いま、なぜサティーか:経典主義と人権思想をめぐ る同時代的論争:1829‑1988
著者 田部 昇, TABE Noboru
雑誌名 明治学院大学国際学研究 = Meiji Gakuin review
International & regional studies
号 35
ページ 1‑33
発行年 2009‑03
その他のタイトル Widow‑Burning in India(Sati):Reflections on
the Contemporaneous Discourses,the Scripture
vs. the Right, During the Years 1829‑1988
URL http://hdl.handle.net/10723/1384
いま,なぜサティーか
*経典主義と人権思想をめぐる同時代的論争:1829-1988
田 部 昇
要 約
インドのサティー(sati)「寡婦殉死」は19世紀中葉までにはイギリスの功利主義,キリスト教的ヒュー マニズム,インド・ベンガル知識層のヒンドゥー社会改革思想によって否定された。サティーの行為とと もにその教義上の意味も否定される結果となる。インド総督W. ベンティンク卿による<サティー禁止法
―1829年>の公布がそれである。これは数千年に及ぶ「寡婦の生と死」を律したヒンドゥー社会の「社会 慣習」を排除することを意味する。
独立後のインドは「世俗国家」として発展の歩みを進める。しかし,1987年,タール砂漠に近いデオラー ラ村にサティーの火炎が立ち昇った。いわゆる「ループ・カンワール」(Roop Kanwar)サティー事件とよ ばれる20世紀末の驚愕の出来事である。インド独立の40年目にあたる年,信じがたいサティー事件であ る。159年振りに再び,<サティー防止法―1988年>が制定される事態となった。これは近代人権思想を 色濃く反映した立法処置である。しかし,「社会慣習」に内在する宗教的教理の復権を求める運動が進む結 果となる。ヒンドゥー原理主義という政治運動がそれである。そこにはサティーをめぐる伝統的「経典主 義」の復活,サティーの「政治化」という問題がある。本稿は1829年の「社会慣習」の排除・否定に影響 を及ぼした外在的思想,すなわち「キリスト教的ヒューマニズム」,その歴史的延長線に位置する「女性の 権利」思想,そしてフェミニズム(思潮)が1988年,再びサティー廃止法実現に大きく貢献した歴史的軌 跡を追う。その背後にはサティーをめぐる伝統的「経典主義」と「人権思想」の同時並存する思惟構造が ある。これは相反する,二つの思想,思考,行動の様式が同時代性をもつことを意味する。本稿はこの問 題にたいし,サティーの具体的事例からアプローチしようとする試みである。
はじめに
インドのサティー(sati)「寡婦殉死」はすでに,
19世紀前半の30年代に英領インドの大地からそ の姿を消した「社会慣習」と言われる(1)。しかし,
すでに過去の歴史上の現象とされたサティー慣習 は実は,独立インドの,現代の問題でもあるとい う状況が噴出する。1987年,ラージャスターン州 デオラーラ村にサティーの火炎が立ち昇った。こ のサティー事件の現場は州都ジャイプル市(Jaipur) に近い,人口一万人ほどの比較的豊かで,教育水 準も州の平均以上に高い村である。
寡婦ループ・カンワール(Roop Kanwar)は病死 した夫の遺骸とともに積み薪の火炎に包まれ,18 歳の短い生涯を終えた。新婚生活 わずか8ヶ月 の女性の死である(2)。この事件に端を発して再び,
サティーは現実の,しかも20世紀末,現代社会の 問題として国内外の注目と関心を呼び起こすこと になった。19世紀初頭のサティー論争が,コロニ アリズムの時代から独立国家,世俗主義の装いを もって再現した。このサティー事件は人々が,過 去の歴史として封印したサティーの根源的問題が 未解決であったことを教えた(3)。社会が興奮と情 緒からやがて解き放たれたころ,90年代後半に入 ると内外の研究者も冷静さと客観性をとりもどし,
広範囲の学問分野にわたり,複雑多岐にわたる研 究課題に取り込むことになる。それらは大別する と,寡婦個人の行為をめぐる教理上の解釈やその 評価という問題(宗教学,文化人類学),サティー を賛美・強要する伝統文化と村落社会の権力構造 及び政治過程(社会学,政治学),世俗国家におけ る宗教と伝統,現代社会における女性の位置づけ や理想像(フェミニズム),さらには,コロニアリ ズム,ナショナリズム,サティーの政治化(歴史 学)など,に及ぶ(4)。
これらの問題の多くは,19世紀前半,英領イン ドにおけるイギリス植民地統治の牙城,ベンガル 地方という特定地域を対象として繰り広げられた 多面的議論にその起源をもつ。1987年サティー事 件はその延長線上に位置される現代の課題である。
問題の核心はヒンドゥー社会にあるサティーの破 壊的慣習が儀礼の伝統として復活したのか,また,
この「社会慣習」は政治的・社会的レジームを超 え,消滅することのない時間的連続性をもつの か(5)。古来,インド社会に支配的な価値基準,「ヒ ンドゥー教典主義」と 19 世紀の植民地主義下の
「キリスト教的ヒューマニズム」,さらに19世紀 後半から今日に至る「女性の権利」と「フェミニ ズム」思潮はどのように交錯したか(同時代性問 題)(6)。サティーのイデオロギーや慣習を拒否す る行動,そしてこれを現代社会の規範として守ろ うとする行動。サティーの「政治化」という,イ ンド社会の根幹に触れる重大な問題が提起された のである(7)。
本稿は次のような分析の方法をとる。最初に 1987年ループ・カンワール事件に見るサティー概 念の本質を筆者自身の現地調査を通じて明らかに する。中世以降,歴史的に形式化された葬送<儀 礼>としての性格,もう一つの要件,サティー行 為の<社会的承認>の意味について筆者の解釈を 示したい(第一章)。つぎに,同じ分析の視点と方 法によって19世紀初頭の歴史事例をとりあげる。
ヒンドゥー社会の外側に位置するヨーロッパ人,
とくにイギリス人宗教者の見た個別具体例が主た る対象となる。時期は19世紀初頭,イギリスの帝
国主義拡張期,英領インドの<1829年 サティー禁 止法>制定にいたる期間を扱う(8)(第二章)。
ヒンドゥー社会を覆う伝統的「経典主義」のな かに身をおいたイギリス人宗教者達,とくに,イ ンド西ベンガル地方セランポル(Serampore)の福 音派宣教師団のサティーに対するイメージと概念 形成,リベラリズム思想のイギリス行政官との連 携,イギリス本国の福音派女性信徒達の組織的な 議会請願活動と在英領インド,セランポル宣教師 会への財政援助,女性宣教師の派遣・サティー反 対運動の展開,など歴史に隠れた諸事実を通観す る。またそれら相互の脈絡を筆者の解釈を加えて 評価したい(第三章)。つぎの課題は<サティーの 否定>を運動論として展開したキリスト者の理念,
