国文学研究資料館紀要第五号︵一九七九年三月︶
要旨﹃可笑記﹄は﹃徒然草﹄の形式を襲った随筆であるとされ︑その関連を認めることのできる箇所も少なくな
い︒しかし︑﹃徒然草﹄との決定的な違いは︑その文体であろう︒﹃可笑記﹄の文体は︑㈲説明的な表現を補なって達
意平明を旨とすること︑ロ同意語同類語を多用してたたみ込むこと︑白一つの文型を過剰なまでにくりかえすこと︑等
を特徴とする︒これは舌耕の口調の特色でもある︒その意味するところについて検討してみたい︒
なお︑本稿の題目は︑文中で触れる口頭発表︵日本近世文学会昭和五十一年度春季大会︶の折りのものである︒その
発表の内容が題目と違ってしまった経緯について︑後に述べる通りである︒ここに長すぎた宿題を提出して︑責めをは
たすことにしたい︒ ﹃可笑記﹄と講釈
渡辺守邦
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仮名草子随筆類と呼ばれる一群の作品は︑講義︑講釈︑講談︑夜咄などの講説と関連があるとされている︒その作
者たちが︑多少ともそれらの講説に関わった閲歴を有すること︑くりかえしや同意語の反覆を多用し︑俗語や諺を交
えて︑たたみ込む︑舌耕者の口調を妨佛させる特有の文体であること︑との二点から説明づけられている︒また︑仮
名草子に︑しばしば活用される同一の例話や引用も︑先行作品からの摂取利用なのではなく︑講演者でもあった作者
たちの脳裏に残った︑講説の席で頻用された話柄が顕現したもの︑という考えも︑そこから導き出される︒
﹃可笑記﹄の場合を例に︑例話や引用が︑講説の場で用いられたものを出自として認められるかどうかを確認する
作業を︑かつて試みたことがある︒講説の側の材料として﹃徒然草﹄の注釈書をとりあげた︒﹃徒然草﹄が近世初頭
に入って︑爆発的とも言うべき人気を博した書物であり︑盛んに講説の対象となったことは︑あらためて述べるまで
もあるまい︒﹃寿命院抄﹄が講釈をもとにしたものであり︑﹃野槌﹄の著者林羅山が若年のころ︑公開の講義を強行
して︑公卿階級の箪篭を買った経歴の所持者であったことも有名である︒﹃徒然草﹄の注釈書は︑講義︑講釈の書留
めであったり︑注釈書をもとに︑新たな講義や講釈が行なわれた︑という意味で︑二重に講説的である︒﹃可笑記﹄
︵寛永一九年刊︶以前に刊行された﹃徒然草﹄の注釈書は︑﹃寿命院抄﹄﹃野槌﹄の二点のみであるが︑それ以後刊
行の書の中にもたとえば﹁師説﹂などという形で︑古い講義や講釈の内容が留まっている︑とすることができる︒
このような考えのもとに﹃可笑記﹄と﹃徒然草﹄注釈書とを対照するとき︑数少なくない共通話柄を指摘すること
ができた︒その結果を口頭発表することになり︑レジュメも出来上り︑資料のまとめにとりかかった段階で別の材料
の出現に戸惑うことになった︒林羅山の啓蒙的仮名抄﹃尼言抄﹄﹃童観紗﹄である︒﹃可笑記﹄の例話や引用のう
『可笑記』と講釈(渡辺)
ち︾原拠を漢籍とするものの多くが︑これら二書所収の記事と重なり合い︑しかも座右に置いて・ヘージを繰っての利
用であると認めなくてはならないのであった︒口頭発表は︑すでに提出してしまっていたレジュメに載せた題名その
ままで︑しかし内容は新たに出現した資料に即したものに変えて行なわなければならなかった︒
﹃可笑記﹄が﹃厄言抄﹄や﹃童観紗﹄を材料に用いているという事実から︑漢籍ダネ以外の例話や引用について
も︑耳からの知識に基いたものではないと推測してみなくてはならない︒つまり︑題材に関しては︑講説との関連は
影が薄れるのであるが︑別の面において両者の関連性は︑なお検討に価いする問題として残るもののようである︒講
説との関連に関してのいくつかの問題点を検討することを通して︑﹃可笑記﹄という作品の特異性を考えてみること
﹃可笑記﹄巻二1羽は︑漢籍に仰いだ例話をもとに論が進められている典型的な一話であるが︑直接依拠した典籍
を詮索することから始めてみたい︒次に掲げるのが︑その全文である︒
まなこ むかし︑もろこし楚の項羽と云る大将はおそろしくたけき人にて︑眼をひらきいかりにらまれければ︑いかなる
大剛のつはものも︑みなかうべをかたふけ︑おそれをの上き︑ひれふしけると也︒
かやうにおそろしき大将なれども︑戦場にて諸卒疵をかふむり候へば︑疵より流る及血を︑かうふみづから吸と
って︑なさけ深きしかたなれども︑欲ふかき人にて︑物をくれられぬ大将なれば︑かうふのなさけは女の人をあ
はれむがごとしとて︑たれノ\もおもひつかず︒かくのごとく欲ふかき人なるゆへに︑しぜん知行をとらせんと にしよう︒
一
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作戦行動において属将を信頼することができず︑恩賞を与えるに当っても潔くなかった項羽の絹介なひととなりを例
に︑他人に金品を与えるに際しての心得を説いている︒
ここに用いられている例話は︑漢の高祖の御前で韓信が行なった項羽の人物評に依ったものであり︑原拠は﹃史
⁝⁝然臣嘗事之︒請言項王之為人也︒項王嗜曜叱庇︑千人皆廃︒然不能任属賢将︒此特匹夫之勇耳︒項王見人恭
敬慈愛︑言語嘔々︒人有疾病︑涕泣分食飲︒至使人有功︑当封爵者︑印別敞︑忍不能予︒此所謂婦人之仁也︒
これが﹃史記﹄の該当箇所である︒両者を比べ合せてみるとき︑ほぼ全面的に重り合うものの︑項羽の慈悲深い一面
を︑﹃可笑記﹄において︑戦場で兵卒の疵に口をつけて血を吸ったというエピソードをもって説明している部分が
﹁人有疾病︑涕泣分食飲﹂という﹃史記﹄の表現から離れていることを知る︒この部分を﹃可笑記﹄と同様にしてい
