インド哲学における苦の問題
『主宰神再認識論』摂真実章を中心に
戸 田 裕 久
. 「一切皆苦」という命題
仏教における四っの真理、すなわち「四聖諦」(cattari ariya−saccani, catvary亘rya−satyani)
とは、苦諦(苦聖諦)・苦集諦(苦集聖諦)・苦滅諦(苦滅聖諦、苦集滅諦)・苦滅道諦(苦滅道 聖諦、苦集滅道諦,苦滅道跡聖諦)1)、略して、苦・集・滅・道諦と呼ばれる、四つの聖なる 真理(sacca, satya,諦)をいう。苦諦とは現実世界の実態を「苦(duk㎞a, duhkha)」と捉え ることである,:苦集(duhkha−samudaya)とは苦の原因、苦滅(duhkha−nirodha)とは苦の消 滅、苦滅道(duhkha−nirodha−g蚕mini−pratipad)とは苦の消滅へと導く道、の意である。言わば 四聖諦は、人々を「苦」なる状況から解脱させるための具体的な方策を提示することこそが、
仏教の最重要課題であり使命なのである、ということの宣言にほかならないJ
そもそも、釈迦牟尼世尊は、自ら「苦」を観じ、あるいは、人々の苦しむ姿に接して、苦を 克服する道を求めて出家した、とされている.2)釈尊が積極的に説いたのは、苦からの解脱 のための現実的な解決方法であり、それに対して益するところのない形而上学的な問題に関し ては明言することを避けた(無記)という。「苦」の問題は仏教の出発点であり、核心である。
それ以外の哲学的な諸問題は副次的なものにすぎず、無視しても構わない。仏教の主要教説は
「苦」の存在を前提として構築されている[tこの世に「苦」なる状況がなければ、あるいは、
我々が誰一人として「苦」を感じることがないならば、仏教の存在意義はない、
我々は現に「四苦」「八苦」している この世に「苦」が充ち満ちているというのは、誰もが 実感していろことであり、厳然たる事実として認められうろことではないか。という声が聞こ えてきそうであるが、それは仏教に通じた方々の見方であろう、そのような当たり前のことに さえも納得がゆかないのが、凡夫であろ、「一切皆苦」であると懇々と説かれても、この世には 楽しいことが沢山ある、と内心つぶやくkうな次元の低い者はたしかにいる。「一切皆苦」とい
うことは、凡夫には理解されないかもしれないが、聖者(ariya, arya)にとっては真理である、
ゆえに「苦聖諦」と呼ばれるのである、とも解釈されている..3)
「諸行無常」「諸法無我」「浬繋寂静」という三つの命題が、仏教に特徴的な教義として三法 印と呼ばれ、これらに「一切皆苦」を力口えたものが四法印であるとされている。しかしながら 三法印、四法印という定式化およびその内訳は、諸部派に共通していたわけではなかった。ま た南伝アビダルマでは、「無常、無我、浬繋」の代わりに、原始仏教以来の「無常・苦・無我」
説が仏教の三特相と呼ばれることがあり、北伝アビダルマにおいても「諸行無常、有漏行苦、
一切法空無我」として重視されている例があるという。4)阿含経典においては各法印の訳語 も定まっていない。例えば、『雑阿含経』巻十には、「勝妙法」として「一切行無常、一切法無 我、淫繋寂滅」5)とあり、『増壼阿含経』第十八には、「四法本末如来之所説」として「一切諸 行無常」「一切諸行苦」「一切諸行無我」「浬繋為永寂」が挙げられている。6)
さて、「一切皆苦」として知られている命題についてであるが、その本義は、「一切の諸行
(sabbe sankhara, sarva−samskarah)は苦(dukkha, duhkhah)である」7)ということである と思われる。そしてそれは、「諸行無常」すなわち「一切の諸行は、無常(anicc蚕, anity砲)で ある」という命題と裏表の関係にある。「諸行(samsk互rah)」とは、形成せられたもの、の意で あり、諸事物・諸現象を指して言う。この世のあらゆる諸物・諸現象は、無常であり、自分の 意のままにはならない。それらに対して我々は欲望を抱き期待をかけ執着する。もとよりそれ らは我々の自由にならないものであるにもかかわらず、自分にとって都合の悪い事態に直面せ られては、我々は必要以上に憤り、苦しみ、悩む。つまり、「一切諸行」は「無常」であるがゆ えに、我々凡夫にとっては「苦」をもたらすものとなる。「一切諸行無常」が客観的事実として の理法を述べたものであるのに対し、「一切諸行苦」はそれによって我々の内面に惹き起こさ れうる主観的事態を述べたものである、と言えようか。換言すれば、仏教における「苦」は、
外的に客観的に存在する何物かではなく、不当な主観的判断によりもたらされる心理状態ない しは観念にすぎない。8)
「一切皆苦」「一切諸行苦」という場合の「苦」は、単なる肉体的生理的な不快感や苦痛のみ を言うのではない。また、精神的心理的な苦痛、苦悩のみを意味しているわけでもない。少な くとも原始仏教聖典においては、自分の思い通りにならないこと、自由でないことを「苦」と 呼んでいるようである。それゆえ、文宇通りの「苦」すなわち苦痛や苦悩は勿論のこと、「楽」
すなわち快感、および「不苦不楽」すなわち苦でも楽でもない感覚も、「苦」でありうる。9)
これに関連して、「苦苦」「壊苦」「行苦」の三苦を立てる教説がある。これは原始仏教経典に すでに現れているが、アビダルマ文献ではこの教説をもって「一切皆苦」を解釈しようとして いる。10) 「苦苦(duh㎞a−duhkha)」は、肉体的生理的な苦痛および精神的心理的な苦悩によ る直接的な「苦」である。「壊苦(vipari頃ma−duhkha,変易苦)」は、破壊や損耗などの変化に よって起こる失望や不快感であり、当初は「楽」として感受せられていたことが変化に伴って
「苦」に転じたものである。「行苦(samsk5ra−duhkha)」は、形成されたもの全般において必
然的に随伴する「苦」すなわち「一切諸行無常」であるがゆえの「一切諸行苦」であり、「不苦 不楽」として感受せられていたことも形成されたものである以上は「苦」であるということに なる。川 この三苦の教説により、普通に苦痛として感じられることは勿論のこと、凡夫にと っで快楽ないしは幸福と感じられることも、苦でもなく楽でもない感覚も、すべては「苦」で あるということになる。これにより、「一切皆苦」という命題が成り立っ。
無常なるものに対して執着するゆえに、苦が生じる。諸行が無常なることを観じて、執着し ても仕方のないものであると知り、執着しなければ、苦は起こらない。それが、苦からの解脱 ということになるのだろう。苦は実体的存在ではない。要は、心の持ちようということか。
凡そ宗教哲学と称されるものは、人々を救済に導く道を示すための思索であるが、その思索 の営みは、人々がいま置かれている状況を正しく捉えようとすることから始まるものであろう。