「社会の公正」という課題,ヒンドゥー社会の内 なる改革家 ラーム・モハン・ローイ(Ram Mohan Roy)の反サティー運動,それぞれのサティー撲 滅にむけた思想と行動の脈絡を分析する(9)。最後 に,時代をこえて20世紀後半,ループ・カンワー ル・サティー事件に端を発する<1988年サティー 禁止法>制定の時期を扱う(10)。19世紀末から顕著 となる社会改革運動は反植民地主義への抵抗運動 として進展するが,サティー撲滅という「慣習破 壊」は1987年,ループ・カンワール・サティー事 件によってはじめて,女性の「権利」確立運動の 一環として主張されるようになった。都市のフェ ミニスト運動は農村部にある伝統的「教典主義」
信奉者の反対に遭遇し,巻き返しの政治活動が繰 り返される。しかしながら,これは新たなる,女 性の確かなる「権利」運動の胎動というべきであ ろ う 。19 世 紀 初 頭 の サ テ ィ ー 反 対 運 動 は ヒ ン ドゥー社会の外側にあるヨーロッパ人が主たる担 い手であった。しかしながら,独立インドではそ の行動主体はインド女性の手に移り,そして,都 市や農村をふくむ全インド的スケールで展開する。
筆者はこれを「社会感性の成熟」と評価したい(第 四章)。そして,20年後のいま,2008年,<サティー は殺人行為>,<サティーに加担・容認した家族,
村人,地域関係者,行政担当者等すべてを刑事罰 の対象>とする,サティー禁止法の改正への動き が始まる。従来の,伝統的なサティーイデオロギー
と行為を完全に否定する運動が政治課題として浮 上してきた。新たなる<社会感性の成熟>への予 兆がある(11)(結語)。
本論文はつぎの四つの論考と付属資料三点から 成る。1.「1987年 サティーの復活:ループ・カン ワール・サティー二つの解釈論」,2.「イギリス人の サティー遭遇:イメージ形成と概念化
」
,3.「1829 年 サティーの否定:人権思想の萌芽」,4.「『女性の 権利』思想と運動:サティー撲滅へ―1988年の前と 後」,5.「要約と結語:ループ・カンワールを越えて」。付属資料は,18世紀中葉と19世紀初頭のサティー の場景を描いた木版画二点を原資料から転載する。
いずれも著名な歴史的価値の高い作品である。ま た,写真一点は現代サティーのイコン(icon),ルー プ・カンワール・サティーの記念碑。(筆者撮影)
これら三点によってサティーの実像を<視覚的>
に理解できるものと考える。
1. 1987
年 サティーの復活
:ループ・カンワール・サティー二つの解釈論
寡婦の行為解釈
はじめに,本稿の中心的事例として,現代社会 を震撼させた1987年のループ・カンワール・サ ティー事件をとりあげ,その本質的問題,すなわ ち慣習の内部に必然的に存在する破壊的特徴につ いて予備的考察をする。それは,人間の自由意志,
選択の許容,という諸権利を抑圧,または抹殺す るという<残虐性>についての本質にかかわる問 題である。多くの慣習のなかでもとくに,サティー は寡婦の生命にかかわることからその破壊的特徴 を内にもつ典型的な「社会慣習」と考えてよい。
歴史的に見ても,嬰児殺し(Infanticide),幼児婚,
女児労働,ダウリー(結婚持参金制度),そしてサ ティー「寡婦殉死」,という女性の一生涯を支配す る慣習のなかでも,とくに,サティーは寡婦の<い のち>の問題そのものである。生命観が問われ,
倫理的立場を明確にしなければならない課題であ る。
まず,この事件を視覚的に理解するために,[付
属資料]写真「ループ・カンワール・サティーの イコン(icon)」とも言うべき追悼記念碑の形式に 注目したい。サティーは村の広場中央に急遽設け られた火葬壇で執り行われた。そして,その名残 の記念碑(写真中央)がひっそりと佇む。その上 部は金属製の三叉鉾,<シャクティ>(shakti) の象徴である(12)。
いま,ループ・カンワールは<サティー・マタ>
(sati mata)と称され,サティー女神となり,村
を守るシャクティ,<力>の根源となる。この
<シャクティ信仰>はラージャスターン州,とく にシェイカワティー地域の,村単位の地場信仰を 象徴する女神信仰である。この<シャクティ>の シンボリズムは二つの意味をもつ。一つは信仰体 系としての純粋な信仰心の表現,もう一つはすべ ての<力>の根源,とりわけ現世的利益をうみだ す力を意味する。サティー巡礼地となり全国から
<シャクティ信仰>の信徒を呼び寄せ,村の繁栄 をもたらすことになる。この地一帯には過去に少 な く な い 数 の サ テ ィ ー の 歴 史 が あ り , 村 は サ ティーの経済的利益によって栄えたという事実が ある。この意味でも,デオラーラ村は 80 年代の もっとも注目をあつめた事例である(13)。 要するにサティー信仰あるいは,シャクティ信 仰は<地域宗教感性>の表現であり,その信奉者 個々人はサティーの理念<犠牲,献身,善良,強 さ>をここに求める。他方,村という集団組織は その伝統的権力基盤を維持,強化するためにサ ティーのもたらす経済的利益,政治的効果を最大 にしようとする行動をとる。これがサティーの二 面性についての筆者の解釈である。そのサティー の<神性>はそれが村・地域の伝統に忠実である こと,そして,村の祝福と承認を得た権威ある行 為であること,の二点が絶対条件と見なされてい る。それによって地域コミュニティーが同じ価値 として共有できる<社会的慣習>の維持・持続が 可能となる。この二面性の均衡状態はつねに脆弱 性を有しており,外部からの政治圧力や介入に よって破壊され易い。ループ・カンワール・サ ティー事件その後の姿が示す通りである(14)。そこ でループ・カンワール・サティーの伝統性,つま
り<儀礼>の形式,そして村の<社会的承認>の 有無を可能な限り証明しなければならない。この 点を明らかにする論証はいまだ充分に為されてい ない。筆者は事件の中心人物,ループ・カンワー ルの義父の言葉から論証の糸口を見出すことにし た。これが寡婦の行為に関しての解釈枠であり,
個別事例の分析にあたっての方法論となる。
1. 二つの回想記録:事実と解釈
本章は最初に,ループ・カンワールの義父スメー ル・シン(Sumer Singh)の語る「嫁はこうして死
んだ」の二時間に及ぶ回想のインタビュー記録
(2000/01年)の解釈から始める。嫁ループ・カ ンワールがサティーの火炎に消えていく死までの,
わずか半日足らずの動きを回想する言葉から成り 立つ。二つ目は女性作家マラ・セン(Mala Sen) の,同じく義父へのインタビュー記録(1995年)
からまとめた回想である(15)。この二つの回想記録 には矛盾するような記述や疑問点は見られない。
むしろ相互補完の関係にあるといってよい。この 証言から<儀礼>としてのサティーの形式と伝統 を読み取ることができる。
Ⅰ.義父の回想:【嫁はこうして死んだ】 {2000/01年,筆者による聞き取り調査記録より。}
括弧内の太字強調は筆者による。
1987年9月4日,夫マル・シン(Mal Singh)は急性盲腸炎で死亡した。かれはデオラーラ村から60キロ離れた,
