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廣瀨淡窓の思想についての諸説批判

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Academic year: 2021

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Title

廣瀨淡窓の思想についての諸説批判

Author(s)

井上, 源吾

Citation

人文・社會科學研究報告, 3, pp.11-22; 1953

Issue Date

1953-02-28

URL

http://hdl.handle.net/10069/33838

Right

NAOSITE: Nagasaki University's Academic Output SITE

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廣瀨淡窓の思想についての諸説批判

井 上 源 吾  廣瀬淡窓の思想は、如何なるところに共の拠り所をもつてみるであら うか。  当時の学界は、大まかに言って、朱子学、陽明学、古学、折衷、考証 等の諸派に分れてみた事は周知の如くであり、更に細かに見れば是等の 申にも幾つかの流れがあり、然してそれ等はまた夫々若干の主義の相違 もあった事は事実である。  然らば日野は、共の思想的根拠を何処に置いてみたであらうか。この 問題は既に一一在世の時代にあっても論議されてみたもの玉如く、夜雨 寮筆記の中に次の如き記事がある。  ﹁劉一問テ日、先生五経四子ノ類ヲ説キ玉フニ、古注ヲ用ヒ玉フヤ、  新注ヲ用ヒ玉フヤ、一覧諸説ヲ折衷シテ用ヒ玉フヤ、他方ノ人、先生  ノ学派ヲ問フ者多シ、小子未タ答フル所以ヲ知ラス、願バクハ之ヲ示  シ玉へ↓﹂これに対して淡窓は  ﹁予経ヲ説クニ、唯本文アルコトヲ知りテ註解アルコトヲ知ラス、諸  家ノ説、知ラサルコトナレハ、是非ヲ折衷スヘキ様ナシづ﹂と答へて るる。淡窟の弟子が、師の学派について答へられなかった事、及び淡窓 がその講学に当っては、 ﹁唯本文アルコトヲ知りテ注解アルコトヲ知ラ ス﹂とする熊度は、その学の根拠を究明する立場からすれば、まことに 解決し難き困離に遭遇したものと言ふべきである。か玉るが故ででもあ らうか、後に淡窓の思想的根拠については、或は老薙学派と言ひ、或は 折衷学派となし、或は独自の思想であると断定する等諸説多く、遂に帰 一する所を知らない状態である。そしてこの学派判定の傾向も、概ね明 浩時代にあっては老蕪学派と見られ、大正時代には折衷学派とされ、昭      広瀬淡窓の思想についての諸説批判 和に入っては、独自の思想であるとする入が多い。  老薙思想が淡窓の思想の本質であるとする説には次の諸書がある。

蜘鋳懇既共編呆倫理三編 器一蓋年

  横山達三氏   日本近世教育史    明治三十七年   岩橋遵成氏   日本儒教概説     大正十四年  老蕪学派と主張する人々の共通の論拠は、無窓に老子に關する箸述で ある﹁析玄﹂があり、従って淡窓は老子哲学に造詣が深かったとする点 である。  これに対して、諸説の折衷が淡窓思想の本領であるとする説に、左の 諸書が見られる。

岩橋遵成氏

三浦藤作氏

補永茂助氏

井上哲次郎氏

補永茂助氏

乙竹岩造氏

下地恵常氏

大日本倫理思想発達史 日本倫理学史 日本倫理思想の系統 淡窓全集序文 纂説 日本思想史 日本国民教育史 新説 日本倫理学史 大正四年 大正+一年 大正十一年 大正十四年 昭和八年 昭和十五年 昭和十七年  この説の主張者の共通とする論拠は、淡窓が崇派の別に拘泥せすし て,廣く群言を折衷してみること、しかもその学は儒学を根幹として、 他はこれに従属し・てるるとせられる事これである。然して濡学を程朱学 であると明言せられてるるのは、井上、乙竹両氏であり、他の諸子はそ の立場があまり明瞭でない。叉井上博士は老子の学とせられるのに対し て、他の四氏は老蕪の学とせられる等細部に亘っては、必ずしも一致し 幅 11 一

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     広瀬淡窓の思想についての諸説批判 てるるわけではない。  更に淡窓の思想は、全く淡窓独自のものであるとする説には次の諸書 がある。 中島市三郎氏