インド哲学においては、ほとんどすべての学派が、解脱(moksa, mukti)を究極的目標として 掲げて論述を展開している。その前提となっているのは、この世は苦難に満ちており、生きる に厳しい、という現状認識であろう。高い理想を掲げて求道する者の眼には、現実の世界ない し社会は害悪に満ちた不完全なものとして映るのではないだろうか。これは、上に見た仏教の みにかぎったはなしではない。「苦」の自覚を哲学的思索の出発点としている学派は多い。例え ば、次章で扱うサーンキヤ学派などはその最たるものであろう。
しかるに、もしもこの世界をあるいは現実社会の在り方を、そのようには捉えない人たち、
すなわち、現状を善なる完全なものとして全肯定する人たちがいたとしたならば、はたして彼 らに宗教を語ることができるのだろうか。本稿では、そのような問題意識を秘めっっ、後ほど、
一元論的シヴァ派(所謂、カシミール・シヴァ派)、特にその再認識論(Pratyabhijfia−darSana)
の神学体系における「苦」の観念を明らかにしようと思う。
二.サーンキヤ哲学における「苦」
サーンキヤ(S巨lpkhya,数論)は、独自の原理(tattva)を以て存在現象の全体を数えつくし、
これにより業・輪廻および解脱の仕組みを明かし、すべての人に平等に解脱を実現させようと する哲学であるc12)
サーンキヤ哲学の淵源は古く、萌芽的教説が古ウパニシャッド(κd(haka−, Svetfi.s:vatara−,
,Vaitri−L
pa〃iyα∂, etc.)に既に見られる,また、『マハーバーラタ』(.、1励励ノ1ひατα):こは、一学派として体系が整備きれる以前の、種々の先駆的教説が散見される。13)サーンキヤ学派の独
立の文献として現存最古のものは4〜5世紀頃にイーシュヴァラクリシュナ(iSvarakrsrpa自 在黒)が著わした『サーンキヤ・カーリカー』(5励肋yαW∂ノ f緬『サーンキヤ頒』 略号SK)
である。これは既往の先駆的諸教説を整理し組織化して、サーンキヤ学派の哲学体系を確立し た画期的な根本典籍である。
以下では、この『サーンキヤ・カーリカー』の記述にもとついて、サーンキヤ学派における
「苦(duhkha)」の観念を考察したい。この書に対しては多くの註釈書が造られたが、本稿で はそのうち、真諦三蔵(6世紀後半)により漢訳された『金七十論』、ガウダパーダ(Gaudapada,
8世紀頃)の註解(Bhd,yya)、および、ヴァーチャスパティミシュラ(VAcaspatimiSra,9世紀 頃)の『サーンキヤ・タットヴァ・カウムディー』(S∂rpkh.va−tattvakaumudi『サーンキヤの真 理の月光』 略号SK 7)を適宜参照する。14)
サーンキヤ哲学は、精神原理と物質原理とを峻別し、プルシャ(purusa,霊我、純粋精神)
とプラクリティ(prakrti、根本原質)と呼ばれるそれら二元のみを実在であると主張する、二 元論哲学であるとされている。しかるに、この二元のほかに造物主・主宰神(iSvara)の存在を 認めるか否かにより、有神論的サーンキヤと無神論的サーンキヤとの二種類に大別されうる。
『サーンキヤ・カーリカー』は無神論的な立場を採る。実のところ有神論的哲学の方が古来の ものであり、ヨーガ学派の教説との近似性も高く、さらに後代には有神論的傾向が強まる。15)
この有神論的サーンキヤ説にも言及すべきところではあるが、本稿では『サーンキヤ・カーリ カー』における所説に絞って論及する。
<1> サーンキヤ哲学の「三苦」
『サーンキヤ・カーリカー』の冒頭に、本書の著述目的、乃至は、サーンキヤ哲学の考究対 象が掲げられている。それは、「苦」の克服である。
duhkhatray5bhigh5t5j jijfi互sfi tadabhigh5take hetau / d;Ste sfi p巨rtha cen naikant互tyantato bhav5t〃1〃 16)
『1人々は1三苦に害されているゆえに、これを害する因(三苦を止滅させる方法)につい て知りたいという欲求(探究心)1を起こす;。もしも[対論者が:「[三苦を止滅させる方 法が]既に認識されている場合には[これについての]それ(探究)は無益ではないか」
というならば、そうではない。〔既に認識されている方法は三苦を止滅させるためには]
決定的でも究極的でもないからである。』(S1(1)17)
諸註釈書によれば「三苦(duhkha−traya)」とは、(1)自身にkる(互dhyatmika)苦、(2)諸生 類による(adhibautika)苦、(3)天にkる(adhidaivika}苦、の三種である。真諦訳『金七十論』
には、依内苦、依外苦、依天苦とある。
ガウダパーダの註釈(G.Bhft Li a ad SK Dによれば三苦とは次のようなものである。
「(1)自身による苦には、肉体的なもの(6arira)と精神的なもの(manasa)との2種がある。
肉体的な苦は風気と胆汁と粘液の変調により惹き起こされる熱病や下痢などであり、精神的な 苦は愛する人との別離や嫌いな人と会うことなどである。(2)諸生類による苦は4種の生物群 によりもたらされるものである。胎生・卵生・湿生・芽生に分類される諸々の生物、具体的に は人間・家畜・野生動物・鳥類・蛇・虫内・蚊・風・蚤・魚・鮫・鰐・植物との近接により惹き 起こされる。(3)天による苦とは、神々(諸天)に帰属するものたる天命によって、あるいは、
天空に起こる現象という意味での天的なものによって惹き起こされる、寒さ・暑さ・風・雨・
落雷などである。」18)
『金七十論』もほぼ同じ内容であり、(D依内苦を身苦と心苦に分けるが、心苦として「可愛 別離・怨憎聚集・所求不得」を挙げている。19)仏教でいう愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦に 相当する。また、身苦すなわち病苦の原因である「風・熱・淡の不平等」の説明では医方書か らの引用が挿入されている,20)逆に、インド医薬学の古典『チャラカ本集』(Cai・aka−samノ漉∂)
にはサーンキヤの古説が見られる。21)サーンキヤの三苦の分類法についても、インド古来の 医薬学の伝統との関連性が指摘されうるかもしれない。
ヴァーチャスパティミシュラの註釈(STA/ad Si(Dには、前記の古註とは若干異なる記述 が見られる。
「三苦とは(1)自身による苦、(2)諸生類にkる苦、(3)天による苦である。そのうち、(D自身 による苦には肉体的なものと精神的なもぴ)との2種がある。そのうち、肉体的な苦は風気と胆 汁と粘液の不均衡により惹き起こされるものである。精神的な苦は、愛欲・B眞・貧・痴・恐怖・
嫉妬・失望・特定の目的対象を見出さないこと(願望対象が得られないこと)に起因するもの である.これらはみな、内的な手段にkり実現されるもの(antarop互ya−sadhya)であるから、
自身による苦である。外的な手段により実現される(bahyopaya−s5dhya)苦としては(2)諸生 類による苦と(3)天による苦との2種類があるcそのうち、(2)諸生類による苦は、人間・家畜・