郡都シカール町(Sikar)のShri Kalyan病院に前の日から入院していた。妻ループ・カンワールは病院に行かず自 宅にいた。夫の遺体は午前11時頃,自宅に戻った。彼女は「村の人に今日,火葬に付す」ことを伝える。彼女は 泣かなかった。毅然とした態度であった。夫の遺体が二人の部屋(およそ12畳)に安置されると,彼女は,やお ら,義父母に向かって言った。「私が結婚式に着た衣装(サリー)をだしてください」と。義父はなぜかと問いた だす。彼女は「私はサティーになります」と宣言した。義母は泣き叫ぶ。義父は「サティーにならないでくれ」
と哀願する。彼女は「夫とともにこの世を出ます」と言う。決心は固かった。彼女は部屋の鍵を閉め,「一人になっ て身体を清めた」。(筆者注記:ヒンドゥー教の清めの儀式。火葬の前に水で身体を清める行為のこと。)バブラー
ル(Babral)という名の「僧侶が彼女に水を飲ませた」。(筆者注記:義父によればガンジスの聖なる水という。だ
が,この説明を聞いた現地の通訳や,後に行った多くの傍証のための聞き取りによれば,覚醒作用のある液体だ とする見方が一般的である。)
出棺は村の習慣に従い,自宅を出て長い行列とともに村の隅々までまわる。「村への別れ」である。そして村の 広場中央に設けられた火葬壇積み薪の上に遺体が安置される。彼女は僧侶に先導され,家族に抱えられるように して「積み薪の上に横たわる亡夫の遺体の脇に座らされる」。まわりは村の青年たちが囲み,家族やサティーを妨 害しようとする行為を排除している。
義父はこの時点で気を失い,その後のことは記憶にないという。積み薪の炎は午後二時から二時間続いたとい う。村人約三千人が燃え盛る火柱を見守る。二人は灰になった。
Ⅱ.義父の回想:【サティーのあった当日】 {1995年,作家マラ・センによるインタビュー。}
括弧< >内は著者マラ・センの質問,太字強調は筆者による。
<あなたの義理の娘がサティーをしようと決めた日あなたは村にいましたか>最初はいました。あなたもご存知 のようにその朝早く長男がシカールで死にました。あの時は長男のところにいました・・・。遺体と一緒にジー プでここに帰りました。多くの人が家の周りに集まっていました。中にも外にも,至るところに。息子の遺体が あの部屋に〔今は聖堂になっている〕運ばれるのを見ました・・・それから・・・あの娘がその部屋にいました・・・。
泣いていました。彼といっしょに行く。私も行きたいといっていました。私は狼狽してしまいました。倒れてし まったのでもうそれ以上はわかりません。・・・ええ倒れてしまいました。あなたのように英語で言うなら,「気
をうしなって」(fainted)しまいました。 <そのとき,何を考えていましたか。>気が変になりそうでした。あの 娘は,「彼といっしょに行く,彼といっしょに行きたい・・・」といっていました。彼女を落ち着かせようとしま した。私たち全員が,息子たちも,彼女の親戚も・・・ですが,耳を貸さなかったんです・・・。
ループ・カンワールは年齢18歳,結婚生活8ヶ 月にして寡婦の運命を背負うことになる。彼女が 夫の死を知るのは9月4日の早朝,病院での死亡 が午前七時十五分。彼女はそれから間もなく連絡 をうけている。夫の遺体が自宅に戻ったのが午前 十一時頃という。その間およそ四時間,そして出 棺・火葬準備までほんの二時間,合計六時間の間 になにがあったのか。回想記録はこの間,彼女が サティー実行の意思を固め,そして,冷静に<サ ティー儀礼>に必要な準備を進めていた,という 印象をあたえている。
Ⅰ.儀礼:解釈論
ⅰ サティーの決意:
① <私が結婚式に着た衣装サリーをだしてくだ さい。> サティーの意思表示である。自宅に 掲げられた結婚式の写真には真紅の色模様と 金糸の刺繍に輝く見事なサリー姿があった。亡 夫との二度目の結婚式,やがて行われるであろ う積み薪の上の,来世への旅立ちの晴れ姿であ る。
② <私はサティーになります。> 嫁ぎ先家族 のすべての人に自分の固い意志を伝え,自分の 死後天界から家族を守ることを誓う。
③ <夫とともにこの世をでます。> ヒンドゥー 教徒の死生観を表す表現。
ⅱ サティーの準備:
④ <村の人に,今日火葬に付します。> 過去 の多くの記録を読むと死者の火葬は死亡当日,
日没までに執り行うことが儀礼上もまた,慣習 上も求められていることを知る。午後2時葬儀 の開始となる。その意味は<所属するコミュニ ティー〔村〕の是認・賛助・協力>があったこ とを意味する。人口一万人規模の伝統的村落 デオラーラ村は今もなお,厳格なカースト制の
管理と仕組みの上に成り立つ社会である。サ ティーの多発する地域 シェイカワティー地 方では村の祭祀はすべてヒンドゥー教僧侶に よって厳格な形式と手順によって執り行われ る。火葬の準備は村をあげての協力がなければ 間に合わない。わずか二時間足らずの余裕しか ない。この時点で彼女のサティー決意は確かな ものとなったと推測される。
⑤ <一人になって身体を清めた。> 火葬の前 に行う<清めの儀式>である。
⑥ <僧侶が彼女に水を飲ませた。> <ガンジ ス川の聖水>によって心と身体を内側から清 める行為という(筆者注記:実際は覚醒作用の ある薬物を混入した水溶液という)(16)。
⑦ <村への別れ> 自宅から村の中央広場ま では中心部に集中する知人,友人宅を通過しな ければならない。彼女は別れの言葉を投げかけ ながら狭い路地,小道,そして中央広場に設け られた積み薪の山に向かった。(村人の証言),
(付属資料:「木版画 その1」参照)。
ⅲ サティーの実行:
⑧ <積み薪の上に横たわる亡夫の遺体の脇に座 らせられる。> 正座の形式がある。妻は積み 薪の上に足組みの姿で正座し,左手をもって夫 の頭部を抱きかかえる。右手で夫の身体を上か ら抱きかかえる。これが昔からの慣わしである。
(付属資料:「木版画 その2」参照)。
義父の回想と証言はここで終わる。ところで,
マラ・セン女史は二つの重要な証言を引き出して いる。一つは<彼と一緒に行きたい。私も行きた い。>彼女の心の内面を映し出す<サティー願 望>と理解すべきか,あるいは,寡婦として残る 生涯を生きることへの,<拒否の意思表示>か。
誰も彼女の心の内面をうかがい知ることはできな
い。彼女は信仰心に厚く,中等教育を受け,教養 のある,都会生まれの女性。18歳の若き寡婦はヒ ンドゥー教の教理,伝統的「経典主義」の一つ,
「完全なる妻」(Tryambakayajvan)への道を選ん だ の だ ろ う か 。 そ れ は 「 パ テ ィ ブ ラ ー タ 」
(Pativrata)<献身的妻>はサティーによって達
成されるという思想が深く根をおろしていたこと を示している。この思想は寡婦として生涯を生き ることを排除するものではない。しかし,ループ・
カンワールはサティーへの道を進んだ(17)。 もう一つの証言<彼女を落ち着かせようとしま した。私たち全員が,息子たちも,彼女の親戚 も・・・>。
亡夫の遺体を前にして悲しみに襲われ,泣き崩 れる姿は想像に難くない。短時間での葬儀の手配 は義父の兄弟・親戚縁者が総出で当たったという。
