• 検索結果がありません。

ホセ・マリーア・エレディア 「チョルーラ神殿に て」「ナイアガラ」 翻訳

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "ホセ・マリーア・エレディア 「チョルーラ神殿に て」「ナイアガラ」 翻訳"

Copied!
25
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

ホセ・マリーア・エレディア 「チョルーラ神殿に て」「ナイアガラ」 翻訳

著者 花方 寿行

雑誌名 翻訳の文化/文化の翻訳

7

ページ 59‑82

発行年 2012‑03‑31

出版者 静岡大学人文学部翻訳文化研究会

URL http://doi.org/10.14945/00006805

(2)

「チ ョルーラ神殿にて」「ナイアガラ」翻訳

作者について

イスパ ノアメ リカ初の ロマン主義詩人 とも称 され、故郷 キューバのスペイン か らの独立運動 にかかわ って亡命生活 を送 り、キューバの愛国詩人 としても評 価 され るホセ 。マ リーア・エ レディアは、1803年 12月 31日 、キューバ島東部の 町サ ンティアゴ・デ・クーバ にて生 まれた。 とはいえこの事か らす ぐさま、エ レデ ィアが生まれなが らにして「キ ューバ人」であった と、短絡的 にそのナシ ョ ナル・アイデ ンティティを決定 しては問題が生ず る。 とい うのもイスパ ノアメ リカ諸 国のスペインか らの独立運動が活発化する以前 の この時期、スペイン系 白人 (ク リオー リョ)の移動 は現在の国境線 内に限定 され るものではなかった か らだ。

ホセ 。マ リーアの父ホセ・フランシスコ・デ・エ レデ ィアはスペイン領 ドミ ニカの出身であ り、黒人革命 を達成 したハイチによる ドミニカ侵攻 (1801年

)

を逃れて、プエル トリコ、ベネズエ ラを経て、1803年3月 にサンテイアゴ・デ・

クーバヘ と移 ってきたばか りであつた

*1。

その後ホセ ◆フランシスコは植民地政 府の司法官 に任命 され、 ジャマイカ、西フ ロリダ、カラカスに赴任。その間何 度 もキューバ に滞在 している。特 にフランシスコ・デ・ ミランダ とシモ ン・ ボ リーバル による最初の独立運動が失敗 した直後のカラカスに赴任 した ときには、

反政府運動 に生温す ぎると批判を受 けるほ ど現地の感情 に理解 を示 しなが ら、

植民地政府 と現地勢力が平和的 に和解するよう努力を怠 らなかつた。後年、カ ラカス出身の詩人 にして当代 きつての大人文学者アン ドレス・ベ リヨは、息子 エレディアの『詩集』を評 した文章で、特 に一段を割いてホセ・ フランシスコ

*tLazo, Raimundo. "Jos6 Maria Heredia, el gran poeta cubano de la naturaleza y de la patria", Jos6 Maria Heredia, Poesias corupletas. M6xico D. F.; Editori aIPorrha,1985 (2a ed.).

po. IX-X.

ホセ 0マ リーア・ エ レディア

‑ 59 ‑

(3)

への感謝の念 を表明 したほどである

*2。

か といつて、ホセ・フランシスコが独立 派だつた とい うことではない。スペイン政府 に忠実な保守主義者であ り、だか らこそ 「祖国」のために最善 と思われ る融和策 を採 ったのだが、その試みが失 敗に終わった後は、幻滅 と中傷に苦 しめられる日々が続いたようである*%ホセ・

フランシスコは最終的 にメキシコに移住。 ここでスペイン中央政府か ら派遣 さ れる司法官か ら、現地副王領聴訴院の刑事事件担 当判事 とな り、1820年に死去 している。ホセ・フランシスコのこのよ うな任地の移動 は、現代人の 目にはき わめて国際的なものに思われるが、実際には当時のスペインの行政区分である ヌエバ・エスパーニヤ副王領の中の移動であって、決 して特別なことではなかつ た。

ホセ・マ リーアもまた、 こうした家庭の事情 もあって、ハバーナ とメキシコ の大学 に通い、法律 を学んでいる

*4。

父の死 の翌年、1821年にハバーナ に戻 り、

ハバーナ大学で学位 を取得。亡き父か らは新古典主義 に基づいた教育を受 け、

自身はメキシコ時代か ら英仏の ロマン主義作家 を愛読 し、両派の混清 をベース とす る、19世紀初頭イスパ ノアメ リカ知識人を特長づ ける教養 を身につ けた と ころは、ベ リョとも共通する

*5。

また代表作「チ ョルー ラ神殿 にて」を合む作品 を執筆 。発表 し始めたのもメキシヨ時代であ り、ハバーナ に戻つてか らは雑誌 を発行 した り、翻訳 した劇が上演 された りと、作家 として順調な活動を開始 し たか に思われた

*6。

しか しこの頃、 メキシコやキューバを取 り巻 く環境 も、大き く変わ り始めて

*2 Lazo,op.cit.,pX.および

Bello,And

s.Ob%s̀θ2クル′α島 物 πθ

 

:■

″πsグι θπ′たα

ιι

んα.Caracas:La Casa de Bello,1981(2a ed.),pp.241‑242.

3ホセ 。フランシスコが晩年中傷に苦 しめられた ことについては、息子エレディアが1820年、父の 死 と前後する時期に書いた2篇の詩

(「

自髪 となった我が父にA mi padre encanecido en la fuel‐za de su edad」「父の性格Caracter de mi padre」 )で言及 している。

*4ヵラカス大学でも学んだ とい うのが通説だが、在学記録は見つかってお らず、チャコン

=イ =カ

ルボは証拠に乏 しυヽとしてレヽる。Chac6n y Calvo,JoS6 A/1aria.Esι %蒻θs力ι″蒻απθ

s.La Habana:

Editorial Letras Cubanas,1980,p.116.

*5Lazo,op.cit.,p.X.チ

ャコン

=イ

=カルボは、エ レディアの教養の原点 として、a)若き 日のメ キシヨ滞在中に形成 された人文主義的教養、b)サラマンカ派詩人の影響、c)偽オ シアン、バイ ロン、 ラマルテイーヌらロマン主義作家への関心の3点を挙 げている。

Chac6n y Calvo,″ .ι

,

pp.118‑119.参 照。なお、エ レディアにおけるホラテイウス ら古典詩人の影響 については、乃に, pp.109‑143.参 照。またカ リー リャは、後世の評価 とは逆に、エ レデイアが自らロマン主義者をもっ て任 じたことはなか つた と指摘 している。Carilla,Emilio.Zα ′ιθπιπz励 ル グπグのιπルπ滋 力れ蛇πθαπι″ ηα.Buenos Aires:EUDELへ,1964,pp.117‑121.参 照。

*6 valdё

s y De Latorre,Emilio. Jos6 Ma五 a Heredia y HeКdia(Noticia biografica)",Jos6

Ma消 a Heredia y Heredia,■

πιθ;oζα

 7zι /ι

ηα La Habanal Cons●

o COrporativo de

Educaci6n,Sanidad y Beneficencia,1939,pp.XXII‐ XXIII.