るものがあったならば︑それが直接の典拠ということになるであろう︒次に掲げるものが︑当該箇所をそのように表 記﹄の惟陰侯伝︒
現している︒ て︑朱印を出す時には︑いかばかりおしくやおもはれけん︑いく度も其朱印をひらきては巻︑まきてはひらき︑ 紙のけだちやぶる上までくれかねられたると也︒ かるがゆへに︑もらひたる人︑うはぺにてはうれしがるふりをすれども︑そこにてはあざけりひぱうしてうとみ はてけるといひつたへり︒さるにどに︑漢の高祖にはつゐにたふかひまけて︑めっぽうせられぬ︒ されば︑物をとらせんには︑さらりと気味よくとらすべし︒さあらぱ︑もらひたる人も︑一しほかたじけなく思
漢ノ高祖︑韓信ヲ以テ大将軍トシ︑其教ヲ間ント有ケレハ︑韓信答ヘテ申スハ︑今天下ヲ争フハ項羽也︒項羽噌 ひよろこぶ也︒
『可笑記』と講釈(渡辺)
ある︒ 億叱瑳︑千人皆廃トテ︑項羽ヱッノ︑ト云テ人ヲシカレハ︑千人万人モ皆恐レ首ヲタレテヒレフス如クナレト モ︑衆将ヲ仕フ事アタハス︒独り我身一人ノケナケヲ頼ムホトニ︑匹夫ノ勇トテ恐ル︑ニタラス︒ 又士卒ノ疵ヲ蒙ル時ハ︑項羽自ラ其血ヲスヒ︑ロニテハ懇ロニスレトモ︑恩賞俸禄ヲアタュル事アタハサレハ詞 婦人ノ仁ナリトテ女童ナトノ人ヲ憐レム体ナレハ︑用二立カタシ︒ 印ツフルレトモ不能与事ト云テ︑項羽軍二勝︑功有者二知行ヲクレントテ︑既二其印ヲ椎セトモ︑惜ム心アルニ
ヘママ︶ ョリテ︑幾度モ巻シ開ヒシ︑其印ノ別ル︑迄二不与へ也ト申ケリ︒
ソレ人二物ヲクル︑ナラハ︑クルヘキ時二気味ョククルレハ︑受ダル者モ一入悦喜スヘキニ︑クレヌカクレマシ
キカト種々二思案シテ時日ヲ移スハ︑国主ノ道二非ス︵下略︶︵﹃盾言抄﹄3段付︶
項羽が士卒の疵を吸ったというエピソードの原拠を詳かにしない︒あるいは
シ ス 呉起為掌魏将ゞ|攻坐中山晃軍人有二病ムレ疽ヲ者︽呉子自晩室其血ヲ︸︵﹃説苑﹄巻六︶
という呉子の逸話を流用したものであろうか︒この挿話を﹃可笑記﹄﹃届言抄﹄が共有し︑表現までも酷似するこ
と︑それ以外の部分もすべて﹃盾言抄﹄中に存在することlたとえば﹃史記﹄には記されていない﹃可笑記﹄段末
の︑他人に金品を贈るに際しての心得も︑﹃盾言抄﹄のうちに︑国主が恩賞を与える際の心得として述べられるとこ
ろと重なり合っているlを見出し︑﹃可笑記﹄巻二l胡の直接の典拠として﹃盾言抄﹄を擬することができるので
みよう︒ 典拠である﹃盾言抄﹄は ﹃可笑記﹄が﹃盾言抄﹄をどのように利用しているか︑あるいは離れているかについて︑右の例をもとに検討して
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進められていることがわかる︒ ①項羽噌億叱藍︑千人皆廃トテ⁝:. ②士卒ノ疵ヲ蒙ル時ハ::: ③印ツフレルレトモ不能与事卜云テ:.⁝ ④ソレ人二物ヲクル︑ナラハ:::
という四つの段落から成っている︒①l③が﹃史記﹄に依ったものであり︑④が項羽の逸語から得た羅山の所感であ
って︑教戒の言にもなっている︒そして︑①l③の内容は︑それぞれ順に
①項王暗躍叱庇︑千人皆廃
という准陰侯伝の中の辞句それぞれの注解なのであり︑﹃盾言抄﹄のこの一話は︑語義を釈することを中心に文章が
︑︑
︑︑︑ しかし︑より詳しくみるとき︑①と③とがそれぞれ﹁噌曜叱嵯︑千人皆廃トテ﹂﹁印ツフルトトモ不能与事卜云テ﹂
と︑辞句の注解の形式を採っているのに︑②においては﹃厄言抄﹄が﹃史記﹄から離れてしまっていることに気づ
く︒﹁人有疾病︑涕泣分食飲﹂という表現を︑﹁士卒ノ疵ヲ蒙ル時ハ︑項羽自ラ其血ヲスヒ﹂という具体的なエピソー
ドに置きかえ︑続けて﹁ロニテハ懇ロニスレトモ︑恩賞俸禄ヲアタュル事アタハサレハ︑婦人ノ仁ナリトテ女童ナト
ノ人ヲ憐レム体ナレハ︑用二立カタシ﹂として︑③に入って行くが︑﹃史記﹄では︑このあたり︑﹃盾言抄﹄の②③に
相当する例話に項羽の﹁婦人之仁﹂の実体を語らせているのであって︑﹁婦人之仁﹂という語は︑③の末尾に置かれ
ている︒﹃盾言抄﹄では︑﹃史記﹄の語釈という原則から離れた︑この②のうちに︑早くも﹁婦人ノ仁﹂の語を使用 ②人有疾病︑涕泣分 ③印別敞︑忍不能予 ①項王暗躍叱庇︑千人皆 ②人有疾病︑涕泣分食飲
『可笑記』と講釈(渡辺)
この点に関して﹃可笑記﹄も同じである︒﹃盾言抄﹄②の﹁恩賞俸禄ヲアタュル事アタハサレcに相当する表現
として﹁欲ふかき人にて︑物をくれられぬ大将なれば﹂と書き︑さらに③に相当する部分の冒頭に︑再び﹁かくのご
とく欲ふかき人なるゆごと言っている︒﹁かくのごとく欲ふかき﹂の﹁かくのごとく﹂とは︑原拠である﹃史記﹄
の原文に立ちもどってみるならば﹁印測敞︑忍不能予﹂のことなのであり︑﹁かくのごとく欲ふかき人﹂であったか
らこそ項羽は﹁婦人之仁﹂と評され﹁女の人をあはれむがごとしとて︑たれノ\もおもひつか﹂なかったlという
論理の運びになるはずなのである︒そのような論の運びに﹃可笑記﹄がなっていない理由は︑﹃届言抄﹄の②に存在
する倒叙を倒叙と気づくことのないままに︑﹃盾言抄﹄の行文に沿って︑そのまま叙述を進めているところにある︒
﹃可笑記﹄がこの一話全段にわたって︑そのように︑﹃盾言抄﹄に忠実であるかというと︑必ずしもそうではな
い︒﹃厄言抄﹄の①に当る部分のうち︑﹁衆将ヲ仕フ事アタハス︒独り我身一人ノケナヶヲ頼ム︵﹃史記﹄で﹁然不能
任属賢将︶﹂の意味の記述を省いて︑﹃可笑記﹄では︑州恐れられていた︑㈲﹁なさけふかき﹂面もあった︑例欲深か
った︑という項羽の三つの性向を︑﹁:::州ども︑回ども︑州ども.::.﹂と︑逆説の接続辞を連発して無造作に結
