理科物理分野におけるカリキュラムの研究
著者 中村 元彦, 松村 佳子
雑誌名 教育実践総合センター研究紀要
巻 13
ページ 77‑81
発行年 2004‑03‑31
その他のタイトル A study of curriculum on the physics field of science education
URL http://hdl.handle.net/10105/61
1.はじめに
日本では古代の日本独自の物理学的遺産は発見され ていない。日本における物理教育は、福沢諭吉が明治 初期に、理系文系を問わず日本の発展においてその大 切さを説き、小学校から物理学の内容を設置させるに いたったところから始まる。1)物理学はもともとこの ような名前では扱われてはおらず、19世紀初頭では、
格致学、格物学、究理学、理学などと呼ばれ、最終的 に物理学という言葉になった。その様々な名前に託さ れた意味は、「自然や物事の理を究める(解き明かす)」 ことで、教育においては自然界の事物や現象の中にみ られる法則などを基に、学生自らが様々な現象を理解 していけるようにとの願いが込められている。1)しか し、現在にいたる物理教育においては、内容が大幅に 削られ、単なる計算力や暗記力が重要視される教育と なってしまい、基礎学力の低下傾向は続いている。2)
さらには、子供がいくら興味ややる気を示しても、親、
特に母親は、少しでも危険につながることは避けるよ
うに指導するなど、母親が原因による理科離れが起き はじめているといわれている。2)
このような状況に対して、教師は現状で出来る範囲 の挑戦を続けている。教科書よりは、主として教師が プリントを作成して行う授業が有効であるといわれて いたが、こと小学校の基礎学力に関しては、教科書の 内容を忠実に教えることが有効である調査結果があ る。3)大学生の学力到達度別に分けて効率的に指導す る試みから、分けても同じ割合で到達度に差がでてく ることがわかっている。2)4)また、いかに授業や科目 に関心を持ってもらい、自ら進んで勉強してもらうか では、科学の祭典、SPSなどの啓発活動や携帯電話・
コンピュータを用いた活動などがある。2)
近年、世界では大きく教科書の中味やカリキュラム の構造を見直す動きが見られる。イギリスでは、1960 年代に物理教育の現代化をかかげ、「ナフィールド物 理」カリキュラムが作成され、1990年末には、新しい 時代に対応した物理教育カリキュラムの刷新の試みと して、「アドバンシング物理」カリキュラムをイギリ 中村 元彦
(奈良教育大学理科教育講座基礎物理学研究室)
松村 佳子
(奈良教育大学理科教育講座理科教育研究室)
A study of curriculum on the physics field of science education
Motohiko NAKAMURA
(Department of physics, Nara University of Education) Keiko MATSUMURA
(Department of science education, Nara University of Education)
要旨:これまでの大学入試形式等に関係して、高校での理科物理学分野の履修率低下、その結果としての小中学校 教師の物理学分野の教育力低下が起きている。このような状況に早くから陥っているイギリスでは、高校の理科物 理学分野のカリキュラムに対して新しい試みを行っている。しかし、現場の教師からは、この試みは今の日本にお いて、基礎学力のしっかりとした定着やいろいろな現象の定量化などの真の学力につながらないとして批判的な意 見がある。そこで、入学してまもない学生を対象にこの試みに近い方法で検討を行った。その結果、これまでの教 育とは違う長所・短所が見い出された。根本的には、教師が常に新鮮で前向きな態度で学生と接し、常に授業工夫 の努力を怠らないことが必要であるが、小中高大学のそれぞれにおいて、応用されるべきものがあることがわかっ た。
キワード:カリキュラム curriculum、物理教育 physics education、アドバンシング物理 advancing physics
ス物理学会が作成した。4)このカリキュラム方針は、
大きくは宇宙論、量子力学、素粒子論、物性物理学な どの現代物理学とその社会への応用など内容の大幅な 現代化をはかり、これまでの純粋物理への傾斜を減ら し、物理学を歴史的・社会的コンテキストの中で示し、
物理学に必要な数学は、物理学の授業の中で独自に教 えるなど、多様な内容と多様な活動形態を用意するこ とにある。4)イギリスでは中高校の教員で物理学をき ちんと教えることのできる教師が非常に少ないため、