‑ 60 ‑

(4)

いた。1820年 以前、両地域 において独立派は決 して優勢ではなかつた。ナポ レ オン軍のスペイ ン侵攻 に始まる動揺は、 これ らの地域 にも当然波紋 を投 げかけ た。しか し1810年に始まった貧困層やインディヘナ を中心 とす るメキシコの独 立運動は、大土地所有者 を中心 とす る富裕 ク リオー リョの協 力を得 られず、1810 年代末 には抑 え込 まれつつあった

*7。

キュ̲バではこの時期、独立運動はほとん ど盛 り上が りをみせなかった。セ ビー リャ=ソレールはその原因 として、キ ュー バでのスペイン本国出身者 とク リオー リョの間の格差の小 ささ、ク リオー リョ による支持 の重要性 を認識 していた植民地 当局 による、 中央政府優位は変わ ら ぬにして も、 ク リオー リョの政治参加 をできるだけ認める とい う政策、スペイ ン人 とは異なるもの と自己定義す るよ うなアイデンテ ィテ ィ意識の希薄 さ、貿 易 に基づ く経済的 な繁栄、そ してハイチ革命の記憶か ら来 る、独立戦争の混乱 が最終的 にはク リオー リョ自体 に致命的な打撃 を与えるのではないか とい う不 安を挙 げている

*8。

この間スペイン本国では、フェルナ ン ド7世が復位、スペイン独立戦争 中に高 ま りをみせた 自由主義運動 に対 して弾圧を行 う、保守反動政治 を展開 していた。

しか し南米諸国の独立 による経済的打撃や政治的混乱のため、 フェルナ ン ドに 対す る不満が高 ま り、1820年には叛乱がスペイン各地で勃発。フェルナ ン ドは 同年3月 、 自由主義的な1812年憲法の復活を認めた。

これが皮肉な ことに、 メキシコの状況を大 きく変 える。 メキシヨ人全て

(先

住民等のマイ ノ リティ集団は除 く)に参政権 を与 える とい う自由主義的な政策 は、現地 ク リオー リョ富裕層が従来享受 していた政治的特権 を奪い取 るもので あ り、また先住民への強制労働の禁止 も、大土地所有者の利益 を損な うもので あつた。 ここに至 ってク リオー リョ富裕層 も、独立 に一気 に傾 くこととなる。

その結果が1820年、イ トゥル ビデの発表 したイ グアラ綱領の下での、独立派大 同団結であった

*9。

これに対 してスペイン中央政府は、 メキシヨの独立 を阻止す るための前線基 地 として、キ ューバを利用する。キューバはこの後、 メキシコに取 り残 された スペイン副王領政府 と軍隊 を、経済的 。軍事的 に支援す ることを求め られ るよ うになる。 この当時、 ヌエバ 。エスパーニャ副王領の軍管区司令官代理 を務め

*? Sevilla Soler, Maria Rosario. Las Antillas y la ircdependencia de la Amlrica Espanola (1806-1826). Madrid, Sevilla: Escuela de Estudios Hispano-Americanos, 1986, p. 18.

"' Ibid., pp. 6-9.

*e lbid, pp. 18-19.

‑61‑

(5)

ていたのは、 自由主義派のフランシスコ 。レマウルであつた。 しか しイ トゥル ビデの下 に集結 したメキシコ独立派は圧倒的に優勢で、レマウル ら副王領軍は、

サン0フアン・デ・ウ リョアに孤立 し包 囲された状態 にあ り、 もはや メキシヨ 独立は事実上達成 されたも同然であつた

*10。

か くして1821年、メキシコでは制 憲議会が招集 され、22年にはイ トゥル ビデが皇帝に選出 され る。

スペイン本国の政変は、 メキシコだけでな く、キ ューバの状況 にも波紋を投 げかけた。先 に述べた よ うに、キ ューバでは独立運動 はそれほ ど盛 んではな く、

また 1811年 に発覚 した黒人 による叛乱計画がハイチの記憶を甦 らせた こともあ り、それまで大 きな騒乱 は発生 していなかつた

*11。

フェルナ ン ド7世の復位後、

保守反動政治が行われていた間、イスパ ノアメ リカ にお けるスペイン支配最後 の砦 となつていたキューバは、 中央政府 によるキューバ優遇政策のおかげで、

経済的 にも恵まれた状態が続いていた。その結果 当然なが ら絶対王政 を支持す る保守主義者が優位 に立ち、 自由主義者・独立支持者 も、表立 った活動 は行つ ていなかつた*2。

1820年 の政変 は、この状況 に激変 をもた らす。自由主義者は今度は優位に立 つ ことになつたが、それはスペイ ン本国の動 きの結果であつた。保守主義者は、

それまでのキューバの繁栄はフェルナ ン ド7世の絶対王政のおかげであ り、自由 主義者はこれ に敵対す る存在だ として、 自由主義政府 に反対するキャンペーン を張 つた。 この中で保守主義者 は、 自由主義者 はキューバの独立を目指 し、 こ れによつて結果的にはキューバに害を為そ うとしていると主張。自由主義者は 逆に、自分たちはスペイン本国の動きを受けて政権を握つているのだとして、

独立派 とい う「中傷」に反論。 自分たちこそが正統なスペイン支持者であると 主張 して、双方が争 うことになうた。この論戦が、自由主義的本国政府が印刷 出版の自由を布告 したことによつて可能になったとい う事実が、事態の皮肉さ を強調している

*13。

こうした状況下の1822年、キューバではスペイン議会への代表を選ぶ選挙が 実施 され、自由主義派の代表が選出される。これに保守派が激 しく抵抗、妨害 工作を繰 り広げ、さらにはクリオー リョ兵の排除を要求するキューバ駐留スペ イン軍の急進派 と共同で叛乱を起 こす とい う結果になる。ここには奇妙なねじ

*10」

ろグd,pp.18‑22.

・ 1l fbJd,pp.73‑76.

*12 fb虎

スタpp.84‐

85.

*131ι

d,pp.38‑93.