サティーへの道はこの段階で嫁ぎ先の家族一同に よって決められていた,と推論できる。おそらく 彼女の心の乱れは夫の突然の死がもたらした悲し みだけではない。死出の旅路が用意されつつある ことへの恐怖,そして絶望と無力感が彼女の精神 状態を乱したのであろう。サティーの暴力性はこ のような状況のもとで寡婦に選択の余地を与えな いまま積み薪の火炎のなかに追いやる<残虐性>
にある。寡婦個人が受け継ぐであろう財産分与,
結婚にともなう持参金(ダウリー),両親が持たせ た預貯金と生活用品,これらすべてを寡婦から奪 い取る道はサティーの実行にある。彼女の狂気と も思える心の乱れは自分の存在証明ともなるこれ ら財産の剥奪から逃げられないことを知ったとき の怒り・絶望感に起因するといっても過言ではな い(18)。
義父の回想記録は寡婦ループ・カンワールがサ ティーという死の選択をおこなった動機や経緯を もっともよく知る人物によるものである。法律上 でも,サティー事件の裁判では<殺人幇助>の罪 を問われた人物である。彼の回想の言葉が示唆す るサティーの二面性は,一つ,サティーは中世以 降に形式化されたヒンドゥー教の儀礼として行わ れたこと。二つ,寡婦はきわめて限られた時間枠
のなか,みずからの<生と死>を選択する自由を 奪われ,サティーへの道を強要されたこと。前者 は儀礼の,形式としての伝統継承を,後者はサ ティーに内在する残虐性の不可避性をそれぞれ意 味する。寡婦ループ・カンワールのサティーはこ のような古典的形式と社会的承認のもとに執り行 われた,きわめて伝統性の高い葬送儀礼であった。
そして,寡婦の死をめぐる<自由意志>か,ある いは,<暴力的>かの,相反する状況解釈はその 後のサティー反対運動に色濃く反映されることに なる。また,その後におこなわれた裁判でもこの 問題は不問に付される。すなわち,司法判断を超 える教義解釈の領域に属する問題として処理され たのである。
Ⅱ.村の<社会的承認>:解釈論
第二の問題,村の<社会的承認>のもとにサ ティーが行われたかという論証についてである。
村の権力構成はカースト階層の上位に位置する,
ブラーマン僧侶,土地所有を背景にもつブラーマ ン地主が中枢を占める。村のマイノリティーであ り,最高の権力保持者である。この権力機構に対 する村のマジョリティーは次の階層,ラージプッ
ト族(Rajput),バニア(商人),そして小作農民
など,の順に重点が移行する。権力構造はまた,
寺院の創設・管理,村営学校の運営,村の店舗所 有と管理,農業共同組織など機能別に制度化され ている。これはデオラーラ村に近いジャーリー村
(Jhardli),「オム・クンワール(Om Kunwar)サ ティー事件」の背景となる村の権力構成である(19)。 カーストに基盤をもつ権力のそれぞれの主体と制 度化された専門的諸機能がサティーの「社会的承 認」を支える制度と考えてよい。
それぞれの主体はしばしば,村という人間居住 の境界域をこえて広域にわたり横断的に結ばれる。
結合の原理はカーストの排他性がある。サティー の同意という村の暗黙の決定はブラーマン僧侶と 寺院関係者の利害が広域地域とのリンクを持つバ ニア商人の経済的利害と重なり,サティーの同意,
積極的な承認がなされる。この事例では,オム・
クンワール(16歳)のサティーは貧しい村に巨大
な大理石のサティー寺院を建立させた。奇跡を生 むサティー崇拝の福音が喧伝され,一時期,巡礼 者のメッカともなった。国道から村に通じる村道 は全天候型アスハルト道路にかわり,村の財政に 多大の経済的利益をもたらしたのである。このよ うにみると<社会的承認>とは現世的な利益獲得 のための,ブラーマン僧侶を中心とする権力者に よる,まさに世俗的利益志向の意思決定と考えて よい。
デオラーラ村もまた,この1980年ジャーリー村 の成功事例にならって村の権力者の「社会的承認」
が発出されたに違いない。先にふれたように,ルー プ・カンワールの決意の言葉,<今日,火葬に付 します>は村の統治者たち(ブラーマン僧侶,カー スト・パンチャーヤット<カースト横断的自治組 織のこと>)の了承と祝福を得,葬儀準備の支援 を求め,そして同意を得ていることを意味する。
筆者の関係者への聞き取り調査はこの事実を認め ている。最初の問題提起,すなわちこのサティー と言う行為はシェイカワティー地域そしてデオ ラーラ村という,同じ信仰を共有する社会の枠の 中で歴史的に形成された<サティー文化>の表現 形態と言うことができる。村落のレベルで不動の 地位と権力を持つカースト階層の頂点,ブラーマ ン僧侶はサティーの神話,故事,歴史などの知識 を豊富に持つ。これらはすべてサティーのイデオ ロギーとして構築され,村独特の支配的な<宗教 感性>を形成することになる。80年代を通じてデ オラーラ村周辺地域(シカール郡 Sikar)一帯に 起きた類似のサティー事例調査でも,ほぼ以上の 仮説を裏付ける結果が得られている。それらは,
(1)Hathideh村(1978年Sarasvati Bansolサティー 事件),(2)Jhardli村(1980年Om Kunwarサティー 事件),(3)Devipura村(1985 年Jaswant Kunwar サティー未遂事件)いずれも関係者聞き取り調査 である。これらの村々の出来事は地理的にも,また 時系列的にも(4)Deorala村(1987年Roop Kanwar サティー事件)につながる。ちなみに,これらの 村落は地理的には首都ニュー・デリーから国道を 南にやがて100キロメートルの範囲にある地域で ある。なによりも,急速な工業化・近代化の波が
近くまで押し寄せている一帯の出来事である。こ の一連の社会現象ともいえる 80 年代のサティー 事件はこの地域が広く共有する信仰体系,村落の 権力基盤,そしてなによりも村の心を支配する
<地域宗教感性>,そのすべての相互連関の産物 と言うことができる。その象徴がジュンジュヌ
(Jhunjhunu)に位置するサティー信仰の総本山ラ
ニ・サティー寺院(Rani Sati Temple)の信仰体系 にある。現代に見るサティーの本質はこの地域空 間,シェイカワティー(Shekhavati)に集約され ているとも言える(20)。
ところで,80年代にはシェイカワティー地域以 外の北部インドでも 11 件以上のサティー事件が 報じられている。うち4件がサティー未遂となっ ている。また,90年代にいたると,6件のいわゆ るサティー事件が発生したが未遂として寡婦は救 助されたと報じられている(21)。
これらの事例はすべて新聞報道によるもので,
サティー儀礼の形式と社会的承認の有無をルー プ・カンワール事件と同じ方法で検討することは できない。ところで,時代をさらに20世紀初頭に 遡り,広くインド北東部に目を転ずると,1927年 東インドビハール州バルー(Barh)で起きた,若 い寡婦ブラーマンのサティー事件がある。これは インド独立運動の高揚期に起きた事件であり,社 会の関心をあつめた一大事件となる。警察による 詳細な調書や裁判記録が残されているがその解釈 には細心の注意を必要とする事例である。反英ナ ショナリズムという時代状況のもと,サティーの 解釈が多分に政治性を帯びる危険があった,その ような事例の一つである(22)。
2.
