シェアーの協同組合思想について : 経営の協同組 合的国民共同体論
その他のタイトル A Note on Schar's Thought of Co‑operation
著者 大橋 昭一
雑誌名 關西大學商學論集
巻 3
号 3
ページ 238‑259
発行年 1958‑08‑30
URL http://hdl.handle.net/10112/00021799
238
周知の如く︑ドイツ近代経営学においては︑
よれば︑経済学が市場経済を対象とするのに対して︑経営学は計画経済を対象とする為に︑単に有機体としての経
営の機能︑或はその法則という問題のみならず︑同時にその有利な形態︑体制はいかなるものかという問題が生じ
る為なのである茄︑ドイツ規範的経営学においては︑その総師ニックリッシュに典型的にみられるように︑経営共 ② の思想がその根本的思想となっているといえる︒ 同体
( B
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t )
戦後︑西ドイツにおいては︑周知の如く︑共同決定・労使協議制が極めて広範に︑体系的に導入され︑特に共同
決定制は新しい経営体制であるとさえいわれている程画期的なものであったが︑経営共同体の思想はかかる共同決
定・労使協議制の理論的背景をなしているとさえいわれるものなのである︒戦後のドイツ経営学においても︑経営
シ
工
1 経営の協同組合的国民共同体論ー ツェアーの協同組合思想について︵大橋︶
いわゆる規範学派が重要な部分を占めている︒それは︑
アーの協同組合思想について
大
橋 五 〇
昭
ステッヒに
239
経営学史上におけるシェアーの地位或は評価については︑これまで必ずしも見解が一致していたわけではない︒
前 述
の 如
く ︑
く︑ザイフェルトは︑一九二六年︑経営学の発展を六つの段階に分け︑シェアーの
A l
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H a
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6
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が出版された一九︱一年をもって︑第五期の理論的経営学の体系化及び拡大の時代︑又一九三八年の改訂
後においては︑経営学への完成の時代がはじまるとしているのであり︑更に︑テンドゥリーは一九︱一年をもって ⑧ 商業学改編の時代から方法論争の時代へ移行するとし︑シェアーを単に規範学派のみならず︑近代経営学の創始者
として評価している︒反対に︑例えば我が国の増地博士の批判の如く︑シェアーのこの主著については︑それは経 ⑨ 営経済学ではないという批判すら存在しているのであるが︑シェーンプルーク自身が既に指摘しているように︑内
O l
u 容的にはシェアー自身が新しくつけ加えたものは何物もなく︑単に近代経営学の枠を作ったにすぎないにしても︑
その枠を作り出した所にシェアーの意義が認められなくてはならない︒
更 に
又 ︑
る ︒
シ ェ
ア ー
の 協
同 組
合 思
想 に
つ い
て ︵
大 橋
︶
共同体の思想が︑かかる共同決定・労使協議制の上に立って︑幾多の論者によって積極的に︑理論的に展開されて
③
④
いるのである︒勿論︑かかる戦後の経営共同体思想は︑戦前のニックリッシュやディートリッヒ的な経営共同体の
思想と決っして同一ではないのであるが︑戦前の規範的経営学における経営共同体思想の歴史を今一度振り返って
みるのもあながち無意味なことではないであろう︒ここにその一環として︑シェーンプルークが近代規範経営学の 固 父であり︑創始者であるとして高く評価しているシェアーの所説をとりあげ︑若干の検討を行おうとするものであ
シェーンプルークはシェアーを規範学派に入れ︑その創始者であるとしているのであるが︑周知の如
ツェーンプルークのように︑
五
シェアーを規範学派とすることについても︑既に市原助教授がシェアーと
240
度見直す必要がある︒ ワイヤーマン︑シェーニッツにはじまる理論学派との関係︑シュマーレンバッハ等の技術論学派との関係を指摘さ
" "
i
U
れているように︑必ずしも問題がないわけではない︒しかし︑最近においてカインホルストがシェアーをもって規 砂
り
"
1
範学派とし︑シェーンプルークが規範学派の創始者としているのは︑シェアーのかかる幾多の要素にもかかわらず︑
シェアーの理論全体がシェアーの個人的世界観としての協同組合的社会連帯主義の思想に基礎づけられている点に ,
Hu
着目したからにほかならないのである︒これまで我が国においては︑池内信行教授が若干ふれられたことがあるの ハ
n u
を除いて︑その商業経営学︑簿記理論が紹介されたのみで少なくとも協同組合思想についてはふれられる所がなか
っ た
の で
あ る
が ︑
シェアーの理論を正しく評価し︑経営学史上において正しく位置づけようとするならば︑
ン︒フルークの指摘を積極的な手がかりとして︑協同組合的社会連帯主義の思想を基礎としてシェアーの理論を今一
この小論はその一環として︑まずシェアーの協同組合的社会連帯主義の思想をあとづけ︑もってドイッ規範的経
営学の中心的思想たる経営共同体思想との関連を究明せんとするものである︒
註山
A . 0 . S t i c h
; D i e E n t w i c k u n g d e r B e t r i e b s w i r t s c h a f t s l e h r e z u r s e l b s t a n d i g e n D i s z i p l i n B , a s e l
1 95 6,S S . 7 1 ,
72 .
