• 検索結果がありません。

─在日南米人はなぜ急減したのか─

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "─在日南米人はなぜ急減したのか─"

Copied!
11
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

『人文コミュニケーション学科論集』14, pp. 1-11. © 2013茨城大学人文学部(人文学部紀要)

─在日南米人はなぜ急減したのか─

稲葉奈々子 樋口 直人

要約

 南米から日本へのデカセギは1980年代後半からはじまり、2008年まで 増加し続け、2009年のリーマン・ショックによって急減した。急増した 要因は、南米から日本に労働者を斡旋する会社の誕生によってデカセギが 制度化されたこと、「単純労働者の導入を認めない」ことを方針とする日 本政府が、表向き親族訪問であるとして南米からの労働者の受け入れを追 認したことにある。20年間にわたって、デカセギ労働者は日本の派遣労働 市場に組み込まれたまま、正規雇用に就く機会が閉ざされ、上昇移動を果 たすことができなかった。政府も「労働者」を受け入れたのではないとい う建前により正規雇用に就労するために必要な日本語研修など必要な措置 をとらなかった。結果として、リーマン・ショック後に南米人の約半数が 失業した。「労働者」として公式に受け入れる政策をとらなかった政府の 無策により、経済危機のつけを支払わされたのは、南米人労働者であった。

キーワード

:国際労働力移動、デカセギ、在日南米人、経済危機、

      社会関係資本

1.

問題の所在

 本稿の目的は、「失われた20年」という観点にもとづき、南米から日本へのデカセギの見

取り図を描くことにある。日本は、20世紀初頭から1970年代前半まで、移民の送り出しを

政策的に行う国だった。日本から渡った移民とその子孫のほとんどは、アメリカ合衆国とブ

ラジルをはじめとする南北アメリカに居住しており、2004年推計で260万人に達している

1

そのうち150万人程度が南アメリカに住んでいたが、1980年代後半から南アメリカから日本

へのデカセギが始まった。このデカセギの物語は、図1が示すように大きく2つのパートに

わかれる。まず、1990年前後に急増してから2008年まで日本の南米人人口は増加し続けた。

(2)

次に、リーマン・ショックによって南米人人口は急減し、2011年末のブラジル人人口はピー ク時の3分の2になった。その背景には2つの要因があった。

 第1は、古典的なプッシュ−プル要因に関わる。1990年前後には日本が好景気に沸く一方、

南米諸国は債務危機とそれに伴うインフレーションで経済が破綻していた。当時、日本では

1ヶ月3000 ドル以上の賃金を得られた一方で、南米では教員や自作農といった中産階級でも 1ヶ月の収入が100ドルに満たないこともあった。この南米と日本の間にあった賃金格差を

つないだのは、南米の日系社会であった。1980年代前半に南米から日本に渡って働いてい た一世の帰還移民が、再び南米に戻って斡旋会社を立ち上げ、南米から日本の工場へと労働 者を送り込むシステムを作り上げたのである。

 第2は、こうした労働力需要を追認する移民政策の変更である。日本の移民政策は、戦後 以来現在まで一貫して「単純労働者の導入を認めない」ことを基本方針としている。しかし、

1990年に施行された新入管法以降は実質的に方針を転換し、「日系人」と「研修・技能実習

生」という2種類の非熟練労働者を導入した。日系人は親族訪問のため、研修・技能実習生は 技術移転のための在留資格であり、公式には労働者受け入れではないが、実質的には工場労 働に従事していた。「サイドドア」からの非熟練労働者受け入れといわれる所以だが、後述 するように法的には労働者としてではなく受け入れた点が重要である。

 本稿では、これら2つの変数  労働市場と移民政策  との関係で20年間のデカセギの 歩みを振り返り、リーマン・ショック以降の南米人人口の急減を説明する。ただし、日本に は公的機関が行った国籍別の調査結果や統計がほとんど存在しない。それゆえ、我々がア ルゼンチンと日本で2005〜2011年に実施した367人の日本就労経験者に対するインタビュー

図1 在日ブラジル人・アルゼンチン人人口の推移 出典:法務省入国管理局『出入国管理統計年報』各年次版

(3)

データをもとに、過去20年間の南米人労働市場の変化を分析する

2。すなわち、以下で用い

るデータは、南米人人口の多くを占めるブラジル人ではなくアルゼンチン人のものである。

図1が示すように、アルゼンチン人人口はブラジル人よりはるかに少ないが、南米人の労働 市場はきわめて類似しているため、本稿では南米人全体の状況を分析するデータとして用い る。

2.

