原始キリスト教に於ける社會理論
不 破 祐 俊
第 一 節 史 的 背 景 第 二 節 ユ ダ ヤ 教
第三節 アレクサンドリヤ軍派
第 四 節 ナ ザ レ の イ エ ス 第 五 節 フ イ ロ ン 第 六 節 タ ル ソ ス の パ ウ ロ 第 七 節 イ エ ス の 教 義 第 八 節 キ リ ス ト 教 の 創 生 及 び そ の 社 愈 聖 前 節 九 節 教 父 の 祀 愈 論 理 第 十 節 結 語
第一節 史 的 背 景
西暦紀元常初のローマ ー 我々はこゝで共和国ローマよりアタグスッス︵Au望StuS︶及びその
正接後横着の支配下に於ける帝国化の時代に到る迄の政治上の事件を詳説する要はない︒この
原始キリスト教にこ於げろ祉分理論三五
商 業 さ 経 済
...L. ノ、
時代以後︑赴舎理論史上に最も深遠なる意義訟もたらしたるキリスト殺に直接関係せる事貨に
我々の通説の範囲を限定するであらう︒
アグチクム
(kr♀
EE
)
の戦争﹄以って終りを告げた闘争の時代は︑共和国ロ1マをして︑崩壊
への道を辿らしめた︒道徳的理想主義︑法律食室︑市民権の侍統︑正義の観念等は鋭くこぎは
hハ円かったが︑そ‑}には何等本質上の統一なく︑組織的原則がなかった︒強き者の好機は到来し
た︒ォグクグイアスス(︒♀
2 F S ω )
は共和政治の視念を残存するには相応しからぬ名務たる王
読を回避して︑プヲンヅエヅプス(司ユコ
R3・元老院及び人民の上位にある者の意)又はイムペラ
トl
y ( H 5 3 2 B
統治権の所有者の怠)の都競争・要求するごころがあった︒
古ロ!?の執政官
( p
g 己)護民官
3 1 Z 5 ) 検
察官
(向
︒ロ
ωミ)の権力ぞ授けられたる彼は一冗
老院
(∞
2昇︒)の職員を改め︑選準権を提案する等︑彼は一人で共和闘の一切ぞ見るこご﹀なっ
たが︑これは共和園の形態を保持しつミ一方︑五世紀前に廃された君主政治(民
0 5
月g w )
が
再び建設されたのであった︒
紀元前三十一年Jい於けるアクグスツユの勝利に続くこの時代の特色は著しきものである︒そ
れはローマ赴曾
hT
通じて︑比駿的平和な時期であった︒何等大なる征服も企てられなかった︒
政治的努力は主ざして︑各層州をロ1マ化するこさに向けられた︒紀元後九入年より一一七年
. .
ー
に至る迄のトラヤヌス帝(叶三日目巴の治下に於ける版国大披張の時代に於ける帝国の領土は︑
プyタニヤの一一部なも合んで︑地中海沿岸の全部︑及びライン︑ドナクの河畔に及ぶ商ヨ!ロ
ヅバ︑小アジア︑ァY
メニ
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ポタ
ミ・
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ナ︑
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プト
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フ︑
アア
ηノカ
の金地域含も包括した庚大なものであった︒その人口は約一一億乃至一一億五千高ご概算される︒
多くの貼に於いて︑ギηノジヤに於げるべyクレス時代に匹﹂政するものご云ふべきである︒宏
大なる一公共事業の一は︑帝困の各地合連絡する軍事上の大道の建設であった︒
同時にこれはロIマ建築術の時代であったuロ!?市街は線一九の町から大理石の町へさ愛つ
た︒帝国の各都市を通じて︑宏症なる寺院︑劇場︑闘技場︑及び市場等が建てられた︒
アクグユツスは文卒︑美術に劃する後援者でもあった︒‑プアジ詩人グアIジ
Y (ぐ 目
Y31指 一
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の文皐精紳のあらはれであり︑史家
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の時
代
も亦︑この時代に属する人であった︒
彼等は一プアンの精紳的文化の絶頂ケ一不すものであるo
これさ同時に︑赴合紋態に於いては︑この時代はプY
ジユア階級に於ける宮の蓄積及び集中
の時代にして︑衣服.家屋︑家具共他の附属ロ聞に於ける彼等の虚飾的多修は古代の王宮に於け
るぞれ等のものご美伝競ひ︑又一方.人口の大部分を占むるプロレタ
ηノ ア
iトをして︑羨望さ︑
原始キリスト教に於げろ祉合迎論
七
商 業 さ 経 済
八
不安さ︑窮乏さケ培きしなるに至ったこごは一式ふまでもない︒
か︑当る時代意識からして︑我々は赴合理論の問題さなるべき二三の推定ケなすこさが出来るo
政治理論の考先は叛活ごせられ︑経済上︑一耽合上の論議は宮支及び椛カ階級の特様を危ふす
る恐れあるさせられたが潟に︑この時代は苧究的天才が表はれるこごみι
妨げたこごが特に甚だ
しか
った
︒
一般に︑暴動若しくは妓偽の起らなかったιさは︑絶望の淵に沈んだ結果ごして︑
極端に迄︑無成先になったこごを一不すものである︒支配階級に於ける参修さ不身持より
L τ
︑
叉︑貧民階級に於いては厩泊一ご不安さの忽に︑出産率は各地守遮じて驚くぺき程皮にまで減少
を示した︒
この絶望せる心理放態は︑ローマ人に古って︑会く外来の新宗殺たるキソザハトは如何に容易
に︑且つ自ら迩んで︑迅速に受け入れたかに依って了解されるさ唱)ろであらうoこの新宗殺こ
そは未来の幸福ケ希望し︑現在の災厄に到しては受動的抵抗に甘んやJるさころの殺義に満足せ
る人々にのみ趨合せるものであるからであった︒こ﹀に新しき精紳的時代は将に開け来たった
