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「十字架降下」儀式に関する諸考察

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ミラノのサンタンジェロ聖堂における

「十字架降下」儀式に関する諸考察

大 野 陽 子

1992 年に演劇史家 Bernardi は、ミラノ国立古文書館収蔵の手稿と 1670 年代制作とさ れる銅版画(図 1)を基に同地のサンタンジェロ聖堂で聖金曜日に行われたキリストの十字 架降下から埋葬までを再現する儀式を紹介した(1)。手稿は復活祭の準備期間である聖週間 の金曜日に聖堂内にカルヴァリオ山に見立てて設えられた「山 monte」の周囲で行われ た儀式次第を記し(2)、版画は祭服姿の聖職者らが十字架からキリストの体を降ろす様子を 表す。上方二隅に「我々の贖い主への信徒の崇敬をかき立てるため、毎年、このミラノの 街のフランシスコ会聖堂サンタンジェロにて修道士たちにより再現される」「我々の救世 主キリストの死の上演に際し厳律フランシスコ会の修道士たちにより聖都エルサレムで行 われる埋葬のミサの真の構想」と詞書がある。Bernardi はこれをカトリック系修道会で 唯一エルサレムに常駐するフランシスコ会が聖地で行った同種の儀式と関連づけ、この種 の儀式と造形芸術との影響関係がいかなるものか確立すべきと述べている(3)

アリマテヤのヨセフとニコデモが十字架からキリストの遺骸を降ろす場面(マタイ 27:

57‑60、ヨハネ 19:38‑42)は 9 世紀頃からビザンティン美術で造形化され、カトリック圏で はその影響を受けた作例が 10 世紀頃に現れ、ほぼ同時期に聖堂内で聖職者による儀式的 な「十字架降下 Depositio Crucis」(以下、「降下」と省略)の上演が始まる(4)。「降下」にお いて当初、十字架や聖体で象徴されたキリストの遺骸は徐々に彫像で表されるようにな り、13 世紀までには墓への埋葬のため両腕を閉じられる可動式磔刑像(図 2)が登場する。

手稿からミラノの「降下」にもそのような像の使用が窺える。

「降下」やそこで使われた磔刑像に関しては演劇史や美術史分野で研究が重ねられてき たが、イタリアでの事例に関しては現在知られる記録や磔刑像の大半が中部イタリアに集 中すること、中世末期の同地域で「降下」から平信徒による聖史劇が派生したことなどか ら先行研究は主に同地域を対象とする(5)。時代も地域も主流から外れ、使われた磔刑像が 特定されていないミラノの儀式は、磔刑像の包括的な研究に取り上げられることもなく、

イタリアの演劇・祝祭史研究においてもミラノを含むロンバルディア地域(6)に 16 世紀末か ら 導 入 さ れ た 宗 教 行 列「キ リ ス ト の 埋 葬 (Entierro)」や 聖 体 に 祈 る ク ワ ラ ン ト ー レ

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(Quarantore)が注目される中、研究の俎上に上がっていない。

しかし、ミラノの「降下」は以下の点から再検討が必要と考えられる。フランシスコ会 は 14 世紀のイタリアにおいて典礼的「降下」から世俗的な聖史劇の誕生に寄与し、15 世 紀末にはロンバルディアに聖地を模した礼拝堂群に彩色立体像と絵画によりキリスト伝を 表わした巡礼地サクロ・モンテを創建し、17 世紀から 18 世紀にかけて 14 留から成る「十 字架の道行 Via Crucis」を確立するなど、受難信仰の視覚化を刷新し続けてきた(7)。その 彼らが 17 世紀に中世的な儀式を行った同時代的理由は明らかにされていない。また Mâle の指摘以来、宗教劇と造形芸術の影響関係は検討されてきたが、「降下」については主に 中世末期までが対象とされる傾向がある(8)。17 世紀の儀式次第を詳述したミラノの手稿 は近世の「十字架降下」図像を考える上で看過しえない史料といえる。後述するように当 時のロンバルディア地域ではミラノの「降下」と図像の類似する「十字架降下」群像が現 れるのである。

本論ではまず「降下」とそこで使われた可動式磔刑像の歴史を概観し、近年の研究を踏 まえロンバルディアの可動式磔刑像と「降下」上演について把握し、ミラノの「降下」を 歴史的に位置づける。その上で、手稿の記述から儀式の性質、聖堂内での儀式の場を確認 し、エルサレムの儀式との関係を再検討する。最後に手稿に記された像の降下方法を中心 に図像への影響を見ていく。

1 「降下」の儀式と可動式磔刑像

10 世紀頃から西欧では聖金曜日から復活祭に「十字架の礼拝 Adoratio Crucis」「降下」

「十字架奉挙 Elevatio Crucis」「聖墳墓詣で Visitatio Sepulchri」が行われるようになっ (9)。「十字架の礼拝」は聖金曜日の 9 時課から晩課に行われ、聖骸衣を思わせる布に包 んだ十字架を祭壇上もしくは前に置き、覆いを払ってから十字架の磔刑像に口づける儀式 である。聖体拝領を挟んで次に行われる「降下」では、キリストの遺骸を象徴する十字架 や聖体、磔刑像を復活祭まで墓に見立てた場に安置する。聖母らの「聖墳墓詣で」を模し た儀式は復活祭の夜明けに行われ、これに復活を記念した「十字架奉挙」が続く。正式な ローマ典礼に含まれるのは「十字架の礼拝」のみだが、いずれも聖職者がラテン語で、聖 堂の西正面付近、独立した礼拝堂、聖堂中央部に設けられた「十字架の祭壇」、内陣障壁 のいずれかで上演した(10)

「降下」に関する現在知られている最古の記録はイギリスのベネディクト派修道院の 10 世紀頃の活動記録である(11)。当初、キリストの遺骸は十字架あるいは聖体で象徴され、

布で包まれて「聖墳墓」に安置された(12)。13 世紀頃にはキリストは木彫像で表されるよ うになり、肩関節が動く可動式磔刑像が登場する(13)。蝶番など可動の仕掛けは顔料や羊

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皮紙で隠され、髪と髭には動物の鬘が使われ、迫真性が追求された(14)。その種の像の使 用を窺わせる最初の記録は 1370 年のロンドン郊外バーキング修道院の戒律と考えられて いる(15)

現存する記録や作例から中部イタリアのウンブリア、トスカーナ、ラツィオ地方で遅く とも 13 世紀に木彫像による「降下」が始まったとされ、ウンブリアでは従来の儀式的な

「降下」にフランシスコ会が作った俗語の Laude(賛歌)、特に Jacopone da Todi(1236c.‑

1306)による「聖母の嘆き Planctus Virgine」に見られるような激しい感情表現が盛り込 まれた聖史劇『釘抜き schiodamento/scavigliazione』が平信徒の同信会により上演され るようになる(16)。フランシスコ会は広場での説教に際しても演劇的な要素を取り入れて おり、説教師 Roberto da Lecce(1425‑95)は 1448 年の聖金曜日にペルージャでの説教の最 後に、広場に設けた舞台上でキリストやマリアに扮した人物に十字架を担うキリストとマ リアの出会いからキリストの埋葬、哀悼までの一連のエピソードを上演させた。「それか ら彼らはその十字架を置き、そこに用意してあった磔刑像を取り上げ、十字架につけた。