び︑それゆえに﹁女の人をあはれむがごとし﹂と世人が信頼を寄せなかった︑と結論して︑①と③とを直接つなげて という文言を︑ここに坐 :.﹂のことなのである︒ してしまっている︒そのために起るであろう﹃史記﹄から逸脱を恐れ︑﹁恩賞俸禄ヲアタュル事アタハサレハ.:⁝﹂ という文言を︑ここに補うという配慮を施している︒﹁恩賞俸禄ヲ...:﹂とは︑つまりは③の﹁印ツフルレトモ⁝
び︑それゆえに﹁女の人坐
一つにしてしまっている︒
このような荒っぽいまとめかたによって﹃盾言抄﹄の言う項羽の二つの側面のうち︑﹁婦人ノ仁﹂のみを残し︑
﹁匹夫ノ勇﹂の方を消去しているのであるが︑むしろそれが﹃盾言抄﹄の論旨に即することになっている︒この逆説
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は︑項羽の逸話の部分だけではなく︑﹃盾言抄﹄3段全段を視野に容れて眺めるとき︑納得がいく︒﹃盾言抄﹄におい
ゴカロ て︑項羽のこの一話は︑﹁罪〃疑ヲハ惟︽軽クセ雲・功ノ疑ヲハ惟レ重クセ詞・﹂という﹃書経﹄の文言を見出し語とする段に︑﹁功
ノ疑一/ハ惟雌重クセョ﹂の方の解釈に関連して︑その付けたりとして︑行を改めて載せられているものである︒先に述べた
ように︑﹃盾言抄﹄では︑惟陰侯伝を一句づっ語釈する方法で文章が進められているが︑羅山は﹃史記﹄の記述に牽
制されたのであろう︑︿匹夫の勇﹀︿婦人の仁﹀と︑﹃史記﹄の記事に即してそのままたどっている︒しかし彼が准
陰候伝を利用してここで言わなければならなかったことは︑﹁ソレ人二物ヲクル︑ナラハ︑クルヘキ時二気味ョククル
レハ⁝:.﹂と④で総括的に述べているところからも明らかであるように︑恩賞を与えるのに逵巡しがちであった︑つ
まり﹁功〃疑ヲハ惟レ重クセョ﹂との教えに違背した例としての項羽のことなのであり︑彼の︿婦人の仁﹀なのであって︑
︿匹夫の勇﹀への言及は必ずしも必要ではなかった︒﹃后言抄﹄にあるく匹夫の重▽に関する記述は︑﹃史記﹄本文
に密着しすぎたがため︑あるいは︿婦人の仁﹀を話題にするならば︿匹夫の勇﹀に触れないのは片手落ち︑と考えず
にはいられない︑儒学者としての既成観念にとらわれたがための賛言であった︒
﹃可笑記﹄の作者がこのように深読みしたとは思われない︒もし彼がそのように慎重であったとしたならば︑︿匹
夫の勇﹀を省いた後の文章の補綴に︑もっと慎重であり︑あのようにぎくしゃくした文章のままに放置したりはしな
かったであろうから︑である︒如偲子は﹃盾言抄﹄の④の︑恩賞を与えるに際しての心構えの箇所に着眼し︑﹃可笑
記﹄の他の段でもしばしば展開する主君︵大名︶論の一端に加えるべく採用したのであり︑この主題になじまない記
述を切り捨てただけなのである︒結果として︑それが﹃盾言抄﹄からの離れとなったのであるが︑この離れも所詮は
﹃盾言抄﹄の掌中から離れるまでには至っていない︑ということになるであろう︒
『可笑記』と講釈(渡辺)
たとえば︑項羽の︿婦人の仁﹀を説明しようとする︿印ツフルレトモ不能与﹀において︑知行の印を﹁朱印﹂と
し︑﹁其印ノ別ル︑迄二不与へ也ト申ケリ﹂を﹁紙のけだちやぶる鼻までくれかねたると也﹂と︑なめらかな和文に
言い換えている箇所︑あるいは
クルヘキ時二気味ョククルレハ︑受ダル者モ一入悦喜スヘキニ
を
、
さらりと気味よくとらすべし︒さあらぱ︑もらひたる人も︑一しほかたじけなく思ひよろこぶ也︒
として︑﹁さらりと﹂という口語を挿入したり︑﹁悦喜﹂という熟語を﹁かたじけなく思ひよろこぶ也﹂と識してい である︒
項羽噌億叱嵯︑千人皆廃トテ︑項羽ヱッノ︑ト云テ人ヲシカレハ
という原文の引用を交えた文を
戎なこ 眼をひらきいかりにらまれければ
と意訳してあっさりと済ませている箇所等に端的に表われている︒如偲子は表現の細部までをも忠実に移しかえよう
とはせずに︑漢籍からの引用文を頻繁に交えて話を進める﹃盾言抄﹄のやや生硬な文章を︑大胆な言い換えによっ る箇所︑さらには︑ 題材的にあるいは主題的に﹃盾言抄﹄の掌中から離れられてはいないのであるが︑文体あるいは表現においては別 一一
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あるいは
︑︑︑︑︑ いかばかりおしくやおもはれけん︵惜ム心アルニョリテ︶
などと︑適当にことばを補って︑親切で説明的な表現にしていることにも注目させられるのであり︑
●●●●● ●●●●●●● ●●●●● おそろしくたけき人にて・・・・・・みなかうぺをかたふけ︑おそれをの生き︑ひれふしけると也︒かやうにおそろしき て︑な空
また︑
なさけ深きしかたなれども︑欲ふかき人にて
●●●● ●●●●●●● ●●●● 欲ふかき人にて︑物をくれられぬ大将なれば.⁝・・かくのごとく欲ふかき人なるゆへに ●●●●●●●●●●●●● いく度も其朱印をひらきては巻︑まきてはひらき
このように︑同じことばあるいは同義語を反覆することによってたたみ込む表現に富むことにも気付く︒
この文体は何に基くものであろうか︒能の文体に関して︑中村格氏は︑能の古曲を文章として黙読するとき︑われ
われに煩わしさを感じさせる︑同義語・同類語の重複︑冗舌などの剰餘表現を︑外山滋比古氏のことばを借りて︑リ
ダンダント︑リダンダンシーと呼び︑伝達の過程における損耗度をあらかじめ考慮に入れて︑同類の情報を豊富に送っ
ておくことから生じるものであって︑話しことばあるいは語り物文芸の文体に特有な現象︵1︶︑とされる︒﹃届言抄﹄
との比較によって﹃可笑記﹄巻二I的の文体の特徴として︑わかりやすさを旨として平易を心がけていること︑こと