のであった︒
イエ
ス(
︼ σ ω
ロω )
が生れたのはアクグスヅスの治世の二十五年自民にして︑帝国の透阪の地に於
いていあるこさは注立ケ姿するさころである︒この時代に於いては︑彼の出生より偉大なこご︐
'
。"
.;1
はなく︑且つ又︑その後の歩みに於いても屡史ぞ遜じて宝大な事件の一つであったこさぞ物語
るo故に我々は次ぎにこれ等の歩みに関係する一一一一一の史的事賀ケ述ぺなければならない︒
第二節
ユ
ダ
ヤ 教
(﹄
ロ(
宮町
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へプ
ライ
人(
出︒
tg
o一)さ呼ばれるセミ程族の一遊牧民族が史上にあらはれたのは︑紀元前二
千年期の竿ば直前のこごで︑北部アラピヤ及び東部エジプトの荒野から出で来たって︑
カナ
ジ
( n g g )
の地を守へる原始人の一群であった︒その民族が多くの貼に於いてエジプト︑
ロー
マ︑
プリノタニヤに於ける封建時代に似たる士師(︼三
m g )
の統卒の下に極めて薄弱なる結令紋態に於
いて長年月合経て︑約紀元前一O五O
年頃
︑
ナク
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23
時代の君主政治へご達し?︒
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プ、
ブ
ィ王凶創立の始めである︒
而して︑更にこの王国は一O二五年から九九三年に至るかの勇武なダグイデ(ロ
25
)
の下に
偉大な政治的勝利を博した︒次いで祭事含極めた
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ロ モ
γ王
3 0
‑ 0
5 0
戸)の治世の下に︑王国は
一時弱をパレスチナ及びジリヤ地方に稽したが︑覇権永くは続か子︑yロモシの死後︑九五三
年に革命起って︑凶はイ久一フエ
Y(
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0 日)
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品 川
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の雨王図に分裂した︒ぞれよ
b︑
雨王凶は互に相衝突し︑抗争中佐一平ごしたこごに依り︑その一瓦浜一ケ来すに至った︒
イス
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Yは
原始キリスト款に於げる祉合理論
九
商 業 さ 経 済
四O
紀元前七七二年︑
アヅ
ジリ
ノヤ
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ω 者号)に滅ぼされ︑園民の大多数は地を移されるこご﹀なっ
た︒
次い
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ユダヤも紀元前五入六年︑
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に依って︑首府エ
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+ノレムを攻略せられて滅び︑多数の図民は或はバピロン
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に虜はれ行き︑或は遠く異郷に離散してしまった︒彼等はかくして︑四世紀に亙るへプ‑フイの
組図を失ったのであった︒
然しながら︑約七十年を一隔てミ幸にしてぺY
ジヤ
興起
して
︑
バピロニヤを滅ぼした故に︑
こ﹀にユダヤ人の或者を放ち還らしめるこごがあった︒蹄園以後のユダヤ人は岡家的︑政治的
濁立を遂げるこさが出家子︑その領土は︑相次いでバピロニヤ︑ぺ
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ヤ ︑
マケ
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ヤ︑
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マ等の君主政治の下に︑一層州ごして置かれるに至b
︑極めて悲惨なものであった︒唯々︑彼
エYサレム及びその一脚殿の再建に従事し︑ぞの宗殺上等に詐されたものは︑古きユダヤの都︑
に於ける一定の自由のみであった︒
へプライ人にさつで巳図さ一式ふ図民的不幸をなぐさむるものは宗教であった︒彼等の生活が
こ︑に集中され︑遂に一個の熱烈なる闘民的一紳数に仕上げらるべき運命を持ったのであった︒
文化に劃する有力なる貢献に依って一民族を特性づけるならば︑ギηノジヤは世界に哲卒営︑
ローマは組織を奥へたご同じ意味に於いて︑へプライ民族は宗殺に一大貢献をしたご一再へるo
F
,‑'
今
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へプライの歴史及び哲亭の中には︑ぞの宗殺が織り込まれてゐるこさ含我々は明確に意識し得
るの
であ
る︒
彼等の組先以来信じたる紳エホバ
(︼
mU
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)
の観念はその始め彼等の忽に戦ひ︑彼等の仇を
