◎論説日中相互イメージの交錯
日 本 で 作 ら れ た 中 国 人 の ﹁自 画 像 ﹂
り霊建輝・・⁝
はじめに
近代日本ないし日本人は︑その国民的アイデンティティ
を立ち上げるために︑おもに二つの作業を行った︒一つは︑
欧米の諸事物をモデルとし︑なんとしても自らをその基準
に達成させようとしたことと︑いま一つは︑周辺諸国を徹
底的に差異化し︑なんとかして自分の優位性を作り上げよ
うとしたことである︒この二つの作業は︑いわゆる近代日
本のモットーである﹁脱亜入欧﹂の近代化路線とも一致し︑
その後長らく日本人の精神構造に大きな影響を与え続けて
いた︒中でも︑後者はいわば﹁文明国﹂日本を顕在化させ
るための手段として︑実にさまざまな表象を通じて︑数多 くの差別的なアジア像や中国像を作り出し︑また流布せし
めたのである︒
日本人のアイデンティティを立ち上げるために作り上げ
られたこれらの﹁アジア像﹂や﹁中国像﹂は︑もしそのま
ま日本国内で自己完結的に再生産されていただけならぼ︑
問題はあるいはまだ単純かもしれない︒しかし︑実際はこ
の日本発の﹁アジア像﹂︑とりわけ﹁中国像﹂がその後やや
形を変えながらもほぼ全面的に中国の知識人に受容︑さら
には﹁内面化﹂されてしまったため︑事態は非常に複雑に
なっている︒
つまり︑甲午(日清)戦争に負けた中国が︑予想外の敗
戦への﹁反省﹂から否応なしに自らのアイデンティティを
立ち上げる際に︑その﹁反省﹂すべき材料となったものは
日本 で作 られ た 中 国 人 の 「自画 像 」
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ことごとく日本の作り出した中国認識であり︑またこの戦
勝者との比較によって顕在化されたさまざまな﹁欠点﹂に
ほかならなかった︒したがって︑はじめはあくまで日本人
の﹁脱亜﹂のために唱えられた一連の中国﹁表象﹂は︑そ
の後まさに戦勝という絶対的な﹁裏付け﹂によって︑ほと
んど一つの揺るぎがたい﹁真実﹂として中国知識人の内面
に深く食い込んでいったのである︒
このような事情に鑑み︑本論文は︑上記のこうした日本
における中国表象の生成とその中国知識人による受容のプ
ロセスを辿りながら︑いわゆる相互の﹁﹃他者﹄認識﹂だけ
ではなく︑できるかぎりまたそういった従来の自己完結的
な枠組みを超えた自画像︑他者像における自他双方の﹁共
犯﹂関係もあわせて明らかにしていきたい︒
近代日本における中国表象の変遷
8三回にわたる中国表象の波
かつての入唐︑入宋僧などの残した渡航記録はともかく
として︑いわゆる近代日本人の手になるさまざまな中国﹁表
象﹂を整理してみると︑そこにはいくつか時代的な波とそ
の波に伴う内容や表現上の特徴が確認できる︒
まず時代的な波から言えば︑およそ安政開国(一八五八 年)直後の文久年間から明治改元までの間がその第一波で︑
この期間中には多くの遣外使節や留学生が欧米諸国に派遣
されたが︑彼らがその寄港先である上海や香港の状況につ
いて記した記録の一部は︑いわば近代日本人による中国の
最初の﹁表象﹂である︒また同じ時期に︑いわゆる渡欧の
徒次ではなく︑もっぱら内憂外患の進む中国︑とりわけ列
強の租借地を持つ上海の事情を﹁探索﹂する目的で︑この
土地に幾度か使節団が出されており︑その参加者たちによっ
て記述された︑例えば高杉晋作の﹃上海五録﹄に代表され
るような数多くの日記や見聞録なども︑近代初期の貴重な
中国記録にほかならない︒
中国﹁表象﹂における第二の時代的な波は︑ほぼ日清戦
後から日露戦後までの十年間と考えられる︒これは戦地報
告をはじめ︑いわゆる対戦国事情についての紹介や戦後処
理に関する分析などの形でさまざまな言説が生み出された
のみならず︑敗戦に起因する中国国内の更なる開放によっ
て︑比較的長期間にわたって各地方を﹁漫遊﹂した一部の
中国研究者︑探険者たちの手になる報告書や旅行記なども
少なからず残されているのである︒
そして︑いわゆる時代的な波の第三波は︑だいたい大正
半ば頃から始まり︑その後やや起伏しながらもおよそ太平
洋戦争の終戦直前まで続いていたと認められる︒この時期
にはちょうど日中の近代ツーリズムが相次いで成立し︑旅
行会社の斡旋などを利用する形でかなり多くの作家や詩人
が中国を訪れて︑それぞれの印象や感想を書き残していた︒
一方︑日本軍部の度重なる暴挙に起因する日中間の戦火が
どんどん激しさを増していくにつれて︑同じ文学者でも︑
旅行者ではなく︑従軍記者や従軍作家として大陸に渡るケー
スが現われ︑彼らの記したさまざまな記録も︑やはり無視
することのできない重要な中国﹁表象﹂の一つと言えよう︒
口中国表象の内容と特徴
さて︑このようにまさに歴史的な要素に起因して︑近代
以降の日本人による中国﹁表象﹂において三度にわたる大