野生動物・鳥類・蛇・植物により惹き起こきれるものである。一方、(3)天による苦は、夜叉・
羅刹・魔将・悪星などの態依に起因するものである。」22)
これによれば、三苦は人間存在の内的要因によろものと外的要因によるものとに大別され、
U)自身による苦は内的なものに、(2)諸生類による苦と(3)天による苦とは外的なものに分 類されるttまた、(i3)天にkる苦は、古註に財しば、神々の意向により惹き起こされる気象など の自然現象にkる苦を指していたが、ヴァーチャスハティミシュラによれば、鬼神や魔物の仕 業であるというtt
ここで、サーンキヤ哲学と密接な関係があるとされるヨーガ学派における「苦」にも簡単に 触れておこうttハタンジャリ(Pata亘iali)に帰される『ヨーガ・スートラ』(YogCl−y爵τノ Ct)にこう
説かれている。
「それら(業の果報である生存と寿命と享受)は、善[業](puqya)と悪:業](apurpya)
とを原因とするゆえに、快楽(hlida)と苦悩(paritapa)とを結果する。」(}「S 2.14)23)
「転変(pari垣ma)と苦悩(t5pa)と潜勢力(sarpskiira)による諸々の苦を具有するので、
また、諸グナ(gUna)の作用が互いに相克し合う〔ことによっても苦が起こる]ゆえに、
識別知を有する者(vivekin)にとっては、一切が苦にほかならない。」(γs 2.14)24)
ヴィヤーサ(Vyasa)による註釈(Yogasatra一励∂▽α)によれば、 善業が原因となって 快楽という果報があり、悪業が原因となって苦悩という果報がある、と言われているが、実は 識別知を有するヨーガ行者にとっては、一切は苦にほかならない。というのも、快楽を享受し ている(bhoga)状態にあっても、快楽は永続せず転変し、食欲(r5ga)・憎悪(dveSa)・迷妄
(moha)という心の作用が生じ、それが業(karmaSaya)をもたらし、苦という結果が起こる。
これが「転変による苦(parinama−duhkhata)」である。苦悩を経験している(anubhava)場合 には、貧欲・憎悪・迷妄から生じた業により、苦という結果が起こる。これが「苦悩による苦
(t互pa−duh㎞ata)」である。楽の経験から楽の潜勢力が起こり、苦の経験から苦の潜勢力が起こ り、このような業が熟すると、楽かあるいは苦が経験され、さらにその業の潜勢力が蓄積して、
というようにして、無始[無終](無限)に続く苦の流れ(duhklia−srotas)が拡がりゆく。こ れが「潜勢力による苦(sarpskara−duhkhata)」である。また、苦は諸グナの作用が互いに相克
し合うことからも起こる、という。25)
ここに「転変による苦」「苦悩による苦」「潜勢力による苦」という三種の苦が述べられてい るが、これは苦の成立過程の違いによる種別と言ってよいだろう。いずれも業の潜勢力により 苦が結果するという点では共通しているから、苦の成立要因の違いによる種別とは言えまい。
サーンキヤ学派の「三苦」は成立要因という観点から苦を三種に分類したものであったが、そ れとヨーガ学派の挙げる三種の苦との間には関連性が見られない。むしろ、アビダルマ仏教の 所説との類似性に注目すべきであろう,「苦悩による苦(t5pa−duh㎞at5)」は仏教で言うところ の「苦苦(duh㎞a−duh㎞ata)」に相当し、「転変による苦(parinama−duhkhat5)」は「壊苦
(viparirpama−duhkhat蚕)」に、「潜勢力による苦(samskara−duh㎞ata)」は「行苦(sarpskara−
duhkhata)」に相当すると思われるL 26) ヨーガ学派と仏教との連関についてはしばしば指摘 される所であるが、「三苦」に関しては特に、ヨーガ学派はサーンキヤ学派よりもむしろ仏教か らの影響を色濃く受けていると言えよう,、
ところで、ヴァーチャスパティミシュラは「三苦」の説明に先立って、『サーンキヤ・カーリ カー』の主題を明確にするとともに、その著述が意義有るものであることを示すために、次の
ような選言肢を想定している。
「以下のような場合には、[本]論書(『サーンキヤ・カーリカー』)の[論述]対象(主題)は 探究されないであろう。もしも、[1〕苦というものが世界に存在しないか、[2]あるいは、[苦 は]存在したとしても、除去することを希求されていないか、[3]あるいは、[苦は]除去する ことを希求されていたとしても、苦が恒久的なものであるゆえに、または、それ(苦)を断滅 するための手段が知悉されていないゆえに、断滅することの不可能なものであるか[というよ うな場合には、本論書の論述対象は探究されないであろう]。[4]あるいは、たとえ[苦が]断 滅することの可能なものであったとしても、論書の[論述]対象としている知識が[苦を断滅 するための]手段ではないゆえに、〔5]あるいは、他に容易な手段が存在するゆえに[本論書 の論述対象が探究されない、ということもあるだろう]。」27)
これらの選言肢はいずれも、カーリカーの文言を読み解く中で否定されてゆく。
「これらのうち、まず、〔1]苦が存在しない、ということはないし、また、[2][苦は]除去す ることを希求されていない、ということもない。ゆえに、「三苦に害されているゆえに」という のである。」28)
同様に、他の選言肢もすべて否定され、以て本論書の存在意義が確認されることになる。
そして、「三苦」の説明をした後で、ヴァーチャスパティミシュラは苦の本質にっいて、こう 述べている。.一一一
「このtうな苦(三苦)は、各個人に感受されうるものであり、激質(rajas)の種々異なる転 変(pari頭ma−bheda)であり、[その存在を]否定されえない。内的感官(antalU(ararpa)に存 するこの三苦を伴っている、精神活動の能力を有する者における、違逆(pratiktila、不快)と
して感受されうることとの結合関係が、「:三苦に1害されている」ということなのである。」29)
これによれば、苦とは、内的感官に存する激質(ラジャス)の多様な転変から成り、各人の 意思に対する違逆として感受されるところのものである。違逆(pratik田a)とは自己の意思や 期待・願望に反するという意味であり、肉体的・精神的に不快な状態を指す。なお、『ヨーガ・
スートラ』第2章 第14スートラに対するヴイヤーサの註釈にも、「苦は違逆(pratikOla)を 本質とする」とある。30)
pratikuiaという語は漢訳仏典においては「違、違逆、違害、不順、不応、不可愛、憎、悪、
対治」等の訳語が充てられているU31)特にアビダルマ文献において、苦の特質を述べる際に pratikUlaという語が用いられる例がある。世親は『倶舎論』の中で、有漏の諸法(sasrava dharmah)(り同義語として「苦」を挙げ、「1有漏法は1聖者たちにとって違逆なるもの