乙竹岩造氏

高田真治氏

乙竹岩造氏

撫物 清氏

中島市三郎氏

小西重直氏

 この人々の論拠とする所は、 ものであるとする点に於て共通してみる。今一つは、 的なものを包含してみるとする事である。 も判る様に, ﹁時﹂の影響が多分に存するのではないかと思はれるが、 今は触れないで置く。  次に出窓の思想形成には、三浦梅園の影響があるとするものに次の署 述がある。   長寿  吉氏   梅園から訳者へ   昭和二十一年  博士は三浦梅園から脇霊室へ、蘭室から帆足万里へと章脈が流れてみ る。淡窓はこれを蘭室から受け、最も多く万里から受容したとされ、こ れまで客窓の学派について論じた品々と裁然異った立場を表明される。  先づ老荊思想が淡墨の思想の本質であるとする諸説を検討して見る に、この説の先河を為したみのは、﹁日本倫理彙編﹂である。井上、蟹 江両博士は、﹁日本倫理畔編﹂︵+巻︶を編まれるに当って、淡窓を老殖 学派の中に入れられた。しかしその理由とされる所は、﹁無学大観を主 教.聖 廣瀬淡窓の研究 昭和十年 教賢廣瀬淡窓    昭和十年 ︵﹁日本教育史の研究、第一輯﹂所載︶  ・ 三浦梅園の学風と南豊の儒学 昭和十四年 ︵﹁近世日本の儒学﹂所載︶ 日本国民教育史    昭和十五年 廣瀬淡窓の思想と教育 昭和十七年 威宜園と日本交化   昭和十七年 廣瀬淡窓      昭和+八年    淡窓の﹁敬天の説﹂が、他に比類を見ぬ        淡窓の思想が日本         これは前記の署述年代を見て 乏して、人と異同を争はす.労ら仏老を喜べり︵三︶しと説かれるに過ぎな  い。横山達三氏の所説も極めて簡潔であり、しかもその立場が、 ﹁教育 史﹂といふ面から眺められてみる關係上、自ら限定されたもの.になって  みるからこ﹂ではこれ以上触れないで置く。た穿淡窓に﹁老子哲学の造㎝ 詣︵四︶﹂の深かった事を指摘され、議題の著述である﹁析玄﹂については、  ﹁儒老の調和を唱ふる者︵五︶﹂とせられてるるのは記憶されてよい。   岩橋運成魚は、﹁日本儒教概説﹂に於ては、淡窓を老薙学派とし、﹁大  日本倫理思想発達史﹂に於ては、折衷学派とされる。著述年代からすれ  ば、前者が氏の定説かとも思はれるが、一応両者の主張を吟味してみる 必要がある。氏は、﹁大日本倫理思想発達史﹂に於て、淡窓が鞄井昭陽  の門に学んだにも拘らす、 租軍学を退けたが、 その学問に対する態度  は、﹁学派の匠分に拘泥することをせす、たゴ長を取り、短を捨て、適  を採り不適を舎つるといふ主義︵六︶﹂であって﹁廣く群言を折衷せんとし た︵七︶﹂とされ更にその折衷的態度にも﹁彼の金峨及び兼山一流の折衷と 違って、流流の一局に偏する︵八︶﹂ ことなく、 ﹁内外の教典を採用した  ︵九︶﹂特色があると述べられ、更に具体的に、﹁儒を根抵として、老荘の  学を用ゐ、更に仏教にまで趣味を有って居た︵δ︶﹂ことに、芯無の折衷 学者としての特質を規定される。以上の論述に於て、揚窓が﹁狙徐の学  問を退けた﹂とされるのは誤解であって、淡窓が極力退けたのは、狙裸  の後学であって、その本質的なものではない。叉淡窓は老子は好んだけ・ れども蕪子は取らなかった。か瓦る部分的な誤りを除けば、所論概して  正鵠であって、日本倫理学としての立場から淡窓思想の考察を試みられ たもの玉中に激ては特に傑出した論と言ふべきであらう。然して仏教に  入った動機として、 ﹁幼時より多病で、壮歳に至りても連りに病患に罹 るといふ有様であった︵=︶﹂からして、 ﹁日夕仏典に結んで心の慰安を 得た︵一二︶﹂事に求められ、叉老荘”の哲学に興味を有つに至ったのも﹁つ ・まり自己の境遇上、この老蕪一派の精神的養生法の必要を感じたからで 囎 珍 γ

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ある︵一三︶﹂。 と説かれるのは、極めて有力である。そして同氏は更に淡 窓の思想学問について、 ﹁凡て常識的見解であって、決して高遠なる独 創の見解を述べたものではないへ一四︶﹂と断定され、 ﹁独自の思想説﹂を とる人々と鋭く対立される。叉副乳の学問の傾向を論じて﹁倫理的宗教 的の傾向を帯びて居る︵一五︶﹂とされるのは、淡窓学の様式を大まかでは あるが正しく把握されてるると言へよう。  岩橋氏はかやうにして淡窓を折衷学者として類別される。然るに﹁日 本儒教概説﹂を眺めて見ると、こ玉では老妊学派として掲げられる。如 何なる理由からであらうか。前者と後者とを対比させて見れば、自ら明 かであるやうに、氏の所説は両者全く同一である。さきには﹁折衷学で ある﹂とされ乍ら、こ玉では何の躊躇もなく老野帰に編入されてるる事 は、吾々の了解に苦しむところである。  吾々は進んで三浦藤作氏及び補永茂助氏の所説を伺ふことにする。三 浦氏は次の如く述べられる。  ﹁黒黒は古文辞学派の輪井昭陽に師事したから、其の学問の系統は租.  侠派に属するのであるが、彼は狙篠の学を紹述する者ではなかった。  学派の如何に拘泥せす、長を採り短を捨て、 一家の見を立てんとする  折衷学者であった。同じく折衷学派の中にありても、金峨及び兼山一  派の如く、 暗流の一局に偏することなく、 高く内外の教典を採択し  た。即ち儒教を根腹とし、老薙及び仏教等の思想をも加味した。併し  ながら彼の学問は決して高遠深遽なるものにあらす、日常の倫理的教  訓を述べたに過ぎないのである二六︶。﹂ 補永博士の﹁日本倫理思想の系統﹂の主張も、二三の語句の相違を除け ば、これと殆んど同様であって、直入の手に成った,ものとは思はれない ほどである。更、に驚くべき事は前記の岩橋遵成氏の所説と全く軌を一に する事である。  以上の如き理由で、三浦、補永両氏に対しセは、岩橋氏への評言がそ       広瀬淡窓の思獺⋮についての諸説批判 のま﹂妥当するわけである。しかし三浦氏が、心乱が極めて敬天の信仰 の篤かったことを指摘され、約言の中の﹁六経の旨一言にして尽すべ し、敬天これなり﹂の文を引用されて、客窓の倫理説は、﹁敬天の信仰 を道徳の基礎とする宗教的倫理説である︵一七︶﹂とされ、この思想は、﹁天 命を安んじ、天徳を報ぜざるべからす︵一八︶﹂とする報恩の思想に開展し て行くと言はれるのは正しい。叉補永氏が、潔癖が老子の学を好むに至 った事を証する資料として﹁,余算より多病養生に汲々たり、老子は噺家 の祖たるにより、養生の訣を否むが為に此書に心を留めたり、因りて共 旨に頗る得る所あるを覚ゆ﹂といふ夜雨寮筆記の文を以て示されたのは 極めて有力である。  井上博士の意見は.淡窓全集の序文に見ゆるものである。博士は、淡 窓の学の本領は儒学であって、その中でも程朱学が中心を為してみるも の﹂如くであり、叉その研究熊度は﹁必ずしも朱子学とか、古、学とか、 さう云ふ学派の別に拘はらないで、寧ろ折衷的態度を取った︵一九︶﹂とさ れ、しかも仏教からも採り、﹁最も道教に於て得る所が多かった︵二Q︶﹂ と述べられる。 言極めて簡約であるが、 淡窓の学風の把握は確実であ る。特に淡窓の学の中心を﹁程朱に拠る﹂とされる所は所謂﹁勘﹂によ るものであらうが、極めて有力なる示唆を与へるものである。  次に独自の思想説をとる入々の所論を検討したい。先づ挙げねばなら ぬのは、乙竹岩造博士である。博士には﹁日本庶民教育史﹂日本国民教 育史﹂ ﹁日本教育皮の研究﹂の講述があり、夫々淡窓の教育について触 れて居られるが、淡窓の学派について論及されてみるのは、後記の二署 である。とくに﹁日本教育皮の研究﹂第一輯には﹁教官廣瀬軍議﹂と題 して詳細に述べられて居る。是等によれば、博士の淡窓槻には三つの段 ⋮階があるやうである。はじめは、折衷学派として取扱はれてるたが、 ﹁ 教賢廣瀬淡窓﹂に於ては﹁独自の思想﹂を有つものとせられ、﹁日本国 .民教育史﹂に於ては、更に一歩を進めて﹁敬天学派﹂と特記されてゐ 一 13 一

