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生 の 力 と知 性 の 希 求

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(1)

1

生 の 力 と知 性 の 希 求

( 1 )

プラ トニズム再考‑

村 (種山)恭

1.問題のあ りか (1)‑ プラ トンの場合 とヘ レニズム時代の場合の問題 設定

この論文 で扱 お うとす るのは,最終的には,‑ レニズム時代の思想 に, プラ トンの思想が どんな影響 を及ぼ したか, とい う問題 であ る。あ るいは, この同 じ問題 を逆 の視点で,すなわ ち, プラ トニズム自身が ど うい う修正を受 けて‑

レニズム時代に生 き残 った とい う形 で考 えることであ る。

むろん この ように問題 を設定す る場合,本稿 の執筆者であ る私 自身が, 「プ ラ トンの思想」あ るいは 「プラ トニズム」の語で, ど うい う内容の ものを考 え てい るのか,あ るいは, 「‑ レニズム時代の思想」 とい って も多様な傾 向の も のがあ る中で,特 に どの系統 の ものを指すのかについて, まず釈 明 しておかな ければな らないのは事実であ る。

後者の問題については,一応 「ス トア派」を念頭 に置いてい るとい うのが, 私 の答であ る。 しか し,「プラ トニズム」の真髄は ど うい うものか とか,「ス ト

ア派」の特徴は何 であ るのか とい うよ うな,それ 自体が問題 であ ることを‑

暗黙の うちにで も‑ 前提にす るところか ら出発す ることは避け,む しろ, プ ラ トン自身が ど うい う問題 に直面 したか, ス トア派あ るいは一般 に‑ レニズム 時代の思想家が問題 に しないわけには行かなか った こととは何であ ったか とい

うことに注 目す るところか ら始 めたい。

そ して ここに まず,以上 の思想家達が直面 した問頭だ として差 し支 えないで あろ うものの少な くとも若干を, ご く大 ざっばに 「問題」 として想定す るとい

(2)

う形で (つ ま りテキス トを挙げて確認す るとい う形でな く)記 し,その後で, それな らその問題に対 して, プラ トンが ど う解決 しようとしたか, また,‑ レ ニズム時代の思想家達,特にス トア派が ど う対処 しようとしたか とい う点に絞 って, テキス トと照合 しなが ら考えて行 くことに し,それか ら改めて, ここに 想定 した 「彼 らの直面 した問題」を, もう少 し詳細に検討 したい。

(i) プラ トンについては, さし当 り次の ような問題を掲げ ることにす る :

α)

プラ トンに とっての最重要な問題の一つは,彼 の祖国, 「自由」を誇 り とし高度な文化を養 った アテナイが, まさにその 「自由」の故にペ ロボネソス 戟争に敗北 した上,内部崩壊の危機に曝 されていた とい う点だ と言えるだろ う。

多数決原理 の 「民主制」(

de mokr at i

豆)の もとでは,民衆扇動家

( de ma g6go s)

の大衆演説が 「多数者」を動か し, 自制を知 らない群衆が 自分達の代表者 とし て 「独裁者」を擁立 し,政治が最悪 の状態に陥 る危険がある。 ポ リスの内部分 裂を避け,協調を実現す るには ど うすれば よいか。

β) 一方には, 「多数者」を一つの方 向に‑ 例えば隣国を侵略 して 自分達 の領土を拡大す るとい う方 向に‑ 推 し進 め る 「大衆説得術」があ り,他方に は, この場合,領土拡大がかえって どうい う面倒を引 き起 こすか とい う政治的 問題か ら遡 って,個人及びポ リス全体に とって, 「有利 な こと」あ るいは 「善 き生」 とは何であろ うかを考 える,哲学的考究があ り, この両者は明 らかに異 なるであろ う。 しか し 「真に善 き生」あ るいは 「善」の意味を考究す る厳正な

「論理」 とい うものがあ り得 るか ど うか。 あるとして も 「多数者」に感知 させ ることが, どうして可能か。可能でない とすれば, 「哲学」は結局は アウ トサ イダーの咳 きで しかない ことになるだろ うが,それが 「哲学」 とい うものであ ろ うか。

γ) 美 ・醜は個人やそれぞれの社会の趣 味の問題であ り,正 ・不正はポ リス

(3)

3

の制定 した法律やその地域 ・その時代の慣習の上の もので しかな く,時代 ・地 域 を越 えた厳然たる事実 と言えるものは,強肉強食 こそが 自然 の綻, とい うこ とだ‑ といった観念が浸透 している. しか しそれは 「事実」なのか. 「自然 本来」 とい うものを改めて考察の対象 とすべ きではないか。

(ii) 他方,すでに 「自分達の生活 ・文化全体の母体 と言える自由 ・自治の ポ リスを守 る」 とい うことが無意味になって しまっている,‑ レニズム時代の 思想家について も,上記 プラ トンの場合 と対応 させなが ら,彼 らが直面 した と 言える問題を挙げお く :‑

a)

諸王はすでにそれぞれの領土内で独裁権を握 っているとともに,世界制 覇を 目指 しての相互の権力争いが絶 えないのが現実であ る。それぞれ価値観 ・ 風習を異にす る異民族のすべてを包括す る全世界の協調は可能であるか。可能 とすれば どの ように して可能か。

b)

同一 のポ リス内の同胞である自由民に対 して, 「ついには話がわか って もらえるだろ う」 ことを期待 しなが ら,相手の大前提を吟味 し同意を得なが ら, 反省を求めて行 くとい う仕方で,政治に積極的に責任を持つ ことは, もはや不 可能である。「善」の意味を追求す る厳正な論理を求める以前に

,

「言語」 とは どの ような機能 ・構造を持つ ものなのか, 「誤 ることのない論理」の形式 とは どの ような ものか, といった ことの検討が不可欠であ る。 さらに, 「ポ リスと 運命をともに している自分」 とい う図式で 自分を考えることが不可能である以 上,広大で多様な 自然世界 と動揺す る人間世界の中で ,個人である 「自分 自身」

が ど う位置づけ られ得 るかを考えなければな らず, また, 自分に とって直接的 に 「善 きもの」 と思われ るものが,世界全体の運命‑ その ような ものがあ る

とすれば,であ るが‑ とどう関係す るかを確認 しなければな らない。

C)

多様な習俗,様 々な社会的変動の背後に, 「自然世界」は確かに厳然た る同一性を見せているよ うに も思われ る。 「弱肉弱食」は現実に人間社会を支

(4)

配 してい るよ うに見 えるが, 「自然」‑ そ して この 「自分 自身」 も自然 の一 部 に他な らないが‑ とい うものを全面的 に考察 しなければな らない。

2.

問題の あ りか

(2)‑

ホ ワイ トへ t/ドよ り

われわれは ここで一転 して,

A.N.