(pratikUla)であるゆえに、苦である」と述べている,すなわち、苦とは無漏なる聖者の心に違 逆することである.この場合、違逆(pratikUla)とは、聖なる解脱の境地とは反対の状況にあ ろことを表わしているのであり、単なる「不快」という以hの意味を付与されている。32)
『ニヤーヤ・スートラ』(∫N:v元vαバ痘〃∋1.1.2に対するヴァーツヤーヤナ(vatsy互yana,4
世紀頃)による註釈(Aivbya−hha Lya)には、 dulUcha(苦)は「不快(prat ik田a)として感受さ れること(vedaniya)」と語釈され、その同義語としてb5dhan且, pida, t5paという語が挙げ
られている。33) この語釈は、後代のニヤーヤ・ヴァイシェーシカ折衷学派においても踏襲さ れており、たとえば、ケーシャヴァミシュラ(KeSavamigra,13世紀頃)の著わした論理学綱 要書『タルカ・バーシャー』(Tarka−bh a,・∂)には、「苦(duh㎞a)とは苦痛(pida)であり、そ れは総ての人にとって不快(pratikUla)として感受されることである」とあり、また、アンナ
ムバッタ(AnnambhaUa,17世紀頃)の綱要書『タルカ・サングラバ』(Tarka−saqigraha)に おいても、同様に定義されている。34)
ここで注意を喚起しておきたいのは、苦の存在、すなわち、この世には苦が満ちていて、人々 はみな苦に苛まれているということは、我が身に照らしてみれば誰もが実感することであり、
万人に共感をもって理解されうる、疑いの余地なく論議するまでもない自明の理とされている 点である。すなわち、常識的に、苦は「各個人に感受されうる、否定されえない」ものである
とされ、苦が存在するか否かといった問題については、これ以上論及されることはない。
<2> 三グナ: 純質(サットヴァ)・激質(ラジャス)・繋質(タマス)
サーンキヤの二十五原理のうち、プルシャ(puru$a,霊我、純粋精神)とブラクリティ(prakrti、
pradh5na,根本原質)を除く二十三原理は、変異・顕現するもの(vyakta)であり、それらは グナ(gul〕a,徳)と称される三つの要素、すなわち、純質(sattva,サットヴァ)・激質(raj as,
ラジャス)・磐質(tamas,タマス)から成る。35)これら三グナ(tri−gurpa)が均衡状態にない 場合に、諸原理の転変(parin5ma)が起こるという。三グナに関して、『サーンキヤ・カーリカ ー』第12および第13には次のように述べられている。
prityapritivi$adatmak互b prakaSapravyttiniyamArthah /
anyony5bhibhavaSrayajananamithunavyttayaS ca gulユal}〃12〃
『諸々のグナ(純質・激質・騎質)は、喜・憂・闇を本質とし、光照・活動・制限に有用 である。そして、[グナ同士はコ相互に制圧し合い、依存し合い、生じさせ合い、随伴し合 うという働きをする。』(SKI2)36)
sattvaln laghu prakfiSakam iS1am upastambhakaip calai〕 ca rajal1 / guru varapakam eva tarnah pradipavac carthato vpttih 〃13〃
『純質は、軽く、光照させるものであり、激質は、刺激するもの、運動するものであり、
騎質は、鈍重であり、覆い妨げるものである、と認められている。そして、灯火[が灯芯 と油と火との三要素から成るものでありながら照明という一つの作用をするの]と同様に、
1三グナは・一っの.目的のために作用する,コ』(SK 13)37)
諸注釈には三グナの各々について、概略このように述べられている。
「純質(sattva)は、喜(priti)すなわち楽(sukha)を本質とし、光照(prak蚕Sa)に対して有 用なものである。激質(rajas)は、憂(apriti)すなわち苦(duh㎞a)を本質とし、活動(prav;tti)
に対して有用なものである。騎質(tamas)は、闇(viSada)すなわち迷妄(moha)を本質とし、
制限(niyama)に対して有用なものである。」38)
第12カーリカーの「喜・憂・闇を本質とし(prity−apriti−viSada−atmakah)」という文言にお ける「本質(atman)」という語の意味について、ヴァーチャスパティミシュラは対論者からの 異論を想定して、次のように説明している。
「しかるに、或る人たち(異論者)は「喜(楽)は苦の非存在(否定)[すなわち不苦]と異な らないし、同様に、苦は喜(楽)の非存在(否定) :すなわち不楽:に他ならない」と考えてい る。彼らに対して[正論を示すために]「本質」という語が用いられている。楽など(楽・苦・
迷妄すなわち喜・憂・闇)は、相対的非存在(itaretara−abh互va,相互的な対立者の否定)では なく、存在するもの(bhava)なのであるc本質(atman)という語は存在(bh5va)を表現する
ものであるから。喜という本質を有する諸々のものが、喜を本質とするもの(prity−itman)で ある。他のもの(憂)についても、同様に説明されるべきである。また、これら(喜・憂・闇)
が存在するものであるということは、経験上証明されている(anubhava−siddha)。しかるに、
相互依存の関係にあるものが相互的非存在より成るとしたならば、一方が成立しない場合には 両方ともが成立しない、ということになってしまう。[以上のように〕これら(三グナ)の本質
(svaritpa)を述べたのち、[三グナの]目的(prayoj ana)を示して日く、「光照・活動・制限に 有用である」と。」39)
ここで注目すべきは、「激質は苦を本質とする」(duhkatmakam rajah)、すなわち、激質は苦 より成る、ということである。しかも、その苦は実体的な存在物と考えられている。ところで、
ヴァーチャスバティミシュラは、前節で見たように、第1カーリカーへの註釈において、「苦と は、内的感官に存する激質の多様な転変である」と述べていた。そして、第12および第13カ
ー リカーに対する註釈において、彼は明確にこう述べている。
「楽の原因であるものが、楽を本質とする(楽より成る)ところの激質である。苦の原因であ るものが、苦を本質とする(苦より成る)ところの激質である。迷妄の原因であるものが、迷 妄を本質とする(迷妄より成る)ところの磐質である,.J 4°)
彼によれば、激質と苦との間には因果関係があり、激質が原因となって苦が起こる、すなわ ち、苦は激質より成る、ということになろ。そうであるならば、「激質は苦を本質とする」とい うよりも、「苦は激質を本質とする」と解した方が妥当であるようにも思われる。