停滞する南米人労働市場

 リーマン・ショック直後の2008年10月に3.8%だった日本の失業率は、2009年7月に過去50 年で最悪の5.6%まで上昇したが、欧州や米国に比べれば軽微な影響だったといってよい。

国全体の雇用に及ぼす影響は相対的に大きくなかったにもかかわらず、リーマン・ショック 以降に多くの南米人が帰国の途についた。これは、日本全体での影響が大きくないとして も、南米人に失業が集中してコミュニティが破壊される程度にまで影響があったことによる。

日本では、国籍別の失業率を集計していないが、2009年に複数の自治体が行った調査結果 などをみる限り、南米人の約半数がリーマン・ショック後に失業したものとみられる(樋口

2010)。

 OECD全体の状況をみると、経済危機が移民に及ぼす影響がより可視的なのは危機が早期

に始まった国であるという(OECD 2009: 17)。アイルランド、スペイン、イギリス、アメ リカがこれに該当するが、日本ではブラジル人を初めとする南米人に経済危機のしわ寄せが 集中した点で特異である。なぜこのような失業のギャップが生じたのか。

 まず、輸出依存度の高い自動車・電機産業でほとんどの南米人が雇用されていたことが挙 げられる

3。日本経済は、リーマン・ショックによる金融への影響はほとんどなかったが、海

外での需要減と急激な円高により製造業が輸出不振に陥った。落ち込みがもっとも激しかっ た2009年1〜3月には、自動車生産台数は前年比で半分(320万台から160万台)に、輸出台 数は3分の1(180万台から67万台)近くになっている(図2参照)

4。つまり、国内販売より

も輸出の方がはるかに大きく落ち込んだわけであり、その意味で輸出産業がリーマン・ショッ クの影響を受けていることは間違いない。しかし、こうした産業で働く労働者が一様に解雇 の憂き目にあったわけではないことは、失業率がそれほど上がっていないことからも明らか である。

 ではなぜ南米人だけが集中的に解雇されたのか。日本の製造業には、正社員−契約社員

(パート)−派遣社員というヒエラルキーがあり、南米人のほとんどはもっとも不安定な雇

用の調整弁たる派遣社員だったからである。移住労働者が、First fired, last hiredといわれる 不利な雇用状況にあることは、世界的に共通する常識ともいえる(Taran 2009)。その意味で、

南米人が派遣社員として日本の労働市場に包摂されているのは、特に珍しいことではない。

(4)

問題は、南米からの労働移民が始まってから20年を経ても、派遣社員から脱出できないこ とのほうにある。移民労働に関する支配的な学説である「移民と同化仮説(Immigration and

Assimilation Hypothesis)」では、移民当初は国民との賃金ギャップが大きいが、滞在期間が

長くなるにつれて縮小するとされてきた(Chiswick 1978)。移民先に長く住めば言葉やスキ ルを身につけ、より待遇の良い仕事につけるという人的資本論の前提が背景にある。

 しかし、日本の南米人の場合には不安定な派遣労働に固定化され、労働市場での上昇移動

は実質的になかった。図3は2000年代に自治体が行った調査結果であり、これをみると移民 開始後15年以上を経ても派遣労働者が多数を占めていることがわかる。その意味で、リーマ ン ・ ショック後に起きた南米人の大量解雇は、派遣労働への集中がもたらす構造的必然とし て発生したのである。

 しかも、表1をみるとわかるように、1990年以前と2001年以降で派遣労働に従事する比率 はほとんど変わらない。1990年代だけ直接雇用(非正規)の比率が高くなっているが、こ れは90年代前半には日本の労働需給が逼迫していたことの反映である。その後は、時間の経