ホ ワイ ト‑ ッ ドに向かいたい と思 う。何 故な ら, プラ トニス トを 自認す るホ ワイ ト‑ ッ ドの著作 には,われわれが, プ ラ トンや‑ レニズムに時代の思想家が直面 した問題 として上 に挙げ た も の の

「現代版」 とも言 えるものが,明 らかに見 て取れ るか らであ る。そ して事実 ま た,次 の よ うな点が現在 のわれわれに とって も問題 であ るのは言 うまで もない であろ う :相互 に折 り合わない とも思われ る価値観 ・世界観が互 いに 自己主張 しなが ら相克す るのを 「協調」 させ ることが, どの よ うに して可能であ るのか ; また,それぞれの社会 内で 「自明 として通用 してい る」論理を越 えた普遍性 を 持つ もので,かつ,例 えば何か新興宗数 の夢見心地 の観念連合 の体系で もな く,

しか も,単 な る 「同語反復

(トー トロジー)で もない ものがあ り得 るか ど う か ;さらに,部族闘争 に終わ るよ うな, 自己主張 の怒号を煽 り立 て る 「狂信」

ではな くて,人類的な規模 での 「理想 」 とい うものがあ り得 るのか,あ るとし て も,それが どの ように して潜在状態か ら現実化 し得 るのか ;あ るいは, 「自 然実在」 とい う,われわれ もその一部であ るはず の ものが,われわ れ の 価 値 観 ・世界観 とは関係な く,ただ,物理的法則 に従 って進行 し,ついには全 くの 無に帰す るのか,それ とも, 「自然法則」 とは人間の幻想 で, 自然実在 とは要 す るに偶然 の集積 に過 ぎないのか‑ こ うした問題が現在のわれわれに とって

も問題 であ るのは言 うまで もない。

( 1 )

そ こで, ホ ワイ ト‑ ッ ドの 『観念 の冒険

』( Adv e nt ur e so fZde as )

を取 り 上げ, プラ トンお よび‑ レニズム時代 の思想 家が直面 したはず の もとして挙げ た,上記 の よ うな問題点を念頭 にお きなが ら, ホ ワイ ト‑ ッ ドの発言を記 して みたい と思 う :‑

(5)

5 A)

民衆扇動家の芝居がか った演説のほかに も,国旗や国歌が人 々を奮起 さ せ ているとい う事実 もあるが, この ような現象の背後に,大 きな普遍性 を持 っ た 「一般的観念」(

gener ali dea s )

もしくは 「大観念」(

gr eati dea s )が,ただ

漠然 と予感 されているだけではあ って も, しか し厳然た る推進力 として作用 し

(2)

ている。 こうした 「大観念」は,現実 の歴史の中では,その都度 の時代 ・地城 (3)

に応 じて次 々と相次 ぐ特殊な表現に 自らを具体化 して行 くのであるが, この時, (4) 邪悪 な仲間 ・忌 まわ しい同盟者 を伴 って,実在の世界

( r eal i t y)に入 り込む。

例 えば 「人身御供」,「人間奴隷」な どは,宗教 の大 きな直観 (

i nt ui t i on) や文

明的諸 目的が ,祖先か ら受け継がれた,本能的行為 の野蛮

( br ut al i t i es )

を手段

(5)

として 自己表現を している例であ る。そ して, この ように してその時代 ・地域 の中に固着 し偏狭 となって しまっている 「社会観

「人間観」 と不可分の関係 にある既存の秩序に対 しては,普遍性 のあ る 「一般観念」は,革命を呼び覚 ま

(6)

しかねない危険な ものであ る。それで もこうした 「一般観念」は次 々と自己を 具体化 して行 くのであ るが, しか し高度 に普遍的な 「一般観念」が説得力のあ る十分な普遍形式で表現 され ることは滅多にないだろ う。説得力のある表現が 得 られ るか どうかは,例 えば プラ トンの ような天才が出現す るとい う偶然の機

(7) 会 に依存す る。

B)各 々の人間の価値観を批判す る 「厳正な論理」が存在 し得 るか とい うこ とを問題 にす る以前に,それぞれの学者が提 出す る理論に,その学者 自身が暗 黙 の うちに前提 している,「重要 ・墳末」,「賢 ・愚」,「進歩 ・退廃」とい った価 値的判断の方 向付けに依存 していない ものがあ るか どうかを考えるべ きであ る。

さらに 〔高揚 ・悲観な どの〕情動 とは全 く無縁の理論 ・知識があ るだろ うか。

「なまの事実」(

bar ef a c t s )とは何なのか。視覚 に映 じてい るだけの ものは 「動

いている色付 きの形」で しかな く,われわれは現にいつ もこれを 「解釈 してい

( i nt er pr et )

」のであ る。「純粋 な歴史」(

pur ehi s t or y)

だ とか 「単なる知識」

( mer ekno wl edge)

だ とかを信 じるな どは, 自分 自身の時代,地域,民族,辛

(6)

派な どの限界を察知す ることの出来ない田舎根性

( pr ovi nci a l i t y)

で しかあ り (8)

得ない。

C)

比較的高度な一般性を持つ他の諸観念 の歴 史と同様

,

法則

」 ( Law)

観念 も,多種多様な時代の公然た る明白な

(expl i ci t )

意識に入 り込んで くる時

には,その各 々の時代の民間宗教 に含 まれている他の諸要素 と融合す るために, (9)

あ りとあ らゆ る様 々に特殊な形を取 る。 ところで,近代では,例えば ヒュ‑ム の ように人間精神を 「知覚の束」 として捉 える場合,人間 としての人間‑ なわち,社会的地位や特別 な能力な ど,一般に特殊な優越性 の有無を抜 きに し た 「人間」 としての人間 に対す る愛 とい った情 (pa

s s i on)を,われわれ人

間に期待す ることは出来な くな りそ うであ る。 さらにまた,近代の進化論の描 く 「自然」 (

Nat ur e)の像は,容赦 のない ものであって,劣等者は絶滅 され る

( l D

のが 自然 の錠だ とい うことにな る。 しか し 「自然」 とは,あ るいは 「自然の法

0 カ

則」 とは ど うい うものなのかを改 めて考 えなければな らない。

以上, ホ ワイ ト‑ ッ ドが問題 とした ものの,少な くとも若干を, プラ トンお よび‑ レニズム時代の思想家達の直面 した問題 として前節で挙げた項 目に対応 す る形で素描 したのであるが, これ らの問題 に対す るホ ワイ ト‑ ッ ドの提案を 予め, ご く大 ざっばに‑ しか も,上記の ような,われわれの問題設定 の場合

と同様,想定的Kl 記す とすれば,一応次の ように言えるだろ う :‑

〔1

自分 自身の閉鎖的社会の限界を 「限界」 として受け入れ ることを知 ら ないのは田舎根性である。 しか し限界の 自覚 とは, 「分業を守 って他者 と不可 侵条約を結ぶ」とい うことでな く,む しろ,領域 を画 された分野での単純 な言 明 も,世界についての何 らかの全体像あ るいは価値判断を暗黙の うちに前提 に している, とい うのが 「事実」であ るのを認めることを意味す る。そ して,例 えば 「明噺判明」 と思われ る何 らかの命題か ら,一方的に浜揮す るのでな く,

「漠然た る全体像」があ らゆ る言明の背景にあ る以上,「知識体系」 もその全体

(7)

7

像 と,全体的に対 応 してい るか どうかを基準 として立 て られ るべ きであ る。

〔2〕

そ してまた 「全体像」とい う場合,生 きる人間を動か してい る 「情動」

( emot i on)

あ るいは 「激情」 (pa

s s i on)を 「不合理 な もの」 とす るのは, こわ

ば った実証主義的学者の偏狭以外 の何 もので もない。いわゆ る 「客観的」 と言 われ る物理学 の計算で表現 され てい るものが 「自然実在」だ とす るのではな く, 逆 に,物理的世界の最小単位を も,何 らかの意味 で 「感 じる

( f eel )もの

「自

0 4

己充足を求めて取捨選択 しなが ら生 きるもの」 の観点で捉 え直すべ きである。

ところで上記

〔1

は, まさに プラ トンの 「デ ィア レクテ ィケ

」( di a l ekt i ‑ ke)の方法が狙 い としていた ことと一致す ると言 って よい と思われ るが,本稿

では,前節 のγ)

,C)

,及 び本節 ホ ワイ ト‑ ッ ドの

C)

に挙げた, 「自 然 の 法 則」の項か ら出発 したい。

3.