拙稿﹁
A.0 ・ステッヒ経営学の独立過程﹂六甲台論集五巻二号一〇九頁
岡 市 原 季 一
﹁ 経 営 学 に お け る 共 同 体 論
﹂ 山 城 章 絹
﹁ 企 業 形 態
﹂ 五 六 頁
③ 例 え ば
︑ フ ィ シ ャ ー の キ リ ス ト 教 民 主 主 義 を 基 礎 と す る 共 同 体 論 ( G u i d o F i s c h e
; r C h r i s l t i c h e G e s e l
l s c h a f t s o r d n u n g u n d S o z i a l p r a x i s d e s B e t r i e b s , H e i d e l b e r g
19 50 .
d e r s e l b e ;
A l l g e m e i n e B e t r i e b s w i r t s c h a f t s l e h r e ,
7.
A u f l . ,
1 95 7̀s .
163
f f . )
メレロウィッツの労使同権の思想
( K .
M e l l e r o w i c
z ;
•Allgemeine
B e t r i e b s w i r t s c h a f t s l e h r e ,
8,
A u f l . , B e r l i n
1 95 4,S .
87
f f . )
固
H•Nicklisch;D e r W e g a
u f w a r t s ! O r g a n i s a t
i o n , V e r s u c h e i n e r G r u n d l e g u n g , S t u t t g a r t
1
92 0.
高田馨﹁経営
シェアーの協同組合思想について︵大橋︶
五
シ ェ
ー
2‑41
シェアーの協同組合思想について︵大橋︶
五
共 同 体 の 原 理 ﹂ ︒
R . D i e t r i c h
; B e t r i e b 1 W i s s e n s c h a f t , t M t n c h e n u n d L e i p z i g
1
91 4.
固
F . S c h o n p f l u g ; B e t r i e b s w i r t s c h a f t s l e h r e ,
2 .A u f l . h e r a u s g e g e b e n v o n H . S e i s c h a b , S t u t t g a r t
1 95 4,S .
1 23 .
⑥
R . S e y f f e r t
; B e t r i e b s w i r t s c h a f t s l e h r e , i h r e G e s c h i c h
t e , H d B . , 1 . Aufl••1.
B a n d , S t u t t g a r t
1 92 6,S .
1 21 5
f f .
切
R . S e y f f e r t B ; e t r i e b s w i r t s c h a f t s l e h r e ̀ i h r e G e s c h i c h t e , H d B . ,
2.
A u f l . , 1 . B a n d , S t u t t g a r t
1 93 8,S .
95 0f f .
⑧
H . T o n d u r y ; W e s e n u n d A u f g a b e d e r m o d e r n e n B e t r i e b s w i r t s c h a f t s l e h r e , B e r n
19 33 ,
S .
25
f f .
⑲増地雁治郎「経営経済学序論」七六頁。増地博士によれば、ツェアーは結局「商業・…••に重きを置いたから従って国民経
済的観察が主となり︑又国民経済的原則が重視された︒故に此書は現在の意味においては経営経済学の著書ということは出
来ない﹂ということである︒
U O l F . W h o n p f l u g
; a . a . 0 . , S S .
11 8│ 11 9.
u l l
市原季一﹁ドイツ経営学﹂ニニーニ三頁
(H•Keinhorst;
D i e n o r m a t i v e B e t r a c h t u n g s w e i s e i n d e r B e t r i e b s w i r t s c h a f t s l e h r e , B e r l i n
19 56 ,
S .
4 0
f f .
⑬
F . S c h o n p f l u g
; a . a . 0 . , S S .
1 0 8
ー
' 1 g
.