復讐してくれる穏族紳であった︒本質的要素に於いては︑エホバは他の原始民族のそれさ何等
異なるごころはなかった︒然しながらハプライ民族の長き︑而して多事なhし不幸の歴史に於
いて︑この本来の概念をして援悲しめて︑遂に未だ嘗つてなき︑正義之人類変さの倫理的一紳
数たらしめたこごは︑この民族の天分の然らしめたごころであった︒
この殺をして有力ならしめ︑而してキηノスト殺後生に先き立つての赴命日思想の後展に重要な
りし
三概
念は
紳権
政治
(吋
日5
83 Q)
であり︑選民(の
F 8 8 M M O o ‑ o )
の教義であり︑而して又︑救
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世主出現の希望(任︒足︒ω
巴 旬 ︑ 口
目 ︒ 問 ︒
匂
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であ
った
︒
ユダヤ殺に於じて最もよくあらはされたセム程族の紳なる観念は紳雄政治的のものであった︒
ぞれは単純にして︑又買践的であった︒エホバがへプライ人の種族紳の地位から宇宙の至上紳
たるの地位に昇るじ至ったみ一過程を通じて漸次︑エホバは創造者及び支配者たるの人格的特性
を後持して来た︒エホバは世界以外にありて︑様力及び事件の絡調的支配権を持つ︒ぞれ故に
歴史は紳ご人之の交渉の物話である︒家族︑図家の如き一枇合制度︑並びに宗数自身さへも︑ぞ
原始キUリスト款に於げる祉合理論
四
商 業 さ 経 済
四
れ等の起源及び形一位は肺の立士山に依っていある︒ぞれ等は一仰の感一不に依って人さ遊歩るのであ
る︒この観念はユダヤ人の数義の俊民に調して自然的基礎どなったものである︒
ユダヤ王国の克解ごバピロシに於けろ虜囚ごは政治的希望に到する悲しむべき打撃ではあっ
たが︑これ等の不幸一・は彼等を試級して︑こ﹀に
A1
迄に得られなかった図民的自廷を呼び越すに
至っ
た︒
一一外図の勢力に屈従して︑悶民的濁立ケ剥奪され︑政治上の一事柄に会一興するケ強制的
に抑魅されたる彼等は古エYヂムの翠丘ジオy
山(
由︒
門戸
)を
想起
した
時︑
悲嘆
に暮
れた
のみ
なら
争︑考へ且つ︑記録するごころがあった︒彼等は彼等自身の起源及び歴史を尋ね︑彼等特有の︑
天臓に閲する理論争賠らすごころあった︒口碑︑史銭の断片及びバピ官ニヤ出所の慣習よりし
て︑彼等は無比の停設を作り上げた︒それは全地上に於ける一一仰の指導の下にアプラρ
ム (
﹀ ず
つ
谷戸日)の後背たる彼等が唯一の一仰の選民ごして選ばれたこごを描いたものであった︒天地の閲
闘に
筆を
越し
︑
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ュア
( ペ
g F g )
の介ナシ獲得に筆ケ約めたベシタヅ1
グ(
司g
ES
岳)は問
もな︿聖書の形式をごるに至った︒今日の︑根日約型書の初めの五忽にあたるものである︒か︿
して︑すぺての人々に共通なる集凶的生存の一段越成は︑こ﹀に特殊の力争把握し︑この書き物
の庚まれる︑且つ叉︑図家なくして︑倫ほ国民的民族ごしての図結固く︑その特性子維持せる︑
この
離散
(口
一戸
唱︒
門戸
)
の民族の問に精一抑的統一が生じたのであった︒
伶
叫
ー
引き続く政治的服従は︑ひたすらイそフエY
往時の栄元回復ケ望む心の強きは蛍然の道行で
あった︒一被従服者に共通なる図民的蒋放を受けんごする憶僚は︑図民的離散の成儲からして︑
特別にユダヤ精一利?把持するぜころあった︒
バピ
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肢囚
時代
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一一
一一
口者
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月
EOH)の時代よ
へプライの珠言はユIトh J ︑
ピヤの歩で満されてゐる︒イスラエYは回復されるぺき日がある︒エホバはググィデの王位を
回佼すぺく︑エY
サレムを首府ごする新しき世界帝図は建設されるであらう︒この希望は特殊
のメジア的形式をさり︑救世主(足︒
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希望
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一一
一一
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一 般に行はれて厄たさころである
oこれはむしろ漸次に漉くなり来たったもので︑六三年︑
,};
よ
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ク
λに依ってバレ只チナ征服の時に至る迄に︑この翻念は十分に建てられたさ思はれる︒
‑)
の時
代以
後の
沼約
外血
ハ(
﹀ち
の弓
匂
FP
)の記事は大部分この仮設の上に作
b上げられてゐる︒
この世紀の終末にして︑キy
スト殺繁明期に至る迄︑救世主出現の希望の教義はユダヤ人の
信仰中の最も弱者なるもの﹀一つであった︒
第三節
ア レ ク サ ン ド リ ア 皐 徒
か﹀入時代に世芥の他部分に於いて︑知u
的運動がキクスト殺の起源さ後達ごに著しき関係全
原始︑キリスト教に於げろ社合想論
匹t
商 業 主 経 済
四 回
以って醸されつ﹀あった︒