「自然の法則

」( 1

)‑ ホ ワイ トヘ ッ ドよ り

「自然」あ るいは 「宇宙」についての観念 も,それぞれの時代に浸透 してい る一般的な観念,あ るいはその ような観念が浸透 してい る社会体制 と不可分 の

u4)

関係にあ る, とい うのが ホ ワイ ト‑ ッ ドの指摘す るところであ るが,一般的に 言 って, 「自然 の法則」に関す る四つ の説があ るのだ として,彼は次 の ような

タイプの法則説を挙げ る :‑

「内在法則」(

I mma nentLa w)

の説。

この説は, ご く簡単に言 えば, 自然 を構成 してい る様 々な事物 に共通 した要 素が 「自然 の秩序」 として現れ る, とい うものであ る。 この説か らす ると, ど んな法則に して も, 自然がそれ と厳密 に一致す ることは期待 で きないのであ り, また, 自然が進化すれば,法則 も進化す るとい うことにな る。 この説は, 自然 におけ る事物 の性格は,当該事物の相互連結

(i nt er c onnec t i o

ns)の結果であ り, また,それ ら事物 の相互連結は,そ うした事物 の性格 の結果だ とい う形而上学

(8)

u5)

説に よって支え られなければな らない。

賦課法則

(

I mpos edLa w)の誼O

この説は,次 の ような形而上学説を採用 してい る :すわ ち, 自然の究極的構 成要素それぞれの性格は,他 とは関係な く,その ものだけの性格 なのであ って, 相互 の関係は 「外的関係」(

ext er nalr el at i ons )だ とす るのであ る。 この説は

一種 の 「理神論」(Dei

s m)を思わせ, デカル トの 「実体」の概念,すなわ ち,

「存在す るのに,その もの 自身以外 の何 ものを も要 しない」 とい うような考え か ら自然 に帰結す る。 こうした理神論的な 「賦課法則」 の説か らすれば, 自然 の法則は厳重に守 られ ることにな る。上記 「内在法則」説か らすれば,法則は 統計的性格 を持つ ことにな るだろ うし,実際

,1 9

世紀に知 られ ていた物理学 の 法則の大部分は,そ うした統計的性格 の ものだ とい うのが,今 日の物理学者 の

a

7 )

意見 なのであ るが, しか しデカル ト以前で も,科学的探究 の原動力 とな してい た ものは,何 らかの形の 「賦課」

( i mpos i t i o n)

,及 びその結果 たる厳密性への 暗黙の信念だ ったのであ る。 ところで,確かに蛮族で も 「昼 と夜 の反復」 とい った,大規模 なは っき りした一律性 に気付いて,例えば悪霊 を伏 し拝む ような ことを したのであ るが, 「内在説を理解す る文 明人」 な ら,次 の ような結論を 引 き出すのが当然であろ う :す なわ ち, 自然 の構成要素を通 じて共通 した特徴 が支配す ると言 って も,それは きわめて限 られた もので しかない, とい うこと であ る。だがそれでは,如何な る科学 も存在 し得 なか ったであろ うし, さらに,

賦課法則」 の説 を離れて

,

「内在説」だけでは,何故,宇宙が法則のない混沌

( l a wl e s s cha o s)

‑ と逆戻 りして行かないのか,その理 由を与 え ることは全 く 出来 ないのである。

「記述」(

De s c r i pt i o n)説。

これは 「実証主義説

」 ( Pos i t i vi s t i cdoc t r i ne)であ って, この説 に よると,

「自然 の法則」 とは単に, 自然 の事物 の うちに観察 され る一連 の継起の中に, 一貫 して何 らかのパ ター ンが存統す るのが観察 され る場合の,そのパ ター ンの

(9)

9

u

9

存続を言 うに過 ぎず,従 って, 「法則」 とは 「記述」に過 ぎない とい うことに なる。 この説は 「内在説」や 「賦課説」の ように,現象の背後 にあ る 「内的関 係」だ とか,外か ら秩序 を賦課す る 「神」だ とかに関す る形而上学説を排除 し ているものであ り,魅力的な単純 さを持つ。 この説は,われわれが事物の継起 についての「直接知

」 ( ac quai nt a nc e)を持 っていることを前提 としている。だ

か ら, 自然 の法則 とい うものは,観察 された事物 について何事かを語 るのみで, それ以上は何 も語 らない ことにな り,「理解す る」(

under s t a ndi ng)

とは 「記述 の単純 さ」を意味す ることにな る。確かに 「実証主義」の説は,科学の方法論 に関す る一つの基本的真理を含んでお り,例 えば ニ ュー トンに して も,観察 さ

れた事実 の,観察 された相関関係を表現す る公式を言明 してい るのであ る。 と ころで,「ス コラ学」と 「近代人」の相違 の一つは,「批判」 と 「権威への依存」

に関す るものであ るが,近代人 とは違 った面で, ス コラ学者 も結構,批判的で あ った し, 「近代人」は また前者 とは違 った面 で,結構,権威追随型なのであ る。中世の大学でス コラ学 の博士 であ った ような種類の人物が,今 日では近代 的な大学 の科学 の教授なのであ る。近代の学問 ・科学は,独断的 に想定 された 不十分な形而上学的想定 に基づいて予め決定 された限界内だけに,思考 と観察 の道を開 く。近代の想定 しているものは,以前に想定 されていた もの とは異な ってほい るが,必ず しも全面的に よりよくな ったわけではない。近代の場合の ほ うが,存在の究極的な価値を,合理的思考か ら排除 している度合が大であ る。

専門職業化 された学者気質の内心にひそむ小心がその論題を, 「単 なる感覚与

」( bar es ens a)だ とか

,「同語反復」(

t aut ol o gi e s )だ とかい った些末な もの

へ と縮小す ることに よって,理性の周囲に境界を画す る。それか らそれは,残 余の経験 を,「動物的信念

」 ( a ni malf ai t h)だ とか 「宗教的神秘主義」だ とか

いった,合理化の不可能な ものへ と独断的に引き渡す ことに よって, 自分は批

Pl) 判を免れ るようにす るのであ る。

「規約解釈」(

Convent i onalI nt er pr et at i on)説。

(10)

「法則」に関す るこの説が,時代的に最 も新 しい ものであ るが, これは確か に, 自由な思索

( f r ees pec ul at i on)

が 「自然」についての解釈へ と移 って行 く 過程 を表現 してい る。われわれは事実問題についての直接的で詳細 な観察か ら 離れ て,観念の体系

( s ys t em ofi de a s )