イギリス人のサティー遭遇:
イメージと 概念化本章と次章で,18世紀中葉および,19世紀初頭 に起きた多くのサティー事例のなかから文書記録 として今日的意味をもつ三つの見聞記録を取り上 げる(23)。それは,伝統としての葬送<儀礼>の形 式,および<社会的承認>という観点からの解釈
が可能な数少ない事例である。これらはすべてベ ンガル地方で観察された記録書類のなかにみられ る。後述するように,はじめに,19世紀初頭の約 20 年に記録された膨大な数のサティー事例は社 会的・政治的関心と必要から村々の行政・司法の 末端機関を総動員して情報が集められ,後に公文 書として残されたものである。そこには当然のこ と,サティーをめぐる教理上の根源や文化的脈絡 の理解について注意深く解釈と評価の作業が求め られる。そこで,(1)これら一次資料に付随する さまざまな諸概念の時代的・文化的含意,(2)サ ティーの主体である寡婦の<生と死>を規定する 諸経典(法典),いわゆる「経典主義」について概 説しておく必要がある。また,(3)個別例をサ ティーの全体像のなかに位置づけるために,地域 的偏在,時系列変化,カースト位階の構成変化,
の三点についてそれぞれの特徴を検討する。これ らの予備的考察を前提にして三つの見聞記録をと りあげ,それぞれについて儀礼と社会的承認の意 味を検討したい。最後に,非ヒンドゥー社会の外 側から見たサティーにイメージ形成,それによる 概念化と操作,そして,サティー撲滅の運動論に いたる思想的脈絡を検討したい。
歴史的事実(事例)の今日的解釈
二つの異なる文化的含意
サティーとは,一般的には二つの異なる文化的 含意をもつ用語,satiとsutteeを総称する。前者 はインド古くから呼称されていたsutは(善良・
清純)の寡婦を指し,一方sutteeは英領インド形 成期に使われ始めた英語表記である。その意味内 容は「寡婦が亡夫の荼毘と一緒に焼身する行為」,
と解釈される。つまり,用語の文化的含意として は,前者はヒンドゥー社会の伝統としての概念,
また後者はイギリス人キリスト者の目からみた,
<残虐>かつ,<非文明>の悪しき慣習を含意す る(24)。訳語としては<寡婦殉死>がある。本稿で もこの用語を使用するが前記のような文化的含意 はない。もうひとつの宗教上の教理と法解釈の問 題として<自発的サティー>と<強制されたサ ティー>の区分がある。サティーの<合法性>,
<非合法性>を判断する 19 世紀前半の歴史上の 概念である。これはまた,現代のサティー事件を めぐる司法判断の参照基準として引き継がれ,今 もなお,存続している(25)。
<寡婦の主体性と抑圧>という今日的問題が 幾つかの記録のなかから読み取ることができる。
サティーの主体は寡婦である。荼毘の燃え盛る火 炎に向かう寡婦の動機や心的状況は複雑多岐なも のがある。19世紀前半の記録資料にはさまざまな 事例が残されている。そこには寡婦の最期には,
生と死をめぐる<選択>の可能性を秘めたドラマ が多く残されている(26)。この<選択>には寡婦が 慣習としてのサティーに向かう動機が<利他的>
か,あるいは<利己的>という差異,そしてサ ティーを拒絶する<選択>の可能性の問題がある。
そこには寡婦の<生と死>という,教理上の信仰 体系の問題があることに注目したい。それはイン ド女性の生き方を律する,「完全な妻」(パティブ
ラータ・Patiburata)の理想像と信仰上の教えがあ
る(27)。これらを寡婦の「内側」の世界とすれば,
もうひとつ「外側」の世界は寡婦の<生と死>(サ ティー)を律する制度的枠組みがある。すなわち,
①夫と妻という婚姻関係と財産所有・相続の慣習 法,②家族・縁戚・氏という制度や組織,③村落 や地域の文化・制度など,重層的・構造的な関係 として支配する社会がある。サティーの<社会的 承認>を構成する多層的な制度枠組みの存在があ る。
寡婦の<生と死>を規定する「経典主義」
寡婦の葬送の<儀礼>を司式するのは村のバラ モン僧侶である。かれの依拠する法典は古代から 18世紀にいたる間に編纂された二種類の経典類 集があり,一つはシュルティ「śruti」<天啓説>
と分類される。これは古代リグ・ヴェーダの三つ の聖句からなる。これらすべてはサティーを認め ていないもの,と解釈される。次章でふれるベン ガルの知性 ラーム・モハン・ローイ卿によるサ ティー撲滅運動の理論的根拠がこれら天啓説に基 づく法典類集である。一方,後者の分類,スムリ ティ「śmr・ti」<聖伝説>に属する11 の聖句類集
がある。これらは中世から18世紀にいたる期間に 編纂され,すべてがサティーを原理的には認めて いるものと解釈されている(28)。第4章で扱うサ ティー裁判の事例では聖伝説の一つ,ハリタ法典
「harita」がパンディットによるサティー擁護の参
照基準として使われている。このように現実には 聖伝説にもとづくサティー擁護の教理は社会の 隅々に及び,ヒンドゥー教の神話,故事,歴史上 のあらゆる出来事をとりこみながら庶民の信仰体 系を形成する。これが筆者の言う「経典主義」と いうイデオロギーである。ところで,ここで注意 すべきことは法典は寡婦をサティーへの道へと導 く教義ではあるが,これを葬送の儀式として形式 化したバラモン僧侶たちの役割に注意を払う必要 がある。儀式の形式も地域によって異なる。次章 以下で言及する事例はインド東部地域および,南 部の地域のそれである。非ヒンドゥー社会の外側 からの見聞や解釈という限界もあって,儀式の詳 細やそれらの意味などは十分に理解できるもので はない。つまり法典の教理と実際の間にある認識 上の距離が不明である。ところが,インド西部(現 在のマハラーシュトラ州一帯,かつてのマラター 王国)にみられた儀礼の形式についてインド史家 小谷汪之氏は著書「罪の文化インド史の底流」の なかで一つの興味深い事例を紹介している。時代 は18世紀中葉,事例は北部デッカン地方でおきた 一 つ の サ テ ィ ー 未 遂 事 件 。 記 録 文 書 は マ ラ ー ティー語によるもの。法典解釈と実際との隔たり を注意深く論じている。法典が規定する儀礼の形 式が紹介されているので興味深い事例として紹介 しておきたい(29)。(以下引用)。
①サンカルパ(儀式開始の宣言),②吉祥物の献供,
③火(亡夫の葬火にマントラを唱えかけた後,火中 に一連のバター油献供,④葬火の周囲を(右回り)
回る,⑤石への献供,⑥石に登り(?),果実と花を 両掌で捧げつつ,火にマントラを唱える,⑦火(薪 の堆積),⑧夫の兄弟あるいは弟子は死者の北側に横 たわった寡婦に敬意を表し,その手を掴み,立たせ る,⑨寡婦は友の慰籍を受けて,再び火に登る,こ の時,亡夫をビシュヌ* として想念する。
* ビシュヌ: ヒンドゥー教の信仰界を二分する神々,
シヴァと並ぶ最高神のこと。(筆者注記)。