2 日本の自動車生産・輸出台数の月別推移 出典:自動車工業会調べ

3 在日ブラジル人の職業上の地位

(5)

過と共に上昇移動を遂げることもなく、派遣労働が3分の2を占めたまま2008年に至っている。

これは2000年代になって来日した者が多いからということではなく、長期間日本に居住し た者についても同様であり、集団全体として派遣労働から脱出しえていない。それゆえ、正 社員あるいは自営に進出できた者の比率は、期間を通して変化がなく、非正規雇用が9割を 占めるという状況が続いてきた。

 すべての移民集団が滞在期間に比例して上昇移動するわけではないが、移民研究上の「常 識」からすれば、在日南米人は上昇移動する条件を本来は持っているはずであった。まず、

移民受入れに関して制限的な日本にあって、南米人は「日本人の子孫」という血統原理によっ て有利な在留資格を付与された。すなわち、南米人はどのような仕事についても良いし、ビ ザの更新も何度でも可能で、家族単位で滞在できた。他の移民であれば、日本人と結婚する か10年以上滞在して定職を持たない限り、これと同等のビザを得ることはできない。それに 加えて、南米からの移民には日本生まれで南米に移民し、日本に戻った帰還移民が一定割合 で含まれる。彼/女らは日本国籍を持ち日本語に堪能であるため、他の移民より労働市場で 優位な立場にある。彼/女らは、 ポルトガル語やスペイン語もできるため、南米国籍の二世・

三世の移民にとっては自らを助ける有力な社会関係資本となりえた。

 こうした有利な初期条件にもかかわらず、なぜ南米人は20年間派遣労働のまま上昇移動を 果たすことができなかったのか。この問いに答えることで、我々は移民の社会移動はもちろ ん日本の移民政策についても有益な知見を得ることができる。というのも、リーマン・ショッ クによる南米人の大量解雇は、欺瞞的な移民政策の帰結にほかならないからである。

3.

失われた

20

 南米人が派遣労働から脱出できなかった構造的要因として、過去20年間で非正規雇用自体 が増加したことが挙げられる。1990年代半ば以降、日本の経済は長期不況に陥ったにもか かわらず、南米人労働者は増加し続けていった。というのは、好況期と不況期では南米人を

表1 就労開始年×職種

  派遣 直接雇用(非正規) 正社員・自営 合計

N N N N

-1990 257 65.4 107 27.2 29 7.4 393 100.0

1991-2000 194 50.1 156 40.3 37 9.6 387 100.0

2001- 132 65.3 50 24.8 20 9.9 202 100.0

Total 583 59.4 313 31.9 86 8.8 982 100.0

カイ二乗検定, p<..01

(6)

雇用する論理が違ったからである。南米からの移民の初期である1990年前後には、移住労 働者は絶対的人手不足ゆえに南米人は歓迎された。それが変化したのが不況に入ってからで あり、南米人は人手不足を解消するというよりは、需要の変動に応じていつでも解雇できる フレキシブルな派遣労働者として包摂されていった(Higuchi and Tanno 2003)。

 だが、こうした構造論的な説明では、南米人が派遣労働に組み込まれる要因は解明できる が、彼/女らがそこから脱出できなかった要因は明らかにしえない。後者について議論する に際して、本節では前述の調査データをもとに、獲得した職を規定する人的資本と社会関係 資本に着目する

5。まず人的資本に関しては、学歴や前職は職種と関係がなかった。唯一有

意な関連があったのは日本語能力であり、表2は日本語能力が一定以上でないと正社員・自 営になるのは不可能であることを示す

6。日本語能力に比例して派遣労働者の比率が下がり、

ネイティブ・スピーカーの場合派遣労働は40%と、「できない」や「少し」の半分以下にな ることも確認できる。その意味で、日本語能力が十分でないことが、南米人の上昇移動を阻 害しているといえるだろう。だが一方で、日本語能力が「仕事で使えるレベル」と「ネイティ ブ」でも、正社員・自営になれるのは1割程度でしかない。ここからいえるのは、日本語能 力は上昇移動のための必要条件ではあるが、十分条件とはいえないということである。