‑62‑

(6)

れが存在す る。保守派はスペイン本国の政策変更 によって、キューバ優遇策が な くな り、利益が損なわれ る と考 えたか らこそ、反 自由主義闘争 を行っていた。

そこには本国の政策 に対 して、 ク リオー リョの 自治を求める意識が存在す る。

一方 自由主義派が政権 を握 つたのは本国の政変の結果であるが、選挙で選 ばれ た代表がみな 自由主義派だつた とい うことは、キ ューバ人の間に自由主義が根 付いていた ことを示 している。そ して 自ら選 んだ代表 を、保守派がクーデター を起 こしてまで退 けよ うとした とき、初 めて市民たちが武器 を取 り、「スペイン 人 くたばれ独立万歳

!」

の叫び と共 に、衝突が起 こつたのである。スペイ ン政府が、両派のいずれも支持 していなかったことは、注 目に値する。実際キュー バの軍管区司令官代理セバスティアン・デ 。キンデランは両者の仲裁 に奔走 し、

衝突の拡大を防 ぐのに成功す るのである。 とはいえこの事件 は、スペインか ら 派遣 されてきている軍隊に対する、ク リオー リョの不信 を育む こととなつた*M。

しか しスペ イン史においては「改革の3年間」と呼ばれ るこの状態 も、長 くは 続かなかつた。スペイン本国では 自由主義者が穏健派 と急進派 に分かれて混乱 が生 じ、 さらに国王支持派がゲ リラ活動 を開始。またスペインにおける革命活 動が活発化 し、それが周辺諸国へ波及 して行 くことを恐れたウィーン体制下の 列強は、1822年フランスに軍事干渉 を要請。23年「聖ルイの10万の息子たち」

と呼ばれたフランス軍がスペインに侵攻 し、国王はフェルナン ド7世のままだが、

再び 自由主義活動 は弾圧 され、反動政治が行われるようになる。

旧体制の復活 を目指すフェルナ ン ドは、イスパ ノアメ リカにおける独立運動 を食い止め よ うと、改めて活動 を強める。その一方で、 メキシコで副王領政府 を代表 して闘つていた自由主義派の レマウルは、自由主義派の拠点であるカディ スがフランス軍の攻撃に陥落 した との報 を受けると、絶対王制のスペインに仕 えるくらいな ら、財産を持てるだけ持 ってアメ リカ合衆国に亡命 した方がま し だする手紙 を記 しなが らも、現地で最善を尽 くしていた。こうした状況下、キュー バはスペインか らの補充部隊 と、 メキシコから引き揚 げる部隊が交錯する拠点

として、現地人ではない兵士で溢れかえることになる*6。

エ レディアは 1821年 、こ うした政治的激動がまさに始まったその時期に、メ キシコを離れ、ハバーナ に戻つてきたのである。彼は「暴君」「専制」に抗 し、

「自由」を求める闘いを称賛 し、そのように行動するべ く読者 に檄 を飛ばす詩 を、その詩作活動のごく初期 にあたる1820年か ら、早す ぎた晩年 といえる 1835

*l―

」わ′′,pp 94‐

98.

*15 fι

̀′

,pp.22‑23.

‑ 63 ‑

(7)

年まで、一貫 して数多 く残 している。しか し彼が当初 よ り、「スペイ ン支配」か らの 「キューバ人」解放 を求めた作品を書いていた と思い込んで しまっては、

問題が生ずる。1820年に書かれた 「自由スペインEspaha libre」 においては、

フランス支配 に抗するスペイン人の闘いが扱われているが、 ここでエ レデイア はスペイ ンを「祖 国patria」 と呼び

*16、

フェルナ ン ド7世を讃 えている。この 当時のエ レディアは、明 らかにスペイ ン領 に住む者 を一括するようなアイデン テ ィテ ィ意識 を持 つている。また「1820年 1820」 では、スペインの軍事体制を 称賛 しているが、 これはクーデターによって 自由主義憲法 を復活 させた、本国 の動 きを意識 した ものである。

「1820年 」の自由主義憲法復活称賛 と、「自由スペイン」のフェルナン ド7世 支持は一見結びつかないよ うだが、エ レディアにおいては、ナポ レオ ン侵攻 に 抗 して行われたスペイ ン独立戦争 中に達成 された、1812年 憲法 に代表 され る自 由主義改革の成果が、フランス軍 に対抗す るスペイ ンのイメージ と密接 に結び つき、それが独立スペインのシンボルだつたフェルナ ン ド7世とも切 り離せない もの として意識 されていた と考 え られ る。そのため1820年当時のエ レデ ィアの 頭 には、自由主義憲法支持=スペインに対する愛国心=フェルナン ド7世支持 と い う図式が、存在 していたのであろ う。

す方僅か2年後 の1822年、メキシコの政治状況 を念頭 に書かれた「頌歌Oda」

には、同様な政治意識が異なるニュアンスを加 えて表れている。 この作品は先 に述べた1820年の政治的激変の末、事実上スペインか らの独立 を達成 したメキ シコにおいて、皇帝 に即位 したイ トゥル ビデに抗 して書かれたものである。エ レデイアはここで、 メキシコのスペインか らの独立そのものは批判 していない が、イ トゥル ビデの反動政治を批判 し、 メキシコ人 に対 して暴君 を倒 し、 自由 主義的な改革を行 うよ うにと呼びかけている。「頌歌」執筆時のエレディアにとつ て重要なのは、スペイ ンに対する愛国心や フェルナン ド7世支持か らは切 り離 さ れた 自由主義 の理想だつたのであ り、 メキシコの独立 については積極的な支持 でも反対でもな く、現状追認 とい う姿勢だつた といえる。

したがってそんなエ レデ ィアが、1823年までの 「改革の3年間」 において、

キ ューバ における自由主義運動

(独

立運動ではな く)に関わ りを持 った ことは、

不思議ではない。しか し23年にフェルナン ド7世が反動政治を開始するとtキュー バ においても自由主義運動の弾圧が懸念 されるようになる。その最 中、ホセ 。

*16 Heredia, Poesias completas, p. 10.

‑ 64 ‑

(8)

フランシス コ・ レムス に よつて率 い られ た独立運動 が開始 され た。 レムスは コ ロン ビアで独立運 動 に加わ った経験 を持 ち、 キ ューバ に移住 してか ら、 ここで

「ボ リーバル の太 陽 と光 Soles y Rayos de Bollvar」 と名乗 る結社 を組織 して いた。この結社 は フ リー メイ ソンの影響 を受 けた秘密主義 を取 ってお り*「、学 生 と中流 の下 の ク リオ ー リョ層、 そ して黒 人 を主 た る構 成員 として、ハバーナ を中心 に、 キ ューバ全土 に拡 がってい た。結社 はボ リーバル の下へ代表 団を送 り、独 立運 動へ の援助 を依頼 したが、ボ リーバル は時期 尚早 として これ を拒否。

そ こで結社 はキ ューバ人 だ けの力 で独 立 を達成す る ことを 目指 し、23年8月 に 蜂起 の予 定 を組 み、 キ ューバ人へ は闘いへ の参加 を、 スペ イ ン人 には戦 闘の拒 否 と独 立 へ の理解 を求 め るパ ンフ レッ トを、ハバ ーナ で広 めた。 これ に対 して 当局 は素早 く反応 し、 この運動 に関わ つた ものが続 々 と逮捕 され、蜂起 は未遂 に終わ った*博

エ レデ ィアは この運動 に加わ っていたが、 その程度 については明 らか になっ てい ない。彼 は 「理性騎 士 団 Caballeros RaciOnales」 の一 員 とな つて お り、

