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- - -- 満鉄総裁松岡洋右『支那民族性について』を読む

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はじめに、『支那民族性について』草稿本の存在 松岡洋右(一八八〇~一九四六年)は、アメリカ留学を経て外務省に入省後、満洲問題に拘っての国際連盟からの脱退演説、外相としての日独伊三国同盟の締結で知られている外交官・政治家である。豊田譲の小説『松岡洋右』では、国際連盟からの脱退が松岡の本意でなかったこと、外相として日独伊三国同盟(一九四〇年)を締結したことを後に慚愧して、敗戦後に「三国同盟締結は小生一生の不覚」等と慟哭したことなどから“悲劇の外交官”と呼ばれているしかし、彼の外交官政治家としての実相については、現在でも不明な点が多い。本稿でとりあげる『支那民族性について』は、松岡が 第二次近衛内閣の外務大臣に就く以前の満鉄総裁であった昭和十二年(一九三七年)に書かれた中国人の民族性に関する論評である。これは『文芸春秋』(一九三七年)稿後、漢(家、一八八九~一九五〇年)が高く評価し、彼が主宰した『江漢雑誌』(第一巻三号、一九三七年)に転載されている一瞥して、草稿(全十三枚)には大幅な朱書きの書き直しがある。章によっては、表現の手直しというよりも、内容自体を書き直したと言ってよい程、改変させた箇所る。稿稿は、

MARUZEN

使走行の奥付には、「昭和十二年九月二十五日」とあり、草稿を認めたのが盧溝橋事件(同年七月七日)に端を発

満 鉄 総 裁 松 岡 洋 右 『 支 那 民 族 性 に つ い て 』 を 読 む

《史料紹介》

浜   田   直   也 

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する日中戦争勃発から二ヶ月余日後のものであることが分かる。に、は、に関する先行研究・資料紹介はない。本稿では、『支那民族性について』の草稿を分析して、そこに秘められた、満鉄総裁松岡の日中戦争下の対中観を解読することを目的としている。

第一章

  『支那民族性について』の全文紹介

草稿は、ペン書きの原文の欄外・行間に修正文が朱書きで多数書き加えられていて読みづらい。また、手直しされた修正箇所も部分的な訂正にとどまらず大幅な改変が施されている箇所が多い。原稿用紙の一項目の上部の欄外に、松岡は「大変  正してすみませんが」と丁寧な断わりを入れてあり、松岡が推敲を重ねた様子が窺える。これは、松岡が、原稿の締め切りの直前まで熟慮した跡が見て取れ、内容を慎重に吟味したことを物語っている先ず、修正稿の全文を、小見出しを外してその内容のら、~(し、 文から修正、加筆、挿入された箇所には傍線を引くことにする。(A)

  支那の民族性といふものを考へるに当たって、従来合、を、い。は、従来日支親善、日支提携といったものが説かれる場合、日本人と支那人とは「同文同種」の民なりといふ、如何にも首肯出来さふな言葉が、屢々平気で使はれていることである。

  し、は、ふが如き、一つの錯覚に陥っているのであって、日本人と支那人とは、仮令同じ漢字を用い、同じく東洋人も、」(

Species

であるといふ、重大な論点(ポイント)を無視しているのである。

  凡そ、この「種」(スペシイズ)といふ観念を離れて、民族性を論ずることは、恰も「犬」といふ「属」(ゲーヌス)だけを考へて、種の異なるテリヤとマステイツとの性能について論ずるやふなものである。日本民族

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と支那民族とは、全く異なる「種」の二民族なり(多は、支那人の民族性、延いては日支両民族が何が故に斯くも長年月に亘って、相隣接し、吾々の祖先の或る者等は、支那文化に心酔しきった程に支那文化に浴し、言語・文字を始め殆ど百般の制度を支那から籍りて来たに拘わらず、凡そ日本人と支那人位性質の異なっている民族乃至国民は、現に今の世界にはないといふ此の事実を充分に説き明かすことは出来まいと思ふ。(B)