閥池内信行﹁経営経済学史﹂一六六ー一六七頁︒池内教授は︑しかしながら︑シェアーが社会連帯主義思想を立論の根拠と
しているとのみ指摘されるのみで︑それが協同組合を基礎とするものであることまでは言及されていない︒
シェアーについてはこれまで︑少なくとも我が国においては︑その教育家としての活動のみが紹介され︑そうし
た面から彼の思想なりを理解しようとし︑協同組合活動家︑協同組合主義者としての面が知られていなかったので
はないかと思われるのであるが Y シェアーは協同組合の職員の子として育ち︑又彼自身二八オにしてスイス最初の
阪売協同組合
( V
e r k a u f s g e n o s s e n s c h a f t )
たるスイスチーズ製造者組合
( A
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)
242
を設立し︑組合長としてその運営に努力したのをはじめとして︑
イスの消費組合運動の最高指導者の一人として活躍して来たのであり︑この面での活躍がいかに特筆すべきもので
一 九
0 四年チューリッヒ大学より
K o
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( V
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r
② に尽した功績﹄をもって名誉博士の称号を贈られたことからも充分うかがわれるのである︒
確かに彼はもともと師範教育をうけ︑小学校︑師範学校︑高等女学校等で教鞭をとっていたとはいえ︑商業学を
一八八二年バーゼルの高等商業学校に新しく商業科
( H
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d e
l s
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g )
が設けられた 教えるようになったのは︑ ③ 時以来のことであるから︑商業学の学者であるよりもまず協同組合活動家であり︑指導者であったということがで
きるのである︒勿論︑商業学の研究をそれ以前から行っていたということは充分考えられるのであるが︑それはあ ④ くまで協同組合を運営し︑その運動を進める必要からであったと考えられるのである︒
い ず
れ に
し ろ
︑
あ っ
た か
は ︑
シェアーは特に一九
0 1 ︱一年チューリッヒ大学に招かれ︑商業学の講座を担当するようになって以
来︑旧来の金儲け論的な商業学と対決せしめられることとなり︑協同組合主義者としての活動と︑かかる商業学の ⑥ 教師たることの矛盾にさらされるにいたったのである︒商業学の科学化ということは︑基本的には︑ドイツにおけ ⑨ る商業学や商科大学の当時の特殊事情から問題になって来たのであるが︑シェアー自身にとっても︑それは商業学
の教師たることと協同組合主義者たることとの矛盾を解決する為の唯一の道でもあったのである︒
商業学自体の科学化は︑個別経済を細胞とし︑国民経済を有機体とする︑商業経営学の国民経済学への従属化に
よって一応なしとげられるのである加︑その商業経営学の現実的対象である商業それ自体と協同組合との統一は如
何にして可能なのか︒シェアーによれば︑それは商業を消費組合に転化させることによって可能なのである︒では ﹃商業学とスイス消費組合聯合会
ツ ェ
ア ー
の 協
同 組
合 思
想 に
つ い
て ︵
大 橋
︶
一 九
0 三年チューリッヒ大学に招かれるまで︑ 五 四
ス
243
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の 協
同 組
合 思
想 に
つ い
て ︵
大 橋
︶
五 五
一体シェアーの協同組合思想とはいかなるものか︑そして商業の消費組合化をいかに理論づけようとするのか︒
ツェアーによれば︑人間には国家なら国家の一員として︑社会なら社会の一員として︑更に広く人類の一員とし
る︒更にこれは今日では単なる義務ではなくて︑新しい福音
( E
v a
n g
e l
i u
m )
とさえシェアーは考えているのである︒
つまり︑この義務によってはじめて︑社会なり︑個人は救われることができるのである︒従ってこれは人間の最高 ⑧ の規範なのである︒
シェアーによれば今日の義務は︑ ⑲ ﹃社会的に考え︑社会的に行動する﹄という公式で把握されるといわれる︒
ェーンプルークによれば︑これは要するにすべての現象︑
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﹃
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よって判定するということをいうのであるが︑ヤロスロウの定義によれば︑共同体原理とは︑結局一般に個人は国
家や社会に対する奉仕手段にすぎない︑国家や社会こそが︑それがたとえ現実にあるものであろうと︑理念的なも
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" "
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のであろうと︑無条件的に価値あるものである︒
かかる社会共同体原理のもとにおいてほ︑商業はもはや過去の商業のように︑商況を利用する術
( K
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)
で も
︑
商品交換において︑専門的或は財政的優位により購買者を誤らしめたり︑購買者の経験のないことを利用して︑購 図
n u
買者の犠牲で金儲けする手段や方策の集積であってはならないのである︒真の商人は国民経済︑社会の公僕であり︑ 悶
U
商業は﹃経済性と合目的性の原理によって組織されたる最終消費者間の財の交換﹄でなくてはならないのである︒ ハ 彼のいう社会的商業
( s o z
i a l e
r
H a
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)
によって最もよく実現されることが そしてこのことは私的商業よりも︑ d できるのである︒この場合の社会的商業とは要するに利澗を目的とした私的商業に対する意味での社会的商業であ てそれぞれなすべき義務
( P f l
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t )
が あ
る ︒
行動を共同体原理
( G
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そしてこの義務とは道徳として︑
シ