アVグサシドηノヤの町が紀元前三三二年にマケドニヤの征服者に依つCエジプトに建設せら
れた︒この町は東方の一大商業の中心地ごして直接の重要さを以ってゐたが︑その住民はエジ プト人及びギタジヤの移民の外に︑束亜諸図からの移住仁依りて出来︑最も世界的な性質ケ持 ってゐた︒その人民は恐らくは百高に遣してゐたであらう
o而してこの中︑人口の約五分の一
を占めてぬたのはユダヤ人である︒このユダヤ人の大部分はメ
vユチナから移住して来たので
あるが︑共他にも嘗ってエジプトに殖民して一皮もエ
Yサレムに還らなかった所謂離散ユダヤ
人もゐ穴︒この理智さ信仰さに富んだユダヤ人はギ
yジヤ人さ共に︑アレクナシドηノヤの町を
して隆盛へご導く原動力ごなったのである︒
プトレミ1家
( F o r
‑ 昆
o ω )
がその富強を以て準装に保護を加へたこごは︑この町をして問もな く皐術研究の中心たらしむるに至った︒既に政治上︑衰微の時代に入ったアアネは︑ぞの形而 上的思索︑思鉾哲亭に於いてはさすが仁︑その優越な地位を維持
L
てゐたが︑科率的知識にお する興味はこごござくアレクサンド
ηノヤに移り来たったさ一去ってもよいo
植物園︑動物園︑観 測所︑並びに解剖研究所を持ち︑特に宏大なる博物館及び問書館ぞ持ったアレクナ
yドソヤは
最初の完備せる大撃が起ったど一去はれるo諸国から多くの
mA
T徒はこ﹀に集まり︑岡家はこれを
働
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、 ー
保護奨崩し︑各自好hu
所に
従ひ
︑
ぞの才ぞ伸しめ︑
所謂
アレ
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リノ
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‑ H o o ‑ )
の基を問聞いたのであった︒数卒︑天文︑物理︑文率︑義術は著しく後達して花さ開き︑
紀元前三世紀に於いて最も隆盛を極めた︒
然しながら.この華やかな率義時代は短い命であった︒ぞれは一世紀問ご縫か子︑突如三し
ーて.紀元前二世紀の中葉に至って︑主にロIマが︑世界の政治的統一の結局に︑与﹂の中心さなら
んざするこさに依って︑終りを告げたさ一去ってよい︒
され
J Y ¥
この時代ぞ通じて作り上げられ
た文化の力はこれさ共に消え失せるこさは出来十して︑ぞの影響を西方に及ぼして行くのであ
った︒然し︑科亭は行き詰り︑哲亭は懐疑の道をさまよって︑悩を深めるのであった︒
必要なる活路は宗殺に向つτ行くぺき運命にあった︒
甲}
れに
イタリヤに向はんごして︑大部分の等徒がアレクサシドリノヤを去った後には︑そこに残され
‑た智的集凶はヘレニズム化したユダヤ人のそれであった︒一時彼等は全市人口の竿ば以上にも
注したさ云はれる︒
彼等
はギ
リノ
ジヤ
一
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佐語
︑り
︑
所謂
﹁七
十人
諮﹂
(∞
ο七百戸均一三戸)めの好きこの時代の如き形身を逃したのであった︒
詰1セプトウアギンタはギリVヤ誌にて﹁七十﹂私立味するo倖ふる所に依れば︑プトνミ1二世の命に依リ︑約七十
人の人々の手に依って︑ギリVヤ託に諮越され大こさから︑かく呼ぼれろ︒然し︑事貨はエグプトにあるユダヤ人
芝︑ユダヤ設に師依し大又は師依ぜんざするユダヤ以外の人氏︑すなはちへνェメム人のれめに︑彼等の信仰の大 怨にへプライの謹書のギyジヤ語誇を完成した
原始キリスト款に於げる社合理論
四 五
商 業 さ 経 済
四六
血れた読みうろやうにぜんざすろ賀際的必要から︑長年月島経て認されれものであら︑ヲ︒完成しれのは恐らく紀元前
一世紀始めざされろ︒
こ︑
に︑
セム系のユダヤ人の一一抑論的宗教観が︑ア
1η
ノヤ
ン系
ギ
ηノジヤ人の神人同形の観念
5( 己
3吾
51
の の
O口 ︒
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)芝山ム系エジプト人の三位一位(∞
RP
ち2
5)
の思想さが抵備するに至つ
たのであるo諸人程の混治せる所には︑各自の宗致的別念及び慣習を競ふは常であった︒然し︑
品目回時のギソジヤ語系の大帝国にあっては︑鼠・に地方的なる儀式・古来の種族的都市的一仰は著しく
迫害せられ︑紳々の一一砲の同化作用を行ったのであった︒彼等は世には多くの一仰々があるが︑
皆互に相似たもの︑みである︒多くの紳々ありさ雄も︑それは皆同一一仰の異名に外ならないご
考へるやうになった︒甘1
マ人
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ュピ
ター
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己立
芯吋
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ジプ
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(﹀
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及びオジソ
ス(︒弘江
ω ) バピロニヤ人のぺY︑
・ マ
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グ(
ロο ‑
I Z R
含 斤 ) ︑