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      広瀬淡窓の思魍についての諸説・批判 る。これは博士の淡窓への理解が年と共に深まった事を示すものでもあ らうが、その理由とされる所はいつれにあるであらうか。博士は淡.窓の 学風が、 ﹁人と異同を争はす大観を主となす点に於て﹂折衷主義者と認 められ、叉淡窓が、﹁六経の要旨は敬天にあり。敬天は天命を楽しむを 以て主となした﹂ことからして﹁敬天学派﹂と呼称される。然して前者 の依拠する所を淡窓自撰の﹁墓誌銘﹂に求められ、後者は﹁約言﹂の中 にその証を捜られた。そして独自の思想系統とされる理由は、淡窓が、   ﹁多くの典籍を渉猟して獲た廣愚なる知識、でれを農耕に喩ふれば、  鋤、鍬、真薦等あらゆる農具にも較ふべきその該博なる知識を活用し  て、儒学の奥底にまで深く堀込んで行って、その因って起れる根源を  突留め、然もそこからして、必ずしも註疏に捉はれざる反省熟慮によ  り、極めて自由なる経路を取って、次第に迫り上げて重て、遂に自己  の思想の系統を打建て瓦みる︵二唱︶﹂ が故であると説かれるQ  然るに淡窓に於ける知と行との關係を論ぜられて、﹁明かに知行合一 説である︵一三︶﹂と判定され、更に淡窓は、﹁一方には実践道徳主義の入 生得を抱き、同時に他方に良心直槻主義の哲学説を奉じ、かくてその独 自の敬天説の下には、知行の合一が、何等の矛盾もなく、何等の撞着も なく確信として成立してみたので.ある︵二三︶﹂と論ぜられる。博士がこの 結論を引出される為に援用されたのは、 ﹁約言或開﹂であるが﹁或問﹂ に關する限りに於てこの結論は正しい。然るに淵垣はまた窮理の要を説 くことも忘れない。たとへば、  ﹁格物ノ薫別、始メテ大嘗見ユい他二考フル所ナシ・先儒窮理ヲ以  テ之ヲ解スルハ、必ズシモ当ラザルナリ、然レドモ今入ノ学歴窮理ヨ  リ入ラザルヲ得ズ、サスレバ則チ当ラズト錐モナホ当ルが如シ︵二四︶﹂ と言ひ、或は、  ﹁︵上略︶必ズや我が本心不昧ノ明ヲ以テ、事物当行ノ理ヲ求職、.其  ノ至精至当ノ者ヲ認メテ、以テ帰宿ノ処トナス、既二理二於テ疑フト  コロナクシテ後、以テ天下ノ務二従一際スベシ︵二五︶し とも言って、学問研究に﹁窮理﹂の飲くべからざることを是認する。こ れは明かに、かの朱・子の居敬窮理の説を承けたものであって、先倉船行 論である。叉王陽明が、  ﹁知是行的主意、行是知的功夫、知専行之始、行是知之成、若会得  時、只説一箇知、己自有行在、話説一箇行、己自流知在︵二六︶﹂  ﹁知者行之始、行者知之成、聖学只一箇功夫、知行不可分作両事ヘニ七︶﹂ と説いてみるのは、あまりに有名であるが、もし博士の所説の如く、淡 窓が知行合一論者であるならば、陽明学派に入れるととこそ、より妥当 性があると言へよう。  これ等の事は、初めに﹁独創の学説﹂とされ、更に﹁敬天学派﹂と規 定された事と﹁何等の矛盾もなく、何等の撞着もなく、確信として成立﹂ し得るであろうか。  中島市三郎氏には、淡紅に⋮關する箸書に﹁教聖廣瀬淡窓の研究﹂及び ﹁成案園と日本文化﹂の口書がある。淡窓を論ずること詳細精緻を極め てみること、恐らくこの二書に及ぶものはあるまい。特に中島氏は、淡 墨の思想的栂拠に就いては、﹁教聖廣瀬嵐窓の研究﹂の中で、 ﹁淡窓先 生の学派に就いて﹂と題して、三節に亘り刻明に論述されてるるQ而し てこの論文は同氏が修身教育、帝国教育、大分日々新聞等に掲載された もの﹂再録である旨の附記があり、且つ﹁以上三側に亘って私が論証し た淡窓先生の学派論は、幸ひ各方面に多大の影響を与へる事が出去た。 ︵中.略︶私は蝕に着て十数年來高唱し來つた学派論の成功を見、衷心学究 的楡悦の極りなきを痛感したのである。また教聖廣瀬佼窓先生に対する 私の研究が、幸ひ諸学者の研究資料となり得たことを欣快この斜なきも のと覚えるものである。三八︶﹂と記されてみるのを見れば、中島氏会心 の論丈でもあり﹁諸学者の研究資料﹂ともなったもの﹂如くであるから 鞠 14 一