  物質的であること、実際的であること、理屈に拘泥せぬこと―これらの点で、支那人は英国人と、よく似通っている民族性を持っている。

  英国人が理屈に拘泥せぬ一例を上げると、たしか界大戦講和会議に属連しての波蘭問題の会議の席上であつとかと想ふが、佛国代表が会議に対して不満を抱て、ド・て、奮然として「英国人は非論理的だ」と詰め寄った。さうするとロイド・ジョージがやおら起き上がって放った言葉は、正に英国人民性を、如実に現したもの る。く、り、だ。て英国人は、御説の通り非論理的です。然し、どうにか、て(

some how

達成します。

  この「どうにかかうにかして」といふ、理屈に拘泥しまい民族性が、支那人にもあることを、卑近な例で示すと、支那人のコックがさうである。在支西洋人のよく話す事だが、西洋人のコックを雇ふと、先ず台所だ。で、と、極めて簡単で、西洋人のコックに比べれば何分の一にで、洋食をつくって食わせる。つまりその場合、支那人のコックの考は、「どうにか」(サム  ハウ)して料理をする。ツマリ「どうにか」して料理をする。理屈手段にはさして拘泥しない。此点はたしかに英国人の性質に似ているのである(C)

  次に、支那人と英国人に相通ずる民族性は、大きな常識を備へている点である。これは四千年の支那文化に培はれた成果でもあろうが、この大常識を培った半

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面に、爛熟し切ったこの文化に浸り過ぎた結果、民族性として多くの欠点を持っている。人間として新鮮味乃至野臭を欠いていることは実に大きな欠陥だ。しかし、兎も角、この円満な大常識を備へているといふことは、英国人のそれと並んで、支那民族が誇るに足る大きな長所と称すべきであろう。支那人は当てにならないと想ふている人が往々にしてあるが、私は首肯し得ない。支那人との友誼関係について、私自身の体験を述べて見たい。

切られたることなし。」    「年、

  私は、私の支那人との友誼関係に於て、斯くはっきりと云ひ切ることが出来るのである。尤も、私がここにいふ支那人とは、支那本来の支那人であって、欧米人や日本人と接触して所謂悪ずれをした或る種の支那を指すのではない。私自身の体験では、支那人に裏切られたことは一度もない。寧ろ日本人に対して、同様の言をなすことの出来ないことを愧じ且遺憾に思っる。は、も「と「と「とで凝り固まったやうに考へられている大阪商人の古 に、と、だよく似ている。この事実は、誠に奇異に考へられるかも知れぬが、私は私的友誼関係に於ては勿論、公の仕事の上でも、裏切られたことはない。私が何故裏切られなかったか?  それは、私が常に一個の「老朋友」として、彼等に接して来たからである。然らば「朋友」とは一体何か?  文字だけで訳するならば「友人」でが、と、る。と、て、責務不履行になった場合、日本人は法律を楯にとって、すぐに差押へをする。これが本来の支那人に取っては、驚くべき事実なのだ。「事業」に失敗して困っている者を、「老朋友」として何故救けないのか、少くとも同情して寛大であって呉れないかて?」  が、だ。規とかを超越して、「情」で動く者が「朋友」である。これは、昔の大阪商人にもあった、一つの気質だ。商と、る。ち「になるのだ。私は欧米の法制にかぶれて、商売は商売

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だ、法規に依って差押へもする訴へもする、人間としての交際は別だ、と云ったふうな考へ方や行き方よりか、この支那人の考へ方の方が、人間としての丸味があり、ゆとりがあって、どれだけよいか知れぬと思ふ。

  この点は、支那人と接する上に、深く意に留める必要がある。又吾が日本人のやうに気短でない。誠に気長でのんびりしている。それだから同じく気長屋のロシア人とも昔から割方馬がよく合う。(D)