ところで,このような一連の形式と手順をとる 葬儀は寡婦の殉死行為そのものを神聖化する儀礼 から組み立てられていると解釈できる。このいず れの行為から寡婦が逸脱すること,たとえば燃え 盛る火葬基壇から脱出したり,火炎の熱さに耐え 切れず逃げ出すなど,意識的であれ,または無意 識 で あ れ , そ の よ う な 行 動 を と れ ば 崇 高 な サ ティーの<神性>を冒涜することを意味する。教 理上の要求である。多くのイギリス人の見聞記録 はこのような教理上の逸脱行為を寡婦の肉体的・
物理的苦痛として観察するにとどまる(付属資料
「木版画 そのⅠ」参照)。本項の最初に述べた二 つの異なる文化的含意,satiとsutteeの文化的距 離の隔たりはこの点にある。
サティーの歴史的実像
後述する具体的事例をより広範囲で長い歴史過 程のなかで理解するため,いくつかの歴史的統計 を紹介する。考察の範囲は主として,18世紀後半 から19世紀初頭までの期間,イギリスのインド支 配が進展・確立にいたる時期である。いわゆる英 領インドの成立にむけて英国の間接統治が総仕上 げをむかえる時期。なによりも資料データが豊富 な時期である(30)。
この統計から読み取れる特徴の一つはサティー 事例が地域的に現在の西ベンガル地域に集中して 発生していることである。植民地統治の首座都市 カルカッタ(現コルカタ市)と,その周辺の中・
小地方都市,農村部がサティー多発地帯である。
イギリスによる統治の,英領インド北東部の行政 区域,ベンガル管区(Presidency of Fort Williams) 一帯に見られた社会現象に注目する。他の地域,
すなわち数多い藩王国(Princely State),とりわけ 中世以降,サティーが頻発したラージャスターン 地方(インド北西部)がある。第一章の事例は後 者の地域に属する(31)。
この統計に関連して,サティーをおこなった寡 婦のカースト背景について興味深い事実を示して
いる。カースト構成の変化に関するデータである。
19世紀初頭,ベンガル一帯に発生したサティーの 記録から推論できることは古来,上位カースト(ブ ラーミン階層)に限られていたサティーの慣習が 次第に下位カースト(クシャトリヤ,バニヤなど)
に及ぶ。この事実はカーストの上位志向への階層 移動の表れと理解すべきだろう。下位カーストが サティーという儀礼・葬儀手段を意図的につかう ことによって,より上位のカースト階層へと社会 的認知(村落レベル)を得るため,と推定できる。
当時,カルカッタを中心とするベンガル地方一帯 にはイギリス植民者のもたらした,いわゆる「西 欧化」,「文明開化」の波が大きく,うねりとなっ て襲ったのである。ベンガルが初めて経験した
<社会変動>があった。カースト制の構造変化と サティーの関係は無視できない歴史的事実であ る(32)。サティーという行為がカースト制の構造変 化の一つの動因と解釈できるのではないか,一つ の仮説として指摘しておきたい。
イメージの形成と解釈
イギリス人のサティーについてのイメージやそ の解釈は16世紀後半以降,多くのロンドン商人や
冒険家などの体験や見聞の記録からしだいに明ら かにされる。Ralph Fitchの出版物記録が(1583-
1591)がその最初であり,その後,サティーをヒ ンドゥー社会に固有な,<異文明の奇習>と捉え,
その根幹に<暴力的儀礼>のあることを見抜いた 数多くの見聞記録がある。これらのイメージがし だいにイギリス,さらにはヨーロッパ諸国に広が り,その解釈が定着するようになる(33)。サティー と幼児婚そして,一夫多妻制。これがイギリス人 旅行家の好奇心を誘うヒンドゥー社会の「奇習」
と映った。17世紀初めになると好奇の目から,次 第に「奇習」の奥にあるヒンドゥー教の儀礼の意 味に目を移すようになる。当時としては,旅行家 Nicholas Withington(1612-16)によるサティーの 現場を描写した見聞記がもっとも詳細にわたる(34)。
「儀礼は次のように執り行われる。まず,寡婦は夫 の死に嘆き悲しむ。次に,彼女は夫とともに再び一 緒に生きることを喜びに表す。それから,友達と抱 擁をかわし,積み薪の上に座る。夫の頭を腕に抱き,
積み薪に火をつけさせる。同時に友人達は油やその 他,甘美な香料がついたものを彼女に投げつける。
彼女は火を耐えるのである。その忍耐は賛美され,
統計:1815-26年間のベンガル地方におけるサティー件数
該当年度 カルカッタ地区* ダッカ地区** カタック地区*** ベンガル管区全体****
1815 244 31 9 378
1816 280 24 9 442
1817 428 52 14 707
1818 533 58 11 837
1819 388 55 33 650
1820 337 51 33 598
1821 364 52 28 653
1822 300 45 29 583
1823 309 40 31 575
1824 348 40 25 572
1825 368 101 30 639
1826 279 65 45 518
[註] * 現在の西ベンガル州,** 現在のバングラデシュ,*** 現在のオリッサ州,**** ベンガル管区(Bengal Presidency)全体の数字はそのほかの地区(Division),ムルシダバード,パトナ,バレリー,ベナーレスな どの件数を含む。出典:註記(30)の「議会報告P.P.」。
解き放たれ,揺るぎない。」
イギリス人の眼はサティーの儀礼の中にバラモ ン(僧)の偽善を見逃すことはなかった。信心深 い彼らが寡婦を無理やり,火の中に押し込め,喜 ぶ様子を見たのである。彼の眼はしだいに「暴力」
的儀礼の一面に向けられる。このサティーに込め られた暴力性はバラモン(僧),夫側の家族,親戚 にとどまらず,寡婦の親戚さえも取り込んで村や 地域の慣習となって温存される。記録には二つの 観察が記されている。
①「寡婦を無理やりに焼身させるのは夫側の親族で はなく,彼女の親族がそうするのだ。彼女が死を拒 否すれば大変不名誉なことと考えるから,たとえ,
何とか焼かれずに済むとしても,その後は剃髪し,
装身具は一切身につけず,終生惨めな生活を送らね ばならない,」と。また,つぎのように記してい る。
② 「寡婦が焼かれることになり,儀礼を終え積み薪 の火の前に連れてこられる。身を焼き焦がす熱さの 前に思わず,積み薪から飛び降りようとすれば,彼 女の両親が抑え,縛りつけ,火の中に押し込み,力 ずくで焼く
」
と。18世紀にはすでに,サティーを教義上,寡婦に よる<自発的>,および,<強制された>行為に 峻別して,法解釈や,行政処理の観点から<合法 的>,ならびに,<非合法的>行為に分類する解 釈基準が生まれることになる。つまり,<自発的
=合法的>,<強制的=非合法的>という置き換 えが成立し,この概念化が19世紀に入るとイギリ ス人行政官に受け入れられるようになる。行政や 司法の用語として定着し,一般的な社会通念とな り今日にいたる。イギリスはインドとの最初の
<サティー遭遇>からはじまってやがて200年を 経過し,サティーの本質に迫る概念操作を確かな ものとする。それはまた,イギリスによる英領イ ンドの統治に必要な道徳上の正当性を備えたもの でなければならない。19世紀のはじめには寡婦の