また、「苦の原因は、苦を本質とする(苦より成る)激質である」という言明は、このままで は同語反復に陥りかねない。しかし、二つの「苦」という語が意味的に異なるとすれば、問題
は回避されることだろう。「苦の原因」というときの「苦」とは、現に感受せられている諸々の 具体的・個別的な苦という感覚ないしは意識を指すのであり、「苦を本質とする」の「苦」は、
本質的・普遍的な「苦」という一般的性質を意味し、激質の本質としての苦一般を指すと考え られる。また、件の言明には、「苦の原因は激質である」と「激質は苦を本質として有する」と いう二つの事柄が織りこまれている。いま、それを「苦」の意味の違いを明示して読み直すな らば、「苦という一般的性質を本質として有する激質が、具体的個別的な苦の感覚の原因であ る」となるであろう。いずれにしても、苦と激質との間に本質的な関係がある、とされている ことは確かである。
gupaという語は、一般的には「性質」を意味し、「徳」と漢訳されている。サーンキヤ哲学 における諸原理の構成要素としての三グナ(tri−gurpa,トリグナ,三徳)というときのgunaは、
性質を実体視し、実体と性質とを混同したために形成された観念である、と考えられる。41)
よって、サーンキヤ哲学におけるグナは、或る「性質」と、その「性質を有するもの」との両 方を意味しうる。
サットヴァ(sattva)というグナは、純質としての性質、すなわち「純質性」と、純質性を有 するもの、すなわち「純質」とを意味しうる。純質としての性質とは、喜すなわち楽、軽い、
光照させる、光照に有用である、といった性質である。「純質」はこれらの諸性質を有するもの なのであるが、逆に、これら諸々の性質そのものも「純質」と呼ばれうるのである。
ラジャス(raj as)というグナは、激質としての性質たる「激質性」と、激質性を有するもの たる「激質」とを意味しうる。激質としての性質とは、憂すなわち苦、刺激する、運動する、
活動に有用である、といった性質である。「激質」は苦などの性質を有するものなのであるが、
苦などの性質そのものも「激質」と呼ばれうる。また、先ほど述べたように、激質と苦との間 には本質的な関係があるとされている.つまり、「苦」と「激質」は類義語ないしは同義語とし て扱われてもよく、これら二つの語は交替可能であると考えられる。
タマス(tamas)というグナは、闇すなわち迷妄、重い、覆い隠す、制限に有用である、とい った磐質としての性質すなわち「磐質性」と、それらの性質を有するものたる「繋質」との両 方を意味しうるのであり、「磐質」という語が「迷妄」などと言い換えられるというのは充分に ありうることである。
このようにサットヴァ・ラジャス・タマスという語は、構成要素としての純質・激質・騎質 と、それぞれの有する性質との両義に用いられうる。サーンキヤ哲学以外においても、たとえ ば、後述する再認識論文献では、「純質・激質・磐質」と言うべき所に「楽・苦・迷妄」という 語が用いられている例が見られる。42)
『バガヴァッド・ギーター』(Biia8・a vadgアt∂>43)にはサーンキヤ哲学に基づくと思われる記 述が散見される.44)それらは『サーンキヤ・カーリカー』において体系化される以前の、サ
一ンキヤの古い伝統的教説を伝えるものであると考えられる。特に『ギーター』に見られる苦 に関する記述は、サーンキヤの古説を採り入れたものであるという。45)
なぜ人は罪悪に走るのか、というアルジュナの問いに対して、クリシュナはこう答える。
「[人を罪悪へと駆り立てるもの1それは欲望である。それは憤怒である。激質(ラジャス)と いう要素(グナ)から生じたものであり、食埜で、凶悪である。それが、この世における敵で
あると知れ。」(BhG 3.37)46)
苦との結合から離れることがヨーガの目的であるという文脈においても激質の語が見える。
「思考器官(manas、意)を静められ、激質を静められ、ブラフマンと一体化した、罪障のな いヨーガ行者に、至上の幸福(sukha,楽)が近づくのであるから。」(BhG 6.27)47)
『ギーター』第14章には、三グナに関して或る程度まとまった記述が見られる。一
「アルジュナよ。純質、激質、繋質といわれる、根本原質(prak1ti)から生じた諸要素(グナ)
は、不壊の霊我(dehin,有身主)を身体(deha)に束縛する。それらのうち、純質は無垢なる ものであるから、光照し、患いのないものであり、幸福(sukha、楽)への執着によって、また 知識への執着によって1霊我を]束縛する。激質は激情を本性とし、渇愛と執着とを生起させ るものであると知れ。それ(激質)は行為への執着によって霊我を束縛する。しかるに、驕質 は無知から生じるものであり、すべての霊我に迷妄をもたらすものであると知れ。それ(騎質)
は不注意と怠惰と睡眠にkって[霊我を1束縛する。」(Bh(714.5−8)48)
「善なる行為の果報は無垢にして純質的であると言われる。しかるに、激質の果報は苦であり、
磐質の果報は無知である。純質から知識が生じる。激質から貧欲が[生じる]。騎質から不注意 と迷妄が生じ、また無知も[磐質から生じる]。」(BhG 14.16−17)49)
「霊我は、身体を生起させるこれら三要素を超越して、生・死・老・苦から解放され、不死に 達する。」(BhG 14.20)50)
また『ギーター』第17章および第18章には、人々の信仰、食物の嗜好、祭祀、苦行、布施、
捨離、知識、行為、行為者、知性、堅固、幸福(楽)が、三グナ(要素)に応じて三種類ある ことが説かれているLそのうち、幸福(sukha.楽)の三種類とは次のようなものである。
「さて今、アルジュナよ、利、(クリシュナ)から、三種類の幸福(楽)を間け。1宗教的行為の1 反1夏的実修により、それにおいて楽しみ、苦の終息に行き着く、というところのものであり、
自己の知性の清澄さから生ずるものであり、初めは毒の如くであるが結局は廿露に喩えられる 幸福(楽)、それが純質的な一幸福」と言われている 感官とその対象との結合から生じ、初め は甘露に瞼えられるが結局は毒の如き幸福(楽)、それが激質的な:幸福]と伝えられている、
睡眠と怠惰と不注意から生ずるものであり、初めにおいても帰結においても自己に迷妄をもた らす幸福(楽)、それが騎質的な.幸福・1と述べられている。根本原質から生じたこれら三要素 から解放せられるということがありうるような者は、地上にも、あるいはまた、天上の神々の
なかにも、存在しない。」(BhG l 8.36−40)51)
哲学的見地からすると、楽(su㎞a)すなわち幸福は、純質的幸福、激質的幸福、騎質的幸福 の三種類に区別されるのであるが、そのうち真に幸福と称しうるのは純質的幸福のみである、
という趣旨であろう。日常的に我々が幸福、「楽」と思いこんでいることも、実は「苦」にほか ならないということか。
<3> 世界の生成展開と「苦」
『サーンキヤ・カーリカー』第53・54・55には、世界の生成展開について説かれている。