ばを適当に補いつつ冗漫と感じられるほどに説明的であること︑同意のくりかえしを多用してたたみ込む調子に富む ︑︑︑︑︑︑ 疵より流るふ血を︑かうふみづから吸とって︵項羽自ラ其血ヲスヒ︶ なめらかな和文に転じている︒ 大将なれども
『可笑記』と講釈(渡辺)
むかし︑さる人の云るは︑それ万の物をかはゆく思いてうあいせんにも段々次第あるべし︒
と始まる︒この書き出しのうちに︑すでに﹁かはゆく思ひてうあいせん﹂という文選読み式の同義の反復が行なわれ
ている︒﹁段々次第﹂とは︑省略あるいは飛び越しを許さない段階的な順序の意︑如偲子独特の用語である︒﹁かは
ゆく思ひてうあい﹂することの﹁段々次第﹂とは何か︒以下しばらく文章をたどってみることにしよう︒
先︑父母をはじめ︑主君︑妻子︑兄弟︑親類︑他人︑畜類︑鳥類︑虫のたぐひ︑草木までをものこす事あるぺか を挙げてみることにしよう︒ 冗舌で煩填な︑外山氏や中村氏の言われるリダンダントな表現は︑例として掲げた巻二l釣にのみ限るものではな
く﹃可笑記﹄全編にわたって︑さまざまな形で︑そしてしばしば用いられている方法である︒典型的ないくつかの例 こと︑等を抽出し得るのであるが︑いま︑比較の対象に用いている﹃盾言抄﹄自体が口語文をも加味した仮名抄であ ることを併せ考えるならば︑﹃可笑記﹄はリダンダンシーが豊富であって︑話の文体にいちじるしく近いもの︑とい うことになるであろう︒
巻五l布は
むかし︑
と始まる︒こ
ている︒﹁段
この順序で﹁段々次第﹂がある︑という︒その説明は︑
先︑父母をいとおしく愛して︑其あまりをもって主君をいとおしく愛し︑其あまりをもってさいしをいとおしく
ら 先 ず 、
◎ 上 , 、
一一一
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愛し︑其あまりをもって兄弟をいとおしく愛し:⁝ゞ
と続く︒﹁段々次第﹂は︑ここに明らかであり︑詳説の必要はあるまい︒ところで︑途中で引用を打ち切ったこの文
章は︑先の引用にもある通りに︑さらに︑親類︑他人︑畜類︑鳥類︑虫のたぐひ︑草木にまで及ぶが︑そのいずれも
が︑﹁:::をいとおしく愛し︑其あまりをもって:::﹂という措辞を反覆することによって行なわれている︒ここま
でに述べられたところは﹁かはゆく思ひてうあとすることの理想的な状態の開陳であるが︑この先は︑現実の別扶
である次のような文章をもって継がれている︒
しかるに︑世間の人々︑みな父母をすて生さいしを愛し︑主君をすて鼻兄弟を愛し︑しんるいを捨て上・⁝:
この段落においても︑冒頭に述べられた順序に従って︑﹁父母﹂から始まって順次﹁虫のたぐひ︑草木﹂に及ぶ﹁段
々次第﹂が︑それぞれの間に﹁:.⁝を捨て上..::を愛し﹂という措辞をただの一回も省略あるいは簡略することなく
丁寧に反覆することによって︑尽くされている︒
例を変えることにしよう︒巻三l班には︑孝行や忠功︑学問に他念の混じることを戒めている︒遺産相続を目論ん
だ孝行は作り孝行であって不孝行であり︑知行や出世を目的とした忠功は作り忠功であり︑金銭や名誉を求めての学
問は作り学問であることを述べたのち︑邪念を混じえない孝行や忠功︑学問精励のうちに︑財宝も名誉も埋まってい
ることを言うが︑その部分は︑次のような構文になっている︒
人の子としては孝行をするはづよと斗思ひ他念なく真実に孝行をすれば︑その孝行のうちに.⁝:もみなことノ︑
くこもれり︒又人の臣としては忠功をするはづよと斗思ひ他念なく真実に忠功をすれば︑其忠功の中に:::も皆
︵ママ︶ ことノ︑くこもれり︒又人の弟子としては学文をするはづよと斗思ひ他念なく真実に学文をすれば︑其学文の中
に⁝⁝もみなことノ︑くこもれり︒
『可笑記』と講釈(渡辺)
て︑時理の二一
の場合などは︑ また︑一つの文型を︑対称的な辞句を用いてくりかえしたならば︑
︵ママ︶ よき主君に仕へし人は生れつきにかたなれども︑其主君の善にしたがふ家老出頭はうばいの善にひかれて漸々に
よくなる︒わるき主君につかへし人は生れつき大かたなれども︑其主君の悪にしたがふ家老出頭はうばいのあし
きにつれて漸々にわるくなる︵一I犯︶
の例のように︑漢詩文の対句に類似した表現となる︒﹃可笑記﹄においては︑むしろ︑
我方より悪口をすれば︑人我を悪口す︒我方より不礼をしかくれば︑人又我を不礼す︒我方よりあたをすれば︑
人又あたを報ず︒我方よりうそを云かくれば︑人又うそをつきかへす︒︵二19︶
と︑反覆が二句に止まることなくくりかえされるのが常であり︒
我まへなるかさかぶりに対してわがはらのたつやうに︑わがうしろなる人又我に対してはらがたつべし︒われ左
よりおされてはらのたつごとく︑わが右の人又腹がたつべし︒我うしろよりおされてはらのたつやうに︑我前な
る人又腹がたつべし︒︵−1W︶
のように︑執勧としか言いようのないくりかえしであることを︑むしろ通例にしている︒巻五l姐で︑﹁人間におい
て︑時理の二つを分別し︑心得べき事也・﹂と冒頭に結論的に言ってから︑﹁時理の二つと云は﹂として行われる説明 たものにすぎない︒ .⁝:としてはnUをするはづよと斗思ひ他念なく真実にnUをすれば︑其nUの中に︒⁝:も皆こと/︑くもれり
という文型の中のブランクを﹁孝行﹂という語で充たした文と︑﹁忠功﹂﹁学文﹂で充たした三つの文を並べて置い これは
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Aナル時ハBナル時ヲ思上︑Bナル時ハAナル時ヲ思上
という文型に還元することのできる十四対の対置的反覆が羅列される︒つまりこの一話は︑十六聯にも及ぶ対句的叙
法の反覆によって終始されているのであり︑この文型から外れるのは︑冒頭と︑﹁少もゆだんすべからず︒﹂という結
