インドネシアの経済開発と日本の企業 (1) 1
インドネシアの経済開発と日本の企業(1)
坂 口 幹 生
私は去る2,月から3月にかけて約40日間、インドネシア現国会議員、コスゴロ理事長、
Martono氏の御招引と、三井物産社長、若杉未詳氏ならびに伊藤忠商事副社長、戸崎誠喜氏 の特別の御配慮により、経済5ケ年計画下におけるインドネシア経済開発の現状と、その状況 下に日本の企業がいかに経済協力に活躍しっっあるかについて、その一端を視察することがで
きた。以下はこの視察の報告であるが、藪に前記3氏に対しては、特に深甚なる謝意を表する 次第である。
1
∬
皿 IV
V
目
新体制に入ったインドネシア経済開発 新体制下の緊急安定政策
本格的な経済建設政策 米作優先の農業胴丸5ケ年計画 外貨獲得のためのモノカルチユアー生産 今後の発展を期する工業開発
次
1 新体制に入ったインドネシアの経済開発
1965年9月30日のインドネシア共産党のクーデター平定後、国民の悲願に答えて1967年 7月25日事実上スハルトを中心とする新内閣、アンペラ内閣(国民悲願の意)が組織され るや、インドネシアは、スカルノ旧体制より、スハルト新体制に移行した。しかしながら 国民の悲願とは云え、この新内閣の組閣当時それが解決していかなければならない問題 は、あまりにも数多く且つ困難な客観情勢の中におかれていた。
まず第iに焦眉の急を要したのは、1960年と1966年7月との対比において、生計費指数 340より14,900(438倍)、米価273より344,958(700倍)繊維品330より236,729(700倍)
にも達した物価騰貴、インフレーションを押え、国民の生活をいかにしてその飢餓より救 うかと云うことであった。しかしこれを達成するためには、第2に、取りあえず、食糧そ の他国民生活の必需品を、国内生産又は、輸入によって確保せねばならなかったが、第2 次世界大戦と独立三三によって荒廃に帰した国内生産力を急激に恢復することは容易な課 題ではなかった。国内生産を高めるためには、工場、農場、機械、設備等直接の生産力を
増強することが必要であったのみならず、間接的に鉄道、 道路、海運、港湾、航空、電 力、ダム建設、灌概排水等、外部経済の建て直しを必要とした。第3に、9国民の生活必需 物資を輸入に仰ぐにしても、スカルノ旧体制の時代の乱脈により、外債は25億米ドルに 達し、これを何等かの方法で返済するか、又は支払延期の処置に出でなければ諸外国からの 輸入は覚束なく、更に積極的に輸入を増加するためには、これが見返りとして輸出を増加 せねばならないが、インドネシアの輸出総額は1959年93,IOO万米ドルに達していたものが、
1965年には48,300万米ドルに低下し、貴重なる外貨を獲得すべき輸出は、僅か6年間に半 減すると云う,状態で、1965年には外貨の不足、15,700万米ドルに達した。又インドネシア は政治的独立以来経済的独立をも希求して、従来の植民地的モノカルチュアーを脱却し、
国内工業の開発に意を用いてきたのであるが、輸出効率の大を期するためには、依然と して、−石油、錫、鉄鉱、ボーキサイド、ゴム、コーヒー、煙草、ココナット、玉蜀黍等の 第1次産品に頼らねばならないと云うヂレンマに陥らざるをえなかった。第4に国民生活 の安定を期するためには、国民所得の増大を図らねばならないことは云うまでもない。
ユ959年より1966年に至る7年間にインドネシアの国民総所得は、成程ll%増加した。金額 の上では年平均1.5%の増加である。しかしながらこの間のインドネシア人口の増加率は 年間2.3%であったことを考慮するならば、この7年間に国民所得はかえって○。7%減退し たこととなる。しかもこうした国民所得の減退の裏には、人口は増加しても何等就業の機 会を見出しえない巨大な失業群の存在が横たわって居り、国民所得の減退は、その日その 日の国民生活の窮迫を来さしめているのみならず、経済開発に必要なる国民資本の蓄積を も期待することが出来ないことを意味した。
第5に、インドネシア経済の目前の破局を収拾したとしでも、それ以後に来るべき本格 的な経済開発を進めるためには、資本の面においても、技術の面においても、将又企業経 営の面においても、到底インドネシア人の力だけでこれを達成することは出来ず、如何に イン・ドネシア化を念願してみても、,結局は諸外国の援助、協力を仰がずしては、不可能な ζとが、漸く顕著となってきた。かくしてスハルトを中心とするアンペラ内閣は、国民の 悲願に答えて、正に破局に頻するこのインドネシア国状の収拾と再建のために出現したの であるが、しかしこのような複雑多岐にわたる混乱を収拾するためには、具体的な施策を 実施する前に、まず次のような根本的な態度、姿勢を確立するにあらざれば、その解決を 期待することが出来ないことを知ったアンペラ内閣は、根本的にまずその態度を大きく転 換する必要に迫られた。
(1}政治優先より経済優先へ
そのまず第一は新内閣の根本使命を以て政治優先より経済優先に切り替え、経済的諸問 題の解決をその第一義的使命としたことである。勿論当時インドネシアの国状において解 決を迫られていた重要な政治問題は尚数多く残されていた。たとえばインドネシアの独立
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国としての建設は、1パンチャ・シラの精神によって制定せられた、1945年憲法の条章に基 づいて行われていかなければならないとしても、その条章ひいては、パンチャ・シラの五 原則の解釈については、それを再確認することが必要であった。たとえばパンチャ・シラ の第四原理たる「代議員間における審議を通じて自ら出来あかって来る満場一致と云う内 面的な知性によらて導かれた民主主義」とは、結局主権在民を根本的原理とするものであ り、スカルノは「終身大統領」として主権を特有的に独占していたが、これは明らかに誤 りであり、大統領は主権在民の反映機関たる国民協議会において任命さるべきものである ことを明確にする必要があった。
又パンチャ・シラの第五原理たる「インドネシア全共和国の人民のための社会正義」と は、必ずしもマルキシズム的社会主義の実現を意味するものでなく、「インドネシア人民が そめ日常生活において、常に公正且つ平等に取扱わるべきことを意味するにすぎない。い わゆる「体制の変革」とは別問題である。従ってスカルノ的偏好に乗じてインドネシアに 共産革命を引起し、一党独裁を図らんとしたインドネシア共産党は非合法的なものである との結論を引出すことに迫られていた。更に西イリアン問題、サバ、サラワクの帰属をめ ぐるマレーシアとの対決を最頂点として、インドネシア国家財政の60%を投じたと云われ る国軍を整理し、常備軍はその分担を定あて、平時的な経済生産に従事せしめることも重 大な課題であった。