 社会関係資本をみると、表3が示すように求職時の援助者と職種には密接な関係があっ た

7。アルゼンチンの旅行社を経由した場合ほとんどが派遣労働に従事する結果となってお

り、南米から日本の派遣会社に労働者を送り込むシステムができあがっている。同じ移民同 士や家族・親族といった移民ネットワークを活用した場合、派遣労働の比率は下がるものの、

正社員・自営の仕事に結びつく確率は低い。それとは対照的なのが日本人を介した求職で あり、派遣労働は8%しかない一方で正社員・自営は40%近くに上っていた

8。社会関係資本

は、「ネットワークその他の社会構造に帰属することを通して得られる利益を確保する能力」

(Portes 1998: 6-8)という定義からして求職活動を促進する働きを持つが、表3の結果は社会

関係資本の質によって得られる職が明確に異なることを示す。すなわち、家族や移民ネット

表2 日本語会話能力×職種

  派遣 直接雇用

(非正規) 正社員・派遣 合計

N N N N

できない 95 86.4 15 13.6 0 0.0 110 100.0

少し 38 86.4 6 13.6 0 0.0 44 100.0

日常会話程度 104 77.0 28 20.7 3 2.2 135 100.0 仕事で使えるレベル 201 59.6 93 27.6 43 12.8 337 100.0 ネイティブ 145 40.7 171 48.0 40 11.2 356 100.0

合計 583 59.4 313 31.9 86 8.8 982 100.0

カイ二乗検定, p<..01

(7)

ワークを介して得られる職は、同質的な集団からの情報ゆえに、それまでと同じ職になる可 能性が高い。よりよい職に関する情報や権限を持った者、すなわち自分より社会的地位が上 位にある者でなければ、有効な社会関係資本とはならない(Lin 2001)。この場合には、正 規雇用が過半数を占める日本人との接点が決定的に重要ということになるだろう。

 人的資本と社会関係資本と職種の関連を併せて考えると、日本語ができることが上昇移動 の必要条件であるが、「良い職」へのアクセスを持つ社会関係資本がなければ十分条件とは ならない。表4をみると、過去20年間でこうした社会関係資本が蓄積されてこなかったこと がわかる。社会関係資本自体は、時期によって一定の変化があり、斡旋組織に対する依存度 は1991年以降大幅に低下した。その分、家族・親族や職安・メディア・自力が増加している。

1990年以前には単身が多かった移民も家族・親族に頼れるようになり、また自力で探した

りメディアやハローワークのような日本の制度を使えるようになったということであろう。

しかし、表3で上昇移動に決定的な重要性を持つ日本人が求職を助けた比率は、20年間でほ とんど変化がない。その結果として、図2でみたような派遣労働から脱出できない状況が続 いてきたのである

9

表3 求職経路×職種

  派遣 直接雇用

(非正規) 正社員・自営 合計

N N N N

斡旋組織 149 90.3 16 9.7 0 0.0 165 100.0

移民同士 121 53.5 96 42.5 9 4.0 226 100.0

家族・親族 119 64.0 54 29.0 13 7.0 186 100.0

日本人 6 7.8 41 53.2 30 39.0 77 100.0

職安・メディア・自力 64 37.2 80 46.5 28 16.3 172 100.0

合計 459 55.6 287 34.7 80 9.7 826 100.0

カイ二乗検定, p<..01

4 就労開始年×求職経路

-1990 1991-2000 2001- total

N N N N

斡旋組織 113 33.3 31 9.7 21 12.6 165 20.0 移民同士 90 26.5 94 29.4 42 25.1 226 27.4 家族・親族 67 19.8 77 24.1 42 25.1 186 22.5 日本人 29 8.6 35 10.9 13 7.8 77 9.3 職安・広告・自力 40 11.8 83 25.9 49 29.3 172 20.8

合計 339 100.0 320 100.0 167 100.0 826 100.0

カイ二乗検定, p<..01

(8)

 在日南米人の「失われた20年」は、かくしてもたらされた。最初は日本国籍を持った帰還 移民から始まり、1990年の新入管法により特権的な地位が付与された。それゆえ、日本に 移住労働者が大量に流入した1990年前後には、ニューカマーの現業労働者のなかでもっと も優位にあるとされたのである(稲上ほか 1992)。しかし表4が如実に示すように、南米人 は上昇移動に役立つ社会関係資本を蓄積できなかった。これは、長く日本にいても日本語力 が上がらない人が多く、それゆえ日本人との接点もなく移民ネットワークを介した派遣労働 の仕事しか得られないという結果をもたらしたのである。

4.