  由来支那は、近代的の国家を成したことはなく、強いて言へば、支那それ自体は世界で、その中に幾つもの国らしいものがあったのだ。支那全体としては一つの社会であったのだ。私は、社会性のほうが国家性よりか、より永久的の本質を有するものではあるまいかと思ふ。この点に於ては、支那人は確かに強い或るものを持っていると言へよう。

  一つには、この点からしても、次のやうな事が生じて来るのであるまいか?  即ち国事に関する交渉でも「老朋友」の間柄になると、割方円満に纏まる。(これ が、併し支那人に在りては特にさうである。

名な支那人の「面子」論が出て来る。 を潰せば自分の「面子」も潰れるのである。ここに有   「に「ぬ。   ら、私は之を省略する。唯だこれ丈言って置く。即ち日本の支那通は、よくこの「面子」論を説くが、四五十年余も支那を往来して、支那語はどうかしたら、支那人以上とも言っている人でさへ、往々にして相手の支那人の「面子」を潰し、而かも潰したと云ふことに気が付かぬ。実際に臨むとそれほどデリケートな問題なのだ。私はこの永年嘗て実行上、完全に「面子」論を解し、体得していると思へる日本人に会ったことがない。

  兎も角、支那及び支那人を扱ふには「老朋友」関係を設定し、そしてホントウに「面子」論を解しそれを実行せねば始まらない。私は昔から、特に個人関係に重きを置かねば駄目だと説くのであるが、多く議論としては首肯するが、どう云ふものか、日本と云ふ国はそれを実行上軽視する傾きがある。この点は外交、軍事、商取引全てに考ふべきで見ず知らずの人間が、唯

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漫然とその衝に当っても、容易に円満なる解決を得られない。この点、今後対支時局洽収に際しても、最も考慮せらるべきである。(E)

  支那人には、日本人の心理では到底割り切ることの出来ぬ、妙な心理があると、不思議さうにいふ人がいるが、これとても、よく彼を研究すれば、何の不思議もへんてつもありはしない。

  が、或る街で見ていると、毎朝或る料理屋から料理を注文先へに擔って行く途中道傍に置くと、いつも乞食が出てきて、少しはねる。斯ういった状態が毎朝つづくが、擔いで行く料理屋の使用人は、それを叱ろうともせねば、その荷を他の場所に置き換へようともしない。日本人ならば、怒鳴りつけるが、荷物を隠すかすべき筈だ。が、支那人は、平然と毎朝、盗まれるに任せている。これは、日本人の心理では、どうにも解らない。

  が、支那人としては寧ろ当然の事なのだ。といふのは、支那人は仏教国のやうに思はれているが、国民実だ。 は、て、する。善行と悪行とを点数を附してして、功即ち善行の方の点数の多きを期するのだ。  だから、食に困っている乞食に、少し位料理を盗ませることは、一つの善を施したことになる。即ちそれが功幾点になるのだ。従って、この料理店の使用人は、善を施す機会を与へて呉れた乞食に、寧ろ感謝すべきであるといふのが、その心理なのである。だから支那人は、恩を受けても日本人ほどに感佩しないので、こら、る場合がある。それはこちらの認識不足、又は無智なのだ。  又、この思想の現れの一つで、日本人の気持では解することの出来ないものに、物を買ふ場合、少量で買ふ方が、大量をまとめて買ふよりも安いといふ、日本人、殊に欧米人とは丸で反対の現実がある。これも支那人に解釈させると、大量を一度に買ふことが出来るのは金持であって、少量しか買へないのは貧乏人である故に貧乏人には安く売って、善を施すべしといふのだ。日本にも昔はこんな考なり行がないではなかった

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が、明治以来欧米化された日本人にはこんな誠に人間らしく、又優しい考なり、行ひなりが判らなくなった。