<自発性に基づくサティーは合法>であり,<強
制されたサティーは非合法>という論理が生まれ るに至った。植民地政府はこの時期,宗教上の慣 習行為に対して不介入・不関与の立場を堅持して きた。しかしながら,公権力の不介入は民衆に対 してサティー行為の黙認,さらには積極的な承認 の意図と受け取られた。19世紀最初の20年間の 統計数字がこのような社会的風潮が大きく作用し たことを含意していると思われる。
ところで,<自発的サティー>の存在を真っ向 から否定する見解や見聞が発出されるようになる。
その発信元は当時の,ベンガル管区カルカッタの 郊外都市,セランポル(Serampore)町に本拠を置 くイギリス福音派伝道会である。管区内はもちろ んのこと,南部インド マドラス管区,西部インド ボンベイ管区に派遣された宣教師が直接見聞した サティー事例の詳細な報告がセランポルの本部に 寄せられるようになる。この伝道会がイギリスか ら持ち込んだ,インド初の印刷機械がセランポル とカルカッタで運転を始め,これらサティー見聞 記録は大量印刷され,管区の政府,イギリス本国 の政府・議会,イングランド各地の福音派教会な どに送られた。サティー撲滅運動への一粒の種が 大量印刷物としてこのセランポルに蒔かれたので ある。ところで,寡婦の行為を<自発的>と認定 する根拠に疑問を投げかける多くの見聞はイギリ ス人宗教者からのものである。自発的なサティー の存在を否定する数多くの事例報告が寄せられ,
慣習の残酷性,暴力性,非人道性がサティーの同 義語として解釈されるようになる。植民地インド のイギリス人行政官はもちろんのこと,イギリス 本土の立法府やイングランド全土に及ぶ教会組織 にもこのメッセージが定着するようになる。19世 紀はじめの20年間,サティーの頻発は社会問題と なり,イギリスのインド統治の基盤を揺るがす深 刻な政治問題となる。また,インドの<道徳的退 廃の救済>を緊急の責務とする動きが活発になる。
カルカッタにあっては,ヒンドゥー社会の内部か らの改革を訴えるラーム・モハン・ローイの運動,
これに対するヒンドゥー教指導者の反論がはじま る。これに呼応してセランポル宣教師団の組織を あげてのサティー撲滅の声はインド総督府のリベ
ラルなイギリス人行政官に浸透しはじめる。そし てロンドンの立法府にたいして歴史的な決断を迫 ることになる。セランポル宣教師団のメッセージ は異教ヒンドゥー教の根幹にある生命観に対する 挑戦であった。彼らがその思想と行動の原動力と した<キリスト教的ヒューマニズム>が慣習の支 配するヒンドゥー教の世界に<生命の尊厳>とい う絶対的な価値基準を持ち込んだのである。これ が僧侶ブラーマンを頂点とするヒンドゥー社会の 宗教的慣習,すなわちサティーの否定へと運動の 的 が し ぼ ら れ た 。 つ ぎ に 取 り 上 げ る 二 つ の サ ティー見聞記録は 19 世紀の前後期にみられた事 例である。
自己犠牲と社会的偏見
18世紀末,もう一人のイギリス人画家・旅行家,
W.ホッジス(W.Hodges)の優れた見聞記録があ
る(35)。今から200年以上前,1780-83年,四年の 長期にわたる,ほぼ,インド全土に及ぶ旅行の記 録である。そのなかで,画家の木版画作品「夫の 葬儀に向かう,ヒンドゥー婦人の葬列」(付属資料
「木版画 その2」参照)がある。この絵図は葬式 儀礼としての,サティーの古典的な構図を示して いる傑作といわれる。若い寡婦の悲しげな表情と 冷酷な顔立ちのブラーマン僧侶たち。松明に照ら された準備は済んだ。白い布に包まれた夫の亡骸 と白装束の寡婦は僧侶の先導を受け,最後の瞬間 を共に迎えようとしている。
この絵の原画を描いた画家はインド旅行を始め るまでに,すでに数多くのイギリス人旅行記に よってヒンドゥー教徒の「奇習」についての知識 を得ている。この時期,イギリス人に共通するサ ティー観は W.ホッジスの次のような言葉に代表 されていたとおもわれる。
① サティーは最高の地位にある人々の間でおこな われる葬式儀礼である。
② 若干の歴史的事例をもとに僧侶ブラーマンがサ ティーの形式と儀礼を制度化した。
③ サティーは迷信的偏見と虚栄心による。
④ サティーは犠牲という行為である。そこには自
発性,栄光,信仰心,不屈の精神が内在する。
これらの特徴は改めて説明を必要としないが,
筆者はとくに第三と第四の意味についてつぎのよ うに解釈をする。前者,<迷信的偏見>と<虚栄 心>は寡婦の主体にかかわる動機,心的状況では なく,寡婦の家族・縁者・村落関係者など寡婦を とりまく社会関係に関しての言及であろう。また,
後者,<犠牲という行為>は寡婦の行為にたいす る賛美とも受け止めることができるが,寡婦をし てサティーを決心させるに足る,他者からの圧 力・強制の存在を言外に意味するものである。寡 婦の<自由意志>はまったく存在しない状況での
<自発性>というべき含意がある。画家W.ホッジ スは見聞記のなかで西ベンガル コシンバザール
(Cossimbuzar)のサティー事例を詳細に記述して
いる。また,その場景を描いた絵図は木版画とし て彼の旅行記に掲載されている。(82, 83頁)以下 の叙述は儀礼の形式を知るうえで詳細を極めてい るので原文を抄訳し掲載する。括弧< >の太字 は筆者による。
① 寡婦の年齢およそ,17-18歳。子供三人(男児 二人,女児一人)長男は4歳以下と見られる。
② 彼女は<幼いこどものために生きる>ように説 得される。顔は死への恐怖心をにじませるが,
冷静で決心を固めた表情に見える。彼女の友人 は死ぬことは許されないのだ,と説得する。一 瞬 動 揺 す る 様 子 が み え た が , 彼 女 は 答 え る 。
「<死は私が決める>こと,もし許されなけれ ば(彼女の)カーストの教え(教理)にしたがっ て飢え死にします。」と。
③ 友人は彼女の意思が固いことを知り,仕方なく 同意する。彼女は商人カーストに属するという。
④ 火葬場にゆく。夫の遺体は布で覆われ,川岸に 置かれている。朝10時,数人の男が集まる。
みんな,やがて起こるであろう悲劇を前にして 感情をなくしている様子。かれらは冷淡で無関 心を装っているように思える。
⑤ 待つことしばらくして僧侶に付き添われ,女が 現れる。音楽が鳴り響き,数人の親類とともに
行列が進む。ゆっくりと,しかも厳粛に,女は 確かな足取りで一歩,一歩進む。遺体の前に立 つ。
⑥ 近くの人たちに平静な面持ちで挨拶する。左手 に赤色に染めた液の入ったココナッツを持ち,
右手の親指をこれに浸し,近くの人たちの額に 印す。この瞬間,私は近くに駆け寄った。彼女 は私を見てすぐに額に赤い印をつける。
⑦ 積み薪は枯れ枝と葉で作られ,一方にドアーが あり上はアーチ型となっている。ドアーのそば には松明をもつ男が立つ。半時間ほど僧侶の祈 祷が続く。夫の遺体が積み薪の上にのせられる。
彼女は周囲の人に一礼して<ドアーのなかに 入る。その瞬間,ドアーは閉じられ点火され る>。枯れ木が投げ込まれ火勢が激しくなる。
そして参列者の叫び声が中天高くこだまする。