を仕上げてい るのであ って, こうした 詳細な観察への無関心が,表面的には プラ トンの対話篇の特徴 であ るよ うに見 える。そ して数学 もまた特 に近年において,階型

( t ypeofor der )

についての 思索的関心

( s pe c ul at i vei nt er es t )

に よって発達 して きたのであ るが, この場 令, これ らの型を例証す る特定 の存在 を決定す ることは少 しもしないのであ る。

しか しその後, 「自然」は, こうした数学 の語で解釈 されて きた。結論は次の ような ものであろ う : 「自然」はわれわれがた また ま関心を持つ語で解釈 され るのを許す, とい うことであ る。 さらに,物理的世界の幾何学的性格 を解釈す る場合 も,ユー ク リッ ド幾何学を採用す るか,非 ユー ク リッ ド幾何学 を採用す か とい う点に慈意的選択 とい う要素が入 り込むが, しか し,だか らと言って,

「自然 の法則」が盗意的な規約だ とい うことにはな らない。ただわれわれが, 任意 に選 ばれた一群の事実 に注意 を向け ることが出来 る, とい う 以 外 に は,

「規約的」な ものは何 も存在 しない。 どの よ うな計量 システムを採用す るとし て も,従 って計量単位が どの よ うに表示 され るとして も

,

「歩いて疲れ る距離」

まで もが慈意的な規約で変動可能 とい うわけではない。 「非計量射影幾何学」

の発達か らもわか るよ うに,普通の幾何学 はむ しろ,測定や数 とは関係な く成 立す る。無数 と言 って よいほ どの純粋抽象科学が未発達 な状態 で存在 してい る であろ うし, 「自然」はそれ らを例証 してい るのであろ うが,われわれにそれ が見 えないのは,探究すべ き規則の型に無知なためだ と言え るだろ う。確かに, それ らの規則が人間の意識 に上 って来 る順序は,その時その時 に人間が発達 さ せ よ うとして選 んだ抽象科学 に依存す る。 しか しだか らと言 って, 自然の どん な事実 もわれわれが指定 したい思 う任意 の法則 を例証す るもの として解釈 され

匹 ;

得 る, とい うように歪 曲され るべ きではない。

(11)

ll

さて,以上 の よ うに, ホ ワイ ト‑ ッ ドの分析す る 「法則」の観念 を見て きた わけであ るが, こうした図式を一応 の 目安 としなが ら, プラ トンの宇宙像 とス トア派 の宇宙像 とを対比 しなが ら検討 したいのであ る。 ‑ 特 に プラ トンでは

「賦課法則」の考えと, 「内在在則」 の考 え とが不整合 なまま共在 しているの が見 て取れ るよ うに思われ,他方, ス トア派 では 「内在法則」の考えが支配的 であ るよ うに思われ るのであ るが, 両者 につ いて,その背景 と,それぞれの争 む問題点 とを出来 るだけ跡付け るとい うのが,本稿 の一つの 目的 なのであ る。

4.

「自然の秩序」‑ プラ トンの場合 (i)政治の現実 の中で

ここでわれわれは, も う一度第

1

節 の (i)で, プラ トンが直面 した問題 と して挙げた ものに帰 りたい。 ポ リスに内部分裂が起 こらない ように,全体 を協 調あ る一体 の もの とす るには, ど うすべ きか‑ これが プラ トンに とっての最 量要 な課題であ った ことは, ここで も前提 に してお きたい。一面的で短絡 とも 言えるよ うな主義あ るいは人生観 を頑強 に主張す る人 々に反省を促す, ソクラ テスの問答法については,む しろ後 の機会 に論 じることに し, ここではむ しろ, プ ラ トンが 「正義」(t

odi kai on)の実質的な意味を追求 してい る 『国家』の一

節か ら始 めたい。

『国家』は まず,老人 ケパ ロス とソクラテスの対話か ら始 まるのであ るが, この老人は端正

(kos mi os)で 自足を知 る (eukol os)人間であ りさえすれば老

年 もさほ ど苦 になるものではない と言い, さらに 自分 にほ どほ どの財産があ っ たおかげで,他人に不本意なが ら嘘を言 うこともしな くてす んだのだ し,神‑

のお供 えを しない まま,あ るいは誰かに金を借 りた ままで,び くび くしなが ら この世を去 るとい うことにな らず にすみそ うだが, こうした点で, とにか く理

性 を弁 えてい る著 に とっては,金銭 の所有 は大 いに役立つ と言 う。

(12)

周囲の状況如何 にかかわ らず,「借 りた ものを返す」(t

aophei l omenaap∝l i 一

donai )

ことが 「正 しい」と言えるか とい うソクラテスの問いに対 して, ケパ ロ

スの息子 ポ レマル コスは,詩人 シモニデスの言葉 を借 り, この詩人 の考 えでは

「人は友 に対 して,何か善い ことをな し,悪 い ことは決 して しない とい うこと を,借 りとして負 ってい る (

ophei l ei n

‑報い として返すべ きもの として負って い る)」 のだ とい うよ うに解釈 し,だか らまた 「敵 に対 して借 りと して負って

いるものは ,敵 に対 してふ さわ しい もの ,つ ま り何か悪 い ことを してや るこだ」

と言 う。 これ に対 して,一種揚げ足取 りとも見 える論法で ソクラテスが批判 し て行 くのであ るが, ここではただ, ソクラテスがポ レマル コスに対 して最後 に 言 っている言葉,つ ま り, 「だか ら,相手が友 であろ うが誰であろ うが,お よ そ人を害す るな どは,正 しい人のす ることではな くて,その反対 の,不正な人 のす ることであ り,そ して友 を刺 し敵 を害す るのが重上土 とい うよ うな ことは, シモニデス とか,その他知者 と言われてい る人 々の誰かが言 ったのではな く,

∈姻

ベル シアの王 クセル クセスか,誰か独裁借主が言 ったのだろ う」 とい うよ うな 言葉 に注意 してお きたい。

恐 ら く, ケパ ロスや ポ レマル コスの 「正義」観は,何 らかの意味で安定 した, あ るいは閉鎖的な社会 の通念を表 明 してい るもの とも言えるだろ うが, しか し,

ソクラテスとポ レマル コスの対話に割 って入 った,弁論家 トラシ ュマ コスの激 烈 な 口調 の弁舌は,あ る新 しい, しか し, プラ トンが終生問題 に しなければな らなか った思潮 を代弁 してい ると言 えるだろ う。 ソクラテスに,たわけた話は 止 めろ.′ と怒鳴 りつけた トラシ ュマ コス 自身の所見は次 の ような ものであ る : それぞれ の社会 の支配階級‑ 民主制

( de mokr at i

a)の もとでは民衆,借主独 裁制

( t yr a m i s )

の とでは 独裁借主‑ が, それぞれ 自分 の利益 に合わせ て法 律を制定す るのだか ら

,

「正 しい こと」 とはつ ま り,支配階級 の利益 になること

(t os ympher on)

に他 な らない。 支配者 と民衆 の関係は羊飼 い ・牛飼 い と羊 ・ 牛の関係 と同 じで,被支配者か らすれば 「正義」 とは他人に とっての 「善い こ

(13)