の尺度に カントのいう定言的命令なのであ
2
広く社会改良の方策でもあるのであるが︑ 五 六 ^ " " i
り︑国家︑協同組合︑消費者の利益の為にのみ経営されるところのあらゆる種類の商業経営を指すのである︒それ
は 私 的 商 業 同 様 ︑
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いわゆる商人によって経営されるのであるが︑この場合︑商人はもはや企業者としての商人では り
65n u. h u
なく︑社会の公僕︑職員としての商人と化して︑その責任の度合に応じて段階づけられた給与を受けるのである︒
シェアーによれば︑以上の如き商業の社会化は︑単なる主観的な願望なのではなくて︑資本主義の発展の結果必
然的に生じてこなくてはならないものであり︑渋則的なものである︒つまり今日の資本主義経済のもとでは︑利潤
追及と競争の結果︑財交換過程においては︑後述の遠心力︑求心力の発現として二つの相反する傾向が生ずる︒即
ち一方において商業を排除せんとする傾向が生ずるとともに︑他方において商業が介入する傾向が生ずるのである
が︑この排除傾向といい︑介入傾向といい︑ いづれも現象的には利潤原理と競争によって生ずるとはいえ︑基本的
には財交換の経済性と合目的性如何という根本原理に規定されているものなのである︒従って商人の活動が経済性
と合目的性の原理に従う限りにおいて︑商人は存在する妥当性を有するのであり︑そしてそれは商業が社会化され
ることによって最も可能になると考えられるのである︒
シェアーによれば︑以上の如き商業の社会化は単に商人にとって救われることのできる福音であるのみならず︑
シェアーはすべての社会的商業が社会改良上一様に同一の意義を有して
いるものとは考えない︒シェアーによれば︑社会的商業には国営形態のものと私営形態のものとの二種がある︒前
者は国家又は地方自治体的な強制を原理とした国家独占又は地方自治体による公経営
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)
の形態をとるものであるが︑後者の私営形態のものは自助
( S e l
b s t h
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)
を原理とした協同組合の形
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態をとるものである︒
ツ ェ
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の 協
同 組
合 思
想 に
つ い
て ︵
大 橋
︶
245
シ ェ
ア ー
の 協
同 組
合 思
想 に
つ い
て ︵
大 橋
︶
シェアーは国家︑従って国家による社会改良についていかに考えているのか︒
え最も広い意味においてそれが国民の福祉をその目的としてとりあげた場合にせよ︑その時々の社会状態とそれを
支配している権力要素(Machtfaktor)の産物であり︑⁝⁝国家の生産や消費に対する関与は︑経済的或は社会的 ⑳ 改良というよりは︑財政的又は租税政策的性格による場合の方がはるかに多いのである﹂︒更に国家は資本の集中
による資本主義の弊害に対しては全く無力である︒なんとなれば︑国家自身が資本主義によって影響こそ受け︑経
l l
nし
済法則に基づく資本主義の発展を防止することは出来ないからである︒いずれにしろ︑かくして国家は社会改良運
d
n3
動の主体ではありえないのみならず︑社会改良運動は国家の援助すら受け入れてはならないのである︒
従って︑社会的商業の正しい形態は私営形態のもの︑即ち協同組合形態のものに求められることになる︒この協
同組合形態には生産者の組織によるそれと︑消費者の組織によるそれとがその基本的なものとして存在するのであ
るが︑シェアーは︑前者の生産者の協同組合は社会改良運動上大きな意義を有しないとしている︒即ち彼によれば︑
生産者の協同組合︑なかんづく生産協同組合は消費協同組合との結びつきにおいてのみはじめて︑経済的に有用に︑
そして社会的に充分に機能することのできる最後の環である︒
に 従
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生 産
の 行
わ れ
る 経
済 協
同 体
( i
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五 七
シェアーによれば︑﹁国家は︑たと
つまり生産協同組合は︑第一に︑封鎖経済又は消費
の 場
合 を
除 い
て ︑
協同組合外で資本主義的企業と
販売競争をしなくてはならないのであり︑又たとえ協同組合外での販売を必要としない経済協同体の場合であって
も︑その協同体内部においてすべての消費財を賄うことはとうてい不可能である故︑必然的に商業の機能が必要に
なってくるのである︒従って︑生産協同組合それ自体のみでは社会改良上極めて不充分であるということができる 墨 のである
246
彼の考える社会改良運動は資本の没収を目的とするものではなく︑
潤 ︑ 取権 (Tributrecht) の限定を目的とするものでありそれこそが、これまで経済の進歩•発展を阻害して来た不 訓 当なる財の分配を正すとともに︑個人の自由を充分に保証するものなのである︒かかる社会改良運動においては︑ よ
れ ば
︑
働組合運動についていかに考えるのか︒ シ ェ ア ー に よ れ ば ︑ これに対して︑消費者の協同組合︑消費協同組合こそがシェアーの考える社会改良運動の唯一の基本的組織であ
る︒それは以上の如き消極的根拠とともに︑次の如き積極的な根拠にもよるのである︒シェアーによれば一国の資
本力
( K a p i t a l k r a f t )
には一国の消費力
( K o n s u m k r a f t )
が対置されるのであるが︑ ⑳ 定される為︑消費力は資本力を支配することができる︒従って消費力の組織化を通じてのみ︑消費に従って生産が
組織される経済協同体が形成されうるのである︒又生産力
( P r o d u k t i o n s k r a f t )
は組織化が困難であるが︑消費 乱
n3力は最も協同組合的に組織化されるのが容易である︒更に︑すべての人間が消費者であることから︑その組織の基
^ "
nし
礎が一般的︑普遍的でありうるのであり︑その為にその組織は自助を原理とした組織として形成しうるのである︒
勿論︑現実の社会改良運動としてはこのほかに︑労働組合運動が極めて重要な地位を占めている︒シェアーは労
済活動はすべての精神的活動の最も重要なる前提条件
( V o r b e d i n g u n g )
e a .n
3.