マ タンサ にお ける結社 の会合 では 中心 的 な役割 を果 た していた として、 レムス をめ ぐる調書 にも名前 が挙が って いた*D。 蜂起計画 が発 覚す る と、エ レデ ィア も当局 の追 求 を受 け、友人 に匿わ れ て潜伏 生活 を送 る ことにな る。 自らの果 た した役割 を過大評価 していたエ レデ ィアは、報復 を避 けるべ く、 内戦 を引 き起 晰 フェルナン ド7世が復位 した1814年か ら1820年に至 る絶対王制下のスペインで、反スペイン的 。

親フランス派 と見な された 自由主義者 と、当時広ま りつつあつたフ リーメイ ソン団員は、厳 しい 追及 に晒 されたが、それが両者を密接 に結びつけることとなつた。また亡命スペイン人 自由主義 者はイギ リスに多 く集まっていたが、この地ではフ リーメイソンの活動が盛んであった(Sevilla Soler,9ρ

 

θ,pp.102‑103.)。

一方イスパノアメリカ地域へのフリーメイ ソンの浸透は、主 として貿易を通 して行われたため、

リヴァプールやカディス といつた貿易港が重要な拠点 となっていた。自由貿易を望む彼 らは、当 然イスパ ノアメ リカの独立派 に接近 していったが、同時にそのネ ッ トワークは、フ リーメイソン と接近 していた 自由主義派によつても利用 された。こ うした経緯によって、19世紀前半スペイン・

イスパ ノアメリカの自由主義結社は、フ リーメイ ソン的な色彩を強 く帯びることになったのであ

る∽ 滋,p.103)。 ロン ドンのフランシスコ・デ・ ミランダの屋敷は、ロギア・ラウタロ(Logia

Lautaro)、 別名大アメ リカ連合 (Gran Reuni6n Americana)、 またの名を理性騎士団 (Sociedad de CaballerOs Racionales)と い うフ リーメイソン結社の本部でもあ り、アン ドレス・ベ リョも ここに属 していた。ただ しその活動へ の関与の度合いは不明である

(Cussen,AntOnio.3ι

肋 ノ βθ″υακ traducci6n de Gustavo Diaz Solls.M(xico D F.:Fondo de Cultura Econ6rllica, 1998,p.50.)。

*18 Sevilla SOler,9ρ

 ̀グ

,106‐ 109.

*19 Chac6n y Calvo,″

れ pp.82‑83.な お、チャコン

=イ =カ

ルボは、「理性騎士団」を「ボ リーバ ルの太陽 と光」の1セクシ ョンとしているが、注17で述べた「理性騎士団」の規模か ら考えて、どち らか といえば、「太陽 と光」が「理性騎士団」のセ クシ ョンであった と見なすべ きであろ う。ただ し 両者の具体的な関係は不明である。

‑65‑

(9)

こす意志がなかつた ことを、結社の代表であるかの よ うに当局 に書 き送 るが、

追及の手は柔 らがなかつた

*20。

とはいえ逮捕者 を待ち受けていた運命は、それほ ど厳 しい ものではなかつた。

厳罰はかえつて現地主力勢力である自由主義的 ク リオー リョの反発 を招 くと考 えた当局は、この計画 を一部外国人の扇動 によるもの とし、602人にのぼつた逮 捕者の うち、最 も重い刑 としてキ ユーバか らの追放 に処せ られたのは、 レムス を合む25人に過 ぎなかつた。大部分は釈放 され、結社の主要 メンバー2人に関 しては、南米への脱走 に当局が手を貸 していた可能性 さえ示唆 されている*場 しか しロマ ン主義的な想像力に富むエ レディアには、 このよ うな展開は予想 もできなかつた し、受 け容れることもできなかつた と思われ る

*22。

手 レディア は 1823年 11月 14日 、ボス トン行のベルガンティン船でキューバを脱出、同年 12月 4日 ボス トンに到着する。か くして長 きにわたる亡命生活が始まった。ア メ リカ合衆国においては、ニュー ヨークに居 を定め、フィラデルフイアやナイ アガラ瀑布を訪れ、詩作 を行 う一方、オ シアンを翻訳 し、 シャ トープ リアンに 傾倒。スペイ ン人 自由主義者 トマス。ヘネル と親交を結ぶ。とはいえ南国キュー バの出身であるエ レディアは、アメ リカでの生活、特 に冬の寒 さに馴染めず、

メキシ平への移住 を早 くか ら考 えていた。それで もニュー ヨークで1825年、そ れまで書 き溜めた詩 をま とめた『詩集Poesias』 を刊行、これが27年の『アメ リカ総覧』紙上で、ベ リョが好意的な評を残 した版である。一方エ レディアは

『詩集』刊行後、友人がメキシコ大統領か ら獲得 して くれた公式招待状の到着 も待たず、同年 8月 22日 メキシコヘ と出発。10月 14日 メキシヨ市へ到着 した と きには、旅の疲れ と途 中麻疹 に罹 つたために、体調 をひ どく崩 していた

*23。

メキシコでは時の大統領 グアダルーペ・ビク トリアをは じめ とす る政府内の 友人の引き立て もあったが、一方 「外人

extraniё

ro」 登用 を批判する勢力の妨 害 によつて、五等官 として職 を得 るのがやっ とだつた。「外人」とい うレッテル は、この後終生エ レディアのメキシコでの栄達の妨 げとなる

*24。

これはわずか 5年前まで、メキシコとキューバがスペイン領 内の同 じ行政区分であるヌエバ・

*"Lazo,op.cit.,p.XII.    ″

*21 Sevilla Soler,ρ

.,pp.109‑110.

222ェレデイアは、キユーバ当局 による処罰が確定 した後の1826年に書かれた書簡 において、もし23 年 に逮捕 されていたな らば、自分はキューバかスペインの地下牢で獄死 していたか もしれない と 記 している。

Chac6n y Calvo,″ .θ

1,pp.83‐84.参 照。

*"Lazo,op.cit,pp XⅡXⅡ

I.,お

よこドVald6s y de Latorre,op.cit.,pp XXXIV― XXXV.

*̲24 Lazo,op.cit.,p.XIII.