1 3

と」, 自分に とっては損害 で しかない。土蔵破 り,詐欺 ,窃盗な ども一つ一つで は発覚すれば罰 と非難を受 け るが,一挙に ごっそ りポ リス全体を隷属 させ,人 々の財産を巻 き上げ るな ら,そ うい う借主はかえって 「幸せな人

祝福 され

た人」 と呼ばれ るのだ。‑

『国家』 よ りも先に書かれた 『ゴルギアス』中の弁論家 カ リクレスは, ソクラ テスに対 して もっと好意的であ って,

い年を していつ まで も 「哲学」(

ph

ilo

s ophi 豆)に耽けって世間知 らずになっているような ソクラテスの身を案 じてた

しなめるのであ るが, カ リクレスの主張は以下の よ うな ものであ る :‑ , 自

( phys i s )

におけ る 「正義」 と法律 ・習慣

( nomos )の上 の 「正義」 とはたい

ていの場合相反 してい る。 自然がいた るところで明示 してい るのは,他 の動物 の場合 もそ うだが,人間の場合 も,ポ リスとポ リス,種族 と種族 とい うように, それぞれ全体 として考 えるな ら,優者

( a mei n6n)が劣等者 ( khei r 6n)

よ り

も,強者

( kT ei

tt6n)が弱者

(he t t 6n)よ りも,「よ り多 くを持 ち」,前者が後者

を支配す るのが 「正義」だ とい うことであ る。だが無能な弱者た る多数者が法 律を制定 して,「多 くを取 る」のは醜い こと ・不正な ことだ と言い,自分達の中 の優者 ・強者を, ライオ ンを飼 い慣 らす時 の よ うに,子供の時か ら手元に引き 取 って,平等に持つのが美 しい こと ・正 しい ことだ と,呪文を唱えるように言 って聞かせて,骨抜 きにす る。 しか し素質十分な男が こうした束縛を踏みに じ

81) って立 ち上が るとき,「自然の正義」は燦然 と輝 き出すのだ。

われわれは トラシュマ コスや カ リクレスの主張に,あ る種 の情熱を感 じない わけには行かない。 ホ ワイ ト‑ ッ ド流に言えば 「批判的な不満

」( c r i t i c a ldi s 一

亡珍

c ont ent )

の噴出の例 とも言えるか も知れない。 ドラマテ ィス トの才豊かな プラ トンの対話篇に登場す る彼 らの発言 と,実物 の彼 らの思想 とが どこまで一致 し ていたかはわか らない。 しか しいずれに して も, 「独裁者 の利益が結局は正 当 化 され るのだ」 とか 「平等が美 しいな どは,凡俗な小市民が優秀 な者を恐れ,

(14)

保身のために案 じ出 した呪文 の よ うな ものだ」 とかい った主張は, プラ トンが それ こそ,亡 き ソクラテスを追体験 しなが ら,作 品の中で ソクラテスと対決 さ せ る相手 として不足が ない と考えた,迫力のあ る思潮だ った と言えるだろ う。

ところで 『ゴルギ アス』中のカ リクレスは,強者が弱者 を支配す るのが 「自 然 の正義」だ と述べ てい る際 に, 「クセル クセスが ギ リシアの地 に兵を進 めて

来たの も, 自然 の正義 を掲 げての ことだ」 と言 ってい るが, ポ リスとい う小規 模 な共 同体 内部で折 り合 って制定 され る 「法律」 の問題 よ りも, ポ リス間,鍾 族間の闘争を念頭 に置 きなが ら, カ リクレスが 「強者が弱者 を支配す るのが 自 然の正義」 と言 ってい るのは,上 に挙げた カ リクレスの言葉か ら明かであ る。

ところで カ リクレスは, 「自然 の正義」を賛美 しなが ら, ピソダ ロスの 「死 すべ きもの,不死 なるもの,すべての王な る法

( nomos )

は,非道 の限 りをな しなが ら,至高の腕 力で これを正義 とす る」 とい う詩句を引用 してい るのであ

るが, この同 じ詩句は,‑ ロ ドトス もまた,民族が異なれば こ うも風習が異 な るのか と驚か された場面 に言及 しなが ら, 引用 してい るものであ る :ダ レイオ スがその治世中,側近 のギ リシア人を呼んで, どれほ どの金を もらった ら,死 んだ父親 の肉を食 う気 にな るか と尋ねた ところ, どれほ ど金を もらって もそん な気 にはなれない と言 ったが,今度は イ ン ドの一部族を呼んで, どれほ どの金 を もらった ら,死 んだ父親を火葬 にす ることを承知す るか と尋ねた ところ,相 手は大声 で王に対 して 口を謹んで もらいたい と言 った, とい うエ ピソー ドがそ

れであ る。

‑ ロ ドトスは この他,結婚適齢期 の娘を一所 に集 めていわば競 売 の 形 で,

8 @

美女 の順 に高値 をつけて競 りに よって結婚相手 を決 めるとい うバ ビロンの風習 だ とか,あ るいは戦闘で殺 した敵兵 の首 を王の もとに持参 して戦利 品の分け前 に与 る風習のあ るスキ ュタイ人が,その首 の頭皮を手 巾状に して馬の くつわに

掛けて誇 った とい うよ うな記事を多 々記録 してい るO

(15)

1 5

さらに

,4 0 0 B. C.

頃に書かれた と推定 され る, ドリス方言で書かれた もの

で,今 日

,

『両論

』( Di s s oiLo goi )

とい う表題 で知 られてい る作者不詳 の小品 は, スキュ タイ人の場合やその他 ギ リシア人か らは狂気 の沙汰 としか思 えない 風習が 「立派な こと」 としてまか り通 ってい る例 を挙げ,結局, 同 じ行為 につ いて 「美」 とす る人 々があれば必ず また 「醜」 とす る人 々もあ るとい うことを 述べ ているものであ る。

しか もこれは, いわゆ る 「未開の部族」 の話に限 られ るのではな く,古 い文 化 を持つエ ジプ トや,大 国ベル シアにおいても, ギ リシア人か ら見れば奇異 も

B

し くは到底馴染めない風習が 「美風」 とされてい ることは, プラ トンの時代に は,常識 とな っていたはず であ る。

われわれは先に, 「正義」 とい うのは支配者 の利益 に合わせ て制定 され るも のだ とい う トラシュマ コスの主張や,「正義」 と言 って も

,

「自然」の正義は優 老 ・強者が支配す ることであ るが,弱者 であ る大衆が 自分達 の保身 のために強 者 に概をはめ ようとして制定 した ものが 「法律 ・習慣」の上 の正義だ とす るカ リクレスの発言を見た。 だが, 「自然」 の本来のあ り方 とは真実には ど うい う ものなのか。 これが プラ トンの課題だ ったのは言 うまで もな く, この問題 に対 して プラ トンの試みた解決策が どの ような ものであ ったかを検討す るのが,本 稿 の 目的なのであ るが, しか しそ の前に, 「風習 ・価値観 の多様」 とい う一種 の衝撃に対す る, ギ リシア人 の も う一つの反応 として プロタゴラス説を次 の項 で概観 してお きたい。

(i i )「知性 の作用」 と 「感覚主体」

この項 は認識論 に もかかわ るので,詳細につ いて論 じるのは,む しろ後 の課 題 としてお きたい。 ここでは,政治の現実が押 し付けて来 る問題 と, プラ トン の提案す る宇宙論 とを関係付け るもの として,少な くとも 『テアイテ トス』で