aStavikalpo daivas tairyagyonaS ca paficadha bhavati / m5nu§yaS caikavidhah samasato bhautikah sargah//53〃
『天神類は八種類であり、獣類は五種類であり、人間は一種類である。
総じて、1これらが]物質的な生成展開である。』(SK 53)
Urdhvam sattvaviS51as tamoviS51a§ ca mUlatah sargah / madhye rajoviS5正o brahmadistambhaparyantah〃54〃
『生成展開は、上方では純質が優勢であり、根底(下方)では%質が優勢であり、
中間では激質が優勢であり、梵天から草木に及ぶ。』(Sκ53)52)
tatra jaramararPakptaip duhkham prapnoti cetanah purusah/
lingasyavinivHtes tasm5d dul〕kharn svabh互vena〃55//
『そこ(天神・人間・獣類の三界)において、微細身(linga)が退転消滅しないかぎり、
精神的存在(cetana)たるプルシャ(霊我)は老いと死によりもたらされる苦を得る。
したがって[生成展開は]本質的に苦である。』(SK 55)53)
生成展開(sarga)には、心的なもの(bh巨va)、微細身(lihga)、物質的なもの(bhautika)と いう三種がある、第三のもの(bhautika sarga)が衆生の輪廻転生する場たる三つの世界であ る。そのうち、上方の天神界は純質が優勢であり、下方の獣類界は磐質が優勢であり、中間の 人間界は激質が優勢であるとされる.微細身(linga)とは輪廻転生の主体として想定されてい る身体である。プルシャが他の二十四原理とは全く別異であると弁別する真実の知識が生ずる と、この微細身が退転消滅し、解脱が成立する。それが起こらない間は、プルシャは輪廻に伴 う苦を被る。プルシャのみが精神的存在であるゆえに、苦を感受しうるのである、という。54)
第55カーリカーに対する註釈においてヴァーチャスパティミシュラはこう述べている。
「たとえ、種々異なる諸生物が種々様々な歓喜の享受に与ろ者たちであったとしても、老いと 死によりもたらされる苦は、あらゆる者において差別はない。実に、あらゆる者に、虫におい てすらも、「[私が二生存しなくなることが決してありませんように」「[私は1生き永らえます
ように」というようなことから成る、死への恐怖(maral]a−trasa)が存する。そして、恐怖を もたらす原因となるものは苦である。よって、死は苦である。」55)
一切の衆生は「苦」の世界に生きている。現象世界の生成展開がそもそも「苦」にほかなら ない、という観念がここに表明されている。サーンキヤ哲学は、種々の要因により我々が「苦」
に苛まれているという現状認識に立ち、それを克服する方法を希求する。
苦からの解脱を目標に掲げる宗教哲学が、その前提として現在の我々の置かれている状況を 苦と捉えるのは当然である。「一切皆苦」は仏教のみの真理(諦)ではない。現世に生きること は苦しいという通念が、ウパニシャッド以降のインド正統派哲学に見られる現世否定的傾向と
して表出しているのである。
三.一元論的シヴァ派再認識論における「苦」
カシミール・シヴァ派(Kashmir Saivism)の名で知られる、一元論的シヴァ派、すなわち トゥリカ派(Trika)の神学体系は、再認識(pratyabhijfiA)という概念を中心に構築されてい る。その再認識論の基本的文献としては、ウトパラデーヴァ(Utpaladeva,900−950 cE)の著 わした1⑪αrαρrα砂αゐ1可肪一緬γ∫緬(『主宰神再認識論頒』略号〃)K)、および、それに対する アビナヴァグブタ(Abhinavagupta, 950−1020 cE)による註釈1.〈varapratyab/iiffia−vin2al .〈ill i
(『主宰神再認識論省察』略号11)のが第一に挙げられよう。これらは、仏教に対する批判を 通じてトゥリカ派の思想的立場を明らかにすることを目的として著わされたものである。
その第四章「摂真実章(tattva−sarpgraha−adliik互ra)」は全体を総括する最終章であり、この 派の独特の救済論が述べられていろ。以下、その章の前半部分を試訳した上で、そこに見られ る「苦」の観念について考察したい。なお、訳文中、IPκの文言には下線_を付した。( ) は原語の提示もしくは同義的説明、llは補足的説明のために用いる。56)
<1> 『主宰神再認識論頒』摂真実章第1−6頒および『省察』和訳 SV互tmaiva SarvajantUn5m eka eva maheSvarah/
vi6var亘p(、 ham idani ity akharpd5marSab;qihitah 〃1//
一切衆生の自己の本体(アートマン)は、唯一にして世界万物の形質を取る者たる、
大主宰神であり、.彼は、「私はこれである」という不壊なる意識を増大せられた者
である. (/1)K4. 1.1)
ここで、まず、精神作用を有さない諸物(jada)は、精神作用を有するもの(cetana)の中に 潜在しているもの(nimagna)のみが顕現する。なぜならば、「ユ」という精神作用を有さ ない物についての意識(par亘marξa)は「私」という普遍的意識体(samvit)についての意識に おいてのみ安息する(安定的に潜在する)からである。そして、精神作用を有さない諸物はア ー トマンを有さない(nirEtman)とされているから、アートマンを有する(satman)諸生物が 丞生である。それら(衆生)の自己の本体(sv5tman,アートマン)が大主宰神(maheSvara)で
ある。大主宰神がそれ(衆生の本質としての自己)にほかならず、それ以外の何者もそうでは
ない。57>
かれ(大主宰神)は普遍的意識体を本質としている。そして、普遍的意識体には場所や時間 や個別的形態によって異なるということがまったくない。たしかに身体や生命原理(pr麺a)な
どは[場所や時間や個別的形態により]異なるにせよ、それらは精神作用を有さない物に属す るとされてはいるが、精神作用を有するものの中に潜在しているものにほかならない。ゆえに、
精神作用を本質とする(cid−5tman)唯一なる者(=大主宰神)は、自由意志(svatantrya)に よって自己の本体の中に世界万物の形質を取るということを顕現させる。
これらのことから、大主宰神は[自身の中に]客体性(idant5,「これ」ということ)を内在 させていながら、他者を顧慮することなく自己の本体に安息する(vigranti)という形態を取る
「私」なるものへの志向作用(ahaiP−vimarSa、自己反省)を完全に成すのである。58)