欺瞞的な移民政策の帰結

 前節までにみたような南米人の停滞状況は、彼らが「怠惰」だったからもたらされたわけ ではない。むしろ彼らは、共稼ぎで可能な限り夜勤や残業をこなして日本人より長く働くこ とにより、南米でそうだったのと同様に日本でも中産階級としての生活を何とか維持しよう とする勤勉な労働者だった(樋口 2011)。そうした彼らが日本語を身につけず、日本人との 交際がほとんどなかったのは、第一には職場の性質による。南米人は派遣労働者として日本 人とは隔離された南米人だけのラインに配置され、監督者も南米人がつくことが多かった。

そうした職場では日本語を話す機会はなく、日本語力も要求されない。長時間労働で日曜日 しか休みがなく学習時間がないという労働条件と相俟って、ポルトガル語やスペイン語だけ を使う生活が長い間続いてきた。むしろ、零細企業に単独または少数の同胞と雇用されるこ とが多い非正規滞在者の方が日本語能力が高く、転職に際しても日本人の助力を得るように なって生き残ってきたのである(樋口・稲葉 2009)。

 だが、問題の第2はこうした事態を放置していた移民政策の側に求められる。他の移民受 入国では、語学教育をはじめとする職業訓練にかなりの予算と時間をかけてきた(OECD

2007a, 2007b)10。日本の場合、リーマン・ショック後の大量失業を受けて、2009年に「就労

準備研修」という120-180時間の日本語教育を無償で始めるまで、南米人に対する語学教育 のプログラムは存在しなかった。日本の当局に、南米人の職業訓練が必要であるという認識 はまったくなかった。その結果、第一に挙げた市場原理だけが南米人の労働を支配し、公的 機関は20年間それを放置し続けたのである。

 こうした政策的無策が失われた20年をもたらしたわけだが、その原因は冒頭に述べた日系

人受け入れをめぐる正統化の論理にある。1990年の新入管法策定前は、好景気に伴う人手

不足が深刻であり、それに伴い移住労働者の受け入れが政策課題として議論されていた。そ

れにタイミングを合わせた法改定だけに、それが事実上の非熟練労働者の受け入れの役割を

担ったことは間違いない。だが、「単純労働者は受け入れない」という原則を変更しないた

めに、受け入れの名目は就労ではなく「親族訪問(日系人)」と「技術移転(研修・技能実習

(9)

生)」とされたのである。

 こうした日系人受け入れは、当初からサイドドアの労働力輸入として構想されていたわけ ではなかった(梶田・丹野・樋口 2005)。人手不足が深刻化する以前の1985年から、旧植民 地出身者である韓国人の在留資格が議論され始め、1991年には入管特例法により特別永住 者という資格を新設した。ここで重要なのは、第二次大戦の終了まで旧植民地出身者は「日 本国民」であり、戦後になって国籍を剥奪され外国人となった「日本人の子孫」とみなされ たことである。その際、もう1つの「日本人の子孫」たる日本人移民の末裔についても、旧 植民地出身者と同様の地位を与えるべきではないかという議論がなされた。その意味で、構 想段階での日系人の受け入れは労働需要の問題というよりは、ネーションフッドの問題とし て法務省には認識されていたのである(梶田・丹野・樋口 2005)。

 その後、新入管法の策定に際して労働力輸入が強く意識されていたことは間違いないが、

ネーションフッドという初発の論理は変えられることなく使われ続けていた。この間、「単 純労働者受け入れ」に一貫して否定的な法務省に対して、労働省はローテーション型の雇用 許可制度による労働者受け入れを構想していた。結果的に、出入国管理の所管官庁である法 務省の意向通り雇用許可制度は葬り去られ、「単純労働者は受け入れない」という原則は一 応守られたことになる(濱口 2010)。だが、実際には南米から自動車・電機工業へ大量の非 熟練労働力が流入した。法務省はこの原則を守るために、南米からの移民を「非熟練労働力」