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して、吾々の一読に価するものであらう。  中島氏の論点は多岐に亘ってみるが、その要旨は、墨描の思想は、老 蕪、折衷に回す、また程朱や古学でもなく、真に独自のものであったと いふにある。然るに氏は多くの人々が南窓の思想に吊して、老荘と言ぴ 或は折衷として類別するのは、淡窓の学には、夫々の学派と極めて混同 し易い諸点を内包してみるが故で﹁あるとして、次の蟹草を掲げられてみ る。 ﹃イ、古学派と誤解され易い点  ﹂ 萩生狙篠︵江戸︶一山県周南︵周防︶i永富独囎庵一二漢一昭陽i    淡窓  2 眼疾後六経に注解を用ひす、静思熟考直に躍を孔孟の学に接した。  & 最も自由研究を重んじた。碑文に自選して曰く、共の学大観を主    とし人と同異を争はすと。  生 実学を尊んだ、教育目的も国家有用の人物養成にあった。  翫 詩丈に長じ子弟を教ふるにも詩情の易きよりした、遠雷楼詩集、    淡窓詩話等に明らかである。  乱 迂言を著して侯国の経濟を論じた︵以下略︶  7。 礼楽刑政に長ぜられてるたことは、塾則規約八十二条でわかる。 ロ、朱子学派と誤解され易い点  L 敬天説、叉約言を署し、敬天思想を倫理の根本精神として天即理    を是認し、不惑之知、不起之仁、仁知並行を説かる。  島 寛政二年、黒ハ学の林示後、五十二年、先生五十一才の時、朱子学を    宗とする徳川幕府より苗宇帯刀を許可された。幽  & 長三洲先生書して曰く﹁敬天、南窓先生平日此の二字を以て諸生    を譲⋮ふ蓋し先生一生の学醐は射て嚢中より出で細る﹂と。 ハ、陽明単派と誤解され易い点  L 事上磨練及心上の工夫を主とせられた、再新装に曰く、従來過を       広瀬淡窓の思想についての諸説批判    改むるに唯事上に従って改め心心に従って改めす︵以上略︶  & 大抵理を窮むる事甚だ精にして心を用ふること太だ密なるものは    行事必す活動ぜす︵以下略︶  鋭 淡窓先生の信仰されてるた天は、中江藤⋮樹先生の上帝︵良知︶と    同じである。 二、老馬学派と誤解され易い点  1。 、令弟旭荘先生が上京するや第一に老子摘解、析玄を上梓して世に    拡め、反証となる自新録、再新録、約言等を刊行せぬま製過ぎ    た。  払 老荘に縁故の深い 園の流れを汲んでみる。  & 壮年時代老子に心酔した。但し荘子を甚しく非とした。  聖 日本倫理彙編、補永、岩橋の諸子が老荘派となしたζと。    ︵註 この項筆者要約︶  飢 自選の墓碑銘中に記して曰く、﹁傍ら仏老を喜ぶ﹂と。 ホ、折衷章派と誤解され易い点  1。 先生自ら墓誌銘を選ばれて曰く、其馬主大観、与人不争同異、募    喜仏老、世六日通儒  急 山44の四項がある上に岩橋、三浦、補永諸氏が年を追ふて折衷学派 ・  として発表せられた︵一一九︶︵以下略︶﹄  中島氏は以上の点に於て、淡窓の思想は夫々の受業と誤り解せられる 恐が多いと述べられるのであるが、それでは﹁誤解され易い点﹂を反証 する積極的な証拠があるであらうか。  中島氏は先づ折衷学派でないことの証として、夜雨寮筆記︵二二第一 則︶と、燈下記聞︵巻二第一則︶とを援用される。前者は、淡窓の門弟 が、その声質窓に向って、経を説くに何れの説によられるか、叉師の学 派はいつれであるかと尋ねたのに対しての淡窓の答である。この問答に 於て淡窓は﹁余経ヲ説クニ唯本文アルコトヲ知りテ、注解アルゴトヲ知 , 鴨 15 鳳

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     広瀬淡窓の思想についての諸説批判       ノ ラズ、諸家ノ七三ラザルコトナレバ、是非ヲ折衷スベキ様ナシしと答 へ、且つその理由を述べて、幼時より多病、あまつさへ眼病に罹り失明 の恐れさへあったが為に、深く疏解を究める事も出秘す、従って諸家の 説を折衷すべき術もなかった旨を縷説して、 ﹁是レ余が学派ノ沙汰二及 バザル所以﹂であると言ふ条である。後者は、淡窓が折衷学者を評し て、﹁行事則懲昌於放蕩一、有レ所二牧東一、然其趨レ利極甚︵三〇︶﹂と述べてみ るものである。同氏はこのニケ条を足場として、 ﹁故に養母先生の学派 を論己、入物を評するに、折衷の交字は絶対に不可である︵一三︶﹂とし更 に﹁淡窓先生自ら斯の言あり、今日如何に大先生と難も少くとも淡窓先 生に就いては、決して学派の沙汰に及ぶべからざる所、従って叉我が淡 窓先生を折衷学派とも、折衷的態度云々とすべき様なき所真に.明々白々 たりと云はねばならない︵三二︶﹂と﹁力をこめ声を大にして﹂主張される。  このニケ条だけを眺めて見ると如何にも尤もな言分であって、成程淡 窓は﹁諸家ノ説ハ如ラズ﹂と答へ、世の所謂折衷学者を嫌悪して酷計を 下してみる事も票実である。然し乍ら他の箇所に於ては、この反証を挙 げることは極めて容易である。陽明の良知説については、 ﹁性善ノ説也 ︵三三︶﹂と答へ、考亭陽明及び伊具の異同得失を弟子の問へるに対して は、﹁亦無異同、亦無得矢、野芝以窮理、陽明以良知、伊等温師古∩三四︶ と答へてるるかと思へば、程朱学と仁斎狙篠の唱へた古学との相違につ いて、  ﹁短軸ノ説ハ、道ヲ三二薦シ、入心物理ノ上買付テ、是ヲ求ム、復古 一ノ説ハ、道ヲ聖人二属シ、古書二付テ、是ヲ求ム。是大本ノ異ナル所  ナリ、宋説一一テハ、道ハ天地ノ先占アリ、道ヨリ天地ヲ生シ、天地ヨ  リ万物ヲ生ス、人ハ万物中ノ霊ナル者ナリ、故二北口心二道ヲ且ハ足ス、  是所謂本然ノ性ナリ、喩ヘハ、此二柿ノ木アリ、此ヲ天地二喩フ、幹ヨ  リ枝ヲ生ス、是万物ナリ、枝葉ノ中二実ヲ結フ、是レ人ナリ、実ノ中  二核ヲ生ス、是レ心ナリ、核ヲ破りテ見ル時ハ、共中二木ノ形アリ、  日疋レ入心二建順五行ノ理ヲ備ヘタル所ナリ、 故二.人ハ道ノ中ヨリ生  ス、此ヲ以テ皇尊モ道ヲ離ル可カラス、煮魚ノ水中二生キテ水ヲ離ル  ・コトヲ得サルカ如シ、復古ノ一説ニヨル特旨、宋僅㎜ノ云フ所外天道ナ  リ、入道二選ス、入道ハ聖入二始マル者ナリ、上古人ノ始テ生々シ時  ハ、聖霊モ無ク、礼儀モ無ク、殆ト禽獣ト異ナルコト無シ、聖人出ル r二及ンテ、五典ヲ制シ、礼儀ヲ作り、入道始テ立テリ、是ヲ以テ、碧  入ノ道ヲ学ハント欲セハ.三代ノ書ヲ熟読スルニ在リ︵三五︶﹂と解説す る。功妙なる比喩を駆使し、しかも簡にして要を得てみることこの文の 如きは蓋し並々れであらう。 か﹂る事から考へると,どうしても淡窓 が﹁学派ノ別ヲ知ラ﹂なかったとは思はれない。  叉所謂﹁折中学者﹂を酷評はしてみるけれども、淡窓自らは、 ﹁蛮力 学問ハ己力為ニスルナリ、古人二奉行ノ為二非ス、故二心酔泣ム所ハ用 ヒス﹂と言ひ、程朱の説と裁物の説との是非取捨についても、﹁各一理 アリ﹂とし、 ﹁予ハニ説共ニヨル︵三八︶﹂とするが、か﹂る態度は正に折 衷的と規定すべきではなからうか。  然るに氏によれば、 ﹁折衷的態度と云ひ、折衷の文字を臓ふる限りに 於て我が廣瀬淡窓先生は、之を読む者に誤り解せられるのである。その 真実の偉大さは正しく伝へられないのである﹁三九︶﹂。何故であるか。それ は、一、折衷と云へば、折衷学派を聯想し、折衷学派と云へば、直ちに縫 ぴ合せ式の学派で不徹底極るものと世間普通にとられてるる︵四〇︶﹂から である。かなり乱暴な折衷学の定義が下され、その結果感情的に折衷学 の排撃となる。  叉最も遺憾にたへないのは、申島氏自ら挙げられた淡窓墓誌銘の丈に 対する反証が挙げられてみない事である。それどころか氏自らも、﹃之 を要するに淡窓先生の学派に就いては、﹁業レ儒⋮⋮⋮共学主二大観一、 与レ入不k争轟同異一、心線二仏老[、世称目通儒﹂の墓誌銘に謁されてしま ふ︵四一︶﹄と言はれるに至っては、 ﹁縫ひ合せ式﹂の折衷学派であること 層 16 一