(中略)それから、ニコデモとアリマテヤのヨセフがやってきて、イエス・キリストの体の 釘を抜き、我らの貴婦人の膝に横たえ、その後、キリストの体を碑に置いた」(17)という同 時代の記述から、Tameni や Kopania は十字架の道行では生身の人間がキリストを演じ、

十字架につけられる場面以降は可動式木彫像が使われたとしている。

イタリア最古の可動式磔刑像は Giovanni di Balduccio(1300c.‑49c.)がフィレンツェ洗礼 堂のために制作した磔刑像(1339 年以前、大聖堂造営局博物館所蔵)と推定される(18) 15 世紀には Donatello(1386‑1466)がフィレンツェのフランシスコ会聖堂サンタ・クロー チェのため可動式磔刑像を制作した(19)。擬典礼的な「降下」は民衆的な聖史劇となり、2 世紀に亘り隆盛を極めたが、宗教改革側による偶像崇拝批判や聖体の全質変化の否定を受 けたカトリック教会は、1592 年にはキリストが墓で過ごしたのと同じ 40 時間、聖体を聖 墳墓に見立てた場に安置して祈りを捧げるクワラントーレに許可を与え推進し、像を使っ た「降下」は下火となる(20)。しかし、17 世紀以降も可動式磔刑像を使った「降下」は中 南米をも含むカトリック圏で新たに普及した(21)

2 ロンバルディア地域の可動式磔刑像

ロンバルディア地域では 16 世紀以降、「磔刑」や死せるキリストを囲む聖母と弟子たち による嘆きを表した「哀悼 Compianto」の群像彫刻が主流となったこともあり、単独の 木彫磔刑像に関する綜合的な研究を欠く(22)。可動式磔刑像の作例もほぼ知られておらず、

Taubert は当時ネッラ・ロンガーリ・ギャラリー所有の作例のみしか挙げていない。腕が動 く、体長 100cm のこの像は 14 世紀前半の中部イタリア制作と同定されている(23)

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Kopania はこれに加え、マントヴァ県ボルゴフォルテとブレシャ県トラヴァリアートの作 例を紹介した。前者にはブレシャ―マントヴァ間で主に磔刑像や「哀悼」群像を制作した Clemente Zamara (1475c. ‑1540c.) の 影 響 が 指 摘 さ れ、後 者 は ヴ ェ ネ ト 地 方 出 身 の Francesco Giolfino(15 世紀末‑16 世紀前半)かブレシャ出身の Maffeo Olivieri(1484‑1543) に帰属される(24)。近年の研究でロンバルディアには他にも可動式磔刑像の現存例が判明 している。

ミラノの北に位置するコモのサント・クロチフィッソ聖堂の磔刑像は 16 世紀に奇蹟を起 こしたとして崇敬の対象となり、現在も毎年、聖週間に信徒らが磔刑像に口づける儀式が 行われている(25)。腕だけではなく、頭部も動かせるこの像は、1400 年の聖年にローマ巡 礼に向かったフランスの巡礼が持参した像を翌年、帰途に立ち寄ったコモに残したものと 伝承されるが、修復の結果、トスカーナ制作と同定された(26)。ミラノ―コモ間の町ロ ヴェッラスカにも 2 体の可動式磔刑像が伝わる(27)。教区聖堂の 15 世紀末の像はコモの作 例同様、トスカーナ制作とされ、サンタ・マルタ聖堂の像は様式的にコモの磔刑像からの 影響が指摘され、14 世紀末から 15 世紀初頭制作とされる。

近年、ミラノのギャラリーでパヴィア出身の彫刻家 Giovanni Angelo del Maino(1475c.‑

post 1539)帰属の頭部と腕が動く体長 130cm の磔刑像が展示された(28)。 髪を彫りで表し た後期の群像作品と異なり、鬘の使用が窺え、1505 年から 10 年頃の作と比定されてい る。鬘は del Maino が父親と共に 1496 年に注文を受けた《磔刑像》(カステル・サン・ジョ ヴァンニ教区聖堂所蔵)やコモ大聖堂の《磔刑像》など初期作品に見られる(29)。1500 年頃 の作品とされるミラノ市立美術館応用芸術コレクション所蔵の《磔刑像》(図 2)も修復前 には頭部は鬘で覆われていた(30)。ミラノのギャラリーで紹介された《磔刑像》の来歴は不 明だが、del Maino が修養期を過ごしたコモ圏内は演劇的な十字架降下が特に普及した地 域であり(31)、Del Maino がその時期に聖史劇用に可動式磔刑像を制作したと推測するこ とは妥当と言えよう。

ミラノの東に位置するベルガモ近郊のカラヴァッジョ市役所には一体の可動式磔刑像が 保管されている。これも元来は鬘が使われ、作者は地元の彫刻家と推定されている(32) 一方、ベルガモ北辺の山岳地帯の集落ガンディーノのサンタ・マリア・アッスンタ聖堂博物 館所蔵の《磔刑像》はドイツ語圏出身の彫刻家「聖血のマイスター」に帰属され、1520 年頃制作と比定されている(33)。ベルガモから南に下ったソンチーノ近郊ヴィッラカン パーニャのサン・ベルナルド聖堂の磔刑像は、腕だけでなく、キリストの死の瞬間を表す ため頭部も傾けられる。Facchi は本作を 15 世紀末から 16 世紀初頭にロンバルディア北 辺のアルプス周辺域から現在のスイス南部にかけて作品を残した「サンタ・マリア・マッ ジョーレの彫刻家」に帰属し、ソンチーノに 1477 年に創建された厳律フランシスコ会の

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聖堂由来とした(34)。18 世紀初頭には主祭壇左手に「死せるキリスト」像を安置する「聖 墳墓」があったといい、その頃まで「降下」が行われていたと推測される(35)

ミラノから北西に位置する山岳地帯の小村ヴァラッロに厳律フランシスコ会によって創 設された巡礼地サクロ・モンテには、磔刑像ではないが、可動式木彫像が存在する。巡礼 地は、エルサレムの聖地管理局で勤務し、ミラノのサンタンジェロ修道院で院長も務めた 修道士 Bernardino Caimi(1425‑1500)の指導下で、聖地巡礼の代用として 1498 年に聖跡 を模して創建された(36)。15 世紀末建立の〈最後の晩餐〉礼拝堂(図 3)の主要な像は可動 式の腕を具えている(37)。作者不詳の 13 体の像は案内書の記述から 1514 年以前の制作と 考えられている。同巡礼地の礼拝堂内に設置された像は動かす必要はない。従って、既存 の宗教行列や聖史劇用の像を転用した可能性を指摘できる。

以上のようにロンバルディアでは 14 世紀前半から中部イタリアやドイツ語圏の彫刻家 制作の可動式磔刑像が到来し、15 世紀末から地元の彫刻家の手になる可動式磔刑像が現 れ、「降下」や聖史劇に使われた。一方、ミラノでの受難劇上演の記録は、管見の限り、

1475 年にフランシスコ会士らがフィレンツェから派遣された同信会の祝祭委員と共に復 活劇を上演したという年代記の記述のみである(38)。ソンチーノの厳律派聖堂では 15 世紀 末から 16 世紀初頭に可動式磔刑像で「降下」が行われていたと推測されるものの、17 世 紀以前にサンタンジェロ聖堂で儀式が行われた記録は現在のところ知られておらず、トレ ント公会議後に中世由来の「降下」を執り行い始めたと考えられるのである(39)