ではなく「日本人の子孫」という公的な規定に固執し続けたのである

11

 その結果生まれたのは、労働者を受け入れたわけではないから労働市場への包摂に必要な 政策的措置も行わない、という政策的無策であった(樋口 2010)。この無策は社会保障でも 同様で、派遣労働者であるがゆえに多くの南米人が公的医療保険から排除されることとなっ た。公式には、南米人は親族訪問するついでに就労している存在にすぎず、就労のために特 別な措置は必要ない。すなわち中央政府も地方政府も、南米人の就労に関しては「日本人と 同じ扱い」という決まり文句を繰り返すだけで、語学教育や職業訓練の必要性すら認めてこ なかった。2008年になってようやく、ブラジル人がもっとも多く住む愛知県は、南米人労 働者が派遣労働に集中している事実を指摘し、「安定した職業生活が営まれるよう、外国人 県民(就労制限のない者)を対象とした職業訓練」の必要性を明記した(愛知県 2008: 52)。

だが、 時すでに遅し――この文書が刊行されてから半年後、 南米人は大量解雇の憂き目にあっ た。リーマン・ショックは、日本からすれば米国の金融恐慌の被害をこうむった形になるが、

それにより失われた20年のつけを一気に払わされたのは在日南米人であり、それは日本の政

策的無策が生み出した必然的帰結でもあったのである。

(10)

〔注〕

1 海外日系人協会による (http://www.jadesas.or.jp/en/aboutnikkei/index.html)

2 本稿で用いるデータは、アルゼンチン、日本、メキシコで実施した聞き取り調査に基づいており、

具体的には以下のようになる。(1)200579月、同年12月−20061月、同年79月、同年12

20071月、同年79月、同年12月−20081月、200879月、同年12月−20091月、同年 79月にアルゼンチンに滞在して聞き取りを進めた。(2)それと並行して、日本側でも聞き取り調 査を進めた。その過程で、日本を経由してメキシコで働く2名に対しても、200611月にメキシ コで聞き取りをしている(それ以外に、関係機関や留守家族などに対して35件の予備調査を実施 した)。調査に際しては、基本的に機縁法を用いており、その意味で人口全体と同じサンプルでは ない。具体的には、日系団体の関係者やコロニアの住民経由、日本のラテンバーやバーベキュー での調査依頼、日本とアルゼンチンでの聞き取り時に紹介を依頼するなどといった方法を組み合 わせている。実際、調査を手がけた当初は我々がスペイン語を理解できなかったため、日本語が できる者に聞き取りが偏っていた。調査後半になってスペイン語での聞き取りを重点的に進めた が、日本語ができて時間に余裕のある一世のネットワークに乗って聞き取りを進めたこともあり、

この偏りは解消されていない。調査に際しては、日本での職歴とそれぞれの求職方法を尋ねてお り、記憶が曖昧だったり転職回数が多すぎてわからないものなどを除き、982件の求職データを分 析する(ただし、国内での移動を分析する際には、国外で初職を決めたケースを除くため数が減っ ている)。

3 南米人の就労する産業について詳しくは、大曲ほか(2011)を参照。

4 日本自動車工業会調べ(http://jamaserv.jama.or.jp/newdb/index.html)。

5 ここでの知見は、多変量解析の結果でも支持されているが、統計手法を用いた詳細な分析につい ては別稿にて展開したい。

6 読み書きよりも会話能力のほうが説明力がかなり高いため、ここでいう日本語能力とは会話能力 に限定したものであることをお断りしておく。

7 ここでいう自力とは、自分で工場や派遣会社を訪ねて仕事を探す場合を指す。

8 ここでいう日本人とは、日本で生まれ育った者を指す。日本の一般労働市場へのアクセスをここ では重視するため、家族・親族であっても上記の基準に当てはまれば「日本人」として計数した。

具体的な事例としては、南米に移民していない伯父が仕事を紹介する場合などがある。

9 日本では、正社員は年功序列制度におかれるため初任給は必ずしも高くないため、フリンジ・ベネ フィットを含めない短期的な所得という点では正社員より派遣の方が高いこともある。そのため、