中高と大学の連携がこのカリキュラムにとって重要と なっている。イギリスの制度上の問題により、このカ リキュラムは高校対応となっていて、日本にそのまま 持ち込むのは難しいが、中学校から応用できるところ もあり、日本でも教育大学と高校が連携して調査研究 が始まっている。5)ただし、このカリキュラムはイギ リスのすべての高校に導入されるのではなく、他のい くつかの物理カリキュラムのひとつとして新たに加え られ、その中からそれぞれの高校の実状にあったカリ キュラムを選択して実施することができるという多様 性を重視した柔軟な制度である。また、いくつかの大 学では、「アドバンス物理」カリキュラムに近い方法 をいくつか取り入れて、物理学分野の基礎科目のしっ かりとした修得に結びつけようと試みている。2)また、
アメリカのローレンスホール研究所で開発された、プ ロセスを重視した体験学習法とグループ学習法で学ぶ カリキュラムは近年日本に導入されつつある。これも イギリスの場合と同様、身近な題材で好奇心を掻き立 て、知識より考えることなどのプロセスや社会と科学 の在り方、などを目指すものである。6)
いずれにおいても、現状の知識・技能に重点を置く のでなく、学ぶ意欲、探究能力、思考または判断力と 表現力も重視しようとするものである。
本研究では、このような動きをふまえ、本大学科学 情報教育コース物質情報専修1回前期の講義である基 礎ゼミナール1において、「アドバンシング物理」カ リキュラムを意識した試みを行い、その調査研究を元 に、主に中高大の理科物理分野のカリキュラムの在り 方を考察する。
2.方法
2.1.対象
本学科学情報教育コース物質情報専修1回生前期の 基礎ゼミナール1において、これまで中村班に分属さ れた学生(32名)を対象とした。これらの学生は、テ ーマを決定する段階では学問知識などが高校3年生と ほとんど変らないと判断できる。
2.2.方法
各自1つのテーマを探し出して、図書館、インター
ネット、さらには実験を行って、10分の中間発表と最 終発表を行うという作業をとった。発表には、OHP を用いた方法とPowerPointというソフトを用いて、
コンピュータ画面を投影する方法の2通りで行った。
2.3.注意
学生がテーマ設定を行う際、教官側からは一切強要 せず、以前から興味があったもの、または今後勉強し たいものを選ぶように促した。ただし、テーマの変更 は理由を確認した上で認めた。また、ひとりに1テー マとしたのは、出来る限りまわりに流されずに自分で 最後まで仕上げることで、より正確な学生自身の情報 を引出そうとしたためである。さらには、この講義と 平行して、「力学の世界」「現代物理学」という物理学 分野の基礎にあたる講義と「高校物理の補講」を行っ ていることにも着目した。
3.結果
3.1.学生が選択したテーマの分類
学生が自ら選択したテーマとしては、大きく①身近 な自然現象に関するもの(虹、音の伝わり方、雷、竜 巻、星の色、雲、オーロラ等)、②科学技術によって 作られたものから生じる現象(タイヤ工学、F1マシ ンにかかわる空気の流体力学、携帯電話、コンタクト レンズ等)、③興味のあるスポーツに関係する現象
(波乗り、弓道、野球、スポーツコンディション等)
の3つに分けられ、その結果が図1に示されている。
テーマ変更を行った学生は5名で、変更の理由は、調 べるにつれ現在の学問知識では理解できない難しい現 象であるからがほとんどであった。変更を検討した学 生は半数程度いたが、これは当初のテーマ決定の時間 内に絞りきれていないのが原因であった。
図1 学生が選択したテーマ
図1より、学生は科学技術の進歩の結果であるエレ クトロニクス製品や半導体、OSなどのプログラム言 語やコンピュータ、自動車などを選択せず、身近な自 然現象をテーマとして選択しいている割合が多いこと がわかる。「アドバンシング物理」のカリキュラムで
は、ほとんどが最初の導入として用いる物理学の応用 されたテーマに、エレクトロニクス製品や半導体など 先端科学技術製品を挙げてカリキュラムが組まれてい る。今回対象としている学生は、学問知識などが高校 3年生とほとんど変らないと判断できる。中高におい て、教師側が設定したいくつかの先端科学技術を応用 したテーマに、そもそも学生が興味をもつかという疑 問が残る。もし興味をもてずに行うようであるならば、
導入としての役割は小さい。今回の結果からは、学生 に興味をひき、掘り下げて勉強してもらうための最初 の導入であるテーマには、身近な自然現象に関係する ものから、物理学やその科学的な思考に関係づけてい く方法も必要と考えられる。
一方、興味があるいずれのテーマにしても、現在の 中高までの物理学分野の教科書で学んだ学生は、その テーマから掘り下げて基礎学問(例えば、力学、熱・
統計力学、電磁気学などの古典物理学と量子論、相対 論、素粒子論、物性物理学などの現代物理学)をしっ かりと勉強したり、あるいは自然や物事の法則などを 基に学生自らが理解するなどのことは難しい。
3.2.学生が選択したテーマの物理学分類
