カントの「観念論の論駁」考
井上義彦
Zu der "Widerlegung des Idealismus" Kants
YOSHIHIKO INOUE
1
『純粋理性批判』 (第一版、 1781年)は、周知のように第二版(1787年)で かなり大幅に書き改められた。カント自身は、その理由を第一版の難解さを
(1)
「解り易い叙述」 (BXLII)に変える為で、思想内容的には少しの変更もない と述べている。 「この〔第二版〕の叙述は、根本的には命題についてはもとよ り、その証明根拠に関しても絶対的に何等の変更もない」 (BXLII)のであ る。そして「私が本当の増加(Vermehrung)と言いうるのは、もっともそれ は単に証明の仕方に関してだけだが、心理学的観念論の新たな論駁と、外的直 観の客観的実在性に関する厳密な(唯一可能な)証明(273頁)とによってな
したものだけであろう」 (BXXXIX, Anm.)と言う。
この「本当の増加」の箇所が、我々の小論が問題とする当該の「観念論の論 駁」と名づけられた一節(B274‑′9)である。
この一節は、周知のように従来から実在論的傾向の強い「論駁」の表現の為 に、カント本来の観念論的立場と抵触するのではないかという疑義を招き、第
‑批判の中でも最も多くの論議を惹起してきた難解な箇所である。
実際、彼自身超越論的観念論者たるカントが、 「観念論の論駁」という一節 を第二版でわざわざ設けて観念論の批判を行うことは、人に奇異の感を与えず
(2)
にはおかない。
その口火を切ったのは、歴史的に有名なショーペン‑ウアーの論難である。
‑ 「カントが、その決定的観念論を全く見事に明瞭に表明していた348‑35 頁の文章〔第一版の弁証論における誤謬推理の箇所〕は、第二版では全部削除
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され、その代りにこれと矛盾する叙述が大量に挿入された」 。 『純粋理性批
判』は「その為に、不具にされ損壊されて、自己矛盾した書物になって」しま った。
こうした解釈は極端であるにしても、この「観念論の論駁」の一節は、両版 を巡ってカント哲学を如何に解釈するかが問われる「蹟きの石」 (Stein des AnstoBes)であると言えよう。
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カントは、 「我々の外なる物の現存在」 (Dasein der Dinge auBer uns)香 信仰(Glauben)に頼って想定したり、あるいは何等満足すべき証明を与え得 ないことは、 「哲学のスキャンダル(Skandal) 」 (BXXXIX, Anm.)である と言う。これは、正に前批判期(例えば、その初期の『新解明』 (1755年)に
(4) (5)
おいて、あるいはその後期の『就職論文』 (1770年)において) 、批判期を通
m
じて、ついぞ外界の存在を疑ったことのなかったカントの心情の吐露でもあっ た。この事実は、カントの非難する観念論とは常に外界の存在を疑い否定する ような観念論のことであったという事実と共に、 「論駁」の考察において銘記 されておかねばならない。
それだけにまた、第‑批判の発刊当初、自己の立場がバークリーの観念論と 混同されて受止められたことは、カントにとって実に心外で腹立たしいことで あった。こうしたカントの苛立った感情の昂りは、次に出た『プロレゴーメ ナ』 (1783年)の随処に、また行間に渉み出ている。 「実際、物の実在を疑う
(7)
などということを、私はかって思いみたことすらなかった」 。
罪‑批判改作の要因に、バークリ‑との混同及びその誤解の解消が存したこ とは、否めない。殊に、ショ‑ペン‑ウア‑やフイシャ‑などの算一版論者の 惜しむ弁証論の「誤謬推理」 (その第四誤謬推理は第‑版の観念論論駁にあた る)の章が、全面的に削除されて、短縮されたことは、それを物語っている。
さて、カントが論駁せんとする観念論とは、外物の存在を「誤謬であり不可 能であると説く」バークリ‑の独断的(dogmatisch)な観念論と、外物の存在 を「単に疑わしく証明しえないと説く」デカルトの蓋然的(problematisch)
な観念論のことである。
カントによると、バ‑クリーは、 「空間を物自体に属すべき性質とみなす」
が故に、空間や一切の物を想像上の架空物(Unding)と考えざるをえなくな る。だがこのバークリーの考え方の根拠は、空間(時間)が我々の感性の形式
であると共に、現象の形式であるということを論証した「超越論的感性論にお いて、既に除去された」 (B274)とされている。