3 ミラノのサンタンジェロ聖堂における「降下」

サンタンジェロ聖堂は 1421 年に厳律フランシスコ会ロンバルディア管区の総本部とし て創設され、当初は 12 の礼拝堂を備え、内陣障壁で内陣席と信徒席が分けられてい (40)。ロンバルディア地域の厳律派聖堂では、内陣障壁は天井まで届き、信徒席側に

「磔刑図」を中心に受難伝が描かれるという定型があり、サンタンジェロの内陣障壁もそ の例に漏れなかった。現存例(図 4)から信徒席側に設置された説教壇から説教師が描かれ た受難を示しながら、信徒に受難への「共苦 Compassio」を促したとされる。

サンタンジェロ聖堂(図 5)はイタリア戦争の戦禍を被り、1551 年に市当局が取壊しを決 定し、60 年代には当時のミラノ総督による都市改造に伴い、同じ敷地に Domenico Giunti (1505‑60)設計で旧聖堂よりも拡張したラテン十字平面で左右に 10 礼拝堂を備えた聖堂と して再建された(41)。トレント公会議以降の聖堂建築の規定から内陣障壁は採用されな かったが、身廊と翼廊間に設けられた開口アーチと敷居による段差が聖職者の空間と信徒 の空間を分けている。アーチ部に木彫磔刑像と二天使像が設置され、翼廊奥に置かれた主 祭壇背後が内陣席である。翼廊向かって左に鐘楼、右に聖具室が位置する。ナポレオン支

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配下、1810 年の修道院廃院令により聖堂を離れた修道士らは 1854 年に一旦、聖堂に戻る もイタリア統一後の教会財産の国有化に伴い、1870 年に再び退去を余儀なくされる。

1922 年に修道士が戻り、聖堂は一部、改修され現在に至る。内陣席左右の礼拝堂は戦後

「フランシスコ会の聖人」「磔刑のキリスト」として整えられた。内陣へは聖具室と「フラ ンシスコ会の聖人」礼拝堂から出入りできる。

手稿によると、17 世紀の「降下」は次の次第で行われた。

「暗闇

テネブレ

の朝課の終わり頃」すなわち聖金曜日の夜明け前に「司式者 il cerimoniere」が聖 職者たちを伴い聖具室に儀式の道具を取りにいく(42)。松明や籠を手にした 30 人ほどの祭 服姿の聖職者は「楽師たちが エルサレム入城 もしくは カルヴァリオへの道行 を歌う 中、内陣席側の山の上に」向かい、鐘楼側と聖具室側に分かれて定位置につく。「主役の 司祭 lʼattore principale」が入場し、使徒信条を唱えると、聖職者らは拝跪や一礼、腕を 上げるといった儀礼的な仕草で十字架を礼拝する。「降下役 i depositori」が十字架後方に 掛けられた梯子に上り、茨の冠など受難具をとり除く。次いで、「降下役」と聖職者らは

「十字架降下のための布」を十字架に巻き付けてから、槌で釘を抜き、キリストの遺骸を 降ろしていく。「主役の司祭」、助祭、「塗油係 aromatari」、キリストを運ぶ 4 人の侍者が 布で覆った「木枠 telaro」を持ち上げ、「主役の司祭」がキリストの両脚を掴み、頭部を 鐘楼側に向けて(すなわち身廊に垂直に)キリストを木枠上に横たえる。十字架が降ろさ れ、聖職者らは所定の位置につき、「司式者」の指示で鐘楼側から宗教行列が始まる。行 列が「舞台の中央 in mezo al palco」に来ると、貴族たちが山の麓に黒い「天蓋 baldacchi- no」を運んできて、その下に「キリストが横たえられる」。すなわち行列では 4 人の「運 搬役」がキリスト像を安置した「木枠」を担い、その上に「天蓋」が掲げられたのであ る。

司祭を先頭に隊列を組んだ聖職者らは、世俗の楽師たちの導きでミゼレーレや詩編を歌 いながら歩み、一旦、聖堂から出て、正面入口から再入場する。行列を先導する十字架が 聖堂に入ると、先頭は「聖域 」の階段上に、最後尾は「聖堂中央に置 かれた棺 barra posta nel mezzo della chiesa」の近くに来るところで立ち止まる。キリス ト像が「棺」上に頭部を山側にして安置され、「主役の司祭」と司式者が像を礼拝し、聖 痕へキスし、聖職者らが「キリストは従順であられた」(43)を唱える中、「主役の司祭」と

「塗油係」がキリストを香油で清める。塗油の後、十字架は「聖母の礼拝堂 la capella del- la Madonna」に、「天蓋」は「キリストの礼拝堂 la cappella del Cristo」傍に運ばれ、キ リスト像はこの礼拝堂内の「箱 cassa」に納められ、礼拝される。聖職者たちは聖具室に 戻り、式が終わる。

手稿には「降下役」が十字架からキリスト像を下ろす前に、「キリストの広げられた腕

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が本来の位置にくつろげられるまで」「キリストの腕をとく」(44)と記されている。「本来の 位置」とは銅版画に見られるように両腕を体側に沿わした形を指し、像は肩関節が動くタ イプだったのだろう。また「降下役」がキリストの頭部から「茨の冠」を外した後、「二 人のうちの一人はキリストの頭髪を整え、頭をやさしく垂れるようにする」(45)という記述 から像は生きた体として扱われていたと推測される。

手稿に「顔を民に向け」「民の方を見て」という表現が散見されるように儀式には平信 徒も列席したが(46)、式自体は短白衣

コ ッ タ

や大外衣

プルヴィアレ

など聖体行列や聖体賛美式用の祭服を着た 聖職者が行う。手稿は聖史劇の台本と違って台詞はなく、儀式の間に歌う聖歌や詩編に言 及するのみであり、儀式が典礼に近いことが分かる。「共苦の様子で両手をしぼり」(47) いった感情を示す身振りが演者である聖職者に当てられることもあるにせよ、全般として 彼らの身振りは十字架への口づけや一礼、跪拝、十字架に向けて両腕を挙げるといった儀 礼的なものに留まっている。版画での「主役の司祭」であろう「大外衣

プルヴィアレ

」姿の司祭が十字 架から降ろされつつあるキリストに向けて両腕を挙げる身振りはミサでの聖体奉挙を思わ せ、キリストの体が聖体であると信徒に示している。

Bernardi は聖堂内の精確な上演場所には触れていないが、手稿には場所を特定しうる 文言が含まれている。聖具室から出た聖職者らはまず「舞台」に作られた「[カルヴァリ オ]山の内陣席側」に向かうとあり、「山の内陣席側」という表現から「山」は内陣席内 部ではなく外に設けられたと推測される。聖職者たちが翼廊左手にある鐘楼側と右手にあ る聖具室側に分かれるという文言と考えあわせると、「山」は鐘楼と聖具室の間すなわち 翼廊に作られ、「舞台」とはその周囲を指し、聖堂に再入場した行列の先頭が留まったと される「聖域」の階段は主祭壇前にある階段を指すと推測できる。

先述したように、儀式のうち降下の場面は聖職者たちの空間である翼廊で行われた。16 世紀後半の聖堂改築で内陣障壁は失われたが、改築後も身廊と翼廊の境をなすアーチが信 徒と聖職者の空間を分ける機能を果たしている(48)。銅版画の詞書に「我々の贖い主への 信徒の崇敬をかき立てるために」とあるように、翼廊で行われた「降下」には失われた内 陣障壁の壁画同様の機能が期待されたのである。また、キリスト像の塗油が「聖堂中央に 置かれた棺」上で行われたと記されるが、中世初期の「降下」でも聖堂中央に設けられた