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を認められたものではないか。吾々は氏の論旨がいつれにあるか、その 判断に迷はざるを得ないものである。  次に﹁非古学派﹂であるとの論拠は何処にあるであらうか。中島市三 郎氏は古学派と誤解され易い点として、七ヶ条を掲げて居られる事は前 記の如くであるが、この箇条の当否はしばらく措き、それを立証する論 拠は全く示されない。この態度は、延いて﹁陽明学派、朱子学派、老荘 学派と誤解され易い﹂場合も亦同様である。唯﹁非老荘学派﹂としての 積極的論証として、﹁析玄﹂の著述理由について  ﹁﹁︵淡窓︶五十三歳父逝き、五十四歳涙乾かざるに女宮を喪ふ。心快  々として楽します、打続く不幸にめ入る心を僅かに慰むべく戴天漏福  数あり、人僅かに謙虚を以て之を制すべきのみと、孔子以外の消極的  方面を老子に求め、身の不孝と病弱とを味ひつくして遂に舷に深く悟  黙せちれたので、此の本意を心の遊.戯として著して析玄一冊とせられ  たわけである︵四二︶﹂ と述べられ、かNるが故に﹁決してこれあるを理由として老荘学派には 入れられない︵四三︶﹂とされる。この証拠は正確であらうか。隠窓が析玄 の著述理山について触れてみるのは、管見の及ぶところでは、全集に三 ケ所ほど見える様である。一は註ハの日記であり、二は懐旧楼筆記天保九 年の条であり、三は夜雨寮筆記︵巻三︶に語られてみるもの即ちこれで ある。  先づ日記に於ては、  ﹁十二月二十五日、起析温浴、予有志於無作久尖、今適厄而怪、因従  宿志、籍微菱里卜書之意也︵四四︶﹂ と為し、懐旧楼筆記では、   ﹁九月十六日、析玄脱稿セリ、四千三首飴言ナリ、予少キョリ老子ヲ  好ム、去年久兵衛︵淡窓次弟︶力家訓アリ、予モ亦病博引カ・レリ、  此極内二感スル所アリ、一書ヲ署スノ志ヲ発ス、近日二至リ、前後三       広瀬淡窓の思想についての諸,説批判  旬ノカヲ費シテ此様ヲナセリへ二五vし と言ひ、夜雨寮筆・記では  ﹁黒黒ヲ著ハスニ至ツテハ、別二微意アリト錐・モ、珪ハ大要ニツアリ、  一ハ天下太平既急撃シ、戦野レ馬上二趣ク、天数ノ自然ナリ、故二郎  申一一衰アルノ理ヲ論シ、、預主智力防ヲ為サシム、ニハ太平既二黒シ  ク、熱情旧二安ンセリ、若シ之ヲ改革セントスレハ、必ス騒動ヲ生  ス、故山無為ノ為、不言ノ言ヲ明シテ、一切ノ事二、此方ヨリ手ヲ出  サス、冥々ノ由丁二機蘭ヲ設﹁ヶテ、之ヲ四一スルナリ︵四六︶﹂ と述べてみる。吾々は一応贈品のこれ等の言を信ずるが故に、中島氏の ﹁心の遊戯﹂説に対しては遽かに賛同の意を表し難い。  更に進んで、然らば如何なる所に淡雲の本領があるであらうか。中島 氏によれば、淡窓は、﹁無常を以て儒仏の統一原理とし︵四七︶﹂更に、﹁無 常より來る孝愛を入塾の自然にして道徳の根源なりと教ふる積極的の儒 教を老子の道教と融和渾一させてるる︵四八︶﹂のであり、従ってコ儒仏老 三教を帰一するの根本原理を体得︵四九︶﹂し、進んで﹁神儒二恩の融和渾 成をもなし得た︵五〇︶﹂ものであって、神儒仏老の四教の融和に淡窓思想 の本質を認められたもの玉如くである。果して淡窓の思想が氏の所説の 如くであるならば、独創の思想といふよりは、寧ろ四教一致の説とか或 は折衷の説とか言ふべきであらう。  次に氏は結論として淡窓の思想について次のやうに述べられる。  ﹁儒は更なり、神仏老より和学、蛮学に至るまで、すべてを包容融和渾  成する大日本国民性の持主で、而も綜合調和するに高遠なる一大原  理、即ち﹁敬天﹂の思想を以て万事を終始一貫してみる。道徳に、教  育に、詩丈に、衛生に、政治に、経濟に、根本原理とするもの唯一つ  あり曰く、敬天︵五一︶﹂ 吾々は、中島氏がこの結論を引出す為にとられた論証方法には賛成し難 い事は既に述べた通りであるが、こ玉に述べられてみる﹁淡窓は敬天の 幽 17 一

