は私のこれまでの調査ではあまりなかったのである︒むしろ作品の
なかにセバスティアヌスと組み合わせ描かれる場合が多く︵特にロクスがそうである︶︑そうすることによってより鮮明に﹁疫病除け﹂を打ち出
して祈願の念を強化することの方が多かったように思える︒私の見たところ︑疫病の守護聖人は互いに﹁競合関係﹂ではなく︑﹁協調関係﹂にあ
ったように思われる︒疫病の守護聖人を並べて﹁かけもち﹂︵二股をかける︶することにあまり人びとは抵抗を感じず︑むしろそれによって念に
は念を入れて疫病除けの祈願をしたような印象を受けている︒この問題についてもいずれ何らかの分析を試みたいと思う︒
このように見ると︑ある年に︑ある地域において︑セバスティアヌス像が﹁なかった﹂という﹁細部の﹂事実から︑当時の﹁状
況﹂︵ペストが来なかったというような︶について一定の考察を導こうとすることは︑問題があるように思う︒これに対して︑数
十年間のスパンや州レベルの大きな次元で﹁︵あまり︶なかった﹂という﹁大きな﹂事実から状況︵宗教的心性︶の考察を導こう
とするのは間違っていないと思う︒
では︑セバスティアヌス像が﹁あった﹂場合︑﹁ペストが来た﹂と判断していいのだろうか︒つまり︑具体的にいうと︑ある教
会の礼拝堂において︽聖セバスティアヌス像︾の作品が︑そこに最初に設置された年代の記載とともに明確に確認できた場合︑そ
の地域にペストが到来したと認識していいのだろうか︒これについては︑絵の様式・図像の内容も考慮すべきであるが︑基本的︑
原則的には︑そう認識していいと思う︒しかし︑場合によっては例外がありうることも若干考慮しておくべきである︒これには少 イタリアにおけるペストの発生とセバスティアヌス像制作との相関
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なくとも四つのケースが考えられる︒
まず第一のケースとして︑その都市がペストに襲われたものの︑幸いに疫病から免れた人たちがいて︑ペストが去った後に︑彼
らがペストを免れたことでセバスティアヌスに感謝して︽聖セバスティアヌス像︾の制作の注文をすることもありうる︒この場
合︑ペストの到来した年と制作年とは一致しないことになる︒また︑第二のケースとして︑どこかで疫病が発生し︑それが身近に
迫って来る︵主にペストは北から少しずつ南下して来る︶状態のなかで︑人びとがセバスティアヌスにペスト除けを祈願すべく
︽聖セバスティアヌス像︾を画家に制作させたとしよう︒そして幸いにそのペストがやって来なかったとしよう︒この場合︑ペス
トが来なかった年にセバスティアヌス像が制作されたことになる︒
また第三のケースとして︑制作する画家の側の事情がからむ場合もありうるだろう︒この疫病が猛威を振るった一四世紀後半か
ら一五世紀の時代において︑画家たちもまたペストの被害者であった︒画家の数もまたペストによって激減し︑人手不足の状態と
なっていた︵このためこの時代の絵画は合理化された集団作業によって簡略化される傾向があったという︶
睇︒
このため制作依頼を受けたものの︑画家やその工房は︑作品の納期を守れずに︑ペストの到来年から大幅にずれて完成したとい
うこともありうるのである︒
第四のケースはかなり特殊なケースである︒ここでは︑画家や注文主の︑審美的な︑あるいは耽美的な好みが作用している︒古
代や中世初期にはセバスティアヌスは﹁老人﹂として描かれたにもかかわらず︑主に︑一三世紀に書かれた﹃黄金伝説﹄の記述内
容が影響して︑ペスト期においてセバスティアヌスは﹁青年﹂として描かれることが多かった︒裸体美に目覚めたルネサンスの画
家たちにとって︑セバスティアヌス像の制作は美しい裸体の青年像を描くことが許されるほとんど唯一のチャンスであった︒たて
まえとして﹁疫病除け﹂の聖人を描いているにしても︑その実︑その制作のかなりの割合が美しい裸体の青年を描く︵見せる︶こ
とを本音としていて︑さらには同性愛的対象として︑セバスティアヌスが描かれる可能性もありうるのである︒特に︑セバスティ
アヌスは︑教会の礼拝堂という公的な場のみならず︑一家の健康を願って個人の家に設置することもあり︑この場合︑多くは単身
図として制作され︑そのために注文主のさらに私的な好みを強く反映することもあったのである︒こうした場合︑セバスティアヌ
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イタリアにおけるペストの発生とセバスティアヌス像制作との相関
スの制作とペストの到来とは︑一致する必要がなかったのである︒事実︑一五世紀のフィレンツェのようなルネサンス期の都市社
会において︑同性愛や男色は珍しいことではなった︒それはソドミー問題として大きな社会問題となるほど蔓延していた︒実際︑
一四七三年の一年間にフィレンツェで約一六〇人の同性愛者の検挙があったという記録が残っている︵研究者によると︑このころ
の四〇年間において同じくフィレンツェで一五〇〇〇人もの男子青年が嫌疑を受け︑そのうちの二五〇〇人が有罪とされたとい
う︶
睚しものであるか否かを判断︑づそれを実証することはそうく基︒ィしかし︑一枚のセバステアにヌス像の絵画が同性愛趣味容
易ではなく︑慎重を要する問題である︒そのセバスティアヌス像が教会の礼拝堂のなかの多翼祭壇画の一部なのか︑単独の絵の単
身像なのか︑などの視点から考慮されるべきである︒事実︑二〇世紀においては︑セバスティアヌスは疫病除けではなく︑男性愛
のシンボルとして︑絵画・文学・映画において││すなわち教
会 !