  西使が、買っていたが、或日、油屋の小僧に「内に届けてくれ」と頼んだ。そこで、小僧が届けに往って見ると、何ぞ知らん、その油はその阿媽が使ふのでなくて、立派な家に住んでいるその主人の西洋人が使ふのであった。それを知った油屋の小僧に、その翌日復た届けさせたところ、今度は今までの八分目しかなかった。同じ十銭になのに。そこで西洋人の主婦君ブーブー怒って、が、に、は、それを当然の事であると云ふ顔付きで、サツサと帰って往った。それは、前日までは貧乏な阿媽が買ふのだと想ふたから二分がた余計に添へたので、金持の外人が買ふのだと判ったから二分のおまけを止めたのである。小僧から言はすと当然の事なのだ。面白いではないか。私は人間はかうありたいと思ふ。(F)も一つ面白い話をしよう。私が昔北京で公使館書記 官をしていた時だが、お隣りの書記生は家族は数名で、で、で、不絶暖炉をたいている。私の方は独り者で、殆ど内には居ない。從って僅かしか暖炉はたかない。然るに私の家は書記生の家に比して石炭が倍以上いるのだ。或日、に、半分以下で済む筈だが、何故あべこべに倍もいるのか」と、ら、て、なたは大人で、お隣は老爺だからです」と答へて何のい。まった。(G)次に、支那民族の家族民族の「家族制度」であるが、同じ家族制といっても、我国の家族制度とは全然違っている。私は我国の家族制度を、敢て「道徳的共産主義下の家族制度」と呼んでいる。即ち我国の家族制度の下では、総ての財産が道徳的に共産主義の下に管理されているのだ。父の財物は子の財物であり、兄の財産は弟の財産である―吾々は、小供の時からこんな考で育って来たのだ。「道徳的共産主義」と呼ばれ。

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然るに、支那の大家族制度の内に、極端な徹底した個人主義が行なわれているのである。支那の子供はそれぞれ箱を持って、自分の物はそれに仕舞ってく、機る。自他の区別が子供の時から、日本人のやうに漠然としていない。恐らく支那人が見方によっては、世界で一番個人主義に徹底しているのではあるまいか? 勿論私は道徳的共産観念も吾々とは違って全然無いとい。だ。更に同化力の偉大なることは指摘するまでもないことで、並に論するの要さへないまでに四千年の歴史が雄弁にそれを物語っている。私は昔からよく言ふのである。欧米かぶれは主として外形や表面丈のハイカラだが、チャンカラと来ては、心から支那にかぶれているのだ。何でこれ程支那及支那人は欧米よりかずっと強い魅力を持っているのだろうか?  この強大なる同化力は日支の将来を論ずるに当たって改めて忘れてはならぬと思ふ。

  以上述べ来った如く、支那の民族性は、文化が古いだけに、非常に複雑性を帯びている。それで私の希望 としては真の支那、真の支那民族性(漢民族性を指す)を、最も分り易く、最も正確に書いた日本人の著述が欲しいと、昔しから熱望しているのである。中野江漢君の著述や、先に挙げた小冊子の如き、相当によく調べているが、より以上の著述があって然るべきである。私共は遺憾ながら、若い頃、先ずスミス博士の「チャイニーズキャラクタリスチツリス」から研究に這入った。欧米人の書物を通じて見た現代支那観察か、又は漢文中毒に堕している日本人の古代支那研究か、何れか一方に偏してる憾みが過去に於てあったが、近年はだんだんと漢文から這入って、而かも生きている現代た。拙に喜ばしいことだが、一層の奮闘を望みたい。(H)今次の事変を通じて、我が国民は支那及支那人の悪い点を多く新聞報道で読まされている。が、その半面に、又幾多の美点若しくは優秀なもののあることを忘れてはならぬ。事変の例を引いていへば、彼の通州事件(一九三七年七月二九日)の際、鬼畜に等しい保安隊の蔭に、手