「十字架の祭壇」が「聖墳墓」となっていたことを思わせる。

手稿によると、キリスト像は行列後、「キリストの礼拝堂」に安置される。堂内の「箱 cassa」が聖墳墓に見立てられ、像は復活祭までそこに横たえられていたのだろう。この

「キリストの礼拝堂」は現在、翼廊左にある「フランシスコ会の聖人たち」礼拝堂を指す と考えられている。18 世紀初頭の記録によると、同礼拝堂には 1692 年まで Girolamo Ciocca(1550c.‑1603 以降)  の《キリストの復活》の絵が飾られ、典礼用のキリスト像が棺

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に横たえられていたという(49)。礼拝堂は 1701 年にはカルカノ家のものとなり、《嘆きの 聖母 Addolorata》が設置され、このため、1713 年にはキリスト像は地下礼拝堂の「木製 の櫃の中に」安置されていた(50)。しかし、ミラノ国立古文書館所蔵の 1746 年の記録に は、「嘆きの聖母に捧げられた」「カルカノ家の礼拝堂」に再び「聖金曜日には行列で運ば れる、とても美しい死せるキリストが安置されている」とあり、旧「キリストの礼拝堂」

が再び聖墳墓となっていた(51)。聖堂はオーストリア継承戦争の渦中、1743 から 46 年に おそらくスペイン軍が起こした火災で損傷したとされており、地下礼拝堂はその影響で閉 鎖されたのだろう(52)

「降下」がミラノの行事記録『ミラノ公報』に初めて言及されたのは 1656 年だが、

Bernardi は、そこに以前からの実施を窺わせる記述があること、1630‑40 年代にフランシ スコ会士 Pietro Verniero が聖地エルサレムの聖墳墓聖堂での同種の儀式を記録している ことから、「降下」の開始を 1630‑50 年代としている(53)。ミラノと聖地での「降下」の関 係を考える上で浮かび上がってくるのが 17 世紀初頭にサンタンジェロ修道院院長を務め た Francesco Quaresmi(1583‑1656)である(54)。1616 年以来の通算 10 数年に亘る中東滞 在経験に基づく彼の『聖地解読』(1634‑39)は、西欧におけるエルサレム・イメージの形成 に寄与した代表的な著作に数えられる。彼は 1620 年から断続的にミラノで活動し、56 年 にサンタンジェロ修道院で没すると、聖堂地下に埋葬された。17 世紀初頭から聖地の儀 式を模した「降下」を故郷ローディやルッカに導入したとされており(55)、ミラノにも聖 地に倣った「降下」の儀式をもたらしたのではないだろうか。

Bernardi は 18 世紀にオレッジョの信心会がミラノと同様の式次第で「降下」を行って いたことを例に、サンタンジェロの儀式が聖堂内外で演じられる「降下」のモデルとなっ たと指摘している(56)。先述したソンチーノの厳律派修道院において、18 世紀初頭の記録 に言及される「死せるキリスト」像の設置場所がサンタンジェロ聖堂の「キリストの礼拝 堂」と同様、主祭壇左に位置することは興味深い。ソンチーノにあった可動式磔刑像は 16 世紀初頭以前の作であり、「降下」の儀式もそれに遡ると推測されるが、修道院が 1638 年にミラノ管区に移入されたことを考えると(57)、それ以降、儀式における堂内空間の利 用に関して管区本部の聖堂を参照した可能性は指摘できよう。

ミラノでは大司教 Carlo Borromeo(在職 1564‑84)のカトリック改革で世俗の人間によ る宗教劇の上演が禁じられ、代わって聖職者による宗教行列が盛んになる(58)。1587 年に バルナバ会が彫像を使って町中を巡るスペイン由来の宗教行列「Entierro キリストの埋 葬」を行ったと記録され、1630 年のペスト終息以後はイエズス会の聖堂サン・フェデーレ 内に創設された「キリストの埋葬」同信会が 18 世紀末まで同種の儀式を行ったとい (59)。「死せるキリスト」や「嘆きのマリア」像を持って街中を練り歩く「キリストの埋

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葬」は 17 世紀後半から 18 世紀にかけてイタリア北西部の諸都市に広まり、モンツァの厳 律派聖堂でも 1634 年にこの宗教行列が導入される(60)。こうした流れの中、ミラノの厳律 派本部では中世的な「降下」が「厳律フランシスコ会の修道士たちによって聖都エルサレ ムで行われる埋葬のミサ」の再現という振れ込みで始められた。16 世紀に創設されたバ ルナバ会やイエズス会が新たな形式の宗教行列を行う一方、フランシスコ会は、中世以 来、聖地管理を行う唯一の修道会という特権的な立場と結び付けて修道会と「降下」を差 異化したのである。

4 「十字架降下」図像への影響

「十字架降下」図像に関する先行研究では 14 世紀以降の「マリアの嘆き」の導入などに 見られる感情表現の強調がいかに造形芸術にも影響したかが眼目とされるが、ミラノの手 稿に像の降下方法の詳細な記述があることから、ここではまず同図像におけるキリストの 体の降下方法の表現の変化を確認しておきたい(61)

9 世紀のビザンティン美術において、ニコデモが左からキリストの釘を抜き、ヨセフが キリストの体を支え、マリアがキリストの手を握るか口づけるという図像が定型化し、西 洋はこの図像タイプを 10 世紀頃にフィレンツェのギリシャ系写本を通して受容する。十 字架は低く、ヨセフは地面に立ったまま十字架の方へ手をのばし、下からキリストの体を 支える。しかし 11 世紀のビザンティン美術では十字架はいまだ低いものの、梯子や台が 登場し、西洋でも 12 世紀にはビザンティンの影響の強い地域で同様の図像が現れる。

Benedetto Antelami(1150c.‑1230c.)の浮彫(図 6)では、十字架に掛けられた一本の梯子に 上った男が釘抜きでキリストの左手の釘を抜き、十字架の下に佇むマリアが釘の抜かれた 右手をとっている。13 世紀末頃から「十字架降下」は多人数の構図となり、ドラマ ティックな性質を強調され、賛歌に歌われたような「マリアの嘆き」が強調される。その ような作例として挙げられる Simone Martini(1284c.‑1344)の作品(図 7)では、ヨセフと ニコデモは高い十字架に掛けられた 2 本の梯子に上り、前後から遺骸を支えている。演劇 的な「降下」が普及した 14 世紀の中部イタリアにおいて、重みのある肉体を支えて降ろ すよりリアルな表現が登場するのは偶然ではないだろう。Réau は人体を降ろす難しさに 触れ、16 世紀や 17 世紀の図像では降下役を増やして重量を分配して布の上に遺骸を降ろ す図像が登場したと指摘する(62)。一方、Schiller は図像の歴史を 16 世紀まで辿った後、

末尾でわずかに、時にヨセフが聖骸布でキリストの体を受ける図像が現れると述べるに留 まっている(63)

「降下」に関する最古の記録とされる 14 世紀の「バーキングの戒律」では、「ヨセフと ニコデモが木のイメージを降ろし」と述べられているのみであり、可動式磔刑像の使用が

(10)

推測される「降下」の記録でも同様の簡潔な記述に終始する(64)。聖職者による「降下」

の場合、式次第や歌うべき聖歌を記録する方が重要だったのだろう。聖史劇の台本の場 合、内的な感情の発露である俗語の台詞に比べ、各人物の動作を示すト書きは同様に簡潔 なものである。それらに対してミラノの手稿は降下方法を以下のように詳述している(65)