=66二

(10)

エ スパ ーニ ャ副王領 に属 してお り、先 に記 した よ うにそれ ゆ えエ レデ イアが メ キ シ コ とキ ューバ を行 き来 しなが ら学位 を取得 した こ とを考 えれ ば、驚 くほ ど 急速 なナ シ ョナル ・ アイデ ンテ ィテ ィの変 化で あ り、渦 中に置 かれ たエ レデ ィ ア に とつて は耐 え難 い ものだ った。 また メキシ コ在住 の亡命 キ ューバ人 グルー プ との間 で も車L蝶 が生 じ、彼 を苦 しめ た

*25。

しか しエ レディアはこの逆境 にもめげず、『 シラ

Sグ

α』、『ティベ リウスab"例

といつた新古典主義的な、フランスの戯曲の模作である悲劇 を発表。雑誌 を創 刊 した り、メキシコ科学芸術学院の メンバーに選ばれた りと活躍 をし、27年 は結婚 もしてい る

*26。

同年 クエルナバカの第一審裁判所判事 に任用 され るが、

ここでも 「外人」の高位任用 を禁 じた法 に妨 げられ、降格 を余儀な くされた。

ベ リョが移住先のチ リで民法作成やチ リ大学初代総長 として活躍 しなが らも、

異邦人 として差別的に扱われることか らくる疎外 をかこつ20年も前 に、エ レディ アはよ り直接的な法的排除に苦 しめ られたのである*27.そ の後 しば らくは活発 に仕事 を こなす ものの、 ビク トリアか らゲ レー ロ、プスタマ ンテ とクーデター によって次々大統領が替わる混乱の中で、30年つ いには一時職 を失 うことにな

*28。

同 じ1827年、エ レディアはメキシコか らスペイン人 を追放す るとい う政策 に 反対 し、そのために2年後の29年に起 きたスペイ ンによるメキシコ侵攻計画

(失

敗 に終わ つたが、 これ も当然キューバ を前線基地 として利用 していた)に関与

*25 chaCOn y CalvO,9ク

,pp.92‑93,

*26 valdOs y de Latorre,op cit,pp XXXVⅡ

I‐

XL.

*27メ

キシコにおけるナ シ ョナル・アイデ ンティティ確立の迅速 さには、この地の独立運動が南米大 陸の汎アメ リカ主義の影響 を受けることな く、スペイン

vs.メ

キシヨとい う対立軸 を強調する形で 展開 した ことが寄与 していると思われ る。しか しなが ら、メキシヨと他 のイスパ ノアメ リカの間 にはつきりとした境界が存在すると考えられるようになったのは、それほど以前のことではなかつ た。フェルナンデス=デ=リ サルデイが1816年に書いた『ペ リキー リョ・サルニエン トEI Periquillo

Sarniento』では、主人公が帰属するべ き共同体は、いまだスペイン帝国全体か らメキシヨ市周辺

の限定 された地域まで、極めて伸縮 自在な輪郭を持つ もの として想像 されてお り、そ こにはキュー バやフイ リピンも合まれていた。花方寿行「『想像の共同体』と『ペ リキー リョ・サルニエン ト』――

B・アンダー ソンの資料分析 における問題点」『 ラテンアメ リカ研究年報』第22号 (2000年

)、

88‑90 頁参照。同 じ リサルデイが1820年に書いた『 ドン・カ トリン・デ・ラ・ファチェンダ』で も、罪を 犯 した メキシコ人の主人公はハバーナの監獄 に送 られてお り、この罰 自体は特別なもの とは見な されていない。ただ し釈放 された主人公は「メキシヨ、我が祖国M徴ico,mi patria」 に帰 つた と 述べてヤヽる。 Fernandez de Lizardi,Josё Joaquin.Dθ

77 Cα

ιπηル 滋F/z励″滋

/Ⅳ

″力θ

s′

η

s′

夕磁αα

;̀饗

ed.de Roclo OviedO y Almudena 1/1●las.R/1adrid:Ediciones Catedra,2001,pp.

129‑130.老舞照。

*28 Lazo,op.cit,pp.XIII― XIV.およびValdёs y de Latorre,op.cit.,pp.XLII‐ XLIII.

‑ 67 ‑

(11)

した とい う中傷に曝 される羽目になる

*29。

これは直前に書かれた詩「軍歌Himn0

de guerra」 (1826)、「ボ リニバル に捧 ぐA Bolivar」 (1827)で 、スペイ ン支配 に苦 しんだ末 に独立 を達成 したアメ リカ とい うイメージが繰 り返 し描かれてい ることを思 えば、皮肉である。エ レディアのスペイン人追放政策への反対 とこ れ らの詩の両立は、彼がスペインによる植民地支配 には強硬 に異 を唱 えつつ も、

スペイン人そのものを憎んではいなかつたことを示す ものだが

*30、

同時 に追放 とい う刑罰 に対す る、亡命者エ レデイアの嫌悪 の表れで もあった*盟

この間メキシヨにおいては、後の保守派 と自由派の母胎 となるエス コセス(ス

コッ トラン ド派)と ヨルキーノ (ヨーク派)とい う二つのフ リーメイ ソン結社 が作 られ、対立を深めて行 く。エ レディアはよ り自由主義的な ヨルキーノ支持 者であった

*32。

この頃エ レディアの詩がマ ドリッ ドで、アルベル ト・ リスタに よつて評価 された ことか ら、ハバーナの新聞にも作品が掲載 された。しか し31 年 には 「黒鷲大軍団」陰謀事件 に関与 した として、キューバ当局 による死刑宣 告 を受ける。同年、逆 にメキシコでは トルーカの判事職 を得て、この地で政治・

文芸批評 に活躍。32年には自らの手で増補改訂版『詩集』を刊行。相 も変わ ら ず「外人」として登用 に反対す る勢力の妨害 にあ うが、イグアラ綱領12条によつ て メキシコ住民全員 に市民権が与えられていることを根拠 として国籍問題 に片 が付 き、同年 メキシコ州第5回立法議会議員 に選出 される。しか し激務 に体調 を 崩 し、33年辞任。ただ し法律及び教育関連の仕事は続 けた*器

だが メキシコの内政は、混舌Lを極 めていた。1822年に反舌Lを起 こしイ トゥル ビデ追放 の立て役者 となつて以来着実 に力を強めていたサンタ=アナが、保守 派 と自由派の対立 を利用 して、1834年大統領 に就任。当初は自由派 と提携 した が、反乱の続発 に方針を転換 し、34年か ら55年まで、保守派 と連携 して メキシ コに君臨す ることになる。内戦期 にはブスタマ ンテ独裁体制を倒す 自由派 とし てサ ンタ=アナを支持 したエ レディアだつたが、 この時期か らは保守的な中央 政府 の政策 を批判 し続 けることになる。 とはい え自由派の活動 にも幻滅 を感 じ

*29 Lazo,op.cit.,p.XIV.

*30 1bid,p.XIV.

潮 サンタ=アナ政権 は1833年4年前 に自由派のゲ レー ロを処刑 した前政権の関係者を追放 に処す ることを決める。これ に対 して本来 自由派寄 りであつたエ レデ イアは、追放は個人か ら法 による 庇護を全て奪い去 るものであるとしてt反対の論陣を張 つている。

Chac6n y Calvo,″ .ε Jム

,p.

103.参 照。

*"」ι′,pp.94‐

95.

*"Lazo,op.cit.,pp.XIV̲XVI.