それゆえ、かれ(大主宰神)の全知者性・全能者性(sarvajfia−sarvakartytva)は労せずして 立証せられる。というのも、諸々の知覚器官および運動器官に対応する種々の対象に対して、
唯一なるアートマンが、知覚主体であり行為主体である。同様に、ルドラ神(Rudra)や霊魂
(ksetrajfia、身体を知る者)にとっての諸器官に適合した幾千もの対象の、すなわち存在物群 の、知覚および運動は、精神作用を本質とする単一なる者(すなわち大主宰神)におけるもの
である。 (/Pγ4.1.1)59)
1問1もしも、かの大主宰神という形態を取る者が唯一のアートマンであるならば、繋縛する もの(bandha)は何か、というのも、かれ(大主宰神)は:衆生を1解脱させるための準備を している者なのであるから. という疑問に対して1答えて]日く:
tatra svas;stedaipbhage buddhyadi grAhakatmana ! ahanik5rapar5marSapadaip nitaln anena tat 〃2〃
自らの創造した客体の(「これ」という)部分を有する、彼(大主宰神)の中において、
統覚など(統覚・生命原理・身体)は知覚主体なるものとして[ありうる: それ(統 覚など)は彼(大主宰神)によって:虚構の1自我観念という意識の領域に到らされる。
(IPK 4.1.2)60)
彼の中において、すなわち上述のように、大主宰神が自己の本体において安定した状態にあ り、光照(prakESa,顕現)という形態を取り、自分自身を映す鏡となっているとき、そのよう な彼の中において、彼自身にほかならない最高主宰神(parameSvara)によって自由意志のみに より創造されたものが、縮減化(samkoca)を先行要件とした客体の(「これ」という)部分
である。
彼の中において、統覚や生命原理や身体といったものは、「これ」なるもの(客体)として 認識されるべき対象(vedya)なのであるが、それ(統覚など)は、統覚などとは別の認識対象 にとっての知覚主体(grahaka)としては相応しい。 [しかし、統覚などは] 「これ」というこ
と(客体性)を超克することに関しては効力をもたないので、虚構の(k;taka)不完全なるも の(apUrna)を「私」なるものであるとする(ahambhava)意識(parEmarSa)を伴って顕現し ているものなのであり、 「私はデーヴァダッタである」 「私はチャイトラである」ということ を照らし出す。 (IPV4.1.2)61)
:問]以上の通りであるとしても、やはり、繋縛は何者に存するものなのか。というのも、
主宰神(iSvara)のほかには何者も存在しない[というのであるから;。 [そうして、主宰神が 繋縛されているということになってしまう。1 そこで、これ(この論難)を払拭するために、
二答えて;日く:
sa svarrlpaparijfianamayo nekab pum5n matah/
tatra s;§tau kriy互nandau bhogo duhkhasukli5tmakah 〃3〃
彼(大主宰神)は、自己の本体に対して無自覚な者となっている場合には、多様な個我 である、と考えられている。それ(個我)には、創造された行為と至福に対する、苦と 楽から成る享受がある(個我が苦楽の享受主体である) (1」Pf(4.1.3)62)
至言であるt真実には、如何なる繋縛もないのである一ただ、ほかならぬ彼(大主宰神)が 自らの無上なる自由意志によって自己の本体を縮減させて顕現させている、という場合がある。
その場合には1彼(大主宰神)には]自らの完全なる本質に関する無自覚(aparijfiana)があり、
たとえ[自らの本質が1顕現していたとしても意識されないという形を取る、まさにそれ(無 自覚)が、 [束縛の1原因として論じられている所のものである。このようなそれ(無自覚)
を有すろ(自己の本体に対して無自覚である場合の)彼が、完全性の非認識を要件とする原理、
すなわち、フルシャ(purusa,個我)と言われている,:したが・)て、縮減化ということにもと ついて、それぞれの身体・生命原理・統覚機能に個別的な差異があるので、 1彼は1多様なの
一く.↓ プ 63)
\cx〕/:)ご
また、それすなわち個我は、享受主体(bhokt;)であり、享受(bhoga)を特徴づける1享受 対象との:結合関係(sarpbandha)を経験する,そして、享受とは、形成された(kalpita)(=
創造された)行為と至福の[享受である]。形成された行為(kriy5)が圭(duh㎞a)である。
そもそも董とは、光照(prak5Sa,顕現)と非光照(aprak蕊a,非顕現)と[が渾然としてい ること1による揺らぎの状態にあるもの(caficalyarUpa)である、激質(raj as,ラジャス) [と
しての在り方]である、と言われている。また、迷(sukha)とは、光照(顕現)を本質とす る純質(sattva,サットヴァ) [としての在り方]である。一方、磐質(tamas,タマス)は、
非光照(非顕現)を本質とするものであるが、[激質と純質との]中間の休止状態(viSrama)で あり、帰滅(pralaya)に相当するものである。 (11)V4,1.3)64)
[問]「創造された」ということによって、何が排除され、何が包摂されるのか? というな らば:答えて]日く:
svえngarnpeSu bhaveSu patyur jfianam kriya ca ya / m5y5t垣ye te eva paSoh sattvam rajas tamah 4
主(大主宰神)には、自身の部分たる諸存在物に対する、知識、行為、および、これら 二者に付随する第三のものとしてのマーヤーがある。家畜(個我)には、純質・激質・
騎質がある。 (∫PK 4. L 4)65)
世界万物の形態を取る(vi§var6pa)世尊(主pati,すなわち大主宰神)には、自己の形質た るものにほかならない世界万物に対する、光照(顕現)と志向作用(vimarga.知の自己反省)
がある。実に、それら二者(光照と志向作用)が知識(jfiana)と鎚(kriyA)なのである。し かるに、自己に存する二つの形質に対する意識[がありうることコを忌避する理由はないから、
たとえ[二者が]区別されるとしても、志向作用は、まさに自己の形質に対する意識(svarifpa−
parEmarSa)の中に安息(vigranta、潜在)しているのであり、 「私はこれである」というサダ ーシヴァ(sad5siva、恒常不変の寂静)の境地、および1「これは私である」という]イーシ ュヴァラ(iSvara、主宰神・造物主)の境地の、真実の在り方である。この志向作用こそが、世 尊(大主宰神)に具わるマーヤーという可能力(may蚕一§akti)なのである。これら三者(知識
と行為とマーヤー)は、世尊(主)に本来的に具わる可能力(シャクティ)であって、創造さ れたものではない。66)