聖具室側の侍者は上述のごとく十字架に設置された降下用の布(tovaglia)が入った籠 を手に取り、鐘楼側の降下役が取りやすいように差し出す。(中略)/鐘楼側の降下役 は布を長く広げて、もう一方の降下役に投げる。その降下役はそれをすぐに受け取 り、布の中央がキリストの顎のところにくるようにキリストの両腕の下に通す。それ から 2 人は布を必要なだけ捩じって十字架の腕木に巻き付ける。/そして聖具室側の 侍者はキリストの腕を結わえるための 2 本の帯(fasce)が入った籠をとって立ち上が り、十字架にしがみつき、鐘楼側の降下役が帯を取りやすいよう籠を差し出す。2 本 のうち 1 本はもう一方の降下役に渡す。降下役たちはその 2 本でキリストの両腕を十 字架に結わえ、帯の両端が垂れ下がるようにする。そのようにしてキリストの両腕を 結わえると、降下役たちは少しの間、礼拝の姿勢をとる。

「降下役」は「降下用の布」を捩じってキリストの脇の下に通し、布の両端を腕木に巻 き付け、「2 本の帯」でキリストの両腕を十字架にくくりつける。この帯のおかげで、キ リストの腕は釘を抜かれた後も十字架に結わえられた状態のままで「降下役」が両腕を支 える必要は生じず、彼らは釘を抜くという次の動作に移ることができるのである。3 本の 釘を槌で一打ずつ打つという儀礼的な身振りで釘が抜かれるが、キリストの体の降下に際 しては等身大の木彫像を十字架から降ろすという実用に合わせた方法が定められていたの である。抜かれた 3 本の釘を「降下役」が十字架の下に控える「侍者」に渡し、一連の儀 礼的な仕草が交わされ、「助祭は自分の場に戻り、(聖具室係が事前に木枠の上に布を設置 していない場合)侍者の一人が一番近くにいる司祭にキリストを安置する大きな布を渡す」

と「降下」の瞬間が来る(66)

降下役 2 人は、キリストの広げられた腕が本来の位置にくつろげられるまで、十字架 の腕木に結わえられたままの帯とともにキリストの腕をとく。[中略] 2 人の降下役 は十字架の腕木に巻かれた布をほどいて、その布を手にして、自分たちも梯子を降り ながら、キリストの遺骸を少しずつ降ろす。

銅版画では、釘を外され、帯をとかれたキリストの両腕は体側に垂れ下がり、十字架の 横木の高さまで腹が来るまで梯子に上った 2 人の修道士が布を使ってキリストの体を降ろ している。十字架に巻かれた布はキリストの背中から脇の下、胸の前、もう一方の脇の下 へと通されている。1482 年にボローニャで行われた聖史劇『聖母の嘆き』の記録にも、

梯子に上ったヨセフが「まずキリストの体を十字架の横木に布で結わえた」(67)とあり、こ

(11)

の降下方法は遅くとも 15 世紀末には実践され、ミラノの「降下」はそれを踏襲したのだ ろう。

この降下方法は「十字架降下」を描いた絵画作品にも登場する。そのような例として、

フィレンツェのマリア下僕会の聖堂サンティッシマ・アンヌンツィアータの両面多翼祭壇 画表面の中央パネルとして描かれた《十字架降下》(図 8)を見てみよう(68)。主祭壇画とし て 1503 年 9 月 15 日に制作を委嘱された Filippino Lippi(1457‑1504)が 1504 年に没したた め、Perugino(1448‑1523)が制作を引き継ぎ、1507 年に《十字架降下》の下方とプレデッ ラ、裏面の《聖母被昇天》を完成した。

十字架の横木左右に掛けられた梯子が 2 本の帯で横木にしっかりと縛られ、3 人の男が 梯子に上り、キリストの遺骸を降ろそうとしている。キリストの両腕からは釘が抜かれ、

梯子のより上方で 2 人の男が左右からキリストの両腕を掴み、残る 1 人がキリストの胴部 に両腕を回して体を支えている。十字架の足下で赤い衣を着たヨハネらしき若者が布を 持った手で師の足を押さえている。十字架の横木の左端、釘の傍にはタッセルのついた帯 が緩く結わえられている。十字架の交差部の結び目からのびた部分が右側の梯子上の男の 肩にかかり、男は腕を結わえていた布を解いたところと思しく、左手で帯の中ほどを掴ん でいる。横木左端の帯の結び目が緩んでできた輪の中にはキリストの手が収まっていたの だろう。帯の傍に釘抜きがあり、つい先ほどまでキリストの手が釘で十字架に打ち付けら れ、釘を抜く前に帯でキリストの手首が横木に縛られていたと想像させる。用済みとなっ た帯は風に翻っている。

Sebregondi は布の動きを、場面の動揺を強調する内的表出の拡大という、従来の本図 像の展開史の流れに則って解釈している(69)。しかし、Lippi と Perugino による両面祭壇 画は、トレント公会議後に内陣障壁が取り壊されるまで《聖母被昇天》が内陣席側、《十 字架降下》が信徒席側を向く形で設置されていた。聖史劇と同じ方法でキリストの体が降 ろされているのを目にした信徒たちは、劇で目にした登場人物の感情表現を思い出し、画 中に読み取り、演劇を見るように心を動かされたのではないだろうか。

この図像は Lippi 派の作品の他、シエナの豪商のためソドマが同地のサン・フランチェ スコ聖堂内の一族礼拝堂の祭壇画として描いた《十字架降下》にも現れる。1502 年 3 月 1 日付の遺言状で注文主は「われらが主イエス・キリストの受難並びにピエタ」で礼拝堂を 飾るようにと指示している(70)。「十字架の道行」から「復活」までの 5 場面から成るプレ デッラの中央に「ピエタ」が描かれ、「十字架降下」の真下に十字架から降ろされたキリ ストの体を聖母たちが悼む場面が来る。同地方での聖史劇で強調される「マリアの嘆き」

を組み入れた構成である。

ミラノの「降下」ではキリストの腕を結わえただけでなく、胴に巻いた布を使って下ろ

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していたが、それを思わせる図像は 15 世紀半ばから 16 世紀末にかけて散見され、おそら くは擬典礼劇や聖史劇の上演が図像に影響を与え、ある一定範囲で定型図像となったのだ ろう(71)。17 世紀のロンバルディア地域では、1611 年に出版されたヴァラッロのサクロ・

モンテの案内書の挿絵(図 9)と 1630 年代建立の〈十字架降下〉礼拝堂内の群像(図 10)に 同様の降下方法が見られる。案内書は 1590 年代から巡礼地の再整備を監督し、堂内の図 像まで指示していたノヴァーラ司教 Carlo Bascapè(在位 1593‑1615)がイエズス会士に執 筆させ、挿絵はドイツ系の版画家 Giovanni Teodorico Coriolano(1590‑1649)に帰属され (72)。群像は 40 年代制作と推定されるが、造営計画は 1602 年の Bascapè による教令に 基づく(73)。ミラノの「降下」の推定される開始時期は、案内書の準備時期よりも下るた (74)、案内書への図像の登場については、聖史劇での実践例が案内書図像の典拠とされ た可能性、Bascapè やヴァラッロのフランシスコ会士が聖地での儀式次第の知見を何らか の形で得ていた可能性が想定できる。挿絵と群像を比較すると、案内書で示された構想に 巡礼者の心を動かす表現が付与されたことが分かる。前者では銅版画図像と同様にキリス トの胸に巻かれた帯が明示され、後者ではキリストの体が斜めに傾ぎ、聖母たちの感情表 現が激しい身振りと騒然とした様子で表わされ、場面の劇的な雰囲気を高めている。