これに対して、デカルトの考え方は、 「唯一の直接的経験は内的経験であ り、外物はこれから単に推論されたにすぎない。しかし我々が与えられた結果 から一定の原因を推論する場合には、いつもそうであるようにそれは全く不確 実である。何故ならば、我々が恐らくは誤まって外物に帰したところの表象の
原因は我々自身の内にあるかも知れぬから」 (B276)ということである。こ れはそれなりに「合理的」であり、 「徹底的な哲学的思考法に合致した」 (B 275)ものである。それ故に、カントにとって、学説的に片の附いたバークリ ーよりも、デカルトの方が手強かったと言える。
カントが、バークリーやデカルトの学説を余り正確に理解していなかったこ
(8)
とは、しばしば指摘される通りであるが、前記のデカルト的思考法における弱 点の把握は見事に核心を衝くものである。
我々は、デカルト的コギトーの立場から、如何にして自己外の対象の存在 を、従って外界の存在を論証しうるのであろうか。これは、独我論の悩みに基 づく正当なものであり、ひとりデカルトに限らずおよそあらゆる観念論に共通
の根本問題と言えよう。
カントは、この事態を「観念論は己れの企んだ戯れの為に、逆に正当以上に 復讐された」 (B276)と述べているが、では、カント自身の超越論的観念論に
おいては、かかるアポリアは如何に克服されているのであろうか。換言すれ ば、デカルトやバークリーの観念論の論駁を通して、カントは彼自身の外界 (外物)の存在証明を行っていると考察される。それは如何なるものかoここ に、我々の小論の眼目がある。
3
カントは、 「観念論の論駁」において次のような有名な「定理」 (Lehrsatz) を立てた。
「私自身の現存在の単なる、しかし経験的に限定された意識は、私の外なる 空間中の諸対象の現存在を証明する」 (B275)
カントの「論駁」の論証的核心は、この「定理」の中に要約的に表現されて いる。
カントは、この定理の証明を次のように行う。それは、我々の考察にとって
極めて重要なので、少し長いがそのまま引用したい(カントは第二版の序言で この証明の一部を訂正しているので、引用もそれに従って修正した) 。 ‑
「私は、私自身の現存在を時間において限定されたものとして意識している。
あらゆる時間限定は、知覚における何か持続的なもの(etwas Beharrliches)を 前提とする。しかしこの持続的なものは私の中における直観でありえない。と
いうのは、私の内に見出されうる私の現存在の全ての規定根拠は表象であり、
そして表象である以上、それ自身表象とは異なる持続的なもの、即ちそれとの 関係において、表象の変化と従ってまたその中で表象が変化する時間における 私の現存在とが規定されうるところの持続的なものを要求するからである。そ れ故にこの持続的なものの知覚は、ただ私の外なる物(Ding auBer mir)によ ってのみ可能であって、私の外なる物の単なる表象(die bloBe Vorstellung) によって可能なのではない。従って時間における私の現存在の限定は、私が私 の外に知覚する現実的な物の実在によらてのみ可能なのである。さて時間にお ける〔私の現存在の〕意識は、この時間限定の可能性の意識と必然的に結合し ている。それ故に、それはまた時間限定の条件としての私の外なる物の実在と も必然的に結合している。換言すれば私自身の現存在の意識は、同時に私の外 なる他物の現存在の直接的意識なのである」 (B275‑′6) 。
さて、カントのこの論証によって、果して外物の存在は証明されたことにな るのであろうか。我々はそれを批判的に吟味せねばならない。
カントの論証は、デカルトと同じく自己意識から出立して外物の存在‑向っ ている。これは、カント自身が非難したデカルトの思考法、即ち「与えられた 結果からその原因を推論する」やり方と同工異曲ではないだろうか。
確かに持続的な外物の存在は、外的経験を可能にする条件として考えること は出来る。しかしだからと言って、この持続的な外物が現実に存在していると 如何なる根拠によって主張できるのであろうか。
カントは答える‑ 「この持続性は外的経験から汲まれずして、かえって全 ての時間限定の必然的条件として、従ってまた外物の実在による我々自身の現 存在に関する内感の限定として、ア・プリオリに前提されている」 (B278) と。
それでもやはり、問いうる。外的経験に先立ってア・プリオリに前提された 持続性は、如何なる論拠によって主張されうるのか。
この論拠の疑念に対する通説的な解答は、こうである‑ 「論駁」における カントの論証は、経験の第一類推である実体持続の原則を既にそれ自身前提に
(9)
しているのである。即ち実体持続の原則は、既に経験を可能ならしめるア・プ リオリな条件として論証された。それ故にこの「論駁」において、持続的なも のは外的経験を可能にする条件としてア・プリオリに前提されているのである
と。