しかし、自己の本質に対して無自覚な者(個我)においては、 [自身とはコ別異なる(客体 としての)諸存在物に対する知識と行為、および光照も志向作用も欠いている純粋なる別異性
(客体性)とがある。ゆえに、家畜(個我)には、光照・光照かつ非光照・非光照こを本質と する三っのもの]がある。すなわち、順次に、楽(sukha)・苦(duh㎞a)・迷妄(moha)を特 徴とし、光照(prak59a)・行為(kriy勾・制限(niyama)という働きをする(傾向性を有する)、
純質・激質・磐質がある。 (〃)P・ 4.1.4)67)
[問コしかるに、上述の通りであるならば、最高主宰神(parameSvara)の知識・行為・マー ヤーは[その保持者たる最高主宰神と1不可分のものたる可能力(シャクティ)である、と言 われるし、同様のことが、家畜(個我)におけろ純質・激質・磐質にも当てはまるであろう(個 我における純質・激質・磐質は個我と不可分σ)ものである、ということになるだろう)。とこ ろが、それら(純質・激質・顎質)は個我という原理から分離される(別異なる)ものである と見なされている、それは何故であろうか。 という疑念を[次の偶頒によって]鎮める。
[答:l
bhedasthiteh Saktimatab Saktitvaip napadi6yate ! eSam gun5n互ip karanak5ryatvaparilユalninal11 〃5,V
諸手段および諸結果をもたらす転変を為すものである諸グナ(純質・激質・磐質)が、
これら(諸グナ)との別異性が既に確定しているところの可能力保持者の有する可能力 である、とは述べられない、 (1P1(4.1.5)68)
そのとおりであるvもしも上述のようなことがありうるならば、別異性(bheda)ということ はありえないだろう。しかるに、件の(個我と諸グナとび)間の)別異性は現に考察されている。
また、その際、純枠に精神のみのもの(cinmatra)という本性を縮減された(sarpkucita)者が、
ブルシャ(purusa,個我)であるとされている、或る存在物を対象とした光照などは、それ(プ ルシャ)に本来的に具わっている形質ではないr lさもなくば1いつ何時でもそうである(特 定の対象に対する光照が常に起こる)という事態に立ち至ってしまうから。しかるに[実際に は1そうではなく、 1特定の対象物の光照は、個我と]他(諸条件)との関係によってもたら
されるのである。69)
それゆえ、純質などのこれら(純質・激質・騎質)は、可能力の保持者(飴ktimat)として 想定されているところの、かの家畜(個我)とは別異なるものとしてあるゆえに、[純質など が: 1個我との二区別を既に述べられているところの諸々の可能力である、とは言われていな い。しかし、 [純質などは1補助的因子(llpakarana)であるから、諸グナ(副次的もの)と言 われている。70)
[問:では何故、それら(純質・激質・磐質)はプルシャ(個我)とは別異なるものであると 言われているのか。
答えよう.さてここで、−1一三の手段(karana:統覚・自我観念・意器官・5感覚器官・5運 動器官)、および、十の結果(kfirya:音声・触感・形色・味・香り、虚空・風・火・水・地)
は、楽・苦・迷妄[を特徴とすろ、純質・激質づ3質^の転変したものなのであるが、楽など
(楽・苦・迷妄)の本質として経験されている.すなわち、楽・苦・迷妄(純質・激質・場質)
は、諸手段および諸桔果の集合(認識対象たる二i一三原理)との同一性を有しているのである が、:1,しも1これらが 遍満者(vyapi)たるフ・しシャ(個我)に対して同一性を共有するとし
たならば、プルシャは諸結果および諸手段(二十三原理)をもたらす創造から成るものである、
ということになる。また、転変については[本書において]既に論破されている。71)よって、
プルシャ(個我)は自由意志という可能力によって世界万物の形態を有するものである、とい う[誤った結論]に立ち至ってしまう。また同様に、如何なる者もプルシャなる者ではありえ ず、ただ主宰神のみが〔存在する、ということになるだろう]。
したがって、自己再認識(pratyabhijfi5na)をしない者であることがプルシャ(個我)の本質 である、ということをよく考察したとき、純質など(純質・激質・磐質)は1プルシャとは]
別異なるものである、ということが立証される。 (1PV4.1.5)72)
[問]〔大主宰神の有する可能力たる]知識など(知識・行為・マーヤー)は、如何様にして、
家畜(個我)に対しては純質など(純質・激質・磐質)の形態をとるのか。 [答えて日く:]
sattanandah kriya patyus tadabhavo pi s互 paSoh / dvayatma tad rajo duhkharn SleSi sattvatamomayam〃6〃
主(大主宰神)には、有性すなわち至福という行為〔の可能力二がある。家畜(個我)
には、それ(有性すなわち純質)があり、それの無(すなわち磐質)もあり、激質があ る。その激質とは、二つの本質を有するものであり、純質と磐質[の本質たる光照と非 光照コから成る複合体であり、それ(激質)が苦である。(〃)κ4.1.6)73)
ここでまず、主(pati)は、自己光照(svaprakaSa)を本質とする者であり、顕現の多様性を 特質とする創造など(創造・維持・破壊・隠蔽・恩寵という神的行為)によって世界万物(viSva)
を守護する者(pElayitT)である。
世界万物の主である彼に具わる、亙性(sattfi)とは、世界(bhavana、存在の場)を作るとい う行為の主体たること(創造主性)であり、創造的振動(sphuratta)を本質とするものである。
[これについては:前に「それ(para vak,至高の言葉)は、創造的振動であり、壮大な存在 であり、…(s互sphuratt巨mah互satta)」という箇所(1PK l.5.14)74)で説明されている。
光照(prakaga)は志向f乍用(vimarSa)と不可分であるから、それ(有性)は、志向作用か ら成る驚異のものたる、1適の可能力(kriy5−Sakti)と言われている。また、 [光照は]他者 への依存(顧慮)を離れているので、また、自己の本体に安息するものであるゆえに、それ(有 性)は至垣(ananda)である[と言われている]。以上のように、世尊(主)は精神を本質と する(cid−fitnlat巨)ゆえに、このような形質(有性と至福)を具有するのである。75)
しかるに、家畜(paSu、個我)には、有性とそれの無、および、至福とそれの無がある。 1個 我は]その形質を縮減されたものであるから.したがって、この有性と至福という部分こそが、
光照と楽という作用を有する純質であるLt塾(有性と至福)哩とは、隠蔽(蚕varana)と迷 妄(moha)という形態をとる夏質である。76)