短期的に貯蓄して帰国を希望する者は、派遣からの脱出を考えなかったという側面もある。

10 こうした語学研修は、統合という名の下で同化主義的な意図を多分に含んでいることが多い。そ の点では注意が必要だが、日本では何もせず放置していることが問題である。

11 この経緯については、梶田・丹野・樋口(2005)を参照。ただし、2000年代後半になると「血統」

による受け入れを失敗とみなす認識が生まれ、日本語能力など異なる原理を導入しようとする動 きもある。このあたりの論理について詳しくは、濱口(2010)を参照。

文献

愛知県,2008,『愛知県多文化共生推進プラン』.

Chiswick, B., 1978, “The Effect of Americanization on the Earnings of Foreign-born Men,” Journal of Political Economy, 86: 897-921.

濱口桂一郎,2010,「日本の外国人労働者政策」五十嵐泰正編『越境する労働と移民』大月書店.

(11)

浜松市,2007,『浜松市における南米系外国人の生活・就労実態調査』.

樋口直人,2010,「経済危機と在日日系南米人  何が大量失業・帰国をもたらしたのか」『大原社会 問題研究所雑誌』622号.

    ,2011,「貧困層へと転落する在日南米人」移住連貧困プロジェクト編『日本で暮らす移住者 と貧困』現代人文社.

    ・稲葉奈々子,2009,「滞日イラン人の求職と転職  出稼ぎイラン人の軌跡・滞日編」『徳 島大学社会科学研究』22号.

Higuchi, Naoto & Kiyoto Tanno, 2003, “What’s Driving Brazil-Japan Migration? The Making and the Remaking of Brazilian Niche in Japan,” International Journal of Japanese Sociology, 12: 33-47.

稲上毅・桑原靖夫・国民金公庫総合研究所,1992,『外国人労働者を戦力化する中小企業』中小企業リ サーチセンター.

梶田孝道・丹野清人・樋口直人,2005,『顔の見えない定住化  日系ブラジル人と国家・市場・移民 ネットワーク』名古屋大学出版会.

Lin, Nan, 2001, Social Capital: A Theory of Social Structure and Action, New York: Cambridge University Press.

OECD, 2007a, Jobs for Immigrants Vol.1: Labour Market Integration in Australia, Denmark, Germany and Sweden, Paris: OECD.

    , 2007b, Jobs for Immigrants Vol.2: Labour Market Integration in Belgium, France, The Netherlands and Portugal, Paris: OECD.

    , 2009, International Migration Outlook: SOPEMI 2009, Paris: OECD.

大曲由起子・髙谷幸・鍛治致・稲葉奈々子・樋口直人,2011,「在日外国人の仕事  2000年国勢調査 データの分析から」『茨城大学地域総合研究所年報』44号.

Portes, A., 1998, Social Capital: Its Origins and Applications in Modern Sociology, Annual Review of Sociology, 24: 1-24.

静岡県,2008,『静岡県外国人労働実態調査(外国人調査)報告書』.

Taran, P., 2009, “The Impact of Financial Crisis on Migrant Workers,” paper presented to the 17th OSCE Economic and Environmental Forum.

豊橋市,2003,『日系ブラジル人実態調査報告書』.

(付記)本稿は、科学研究費による成果である。

参照

関連したドキュメント

1つ目は現状の把握が十分に行えていないケースです。例えば、会社全体の年次有給休暇取得率は高

日本労働研究雑誌 135 17.0% に激減した。  こうした労働組合の崩壊といっても良い状況にあっ て 2000

日本労働研究雑誌 1

たがってそれは近代的な労働関係を前提とする 「20 世紀的人権としての社会権」 による保護的規制とは性 格を異にする。

バーチャル・スクールの現状と課題 (1) - 米国の VS はなぜ失速したのか - 教職センター 宇田 光 目次 1

が始まった。この大会は本来のねらいは若手のアスリートランナーに円谷選手に続けと立ち上

ニタリングを繰り返す中で)発覚し、懲戒的に解