しかしこうした政治上の諸問題を、1966年6,月20日より7,月5日にかけて開かれた第四 回暫定国民協議会において速やかに解決した新内閣は、矢回り政治優先よりも経済優先の 根本政策をとらざるをえなかった。それは1945年8月17日の独立宣言以後16年、インドネ
シア国にとって焦眉の急務は、今未曽有のインフレで塗炭の苦しみにあえぎ、破局に頻し ているインドネシア経済の収拾であると云う緊急不可避的な要請に基づくものであったと 共に、又あまりにも政治優先の政策、態度をとってきた、スカルノ旧体制への批判から生 れたものであったとも去えるであろう。
あらためて云うまでもなく旧体制を率いたスカルノの悲願使命は反植民地民族主義の旗 印をかかげてオランダに反抗し、速やかにインドネシア民族国家の独立を実現することに あった。それはすぐれて政治的な色彩の濃い問題であったことは否定できないであろう。
しかし政治的な独立に次いで実体的に経済的な独立を実現すると云うことになると、経済 の世界には経済の世界の論理があって、それは単純に政治的な方策や意図だけで動くもの ではない。しかるにスカルノは経済的な独立発展をかちとるためには、インドネシア経済 は反オランダ、反資本主義体制として社会主義体制を実現する以外に途はないと思込んで 経済的な独立と発展は政治的独立と同様革命の一環と考えていた。従ってその経済政策は すぐれて政治的色彩の濃いものとなり、常に政治優先の体制の中に動かされていた。たと えば彼は「企業は社会主義革命の手段であり、機関である」と考えていたから、この革命 の担い手を活動させる意味で、それらに多額の補助金や保護を与え、その代りその製品や
用役は、国家への協力と云う意味で、ほとんど無償もしくはきわめて低い価格で徴収し、
損失を顧みない生産命令を強行した。又経済開発の為の各種のプロジェクト、工場を建設 するに当ってもその立地条件、必要性等経済効果によってではなく、地域住民に対する政 治的配慮からその立地を決定した。
又スマトラその他外回諸島では≦鉄道、道路、港湾など地域産業に重大なる影響力を持つ 外部経済が荒廃のまま放置されているにも拘わらず、莫大な国家予算がスカルノの威信権 力を誇示するためジャカルタの非経済的な建築、プロジェクトに用いられた。今尚ジャカ ルタ二三ムリン通りに残る鉄骨の残骸はその名残りである。かくて1966年頃より彼が唱え た「指導経済主義」の下においては、民間企業者は経済の論理、経営の原理に従って企業合 理化の努力をするよりも、いかにして国から莫大な補助金を獲得するか、政治的な裏工作 に狂奔する,ことがむしろ商才にたけた産業人であると考えるようになった。殊に政治優先 の傾向は、同時に法律万能の傾向を生んだ。経済の世界はそれ自体の論理で動くよりも、
法律で動かすべきものとしか考ええなかった旧体制の官僚は、民族資本の育成に当って、ひ たすら統制法の制定と改正に狂奔した。法律や号令やスローガン丈で経済は動くものと考 えていたのである。又これを国際経済的な政策面について見ても、徒らに政治的に民族主 義を強調するあまり、外国資本や外国企業をインドネシシ国内より放遂する政策に出た が、民族資本も民族技術も将又民族の企業経営力も未だ十分でないことを知って、P・S 方式等によって盛んに外国資本の誘致に努めるようになった。しかしこの場合といえど
も、こうした外国資本、技術、経営力の導入に当っては、まずインドネシア国自体が国内 の経済的安定に自主的に努力し、その条件整備を侯って、国際経済の論理に従い外国資 本、技術、経営力を導入すると云うよりも、米ソ両陣営を手玉にとり、政治的なアド・ド
ンパ政策、字引によって外資を導入すると云うやり方であった。
しかるに1966年スハルトを中心とするアンペラ内閣が出現するや、第四回暫定国民協議 会の決定に基づき、政治優先の体制は放棄せられて、経済優先の新体制に転換された。それ は最悪のドン底に達した国民の日常生活を救うことが焦眉の急を要したと云う緊急の理由 と悲願に基づくものであったが、しかしインドネシア独立の発展過程が、いっかは当面しな ければならない重大な一つの段階でもあったであろう。しかしスハルトは経済的な再建開 発を以て、スカルノの如く社会主義への体制革命とは考えなかった。パンチャ・シラ第五 原則に云う「インドネシア全人民のための社会正義」は福祉の平等を意味するものであ
り、それは資本主義体制の中でも実現できると云う根本態度をとった。そして1966年12,月 には、列国経済界に評判のよくなかった旧体制時代のP・S方式による外資導入を改め、
新たに外国資本の積極的な経営支配と指導を容認する「新外資導入法」を成立せしめ、旧 体制における小児病的な民族主義に基づく外国資本排除政策を百八十度転換、越えて1967 年の年頭には、インドネシア経済の現況がいかに破局に陥っているかを具さに報告した後、
アンペラ内閣として採るべき経済優先政策を発表した。
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(2》冒険主義より合理主義へ
シヤフリールと共に、オランダ本国の大学において、西欧的合理主義の何物たるかを学 んだハヅタは、スカルノを評して次の如く論じている。「たしかにスカノヒノは、インドネ シアの独立と繁栄を速やかにかちとらんとした愛国者であることは否定できない。しかし ながら彼の性格や心構えからして、スカルノは唯彼の漠然たる理念、概念、目的だけを設 定してそれが実現、実施のためめ詳細な方法については何も配慮しなかった。その結果彼 は自らの求あんとする目的、理念とは、全く逆の結果を生ましめるのが常であった。彼の うちたてた目的、理念は常に正しかったが、しかしその目的実現のために彼のとった方法 は、常に所期の目的、目標とは、はるかにかけ離れた結果に導いた。上(註1)
まことにヘルベルト・シヤック9(:Herbert Schack)がその著、経済形態学の中で強調 しているように、「目的価値にのみ着目し、それに到達するための手段価値に洗目しない人 間は常に非合的人間である」、こうした意味においてはスカルノ体制は、正に非合理的な 体制として織りなされていたと云ってよいであろう。彪大なイデオロギー的、目的をかか げるだけで、それが実現のための地道な方法を考えなかった。勿論彼はその目的、理念を 実現するに当って何等の方法をも用いなかったと云うのではない。然し彼がすき好んで用 いた方法は、インドネシアの古い封建社会以来慣行的に採られてきたアド・ドンパ政策、