(16)

プラ トンがなみなみな らぬ問題 と して取 り上 げてい るプロタゴラス説 を,上記 の よ うな問題の側面か ら概観 してお きたい。

『テアイテ トス』で プラ ト,/が 「プロダゴラス説」 と して述べ ているものを, 01

まず 「人間尺度説」 として捉 え るところか ら出発 しよ う。 「あ らゆ るものの尺

( met r on)は人間であ る,あ るものにつ いてはあ る ( es t i )

とい うことの,

あ らぬ ものにつ いてはを 生型

( ouk es t i )

とい うことの」 とい うのが 「人間尺 度説」であ るが,作中の ソクラテスが これを解釈 して, 「同 じ風で も寒気を感 じる者 と,それを感 じない者があ って も, どち らに とって もそれは虚偽 なので はな く,他の誰 もがその当人 の感 じを否定 で きない以上,それはそ う感 じてい

d る当人に とってあ るとい うことにな るとい う意味だろ う」 と言 うのであ る。 ソ

クラテスは しか し, 自ら解釈 した以上 の よ うな 「人間尺度説」に対 して反問す る :‑ もしもそ うだ とす ると,お よそ感覚す る も の な ら,豚 で も沸 々で も

何で もが尺度 とな るわけで,賢 ・愚の区別はな くな って しま うでないか, と。

だが これに対 しては プロタゴラスは次 の よ うに反駁す るだろ うと ソクラテスは 言 う :‑ 確か に各人に現れ てい るもの

( phai nomenon,phant a s i 豆)は誰 も否

定 し難 く,当人に とって旦 冬のに達 いないが,例 えば健康人には 旨い と感 じら れ るものが病人に とって苦 い と感 じられ るな ど,現れに も善 い も の

( a gat hon

,

chr e s t on)と悪 い もの ( kakon,poner on)

があ るわけで, 医者 も病人 の感 じる劣 悪な感覚を取 り除いてや ることが出来 る以上,知者

( s ophos)に違 いないので

あ る。政治の面で も,各ポ リスに とって, 「美風

「正 当」 と思われてい るも のは,そのポ リスがそれをそ うと認めてい る限 り,そのポ リスに とってそ うあ 且 もす るのであ るが ,この方面に も 「知者」が存在 してお り,市民に とって劣悪 な ものの代わ りに ,善 い ものが正当な もの ・美風 であ るもの と して垂旦 (

ei nai )

かつ思われ る

( dokei n)

よ うに したのであ る。 ソフ ィス トもまた,被教育者 を その よ うに教導す ることが出来 るのだか ら,一個の知者 であ り,教 育を受けた

( 紬

者か ら多額 の報酬を受け る値打があ るのだ‑ 0

(17)

1 7

これに対 して ソクラテスは,次 の ような問題 を指摘す る :‑ 「正 しい」あ るいは 「合法的」 と言えるものが確かに,各 々のポ リスに とって,それがそ う 制定 され ている限 りその通 りに塾且 もす るとい う点 で譲 らない人 々で も,何 ら かの法律あ るいは政策が果 して 「有益

」 (6phel i ma)か ど うか とい う点では,

もはや 「有益 として制定 され ているか ら有益 だ」な どと押 し切 る者 は誰 もいな いだろ うし, また実際, 「有益」 とい うことは,将来にかかわ る ものなので, 例 えば 「熱い」 と感 じる人に とっては実際 に 「熱 く塾旦」 とい うの と同 じ次元 で ,どんな拙劣な政策で も 「有益 と感 じてい る人に とっては実際 に有益 で垂旦 」

とい うことにはな らないはず だ‑ 。そ して,今 は亡 きプロダゴラスの友人で あ り, 『テアイテ トス』での ソクラテスの問答 に参 加 してい る数学者 テオ ドロ ス も,そ こが プロタゴラス説の一番の弱みだ と, ソクラテスに同意す るのであ

る。

われわれは, 『テアイテス ト』か らは,以上 の点だけに注 目したのであ るが, 以下では, 『テ ィマイオス』の宇宙論 とも関係付けなが ら,次 の諸点を問題 と

して挙げてお きたい。

(1)少な くともこの対話篇 で解釈 され てい るプロタゴラス説 では明 らかに, 多様 な政 治形態や値値観 も 「それが議決 され通用 してい る限 り,現実に合法 ・ 非合法 の尺度 として通用 して上土旦」 とい うものであ る。 しか しソフ ィス ト (

Ej

恵 の指南老)を 自認す るプロタゴラスは

,

」有益 な法律」 と 「拙劣 な法律」の区 別 は最初か ら塾旦 もの として前提 し, 自らその方面の 「知者」であ ると考 えて い るよ うであ る。 こ うした人物を考 える時,一面 では,「多様 な風習 ・価値観」

に寛容であ るよ うに も見 えるが,多面では例 えばスキ ュタイ人 に対 して 「啓蒙 してや ろ う」 とい う態度 を取 る可能性 も十分 にあ るように見 える。

他方 プラ トンに見 て取れ るのは, 「貿老 であ ると自他 ともに許 している人 々 も吟味すれば,真 に善 い もの ・美 しい ものについては何 も知 ってはいないのに, 自分達 は知 ってい ると思 い込 んでい る。 しか し私は,そ うい う重大 な ことにつ

(18)

いては 自分 も知 らないが,知 らない とい うことを 自覚 してい る」 とい うソクラ

テスの態度を終生,核 としていた とい うことであ る。そ して, プラ トンの宇宙 論 『ティマイオス』(因に,後 に見 るよ うにホ ワイ ト‑ ッ ドほ 自分が プラン トン の この著作か ら多大の ヒン トを得ているよ うに述べ てい る) において も, こ う した態度が貫かれてい ると言える。少な くとも, この宇宙が 「善い」 もの と し て構築 された ことだけを大前提 としなが ら, 「善 き造物主 に よって構築 された 以上,秩序あ るもの と して造 られたはず」だ とし,その後は 仮 設 的 に一つの

提案」だ と して,宇宙 についての議論 を進めてい るのが見 られ る。 しか しプ ラ トンは秩序 と して‑ 人間界の 「序列」 をモデル とす るのでな く‑ 数学的 秩序を考 えてい るのであ るが,それは 「知的能力」 の一つの特徴 として プラ ト

ンが 「数学的能力」 を考 えたか らだ と言 えるであろ うし,だか らこそ 「書 き」

(す ぐれた,従 って また知的 な)造物主 に よって造 られた宇宙 に,数学的秩序を 見 よ うと したわけであ る (次項参照 )0

( 2 )

『テアイテ トス』では, プ ロタゴラス説 とともに

,

「感覚

」( ai s t he s i s )

は ど うい うものかが吟味 され てい るが,強調 され てい る点の一つは,例 えば視

覚 につ いて も 「われわれがそれ に旦ヱヱ 見 るところの当の ものが眼だ とい うの

ではな く,それを重工三見 るところの ものが眼なのだ」 として,結局,われわ れが感覚す る場合,眼や耳 な どは 「われわれがそれを通 じて感覚す るところの 当の道具」で しか な く, これに対 して 「われわれがそれ に よって感覚す るとこ ろの当の もの」は,視覚 ,聴覚 な どすべ てが帰一す る何か一つの もの‑ それ