‑ 68 ‑

(12)

るようにな り、懸案の教育改革 も予算不足等 によって中止 を余儀 な くされ、エ レデ ィアはメキシヨのみな らず、イスパ ノアメ リカ全体の将来 に悲観的 になつ てゅ く

*34。

1835年の詩「C・アン ドレス・キンターナ=ロー氏への書簡 Epistola al C.AndrOs Quintana Roo」 において、エ レデ ィアはメキシコの現状 に思い をめ ぐらせ、「ネ申聖な る自由よ!(中)デマ ゴーグは怒 り狂い吠 える、迷信 と 狂信が天を涜す るよ うに、そなたの名を汚 しなが ら。iSagrada Libertadl(… )/

(。

)/La demagogia furibunda brama/prOfanando tu nombre,cual

calurrlnian/superstici6n y fanatismo al cie10:」 *35と嘆いてiいる。

この頃キューバの状況は、完全 に現状維持 に落 ち着いていた。1826年のパナ マ会議で、ボ リーバルをはじめ とす る独立イスパ ノアメ リカ諸国の指導者たち は、武力侵攻 によるキューバ とプエル トリコ解放 について話 し合っていたが、

結局具体的な動 きにはつなが らぬまま機会 は失われていた

*86。

汎アメ リカ主義 の旗手であつたボ リーバル も1830年にこの世 を去ってお り、キ ューバ国内にお ける散発的な独立運動はほ とん ど反響 を得 られぬまま潰 されていた。そ うした 状況下、エ レデ ィアは老いた母 をは じめ とする家族 にも う一度会いたい とい う 気持か ら、キューバ当局 による恩赦 を利用。1836年 11月、遂 にキ ューバ に里帰

りを果た した。 しか しキ ューバの独立派や 自由主義者はこれ を変節 と見な し、

エ レディアは須

̀里

で よそ よそ しい反応 に囲まれ ることとなった

*37。

これ に傷つ いたエ レディアは、翌37年1月には早々にメキシコに戻ることになる。しか し ここでも保守政権 に迎合 しないエ レデ ィアヘの風 当た りは強 くな り、同年国籍 条項 を遡 つて適用 され、司法官職 を解任、閑職 に追いや られ る。失意の中、結 核療養のためクエルナバカに移 るも甲斐な く、1839年 メキシコ市 に戻 り、死去。

享年36歳であった

*38。

翻訳

比較的短 く困難 に満ちた生涯 を送 つたため、エ レデ ィアの残 した詩作品は、

生前 に彼 自身が刊行 した さして厚 くはない『詩集』にほぼすべて収め られてい る。 メキシコ時代 に発表 した戯由の評価は芳 しくな く、彼の名声 はあ くまでも 詩に拠 っている。だが この僅かな詩作品によつて、エ レディアは現在19世紀初

*3'r Ibid., p. XVI.

*35 Heredia, of. cit., p.90.

*rc Sevilla Soler, op. cit., pp. 48-5I.

*37 Chac6n y Calvo, op. cit., pp. 179-181.

*N Lazo, op. cit., pp. XVI-XVil.

‑ 69 ‑

(13)

頭イスパ ノアメ リカ独立期の3大詩人の一人 として、ベ リョ、ホセ・ホアキン・

デ・オル メ ドと並び称 されているのである。 ここではなかで もエ レデ ィアの代 表作 として名高い 「チ ョルーラ神殿 にてEn el teocali de Cholula」 と「ナイ アガラNiagara」 を翻訳紹介する。どちらもポルーア版乃 ω″"り

Sを

本 として用い る。

なお「チ ヨルー ラ神殿 にて」は、1820年 に初 めて発表 されたが、1825年版『詩 集』に収録 され るに際 して、加筆修正が施 された

*39。

さらに32年版『 詩集』に おいて、後半部分 に改めて大幅な加筆修正が行われている。ポルーア版は32年 版 を底本 としているが、現在スペイン語圏で最 も流布 しているのが この版であ るため、本翻訳の底本 としても用いることとした。なお 「チ ョルー ラ」の20年 版は失われてお り、25年版 も研究者でもまず見かけることはない。なおアン ド

レス・ベ リョが25年版『詩集』を批評 した文章では、冒頭か らかな りの長 さに わたつて「チ ヨルーラ」の引用がされているが、6連までは句読点や語句の小 さ な修正 にとどまっている。7連冒頭は大意は同 じなが らそれ までに比べて大 きく 異なつてい るが、残念なが ら引用は ここで終わっている。ただ少な くとも32年 の加筆修正が最後の3連に集中して行われた ことは確認できる

*40。

ポルーア版の 「チ ョルーラ神殿 にて」には、特 に断 りもな く「1820年12月 との執筆年月の記述があるが、 これは先に述べた加筆修正が行われ る以前の、

最初のヴァージ ョンの発表年月である。 この時エ レデイアは メキシコで大学生 活を送 つてい る最 中だつたが、25年版 は亡命先のニ ュー ヨークで、32年版は再 び移住 した独立後のメキシヨで出版 と、作者 を取 り巻 く状況が変わ るにつれて、

それを反映す る改稿が行われてきた。ベ リョが引用 した25年版ではタイ トル も

「あるメキシコの詩 の描写的断片Fragmentos descriptivos de un poema meiiCanO」 となつてお り、エ レディアが現在み られ るよりももっと長い作品の 冒頭部 として この作品を構想 していた可能性が うかがわれ る。 もっ ともこのタ イ トルはベ リョが23年に発表 した「詩神への誘い Alocud6n a la poesia」 の 副題「『 アメリカ』と題する未発表の詩の断片Fragmentos de un poema inOdito, titulado Amёrica"」 に似てお り、20年の時点で既 に「断片」とみな されてい たのか、「詩神への誘い」発表後 にその影響 を受けて新たな構想の下改稿 されて いたのか、判断はつ けられない。現在手 に読む ことのできる32年版 は終盤が大 き く改め られ完結 した作品 となつているが、そ こではスペイ ンか らの独立達成

*m Ca五 Ha,θ

グ ム

,p.111.

*40 Bello,9ρ

 ̀グ ′

,pp.238‑240

‑ 70 ‑

(14)

後内紛が続 くメキシコの政情 を反映 して、内戦 に対す る批判が強 く打ち出され ている。

しか し本作の評価 を高めているのは、やや メッセージ先行のきらいがある終 盤ではな く、前半の 自然描写である。 これ によって 「チ ョルーラ」は、イスパ ノアメリカの自然を 19世 紀 らしい色彩 と時間の変化を取 り込んだ視覚描写 によっ て鮮やか に描 き出 した作品 として、高 く評価 されている。全体の着想 において はフランスの啓蒙思想家 ヴォルネの主著『遺跡』の影響が明 らかだが、その文 章の美 しさでただのイ ミテーシ ョンには とどまっていない。

一方「ナイアガ ラ」は、エ レデ ィアが 1824年 6月 15日 にこの滝 を訪れた時の 記憶 に基づいた作品*4で 、執筆年月ははつきりしていないが、翌25年に出版 さ れた『詩集』 に収録 されている。 この当時ニュー ヨークで亡命生活 を送 つてい たエ レデ ィアの望郷の念 と自然への驚嘆の思いが、