両天秤政策、裏面工作政策等と云う、いわゆる権謀術策であった。それは成功すれば効果 を収めうるが、相手方がその術策に乗らないときは、莫大な危険と損傷をうけると云う冒 険主義でもあったのである。
しかるにスハルト新体制においては、生粋の軍人としてすでにして近代戦においてその 目的を達成するためには、科学的、合理的戦術、方法が必要であるのと同様、政治、経済 目的のためにも、如何に合理主義的な方法が必要であるかをわきまえていた。自国民の能 の世界を建設する力や実力を十分知った上で、ものの論理に従って、ガラス張りの中で方 法を考え、国を再建すると云う合理主義的態度をとるに至ったのである。
(3)主観主義より客観主義へ
スハルト新体制の第三の著しい特色は、それが問題への接近、問題解決の方法として、
顕著に客観主義的立場、思考様式をとるに至ったと云うことである。云うまでもなく客観 主義とは主観主義に対置せられるものであり、この場合主観主義が、客体をとらえるに当 って、その客体と自己主体との間に一定の距離間隔をおかず、すべてを自己の主観や経験、
体験によって捉え、且つそれに基づいて行動するのに対し、客観主義とは、自己と客体と の間に一定の距離、間隔をおき、すべての客体を事物、事象として眺め、それらが事象と して持つ普遍、妥当的な三三関係においてとらえ、且つそれに基づいて行動する、思考様 式、態度を云うものである。
実際に旧体制時代インドネシアは独立せる主権在民の民族国家とは云え、すべてはスカ ルノの個人的主観によって独裁的に動かされていた。それはインドネシア国民大衆が、独 立の最高の指導者に対する賞識敬意に発すると云うことも否定できないにしても、実は インドネシア国民大衆が、主権在民とは云え、抽象的な近代国家と云うものはぐ如何にし て:国民が成立せしめているものであるかを知らず、常に抽象的な国家を具体的な指導者、
入間と切り離して考えることが出来ず、国家と指導者スカルノと同一視するインドネシア 国民大衆そのものの主観主義的民度に基づくものであったと云えるであろう。古来より海 上に往来、雄飛した一部マラヤ人種を除いては、インドネシア民族は㍉その殆んどすべ てが、常に変らない自然や村落共同体を相手として、・長い静かな生活を続けてきた農耕民 族であった』こうした静的な農耕民族の中には、主観主義的物の見方、考え方が、自ら成 育してきたことも十分に肯けることである。
又スカルノ自身にしても、彼はバンドン工科大学出身の建築士であったとは云え、同友 シヤフリールやバッタの如く西欧において近代的合理主義、客観主義の何物たるかを学ん だことなく、彼自身アジア的主観主義の持主であった。彼はパンチャ・シラの五原則を以 て、インドネシア的独自の政治原理であると常に誇張し、その解釈内容は著しく主観的で あった。又その説える指導経済主義においても、経済の世界にはそれ独自の論理が厳然と して存することを知らず、これを上より指導、統制すること丈で簡単に動かしうるものと 考えてはいた、・主観主義の現われに外ならない。更に彼は政治、経済、 社会の領域を通じ て、新しい問題が発生すると、先きに着手した問題の解決が未だ終っていないにもかかわ
らず、転々として問題志向を変えていったと云われている。政治、経済、社会の全領域を 通じて、唯目に見える問題の偶発性にのみ着.目し、これらを通じて普遍的に内在する客 観的な因果関係を見出すことが出来なかったのである。
しかるにスハルト新体制に入ると、こうした旧体制時代における主観主義は放棄せら れ、インドネシアの現実態に即し、それのおかれている客観情勢に応じて、問題を解決し ていくと云う、きわめて客観的な態度に一変 した。それは1945年の独立宣言以来、幾多の 失敗を経験してきたインドネシアが、その失敗を通じて初めて客観的にものを見、科学的 な分析と方法を用いずしては到底根本的な解決を期待しがたいことを認識するに至ったも のと云えるであろうb、しかしこうした精神的態度の革新は、すでに軍人としてアメリカに 学び、目的達成のためには、如何に科学的、合理的な戦術、方法が必要であるかを、十分 知悉していたスハをト自身の近代的感覚に基づくものであったことも否定できないところ
である。.:
インドネシアの経済開発と日本の企業 (1) ワ
II 新体制下の緊急安定政策
それでは以上のような経済優先主義、合理主義、客観主義の態度を確立したスハルト新 体制は、いかなる経済開発政策をうちたてたのであろうか。
アンペラ内閣がまず第一にとった経済政策は、緊急に衣、食糧品その他消費品を確保 し、破局的なインフレを克服して、国民生活を取りあえず安定せしめると云う緊急安定政 策であった。これがためには国民生活の基礎とも云うべき食糧をまず確保せねばならなか ったが、国内生産力の衰微よりみて到底急場の間に合わないことを十分知っていたアンペ ラ内閣は、25億米ドルにも達した当時の彪露な外債を、一時支払延期の訴えに出ると共 に、新たに借款を設定して、これによって輸入米を確保し、緊急配給する対策に出た。又 食糧品以外の消費物資の輸入についても、従来輸入保証金を全額銀行に積立てなければな らなかったが、この保証積立金の額を軽減し、資金的に輸入を容易ならしめた。輸入業者 をしてホット・マネーの利用による高価格品の輸入を必要なからしめたのである。更に 財政的には常に赤字を繰返し、その都度紙幣の濫発によってインフレの原因を作っていた、
彪大な国家予算を切り詰め、均衡予算を堅持することに改めた。公共料金の引下げ金融の 引締め政策をとったことは云うまでもない。かくて衣、食糧盛事に生活消費財の輸入によ って物の面から、財政、金融、公共料金の引下げによって金の面からζインフレ克服政策が とられるや、1968年頃よりは物価は次第にその下落傾向さえ現わして来た。国民は今や物 の買だめをせずとも、金さえ持っていれば何時でも物が入手出来ると云う、正常的な経済 の安定感を持つに至ったのである。都市において物価が安定し初めたと云うことは、次第 に地方農村の物価安定、生産増強、流通強化へと波及効果を及ぼしていった。米価は下っ ても、その代金で購入する生活物資が下がれば、農民は安んじて生産に励むことが出来 るようになった。購買力の真の意味が次第に理解され初めた。かくて通貨物価の安定、物 資の流通と云う、旧体制時代においては、かって見られなかった産業動脈は力強く動き初 め、インドネシア経済は次第にその安定的基礎条件を恢復し:初めた。