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をさしのべて我が同胞を庇って呉れた「朋友」の幾人かがあった。かような事に目を閉じるまでに大和民族は雅量を欠いでは居ない筈だ。我々はもっと真の支那を知らなくてはならい支那を批判する前に、先づ真剣に而してウント支那を研究せよと、私は此際敢えて全国民にお勧めする者である昭十二(一九三七年)・九二五

 第二章  草稿の原文と修正本(刊行版)との比較検討草稿に併記されている原文と修正文を比較して、原文と異なる文句が単なる誤記の訂正の場合と、理解を助けるための修飾的な説明語の挿入である場合は、ここでは紹介しない。しかし、これによって原文と修正文の間に内容的な違いをきたす改変点は、指摘することにする。(A)この段落では、松岡は、日本人と中国人が共に漢字を用いることから「同文同種」の民族とする認識を退け、「種」を「血」と同義語と見做して、両者は「種」 を異にする民族であると論じ、互いに違いを認め合うことからはじまると言う。また、これに絡めて中国人の民族性は、むしろ「異文異種」である英国人のそれと類似していると説いている。ここでは、後半部に削除された部分がある。原文には、

  何が故に斯くも長年月に亘って、概言すれば世界が、その理由原因を探究理解することは、全く不可能なことといってもいいのである。とある。原文には、日中戦争を“世界無比とも称すべき抗争反撥”と誇大に表現し、その原因については“探究理解することは全く不可能”と語っている。しかし、これでは、日中戦争を終わらせる糸口は無くなり、日中の「る。それで削除されたのであろう。(B) この段落では、大幅な改変はなく部分的に修正が加えられている程度である。それも文章表現の範囲内であり、主張の内容には変更点はない。国際連盟でのロ

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イド・ジョージの政治的な駆け引きを例としてイギリは、松岡の外交官としての資質からくる臭覚であろう。(C)この段落では、冒頭で「支那人に裏切られたことがない」と断言しているのは噴飯物である。また、このリップサービス的な表現は、松岡の政治家的資質を明らかにしていると思われる。 この文章で改変が加えられているのは、中国人が信つ、米・日本人と交流した中国人を挙げている箇所である。は、をした或る種の支那人」、とあるところが、原文では「欧米人や日本人と密接している支那人」とある。原文のは、した文言でそれからは“買弁”が連想されるであろう。しかし、それが修正文では悪ずれ、分別がない人物と抽象的な表現で規定され、特定人物を指すものではない。具体的なイメージを読者に懐かせることを憚ったのであろう。また、日中の外交問題は日本人に非が あるとの結論に至り誤解を招かねない懸念がある表現である。さらに、修正で活字本からも外された朱書きの挿入る。は、は、物では、彼我…」とある。この部分は未完に終わっている。松岡は、中国人の民族性として公私の分別を言わんとして、筆を折っている。この点については、彼は別の段落で語っていて、挿入句の短文ではなく言葉を尽くしたかったのであろう。(D)この段落では、原文は、修正文とほぼ同内容であるが、冒頭の「近代国家云々」は、原文では「近代的のス(

n-uance

換えられている。松岡が、態々書き直した意図は、中国人との折衝では「面子」をたてることと「朋友」関係を結ぶことがキーワードとなる現実から、中国を近代的な主権国家と言い切れない煩悶を懐いていたからであろう。は、も、らるべきである」と記されていている。つまり、松岡