きい時代的な波が存在していたわけだが︑こういった事実
を確認したところで︑次には簡略ながらもその三度の波に
伴うそれぞれの内容や表現上の特徴についてすこし触れて
みることにしよう︒
まず︑最初の幕末期に現われた遣外使節たちによる第一
波の﹁表象﹂だが︑これには種々の時代的な制限もあって︑
そのほとんどが定期航路の寄港地である上海と香港の両都
市に集中している︒そしてアヘン戦争後における列強と中
国との間の政治または軍事的な力関係により︑記述者であ
る武士たちのまなざしは︑基本的には両都市の持つ西洋の
窓口としての側面に注がれており︑その記録の大半もそう
いった近代資本主義の発達に対する﹁驚嘆﹂で占められて いる︒ただ︑さすがにこの時点ではかつての﹁中華﹂に対
する尊敬の念がまだ完全に断ち切れておらず︑現地におけ
る列強と中国の間の支配と被支配の上下関係を指摘しなが
らも︑町の在来の文物や接触を持った中国の友人などに対
して︑いずれも好意を込めて記述している︒
ちなみに︑この時期の武士たちの記録は︑半数近くが﹁漢
文﹂︑それ以外もほとんど﹁漢文訓読体﹂によって記されて
いるが︑この文体は︑当時彼らが外部世界を捉える際に唯
一不自由なく︑かつ有効に使えるものであって︑こういっ
たところの中国﹁伝統﹂との強固な結び付きも︑いわば作
者たちのいまだこの﹁老大国﹂を徹底的に見下すことがで
きない立場に留めていたわけである︒そして彼らのこうし
た姿勢を︑例えばかつての入唐や入宋僧の残した﹁中華﹂
崇拝的な諸記述︑あるいは後の明治期に氾濫する﹁支那﹂
蔑視的な諸言説と比較してみた場合︑そこにはまさに前者
のような盤勲もなけれぼ︑後者のような傲慢さも感じさせ
ない︑比較的対等な関係が確認できるのである︒その意味
で︑武士たちの一連の﹁表象﹂によって︑中国が西洋とと
もに初めて﹁発見﹂されたと言われているが︑この最初の
等身大の中国﹁発見﹂を可能にしたのは︑ほかならぬ空前
絶後とも言えるこうした対等な関係に由来する一種の﹁客
観性﹂であろう︒
というのも︑この時期以降︑日中の国力や国際的な地位
日本 で作 られ た 中 国 人 の 「自画 像 」
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が急速に逆転され︑とりわけ日清戦争における日本の圧勝
と中国の大敗という意外な結果によって︑こうした﹁客観
性﹂が完全に失われてしまい︑いわぼ︑一種のナショナリ
ズムの高揚を背景にした︑まったく﹁差別的﹂な中国像が
作り出されたのである︒それは時期的には︑つまりわれわ
れの言う中国﹁表象﹂第二波の諸言説にあたるわけだが︑
ここでは︑いわゆる日本ないしは日本人のナショナル・ア
イデンティティを立ち上げるために︑アジア諸国︑とりわ
け中国と朝鮮がまさしく﹁文明国﹂日本を顕在化させる一
つの比較対象として︑徹底的に近代国民国家の論理によっ
て裁断されている︒その結果︑中韓両国が総じて日本によっ
て﹁教導﹂されるべき︑﹁散漫﹂︑﹁獺惰﹂で﹁不潔﹂の国家
ないしは国民像が立ち上げられ︑その後長らく日本の言論
界で流布し続けていたのみならず︑両国国内︑中でも中国
の代表的な知識人たちにもその言説の一部が受け入れられ︑
さらには内面化されていたのであった︒
ところが︑この明治期に﹁発見﹂されたさまざまな中国
ないしは中国人の欠点︑なかんずく国民国家の論理によっ
て完全に否定されたその﹁漠然﹂とした国家や公共観念︑﹁堕落﹂と﹁享楽﹂に満ちた社会風俗︑それに﹁不潔﹂で秩
序のない庶民生活などといった国民的な﹁特質﹂が︑大正
半ば頃になると︑今度はまったく逆に︑いわば﹁近代﹂を
相対化する一種の貴重な価値として︑忽然日本の作家や詩 人たちに﹁評価﹂されるようになったのである︒この大転
換がもたらされた時代背景には︑例えば日露戦争後︑いわ
ゆる国民国家の統制がいよいよ強固となりつつある日本国
内の﹁均一的﹂で﹁閉塞的﹂な社会空間に対して︑多くの
知識人が強い不満を抱くようになったこと︑また維新以来
半世紀にわたる﹁文明国﹂の経営がついに軌道に乗り始め︑
国民の間にはある種の隣国に対する優越感の伴った﹁余裕﹂
が生まれたこと︑そして何よりもやはり文学や芸術などに
おける西洋の世紀末的な感性がつぎつぎと紹介され︑それ
が在来のさまざまな﹁悪﹂を再認識する一つの価値観となっ
たことが挙げられよう︒その意味で︑第三波とも名付けら
れるこの時期の中国﹁表象﹂は︑一見明治期の中国言説を
完全に覆したように見えながらも︑根本的には依然として
一種の日本を中心としたオリエンタリズムによって行われ
たと言えよう︒ただその際にこれらの作家や詩人たちが︑
まさしく西洋的世紀末の感性に乗りつつ︑その転倒された
価値観によって︑従来とまったく異なった﹁頽廃美﹂のあ
る中国を再発見したのも事実にほかならない︒