るのに対して︑分配は社会的問題である︒今日の社会問題は本質的には次の二つの問題から成っている︒即ち︑第
一に労働者がその生産物に対して受取るもの︑即ち賃銀の問題︑第二には消費者がその貨幣に対して受取るもの︑ 餅 似 即ち消費の問題の二者である︒従って︑社会改良運動はさし当りこの二つの問題を手がかりとして︑この賃銀と消
費という二つの領域において成立することになる︒即ち労働組合運動と消費組合運動とである︒しかしシェアーに
シ ェ
ア ー
の 協
同 組
合 思
想 に
つ い
て ︵
大 橋
︶
最終的には生産は消費に規
一般に人間生活は経済活動を基礎とするのであり︑経 罰
な の
で あ
る が
︑
労 資
の 協
調 ︑
生産は経済的問題であ
資本の労働に対する搾 五八
247
シェアーの協同組合思想について︵大橋︶ に求心的な力は協業を促進させ︑ t e i l u n g )
連帯主義
( S o r i d a r i s m u s )
といわれるものである︒
五 九 があるとともに︑他方において社会や集団に結合 一方において社会や集団から離れ︑ 消費協同組合が生産面へも進出し︑それを手中に収めるとすれば︑消費協同組合運動はストライキをその武器とす る労働組合運動よりはるかに効果的であり︑たとえ廻り道な方法にせよ︑賃銀問題が満足に解決されうる唯一の方 砂
n2法でもあると考えられることになるのである︒更に彼によれば︑今日では不足が問題なのではなくて︑明らかに過 閲 剰が問題であり︑大衆の窮乏は多く失業︑従って過剰生産の結果なのであるから︑労働組合は消費協同組合程有力
以上で明らかな如く︑消費協同組合こそが社会的商業の基本的組織であり︑社会改良運動の現実の組織なのであ
る︒シェアーによれば︑かかるものとしての消費協同組合運動の最終的な目的は全国民経済の消費協同組合を基礎
閲 閲
関 とする協同組合的組織化︑全消費財の協同組合的供給︑即ち経済協同体社会の形成でありそれはかのロッチデー り
S日ルの原則とも一致するものであり︑且つ︑経済的︑社会的発展法則から根拠づけられたものであるといわれる︒
シェアーによれば︑以上の如き社会改良運動は資本主義とも︑社会主義とも相入れない新しいものであり︑社会
シェアーによれば︑人間社会においては一般的に︑ 閲 ともいうべき二つの力が働いているといわれる︒例えば︑人間個人においても︑ な武器ではないということになる︒
遠心力
( N e n t r i f u g a l k r a f t )
と求心力
( N e n t r i p e t a l k r a f t )
自己の世界を確立しようとする遠心的な利己主義
( E g o i s m u s )
しようとする求心的な利他主義
( A l t r u i s m u s
) が存在している︒経済生活においても︑遠心的な力は分業
( A r b e i t s ,
を促進させ︑企業独立化︑専門化の傾向︑交換過程においては商業の介入傾向を生むのであるが︑反対
企業合同
( K o a l i t i o n )
の傾向︑交換過程においては商業の排除傾向を生むので
248
シェアーによれば︑合同によって力の結合が行われ︑それによって経済の機能はより良く遂行されることができ 餅
n 2
る の
で ︑
一般的にも合同の方向が基本的な方向であり︑それによって経済は進展してゆくのであるが︑交換過程︑
商業に関しては次の理由から合同の方向がより進歩的な方向であるといわれる︒即ち︑彼によれば︑生産者から消
費者に至る財の流通過程において交換が生ずる場合には必ず︑交換当事者間において利害の対立が生ずるのであり︑
従って少なくとも垂直的合同によって交換の回数が少なくなれば︑それだけ利害の対立は少なくなり︑その最高の 圃 段階︑即ち生産と消費が同一単位内で行われる段階においては︑利害の対立は全くなくなる︒従って合同をおし進
めることは利害の対立をなくする進歩的方向であるということになる︒
今日の経済段階においては︑シェアーによれば︑この合同には資本主義的企業の合同たる資本主義的合同︑社会主
並びにシェアーが社会共同体
( S o z i a l e G e m e i n s c h a f t )
と呼んでいる消費者の種々 ⑪ なる組織を総括するものとしての社会的合同の三者がある︒そして第一の資本主義的合同とは資本主義を経済体制
( W i r t s c h a f t s s y s t e m )
とする個人主義の道であり︑第二の国家的合同とは共産主義を経済体制とする社会主義の
道であり︑第三の社会的合同とは協同組合を経済体制とする社会連帯主義の道である︒いずれにしろ︑社会主義と
連帯主義とはいずれも個人主義・資本主義の資本主義的合同によって生ずる弊害と闘う方法として生まれて来たも
のであるが︑前者は国家の力
( S t a a t h i l f e )
を原理とするものであるのに対して︑後者は自助
( S e l b s t h i l f e )
を原 ⑫ 理とするものである︒国家的合同たる社会主義と資本主義的合同たる個人主義とは対立するものであるが︑社会連
帯主義は両者を仲介
( V e r m i t t l u n g
) するものである︒それは個人を社会的関係において把握し︑すべての個人の 義的国有化たる国家的合同︑ あ
る ︒
ツェアーの協同組合思想について︵大橋︶ 六 〇