を魂 (プシ ューケ‑)と呼ぶべ きか ど うか は さてお き‑ だ とす るのであ る。 と ころでわれわれは上 に, 「各人 に とって型重工 い るものが,その通 りに,各 人 に とってまたあ りもす る」 とい うプロタゴラス説 を ソクラテスが批判 してい る のを見た。「熱

い 」

「白い」 とい った感覚現象については, プラ トンも 「各人に とってその都度 ,実際 に‑ 幻覚 と してでな く‑ 感 じられ るもの ・現れ るも

c7)LI

のであ ることを否定 しない。 この よ うに 「感覚的性 質 と呼ばれて い る も の」

(19)

1 9

(あ るいは第

2

次性 質)は,外界の何 らかの作用者 と感覚す る側 との相互作用 でその都度現れ るとす る考 えは, プロタゴラス と同郷 の アブデ ラの人,原子論

6

者 デモ ク リトスの説 で もあ る。そ して この よ うに見 るとき, プラ トンも (あ る いはデモ ク リ トス も),感覚を通 じて感知 され るものを 「統合 して判断す る」知 的能力の主体 (われわれ の知性) を,唯一 信用のおけ る判断主体 とし,その視 点か ら宇宙 像を構成 しよ うとしているのだ と言え る。

しか し後 に見 るよ うに,‑ レニズム時代では,エ ピ クロスに して も真理の判

69

定基準 として 「感覚」や 「感 じ

」(pat hos )

を挙げてお り,われわれが後 に 主 として検討 しよ うとす るス トア派 において も, 「パ ンタシア

」 ( phant as i 畠, ,表

象 ・印象)が,認識 の上 で決定的な位置を 占め る。現代の ホ ワイ ト‑ ッ ドもま

,

「感 じ

」 ( f eel i ng)

を 自然実在のあ り方の基本 として見 よ うとしてい る。 し か し, プラ トンが 「感覚」に信用を置かないのは,それが錯覚 を犯 し易いのみ な らず, 「感覚」は 「快 ・不快」やその他あ らゆ る情 動 と不可分的に結 び付 い

69

ていて,判断を狂わせ るか らであ る。 そ して こ うした基調は 『テ ィマイオス』

の宇宙論において も貫かれてい ると言え る。確かに プラ トンは,ギ リシアに伝 統的 な,「神 々は妬む もの」 とい う観念を打破す るかの よ うに,「神 は嫉妬心 と は無縁の もの」 とし,だか ら神 はそ うした 自分に以せ て, この宇宙 を も可能な

限 り善い ものに しよ うとした」 とい うことを,宇宙論 の大前提 としてはい る。

しか し, この よ うな神 もし くは創造主た る 「工匠

」 ( demi t i r gOS)は ,

「知性が 把握す るもの

(形相の世界)をモデル とし,無限定的 な素材 に,幾何学的 ・

昏乃

数学秩序を賦与す るとい う形で宇宙を構成 して行 くのであ る。 もっともこれは, 宇宙 に数学的秩序を強調す るとい うよりほ, プラン トンが 『パイ ドン』以来求

6ゆ

めていた, 「全体を統合 してい る善な る力」を望見 しなが ら,例 えば 「比例」

に よる前後 の項 の結合 とい う例に もみ られ るような,数学 の世界で成 り立 って い る,有機的 とも言え る緊密な相互関係に注 目して, これをモデルに して,一 見雑多で不規則な様相を呈 してい る自然現象全体を関連付け よ うとした と言え

(20)

るだろ う。 しか し, こうした場合, 「知的秩序」 として 「数学的秩序」が考 え られてお り,後者が 自然外の 「知的造物主」に よって素材の世界に課せ られて いるとい う点に関す る限 り, 『テ ィマイオス』の宇宙論は,完全に, ホ ワイ ト

‑ ッ ドの言 う 「賦課法則」の説であ る。

( i i i )

「生の原理」 と 「秩序」

(1)そ こで今度は, 「自然の法則」に焦点を合わせなが ら, プラ トンの提案 を検討 しよ う。先にわれわれは, ホ ワイ ト‑ ッドの項 で,彼が 「生 きる有機体」

として 自然世界を再解釈 しよ うとしていることを述べた。 プラ トンに して も同 様であ って,例えば,最晩年 の 『法律』において, プラ トンが批判 しようとし た,当時の進歩的知識人の主張は次の ような もので あ った :

「生 命 な き (プシ ュー ケ‑を持たない

,aps ykha)

物体であ る火,水,土,空気各 々の物体 的力に よる偶然的な運動 と結合か ら,大地 も太陽 も月 も星 も生 じたのであ るが, 火,水な どの四元は 自然

( phys i s)

と偶然

(t yche)

に よって存在 しているので あ る。 この ように して,お よそ存在す るものの うち,最大 ・最美の ものは 自然 と偶然に よって作 り出されたのであ り,技術

(t echne)

のほ うは, 自然物か ら 二次的に生 まれた ものであ り,それは絵画,音楽 といった類の,児戯に も等 し いものを生む。神 々もまた, ノモス (法律 ・習慣)の上で定 め られ るが ままに あ るわけであ り, 自然において美であ るもの と, ノモスに よって美 とされてい

るもの とは別であ る

」 。 ‑

プラ トンが批判 の対象 としている以上の よ うな説 は,生 き,価値観を持 ち, 美的感覚を持 って 自然に もそれを読み取ろ うとす る人間 と,外的な 自然世界 と を断絶 させ ている点で, 「自然の法則」に関 してホ ワイ ト‑ ッ ドが挙げた 「 証主義」の説 と軌を一 にす る。 『法律の プラ トンは運動を分析 して,他か ら 動か されては じめて動 き, また他‑ と運動を伝 えるような物体的運動が,世界 全体の運動の始原 とな ることは不可能であ り,あ らゆ る運動の最初の出発点は

(21)

2 1

「自分 で 自分 を動かす動 き」が始原 とな るのでなければな らない と言い, しか るに「自分 で 自分 を動かす動 き」 とは 「ブシ ュ‑ケ

」(生命 の原理) に他 な ら

ないのだ とす る。

「自分 で 自分 を動かす動 き」が 「プシ ューケ‑」 に他な らない とす る発言は 6

むろん,すでに 『パイ ドロス』で主張 され ていたが, これ は もともとイオ ニア

63

の思想 だ と言えるだろ う。そ して実際 また プラ トンは 『法律』で以上の よ うな

「プシューケ‑が全ての動 きの源泉」 とい う説を展開 した後, 「だか ら,万物

は神 々に満 ちている」 と言 って るが, これ は タレスが考 えた こととして ア リス

165)

トテ レスが伝 えてい るもの と一致す る。 プラ トンが 「生 きるもの」 としての宇 宙像 を求 めてい るのは,む ろん 『テ ィマイオスの基本的図式に も見 られ るの

66

であ るが, しか し,万物が生 きてい るとは言 って も, プラ トンが タレスの よ う

)