語とだけ︑というありさまである︒
もはやこれ以上の例証を追加して︑﹃可笑記﹄の謹みに倣う必要はあるまい︒むしろ︑いままでの諸例から︑さき
に﹃厄言抄﹄3段と﹃可笑記﹄巻二I胡との比較から明らかになった︑
㈲︑説明的なことばを補うことによって︑達意平明を旨とすること︒
︒︑同意語︑同類語を多用してたたみ込むこと︒ と終るまでに︑ に始まって
という特徴に︑新たに
白︑一つの文型を︑過剰なまでにくりかえすこと︒
という一項が追加できることを言わなくてはならない︒
白に関してなお言えば︑ある提言を行なって︑その事理の説明を︑論理の種み重ねによって行ったならば帯びるで
あろう抽象性を嫌って避け︑思いつくかぎり全ての具体例を網羅することによって代えようとするものであったり︑ 春の花さく時には秋のもみぢせん時を思ひ︑秋のもみぢする時には春の花さかん時を思ひ︑ おさまりてしづかなる時にはみだれてさはがしかる寺へき時を思ひ︑みだれてさはがしき時にはおさまりてしづか なるべき時を思ひて︑少もゆだんすべからず︒
『可笑記』と講釈(渡辺)
記﹄の文体か鐸
のようである︒ 論理的な表現の中に挿入する場合でも︑即事即物によって抽象性を薄めようとする意図にに発するもののようであ る︒また︑一つの文型をくりかえすことによって醸し出されるリズムが︑ある種の呪言にも似た効果を発揮して︑論 理を超越した説得力を持つに至ることを期待しての所為とも考えられる︒しかし同時に︑そこには羅列のための羅 列︑くりかえしのためのくりかえしに走る傾向の存することにも留意しなくてはならない︒巻五l銘の場合︑﹁Aナ ル時ニハBナル時ヲ思上︑Bナル時ハAナル時ヲ思上﹂という文型が十六回にわたって反覆されるということは︑こ の文型自身の中に︑すでに対句的反覆を蔵しているのであるから︑﹁..::ナル時ハ⁝:.ナル時ヲ思上﹂という措辞 が︑三十二回くりかえされているということなのであって︑尋常ではない︒単調なくりかえしがもたらす煩わしさを 考慮に入れたならば︑必ずしも効果的な表現技法とすることはできない︒筆の走るに任せたがゆえの冗舌︑というこ
文章がリズミカルになる︑冗漫になる︑この矛盾を︑例のリダンダンシーという概念が解消してくれる︒冗漫と感
じるのは︑文章として黙読するがゆえなのであり︑これが語られた場合を想定して読むならば︑そこに生ずる感懐が
リズミカル︑なのである︒つまり︑﹃可笑記﹄は語りの口調をもって行なった文章とすることができるのであり︑この
ように考えることによって︑その文体の特徴の白のみではなく︑㈲もロもともに納得がいくことになる︒その語りが︑
どのような種類のものであったかを明らかにすることができないが︑おそらく︑講義︑講釈︑講談︑夜咄など︵2︶の
うち︑あまり高度の聴衆を対象にしない種類の講説l舌耕の名で呼ばれる程度のものlであろうとの推測が︑﹃可笑
記﹄の文体から感じとることができ︑如偏子に︑そのような種類の語りに関与した閲歴を想定することができるもの とになる︒
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彰考館蔵﹃百人一首紗﹄は︑田中宗作︑田中伸両氏によって︑如偲子の著作であることが明らかになった︒これは
﹁学問的な所作というより︑一般読者の層を予想してのことで︑啓蒙的な意義をつよく認める﹂︵3︶ものであり︑
﹁あるいは如偲子自身このたぐいの講釈を実際に行った上での草稿であったかと考えられる﹂︵4︶ものである︒その
ような種類の︑そしてそのような程度の内容であるにもかかわらず︑執筆に当っての如偲子の準備は︑通りいつぺん
のものでなかったようである︒読み進んで行くうちに︑次のような記述に出合うはずである︒
︵ママ︶ 一とせ青連院尊円親王御自筆の百人一首の注本を拝見せしに.::.とありき︒其説︑飛鳥井殿の注本︑又細川玄旨
注本︑あるひは法橋昌琢︑兼与などの注釈見聞たりしにも︑さはうけた主はらず︒︵5︶
ここに如偏子の取材源が明かされているのであるが︑﹁見聞たりしにも﹂という言いかたが︑講義︑講釈など耳から
する取材とともに︑﹁注本﹂を縮くことによって得たもののあったことを物語っている︒この引用に関する限り﹁注
本﹂からの目による取材の方が数は多い︒如偲子の取材源はこのように︑文献を播くという形を採る場合が主だった
ものと推測できるのであるが︑それを語り︵講説︶の口調をもって表現︑表記したもの︑とすることができよう︒
如偲子は舌耕に関与したにちがいないIこの推測が新たな問題を提起する︒﹁講釈師見てきたような嘘を言と
とは︑その話芸についての非難ではなく︑話の内容に関して言ったものである︒講義や講釈には︑﹁ここに例えを引
くならば﹂として︑和漢古今の故事が多く利用される︒それらは﹃論語﹄や仏典などで著名なものを除いては︑類書
あるいは故事成語集など︑手近かで簡便は書物に基く場合も多かった︒それらの書物は簡便ということの反面とし
四
『可笑記」と講釈(渡辺)
東方朔与丞相公孫弘借車馬書
が正しい名称であり︑﹃童観紗﹄は︑このうちの傍点した五文字を省いて簡略化していることがわかる︒この五文字
を加えて読むならば︑枯れた木橦︑すなわち﹁身上おとろへすりきりはてたる﹂状態で貧窮下にある人物は︑丞相の
地位にある公孫弘であるはずがなく︑公孫弘に車馬の借用を申し入れた東方朔自身でなければならない︒﹁木橦云々﹂