ユダヤ人のエホバ等は皆な共遮な︑
唯一の紳であるさいふ観念が起って来っ︑あった︒
ζの考がアνクナシド7ヤ程︑盛んに行はれた所はなかった︒プトレミl一世はアレクサン
ドリ
ノヤ
にセ
ラピ
クム
( ∞ 雪 阿
世 間
) ω
ロ ヨ )
子廷で︑一柳々の三位一位膿拝所ごして︑朕げられたが︑
これ
はエジプト及びギソジヤの一別々子同一一仰の三形相さしてあらはしたものであった︒営時これ等︑
紳々の同化作用に濁して︑反劃したものは︑抗に天地の唯一一柳エホバ?信仰したユダヤ人であ
ーω
った
噌︺
さは
常然
でゐ
る︒
こ﹀
に︑
このユダヤ理想の卓絶ご︑ギリシャ思想の批剣的精一仰からして︑ギ
y γ ヤ哲
mA Tさ へ プライ宗殺さの融合︑すなはもプラトンざモ
I
ゼ九
︑
ロゴ
スゾ
﹂一
仰さ
の融
和さ
一エ
ふ大
問題
が起
つ
て来たo後述するアイロン(司
5 0
口)の労作中に於けるこの綜令の完成はキyスト殺の最も重要
なる教義の基礎ケ構成したもので︑初期数合紳
mA
の決定的要因を作ったものでゐる︒T
第四節
ナ ザ レ の イ エ ス Qg
c印
︒ 同
Z R R O
門}同﹀
二︑では先づイ旦ユの宗殺上︑一料苧上の解制作には縞れや︑一つの史的人格ごしてのイエ只の
生涯に関して︑確買なり戸誌なる一品質に就き述べんざするのが目的である︒
イエネはがyレlア
( ο h H
E p o p
)
湖昨のユ3ャ人の子ごして︑アクグスヅ久治世の二十入年頃︑
すなはち紀元前四年頃じペヅレへム(ロ
2E
oF
OB
) 又はナザレに生れた︒彼の父ヨゼア
(︼
0 ω ο
七 日
H)
はナザレの大工であった︒マタイ侍りYカ停りの系岡に依れば︑古の傘きへプ‑プイ王ダグイデ
の後資であるごせられるが︑
これは救世主たる彼合して︑命交の出ごして崇められなければな らない必要から作られた不合理なものであらう︒伎の母マソヤ
( Z P
弓)
に就いては何にも知ら
れてゐない︒彼の少年時代も明かではない︒彼は明かに︑
ナザレに於いて育てられ︑彼がユダ
原始︑キリスト款に於げろ祉合理論
四 七
商 業 さ 経 済
四八
ャ人の合堂での普通殺育を受けたこさも︑彼の父の職業に働いたこさも︑又雨親に連れられて
エY
ムナ
Vムそ屡々訪れたこぎも恐らく確かであらう︒
註2第一章一節l十七節
第三章二十三節l二十七八節註3
の説教に戚宇るごころあって︑
三十
歳頃
に︑
彼は
へプ
ライ
最後
の論
誠一
一一
口者
ごも
一式
ふぺ
きバ
プア
スマ
のヨ
マ不
Go EF o
出品
安門
)
に於いてヨマチから洗躍を受けた︒ヨY
ダ シ 河 (
︼o
E S
)
間 も
なく
︑こ
の鼓
弓一
一口
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丹︑
不の
死後
︑ イエスは忽ちにして︑同胞の注目を惹︿に至
b
︑﹁
時は
漏り
︑
紳の図は近づけり︑悔ひ改めて一臓一菅を信也よ﹂(吋宮民
BO
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丘‑
一任
︒日
向山
口色
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え の え ぽ
54
︒‑ 8 0
巳官
三一
円︒
旬︒
己自
門日
げ巳
目︒
gFFomF
仏
0ロ
3・)の言葉を以って︑待ち望める天国の
来るぺき二ごを説きつ﹀︑ガ
yν1
ア湖畔を遍歴したのであった︒彼は布教の中心をカベYナ
クム
(の
名2 5 5 M )
にぞき︑湖昨の多くの漁村や︑回合町に毅ケ宣ぺた︒彼は極めて人間的な︑
極めて異撃な︑情熱的な人格のカを持ち︑強き性格にして︑而も繊弱なる身睦の持主であった︒
一時︑彼は︑その偉大なる人格ご︑その謙一一一一口の使命の匁に︑大衆を惹きつけるさこみがあった︒
彼は病に憐める人々に︑暗示を奥へるこさに依つての快此胞の術を試みる等のこさをした︒
詮
st
マヨ倖第一章十五節
彼は決して哲卒者でもなければ︑紳卒者でもなかった︒波は恐ら︿ギクジヤ及びアレクナシ
句血
‑
骨
ドリヤの哲郎寸も知らなかったこさであらう︒彼はたいユグャ人の律法及び漣拝を得ぴ︑ぞれ等
に︑より高言倫理的説明ぞほざこしたが︑然し彼は慈悲の街勤さ相衝突した場合には︑その傍
統に背︿を併しなかった︒彼は停徳を責められ︑偽善さ答められたが︑何等不健全なる罪業は
なかった︒それ故に︑彼は常じ︑過失に濁しては同情を持ち︑切に罪の放しゃγ求めつ冶ある者を
助りんごして︑惑謹に悩まされたる者︑頻病人︑取枕人其他の所謂﹁罪人﹂︑呉邦人等の放しを
宣J一日し︑又︑彼等さ相交るを跨践しなかった︒彼が忌憾な︿ユダヤ殺に属する特種の儀式を来
てた結果は︑極めて正統的であって︑排他的であb︑律法を形式的に重宇るユダヤ殺向学者及び
バソ
サイ
人(
司宮
長︒
︒
ω ) の怒りを招一き︑激しき批難を受けた︒然しながら一方︑彼の周囲に王族
のキ
yスト信者の一聞が集り来︑り︑それ等の者に彼は愛さ勇気さを吹き込み︑彼が建設したこ
の新しき宗敬一枇合の中核をなすに至った︒
彼が私的生活は何等賞なぺきさころがなかったが︑
しむるの故ぞ以って支ケ負はせられたのであった︒ ユダヤ人にさって︑天帝の宗殺を壊乱せ
三年後に︑彼はエYサレムに赴き︑正統訪固守のユダヤ殺徒ご相争ひ︑途にはロ1
マ 官
・ 一
見 の
決m b J
﹄受け︑彼は惑人さして︑反逆人ざして捕へられ︑審問の結呆︑有罪の剣決を受けて︑紀