この常に持ち出される解答は、果して妥当なものであろうか。この解答によ って、能事終れりとなしうるであろうか。この解答を聞いて、釈然としないの は何故か。
この解答をなす者は、フイシャ‑の次の異議に返答せねばならない。 ‑
「カントは、純粋悟性の原則に関する彼の証明過程を顕倒することによって、
観念論を論駁した。彼は実体の持続性、即ち物質の現存在を可能的経験の必然 的条件によって基礎づけた。今や彼は経験の可能性を物質の現存在によって基 礎づけるのである。この証明は、それが誤まった循環論(Zirkel)にあるが故
no
に、誤謬(falsch)である」 。
我々は、そこでフイシャーの異議の是非を考察せねばならないOその為に は、実体持続の原則が検討されねばならない。
実体持続の原則におけるカントの論証は、時間そのものは知覚されえないか ら、時間一般をあらわすところの基体(Substrat)としての実体、即ち持続的 なものの存在が想定されねばならないこと、従って「現象におけるこの持続的 なものは、一切の時間限定の基体(Substratum)であり、それ故にまた経験の 可能性の条件である」 (A183、 B226‑′7)ということである。だから「かく の如き〔実体持続に関する〕命題は、可能的経験に関してのみ妥当的であり、
従ってまた経験の可能性の演樺によってのみ証明されうるということ」 (A
184‑′5、 B227‑′8)である。
ここには、明らかにフイシャ‑が言うように、持続的なものの存在は経験の 可能性によって、従って経験の可能性の条件として基礎づけられている。
かかるものが、今度は逆に「論駁」において、 「持続性は、外的経験から汲 まれず、全ての時間限定の必然的条件として、ア・プリオリに前提されてい る」 (B278)ように、経験の可能性を基礎づけるものとして、持ち込みうると 考えるのは、確かに循環論を犯さずには不可能であろう。それ故に、 「論駁」
における持続的なものの存在について、安易に実体持続の原則における論証を 持ち出し、論拠とすることは許されないであろう。
4
カントの論証は循環論ではないかというフイシヤーの異議は、実を言えばも っと根の深い所から発している。彼は「論駁」における外物(持続的なもの) の存在に物自体を感じ取っているのである。しかも、 「物自体が外物として取
¢1)
扱われるならば、超越論的観念論の本性と矛盾するところの混清が生ずる」 。 外物に物自体を感取するのは、第‑版論者に限らない。第二版論者のエルト マンも、両版の「観念論論駁」の性格の相違を述べる中で明言する。 ‑ 「こ こ〔第二版の「論駁」〕では、物自体の実在なしには、内感の経験的時間限定
(均
は不可能であろうことが、示されている」 。
第二坂の「論駁」が人々の注目を引きつけ、様々な質疑をかもしたのは、実 はこの点に由来していると推察される。
ここで、比較の為に、両版から「論駁」に関連する一句を引用して並記して 見よう。
A. 「外的対象(物体)は、単に現象従ってまた一種の私の表象にすぎず、
その表象の対象はその表象によってのみ或る物であり、その表象を離れた ら無(Nichts)にすぎない」 (A370)
B. 「この持続的なものの知覚は、私の外なる物によってのみ可能であり、
私の外なる物の単なる表象によって可能なのではない」 (B275) これに関して、ケンプ・スミスは、両版の論証は完全に矛盾的に対立し、
m
「直接的な反対」 (the direct opposite)を証示していると解する。
フイシヤーは、この第一版の考え方こそ、カント本来の超越論的観念論の立 場と解し、これが第二版で削除されたことに納得しない。だから彼は論難す る。 ‑カントは、第一版の『誤謬推理』で「物質が単なる表象であることを 教説した」 。しかるに第二版の『観念論論駁』で「物質が単なる表象でないこ とを教説した」 。そこに「我々は、カントの学説の中に、いかなる解釈技術も
M
除去しえざる矛盾を明らかに見出す」と。
こうしたことは、一般に如何に解釈すべきであろうか。
通例いわば解釈の切り札として、常に持ち出される考え方は、カントの哲学 的立場が「超越論的観念論」であると共に、同時に「経験的実在論」であると
m
いうことである。
例えば、 「ここにカント哲学の理解の核心がある」と解するバルトマンは、
「カントにとって問題は、同一の対象が如何にして同時に実在的(real)で、
かつ観念的(ideal)でありうるか」だと捉えて、 「同じ対象が、超越論的主観 にとっては観念的(単に現象)であり、だが同時に経験的主観にとっては実在
m
的である」という見解を主張する。
確かに、 「観念論論駁」の論証をこうした全体的な観点から考察すること は、必要で有意義なことと言わねばならない。これはまた確かに、疑問をはら む箇所をある時は超越論的な意味で表象(現象)と解し、ある時は経験的な意 味で経験的対象と解することで、誠に手際よく解決処理していく考え方であ