次に、学生が選んだテーマが物理分野のどこに分類 されるかを図2に示す。主に力学の手法を用いて説明 しているものは力学へ、波や電気、磁気に関係するも のは電磁気学、相対論や量子論を用いているものは現 代物理学へ分類した。現代物理学、力学やそれらの手 法に関係する現象やそれを使って説明している学生が 全体の85%に達していることがわかる。この講義と平 行して行っている物理の授業「力学の世界」は力学の 内容を、「現代物理学」は現代物理学の内容を、「高校 物理の補講」は力学、熱とエネルギーと光・音等の波 までの内容となっていることから、学生はこれらの講 義内容に近いテーマを選択したことが言える。その原 因としては、理解して説明するとなると、これまでの
学問知識では無理であるという壁にぶつかり、その壁 を乗り越える手段として、現在進行中の講義の内容を 学んで、それを基に理解しようと考えたことがあげら れる。また、そのほうが楽だからという考えもあるだ
ろう。
しかし、これもひとつの応用テーマと基礎学問をつ なぐ方法と考えることができる。学生は偶然にも同時 平行している講義内容に沿った現象のテーマを選んだ わけであるが、そのテーマが学生の興味のあるもので あれば、講義への能動性が高められる。そして、講義 で獲得した新しい知識や考え方を、そのテーマに応用 することで現象が説明できれば、達成感が大きいだろ う。その応用の過程が、学生自らが様々な現象を理解 していける能力の育成にもつながる。
一方、現在日本で研究されている高校生対象の「ア ドバンシング物理」のカリキュラムにおいては、高校 教科書の内容の大幅な現代化と高度化によって、この 壁を教師、あるいは大学の教官が連携して乗り越えら れるようにしようとするものである。しかし、小中と 連携して基礎学力をしっかりと育成していくようにし ないと、高校だけで行ってもギャップが大きいために 限界がある。また、多様性を容認するために、いろん な教材作成やその手法、人手(少人数教育)などでも 限界がある。さらに教材が出来てしまえば、その教材 に沿って行うだけの授業になってしまい、「自然や物 事の法則などを基に、学生自らが様々な現象を理解し ていける」能力の育成にもっていけない危険性もある。
3.3.発表形式による違い
次に、発表と結果の形式において、OHPで投影し て行いレポート形式で提出してもらう方法と、コンピ ュータ画面を投影して行いそのファイルを提出しても らう方法の2通りで行った。OHPを用いて発表する 方法は、これまでのいろいろな学会などのプレゼンテ ーションの場でもそうであったように古くから使用さ れている方法である。コンピュータ画面を投影して発 表する方法は、近年コンピュータとその周辺機器の発 展とともにほとんどのプレゼンテーションの場でも用 いられはじめている。
ここにも、学生の取り組み方に大きな差がでた。
OHPを用いた発表では、書類を作成する際、OHPシ ートを使用する必要があり、カラー印刷が自由にでき ないなどの不便さなどを訴える学生が多くいて、制作 過程での不満が物理学の内容の難しさへの不満より大 きく、発表枚数は2〜4枚程度におさまるものばかり であった。コンピュータ画面を投影する方法では、カ ラフルな図や動画や音などを活用でき、OHPを用い た時とは違って、放課後などの自由な時間までも費や して、10〜13枚程度の発表資料作成をするなどの変化 がみられた。
これは本来の物理学の内容を調べるということに学 生が引き込まれるのではなく、コンピュータで投影し て発表すること、またはその資料作成において、絵や 図、説明文のだし方、効果的な動画の挿入や動画を作 図2 テーマの分類
ること、効果音などの手段やその制作過程に引き込ま れていることがわかる。これは小中高大での物理学分 野の実験でも言え、本来の自然の法則について興味を もって調べるというよりは、どのような実験器具を用 いてどのような物理現象を再現して行うかなどの実験 手法によって変化する。大変だとか面倒という感想が 多い実験題目でも、データ処理にコンピュータを導入 したり、遊びの要素を加えるなどの別の付加要素を付 け加えることで、感想が一変することもある。8)この 手段や制作過程がきっかけで、探究能力と表現力の向 上が考えられる。
4.考察