皿 本格的な経済建設政策
かくして以上のごとき緊急安定政策によって、インドネシアは第2次世界大戦、外国軍 事占領、独立革命等によって受けた破壊と損傷をいやし、次第にその平艀さを取り戻して
きたとは云え、それはひとえに諸外国よりの援助資金、援助物資の輸入によるものであって、
決してインドネシア自体の経済力、生産力がそこまで恢復した結果によるものではなか った。従って一応の緊急安定を確保するや、インドネシアの実体的な独立を確保するため に、アンペラ内閣は、いよいよインドネシア経済の本格的な再建と開発に取り組まなけれ ばならなくなった。そしてそれがためには、ユ6世期末より初まった植民地時代以来のイン
ドネシア産業経済のあり方を抜本的に吟味し、その基調を根本的に変革する必要に迫まら れたのである。
あらためて云うまでもなく、産業経済の根本目的は一国国民の生産力を増強し、それを 直接生活に消費するか或は市場に販売することによって国民の所得を増大し、その生活を 豊かならしあることにある。こうした最も基本的な意味よりすれば16世期末以来、ポルト ガル、スペイン、イギリス、フランス、オランダ等の諸国が、インドネシアに往来したと 云うことは、たしかにこの国を世界市場に誘引し、その生産力を増大せしめたことは否定 すべくもなかったところであろう。しかしながら時の経過と共に、インドネシアはその必 需品について、益々世界市場に依存するようになった。又その生産は西欧諸国の要求する モノカルチュア的な熱帯農産物に限定せられてきたし、更にはこれら農産物の世界市場に おける激しい価格変動によって、それへの順応性を失ったインドネシア産業は、絶えず不 安にさらされるに至ったのみならず、先進国との交易に当っては常に高い工業製品を、安 い価格でしか買わない農産物と交換を余儀なくされることによって、大きな不利益を蒙ら ざるをえなかった。而かもこうした産業経済が、インドネシアにおいて、又インドネシア に関して行われるものであるにもかかわらず、インドネシア人はその経営については何等 の支配、自主性をも認あられず、ひたすら隷属的な地位に立たされていた。
こうした植民地産業経済の依存性、単産性、不安定性、不利益性、非自主性を払拭し、
独立国としてのインドネシア経済を本格的に再建、開発するためには如何なる基本政策が とられなければならないか。それがために何人もが直ちに考えうる具体的、直接的な対策 は、モノカルチュアー化したインドネシアの産業峰済を、単に農産物、鉱産物の単産性よ り脱却せしめて、輸入代替産業としての製造工業をも併せ発達せしめること、すなわちイ ンドネシア産業の多様化を図ると共にインドネシア人自身による自営化を出来るかぎり逐 次促進していくと云うことである。勿論こうしたインドネシア人自身の手による産業経済 の独立化を図るためには、単に産業構造の根本的変革のみならず、更にその基礎づけとなる べき外部経済としての鉄道、道路、港湾、通信、電力、用水、ダム等の建設を必要とする であろうし、更に掘り下ってはこうした開発の最も深い根底となるべき教育、研究、文化 の再建も必要とされるであろう。 1 さればこそスカルノ旧体制においても、その晩年には初期の民族主義的、政治優先主義 的独善より離脱し、1961年より1969年にかけてのインドネシア綜合開発8ケ年計画を1960 年に作制した。この計画はA計画とB計画の二つめ部分よりなり、A計画においては綜合 開発のたあの374のプロジェクトを作定され・これが実現に必要とされる経費を生み出す ために金作農業、林業、鉱業、水産業、観光業を中心として8つのプロジェクトを含んだ B計画が樹立せられた。(註2)
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A綜合開発投資計画
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財 源 項 目
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i
石 油 }
政府取得分の輸出 [ i 外国石油会社の投資に関する政府収湘
錫輸出増 1
ア・レミニ_ム輸出増 1i ゴム輸出増 1
木材輸出増 ;
魚記入減 }
消費財売却収入 i I 資本財売却収入 i
国営蝶収益割当金 i
其,他 1
1
腰収入(莇ルピア)しレピア収入(莇)1
53.1 33.7 0。7 14.4 3.4 2.4 0.6
11O.8
46.0 16.0 32.0 26.O 12Q.0
…
i l l
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i
1
今このインドネシア綜合開発8ケ年計画は、Bプロジェクトにおいて、伝統的な外貨獲 得産業を振興して2億3千8百万ルピアの資金を稼ぎ、不足分の約9百万ルピアは外資の 援助又は導入によって賄い、総額2億4千万ルピアに上るAプロジェクトの多様化せる綜 合開発を8ケ年間に実現せんとするものである。しかるにAプロジェクトにおいては、唯 投下経費のみを計上して、その経済効果が測定されていないし、Bプロジェクトにおいて は、収入のみが計上せられて、それを獲得するための経費特に資本コストが見積られてお らず、純収入の額が不明である。たとえ食糧生産、衣料生産計画において、その生産目標 が設定せられているとしても、それらはインドネシアの経済的現実、実態を無視し且つ具
体的実施方法を何等準備しない、政治的色彩の濃い非科学的な計画にすぎなかった。しか のみならずこうした綜合開発について何等知識も経験も能力も持たない旧体制においては、
折角集められた開甕資金を非経済的な目的に暗々裡に浪費し、それがためにかえって激化 したインフレーションによって、何一つの実施をも見ずして計画は水泡に帰した。唯この インドネシア綜合開肇8ケ年計画の樹立が、インドネシアにもたらした積極的意義は、
(a)植民地経済を脱却するたあのインドネシアの綜合開発が、いかなる姿のものでな ければならないかを、おぼろげながらにも知らしめたこと。
(b)経済開発を実施するに当って、インドネシアに、如何に資本と技術と経営力が不 足しているかを、目のあたり見せしめたこと。