る。
そしてこれは、一般に「論駁」についてこう宣告すると言ってよいであろ う。
外的対象即ち私の外なる物(Ding auBer mir)について、カント自身第‑
版で繰り返し強調したように、 「我々の問題は、物自体ではなくて、現象であ る」 (A375)こと、 「問題なのは、超越論的対象ではなくて、経験的対象であ る」 (A373)こと。従ってカントは、 「我々の外に」 (auBeruns)という表 現が物自体と誤解されないように、経験的な意味で空間中の外的対象を意味す
ると規定したことCA373)これがはっきり確認されねばならない。
しかしてまた、このことはそのまま第二版の「論駁」にも妥当すると言わね ばならない。それ故に、今や「論駁」における定理中の「私の外なる空間中の 対象」や「私の外なる物」や持続的なものの存在は、全て経験的な意味での外 的対象と解されるべきことは、もはや明らかである。だから、物自体の入る余 地はないと。
ここまでの論法には、我々にとって格別に異論はない。だが、この論法が更 に、だから私の外なる物は、超越論的な意味では私の表象として観念的(ideal) であり、従って私の表象を離れては無であると主張する時、そこには、ある慎 重さが必要であると思う。
つまり、超越論的には私の表象を離れたら無となる対象が、同時に経験的に はrealに実在していると言うのは、そのままでは、同一物がある場合(超越 論的)には無化しえ、ある場合(経験的)には有化しうると言うのと同様に、
不合理であろう(これではまた、所謂バークリ‑のesse est percipiと選ぶ所 がない。だからカントは,こうした誤解を招きそうな表現の箇所を第二版で削 除したと推察される。)。超越論的には私の表象を離れたら、無となる対象は、
比輪的な意味ではなくて、本当に文字通り、無になるであろうか。もし無化す るとすれば、我々は、同一の対象をある場合には有化し、ある場合には無化し
うることになる。これは、神業であり、人間は神になってしまう。そうではな いとすれば、我々にとって、経験の対象は常に根源的には「所与」の形で与え られるのであって、その契機は、超越論的にも決して失われえないはずであ る。だから、対象は、超越論的には認識主観(Ich denke)に内在化して観念 的(ideal)であるにしても、同時に存在論的には何か実在的(real)な面をな
お保有していると推察されるであろう。
従って、同じ対象を超越論的には表象(現象)として観念的で、かつ同時に 経験的には経験的対象として実在的という考え方について論ずると、表象とい うも経験的対象というも、共に経験の場のことで、いずれも与えられた対象即 ち現象のことである。従って畢寛するに、全く同じことを意味している。換言 すれば、超越論的な意味でも表象は現象としての経験的対象以外の何物でもな
く、また経験的な意味でも経験的対象は現象以外の何物でもない。カント哲学 にとって、認識の対象とは経験的対象以外に存せぬからである。
かくして、要するにこの論法では、同一次元化して全く同じことを意味する ものを、単に言葉の使い分けで議論していたのではないかという疑問が残る。
すると、そこにおける議論は、まさに「実体は持続的であるという命題が同語 反復的(tautologisch)である」 (A184、 B227)のと同様に、同語反復的なの ではないだろうか。このようなトートロギィシュな論議を打ち切る為には、も っと別の、物(対象)の見方の転換が必要なのではないだろうか。
この論法(見方)は、カント解釈を整合化せんとする余りに(それなりの有 効性はあるのだが) 、反面物自体を全く排除しそれを顧慮する場を持ちえず、
為にかえってカント哲学を去勢化する傾きがある。つまり対象が与えられて出 現する場面、従って原初的な経験の有様を有意義に語りにくくしてしまう恐れ がある。
我々が言いたいことは、次のようなカントの考え方である。 ‑ 「私が対象
〔私の眼前の家〕の概念を超越論的意味にまで高めると、この家はもはや物自
° ° ° ° ° ° ° ° ° ° °
体ではなくて、単なる現象即ち表象にすぎなくなり、この表象の超越論的対象
° ° ° ° ° ° ° °
は未知なのである」 (A190‑′1、 B235‑′6) 。
この物自体を、例の論法で経験的意味でのそれと解そうとするのは、全く無 駄な遁辞である。
対象に関して区別すべきは、表象と経験的対象ではなくて、現象と物自体で ある。
カントの注意も常にそれであった。 ‑ 「批判は、客観を二重の意味に、即
ち現象と物自体として解することを教える」 (BXXVII)だから、結論的に いえば、カントはこう断言する。 ‑「我々は、同じ対象をたとえ物自体とし て認識しえないにせよ、少くともこれを物自体として考えることができねばな