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     広瀬淡窓の思想についての諸説批判 思想を以てあらゆるものx統一原理としてみる﹂といふ事については、 一応賛意を表するに吝かでない。  しかし中島氏が、あらゆる思想を﹁綜合調和﹂してみる敬天の思想そ のものを示されないのは遣憾である。この思想が、﹁高遠なる一−大原理﹂ であるならば、それは如何なる構造を持ってるるか、それが如何なる点 で真に独創と呼ぶにふさはしいのか、叉如何にして敬天の思想が神仏老 を包容融和するに至るかの特異なる性格を明示さるべきであると信ず る。  中島氏はこの最も切要なる關鍵を明かにする用意を怠られた為に、三 回に亘るその勢作も点晴を訣くの感を抱くのは、ぴとり吾々のみではあ るまい。又か﹂る論述が如何なる点で諸学者の資料となり得たのか、い さ﹂か疑なきを得ないものである。  この中島氏の所論をそのま∼押し進めたものが、小西重直博士の﹁廣 掌記窓﹂である。淡窓の学派について博士は、  ﹁先生は青年の頃より仏教を研究し、二十二歳の時に重患に罹られし  際には仏教の精神によりて、誓願文を書かれたこともあるが、仏教家  ではない。文老子を研究し老子摘解や析諸等の研究を公にされたが、  器機老子教の仲間に入ることを欲せなかった。且ハの師鋸井父子は古学  の傾向の思想であったが、先生は古学派でもないのである。︵中.略︶先  生は朱子学派でもなかった︵五ご︶﹂ と言はれる。では淡窓の思想は何であらうか。淡窓は﹁真実至誠敬慶的 に真理を求︵五三︶﹂めてみたが故に、 ﹁色々の思想については深く之を検 討し真理と思ふものは之を摂取︵五四︶﹂したのである。然して、 ﹁結局先 生独自の雷干的儒学であり、それが同時に日本的儒学である︵五五︶﹂と断 を下される。しかし乍ら、如何なる点が﹁独自﹂であり、叉日本的と規 定すべきかの教示は遂に聞くことを得ない。これは独り小西博士にのみ 言ふのではないが、かように徒に﹁独自の思想﹂といび、﹁馬事的儒学﹂ とし﹁日本的﹂等と規定するのは、たとへば、遠く雲際に思える山を指 し眺めて山と言ひ雲と呼ぶ類であって、一つの﹁逃げ﹂に過ぎないと思 ふが如何であらう。  高田真治氏の淡窓に開する論説は、 ﹁近世日本の儒学﹂中に牧めてあ るコニ浦梅園の筆記と南豊の儒孝﹂と題する論文が即ちそれである。高 田氏は、 ﹁黒黒を指して老荘学派と為すのは当らぬ﹂とされ、それかと 言って、 ﹁祖篠学派でもなく、朱子学派でもなく、叉単なる折衷構派で もない。淡窓独自の学風を形成してみた﹂とさ拠、更に﹁此の中に於て 骨継が終始一貫した根本思想があり、其れが敬天の二字であることは特 記せねばならぬ﹂とされる事は、前記の諸氏の説を躍襲されたものに外 ならぬ。しかし﹁淡窓の学術の特色である老荘学の研究は、外弁の諸子 研究の影響に依る﹂ものであらうと述べてゐら早る事は、達見であっ て、淡窓は狙棟肇派とは言はれないけれども、租律的なもの葱多分に保 持してみた、その証拠となる有力なものΣ一つである。然し高田氏が、淡 窓が必ずしも祖徐学に従はなかった例証として、 ﹁租徐は電子を重んじ てみるが、結腸は性善論を箸して、孟子を推・尊してるる﹂とされるの は、あまりに割り切った論法であって従ひ難い。例を引かう。門弟が、 コ憲子性善の説﹂について、 ﹁雑学ニハ異議ヲ持スル者多シ、如何力決 定スヘキヤ︵五六︶﹂と問へるに答へて、牛窓は、  ﹁凡ソ毫賢ノ言ヲ立ツル皆主意アリ、其主意ヲ知ラサレハ、取捨ヲ弧柵  スヘキ一審ス、孟子ノ性善ヲ説カレシバ、仁義ヲ郷貫ンカ為ノ張本ナ  リ、当時合従連横ヲ始メトシテ種々ノ衛士競ヒ起り、愚説=非スト  難モ帰スル処ハ利ノ一字ナリ、孟子独リ仁義ヲ云テ一利ヲ云ハス、是  孟子ノ第一義ナル故、開巻梁恵王ノ所二是ヲ掲ケタリ、孟子以為ヘラ  ク、入窯元悪ナル者ナラバ、仁義ノ説ヲ聞キテモ悦フヘキ様ナシ、故  二利害ヲ以テ之ヲ誘フノ外ナシ、然レトモ、性善ナリ、故二仁義ノ説  ヲ聞キテハ、愁々スルナリ、雲量王見牛、未見羊ノ説ヲ聞キテ、大二喜 }