2 9
シェアーの協同組合思想について︵大橋︶ 福祉とその調和を目的とするものであるから︑この社会連帯主義においてはじめて︑個人主義・資本主義の利己主 義的営利主義︑小数の富者に対する多数の従属︑社会主義・共産主義の全体の為の個人の犠牲︑強制的非人間性が 幽 克服され︑個人の自由︑幸福︑人格が社会の調和のもとにおいて最高度に展開せられるものであるといわれる︒
この社会連帯主義へは資本主義からは︑社会主義革命における革命的方法
( r e v o l u t i o n a r e r W e g )
進化的方法
( e v o u l t i o n a l i s t i s c h e r W
e g )
場 合
︑
によって平和的に︑
シェアーのいう進化的方法とは︑要するに古い経済形態に固執している古い思想を教育によって克服し︑漸
次的により高い経済形態に移行することをいうのであるが︑この連帯主義革命ともいうべき協同組合化における進 ︐
U化的方法の唯一の積極的方策こそ︑彼の考える商業経営学にほかならないのである︒つまり︑シェアーによれば︑ 墨 新しい経済形態は今日の経済体制においてすでに煎芽的な形態で存在しているのでありこの朋芽を伸ばすことが
商業経営学の任務であり︑理念である︒そしてそれは︑商業経営学が個人主義的・資本主義的思想に固執している
商人なりを教育することによって可能なのである︒
ー 』
ノ
に 対
し て
︑
仙 漸次的に移行しうるものと考えられている︒この
註山平井泰太郎緬﹁経営学辞典﹂︱︱︱︱一六ー一︱︱︱一七頁参照︒ここにおいても︑シェアーがスイスチーズ製造者組合の組合長
をつとめたことが述べられているのみで︑それ以後の活動にはふれられていない︒このことは彼が七八オの誕生日に当って 書いた自叙伝
( L e b e n s e r i n n e r u n g e n ) が第一巻のみしか上梓されず︑シェアーの本格的な活動がはじまる一八八二年で終
っていることにもよるであらう︒
図参考までにツェアーの協同組合活動の経歴を簡単に紹介すると︑彼は青年時代スイスの国民教育思想家
N s c h o k k e
の
"
G o l d m a c h e r d o r f
"
を 読 ん で 影 響 を う け
︑ 一 八 六 五 年 W e t t e n w i l 一の小学校に奉職するや︑その部落に公共組合
( G e , m e i n n i . i t z i g e r V e r e i n )
を作り︑その書記をつとめたのを手始めに︑一八七四年スイスチーズ製造者組合を設立︑その組合長
となり︑一八七五年
B i s c h o f s z e l l
の労慟組合の消費組合設立運動に加わって準備委員会の委員長をつとめ︑翌年消費組合
2$0
が活動をはじめるやその会計簿記方をつとめた︒一八八二年バーゼルに移るや高等商業学校で商業学を教える一方︑バーゼ
ル一般消費組合
( A l l g e m e i n e r K o n s u m v e r e i n B a s e l )
とも関係をもち︑一八八四年にはその書記となった︒一八九 0
年 ス イス最初の聯合組織︑スイス消費組合聯合会が結成されるやその理事になり
( H . M i l l i e r
が書記をつとめた︶︑一八九二年に
はその理事長となるとともに︑共同仕入機関
( G r o P e i n k a u f s o r g a n i s a t i o n )
を設立した︒一七九八年スイス消費組合聯合会︑
東スイス農業協同組合聯合会
( V e r b a n d o s t s c h w e i z e r i s c h e r l a n d w i r t s c h a f t l i c h e r G e n o s s e n s c h a f t e n )
合同し︑スイ
ス協同組合聯盟
( S c h w e i z e r i s c h e r G e n o s s e n s c h a f t s b u n d ) が設立されるやその理事長をつとめた︒一九 0 三年チューリ
ッヒ大学に招かれ︑以後一応︑協同組合運動からは離れた︒
J . F . S c h a r ; G e n o s s e n s c h a f t l i c h e R e d e n u n d S c h r i f t e n , B a s e l 1 9 2 0 , S S .
3
ー2 2 .
⑱
J . F . S c h a r
; a . a . 0 . , S S . 1 2 1 1 3 . 固シェアーによれば︑当時既にバーゼル一般消費組合は標準的な商業経営であり︑当時における最尖端の簿記等の経営方式
を用いていたということであり︑ツェアー自身又︑協同組合成功の客観的支柱として簿記計算を挙げているところからいっ
ても︑協同組合運営の為に商業学の研究を重要視したことが︑当然考えられうる︒
J . F . S c h a r ; a . a . 0 . , S S . 1 3 , 5 2 .
固J•F.
S c h a r ; a . a .
` 0 .
s .
1 6 .
⑥
F . S c M n p f l u g
; a . a . 0 . , S S . 8 9 1
g ) .市原季一前掲書二三ーニ四頁
m F .