° ° ° ● ° ° ° ° ° ° ° ° ●
らないということは、常に留保されている。なぜならば、さもないと、現象と
° ° ° ° ° ° ° ° ● ° ° t ° ° ° ° ° ° ° ° ° ° ° t ° ● ● ° ° ° ° ° ° ●
して現われる当の或る物が存在しないのに、現象は存在するという不合理な命
° ° ° ° ° ° ° ● ●
題が生じてくるから」 (BXXVI‑′II) 。
カントが、現象の根拠としての物自体を語るのは、両版を通じて一貫したこ とである。従って、 「論駁」に関しても、外物の根拠として物自体を想定する ことは許されるであろう。すると、外物の存在証明は物自体の想定によって成 就されるのかという反論が、直ちに提示されるであろうが、我々はそれを次章 以下で論ずる。
今は、ここで、グライエフが現象と物自体の混同について述べたことである が、我々はそれを我々の議論に引きつけて、こう言いたい。 ‑現象と物自体 の区別によってのみ、 「絶えざる悪しき循環論(circulus vitiosus)にある、
思考が、分析的に概念〔od. ideal〕から現実性〔od. real〕へ、そして現実性 から概念へと移行すること、即ち単なる同語反復(Tautologie)に成るという
m
ことを、我々は阻止しうる」のであると。
我々は、一つ目の巨人ではなくて、対象(世界)を現象と物自体として、し かも両者を混同せず明別して捉えうるような、 「哲学の眼」 (das Auge der Philosophie)を有する複眼的な視座を確立せねばならない。
5
さて、カントによると、デカルト的観念論の論駁に「必要な証明は、我々が 外物に関して単なる空想に止まらずに、経験を持ちうるということを証示す
る」 (B275)ことであり、 「このことは、デカルトが確実であると考えると ころの内的経験でさえも、外的経験を前提にしてのみ可能であることを証明し うる時にのみ、成就されうる」 (B275)のである。
ここには、カントのデカルト的コギト‑に対する「論駁」の二つの要点が提 示されているo一つは、自己意識と自己認識の区別であり、いま一つは、内的 経験は外的経験によってのみ可能になるという考え方、換言すると時間限定は 空間的規定を必要とするという思想である。
これを基に、我々は今や、 「論駁」の定理を分析することによって、我々の
解釈を要約的に示そう。
定理において、 「私自身の現存在の単なる、しかし経験的に限定された意識 は、私の外なる空間中の諸対象の現存在を証明する」と言われた。
この定理を理解する為には、まず自己意識と自己認識とが明確に区別されね ばならない。
カントによると、自己意識(BewuBtsein meiner selbst)とは、根本的には 超越論的意識として根源的統覚(Al17) 、従って「我思う(Ich denke) 」
(B132)である。
「我思う」としての自己意識は、そもそも「私の現存在を限定する作用を表 現し」 (B157)ているとはいえ、それは「思考であって、直観ではない」
(B157)から、自己直観を欠いている。従って「自己意識はまだ自己認識で はない」 (B158) 。 「私は、私自身を認識する為には、私が自己を考えると いう意識のはかに,私の内なる多様の直観を必要とする」 (B158)
かくして、 「我思う」の自己意識は、自己認識たりうる為には、限定される べき自己直観を欠いているが故に、経験的には無限定(unbestimmt)なもの にとどまっているのである。
では、かかる「我思う」の自己意識と定理における「私の現存在の意識」と は、如何なる関係にあるのか。これが考察さるべきである。
定理の自己意識は、正確には「私自身の現存在の単なる、しかし経験的に限 定された意識」 (Das blo3e, aber empirisch bestimmte, BewuStsein meines eigenen Daseins)であった。
これに比し、 「我思う」の自己意識は、カントによって「経験的であるが、
しかし直観のあらゆる仕方に関しては無限定な」 (den empirischen, aber in Ansehung aller Art der Anschauung unbestimmten, Satz, Ich denke.)もの
として(B421) 、また別言すると、 「無限定な経験的な直観即ち知覚」 (eine unbestimmte empirische Anschauung, d. i. Wahrnehmung)を表現するもの
として(B422) 、把捉されている。