この記述の中で寡婦の二つの行為,ひとつは
<幼いこどものために生きる>よう説得を受けて いること,二つは<ドアーの中に入る。その瞬間,
ドアーは閉じられ点火され>たこと,に注意を払 いたい。前者については,寡婦にまだ幼いこども がいる場合や妊娠中の場合サティーは許されない。
教義上,慣習上の掟でもある。それにもかかわら ず,この若き寡婦がサティーの固い決意を固めた 動機や心的状況は筆者には理解不能といわざるを 得ない。第二の問題,これこそが現場に立ちすく んだイギリス人が始めて眼にした<残酷>の絵図 である。火葬の習慣がないヨーロッパ人にとって,
しかも,寡婦が死出の旅路にみずから一歩を進め たことに驚愕したのである。寡婦のこの瞬間の行 為はかれの眼には「尊厳ある自己犠牲」と映り,
また,この瞬間の僧侶の司式に「狂気」を見たの である。イギリス人画家 W.ホッジスはサティー の現場に立ち,一部始終を見つめ,描写し,そし て,サティーのイメージをこのような言葉で結ん でいる。サティーは,①女性の究極の自己犠牲で ある。また,②ヒンドゥー社会の迷信と偏見が生 み出した,無益な虚栄でしかないと。
サティーを生む力:社会的承認
ところで,英領インド ベンガル地方で多発して いたサティー事例については18世紀末から19世 紀初頭の30年間,イギリス人の目を通じて記録さ れた少なからぬ数の史料が,先に述べたような今 日的意味を検討する上に有用であり,また利用可 能である。それらは寡婦のサティー行為に関する
<主体性>の問題,そして,寡婦のサティー行為 に<神聖>を付与する社会的承認の問題にどの程 度接近が可能かという,困難をともなう課題があ る。筆者のいう<社会的承認>とは寡婦の所属す る社会(村)やカースト階層によって当該寡婦の サティーが容認かつ,祝福され,そして葬式儀礼 の執行者ブラーマン僧侶の手にゆだねられる一連 の行為を意味する。サティー行為を「社会慣習」
と定義することから,サティーの教理上の価値を 共有し,同意し積極的に協力することが前提とな る。これは別言すれば強圧的暴力に屈し,同意す ることを意味している。多くの事例にはこのよう な可能性を読み取るに十分な,状況の記述がある。
数百人の住民が積み薪の火葬基壇に祈り,叫び,
涙と歓喜の姿を見ることができる。詳細な状況説 明がある。村の若者,寡婦の親族縁者,友人が刀 や鎌,その他の刀剣類をもち火葬基壇の周りを二 重にとりまく。この武装集団は寡婦が逃げだせな いように,またサティーを妨害しようとする者か ら儀式を守るためである。このようにみるとサ ティーという儀式は宗教的というより,社会的暴 力の行為に等しいといわざるを得ない。これは南 インド一帯に1792-1823年の間,布教活動にあ たったカトリック司祭 フランス人のJ.A.デュボ ア(J.A.Dubois:1765-1848)の記録のなかに紹 介されている。自ら,聖職者として当時は未開の 農村の奥深く,サティーの現場に立ち,儀礼を司 るヒンドゥー教僧侶の<偽善>を見抜いた碩学で ある。サティーはヒンドゥー教僧侶によって維 持・強化される<宗教制度>ととらえ,これは「狂 気の沙汰」(mad fanaticism)以外なにものでもな い,と断罪した。ここに糾弾の言葉がある(36)。
「僧侶ブラーマンは虫を殺すことさえ禁じ,牛が殺 される姿を見て哀れみと怒りを示すほどの感性の持 ち主。他方,弱く,純粋な人間には偽善に満ちた,
野蛮な仕打ちができるという,信じがたい矛盾,迷 信にもとづく狂信的行為。これがすべての本来的な,
理性的な感覚や感情を抑圧するのだ。」
フランス人デュボア神父は1794年,やがてイギ リス人(イギリスによる植民地化)が南インドに も影響を及ぼし始めたころ,タンジョール地区の,
ある村のサティーの場景を克明に記録していた。
一連の葬送儀礼はヒンドゥー教僧侶によってすべ てがとりしきられる。その状況を記した記録は他 に類がないほど詳細かつ,具体的な叙述であって,
明快な教理上の解説は切得的なものがある。この 大 著 を 読 む と , ブ ラ ー マ ン 僧 侶 が 寡 婦 を < サ ティーへの道>に精神的・心理的に説得し誘導し ていく呪術とも思える強圧性に恐れさえ覚える。
サティーがこの村(Pudupettam)の住民の心と感 性,そして行動を律する共通の価値となっている ことを示唆するものである,また,僧侶はヒン ドゥーの神々の代弁者として,また,村の現世的 利益の支配者として存在することがわかる。それ はサティー信仰の宗教的制度化が厳格な規律のも とに完成している社会といってよい。その底流に 一貫して流れる<地域宗教感性>は中世の時代か ら継承された伝統的「経典主義」のイデオロギー に支配された心的状況を意味する。その特徴を デュボア神父の鋭い観察眼はつぎのように捉えて いる。
1. 僧侶による説得と住民による強要
① サティーによって女神になるという信仰
② 人々の崇拝の対象(守護の女神)となる
③ 親族の強要によってサティーの決心を迫る
④ 薬物を飲ませ幻覚状態に追いやる
⑤ 悲劇的生涯を終えることにより家族への名誉 と栄光をもたらす
⑥ サティーを一度決心すると引き返すことはで きない
2. 僧侶の役割
① 悲劇のまつりごと一切をとりしきる
② 女(寡婦)の英雄的決意を祝福する
③ 不滅の栄光をもたらすことを祝う
④ 女(寡婦)の決意を持続させる。また,想像 力をかきたてる
⑤ 天界の世界,女神への列聖の夢をもたせ暗示 をかけ続ける
⑥ 時至り,最高の衣装・宝石類を身につけさせ る
⑦ 積み薪(火葬基壇のこと)に誘導する
こう見ると,僧侶は葬送の儀礼を仲介し,村の 住民に対して信仰上の責務を忠実に執行し,そし て,同時に世俗的実利を生み出し,これを分配す る仲介者である。この事例はバイシャ・カースト の葬儀である。住民階層のなかでも比較的裕福な 家である。デュボア神父は当該バラモン僧侶の得 た収入が莫大な金額であったことも細かく記録し ている。こうして見ると,サティーのもたらす金 銭的利得は僧侶をはじめ,当該村,さらには近隣 村にひろく及ぶことになる。たとえば,数時間に わたって燃える積み薪や燃料油(ココナッツ油,
バターなど)の調達は広範囲にわたる。その莫大 なコストの計算書も紹介されている。
このことからつぎのような解釈が可能となる。
すなわち,サティーという葬儀儀礼は当時の支配 的な経典思想(法典)に忠実に形式化され,当該 社会がこれを共通の価値として受け入れ,「宗教的 地域感性」としてなんら疑う余地のない慣習化し た宗教制度である。それを支えるアクター(actor)
は実は,サティーの火炎のなかに消える,生身の 寡婦ではなく,バラモン僧である。そして,なに よりも中世以降の伝統的「経典主義」という名の 宗教的イデオロギーが支配する宗教・社会制度こ そ問題とされなければならない,18世紀の終わり から 19 世紀の初めにかけて南インドのある寒村 で<発見>した<サティーの世界>,その構図は 彼自身が精神的,宗教的に共有する中世ヨーロッ パカトリックの世界のそれを反映しているように