元後三十年に︑凡そ三十三歳の年齢を以って︑十字架上︑傑刑に彪せられた︒宗教的︑政治的
原始キリスト敬に於げろ枇合理論
四 九
商 業 さ 経 泊
王O
及び
一般
舎的
に︑
イエスはユダヤ及び廿Iマの文明の外に立ってゐたので︑死守宣告され︑十字
架にかけられなければならなかったのである︒
きて︑我々がこ﹀でイエλの赴合理論のみを取扱ふならば︑問題は比較的じ筒草である︒然
し︑我々の評論しなければならないものは︑原始キy只ト教に於ける敬訪であり︑又︑ぞれの一枇
合考察に於ける影響如何であるoこれは相営複雑な問題であるo我々はこの赴合理論の論議に
入るに先きって︑更に史的キyスト殺の所産中の二三の要素に就いて述ぺなければならない
o '
第五節
ブ
イ
ロ ン
同)}戸口()口
紀元前二十年頃に︑アレクサンドy
ヤの
町に
︑
キソスト数思想に著しき影響?輿へるぺき逗
命を縫った人が生れた︒これこそユダヤ人のアイロンぞの人であった︒祭司の家柄レピ族(円︒己)
の血統を引く純粋のユダヤ直系の人であった︒彼の家柄は官裕であったので︑彼は自己の民族
の智識並びに文献に就いてのみなら子︑ギy
ジヤ
哲郎
T及びその文献に就いても教育舎受ける十
分な機舎が奥︿られたのであった︒
者くして︑彼はプラトシ及び久トア亭波の熱心なる率徒三なった芭共に)彼のかくの如き庚
き智
的敬
一一
一食
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係は
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︑彼
は正
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卒︑
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司富
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w ω の ど
0
円 )
に屈するユダヤ人ご
w
拘
. .
して︑彼の生涯を宗殺哲与に獄げたのであった
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サノレムに一民訪れたこごミ宗教上の許 可を符んさ︑使節の長ごしてカ
ηノ
グラ
帝(
の色
2 5 2 l t )
に鵡すべく︑ロ!?に赴いたこさ︾
の前後二回の旅行を除いては︑金生涯をアレグサンドリヤにて過した
o
紀元後五十年頃に同庭
で逝くなったごされてゐる︒
年代ごしては︑アイロンはイエλさ同時代の人であったが.キy只ト個人に就いても︑又キ
y久トに依って剣一不された問題に就いても何等の知識をも持っていなかった︒
彼の著書は今猶甚だ多く残ってゐるが︑その者作中には何等︑救世主出現の希望の事には鰯
れていない︒彼はユダヤ紳亭さギソγヤ哲向学さの結合
示e T
した
︒ 彼はロプ九の問題に関し説
に述べたる如く︑
てコユさへプライの紳の蹴念ごの融和伝説いたのであった︒ぞれ故に︑彼こそは︑第五節
ユダヤさギyジヤの精一柳生活が↓内的に一融合してゐたアレクヂンドリヤに於い ︑き
て︑その卒︑仮の最も代表的の人物であっ?︒
融和しがたきこのニ要素を関係ありごする彼の雨万論法は概括すれば次の如きものである︒
彼は彼の民族ユダヤの謹一典に濁して最高の曾敬ぞ捧げ︑
モー
ゼ(
己
88
)
の伴
法甲
﹄ぞ
一脚
の啓
一不
であるざする︒聖書は彼にごつては︑たいにそのへプライの原文のみなら歩︑﹁七十人諜﹂まで
も等しく文字通り援成に依るものごし︑これは紳託であり︑一仰の一一一一口菜であったo
給与
一一
一口
者は
紳の
原始キH
・'
スト
款に
於げ
ろ枇
AU
割論
五
商 業 さ 経 済
五
立士山を人間に傍へる受動的機械であった︒
アイロンに於いては近代の批汗主義の閃きは見出
L
If
︑L
︑ ︒
沼 ぃ 1
ャ し 7
モlぜこそ立法者であり.会理一一一口者中の最も偉大なる者であった︒モーゼの書物は紳
の不易不愛の︑永遠の言葉で作られてゐる︒
彼は守}れさ共にギヲジヤ哲皐の影響が苦しく認められるo
彼の紳なる概念はすぺての思惟さ
認識さな超越せる絶調者である︒同時に紳は一切のもの︑原因であり︑世界の創造者である︒
然らば︑紳はかく世界を超越してや﹄りながら︑如何にして品川界に働きかけるこさが出来るか︒
この世芥さ紳さの仲介者ごして︑一脚は自らの免に︑一︐もろもろの力﹂(ロ
58
8ぽさ呼ばれるもの
を創造した︒この力一切ケ自らの中に総括する最高のカケストア的用語を以ってロプ久
( H
b m
g )
ミ名付た︒これは元来︑一一一一回菜又は思想の立であるが︑創造者たる紳の言葉は同時に世界の存在
の源
'日
況で
ある
︒
ロゴスは又︑人格的にも表象せられて︑﹁紳の最初の息子﹂さか﹁第二の紳﹂﹁一仰の
姿﹂な芝︑記されてゐる︒
人間にさつで最上の目標でゐり︑最高のふ舎であるのは︑禁欲さ信仰ごに依って︑一仰に近づか
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ある
︒
の直視は全く一抑略的の隣験で︑全く一岬の中に溶け込んだ︑所謂悦惚(エクスタジス
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す)
の
状態である︒
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ドラモンド(ロ
25
52丘