とは︑窮乏に苦しむ相手を鼓舞する意を寓したものではなく︑貧は士大夫のいつとき甘んじなくてはならない仮の姿 と︑東方朔が︑詞 類聚﹄によれば︑ て︑抄出であることから生ずる簡略化とか︑前後の文脈からの遊離という欠陥を持つことになる︒一方︑講説の場に おいては︑具体性︑即物性が要求される︒この二つの間隙を︑原拠に立ちもどって確かめる作業を省略して行なおう とする営為を衝いたのが﹁見てきたような嘘を言い﹂なのであろう︒もちろん︑その間隙を誤りなく充顛するに足る 学識を所有する者の場合には問題ない︒しかし舌耕の徒と呼ばれる者たちが︑原拠を確認するのと︑こじつけによっ て合理化する安易な方策との︑どちらを採ったかは︑語らずとも明らかであろう︒如偏子は︑そのどちらを採ったで
東方朔が公孫弘に宛てた手紙をもとに︑人の一生には栄枯盛衰があり︑盛衰のあることが長久のもといであること
を述べる段︵三1m︶がある︒それは﹃童観紗﹄W段の︑ ムクケカ サカ
シ東方朔与ブルー公孫弘↑|書二云ク︒木橦夕量死単朝二栄フ︒士稽亦不二長ク貧シヵラ|也︒
アサカホ に依ったものとすることができる︒この書磧を如偏子は
東方朔といへる人︑ともだちの公孫弘といふ人︑身上おとろへすりきりはてたる時︑文をつかはす︒
と︑東方朔が︑公孫弘の貧窮に同情し︑奮起を促したものと理解して︑文章を進める︒しかし︑この手紙は︑﹃芸文 あろうか︒
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これが如偲子の漢学の程度を示している事例とするならば︑﹃可笑記﹄巻二l肥は︑学殖の限界を︑その場限りの
安易な方策で糊塗している例とすることができる︒﹁謹言へうりと云物はおそろしき物かな﹂と言って︑無実の罪に
泣いた菅原道真が︑悲痛な心情を吐露した詩を引用する︒それは
月光ハ似クレ#モレ鏡二無シレ明ラムルレ罪ヲ風気如クナレト毛し刀〃不し破〆愁
随こし見当随シ|アレ聞皇皆惨燥此ノ秋独作ル我ヵ身/秋
であって︑﹁九月十三婁﹂の作とされる︒このような形で載せられると︑七言絶句に見まがうが︑実は﹃菅家後集﹄
に収められた﹁秋夜九月十五日﹂と題した七言律詩の後半二聯なのであり︑﹁黄萎顔色白霜頭況復千餘里外投昔
被栄花替組縛今為艇滴草莱囚﹂という七言二聯とあいまって︑一篇を形づくっているのが原型である︒このような
大胆な切りすてを行なった理由はなにか︑という疑問とともに︑些細なことではあるが︑延喜元年九月十五日のこの
詩を︑﹁九月十三婁﹂の作としている点も気がかりになる︵6︶・これらの疑問を次の引用が解決してくれるもののよ 詩を︑︒
うである︒ と胸を張ってみせた︑東方朔の衿侍を込めての言だったのである︒如偲子は︑東方朔と公孫弘の立場を全く逆に理解 しているが︑その原因は︑省略を施しすぎて︑文意のあいまいになってしまっている﹃童観紗﹄を鵜呑みにしたこと にある︒
段︶︵7︶ ﹁罪なくして配所の月をみむ﹂と云につきて菅右相の事おもひあはせられ侍る︒菅相西府に左遷せられて︑九月 ︑︑︑ 十三夜ノ詩二曰︑昔へ被全栄華管組二縛セ|今ハ為全艇諦草莱j囚ゞ|月光ハ似し老し鏡二無シレ明カスコトレ罪?風気如ナレ#モレ 刀ノ不し破〆愁ヲ随ヒレ見当随〆聞豊皆惨懐此秋独作全我身ノ秋!|この詩をよめば満身の愁あり︒Q野槌﹄五
「可笑記』と講釈(渡辺)
これは﹃徒然草﹄第五段の﹁顕基中納言のいひけん︑配所の月︑罪なくて見ん事︑さも覚えぬべし﹂への注解から逸
脱して︑羅山が博識を披瀝する箇所の一節である︒﹃野槌﹄の成立が元和四年であることは︑序文によって明らかで
あるが︑初版の刊年は寛永年間3という漠然としたもの以上には狭めることができず﹃可笑記﹄の成立年次寛永十
三年ないし十九年との前後を明確にし得ないうらみはあるものの︑如偲子が羅山の著述に親灸していたこと︑あるい
は﹃可笑記﹄に﹃野槌﹄と例話や引用を共通にするいくつかの段があること︵9︶等をもとに︑ここに掲げた道真の心
情吐露の詩の場合にも︑﹃野槌﹄を典拠として想定してみることができる︒
このような推測が許されるとしたならば︑先の二つの疑問のうち︑﹁九月十三婁﹂は﹃野槌﹄の﹁九月十三夜ノ詩﹂
にそのまま従ったものとして問題がなくなる︒また七言絶句に見まがう仕立てについての説明はこうなる︒﹃野槌﹄
の引用するものは三聯六句という奇態を呈しているが︑三聯のうち︑最初と次の一聯に︑それぞれ対句が用いられて
いるところから︑この詩の原態を律詩と看破することは︑詩作のたしなみを持ち︑自作の披露をも辞さない︵二l趾︑
五l弘︶如偲子には︑さしてむずかしいことでなかったはずである︒しかるに彼は︑失なわれた第一聯を明らめる努
力のかわりに︑第二聯を邪魔物視して切り捨て︑残る四句をもって︑七言絶句に擬する方途を採ったlと︒
剣山の茶碗のたとえ︵四1W︶もこれに類する︒学問は漸々と積み上げるべきことを︑﹁けんざん﹂のしただりを
しただり つるべないい夢︲た たとえに述べる︒これが﹃文選﹄所収の枚乗作﹁上書諫呉王﹂中の﹁泰山ノ霞石ヲ穿ッ︒磁極ノ綾幹ヲ断シ﹂
という成語をもとにしたものであることは﹁又井士の井げたを見よ︒つるべなはにていつともなく漸々とすりへり.:
⁝﹂という文言が続いて現われることによっても明らかである︒この成語は﹃曾我物語﹄や謡曲﹃金札﹄に引かれて
人口に膳式している︒﹃可笑記﹄は泰山を﹁けんざん・剣山﹂としているが︑あるいは記憶の誤りとして看過するこ
とができよう︒だが︑剣山のしただりによって︑穿たれたくぼみを切りぬいたものが﹁日本にて剣山といへるちやわ
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ん﹂と言うに至っては︑看過するわけにはいかない︒﹁剣山といへるちやわん﹂の﹁けんざん﹂とは︑建蓋のことで
あろう︒建襄は中国福建省建安窯産する天目茶碗のことであり︑当時の節用集類はいずれも蓋の字を濁って読んで