(c)かくして独立当初偏狭な民族主義的イデオロギーから、インドネシア化に急なる あまり、外資の導入に絶対的な反対的態度を示していた旧体制も、1962年以来「生産分与 方式」 (Prodμcts Sharing Systern)を実施して外国資本、技術、経営力の導入を図ら ざるをえない様に、その対外政策的態度を一変せしめたこと。
等にあったと云えるであろう。
かくてインドネシアの経済的現実を無視した、背伸した開発計画が、いかに空中に楼閣を 築かんとするにも等しいことを自覚したスハルト新体制は、緊急安定政策によって、イン ドネシアの経済が一応その正常な秩序を恢復したと見るや、あくまでも客観主義、合理主 義の立場より、インドネシア経済の本格的な建て直しと開発を徐々に実現せんとする目的 を以て、1969年4,月より新経済開発5ケ年計画を策定し、目下着々とその実施を進めつつ ある現状である。この新経済開発5ケ年計画は、集団援助方式をとった世界銀行の指導に 基づき、インドネシア経済の生産面と流通面を近代化することによって、インドネシア経 済の本格的な開発に着手せんとするものである。すなわちまず生産面においては食糧特に 米作を中心とする農業生産の外に、外貨獲得のためのゴム、コーヒー、油椰子、砂糖、玉 蜀黎、茶等輸出向金作農業生産の近代化と増産を最優先的にとりあげ、鉱業においては、
石油、錫、ボーキサイト、ニッケル、林業においてはチーク材、ラワン材生産の近代化を 図り、更に製造工業においては、紡績、セメント、肥料、タイヤ、食品加工、製紙等の近 代化に鋭意努力中である。又流通面においては、ルピア価値の安定をはかるため輸出入貿 易の均衡化をはかり、国内流通については、生産物の集荷、商品の輸送を円滑低廉ならし めるため道路、輸送機関の近代化をはかり、流通組織の自主化、市場価格の安定に懸命に 努力中である。
W 米作優先の農業開発5ケ年計画
インドネシアは光と水と熱に恵まれた国であり、インドネシアの中心たるジャワ島は、
数千年昔より稲作技術を文化として持ったアジア東南部のマラヨ・ポリネシア種族が、幾
インドネシアの経済開発と日本の企業 (1} 11
回にもわたらて移住しこの島をジャワ米の生産穀倉たらしめ一た島であるb事実今日ビヤ 号に乗って、ジャカルタよりバンドン、』1ジョ…クヤカルタ、ズラ犬やに東下するとぎ、1鉄道 沿線の両側には、至るところ広漠たる水田が限りなく展開している。それは幾千年にもわ 割る領民め汗と脂によって開発された歴史的・な遺産であり、fこの米産を基盤にして農耕民 族国家としてのマジヤバイト、シャイレンドラ、マタラム王国は繁栄し、、定着民族として
の幾多の社会的、政治的慣習や文化を成育せしめたひジャワの王国、士侯は農民より3分 の1乃至は4分の1を徴税としてではなく▽祭政一致の納米として奉納せしめ、ジャワ北 岸の港にまで運び出し、港に倉庫を作ってジャワ島以外の種族にこれを売り渡した。玉蜀 黍や、キャッサバや、サゴ椰子の常食よりも、ジャワ米のうまさを知ったカリマンタン、・
スラウエジ、その他東印度諸島の土侯、・住民は、競ってジャワ米を入手せんとして、看辛 料、象牙、真珠、ワニ皮、べつ甲等の特産品を、ジャワにもたらし、当時ジャワ海沿岸の
トウパン、グリセ等の海港は、ジャワ王朝にとって最も重要な交易根拠地として栄えた。
否ジャワ王朝の持っていた偉大なる米の輸出力は、「米つかいの経済」における経済的支 配力を意味するのみならず、そのことが同時に政治的な支配力さえも生んでいった。東印 度諸島の土侯は、ジャワ王朝に入貢し、それがやがて政治的な隷属関係に転落し、又マジ ヤパイト王朝時代には、毎日のように海外からの賓客が王宮を訪れ、クラトンはガメラン 音楽と舞姫による接待に明け暮れたが、こうした土侯、賓客の中にはジャワ文化の教養高 い舞姫を王妃として招請するものあり、こうした土侯と舞姫の縁組は、マジヤパイト王朝 の政治的支配力をいよいよ拡大せしめた。 (註3)
さて以上のごとく、王朝時代のジャワ島は、世界に誇る豊富な米の生産地として栄えた のであるが、しかしその後、オランダの植民地時代に入ると、インドネシア人の求めてや まない米よりも、西欧人の求める香辛料、砂糖、ユーヒー、煙草、ココ椰子等いわゆる金 作農業生産に重点が置きかえられ、ジャワ米の生産は相対的に軽視されるに至った。そし てこうした西欧人向けの植民地的モノカルチュアー政策は、20世期に入るに及んで漸く、
インドネシア人に米不足の状態を現出せしめ、第2次世界大戦とその後に続く独立斗争の 混乱は、遂いにジャワ人に必要な消費米の絶対量を割り、かっての米産王国を誇ったジャ
ワは、遂に米を輸入する必要に追込まれた。それはオランダの植民地政策が永い間、モノ カルチュアー的な輸出向金作農業に偏向し、米作に対する技術的開発を怠り、土地所有を 制限した、ながい歴史的過程の結果であると共に、第2次世界大戦ならびに独立斗争の惨 禍によって、米作田が荒廃に帰せしめられ、灌概、排水路、貯水池が、降雨によって埋も れたままに放置されるに至った結果であるとも云えるであろう。
しかるにジャワ島住民の今日における米不足と云うことに関連して、われわれはζこに 三つの重大問題を考慮しなければならない。まず第llま、ジャワ島における消費米不足は、
この島における高い人口密度とその激増率に相対的に大きく結びついていると云う事実で ある。1966年インドネシア中央統計局の発表によると、1966年末のインドネシア全領土の
人口総数は、1億9百59万3千人と推計された。わが国を凌ぐ大人ロを持つ国である。し かるにこの大人日のうち、その64%に当る7千94万3千人の人口が、インドネシア国土面 積の僅か7%にすぎないジャワ島に居住し、1平方キロ当り、300人と云うに至っては、ジ
ャワにおける人口の重圧が、如何に重大なものであるかは容易にこれを知ることができる。
否それのみではない。インドネシアの人口増加率は年々2.3%と算定されているが、この 率を以てしてさえも、ジャワの人ロは年々173万1千6百89人が増加しているのである。
こうした人口の過密と激増に対し、ジャワ米の生産は僅かにL9%の増加を示すに過ぎず、
住民の秀吟状態の中に年間100万トンの外米輸入を余儀ぢくされているのが今日の現状で
ある。
第2に考慮しなければならないのは、農村における土地所有制度の実態と、それからく る失;業と貧困と云う事実である。前述したジャワ島人口7千94万3千人のうち、その72%
は農村に居住しているのであるが、ジャワにおける農家一戸当りの土地所有は、平均僅か に1.9エーカーに過ぎない。一体にジャワ農民が農耕を営む場合、土地関連的に見れば、