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 ヒ里心二念テ戚々焉々クルコトアリド云ハレシニテ、入性ノ善ヲ好ム  コトヲ知ルヘシ、夫唯性善ナリ、故二人君説ク一一仁義ヲ以テスヘシ、  ︵中略︶是孟子ノ本意ナリし と孟子の性善の説を理解してみる。然らば、 ﹁筍子性悪ノ説濃墨二道ヲ 害スルコトニヤ﹂と質したのに対しては、  ﹁必スシモ然うス、筍子ノ意ハ、儒者杯ノ弊ヲ矯メタル者ナリ、性善  ノ説二溺ル・トキハ、国ヲ治ムル者、或ハ刑罰ヲ廃スル羅文ル、隣国  一二父ハルニモ、武備ヲ廃スルニ至ル、下々ナラバ、我レ入ヲ⋮欺カスト  モ、入二欺カルヘシ、我レ入ヲ奪ハストモ、人山奪ハルヘシ、故二人  心ノ油断ナリ難キコトヲ説キテ、入二用心セシムル者ナリ、土物ノ理  ハ万事一ナリ、蘇秦力合従ヲ説キシバ六国二各近国ノヨキ所アルコト  ヲ知ランメ秦工事ヘズシテ、自立ノ謀ヲナサシム、是性善ノ説、道ハ  得心二其ハリクル者ニシテ、入皆尭舜タルヘシ、外物ヲ借ルニ及バズ  ト云フノ意二君シ、張筆力連衡ヲ説キシバ、六国ノ悪シキ所ヲ挙ヶテ  秦旧事フルニアラサレハ不可ナリト云フコトヲ明ス、是性悪ノ説、人  心ノ悪二流レ易キコトヲ明シテ、聖入ノ礼楽刑政ヲ借ルニ非レハ、国  引治記憶シト云フニ近シ、孟荷蘇張、其入品同シカラスト錐モ、其勢  ハーナリ︵五八︶﹂ と説く事で明かである様に、淡窓は、孟子には孟子の立場を認め、筍子 には荷子としての拠点があることを是認する。このやうな熊谷は、淡窓 を一貫してみる顕署な傾向の一である。  長寿吉博士の、﹁梅風から淡窓へ﹂は、三十絵頁の小冊子ではあるが、 その内容には注目すべき意見が含まれてみる。  とれまで淡窓の激・派について論じた入々は或は老荘激・派と為し、或は 折衷激派と言ひ、或は独自の思想であるとは述べてみるけれども、淡窓 の交友關係について、注意の眼を向けた入は少なかった。前記の高田氏 の一﹁三浦梅園の学風と南豊の儒学﹂には、梅園、万里、淡窓をコニ先生﹂       広瀬淡窓の思懇についての諸税批判 として規定され乍らも、梅園と淡々の五二に至っては、言々別々の存在 であり、その聞には何等の有機的な關聯を持つものとして把握されては みない。それのみではなく、﹁淡窓と梅園とは、直接には学統の關係は ない︵五九︶﹂ものとして考察せられてるる。  然るに長博士は、その標題が示す様に、梅園の学院が淡窓に及んでみ ると言ふ良しい見地を提示されたのである。この学脈は、たとへば、 ﹁深山大谷を発した清洌な水が、明珠を洗ぴ、その光を発し、西端と なって流れ.そして洋々として静かに流れる緩流となった︵六〇︶﹂や、うに ﹁皮上に跡づけられる︵六一︶﹂とされる。  博士によれば、思想学脈を考察する場合に築くべからざる用意が二つ ある。その︼は、その人の﹁二六﹂であり、今一つは、その﹁論説の内 容﹂について見る事である。この第一の立場から博士は、 [,凡そ学脈が 必ずしも師享の關係の現実によるのみでないことは、言ふまでもない。 数百世の間を経た古人の学脈が、後進に由って発揮されたその例は決し て暗くない︵六二、しとされ、淡窓の学統を考察するに当.つても、 ﹁単に、 三門学脈に限って考へ、或は福岡遊学の事集のみに考へ.または唯それ のみを、そのまxに見るならば、総て学説の伝統の興味﹄の大半が失は れ、そして湾.量の無關聯を生すること玉なる︵六三︶﹂と述べられる。そし て博士は、淡窓に影響を与へたものとして、先づ租徐の復古学を挙げら れる。しかしこの事は、既に多くの先学が指摘した所であって、とくに 博士を待つを要しないが、学僧大潮と二心を重視されたことは特記すべ きことである。博士は大潮と南町の師弟關係に眼を向けられ、狙妹学が 南漢には伝り、多くの影響を与へた。叉一方大潮の弟子法蘭は、淡男の 句読の師であった。これ等の關係は、淡窓に﹁老荘学及び仏学の造詣の 心力﹂する所であると説かれてみるのは、達見に頼違ないが、基盤は永 富独短髪や山県周南にも師事し、特に周南からは影響が多かったと思は れるからして、租界牽の伝統を大潮のみに限定される事はいか穿であら 闘 19 口

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広瀬淡窓の思想についての諸税批判 うか。  第二は、淡窓と帆足万里との交遊を極めて重視される。博士は、淡窓 と方里とは﹁所謂盟友﹂であり﹁梅園学脈はこの交遊を通じて必ずや淡 窓に伝承されること重くはなかった︵六四とと﹁想定﹂される。  博士の今一つの立場、即ち学脈を﹁論説の内書﹂によって考察すべき むのとされる事には、如何なる証拠があるであらうか。博土は、 ﹁梅園 の三語の鮪師に比して﹂、淡窓には、析玄、義心、約言があるが、この 外形的の﹁頼似はともかくとして﹂、 淡窓の析玄、そ.の他.殊に義府を見 ると、 ﹁如上の学脈の關係に想到し得る︵六五︶﹂とし、義府、約言と玄 語の丈を引用されて、 ﹁自ら相通する思想傾向︵六六︾﹂があることを指摘 され、この專は、 ﹁未だ見ざる先進への師事の状態が窺はれる︵六七︾﹂と 断定される。憧士が論説の内容に留意されたのは学派識別上の要点であ って賛辞を心しまないが、その例証には必ずしも同調し得ないものがあ る。稽士の示された義府の文は、善言が﹁火、気、水、土﹂を以てこの 宇宙の構成要素と見、所謂五行の説は当らないことを論じたものであ る。次は淡窓が宋儒の所謂眠気の説を認め、造化の妙用あることを明か にした丈である。備士がこ玉に援測された梅園の醜語は、天地の条に見 えるものであるが、梅園は自らの条理学の立場から、天地の形成を形而 上的に論じて、天、地、性、髄の和關を説いてみるのである。天、地、 気、火、水蝕の同一丈字が頻出するからと言って﹁おのつから相通する 思想の傾向﹂は全く認められない。若し夫れ、約言の引用丈句に至って は、その然る所以を知らない。  以上に於て明かになった様に、博士の着眼は卓越してみるけれども、 その立証は証拠不十分の消を免れない。淡窓と万里との交遊は五十年一 日の如きものがあったことは事実である。吾々はこの交遊關係から生す る相互の思想的な影響を半語しょうとする者ではないが、あらゆるもの を尋ねても思想的に交渉があったといふ客観的な資料が如く見出されな いことは難点の一である。又淡窓は儒林評に於て、三浦梅園を  ﹁我豊髭後ニテ牛非輩ノ山雷名ナルハp杵築⋮ノ一ご浦安貞ナリ、安貞ハ条理学ト  云フ事ヲ、自ラ適評タリ、宋磁窮理ノ説二二テ、少シク異ナリ、生涯  仕ヘズ、弟子ヲ教授スルコトヲ事トセリ、従遊ノ者、筑ノ魑井ト相比  セリ、海⋮西ニテ、四方ヨリ生徒ノ多ク聚マルコトアルハ、三浦輻井ノ  ニ先生ヨリ始レリ、三浦ノ門入二、脇義︸郎ト云フ儒者アリ、予が童  幼ノ時、書信往復セシコトアリ、即チ日出ノ帆足愚亭が師ナリ、帆足  モ窮理ヲ好ミ、叉生徒ヲ教授スルコト、三浦ノ学派ヨリ伝フル処アリ  ト覚ユ、安貞ノ子羊齢、予嘗テ相見ス、杵築侯二仕ヘタリ、コレモヨ  キ儒者ナリ、今ハ︷笈セリ︵六八︾﹂ と評してみるが、これは他の﹁儒林の入物﹂と対等の取扱であって、﹁未 だ見ざる先進への師事の状態︵六九︶﹂を表はしてみる色調は見出されな い。若し博士の言はれる様に、梅園が淡窓にとって道統の上の先師であ るならば、その思慕の情を述べる為にも、いま少し異った表現を取るべ きではあるまいか。淡画ほどの蝋型なる心情の持主宰してはその叙述が 飴りに客意的であると思ふ。これが第二の難点である。か転る状態であ るからして博士は論説の内容の相似に、その証を捜られたが、これも依 拠するに足りないことは上述の如くである。tれが第三の難点である。  しかし乍ら現存する威宜園蔵書目録の中に梅園の三語の中、敢語、贅 語の事書が存して居り、或は淡窓の一読を経たかとも思はれるが、しか し梅園と淡窓との關係は、恐らく博士の期待される程に大きいものでは ないであらう。  これまで仔細に検討したところに依って、吾々は淡窓の思想的根拠に 議する諸説の主要なる主張を明かにすることが出來た。淡窓が老子の教 に造詣深きの故を以て老荘学派となす者も、淡荘の一つの特質をよく把 握して居り、叉諸説の折衷こそ淡窓の本領であるとする折衷学派の人々 も亦同様である。進んで梅園の影響ありと考へることに観てすらも一面 楠 20 一