﹁ケンザン﹂とする︒地名の剣山と器物の建蓋との結びつきが︑唐突にすぎる︒
この結びつきには︑唐突という言いかたで済ますことのできない︑作為が隠されている︒如偲子が目を通していた
﹃童観紗﹄︵型に﹁泰山ノ蕾岩ヲ穿シ・:⁝﹂が﹁枚乘書二云﹂として載せられている︵Ⅲ段︶のである︒つまり泰山を剣
山に誤ったのではなく︑﹁剣山︵建蓋︶といへる茶碗﹂を導き出すために︑あえて泰山を﹁けんざん﹂にしたのであ
る.この強牽には︑さすがにうしろめたさを感じたものであろう﹁日本にて剣山といへるちやわん︑これなりと云人
●●● もあり﹂と︑弁解がましいことばを添えている︒
このような例を︑この先︑いくつ挙げてみてもとめどない︒また︑典拠を誤解︑典解している事実を詮議して︑如
偲子の学殖が並みの舌耕者の以上でも以下でもなかったことを指摘してみても︑あまり実りを得たことにもならな
い︒東方朔の自侍の言を鼓舞に変え︑道真の七言律詩を七絶に仕立て直したことへの非難は︑前者が浪人の境遇への
声援となり︑後者が謹言中傷の恐ろしさ︑痛ましさの教訓警鐘として寄与するものであるかぎり︑﹃可笑記﹄の中に
あっては︑むしろ見当はずれ︑ということになる︒誤解が創造の母たりうるというセオリーに即して評価してみるこ
ともできるわけである︒
原拠からの逸脱や離れは︑怠惰あるいは手抜きに起因するもののみではない︒それが意図的なものである場合も︑
五
『可笑記』と講釈(渡辺)
主ちい⑪のう 町入能とは︑将軍家に慶事のあった折り催す式能を︑一部の町人を江戸城中に招き入れて︑陪観を許すところから
の名である︒町入能に招かれた町人が︑帰路に感想を求められ︑感嘆のことばを発する︒続いて演能曲目をたずねら
れるが︑答えられず︑質問者の潮笑をかう︒すると町人は気色ばんで︑美人の美しさは︑名前を知る知らぬに関わら
ぬではないか︑と反問したという話︵巻二l皿︶はほほえましい︒肩衣姿に威儀を正した町入能の参列者︒帰路を槐
して土産ぱなしをせがもうと待ちかねていた知友︑近所の衆︒背景に墨絵ぼかしの江戸城が霞んでいる︒
こんな場合に︑挨拶がわりにされるありきたりの質問に︑城内の雰囲気からまだ醒めきらない︑選ばれた市民の口
を衝いて出たのは︑﹁あらおもしるや︑上手や﹂であった︒﹁能は何にてありつるや﹂との第二問も︑やはりありき
たりの挨拶︒しかし︑この質問は︑この選良にとって︑少し過酷な内容であった︒答えは︑﹁知らぬ﹂というそっけ
ないもの︒町内に一人や二人必ずいる皮肉屋だろうか︑あるいは選にもれた者のやつかみであろうか︑曲名もわから
ぬくせに︑上手や︑おもしろやとは何たること︑との追及と廟笑︒儀礼のにわは︑たちまち修羅の巷の様相を帯び
る︒このサスペンスを解決するのが︑美女と名前の逆説lとのように読むならば︑都市生活の一こまをとらえた一
編の短編小説として扱うこともできそうである︒原文は次のようなもの︒
むかし︑武州江戸の御城にて四座のさるがくども能をする︒或人見物してかへるさに︑﹁あらおもしるや︒上手
や︒﹂とほむる︒さる人︑﹁能は何にてありつるや︒﹂ととふ︒答て︑﹁知らぬ︒﹂と云︒とふたる人の日︑﹁さても
其方能の名をさへしらずして︑おもしろき︑上手やとほめらる坐事いか耳・﹂とわらひければ︑答て日︑﹁其方わ あろう︒ また当然あるはずである︒その場合︑虚構という観点からの検討を行ってみる必要が生ずる︒虚構を必ずしも文芸用 語として限定する必要はないものの︑この点の検討は必然的に﹃可笑記﹄の文芸性という問題への言及をもたらすで
‑167I‑
申やれをわらふ事︑我又其方こそおかしけれ︒いかにとなれば︑その方にうつくしき女房︑わか衆をみせたらんには
其女房︑若衆の名をぱ知らず共︑其うつくしきと云事をぱ︑ねんごろにしるべし︒﹂
江戸在往の久しい如偏子の見聞に入った市井の一情景l残念ながら︑このうけとりかたの深読みに過ぎたことを︑
次の引用が証することになる︒﹃童観紗﹄は﹃世説新語補﹄の次のような一話を載せる︒
クワク キ ウタ
ヨキ ク ナ〃〆チ 又云︒郭洗馬入〆洛二聴イテニ伎人ノ歌詞二言プレ佳シ﹂︒石季倫問フニニ其/曲晶郭ヵ云不レ知:季倫笑ァ曰・卿不レ識〆曲一↓︒那ソ
ヨマ方〆
セィン シイメイ カホヨ 得シャレ言フコ;し佳シ←・郭答ヘテ曰︒警食如シレ見ルヵニ西施名何ソ必スシモ識リ︽アニ性名名然箕後二知〆美率︒←罰︒︵﹃童観紗﹄W段︶
﹃童観紗﹄のこの一話のうち︑郭洗馬・石季倫という固有名詞を﹁或人﹂﹁さる人﹂として無名化︑﹁洛﹂を﹁武州
江戸の御城﹂に︑﹁伎人︑歌﹂を﹁四座の猿楽﹂に︑﹁西施﹂を﹁美しき女房︑若衆﹂に変え︑漢臭を去ったのち︑
リダンダントになめらかな文章で翻案をしたものが﹃可笑記﹄巻二luなのである︒江戸市井のできごとの報告でも
ないし︑短編小説の佳品創造の意図も存在していない︒郭洗馬の言に従うならば︑音楽の素養なくして音楽を論ずる
ことが可能となるのであるが︑その強弁のうちに存する機智と譜諺のおもしろさに惹かれて︑如偏子はこの一話を採
ったのであろう︒原拠の﹃世説新語補﹄では︑この一話は︑名称や来歴によって判断を惑わされることの愚を言った
ものである︒
なぜ如偲子は︑
しなかったのか︒
﹁三人行フトキハ必ズ我ガ師ヲ得﹂という﹃論語﹄述而篇のことばを︑食事の作法に即して解釈を行なったのち
に︑如偲子は次のように付言する︒
孔子の御詞は︑天下国家をも治る身のおこなひを見ならひ︑きLならひて師匠にせよとの御をしへなるべけれ 郭洗馬︑石季倫︑そして洛の伎女という﹃世説新語補﹄の配役のままで﹃可笑記﹄に載せることを
『可笑記』と講釈(渡辺)
共︑さやうの事は︑当時の人さらにがてんいたさず候間︑みな人々のがてんまいるやうにと︑朝夕たえせぬ二時