に 「磁石 も鉄片を引 き付け るが故 に生 きてい る」 ことを も一つの証 拠 と し て

「宇宙生命体」を主張 した とは言えない。少な くとも 『テ ィマイオスでは, 磁石が鉄片を引 き付け るとい う現象は, 「空虚 を埋 め る」 とい う物体の必然性

6 8

に由来す るもので, 「吸引力

」 ( ho l ke )

が存在す るわけではない と言 ってお り, また 『法律』において もプラ トンは, ブシュ‑ケ‑こそがすべ ての動 きの源泉 なので,物体的な カテ ゴ リーに入 る増大 ・減少,分離 ・結合な どよ りも,意欲 , 配慮,快 ・苦 な どの カテ ゴ リーに入 る動 きのほ うが根源的 なのだ と言 ってい る

f;9

が, しか し, ブシ ュ‑ケ‑の うちで も最 も優れた プシ ューケ‑は, まさに 「知 性」の運動その ものを現 していて,同 じ場所 を,同一 の中心 をめ ぐって,規則

(和

正 し く一様 に回転す る運動であ って, これが万物 を導 いてい るのだ と言 ってい るのであ る。

エ ピクロスを もス トア派を も, さらに

3

世紀 ネオ ・プラ トニス ト, プロテ ィ ノスを も通 じて流れ てい る 「神」の観念,つ ま り,何 ものに も煩わ されず,清 浄 な至福 の生を享受 してい る存在 と しての 「神」の観念がそれぞれ の 時 代 の

「自然観」あ るいは 「自然学」 とど う関連 したかを検討す るの もきわめて興味

(22)

深 い問題 であ って,本稿の後の部分で も若 干 これに触れ ることにな るが, ここ で 「自然の法則」の問題 に帰 る。

( i v)「生」の衝動 と 「知性」の規律

ここでは次 回で詳論す ることを, ご く簡単にスケ ッチ してお くに とどめ る。

プラ トンの宇宙論 も明 らか に 「生 きる自然」の像 を求めてい る。 しか しそれ は, ホ ワイ ト‑ ッ ドが 「内在法則説」 と呼んだ もの と一致す るわけではない。

ブシ ュ‑ケ‑と言 って も,個人 レベルで考 え る場 合,知的な言論 とは無縁 な衝 動的要素が怪獣 めいた もの として, プシューケ‑の一部 と して各人 に巣食 って

t)

い るとい う図式が, 『国家』に見 られ る。 これは ブシ ュ‑ケ‑の中で も神的 な 部分に服従 させ られ るべ き ものだ とい うのであ るが, この部分が肥大 して人間 全体の支配権 を握 って しま うと, 「独裁借主」的 な,始末におえない人間が生

じるのであ る。

ところでホ ワイ ト‑ ッ ドが プラ トンの与 えて くれた実 り豊かな発想の一 つ と して言及 してい るのほ, プラ トンが没意識的な

( s ens el es s)作用者 を (ホ ワイ

ト‑ ッ ド自身は ,これを ,盲 目的ではあ るが歴史を推進す る作用者 と して

,

「民 主主義 に対す る蒸気機 関」, 「キ リス ト教 に対す る蛮族」を例 と して挙げ て い

る)

,

「知性」に対す る 「必然

」 ( a n a n ke )

として区別 していることであ り,そ し てホ ワイ ト‑ ッ ドの言葉を借 りれば 「世界の‑ す なわ ち,文 明的秩序の社会

の‑ 創造 は,力に対す る説得の勝利 であ る」 とい う発想 であ る。 しか し, プ ラ トンが果 して,例 えば スキ ュタイ人 に対 して 「説得 に よって,調和 あ る世界 国家を協 同 して作 り上げ よ う」 とい うよ うな ことを可能 と考 えたか ど うか。 プ ラ トンに 目立つのは,む しろ小規模 な, しか し教育の行 き届 いた 自由民を構成 員 とす るポ リスだ った と言え るだろ う。 「世界全体 の調和」を考えなければ な らなか ったのは,む しろ‑ レニズム時代の思想 家達だ った と言 え る。 ホ ワイ ト

‑ ッ ドの提案す る宇宙論 と, ス トア派 の提示 していた 「一 つの有機体 としての

(23)

全 世 界 」 との 関 係 を考 え るの は, しか し, 次 回 に譲 る。

注〕

(1)

テキス トとしてほ,TheFr

e

ePr e s sの版 (1 9 67)を使用す る。 ホ ワイ ト‑ ツ ドの 著作の うち,特に この " Adv e nt ur e so fZde as" を使用す るのは次の理 由に よる :

(1)

本書 ( 初版は 1 93 3,TheMa cmi l l a nCo. )はホ ワイ ト‑ ッ ド(1 861 ‑1 947 ) が7 2才の 時,それ までに何度かにわた って彼が講演で話 した内容を まとめて出版 された もの であ って, この著作 とともに 「形而上学三部作」 と 言 わ れ る 『科学 と近代世界』

( Sc i e n c ean dt heMo de r nWwl d ,New Yor k,1 925)お よび 『 過程 と実在 』( Pr o c e s s an dRe al i t y ,Ne w Yor k,1 929)で展開 され ている彼の思想の核心 と言えるものが , この著作に十分盛 り込 まれ ていること。( 2 ) 本書は,近代科学批判の立場か ら出発 し て,現実の人類の歴史を展望す るとい う視点で書かれ た ものであ って,本稿の議論 に関係 して取 り上げたい論点を含むのが,特に この著作であ ること。( 3 ) ホ ワイ ト‑

ッ トの著作には邦訳 の きわめて困難な用語が多 々見 られ るが,本書に関 しては私 自 身その抄訳を試みた こともあ って (中央公論社 「世界 の名著」7 0) ,改めて訳語を工 夫す るとか,あ るいは他 の訳者の訳語につ いての解説をつけ るとかす る苦労が比較 的少な くてすむ こと。

( 2 ) Whi t e he a d: Adv e nt ur e so fIde as ,p ・5・

( 3 ) Zb i d. p・1 6・

( 4 ) Zb i d.

p.

1 8・

(5)

Zb i d. p・ 25・

(6)

Zb i d

・p.

1 5・

( 7 ) Zb i d.

p.

1 6・

(8)

Idi d. pp. 3‑4.

(9)

Zb i d.

p.

1 0 9・

( l q ホ ワイ ト‑ ツ ドば,一つの社会において,その構成員が互 いに相手を, 「特殊な 優越 の有無を抜 きに して」, 自分 と同 じよ うな快 ・不快 ,希望,恐怖 ,目的な どを感 じている存在 と見な している場合を,文明 ( c i vi l i z at i o n) の一つの大 きな徴証 と見 る ( c f . Ib i d

・p.

1 0). ホ ワイ ト‑ ッ ドは, しか し,ヒューマニズムの理想が近代におい て危機に拡す るに至 った経緯を語 りなが ら, ヒュームを も一例 として挙げている。

すなわち, ヒュ‑ムのよ うに人間精神を 「印象の流れ」( af l uxo fi mpr e s s i o ns ) と

して考え る時には, それぞれが 「印象の流れ」 であ る精神 と精神 とが, 主人対奴

隷 の関係に置かれてほな らないとい う必然性 も出て来ないとい うのであ る。 そ し

て彼は, ヒュームの 『人性論 』( A Tr e at i s eo fHu〝∽nNat ur e ) に見えている,

参照

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