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は、対中国外交では中国の「面子」をたてて、政府のと「ー(

theory

ると断言している。これから、彼が日本側から中国側の体面(面子)を保つように譲歩し、中国政府の外交責任者と親密(朋友)になることが膠着状態に陥っていた中国外交を打開する交渉術の鉄則と考えていたことが窺えるのである。しかし、戦時下において、国民党政府との対話外交は到底困難であるとの現状認識からか、中国政府の要人との可及的な人的交流を優先させる主張は削除されたのであろう。(E)この段落では、大幅な書き直しがあるが内容的には同じである。松岡は、某小冊子にある二つの逸話を再読し、話の筋を正確に記そうとしたのであろう。後述するが、松岡が感心して読んだ小冊子とは、内山完造の『生ける支那の姿』にある魯迅が語った話であるた、かったが、明治以来欧米化された日本人にはこんな誠 た」とあり、日本人の読者の共感を得ようとしていたことが窺える。 に、て、ふ道教の教へから来ている」と論じて、善行の倫理的背景には道教信仰があると主張とている。これは、中野江漢等の道教に関する研究の影響を受けていると思われるが、当時の日本の読者には理解できなかったであろう。(F) この段落は、松岡の個人的体験談であるので、ここい。り、は、中国人が道教の教えによって慈悲深いだけでなく、朱子学的な礼節を重んじる道徳性を備えた民族であると持ち上げているのである。(G)は、を「とし、中国の家族制を「個人主義」と説いている。彼は日本の家族制度に“共産主義”的性格を言い、中国の家族制度に“個人主義”的性格の烙印を押している。松岡は、家族制度の性格を根拠に中国人は個人主義者

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であり共産主義を受け入れる文化的土壌はない、との見通しを披瀝したかったのであろう。時あたかも、張学良の西安事件(一九三六年)による第二次国共合作がうまれていた。また、松岡が、中国贔屓の日本人を称して“チャンカラ”と呼んでいるのは、昭和初期の中国人に対する蔑称であった“ちゃんころ”を捩った彼の造語ではなかろうか。(H)この段落は、原文の表現が大幅に書き直された箇所である。とりわけ、松岡は、戦時下において、日本人が中国人に対して膺懲(ようちょう)意識をもつことを危惧していた。  は、て、り、日中戦争に関する新聞報道の情報操作によって、日本人が中国人に対する悪いイメージを刷り込まれているとある部分が、原文では「今次の事変を通じて、我がを、と厳しい中国に対して否定的な口調になっている。 松岡は、初め記した中国に対して“悪逆無道”と罵倒し、戦争責任を中国人に押し付ける見解を改めて報る。彼が、強い口調である“悪逆無道”を新聞報道の流した“悪い点”と書き換えたのは、おそらく、日本人全体が中国人に対して膺懲意識を持つことを鎮めたいという思いからの改変であろう。

第三章  の探索は、たって参考にしたと推測される書物を渉猟し、また彼に助言を与えていた人物を探索することにする。(A)この段落では、松岡が、日中の民族性を「同文同種」論で括る論理を否定し、日本人と中国人は全く異なるり、る。ば、は、漢君の著述や、先にあげた小冊子の如き、相当によく調べているが…。」、と中野江漢(新聞記者、一八八九

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~一九五〇年)の名を挙げている。その中野の『支那』「は、ている。

  其の国の真相を会得せんとするには、先ずその国民性を知って置かねばならぬ。…。由来支那を以て「不可解」と論断する者は、その根底たる「支那の国民性」の研究を怠って居たからである。…。そこで両国人は常に、「同文同種」といひ、「一韋(衣の誤り)帯水」といひ、「唇歯輔車」といひ、「日支親善」といひ、あらゆる言葉を用ひて両国の提携を力説して居る。而して、その実際はどうかといふに「同文同種」でありながら、「不同文不同種」の如くになって居る。とあるつまり、中野は、明確に「同文同種」論を否定し日中両国の国民性の違いを指摘している。松岡は、友人である中野の中国での実地調査に基づく民俗学的研究に信頼を置き、彼の著作での中国の民族性に関する説を傾聴していた。これは、彼の名が草稿に記名されていることから明らかである。ところで、 松岡の「種」に対する見方は、本文に(  )で挿入された注記に“多少の混血は別として”とあることから、混血による「種」の変化と考えていたことは明らかである。おそらく、松岡が用いた「種」の概念は、チャールズ・ダーウィン(一八〇九~一八八二年)の『種の起』(や、ス・ン(者、の「」(る。に、は、流行し、とりわけヒトラーもこれに傾倒している。かりに、松岡の深層心理に、日本民族がアジアの盟主であるとの優越性を強調したい思いがあり、それがば、評価を下げることになる。実、』(年〔において、松岡は中国の青年らによる排日・抗日運動に対する批判として、次のように述べている