つまり、前者が「経験的に限定された」 (empirisch bestimmtes)自己意識で あるのに対して、後者は「経験的だが無限定な」 (empirisches unbestimmtes) 自己意識として、規定されていることが分る。かかる表現からも、両者の相違 は明らかであろう。
次に、これは如何なる事態を意味するかが考究されねばならない。
後者の自己意識は、前述のように自己認識に必要な自己直観を欠いているこ
とを意味していた。
前者の、即ち定理の自己意識は,そこに私の現存在を限定するのに必要な自 己直観を有すること、従って自己認識たりうることを意味している。
このことを、カントの定理の証明に照応させながら、考察して見よう。
それはさしあたり、 「私は、私の現存在を時間において限定されたものとし て意識している」ことに対応している。これは、 「我思う」の自己意識が自己 認識しようとする時に、自己をまず内省的に対象化すること、換言すると時間 において限定しようとすることを意味する。時間とは内感の形式であり、時間 における私とは、内感の対象としての客体我(心)である。 「考えるものとし ての私は、内感の対象であって、心(Seele)と呼ばれ、外感の対象であると
ころのものは、物体(Korper)と呼ばれる」 (A342、 B400) 。
ところで、 「あらゆる時間限定は持続的なものを必要とする」 。持続性は私 の外なる物によって可能であり、また外物は空間において成立するが故に、全 ての時間限定は空間的な規定において、従って空間において捉えられるべきこ
とを示している。
すると、時間における私の現存在の意識限定は、一つの時間限定として、空 間において従って外感において捉えら、れねばならない。空間における私とは、
外感の対象としての客体我即ち身体(Korper)である。内的経験は、このよう に外的経験によって可能となるのである。
かくして、 「論駁」におけるカントの考え方は、次のことを示している。
自己意識が自己認識になる為には、我々は自己の現存在を時間(内感)にお いてのみならず、空間(外感)においても限定せねばならないこと。換言する と、完全な自己認識は自己の現存在を内的(時間的)のみならず、外的(空間 的)に把捉することによって成立する。従って自己の現存在を空間において捉 えるということは、自己を外物との関係において、従って世界において捉える
ことを意味する。
カウルバッ‑が言うように、カントの「論証の核心は、次の命題即ち、私は 何らかの自己意識を持つ為には、その中に私の身体性(Leiblichkeit)の実在 意識と(私の身体性がそれに属するところの)物体的(korperlich)な世界の
49
実在意識とを包含せねばならないということの内に見出されうる」のである。
外感の対象たる「身体」 (Korper)は、一方内感(心)に対しては私の外 (auBer mir)である。この意味では、私の身体は外物と同じである。 「私は 考えるものとしての私自身の実在を、私の外なる他物(これには私の身体も含
まれる)から区別する」 (B409)
だが他方、身体は外界に対しては、やはり内界に、私の内に(in mir)にあ る。 「ある関係において身体的と呼ばれるものは、他の関係においては同時に 考えるものである」 (A359)
だが両者とも、従ってまた時間、空間における内外の一切の物は、 「我思 う」の私(超越論的な私)にとっては、全て私の内にある。 「空間と時間は我 々の内に(inuns)のみ見出されうる」 (A373) 。
かくして、私の身体は内と外との交流点と考えることができる。私は私の身 体において私と世界に出会いうると言える。
カントの空間論の形成において、左右の手の区別のような我々の身体性が大l細 きな意義を有したことは、周知のことである。
カントは、彼独自の空間論を初めて形成し始めた前批判期の論文『空間にお
el)
ける方位の区別の第一根拠について』 (1768)においても、批判期の論文『思
(均
考の方向を定める問題』 (1786)と殆んど同じような、身体性に基づく考え方 を示している。
いずれにせよ、我々の身体とは世界の中に存在する我々人間にとって、常に 空間的な方位を定める原点であり、思考のパースペクチイブを定める基点なの である。
それ故に、この「論駁」の論証の中に、身体の意義を見出すのは、一概に場 違いとは言えないのではなかろうか。
これに類することは、実際、 1790年頃と推定される一連の「観念論論駁」に 関する重要な手稿の中でも、しばしばカント自身によって言及されることであ
る。
「我々は我々自身にとってまずは外感の対象である。なぜならば、さもない と、我々は世界における我々の居場所(unseren Ort in der Welt)を知覚し
㈱