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評論
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Yに依って主張されたこれ等二つの命題は雨者間には何等の意味の矛盾もないが︑
買際に於いては雨立出来なかった︒
モーゼはプラトン的イデア設を殺へもしなければ︑叉︑
深さ唯心的哲苧の一一一一口説も創世紀中の︑物語の字句上の意味には何等見出されなかった︒
プ
イ
ロYはすぺての難貼の仲介さして︑ユダヤ法典のアレゴリ的解明秤めをさり来たった︒ぞれが
哲向
山手
思索
に持
ち家
さん
が忽
に︑
か¥Aる解秤方︑法が穏れたる意味の奇異なる吟味︑又は聖書の
明かな意味営︑故意に曲解するこさであるぜ思ふならば︑全然このアレゴリ的解蒋法の性質 を考へ迷ひしてゐるのである︒ぞの多くの結果が如何に奇異なものご我々に見えやうさも︑
又︑その全方法が要書の科率的註蒋から著しく離れていようさも︑
アイロンは全然真面目に このこごに従ひ︑著者の原立公明細に述べるぺく忠貨に展開したぎ信じてゐた
G﹂ の
註5アVゴリ
1(
KH
=a
25
的鮮側伴さは︑字句に去はれれ直接の意味岳山早に表面的のものさなし︑よリ深き内容らこれ
に興へて解結ぜんざするの岳云ふ︒こ﹄ではアイロンが聖書の記事たMfn︐Vヤ哲苧的意義に依って解器し︑聖書さ
哲与さは同じ跡的意義た説くものさ解し士のであつれ︒
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︑ これの方法に依ってアイロ
yはギy
ジヤのロゴスをへプライの紳さ同一視し︑後
年のキy
スト殺紳与に通用される基礎ケおいたのであった︒然しながら︑彼はこれを同一一腕し
原始キUリスト款に於げる社合政論
五
商 業 さ 経 済
五回
たが︑それ以上に進もうごはしなかった︒
第六節
タルソスのパウロ
同)
山口
]︒
目︑
吋旬
︑ロ
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キリλトの傍道の始まるに先き立って︑未だイエ丸一か微賎に生活してゐた時に︑エY
ナレ
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の町
に︑
へプライ出身で︑ギη
ノジ
ヤ誌
や‑
語り
︑
ロleマの会民権を持った一人の若者が︑営代の
治率者にして︑ユダヤ.の伴治博士たるがマソエY(のき邑豆)の膝下にユダヤ紳皐を研究しつ﹀
力支
サクロは彼のユダヤ省前である
バクロは彼のギηノジヤ名前で︑これに依って普く知られてゐるさころである︒
であ
る︒
あった︒この者こそナウノロ
32 3
又は
バク
ロ(
一3
己)
彼は紀元元年頃に小アジアの︑
の首
府︑
バyナイ人ざして︑ユダヤ人の合堂で︑ユダヤ殺の股格なる数育を キηノ
キア
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巴の
門戸
)
へνニズムの栄えた町タ
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スy
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生れた︒純粋のユダヤ人で︑
受けた︒り彼は‑プント製作者の商寅を亭んた以外に︑彼の若き時代のこごに就いては何等詳し
いこさは剣らない︒彼の著作から推測すれば︑彼は十分なるギ
ηノジヤ殺育を受けたギy
ジヤ
の
卒者であり︑ギyジヤ文接並びに哲皐に関して︑該博な知識を持ってゐたこどであらう︒同時に
彼は宗殺的熱情家であり熱心なるユダヤ殺徒ざして︑同輩の何人よりも︑キy只ト殺に濁して︑
真面目な迫害者の立場にあった
oめ而も彼は驚くぺき勢力ご︑偉大なる知識の輝きや﹄持ってゐ
•
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L畠
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使徒行的問︑第二十三章第四節︑及び第二十六事五節︒
岬μラテヤ害︑第一章十四節︒
彼はイエスの侍廷の問タyyスにゐて︑ 註8
一度も彼に合ったこさはなかった︒恐らくイエスに
就いて何等聞くさころもなかったであらう︒イエスの死後数年︑キyスト侍道の初期にエYす
νムに蹄り来たったυ彼がエYサレムに踊るや︑イエスの殺を信十る者エYナV
ムに
ひろ
がり
︑
紳の律法を無視する者あるぞ聞いて︑これが撲滅に自己を献げるごころあった︒然し︑かkhる
迫害の其中に︑突如ごして彼は律法的なるユダヤ款に依つては紳に於ける異の慰めざ救ごや這 し難き苦痛に悩ま
3れ来り︑こ﹀仁新しき︑驚くぺき輝きがあらはれて来た︒彼の心にこの偉
大なる後見に劃するすぺての要素があらはれて来た︒ナザ
νのイエスこそは紳の子であり︑
イ
ス ‑
ブ エ
Yの救世主出現の希望を成就したのであった︒
この瞬間からして︑バクロは
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迄彼が迫害し京市たったその信仰に謝する最も熱烈なる傍道者
ざなり︑労苦をつぶさになめて︑
ダマ
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2 5
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︑.