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の真を伝へたものと言ふべきである。要するに諸説は、夫々誤配的なも のを見出して、これこそその思想であるとしたのであって、すべて真を 伝へ、またすべて真を伝へすと言ふべきである。この中にあって、独自 の思想とする入々は、在來の諸説をとる人々に比しては一歩を進めたも のかと思はれたが、検討の結果によれば、後者とその基調に予て何等の 相違もないことが明かになった。これは如何なる点が独自であるかの考 察に怠惰であったが故にその核心を把握し得なかったのである。隔靴掻 痒の感これより甚しきはない。  然らば抑々淡窓の思想的根拠はいっこにあるであらうか。この淡窓の 思想の核心を明かにすることがこの次に為すべき吾々の仕事である。 註 ︵一︶ ︵二︶ ︵三︶ ︵四︶ ︵五︶ ︵六︶ ︵七︶ ︵八︶ ︵九し ︵δ︶ ︵二︶ ︵三︶ ︵三︶ ︵西︶ ︵三︶ ︵宍︶ (一 オ︶ ︵天︶ 夜雨寮筆記、    巻 二、 右  同 目本倫理一二編、    ⋮巻一〇、 β本近世敦育史、 右  同 大日本倫理思想発達史 右 右 右 右 右 右 右 右 右 同 同 同 同 同 同 君 同 型 日本倫理学史 右  同 右  同 広瀬淡窓の思想についての諸税批判 一五頁  序 説 七九八頁 七九九頁 六三七頁 六三八頁 六三九頁 三入二頁 ︵充︶ (一ツ︶ へ三︶ (一 O︶ (一 O︶ (二 l︶ (二 ワ︶ ︵兵︶ ︵毛︶ (一一 ェ︶ ︵完︶ ︵三〇︶ ︵三︶ ︵三二︶ ︵三三︶ ︵三四︶ ︵三五︶ ︵三六︶ ︵三七︶ ︵矢︶ ︵三九︶ ︵四〇︶. ︵璽︶ ︵璽︶ ︵四三︶ ︵四四︶ ︵竪︶ ︵四六︶ ︵碧︶ 淡窓全集、      上巻序交     二頁 右  三 教賢広瀬六窓      三四三頁 日本教識汀史の研究  第 一一韓   一二 Z九頁 右  同 仁橋記聞    巻一〇 原漢文 一〇五頁 右  同 陽脚明全蹴習        巻  一     山ハ丁︸墨 右  同      二十丁一 刀聖広瀬淡窓の研究       一四八頁 右  同       一二五−一二七頁 燈下記聞   巻 教・聖広瀬淡窓の研究 右  同 約言或問 燈下記聞 夜雨寮筆記

右 町

右  同 右  同 教嬰広瀬淡窓の研究 右  同 右  同 右  同 右  同 醒齊目暦 右  同 夜雨寮筆記 教聖広瀬淡窓の研究 二、第一則 巻 三、 巻 一  一応頁 一三三頁 一三五頁  一七頁  コ五頁 七−入頁   六頁   入頁 =二一頁 一三入頁 一四七頁 巻一二下六二五頁 巻四〇   五三〇頁 巻 三    三五頁       一四〇頁 噛 21 一

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︵罠︶ ︵四九︶ ︵吾︶ ︵互︶ (五 ︶ (皿 O︶ ︵茜︶ ︵垂︶ ︵棊︶ (五 オ︶ (丑 ェ︶ ︵尭︶ ︵六〇︶ ︵六σ ︵六二︶ ︵壷︶ ︵茜︶ ︵蛮︶ ︵突︶ ︵六七︶ ︵六八︶ ︵充︶ 広瀬淡窓の思想についての諸説批判 教聖広瀬淡窓の研究 右  同 右  同 右  同 広瀬淡窓 右  同 右  同 右  同 夜雨寮筆記 右  同 右  同 近世ロ本の儒学 梅園から淡窓へ 右 右 右 右 右 右 右 同 同 同 同 同 同 同

儒林評

梅園から淡窓へ 一四〇頁 一四一頁 一四五頁 六七頁 W巻 @ 一一  二六頁   二七一二入頁 四九八一五〇四頁     二二頁 一六頁 二三頁  八頁 二四頁 一 22 輌

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