えないであろうから」 。あるいは、 「私は、空間における外的直観の対象であ ることなしには、世界における私の位置(meine Stelle in der Welt)を知る
(叫
ことはできないであろう」 。
このように、手稿の中でははっきりと、カントによって人間存在は、世界に おける存在として捉えられていることが知られる。
我々の身体性が、外物と同じく外在性の在り方を有することを念頭におく と、 「論駁」の論証はもっとよく理解できる。 ‑ 「私の現存在の経験的意識 は、私の実存と結合しつつ、しかも私の外にあるところの或る物(etwas, was
mit meiner Existenz verbunden, auBer mir ist.)に対する関係によっての み、限定されうる」 (BXL)
この「或る物(etwas) 」に、即ち「私の実存と結合しつつ、しかも私の外 にあるところの或る物」に、身体性を合意させるのは、解釈の行きすぎであろ
うか。
6 困
「観念論論駁」に関するある手稿の中で、カントは(1)超越論的意識、 (2)経験 的意識、 (3)自己認識という意識の三段階の区別を記述している。これは、我々 の解釈の考え方に根本的には対応すると推察される。
詳細に記すと、 (1)私の現存在の超越論的意識一般、 (2)時間における、従って 私が時間によって私自身を限定する限りでの、私自身の表象に関する私の現存 在の意識。これは私自身の経験的意識である。 (3)時間において限定された存在 者としての私自身の認識。これは経験的認識であり、また性界において実在す
る存在者としての私自身の認識である。
これは、我々の解釈と対比するまでもなく、同じ事態を指示していると思わ れる。
第一の超越論的意識は、我々の言う「我患う」の自己意識である。第二の経 験的自己意識は、我々の時間における客体我(心)の自己意識である。第三の 自己認識は、我々の第二の時間的意識.が更に空間において(身体としても)把 捉された自己意識である。ここには、自己存在を時間・空間における心身存在 として、従って世界における心身的存在者として捉える自己認識が成立してい るのである。
かくて、かかる自己認識の成立により、同時にこの自己認識を可能にする条 件である外界の存在も成り立つことになる。なぜなら、自己認識は、自己を時 間・空間における、従って世界における心身的存在者として捉える時にのみ、
成立可能であるからである。
(狗
こうした「憧界の中の人間」 (der Mensch in der Welt)という捉え方は、
意識の志向的構造を示唆している。これは、 「内的経験は、外的経験の前提の 下にのみ可能である」という考えに窺える。身体性の現象学を説くメルロー・
ボンティも、それを指摘していた。 「カントも『観念論の論駁』の中で、内面 的知覚は外面的知覚なしはに不可能だということ、 ・‑‑また、世界は私が自分
帥
を意識として実現するための手段だ、ということを明示していた」 。
‑イデッガ‑は、外界の存在証明を行おうとするカントに対して、 「哲学の スキャンダルは、この証明が従来まだ不足していることにあるのではなく、こ
軸
のような証明が相も変らず期待され試みられていることにある」と皮肉ってい る。人間存在を「世界内存在」として捉える‑イデッガ一にとっては、それは 無用のことであった。それにしても、カントの論証が、ある意味でこの世界内 存在の方向においてなされた観があるのは、何んという皮肉であろうか。
註
(1) Kant : Kritik der reinen Vernun如.引用は、慣例により原版の貢付に従い 第‑版をA、第二版をBとする。尚、引用文中の傍点及びカッコづけは論者によ
る。
(2) Ewing : A Short Commentary on Kant's Critigue of Pure Reason. pl85 (3) Schopenhauer : Die Welt als Wille und Vorstellung. I Anhang. Kritik
der Kantischen Philosophie (Ziircher Ausgabe, Diogenes) S534
(4) Kant : Principinrum primorum cognitionis metaphysicae nova dil一
ucidatio. Prop. Xll, usus, Kants Gesammelte Schriften (以下KGSと略記) Bd. I. SS411‑!2
(5) Kant : De mundi sensibilis atgue intelhgibihs forma et pnncipns. 隻ll, (Phil. Bid.) S32
(6) Kant : Prolegomena zu einer jeden Kiinftigen Metaphysik. §13 (Phil.