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25 )
ロ1マ等に停活するさこゐあった︒彼の著作は新約金書中
の使徒害者干に残ってゐるo十二名の使徒中に入らないu
けれざも︑彼は使徒中の首たるもので
原始キリス干教に於げる枇AWU担論五五
商 業 さ 経 湾
王六
あり︑多くの現代亭徒に依りて︑史的キリ久ト殺の鼻︑の建設者ざされてゐる︒彼は恐らくは六
七年頃︑ネロ帝の下にロ1マに於いて殉難にあって︑殺されたさ云はれてゐるo
彼の世界の柊末に閲する未来観たる絡末論(同
m o z s r q )
はナザレ人に座倒的なるカを以っ
て逗まって来た︒彼は十字架上の苦難に濁して︑十分に満足すぺき説明を輿へたこぎに依って︑
イエスの救世主たるこごの信仰を明にした︒紳の子たるイエスの死は連なる犠牲であった︒
イ
エスの救世主たゐこぎはその何ものにも勝る復活に依って詮明せられ︑且つ翠閏にせられたの
であ
った
︒ 紳の子の死さ復活︑人類の救に関する深い宗殺的思索の結果は︑信仰の強みを人々に戚性し
め︑キリスト教紳
mA
予の基礎を作ったこさであった︒バクロがイエスの精紳及び復活の数義を深
く理解したのは明かである︒今迄︑生活方法の教訓であったナザレ人の信仰守して︑信念の殺
に化したのであった︒イエ只のキリノユト教は愛ざ奉仕の生活であった︒バクロのそれは一つの
一紳
挙で
あっ
た︒
又︑異殺徒への使徒
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ω己o g p o
のg
g ) 江 戸
たるバクロのいま一つの功績はキリスト教が普
一過性を持ったこさであった︒キリスト王国の範囲守康めたものはバクロであった︒使徒の停へ
る数舎に営面せる最初の問題は異数徒争も抱擁し得るや否であったoめこれに劃してバクロは︑
, .
,
. .
救世主の王国は唯々ユダヤ人にのみ閃かれるさいふさころの︑すなはも﹁イ丸一ブエYの家の迷
へる羊﹂めざいふ狭い考へ方を打破したのであった︒彼は民族の↓障壁を打壊し︑キηノスト数徒
の門戸営康く開放したのであったo然しながら︑彼にさつて︑キリスト教は︑ぞの初期に於け
る、
ユダヤ殺に多少の鐙夏ゃなせる形式に於いて︑すくなくさも数世紀問は存するであらうさ
いふこどは明かであった︒
バタロのか﹀る世界主義的態度は︑彼の多くの経験さ旅行ごに依つ
て得られたものである︒この布殺の成就こそストア的な世界市民主義(内
05
80
Eg
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)
の亭説
がこ¥みに関係し来たったのである︒又︑この貼に於いて︑キy只ト殺はギy
ジヤ
︑ ロー マの 文
明世界に侍へられるに大きいカになったのである︒
﹁キソマハト教は人々の問に順潮に庚まるにつれて︑ぞれは只トアの考へ方の勝れたこごに依
hJ
︑更に容易く康まるごころがゐった︒
只トアの世界主義に集中せるさ考へられた人類の同 で ー
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10)さ
が、
キyマハト殺天図の期待を一見に剣然ご︑心を惹つけるが如く︑買拐されたの
詰 9
エパソ書︑第二立第十一節│二十二節︑Tラテヤ詩第二訟︒
巴ロ
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理論
五 七
商 業 主 経 済
五八
第七節
イ
、コ二
スの
教 義
イエ
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数義
さ正
統一
蹴キ
ηノユト殺の教義ごの聞の根本的差異はこ﹀に注意すぺきこさである︒
前者は殺害を主眼ごし︑後者は使徒を主眼ごするo歴史上の信仰筒僚はイエスが如何なるこご
e T 思索し︑'如何なるこごを忽したかの問題には立ち到らない︒それは彼が如何なる人であった
かに閲してであった︒ぞれ故に︑紳率上の仮定は無滅されてゐる︒救世主たるこさ︑焼罪︑白旦
誓及び三位一位の一仰の設はイエスの教義には何等関係がない︒彼の数義は道徳的改革で︑紳亭
的改革ではなかった︒ぞれはユダヤ殺の︑信仰︑形式︑儀式を主眼させる宗殺的見解に謝する
意識的反動であった︒
彼の殺育の主目ごするごころは紳なる聖父の下に兄弟たるこぎ又これ等同胞の観念を合む
さころの精紳及び秩序であった︒これは﹁天国﹂(吋宮内山口包︒
5
0同国
gg
ロ)
又は
﹁紳
の図
﹂(
叶r o
関山
口立
︒日
︒向
︒︒
仏)
ざい
ふ言
葉で
表は
され
てゐ
たが
︑こ
の観
念は
何等
政治
上の
意味
を持
って
ゐな
い︒
﹁紳の園に依ってイエスは一つの理想的赴合秩序を意味した︒(尤も漸次その理想に}近づいた
さは雄も)ぞの秩序内にあっては︑紳に劃する人さの関係は父ご子さの関係であり︑(それ故
に)互に兄治の関係である︒
L n
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