テーマとしては、必ずしも最先端の科学技術でなく ても身近な自然現象で、学生に充分に物理学への興味 を引き出させることができることがわかった。中高で のこのような試みを実施する場合には、やはり学生の 基礎学力がそのテーマに追いついているかどうかが重 要な点である。科学の祭典などにおいて、中・高校生 からでる言葉には、理科担当教師の教育への不満があ る。例えば、ある中学生は、標準光源を用いて、手製 の分光器で光の波長を測定することができることを演 示すると、うちの先生は大がかりな装置なしに光の波 長を測定することができないと言ったという。必要な 基礎学力がない学生に対して、そのことを説明し教え ることの難しさや教師が深く理解しているか否かでそ のような対応になると考えられる。このように小中高 の物理学分野の内容の現代化と高度化をするにも、基 礎学力のしっかりとした向上なくして定量化すること はできない。また、小学生にビー玉万華鏡を制作させ る一方で、他の小学生にブラックライトで蛍光現象を 観測させていると、紙につけたのりがブラックライト に反応して蛍光を発した。このことに対して、大変驚 き、手を動かすのをやめ、やってはいけないことをし てしまったと言って走り去った。こちらが言ったとお りのことをしなかったことに対して生じた現象と判断 しての言動である。小学校では、理科において、ひと りひとりの勝手な行動は危険であることから、それを 禁じている。本来は、教師が狙った授業内容から脱線 して見えた不思議な現象などは、重要な物理学分野へ の導入の役割を果たすと考えられるが、ここには安全 な理科教育をねらうことに重きをおくという限界があ る。
学生が選んだテーマでは、現在進行中の物理学分野 の内容に沿ったものが多かったが、小中高での実施は 学問知識や基礎学力などの面で同じような内容の実施 は難しい。しかし、難しい内容でも、その手段や方法 によっては、そちらに引きずられて達成してしまうこ とがわかった。小中高でもこれと同様な手法でカリキ
ュラム展開が可能である。例えば、これまでの通常の 演示実験や学生実験の実施方法を、物理学の法則が成 り立っているかなどの確認の方法から、これまでとは 違った複雑的な現象をテーマとして選択し、それを明 らかにするための単純な実験を連鎖的に行ったりする などして、いくつかの物理法則から説明してしまう探 偵ゲーム感覚で巧妙に行ったりすることもできる。本 学で行っているような「総合演習」を利用することも できるだろう。9)授業の進め方で学生を能動的にさせ るには、教える側が常に新鮮で前向きな態度で学生と 接し、常に工夫の努力を怠らないことが大切である。
現状の知識・技能に重点を置くのでなく、学ぶ意欲、
探究能力、思考または判断力と表現力の訓練に着目す ることも重要だろう。でも、そこからどのようにして 物理学分野に必要な基礎学力やいろいろなものを定量 化できる能力を育成できるかは多くの現場の先生から は疑問の声がでるところである。小中学校までは、無 理強いしても教科書の内容に沿って、基礎学力を確実 に身につけさせるべきなのだろうか。今後の課題であ る。
一方、大学においては、学生はある程度の学問知識 を持ち得ているので、卒業研究につなげる過程におけ るこの手法の意義は大きいと考えられる。
5.謝辞
議論をしていただきました奈良教育大学松山豊樹先 生、いろいろな情報やアドバイスを頂いた日本物理教 育学会近畿支部の先生方に感謝致します。また、公務 多忙な中、コンピュータを用いた発表ができるように 御助力頂きました奈良教育大学教務課、教育実践総合 センターの方々に感謝致します。
註および文献
1)渡辺まさる、「身近な物理学の歴史」、東洋書店、
1993;仁科浩二郎、「なぜ理科教育が必要なのか」、 日本物理教育学会誌50巻、2002、P52等
2)中村元彦、坂本文博、久保武治、「これからの物 理教育」、近畿の物理教育8号、2002、P26また は第10回物理教育を考える会2; 萩原亮、谷口和 成、大平雅子、「今求められる大学教育と中等教 育の交流と連携」、近畿の物理教育9号、2003、
P23または第11回物理教育を考える会2; 高橋和 光、「中学校の理科教育 過去、現在、未来」、日 本物理教育学会誌50巻、2002、P42等
3)明石要一、「今どきの子ども」、日本経済新聞、11 月29日教育欄;日本教育技術学会福井大会での発 表等
4)山県民穂教授との私信、「甲南大学理学部物理学
科での試み」から
5)笠耐、「21世紀の物理教育とアドバンシング物理 ワークショップ」、日本物理教育学会誌50巻、
2002、P2; 笠潤平、「「アドバンシング物理」の 紹介」、日本物理教育学会誌50巻、2002、P32等 6)京都教育大学、和歌山大学の物理学教室が各県下
の中高などで、テーマを絞って研究活動を行って いる。その成果の発表は、日本物理教育学会近畿 支部主催の第34回物理教育研究集会で行われた。
7)カリフォルニア大学バークレー校ローレンスホー ル研究所のGEMS(Great Explorations in Math and Science)プログラム
8)松山豊樹、中村元彦、「「物理学実験」の成績経年 変化に見る理科離れの動向の研究」、奈良教育大 学教育実践総合センター研究紀要、No.11、2002 年、P147
9)天野真菜美、岩本明子、川端美沙子、中村元彦、
松村佳子、「大学校内の自然を活用した体験教育 への試み」、日本理科教育学会近畿支部大会発表