Bib.) S37 〟, Anhang : Reflexionen zur Metaphysik. KGS. Bd. XVIII, この巻には、観念論論駁の表題を持った多数の重要な手稿が収録されている。そ れらは1790年頃のものと推定されているが、 「観念論の論駁」に関しては第一級 の参考資料であるNr. 5653 (S 306 ff), Nr. 5654 (S 312 ff), Nr. 6311 (S 610 if),.Nr. 6313 (S 613 ff), Nr 6314 (S 616 ff), Nr. 6315 (S 618 ff), Nr. 6316 (S 621 ff) etc Vgl. KGS (Anthropologie) XV.Nr. 230‑'4,SS
80‑90
(7) Kant : Prolegomena, §13 Anm. ffl S47
(8) Vaihinger : Kommentar zu Kants Kritik der reinen Vernunft, Bd.2 S 500, Korner : Kant p92
(9) Paton : Kants Metaphysic of Experience, Vol. n p379
8功Fischer : Geschichte der neuern Philosophic, Bd.4 SS654‑′5 (ll) Fischer : ebenda S652
89 Erdmann : Kant's Kriticismus in der ersten und zweiten Auflage der
Kntik der reinen Vernunft, S204
03) Smith : A Commentary to Kant's "Critigue of Pure Reason p312 Fischer: Geschichte der neuern Philosophie, Bd. 5 S576
Ewing : op. cit. pl81
0◎ Hartmann : Diesseits von ldealismus und Realismus, Kant‑Studien Bd.
29 1924 S178
(17) Grayeff : Deutung und Darstellung der theoretischen Philosophie
Kants, SS204‑′5
Kant : Logik, Einleitung, §6 (KGS Bd. IX) S45
Kaulbach : Kants Beweis des "Daseins der Gegenst邑nde im Raum
auBer mir", Kant‑Studien Bd. 50 1958/9, S346.身体意識に関連しては次の 論文参照Kaulbach: LeibbewuBtsein und Welterfahrung beim Friihen
und Sp色ten Kant, Bd. 54 K‑St. 1963 SS464‑!90
醐Kant : De mundi, §15 (Phil. Bib) SS50‑'1 Kant : Prolegomena, §13 (Phil. Bib) S39
(21) Kant : Von dem ersten Grunde des Unterschiedes der Gegenden mi Raume. S五mthche Werke (InseトVerlag) Bd. I S995,S997, SIOOO e功Kant : Was heiCt : Sich lm Denken onentieren? S色mthche Werke
(Insel‑Verlag) Bd. 1 SS269‑′70, S283
鰯Kant : Refl. z. Met. KGS Bd XVIII Nr. 6315 S619 伽Kant : ebenda S620
位翰Kant : ebenda Nr. 6313 S615 Vgl. Lehmann :Beitr邑ge zur Geschichte und Interpretation der Philosophic Kants, S179
位ゆKant: Opus Postumum, KGS Bd. XXI SS9カントは、超越論的哲学の最高 の対象として、神と世界と世界における人間との三つをあげている。この考え方 は繰り返し出てくる。 S24、 27、 31、 32、 63、 etc因に、次の語句など検討 に値する‑ "Gott : die Welt : und der sein Dasein a priori synthe‑
tisch bestimmende Mensch in der Welt" (S. 39)
$7) Merleau‑Ponty : Phenomenologie de la perception, XII (竹内・小木訳 18頁)
e功Heidegger : Sein und Zeit, S205
(昭和54年10月31日受理)