彼等は三つの耕作地を持っている。一つは肥沃な土地に開拓せられた水田(Sawa)であ り、これは彼等の祖先がアジア南部より幾世期にもわたって移住してきたにもたらした下 膨法である。水田稲作はきわめて労働集約的な農法で、その生産性は日本の稲作(反当り 8俵)に比較すれば問題にはならないが、インドネシアの農業としては比較的生産性が高 い。 (反当り2俵〜3俵)。農具としては鋤,(すき)、鍬(くわ)、杷(まぐわ)、水牛、
牛を用い、植付は女子および子供等によって相互扶助的な集団作業を以て行っている。
第2の耕地は畠田(Tegalan)である。これは天水によって湿ほされるだけで、「岡穂」
と称する乾地稲作もしているが、主として玉蜀黍、キャッサバ、落花生、グリーンビーン ズ、馬鈴薯、さつまいも、唐辛子などの生活作物を作っている。生産性は水田の場合より も低い。第3は焼畑(Ladang)である。これは自然の叢林を切払い、それらを焼尽して そのあとを耕かすもので、土地は水田よりも肥沃であり、その生産性はより高い。しかし 土地の肥沃性が消尽されると、10年間はそのままにして再びその叢林化を待ち、他の叢林 焼畑に移動する農法であるから、水田のような定着農地とは異る。
さてジャワ島における農地は大体以上のごとく三つに分れているが、これらを通してジ ャワ農民の一戸当り所有地は、前述のごとく平均僅かに1.9エーカーであり、そのうち0.8エ ーカーが水田、1.1エーカーが棲家および牛小屋を含めた宅地と畠地である。従ってかく のごとき僅少の土地所有では、唯家族の生活消費物資を生産するだけが精々で、金作農作 物を生産するための土地の余裕もなく、将来の農業経営拡張に投下できる資金の貯蓄もな い。又このような僅少の土地で、いくら勤勉に働いてみても、常時彼等の労働を保障する だけの仕事もない。必然そこに現出するものは極度の貧困である。私はスマトラ、ジャワ の農村を視察中、いたるところで農民が、農薬は勿論のこと、僅かに5.6百ルピアの農器 具でさえも、それを買うのに困っている事実を、しばしばきかざれた。しかのみならず元 来インドネシア入特にジャワ人は、アジアの他の民族と同じく家族主義原理を強く守って
インドネシアの経済開発と日本の企業 (1} 13
いる民族である。又彼等は古来よりの農耕民族として、あまり他地方に移住することを好 まず、自然各単位家庭の中には多くの家族を抱えている。勿論僅少の所有地の上に仕事を 見出しえない彼等の中の少なからざる者は、隣…接の農園に季節労働者として働くか、園芸、
家畜番、家内的手工業に働いて一家の収入補助をはかっているが、 しかしそれは彪大な 数(1200万)による潜在失業者の存在を意味する。第3にこうした農村における貧困とお びただしい潜在失業者の存在は、これに思想的なものを吹き込めば、直ちに社会不安、政 治不安の温床となりうる。1955年インドネシア初の総選挙以来、共産党が躍進に躍進を重 ねていったのも、こうした農村の貧困と物価上昇に伴う生活不安に喘いだ農民層に\大き
く喰入ったためであった。
今インドネシア人の古来より最も嗜好してやまない米食、特に戦後最も強く肌身に感じ てきた食糧不足を永久に解消すると共に、農村における潜在失業者にその労働の機会を 与え、農民の経済を豊かにすることによって、その社会的不安の根源をなくするためには・
早急な工業開発によるよりも、インドネシア人が伝統的に慣習してきた、米作を中心とし た食糧増産を近代化し、拡大化することが、何ものにも増して最も先行的に実施されなけ ればならない開発計画であることは、以上のごとき事情を顧みるとき、自ら明らかとなり
うることである。
かくて新農業開発5ケ年計画下の現在において、世界銀行、アジア開発銀行の指導下 に、今日インドネシアが最も力を入れている、まず第1の近代化施策は、米作技術の改善 である。すなわち現在までのところ、インドネシア全地域において栽培されている稲苗は、
幾百年の昔より慣行的に栽培され高温多雨、暴風雨に必ずしも強くない品種で、しかも、
もち米とうるち米とが硬軟入りまじったものが植付けられているが、草丈は低いが分けつ 率の高いlR5号ないし8号にとって代らしめることが研究されている。しかしこれがた めには苗代の作り方から指尊してかからねばならないのである。又施肥については伝統的 な草木有機質を用いてきたが、米作の生産性を高めるたあに、近代的な農薬の増投が漸 次進あられ、スイスのCIBA製薬による肥料の配合指導から初めた(Gotong−Royong Intensification)計画が着々成功を収めている。しかしインドネシア人は元来その食料、
食器、洗濯物を河流、肉水路で洗う習慣があり、農薬の奨励にはこうした社会的衛生環境 の改善から進めてかからねばならない。その他植付、耕転、除草、灌概、排水、などにつ いては日本農業の技術指導が着々進められている。
しかしながら米作を中心としたインドネシアの新農業開発5ケ年計画にとって、最も重 要なことは.用水ダムを新たに建設することによって、スマトラ東南部、カリマンタン南部 に広大なる耕地を造成する計画である。元来ランポン、パレンバン州にまたがるスマトラ 東南部は、中央火山台地より押し流された肥沃な沖積土によって広大な大平原が展開さ れ現在は葺に似たアラン・アラン(Alang−alang)の繁るにまかされているが、これに 用水ダムを建設して水利を増大すれば、まことに好適な水田として300万ヘクタールの水田、
ジャワの水田総面積にも匹敵しうる米田が造成されうる地域である。又カリマンタン西部 は古来より中国人の移民によって開拓された広大な米作地帯があるが、これから南部にか けて一帯には、用水ダムを建設すれば、米田として好適な平原が限りなく続いている。こ れらスマトラ東部、カリマンタン南部の水田造成には、更に過剰人口のジャワより年々20 万人の国内移民が考えられており、これが実現すれば将来インドネシアにおける一大穀倉 地帯となることが期待されている。吐こうしたスマトラ東部、カリマンタン南部の造成水 田に現在のジャワ水田面積300万ヘクタールを加えれば、インドネシアの水田総面積は、
1300万ヘクタール、これから産出される米収獲は実に2200万トンに達するものと;期待さ れている。この数量は正に東南アジアは云うに及ばず、世界第一の米産地を意味するもの であり、そこには古代より中世にかけてジャワが米によって栄え、又米によって近隣を制 圧した時代の夢が秘められている。
V 外貨獲得のためのモノカルチュアー生産 11)金作農作物の増産