同様の図像はドモドッソラにフランシスコ会の分派カプチン会が 1658 年に「十字架の 道」をテーマとして創建したサクロ・モンテにも現れる(75)。同年造営の聖十字架の巡礼聖 堂の地下にはエルサレムの聖墳墓をそのサイズまで模した〈聖墳墓〉礼拝堂が作られ、

1660 年に死せるキリスト像が置かれた(76)。巡礼聖堂の地階には、地下の〈聖墳墓〉の上 に来るように〈十字架降下〉が設けられ、1664 年に同主題の群像が完成する。(図 11) 群 像はヴァラッロの先例よりも更にミラノの「降下」の銅版画図像に似る。地元貴族 Giovanni Matteo Capis(1617‑81)は巡礼地創建に関する記録で、ヴァラッロの創建者 Caimi がドモドッソラに聖地再現を計画したと記すほど故郷への聖地再現に意欲的であ り、聖墳墓の正確な再現のために Quaresmi の著作も参照したと考えられている(77)。聖 地の再現だけでなく、聖墳墓聖堂の儀式を模したミラノの「降下」に関心を寄せ、群像制 作において彫刻家に参照させた可能性は否めない(78)

聖地再現と写実性の追求を目的としたフランシスコ会の両巡礼地にとって聖地での儀式 を模したミラノの「降下」は無視しえない参照元となったのだろう。

以上見てきたように、ミラノの降下に見られた帯や布を使ったキリスト像の降下方法は 遅くとも 15 世紀末には行われていたと考えられ、ほぼ同時期の造形表現においてもこの 図像が登場する。可動式磔刑像の使用によって実現可能な形でキリストの遺骸を降ろす様 子を表した「降下」は、同主題の造形芸術の格好の典拠となったといえよう。先行研究で は、中世からルネサンス初期にかけての「十字架降下」図像における登場人物の内的表出

(13)

の展開に関心が払われてきた。しかし、重い肉体の降下という観点から見ると、造形表 現、演劇的表現のいずれにおいても 14 世紀から 16 世紀にかけて徐々にリアリティが追求 されていったのである。17 世紀以降、「十字架降下」図像は Rubens が打ち出した劇的な 対角線構図や心理表現の影響が強くなっていくが、トレント公会議後も可動式磔刑像を 使った「降下」が行われていたこと、ミラノの儀式が周辺部の造形作品の参照元になって いたことを考えれば、トレント公会議以降の降下の図像表現に関しても新たな視点で検討 を加えていくことができるだろう。

( ) Archivio di Stato di Milano,

, ms., s.d., ff. 1v-7v. 本論では Bernardi による書き起こし (Bernardi 1992, pp. 237‑43, 10‑26nn.)を参照。 Bernardi は手稿の年代を 18 世紀半ばに同 定しているが、根拠は示されていない。

( ) 同館には、図像や詞書は同一で、献辞が異なる 2 種類の版が所蔵されている。Bernardi は 1991 年 の 著 作 で は Antonio Teodoro Trivulzio (生 年 不 詳 ‑1678) へ の 献 辞 や 銅 版 画 家 Simone Durello(1641 生。1665‑1712 の活動記録)の記名がある版を挿画にし、1992 年の論 文ではミラノの弁護人・公証人組合への献辞があり、記名のない版を紹介している。同組 合の長が市内の宗教儀式に招待されたのは 1741 から 59 年である(Salvi, p. 35)ことから考 えて、記名入りの前者が 1670 年代版である可能性が高いだろう。Durello については、以 下を参照。http://www.treccani.it/enciclopedia/simone-durello̲(Dizionario-Biografico)/

( ) Bernardi 1992, pp. 248‑9.

( ) 十字架降下の図像については Mâle 1923 [ed. 1951], pp. 101‑4; Schiller 1968 [ed. 1972], pp.

164‑8; Réau 1957 [ed. 1977], pp. 513‑18、「降下」については Brooks 1921, Young 1933, Corbin 1960, Parker 1978 による研究を参照。

( ) 独墺、北伊の 14‑16 世紀の木彫磔刑像を研究した Taubert-Taubert 1969, Taubert 1978 の 研究、中部イタリアの木彫像に関する Lisner 1970 による研究が木彫像研究の端緒を切っ た。近年、Kopania 2010 は西ヨーロッパ全域に範囲を広げ、可動式木彫像を総合的に研究 している。

( ) ロンバルディアは現在ではイタリアの行政州の呼称であるが、歴史的には現在の州域を超 えた地域も含む文化圏を形成していたことから、イタリアの美術史研究では現在の州の隣 接地域も含めたロンバルディア地域(aree lomberde)という用語が使われる。

( ) サクロ・モンテについては拙著、Via Crucis については Signorotto 1983, pp. 145‑54 を参 照。

( ) Mâle [ed. 1951], p. 143. Corbin, Belting は中世美術との平行現象を語っている。Bernardi も 2005 年の論文では 14‑5 世紀を扱っている。Bernardi 2005.

( ) Brooks 1921, pp. 30‑49; Young 1933, vol. 1, pp. 117‑122; Taubert [ed. 2015], pp. 45‑46.

(10) Brooks 1921, pp. 53‑58; Parker 1978, pp. 125‑41. 中部イタリアの聖史劇は橋梁形の内陣障壁 の上もしくは前を舞台とした。Hall 2006, pp. 222‑4; 杉山 2013, pp. 61‑68.

(11) Young 1933, vol. 1, pp. 118‑120; Parker 1978, p. 89.

(12) Young 1933, vol. 1, pp. 112‑48; Parker 1978, pp. 125‑28.

(13) Young 1933, vol. 1, pp. 112‑48.

(14)

(14) Taubert-Taubert 1969, pp. 79‑12; Kopania 2010, pp. 101‑2. Taubert は儀式に関する記録か ら考えて現存するよりも多くの作例があったと推測している。Kopania によると、126 体 の作例が現存し、記録に言及されるのみの事例は 23 例を数える。Kopania 2010, p. 239, pp.

246‑87.

(15) Young 1933, vol. 1, p. 164. Kopania 2010, pp. 70‑71.

(16) Corbin 1960, pp. 210‑14; Belting [ed. 1990], pp. 156‑9; Bernardi 1991, pp. 200‑13, 221‑22;

Lunghi 2000, pp. 113‑32.『釘抜き』については Bernardi 1991, pp. 204‑13; Bernardi 1992, p.

247, 39n を参照。同種の儀式は現在もサルデーニャやシチリアで行われる。Bernardi 1991, pp. 96‑98; Bernardi 1992, pp. 246‑7, 1n.

(17) puoi puoseno giù la dicta croce, e pusonce uno crucifisso che ce stava prima, e dirizaro su la ditta croce, [...] E puoi venne Nicodemo e Ioseph ab Arimathia, e scavigliarono el corpo de Jesu Cristo, quale lo poseno in gremio della Nostra Donna, e puoi lo miseno nel monumento . Bernardi 1991, p. 222 より引用。Tameni 2004; Kopania 2010, p. 48. ペルージャのサン・ドメ ニコ聖堂の財産目録に残る劇の小道具の記録からキリストは生身の人間と木彫像によって 演じられていたと Belting は推測している。Belting [ed. 1990], p. 159.