Sc h c
i n p f
l u g ;
a . a . 0 . , S S . 9 1 1 9 2 . 当時においては︑例えばワイヤーマン・シェーニッツの著書
( G r u n d l e g u n g u n d S y s t e m a t i k e i n e r w i s s e n s c h a f l t l i c h e n P r i v a t w i r t s c h a f t s l e h r e , a K r l s r u h e 1 9 1 2 )
に対するプレンクーノの批判
に典形的にみられるように︑全体の利益を目標とする国民経済学のみが科学・学問でありうるという思想が一.般にあって︑
商業学の科学化は母なる学問としての国民経済学に従属することによってのみ可能なのであったであろう︒ここにゴムベル
グの個別経済学の一部分としての商業経営学という試みが︑ドイッ商業教育協会の懸賞に当選したにもかかわらず︑当時︑
一般に受け入れられなかった︱つの原因があるのではなかろうか︒
⑧
J . F . S c h a r ; D e r s o z i a l e H a n d e l , B e r l i n 1 9 1 6 , S .
7.
側
J . F ・ S c h a r ; a . a . 0 . , S .
7.
U O l F . S c h c i n p f l u g ; a . a . 0 . , S . 1 0 9 .
ツェアーの協同組合思想について︵大橋︶
六
251
シェアーの協同組合思想について︵大橋︶
ノ ,
皿
J a r o s l a w
; N i e l e u n
d W
e g
e d
e r H a n d e l s b e t r i e b s l e h r e , N e i t s c h r i
f t o f r H a n d e l s w i s s e n s c h a f t u n d H a n d e l s p r a x i s ,
19 11 /1 2,
s .
36 7.
⑫
J . F . S c h a r ; G e n o s s e n s c h a f t l i c h e R e d e n u n d S c h r i f t e n , S .
1 7.⑬
J . F . S c h a r
; A l l g e m e i n e H a n d e l s b e t r i e b s l e h r e ,
4 .
A u f l . , L e i p z i g
19 21 ,
S .
79 .
⑬シェアーによれば︑この社会的商業という言葉は彼がはじめて用いたものであるということである︒
J . F . S c h a r ; G e n o s s e n s c h a f t l i c h e R e d e n u n d S c h r i f t e n S . ,
1 8.⑮
J . F . S c h i i r ; a . a . O . , S .
17 .
佃 シ ェ ア ー の い う 商 業 経 営 の 概 念 に は
︑ 商 事 的 ( k a u f m a n n i s c h ) な活動が含まれている限りでの配給経営と生産経営とが 含められ︑消費経営は除外される︒
F . S c h o n p f l u g
; a . a . 0 . , S S . 1 0 0 │ 1 0 1 . 仰シェアーはこの場合の給与が給与支払者の感情によって勝手に決められることのない公正な給与
( G e r e c h t e L o h n u n g ) であるとのみ述べているにすぎず︑その具体的な決定方法︑計算尺度等ほ何んら示していないのであるが
( J . F . S c h i i r ; a . a . 0 . , S .
19
)
︑
こ の 点 に お い て
︑ 経 営 を 共 同 体 ( G e m e i n s c h a f t ) として把握し︑そこにおける賃金を公正賃金
( d e r g e r e c h t e L o h n ) としつつも︑それを決定すべき方法を究明しているニックリッシュと︑極めて著しい対照をなすのである
が、この原因については後にふれる。H•Nicklisch;
D i e B e t r i e b s w i r t s c h a f t , S t u t t g a r t
19 29
ー
32 ,
s .
267
f f .
古林喜
楽﹁賃銀形態論﹂第九章二
0 1
︱ ︱ 頁 以 下 参 照 ︒
⑱シュアーによれば︑社会的商業においては利潤追及が排除される結果︑その職員に期待される経営上の努力は︑秋的商業 における利澗追及から生ずるそれにとうてい優るものではない︒従って社会的商業は輸入には適しているが︑輪出には全く
適していないということである。J•F.
S c h i i r ; D e r s o z i a l e H a n d e l , S . 1 1 .
閥
F . J . S c h i i r
; a . a . 0 . , S . 1 0 .
⑳
J . F . S c h i i r ; G e n o s s e n s c h a f t l i c h e R e d e n u n d S c h r i f t e n , S .
13 6.
仰
J . F . S c h a r ; a . a . 0 . , S .
1 4 8 .
シェアーは︑経済ほ根本的には人間の意思によっては如何ともしがたい︱つの客観的法 則にもとづいて発展していくものと考えている
( d e r s e l b e ; A l l g e m e i n e H a n d e l s b e t r i e b s l e h r e
̀ s . 1 0 2 ) ︒ 資 本 主 義 の 発展に応じて合同
( K o a
l i t i
o n )
が生じ︑その結果幾多の弊害を生ずるとしても︑それはかかる経済の法則的力の発現であ
入HトーQ器匝涎4[IlH辞恥い\~¥.I
(‑K
誕)1
く回"sz
S'囲條廷全全内磁燃娯臨Q拙零や戎Cド’キQ森蚕忌娯幽心国』ャ心R心把⇒共2Qや~JQO
因巡短Q忌v',
、
Hド→ぢ訊暉恕州嶽様告茶瑕ギ起択班以がド料品起U'
賑%品出にぶ兵内』⇒
ドニ心Qや戎心茶'~Q抵以名ニドヂ囲條忌叶謎廷A&兵炉<如や共今..>J⇒Vニ内゜J. F. Schar; Der soziale Handel, S. 15. 忍 J. F. Schlir; Genossenschaftliche Reden und Schriften, S. 137.