 

うま く結 びついて表現 され ている。終盤恋人がいない ことを嘆 く部分はやや脱線 した印象を与 えるが、 こ の作品でも大部分 を占める自然描写の鮮やか さが高 く評価 されている。エ レディ アがナイアガ ラを訪れたのは、当時一世 を風靡 していたシャ トーブ リアンの『 ア タラ』 にこの滝が登場す るか らだが、エ レディアの名声が今度は以後のイスパ ノアメ リカ詩人たちの間に、ナイアガ ラをテーマ として詩や文章 を物す る伝統 を生み出 してゆ く。キ ューバ出身のゴメス・デ・ラ・ アベ リャネーダ、ホセ 。 マルテ ィ、ベネズエ ラのペ レス・ボナルデ らが、か くしてナイアガ ラを詣で作 品を生み出す ことになったのである。

"En el teocali de Cholula"

iCu6nto es bella la tierra que habitaban los aztecas valientes! En su seno en una estrecha zona concentrados con asombro se ven todos los climas que hay desde el Polo al Ecuador.

Sus llanos

「チ ョル ー ラ神殿 にて」

勇猛 な るアステカ族 の住 まい し土地 の、

女口何 に美 しき こ とか そ の胸 元 では 狭 き地域 に集 め られ 、

極地か ら赤道地帯に至るあ らゆる気候が 驚 き と共 に見 られ る。 そ の平 野 を

41 Heredia y Heredia,JosO A/1aria.477′ θ′

Og̀α

力θ″αじαηα.ed.de Enlilio ValdOs y de Latorre,La

Habana:Cons●o Corporativo de Educaci6n,Sanidad y Beneficia,1939.pp l15‑118 

tl照

エ レデ イアはこの友人への手紙でその場で詩を書いた と記 しているが、それが完成 された「ナイ アガ ラ」とどの程度一致す るのかはわか らない。

‑71‑

(15)

cubren a par de las doradas mieses las caflas deliciosas. El naranjo y la pifla y el pldtano sonante, hijos del suelo equinoccial, se mezclan a la frondosa vid, al pino agreste,

y de Minerva el 6.rbol majestuoso.

Nieve eternal corona las cabezas de Iztaccihual purisimo, Onzaba

y Popocatepetl, sin que el invierno, [sic.]

toque jamas con destructora mano los campos fertilisimos, do ledo los mira el indio en purpura ligera y oro teflirse, reflejando el brillo del sol en occidente, que sereno en yelo [sic.] eterno y perennal verdura a torrentes verti6 su luz dorada, y vio a Naturaleza conmovida con su dulce calor hervir en vida.

Era la tarde; su ligera brisa las alas en silencio ya plegaba y entre la hierba y Arboles dormia mientras el ancho sol su disco hundia

detras Isic.] de lztacclhual. La nieve eterna,

cual disuelta en mar de oro, semejaba temblar en torno de el;un arco inmenso que del empireo en el cenit finaba, como espl6ndido p6rtico del cielo, de luz vestido y centellante gloria, de sus ultimos rayos recibia los colores riquisimos. Su brillo desfalleciendo fue; la blanca luna

金 色 の穂 と同時 に、

美 味 し砂糖黍 が覆 う。

赤道 直 下 の地 の子 で あ るオ レン ジ と パ イナ ップル と音高 きバナナ が、

葉 の茂 りし葡 萄 と、野 生 の松 と、

ミネルヴァの威風堂々たる木と混 じり合 う。

万 年 雪 が純粋極 ま りない

イ シ ュ タク シ ワル 山 とオ リサ ーバ 山、

ポ ポカ テペ トル 山の頭 を飾 るが、

冬 は破 壊 をもた らす手 で

いと豊穣なる野に触れることは決してない。

そ こで はほが らにイ ンデ ィオ が薄紫 と 金 色 に、西 日の輝 きを映 して

それ らが染 ま るのを見 る。太 陽 は 静 か に久遠 の氷 と永 久 の緑 に 滝 の如 く黄 金色 の光 を注 ぎ、

揺 るが された自然がその優 しき熱を受け、

命 に沸 き立つ の を見た。

暮 れ方 で あ つた。 か ろ き微風 は 翼 をはや 沈 黙 の うち に折 り 草 々 と木 々 の間 に眠 つていた。

か たや大 きな太 陽はその円盤 を イ シ ュタ クシ ウアル 山の彼方 に沈 めて

い った。

万 年 雪 は、黄 金 の海 に溶 け込み し如 く、

山の周 りで震 えるか に見 えた。

天空 の頂点 に薄れゆ く巨大なアーチは、

輝 け る空 の柱 廊 の如 くt     

光 と爆 め く栄光 に身 を包み、

太 陽の最期 の輝 きか ら

い と豊 かな る色彩 を受 けていた。

そ の輝 きは薄 れ てい った。 白い月 と

‑72‑

(16)

y de Venus la estrella solitaria    孤独なウェヌスの星が en el cielo desierto se veian。

   

広漠たる空 に見えた。

iCrepisculo feliz!Hora mas bella  幸福な黄昏 よ愛す る夜や que la alma nOche o el brillante dia,  輝 ける昼 よりも美 しき時 よ、

icuantO es dulce tu paz al alma mia!  汝が平穏は我が魂に如何に甘きことか

!

Hallabame sentado en la famosa   我 は著名なるチ ョルテカの

Choluteca piramide.Tendido    ピラ ミッ ドに座 しあ りき。我が前 に elllano inmensO que ante mi yacia,  広大な平原が長々 と横たわ り、

10s OjOs a espaciarse convidaba.  視線 を逢かに街往わせ よと誘 え り。

iQuё

 silenciO!iQuO paz!iOh!乏 QuiOn 何 とい う静寂 何 とレヽう平和 !

diria       

おぉ 誰ぞ言わん、

que en estos bellos campos reina alzada  この美 しき野 に野蛮な抑圧が la barbara opresi6n,y que esta tierra  傲慢 にも支配 し、 この地が

brota mieses tan ricas,abonada   か くも豊かな穂 を芽吹かせ るのは、

con sangre de holnbres,en que fue  迷信 と戦争

│こ

よって溢れかえ りし、

lnundada

porla supersticiOn y porla guerra.¨人々の血によって月巴や され し故 とは一 ?

Bai6 1a noche en tantO.De la esfera  その間に夜 となった。天空の el leve azul,oscuro y mas Oscuro  薄 い蒼 は、暗 くよ り暗 く se fue tornando;la movible sombra  変わ っていった。空間を de las nubes serenas,que volaban  微風 の翼 に乗 って飛ぶ、

por el espacio en alas de la brisa,    静かな雲:の動 く影が、

era visible en el tendido llano.   広 がる平原の上 に見て取れた。

Iztaccihual purisimo v01via     い と純なるイシュタクシワル山は del argentado rayo de la luna    白銀 の月影の穏やかな

el phcido fulgor,y en el oriente,    輝 きを返 し、 東方 には、

bien como puntos de oro centelleaban  金 の点 の女日く鮮や か ヤ

ff―

mil estrellas y mil.… iOh!iYo os saludo,  さ らに千 の星 が瞬 いていた…おお !

fuentes de luz,que dela noche umbria  我 はそ なた らに挨拶 を送 る、

iluminais el ve10       光 の泉、暗 き夜 の ヴェール を照 らし

y sois del firmamento poesia!    天空 の詩 であ るそな た らに!