以 !
外 !
の !
場 !
で !
││扱われているのである︒ !
注盧
拙稿﹁黒死病除け絵画﹁聖セバスティアヌス像﹂の様式分析序説││三〇〇点のセバスティアヌス像の点検項目││﹂﹃文
化史学﹄第五八号二〇〇二年︒同﹁﹁イタリアの聖セバスティアヌス像﹂の所蔵状況一覧﹂﹃文化学年報﹄第五二輯二〇
〇三年︒︶
盪議六二年と一四六四年の決文一││疫病を逃れるために四る﹁ーサン・ジミニャーノのポポよロ協議会とその他の機関に聖
セバスティアヌスの絵画の制作を決議する││﹂拙稿︵編訳︶石坂尚武﹁イタリアの黒死病関係史料集﹂︵一︶﹃人文学﹄一
七四号六三〜七三頁︒
蘯
Dian e C o le A h l, “Du e S an Seb astian o d i Ben o zzo Go zzo li a S an Gimig n ian o : u n co n trib u to al p ro b lema d ella p ittu ra p er la p este n el
Qu attro cen to ”, in Rivista d ’Arte ,X L , se rieI V, vol . IV, 31 − 62, Fi re nz e, 1988. Bi bl io te ca Comuna le di Sa n G im igna no
︵以下B C SG
︶, Ar ch iv io de l C omune
︵以下AC
︶,N N 126, Li br o d i d eli b er az ioni e rif or me se gna to G, 1459 − 1462, CC. 355 − 356 ; C ol e A hl , 5 2 − 53.
BCSG, AC, N N 126, c. 356 v ; Col e Ahl , 53 − 54. BCSG, AC, N N 126, c. 362 v ; Col e Ahl , 54. BCSG, AC, N N 126, c. 366 v ; Col e
Ahl , 55. BCSG, AC, N N 127, c. 366 v. Li br o d i d eli b er az ioni e rif or me se gna to K, 1462 − 1465, c. 213 ; C ol e A hl , 5 5 − 56.
イタリアにおけるペストの発生とセバスティアヌス像制作との相関― 4 8 ―
盻 拙稿﹁﹁イタリアの聖セバスティアヌス像﹂の所蔵状況一覧﹂
眈
Lorenzo Del Panta, “La ricomparsa della peste e la depressione demografica del tardo Medioevo”, Morire di peste : testimonianze an-
tiche e interpretazioni moderne della «peste nera» del 1348 , ed. Ovidio Capitani, Bologna, 1995 : 67−97.
眇
Karim Ressouni-Demigneux, Saint-Sébastien, Editions du Regard, 2000, 13.
眄
Del Panta, 80.
眩 もちろん︑デル・パンタの表は完全なものではない︒ここ一〇年の間に発表されたペストに関する地方史研究の成果を加え
て︑より正確なものにしていかなければならないだろう︒
眤 拙稿﹁中世カトリシズムによる黒死病の受容﹂﹃文化史学﹄第五八号 七八〜七九頁︒
眞
Del Panta, 79−89.
眥 拙稿﹁イタリアの黒死病関係史料集﹂︵一︶一七四号 三五頁︒
眦
Del Panta, 86.
眛
Del Panta, 76.
眷 拙稿﹁イタリアの聖セバスティアヌス像﹂の所蔵状況一覧﹂二九四頁︒
眸 拙稿﹁聖セバスティアヌス像﹂の様式分析序説││三〇〇点のセバスティアヌス像の点検項目││﹂
睇
Siena, Florence and Padova : Art, Society and Religion 1280−1400, Vol.I : Interpretative Essays, ed. Diana Norman, New Haven and London, 1995, 195.
睚
Michael Rocke, Forbidden Friendship : Homosexuality and Male Culture in Renaissance Florence, New York and Oxford, 1996, 96.
―4 9―
イタリアにおけるペストの発生とセバスティアヌス像制作との相関