(18) Taubert [ed. 2015], cat. 4; Lisner 1968, p. 11.

(19) 1415 年頃制作。体長 168cm。Lisner 1968, p. 115, 1n; Taubert [ed. 2015], cat. no. 5; Kopania 2010, cat. no. 55.

(20) Powell 2012, pp. 121‑139.

(21) Kopania 2010, pp. 207‑38.

(22) Casciaro によるロンバルディアの木彫研究で扱われた 156 点中、浮彫や祭壇衝立等を除く 64 点の彫像のうち、単体の磔刑像(聖母やヨハネを伴う磔刑は除く)は 7 体、一方、「哀悼」

群像は 11 体を数える。Casciaro 2000.「哀悼」群像については同時代のロンバルディアの 聖史劇が典拠と考えられている。Andenna 2005, pp. 27, 10‑14nn.

(23) Taubert 1969, cat. no. 15; Taubert ed., 2015, cat. no. 15; Kopania, p. 38, 12n, cat. no. 67.

(24) Kopania 2010, cat. no. 41, cat. no. 96.

(25) Marazzi 2001, p. 18.

(26) 体長 128cm。Tamani 2004.

(27) Di Corato, 2009, p. 40.

(28) Cara 2015, pp. 53‑57. 図版は以下を参照のこと。https://www.academia.edu/16881595/

SCULTURE̲INEDITE̲DEL̲RINASCIMENTO̲LOMBARDO [最終アクセス日:2018 年 3 月 18 日]

(29) Pescarmona 1998, p. 86; Casciaro 2000, p. 133, 323, 331.

(30) Pescarmona 1998, p. 85; Casciaro 1998, p. 177, 194, n. 39; Casciaro 2000, p. 324.

(31) Andenna 2005, p. 27. ミラノから西から湖沼地帯北部までを Andenna はコモ圏とする。

(32) Pacia, p. 39.

(33) 体長 165cm。現在も四旬節に博物館から聖堂へ移され、儀式に使用されている。

p. 14. 以下の図版を参照のこと。http://www.lombardiabenic ulturali.it/opere-arte/schede/BG140‑00002/?view = tipologie&offset = 995&hid = 10&sort

= sort̲date̲int [最終アクセス日:2018 年 4 月 10 日]「聖血のマイスター」は 1500 年から 25 年の間にチロルやオーストリアのケルンテン州で活動した彫刻家。オーストリアのハイ リゲンブラット修道院での活動歴からこう呼ばれる。Franci 2010, p. 66.

(34) 体長 130cm。Facchi 2012, pp. 31‑36. 堂内は 1697 年まで受難伝が描かれた内陣障壁で内陣 席と信徒席が分かれていた。

(35) Facchi 2012, p. 39. ガンディーノでのように古い像が儀式に使われる例を考えれば、ヴィッ

(15)

ラカンパーニャにある可動式磔刑像も 18 世紀まで使用された可能性は否めない。

(36) サクロ・モンテ創建については拙著第 2 章を参照のこと。

(37) 1976, pp. 215‑16; Gentile 1996, p. 255. 作者として地元の彫刻家、あるいは 1509‑20 年まで造営を取り仕切り、「優れた才と精神を備えた木工師 Maestro di legname di grandʼingegno e spirit」と 1574 年に記録されたフランシスコ会士が想定されている。

(38) Bernardi 1991, p. 223, 162n. 年代記に「城壁の中の」「フランチェスコの広場」で上演され たとあることから、当時は城壁外であったサンタンジェロ以外のフランシスコ会の聖堂前 での上演と考えられる。イタリアにおける聖週間上演に関する著作で Bernardi が 16 世紀 以前のミラノの事例として挙げた唯一の例である。フィレンツェ共和国の外交としての聖 史劇の派遣については以下を参照のこと。杉山 2013, p. 9.

(39) 現在サンタンジェロ聖堂のアーチに掲げられている木彫磔刑像を 15 世紀末創建の旧聖堂 由来とする指摘があるが、検証はされていない。Giorgi 2017, p. 27.

(40) 聖堂の沿革については、Mosconi-Olgiati 1972: Ponticeli-Mulazzani 2002; Giorgi 2017、イタ リア北西部の厳律派聖堂の内陣障壁(図 4)については Nova 1983, pp. 197‑216 を参照。

(41) Ponticelli-Mulazzani 2002, p. 37, 29n.

(42) Bernardi 1992, p. 238, 11n. Triduum sacrum(聖木曜日から聖土曜日までの期間)は朝課と賛 課に応唱歌「闇が下りた Tenebrae cactae sunt」が歌われるため、Tenebrae と呼ばれる。

朝課で灯された蝋燭が交唱や応唱の間に 1 本ずつ消され、賛課が終わると聖堂は闇に包ま れる。Young 1933, vol. 1 p. 101.

(43) 新約聖書「フィリピの信徒への手紙」(2:8‑9)

(44) I depositori scioglieranno unitamente le braccia del Cristo, [...] sinche vadino distese al loro luogo.

(45) uno di loro lʼaggiustare i capelli e lasciar cadere, adagio peroʼ la testa del Cristo.

(46) con la faccia rivolta al popolo , guarda il popolo . 1675 年 4 月 17 日の『ミラノ公報』に は「非常に多くの人々がこの信心深く敬虔な儀式を見に駆け付けた(in grandissimo nu- mero erano accorsi a vedere siʼ pia e divota funzione)」とあるという。Bernardi 1992, p.

243.

(47) con stringer le mani in atto di compassione (48) Ponticelli-Mulazzani 2002, pp. 26‑27.

(49) Biffi [ed. 1990], p. 124.《キリストの復活》は現在は聖具室にあり、Girolamo Ciocca の署名 と 1585 年の年記がある。Morigia は同作はサンタンジェロ聖堂にあると記し(1595, ed.

1619, p. 277)、Torre(1674, p. 263)は聖具室にあると特定している。Caselli(1827, p. 217)は

「聖堂から引きあげられ」、聖具室にあると記している。Girolamo Ciocca と同作について は 以 下 を 参 照。https: //www. academia. edu/28945250/Studi̲sul̲pittore̲milanese̲Girola mo̲Ciocca

(50) Mosconi-Olgiati 1972, p. 103. フランシスコ会の歴史家 Burocco は「内陣と主祭壇の下に地

下礼拝堂もしくは地下聖堂が整えられ、時にはそこの主祭壇で聖金曜日にミサが司式さ

れ、祭壇の上にある木製の美しい櫃の中に安置された我らの死せる救世主の崇敬に満ちた

像を崇敬する。目下[1713 年]のところ、毎年、聖金曜日に敬虔な埋葬の儀式を伴って像

は十字架から下ろされ、亜麻布に包まれ、壮麗だが、憐れみに満ちた宗教行列の形で修道

院 を 巡 り、儀 式 の 後、こ の 墳 墓 に 横 た え ら れ た (Sotto il Choro ed allʼaltare maggiore

veggesi disposta un Cappella o Chiesetta sotteranea, nel di cui Altare principale gli Venerdì

di Quaresima altre volte celebravansi messe venerandosi sopra di esso in una bella Arca di

legno riposta la divota immagine del nostro Redentore morto, quale nel Venerdì Santo

anche di presente con cerimonie divote e funebri, [...] ogni anno si depone dalla Croce ed