‑73‑

(17)

Al paso que la luna declinaba,    月が傾 き、輝 きつつ

y al ocaso fulgente descendi五

,   

西方 に下 つてゆ くにつれて、

con lentitud la sombra se extendia  徐々にポポカテペ トル山の影は広が り、

del Popocatepetl,y semdaba    巨大な亡霊 の如 くなっていらた。

fantasma colosal.El arco oscuro   暗きアーチが我 に達 し、

a mllleg6,cubri6me,y su grandeza  我 を覆い、その巨大 さは

fue mayor y mayor,hasta que al cabo  さらに、さらに大 きさを増 し、ついには en sombra universal ve16 1a tierra.宇 宙的な影で大地 を隠す に至 った。

Volvl los ojos al volcan sublime,   我 は目を崇高なる火山に向けた。

que velado en vapores transparentes,  山は透明な蒸気 に閉 ぎされ、

sus inmensos contornos dibuiaba  その巨大な輪郭 を de occidente en el cielo。

     

西の空 に描いていた。

iGigante del Anahuacttc6mo el vudo  巨大なるアナ ウァク山 よ 速 き de las edades rapidis nO imprime  世々の経過がそなたの雪置きし額に alguna huella en tu nevada frenteP  何 らの跡 も残 さぬのは如何 なることか? Corre el tierrlpo veloz,alTebatando  時 は速や か に走 り去 る。猛 々 しい ahos y siglos,como ei norte fiero  北風 が 己の前 に大 海 の

precipita ante sl la muchedumbre  無数の波を魯き立てるが如くに、

de las olas del Mar.Pueblos y reyes  年々と世紀を奪いつつ。民たちと王たちが

宙ste hervir a tus pies,que combatian  足 下 に沸 き立 つ の をそ なた は見 た、'

cual ora combatimos,y llamaban  現 在我 々が戦 うよ うに戦 い、 そ の都 を

etemas suS Ciudades,y creian    永遠 と呼 び、地 を してそ の栄 光 に fatigar a la tierra con su gloria.   飽 かせ ん もの と信 じお りしを。

Fueroni de ellos no resta nilnemoria.去 りぬ 憶す ら残 さず 。

Y ti etemo serasP Tal vez un dia  さらばそなたは常 しえか おそ らく de tus profundas bases desquisiado  いつ の 日か深 き基石 よ り害りれ落 ちん。

caeras;abrumara tu gran ruina  そなたの 巨大 な廃墟 は荒涼 た る al yermo Anahuac;alzaranse en ella  アナ ウ ァク山を悩 ませ ん。 その上 に nuevas generaciones,y orgullosas,  新 た な世代 が立 ち上 が り、 高慢 にも、

que fuiste negaran.¨         そ なたが存 在 した こ とを否定せ ん…

‑ 74 ‑

Todo perece

全 て は滅 び る、

(18)

porla ley universalo Aun este mundo  普 遍 の法則 によって。我 らが住 ま う tan bello y tan bJlante que habitamos,  か くも美 しくか くも輝 けるこの世界 さえ、

es el cad計er palidO y deforme   かつ て あ りし別 の世界 の de otro mundo que fue.¨       蒼 褪 め歪 み し骸 なのだ …

En tal contemplaci6n embebecido  か くな る黙想 に没頭せ りし sorprendi6me el sopor.Un largo sueio  我 を睡魔 が襲 え り。

de glorias engolfadas y perdidas   時 の深 き夜 に入 り込 み失われ し en la profunda noche de los tiempos,  栄 光 の長 き夢 が我 が上 に降 り来 りき。

descendi6 sobre mi.La agreste pompa  アス テカの王 た ちの部 びた栄華 が de 10s reyes aztecas despleg6se   果 然 た る我 が眼前 に広 がれ り。

a mis ojos at6nitos.Veia      静 かなる大勢 の

entre la muchedumbre silenciosa  羽飾 りを纏い し領主たちの中か ら de emplumadOs caudillos levantarse  黄金 と真珠、 羽根で刺編キさオした el dOspota salvaie en rico trono,   豪華 な王座 に野蛮な専制君主が de OrO,perlas y plumas recamado;  立ち上がるのを見た り、

y al son de caracoles belicosos    そ して戦を告げる法螺員の音に合わせて ir lentamente caminando al templo  広大 な行列が神殿へ とゆっ くり la vasta procesi6n,do la aguardaban  歩みを進めるのを、そ こでは人間の血が sacerdotes horribles salpicados   顔 と衣服 に飛び散 つたお どろしげな con sangre humana rostros y vesudos.神 官たちが待 ち受 けていた。

Con profundO estupor el pueblo esclavo  深 き驚 きの うちに奴隷の民は las baias frentes en el polvo hundia,  低 き額 を土埃 に埋 め、

y ni mirar a su se■or osaba,     主人を見 ることす ら憚れ り。

de cuyos ojOs fё lwidos brotaba    その君主の熱 き瞳か らは

la saha del poder.         権 力の残忍 さが噴 き出 していた。

Tales ya,fueron       さるものは既 に去 りし、

tus monarcas,Anahuac,y su  そなたの君主たちも、アナ ウァクよ、

o瑠

ullo,      

その高慢 も、

su vil superstici6n y tirania     その卑なる迷信 と暴政 も en el abismo del nO ser se hundieron.非 在の深淵へ と沈潜せ り。

Si,que la muerte,universal seiOra,  さな り、世界の女主人である死 は、

hiriendo a par al dOspota y esclavo,  専制君主と奴隷の両方を傷つけることで、

‑75‑

参照

関連したドキュメント

さて、先に述べたように、こうした流れを受けて 1947 年、 40 名を超える映画人に HUAC から召喚状が送られたのだが、この時点ではまだ

〔 残 って〕滞在 していた帝国等族の全権使節たち、そ して とりわけ皇帝使節の同意である、 とい うこと で広範 に一致 した。

日本語とモンゴル語における格助詞の比較 両言語において格助詞は役割と形式という

という構成になっている。「起」で,今自 を悩ませている二者択一の問題を示し,「承」で,その1 つ,「死」と連動する not

これに対して,上記のもう

225 29条 ① 取締役会は, その1人もしくは数人の構成員に対し, また

しくはすべての情報,

映画はたいていそれを観る観客を前提 として制作される。それは情報伝達がコミュニケーションとい う行為を通 じてなされていることを示