  は、か、ら、

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支那はどうなっていたかを考へるがよい。恐らく疾くの昔に分割されてしまっていたであろう。ここでは、松岡が、日清・日露戦争に日本が戦勝したことによって、中国が帝国主義の植民地にならずに済んだと述べていて、中国の自立性を尊重する立場は主張していない。(B)この段落では、松岡は、中国人の民族性について「物質的であること、実際的であること、理屈に拘泥せぬことーこれらの点で、支那人は英国人とよく似通って」、は、堂(作家、一八九五~一九七六年)の『支那のユーモア』所収「支那と英国」(〔原註〕一九三五年十月の上海太平洋協会における講演)の影響を窺わせるのであ

  けだし英国民のエスプリは支那民族のエスプリに最も近い。それといふのは、この両国は現実主義と良識を崇拝しているからであります。物の考え方において、またいひ方などまでも、英国人し支那人とは似た点がいくらもある。両国民とも論理 といふものを全く信用しない。…。そして両国とも元来得意とするところは必要なことを行ふことであって、自らの行為に尤もらしい理掘をつけるのはあまり得意な方ではありません。両者の論理の類似性から、松岡が林語堂の言説を聞き及んでいたと思われる節もある。両者の面識を物語る史料はないが、著作を通じて知見を得ていたかもしれない。の「は、』(

The Little Critic

商務院書館から英文で刊行されている。つまり、松岡は英字版で林語堂の小品を読み、その主張に感服してこれを引用し独自の見解として披瀝したのかも知れなた、は、調である「太平洋問題調査会」に連なる組織と推定され(C)この段落では、松岡の「支那に往来すること三十有

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余年、未だ支那人に裏切られたることなし」という突飛もないことばに驚かされる。松岡の側近であった斎藤良衛(外交官、一八八〇~一九五六年)の回想録『欺かれた歴史』によると、松岡の弁舌の特徴は次のような点にあったという

  彼の見識なるものは、沈思黙考、呻吟苦慮の末に成ったものが少なく、大風呂敷を広げたりしているうちに、ふと思いつき、それを発展させるものが多かった。…。松岡に特殊な一つの点があった。それは議論が止めどなく発展するがため、あるところを越すと、実現性からだんだん遠ざかる危険があった。思うに、この言葉は、松岡の雄弁に潜んだ政治家的な発言の虚偽性を露呈しているもので、彼が外交官というよりも政治家的であったことを如実に示唆しているのではなかろうか。て、民族性について』の二年後に発刊された『興亜の大業』第三章「大陸の先駆者満鉄」の一節をあげることができる。そこでは、   私は昭和四年の八月に満鉄副総裁を罷。めて東京に帰ったのであるが、昂々渓迄鉄道を延べて置いたが、実の処支那側との交渉に於いて恐らく私程隠忍した者はあるまいと信じて居るが、其の私ですら当時已に旋毛をまげて帰ったのである。と語り、松岡は中国政府の不誠実な交渉を非難しているのであるは、く『で、如何なる場合にも嘘と偽善だけは持合わせがない」と大見えを切っているのも同じことであろう。(D)この段落では、松岡が、従来から言われてきた中国の「に、る。に、戦時下にあっても、魯迅と内山完造が「朋友」関係を保ち日中間の友好の架け橋になっていたこと、中野江漢が中国人民に溶け込んで風俗研究に勤しんだことに影響されているのであろう。(E)この段落では、松岡は、某小冊子の記事を紹介して

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