(16)

involto in un lenzuolo si porta processionalmente con pompa compassionevole per il convento, dopo la quale funtione ivi nel sepolcro si deponeva.)」と記している。Mosconi- Olgiati 1972, p. 115 より引用。

(51) 1737 年の Latuada の著作には「キリストの礼拝堂」は登場しないが(p. 311)、1746 年の文 書では「カルカノ家の礼拝堂」が「嘆きの聖母に捧げられ(dedicata alla Vergine addolora- ta)」「聖金曜日には行列で運ばれるとても美しい死せるキリストが再び置かれた(vi è ri- posto il bellissimo Cristo morto che nel venerdi santo si porta in processione)」とある。

Chiusa 1990, p. 156 より引用。

(52) 1870 年には「聖金曜日の哀しい儀式で使われていた死せるキリストの木彫像が木彫の棺に 納められている嘆きの聖母の祭壇。嘆きの聖母の礼拝堂正面には、いまや封鎖された主祭 壇地下の聖堂に由来する「ピエタ」もしくは「聖母の膝の上の死せるキリスト」を表した 板 絵 が 掲 げ ら れ た (Altare dellʼAddolorata, con un sarcofago di legno scolpito, in cui si custodisce, pure in legno, un Cristo morto, che serviva le meste cerimonie del Venerdì Santo. In faccia alla Cappella dellʼAddolorata fu posta una tavola proveniente dallo scurolo dellʼAltare Maggiore ora otturato, che rappresenta una Pietà o Cristo morto sulle ginocchie della Madonna.)」:Malvezzi 1870, pp. 12‑13. 手稿は「キリストの礼拝堂」が聖墳墓であっ た時期、すなわち 1701 年以前もしくは 1737 年以降に書かれたと考えられる。

(53) 1646 年から 51 年の『公報』には「降下」は取り上げられていない。Bernardi 1992, pp.

245‑6, n. 36, 37. フランシスコ会士 Bonifacio da Ragusa の 1551 年の著作では聖体を聖墳墓 聖堂内のカルヴァリオ山から聖墳墓に移す宗教行列が報告される。Corbin 1960, p. 172. 一 方、聖墳墓聖堂での可動式磔刑像を使った「降下」は 1604 年の聖金曜日の儀式に参加し たフランス人 Antoine Cestier の著作に記され、フランシスコ会の歴史家 Luca Wadding (1588‑1657)も『フランシスコ会年鑑』(1625‑54)で 1623 年のエルサレムでの儀式次第を記 している。ただし像を十字架から降ろす詳細は語られていない。Kopania 2010, pp. 231‑33.

(54) http: //www. treccani. it/enciclopedia/francesco‑quaresmi̲%28Dizionario-Biografico%29/

Quaresmi は 1616 年から 19 年、26 年から 36 年まで中東に滞在し、聖地とカルヴァリオ 山の地図を収録した著作(

を出版した。

1620 から 26 年、36 から 44 年、48 から 56 年にはミラノで活動している。

(55) Malossi 1776, p. 152. ローディのサン・フランチェスコ聖堂では 18 世紀初頭に「険しい山の 模型上で sopra un erto monte posticcio」で「降下」が行われていた。Signorotto 1984, p.

152, 7n.

(56) Bernardi 1995, p. 608, 64n. フランシスコ会モデルを「降下」が基にしたと Bernardi が推測 するサルデーニャ各地で 17 世紀以降、聖週間に行われるようになった「釘抜き sʼiscrava- mentu」では磔刑像を下ろすため布が使われる。Bernardi, 1991, p. 500n.

(57) それ以前、修道院はブレシャ管区に属していた。Facchi 2012, pp. 37‑39.

(58) Bernardi 1991, pp. 253‑8.

(59) Bernardi 1991, pp. 274‑306.

(60) Bernardi 1991, pp. 303, 306‑9.

(61) Mâle [ed. 1951], pp. 101‑4; Réau [ed. 1977], pp. 513‑18; Schiller [ed. 1972], pp. 164‑68;

Sebregondi 2004, pp. 50‑65.

(62) Réau [ed. 1977], p. 517.

(63) Schiller [ed. 1972], p. 168.

(64) Joseph et Nichodemi, de ligno deponents Ymaginem . Young 1993, vol. I, p. 164 より引用。

(17)

(65) Bernardi 1992, pp. 239‑40, 17n: Il chierico dalla parte della sagristia prenderà il cestino con dentro la tovaglia per la deposizione [...]/ Il depositore dalla parte del campanile spiega al longo la tovaglia, e la gitta al compagno, che dovrà prenderla allestamente, e si manderà sotto alli bracci del Cristo, avertendo che il mezzo della tovaglia corrisponda sotto il mento di Cristo, di poi la francano a i bracci della croce intortigliandola quanto bisogna./ Fatto questo, il chierico dalla parte della sagristia prenderà il cestino con dentro le due fascie per legare le braccia del Cristo, e levato in piedi ed attaccato alla croce, lo accosterà al depositore dalla parte del campanile acciò possi pigliale le dette fasce, una delle quali consegnerà allʼaltro depositore ed unitamente con quelle legheranno alla croce i braci del Cristo, lasciando pendenti lʼestremità di dette fascie. Legate in tal modo dalli depositori le braccia del Cristo stanno un poco in atto dʼammirazione.

(66) Bernardi 1992, pp. 240‑41, 20n: uno deʼ chierici consegnerà al più vicino sacerdote le tovaglia grande per riporvi dentro il Cristo, (quando antecedentemente non sia già stata dal padre sagristano aiutata sul telaro). I depositori scioglieranno unitamente le braccia del Cristo, accopagnado con le fascie che le tenevano legate alla croce le stese braccia sinche vadino distese al loro luogo. [...] I depositori slegano la tovaglia intortigliata alli bracci della croce e, scendendo a poco a poco, accompagnano con la stessa tovaglia in mano il corpo di Cristo.

(67) prima lighi il corpo de Christo a la croce a traverse con un panexello : Tameni 2004;

Kopania, p. 49.

(68) Nelson 1997, pp. 84‑94; Zambrano‑Nelson 2004, p. 383, 606‑7. 修復により上部は Lippi が完 成していたと確認された。また新たな記録の発見で、契約当初より《十字架降下》が信徒 席側と定められていたことが判明している。Nelson 1997, p. 84.

(69) Sebregondi 2004, p. 60.

(70) Lippi の同主題作から影響を受けていることから制作は 1510 年頃と考えられている。

Zambrano 1990, pp. 83‑84.

(71) イタリアにおける図像の伝播については別途、考察したい。

(72) 拙著 232 頁。

(73) Debiaggi 1996, p. 51.

(74) 拙 著 124 頁。案 内 書 は 一 種 の 計 画 案 で も あ り、実 現 し て い な い 礼 拝 堂 場 面 の 図 像 は Bascapè の指示に基づくと考えられる。

(75) DellʼOmo 2009, pp. 33‑41; Longo 2009, pp. 89‑107.

(76) Longo 2009, p. 93.

(77) Longo 2009, p. 89, 93.

(78) 群像を制作した Dionigi Bussola(1615‑87)は 45 年からミラノ大聖堂の彫像制作を担ってお り、フランシスコ会の「降下」の実見は可能だった。Bussola については以下を参照。

http://www.treccani.it/enciclopedia/dionigi-bussola̲(Dizionario-Biografico)/

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