かくてインドネシアの新経済開発5ケ年計画の先行的一環としての農業開発は、米作の 近代化とその増産を中心として進められつつあるのであるが、しかしそれと共に植民地以 来導入開発されてきたゴム、ココナッツ、コーヒー、タバゴ玉蜀黍、砂糖、茶、胡椒等 いわゆる金作農作物(cash crops)の増産にも力をいれている。けだしこれらの農作物 は輸出二二産品として、石油、錫とともにインドネシア国家財政収入の半ばを占め、又イ ンドネシアの外貨獲得に重大な役割を果すものであるからである。
それでは独立以後、これらの金作農作物は、インドネシアにおいて、一体如何に生産さ れてきたのであるか。総体的に云ってインドネシアは到る所豊かな光と熱と水に恵まれ、
熱帯性農作物はどこにでも営まれていると云ってよい。しかしながら、地勢、地質や農作 物の性質及び営農技術、人口の関係からして、まずこれを地域的に大別すれば、ジャワと スマトラその他の諸島とでは、大いにその作付を異にしている。すなわちジャワ島は比較 的山岳、高原も少なく、広大な沖積土の平原に恵まれ、又多数の人[コを擁しているから、
古来米作、甘藷、玉蜀黍、茶、等、人手すなわち労働を多く要するいわゆる集約農業が高 度に発達しているのに対し、スマトラ島等は山岳、高原多く、全体的には平原に乏しく、
人口又比較的稀薄であるから、天然自然の生育力にまって、唯果実だけを収穫すると云 う、人手すなわち労働のかからない、いわゆる粗放農業としてのゴム、コーヒー、コブラ 椰子、胡椒等の栽培が発達している。唯スマトラ東海岸のオーストクスト地域におけるデ
リー煙草の栽培がこの例外をなすのみである。
次にこれを営農規模別にみると、今日インドネシアの金作農作物は小土地所有者と大農 園所有者によって営まれ、前者では主としてゴム、ココナッツ、砂糖、コーヒーが栽培せ られ、後者では絶えず人手、管理を要する煙草、茶等が栽培されている。1957年インドネシ アはオランダ人所有の資産を悉く摂回し、大農園はその収益を見込んで国営としたが、そ
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の経営力に乏しかったたあ失敗し、漸次民間人の経営に移した・小土地所有者は長年自己 の労働によってその所有権を獲得したものか、あるいはオランダ人の所有地を戦後の混乱 にまぎれて侵食したものである。
ゴム インドネシアの金作農作物の中、その最たるものは勿論ゴムである。ゴムはマ レー半島での移植が成功を収めた後、今世期の初頭、インドネシア特に対岸のスマトラ に大農国方式で導入されたものであるが、その後漸次小土地所有者によっても栽培せられ るに至った。元来ゴムの木は土質に関係なく、又温かい沿岸の平地から4500フィートの高 地に至るまで栽培が可能であり、且つある程度まで放任しておいてもよく育つ植物であ る。従って大資本を持たない小土地所有者は、ゴムの市場価格が騰貴した時は採忙し、下 落している時はそのままにして貯えうると云う、農作物には珍しい性質をもっている。こ うしたゴムの特殊性を利用して経済的に効果をあげているのが、小土地所有者である。唯 これらゴムの木の再植には莫大な資金を要するので、大農園の経営者でないと、原価計算 的に大規模且つ有利にこれを行うことは出来ない。現在インドネシアのゴム栽培において、
小土地所有者の総:数は約loo万人、320万エーカー、大農園経営者総数は700〜950人、130 万エーカーの栽培を行っていると見られている。この中、小土地所有者の3分の2はスマ
トラ特に東部沿岸に、残りはカリマンタンに所在している。(註4)
ココナッツ ゴムに次いで輸出向農作物として重要なものはココナッツである。云うま でもなくココナッツは、その果肉を乾燥してコブラとし、それからフライ油を製造するも のである。木は土着民の建築材料、マット、バスケットの製作に用いられている。ココナ ッツは軽い浸透性の大きい土質を好み、水辺から高度2000フィートの高地に達するまで 至る所に育ち、家屋敷又はその附近に100本位栽植しておけば、インドネシア土着人の低 い生活なら優に支えられると云われている。但し1エーカー当り生産性は低いので、肥沃 な高価な土地では栽培されない。
コーヒー コーヒーの栽培は主としてスマトラ島で行われている。しかしこの栽培は小 土地所有者にとっては、決して常時不断に行われているのではない。コーヒーの世界市場 価格が下落すれば、彼等は米作に転じ、価格が騰貴してくれば再びコーヒー栽培に転ずる。
しかし大農園の経営者は一般に小土地所有者とは異なり、科学的な方法でこれを栽培して いる。すなわち彼等は栽培の適地を選び、土質を改良し、施肥を十分にし、除草、灌概を 本格的に行っている。
タバコ インドネシアのタバコ栽培は、スマトラの東海岸デリー(Deli)地区及び中部、
東部ジャワにおいて大農園方式で盛んに行われている。しかし中部、東部ジャワでは小土 地所有者で乙れを栽培しているものも少くない。タバコの農園開墾並びにその後の栽培管 理には、不断の労働を必要とする集約農業である。スマトラのごとき比較的人口稀薄な所 で、どうしてこの様な集約農業としてのタバコの栽培が盛んになったのか、それはこの地 区が、西南方トバ高原台地より吹きおろされた、肥沃な火山灰によって、広大な平原を形
成し、且つ温度、降雨量共にタバコの栽培に適していたこと。並びにスエズ運河の開通に よって、マラヅカ海峡の航行が漸く賑かになった1863年、オランダの煙草仲買人の息男 Jacobus Nienhuysが〜賢明にもこの地区に着目し、煙草の開発輸入を企て、多く、の華 僑労働者およびミナンカバウ地区よりの移住労働者を集めて、タバコの大農園を開拓した 乙とに初まるものである。
砂糖黍 砂糖黍の栽培には肥沃な土地と適当な乾季を必要とするが、中部及び東部ジャワ はこうした砂糖黍の栽培には理想に近い条件をそなえており、西欧資本による大農場、土着 人による輪換栽培は、古来この地をしてジャワ糖の豊富な産地として知らしめてきたとこ
ろである。戦前1930年には大農園工場だけでも290万トンを生産、220万トンを輸出して いたが、戦後の1960年には生産はわずかに70万トン台に低落し、1967年にはジャワ島が砂糖 を輸入するという状態に陥ってしまった。その主なる原因は、戦後の食料不足によって甘 藷畑が陸稲その他の食糧農作物に転換されてしまったこと、製糖工場の技術要員が半減(52 工場に対し25工場だけしかいない)したことに求あられる。しかしながらインドネシア農 業及び工業の近代化に当って、この伝統あるジャワ糖生産の復活を忘れてはならない。若し.