の食物にてたとへて︑愚妄の私心を書付はべり︒︵二㈹︶
ここに︑典拠を処理するに当って︑彼の採った方法の一端が公開されている︒聖賢の教えを︑﹁朝夕たえせぬ二時の
食物﹂に輪えるのは︑俗耳に入りやすい表現を採ることによって︑﹁当時﹂すなわち当代の読者の理解の範囲内に飛
び込もうとすることなのである︒即物︑即事を心がけている︒郭洗馬の逸話の翻案もこれなのである︒﹁武州江戸の
御城﹂で催された﹁四座の猿楽﹂という当代性と具体性を与えることにより︑遠い異朝の名も知らぬ人物の逸話は︑
実在感を増し︑生彩を放つことになる︒
しかし︑寛永十九年の﹃可笑記﹄刊行当時の読者は︑彼の意図とは別の受けとりかたをしたはずである︒
寛永十八年八月三日︑ときの将軍家光は︑男児の出生を迎えている︒竹千代君︑後の四代将軍家綱のことである︒
九月九日の佳節に当り︑在府諸大名の総登城を促し︑世子誕生の饗宴を張り︑式能には市民の陪観を許した︒
この日から︑ちょうど一年たった寛永十九年九月の刊行当時︑江戸三八五町内に在住した読者は︑この一話に接し
て︑雨傘を片手に︑もう一方の手には酒肴と銭一貫文との包みを抱えて︵U城下りしてきた実在の人物を︑脳裏に鮮
やかによみがえらせながら読んだはずである︒卑近な具体例に即することによって︑読者の興味を喚起しようとする
如偶子の意図が︑適中したことは確実である︒しかし︑同時にその折りの雰囲気や心情をも喚起してしまったことが︑
はたして執筆に際しての彼の予想の中にあったろうか︒心情とは︑つまりは選ばれて招かれた者のはれがましさ︑出
迎えに立った者の羨望とやつかみ等々のことである︒呼び醒されたその折りの心情とともに彼らがこの一話を読んだ
としたならば︑一度は排した︑さきの深読みも︑あながち見当はずれな︑現代のわれわれの妄想として︑捨て去るわ としたならば︑
けには行くまい︒
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如偏子は︑郭洗馬の逸話を︑即事即物性に主眼を置いて江戸に置きかえたのであるが︑当代の読者は︑記憶の底か
ら蘇生させた情緒をもって︑この虚構の行間を読んだ︒そこから︑虚構と当代性と人情のゆれとを備えたこの一話
を︑現代のわれわれは︑短編小説として意義付けようとしている︒しかし︑そのような断定を下すのには︑問題があ
る︒右の三つの要素のうち︑人情のゆれは︑この一話のうちに存在するものではなく︑読むことによって生起する感
懐︑つまり︑著者の意図とは無関係に読みとった︑作品に外在するもの︑という点である︒それゆえ︑もし︑その点
への著者の配慮が加わっていたならば︑という条件を付与することによって︑はじめて小説として論ずることが可能
同義語の多用と俗語的表現をまじえてのリダンダントな文体︑一つの文型を過剰なまでに反覆することによって生
まれるリズムの活用︑誤解をものともせずに原話を奔放に変形しての利用︑これらを講説︑とくに舌耕と呼ばれる種
類のそれの特徴とすることができるであろう︒そこから﹃可笑記﹄を講説と関連づける考えが成立することになる︒
﹃可笑記﹄は講説との関係関連を認めることができる︒しかし︑だからといって︑そこからその例話についても︑
同様に処理してしまうのは早計に過ぎる︒﹃可笑記﹄に活用されている例話は︑たしかにありふれたものが多く︑あ けつきよく︑江戸城町入能の一話を︑小説として評価しようという試みは︑早計に過ぎたのであるが︑観点を変え れば︑小説として処理することの充分に可能な素材を手にしなながら︑如偶子は︑その方向へ進む道をたどろうとは しなかった︑ということになろう︒ になる種類のものなのである︒
一ハ
『可笑記』と講釈(渡辺)
しかし︑講説と如偲子の著述との間には︑大きな懸隔がある︒講説とは︑白日のもと︑あるいはろうそくの芯を剪
りながらの明るく広い空間に︑多人数の参加を得ての催しである︒一方︑﹃可笑記﹄執筆中の如偲子はといえば︑寒
灯のもと禿筆を運ばせる貧書生のうしろっきが栃佛する︒座右に﹃沙石集﹄﹃徒然草﹄﹃甲陽軍鑑﹄﹃清水物語﹄あ
るいは﹃厄言抄﹄﹃童観紗﹄などと小口書きを読みとることのできる書物が積み重ねられてある︒﹃清水物語﹄︵寛
永十五年刊︶﹃童観紗﹄︵寛永年間刊︶は︑まだ表紙の色も新しい︒丹表紙十冊の﹃野槌﹄初印本もみつかるはずだ︒
いま︑ここで言う﹁例話﹂を﹁説話﹂という語に置きかえてみよう︒そして口承性による伝搬をその本態としてみ
るならば︑この如偏子机辺の図は︑説話が口承性を捨てたことの象徴である︒またそれは︑印刷術の盛行とともに始
まり現代に至るまで続いている︑明確に実態を掌握することのできない読者というものの幻想を対象に営々と行う︑
作家の孤独な行為の始まりを告げる図苅と言ってよいかもしれない︒ るいは講釈とか夜咄の席で︑しばしば口演者の舌頭に供された話柄と同じであったかもしれない︒しかし﹃可笑記﹄ のそれは︑書籍に出自を明確に確認することができる︒口演された話柄をそのままとり込んだものではなく︑書物に 得たところを︑表現するに当って︑講説者の口調や発想を用いたものである︒つまり︑﹃可笑記﹄の例話は︑講説の それではなく︑そのレトリックを借りただけなのである︒そこには︑如偲子がその種類の営みに従事した経験が寄与 しているかもしれない︒
注 1中村格氏﹁能の詞章における修辞とリズム−世阿弥の作品を中心にl﹂︵﹁東京学芸大学紀要人文科学﹂二十七昭団
・2︶リダンダンシー︵罰の目且胃︒己はもともと︑構造言語学の術語︒
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