現地に必要な資本や技術要員が不足しているとすれば、わが国がかって台湾において経験 した技術を生かして、開発輸入の合弁企業を考えることも、今後必要となってくるであろう。
茶 インドネシアの茶は西部ジャワのボゴール州、プレアンガー州にまたがる高原台地 丘稜に産する。一体にこの地域は火山帯による複雑な地形と高原、低地を対象的に持って いる点で、むしろスマトラの地勢に類似し、その延長とも見られるところである。且つ気 候雨量共に茶の栽培に適し、年中不断に新芽を出し、高度40QOフィートより6000フィート に至る高地で最も良質の茶を産する。この地方に初めて茶の種が輸入されたのは1826年中 国からで、その後アッサム地方より別の一般種が輸入せられ、1835年には早くもバタビヤ よりジャワ茶の輸出が行われ、ロンドン市場では正規の相場が立てられた。今日ではジャ ワ茶は東部ジャワ及びスマトラ西部でも栽培せられているが、元来茶の栽培は除草、施肥、
転耕から茶摘み、製茶、包装、荷造りに至るまで年中休みなく人手、労働を要するもので あり、最も労働集約的な農業と云えるであろう。しかしこれらの労働は西部ジャワ低地よ り移住し定着するスンダ人によって十分にまかなわれている。(註5)
胡椒 辛料としての興野は香料としてのニクズク、J字と共に古くはモルッカ諸島に産 し、これを求めて来航したポルトガル人、オランダ人をして東印度諸島を世界史上に登場 せしめた歴史的な金作農作物である。しかし今日では胡駅は南部スマトラ、バンカ島、西 部カリマンタンで多く栽培せられている。元来胡淑は豆科の蔓草で、これを栽培する時に は、まず支柱となるべき喬木を植え4〜5冷して適当な高さになった時、その根元に胡椒 を植えつければ、後は放任しておいても、自然の光と熱と水によって蔓草は延び、捲きつ いて生長し年々実を成らすから、これを採取乾燥して胡椒の粉末にするだけである。従っ てその栽培は人手、労働のかからない粗放農業であり、人ロ密度の低い所でも十分栽培で
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きるものである。然し胡椒の栽培は特定の侵透性ある土質と気候を必要とするものである から、その収益率が高いにもかかわらず、どこでも栽培できると云うものではない。
玉蜀黍 玉蜀黍はキャッサバ(澱粉)と共に中部、東部ジャワ、マズラ島、小スンダ列 島、スマトラ特にマズラ島において最も盛んに栽培されている。けだしマズラ島は山岳群 は殆んどないが土地が回せているため米作に適せず、米はぜい沢品と考えられ、玉蜀黍を 作ってこれを主食とする外仕方がなかったからである。インドネシアにおいては玉蜀黍は 植付から採取までわずか3ケ月余りで収穫され、キャッサバ等に比較すると、はるかに短 期間に取り入れできる長所を持っている。尤もインドネシア人は本来的には米食に対する 強い嗜好を持っており、玉蜀黍などは産業的にあまり重要な作物であるとはされてこな
かった。
しかるにインドネシアの風土と、インドネシア人の玉蜀黍栽培に関するこの古い伝統 とは、今日世界市場の変化によって、今や玉蜀黍の栽培がインドネシアにとって重要なる 輸出向農作たらしめんとしている。
すなわち後述するごとく、わが三井物産株式会社とインドネシアのコスゴロとの合弁事 業によって、ランポン州スリバウオノを中心とする15000ヘクタールに上る玉蜀黍の大農 場が開拓され、その生産物は配合飼料、澱粉原料としてわが国に全部輸出されることとな
った。
さて以上の如くインドネシアの輸出向金作農作物は、ゴム、ココナッツ、コーヒー、タ バコ、砂糖黍、茶、胡鰍、玉蜀黍など各般にわたるものである。而してこれら金作農作物 の殆んど大部分は、オランダ植民地時代に導入、開発されたものであり、それだけに農業 技術的には西欧の影響をうけて、可成り早くより近代化の途を辿ってきたものと云って よい。しかるに西欧企業がこれらの金作農作物を大農園形態において経営してい#時代は ともかく、戦後インドネシアがゴム大農園の重要部分を除いて、これら農園の大部分を 摂取し、自らの手によってこれらを経営することとなると、資本的にも経営的にも殆んど その力のないインドネシアにおいては、彼等がその座につけば従前通りの経営成績をあげ、
莫大な収益をあげうると云うものではなかった。戦争と独立斗争の惨禍をうけて、経済 の下部構造は破壊され、インフレによって公共料金は増徴され、米価高に基づく賃金の昂 騰、肥料の不足及び世界市場価格の下落などの諸原因が相絡みあって、大農園といわず、
小土地所有者と云わず、戦後インドネシアの金作農作物の生産は荒廃に帰し、』その回復は 著しくおくれている。
しかしながらこれら金作農作物の生産は、一方石油、錫、ボーキサイド、ニッケル、銅 と併せて、インドネシア輸出総額の70%を占め、外貨獲得のための主要産物であるのみな らず、インドネシア財政収入の過半がこれら輸出品ぺの関税その他の課税によって賄われ ているのであるから、これらの生産を速やかに回復し、進んでこれを近代化することは、
インドネシアの経済開発にとって、きわめて重要な課題をなしていることは否定できな