思 J. F. Schar; a. a. 0., S. 153. 図 J. F. Schlir; a. a. 0., S. 152. 毯 J. F. Schlir; a. a. 0., SS. 137
ー138. 医 J. F. Schlir; a. a. 0., S. 9. 思 J. F. Schlir; a. a. 0., SS. 135, 155.
思 J. F. Schar; a. a. O., SS. 9, 48. 忌 J. F. Schar; a. a. 0., SS. 100
ー101.
:§ J. F. Schlir; a. a. o., ss. 82‑84. 慈 J. F. Schlir; a. a. O., SS. 46, 95‑96.
怒
J. F. Schlir; a. a. 0., S. 78.
茜
J. F. Schlir; a. a. 0., S. 154. 忍 J. F. Schlir; a. a. O., S. 51.
思 J. F. Schlir; a. a. 0., S. 155.
思 J. F. Schlir; a. a. 0., S. 156.
窓 J. F. Schlir; Allgemeine Handelsbetriebslehre, SS. 294‑295.
雹 J. F. Schlir; Genossenschaftliche Reden und Schriften, S. 149.
室 J. F. Schlir; Allgemeine Handelsbetriebslehre, S. 209.
蚕 J. F. Schlir; a. a. 0., S. 297.
塁 J. F. Schlir; Genossenschaftliche Reden und Schriften, S. 148.
253
ツェアーの協同組合思想について︵大橋︶
六五
⑬
J . F . S c h a r
; A l l g e m e i n e H a n d e l s b e t r i e b s l e h r e ,
5.
A u f l . , L e i p z i g
1 92 3,V e r f a s s e r s V e r m a c h t n i s , S S .
510ー
51 4.
閥
J.F . S c h a r ̲ ; D e r s o z i a l e H a n d e l , . S
15 .
d e r s e l b e
; G e n o s s e n s c h a f t l i c h e R e d e n u n d S c h r i f t e n , S S .
15 6, 3 90 .
F . S c h o n p f l u g
; a . a . 0 . , S .
11 4.
⑮ シ ェ ア ー は 没 価 値 判 断 を 否 定 し
︑ 商 業 経 営 学 は さ し あ た り 純 粋 科 学 と し て
︑ 記 述 的 に 客 観 的 研 究 に 従 事 す ぺ き で あ る
が︑その上に立って客観的規範を設定し︑更にそれに達する為の方策を明らかにする目的論
(Z
w e c k s l e h r e
) ︑
技 術 論 ( K u n s t l e h r e )
でなくてはいけないと考えるが︑それは道徳的
( s i t t l i c h )
/ ! J .
は次の如き二つの任務を有することになる︒即
ち︑第一には現実の現象がそれによって批判される客観的尺度としての規範の設定と︑この進化的方法における唯一の手段
としての教育的任務とである
( F.
S c h o n p f l u g , a . a ・ . 0 . ,
. s s
10 5‑ 11 4)
︒いずれにしろ︑こうした意味においてシェアー
の商業経営学は連帯主義社会における商業︑即ち社会的商業の理論︑私的商業の社会的商業化︑協同組合化の理論なのであ
る
( A . . 0 S t i c h ; a . a . 0 . , S .
59
)
︒又︑シェアーにおいては要求される新しい経済秩序がディートリッヒの場合の如くド
グマとしてではなく︑望ましい理想的状態
( W 巳 1 s c h e n s w e r t e r I d e a l z u s t a n d )
として提起されているにせよ︑それが規
範的理論であるといわれるのである
( A . 0 . S t i c h , a . a . 0 . , S .
60
)
︒いずれにしろ︑彼の商業経営学︑或は簿記理論ほ以
上の如き彼の協同組合思想にもとづいて検討されるべきであるが︑他日の機会に譲ることにする︒
⑯
J.F . S c h a r ; G e n o s s e n s c h a f t i c h e R e d e n u n d S c h r i f t e n , S .
39 0.
シェアーは以上の如き社会連帯主義思想にもと︑︑ついて︑個別経済と国民経済とを有機的関係において把握し︑個
別経済は有機体としての国民経済の細胞なりとするのであるが︑他方︑その個別経済とは以上の如き意味における
協同組合なのであり︑協同組合こそが来たるべき新しい連帯主義社会における個別経済の唯一の形態であり︑組織
引i
なのである︒シェアーの以上の如き社会有機観は国民共同体論的な経営共同体論といわれるものである却︑シェア
254
ロッチデール式協同組合︑
ーにおいては︑細胞である個別経済が︑その規範的な形態においては︑協同組合であるという点が注目されねばな
らないのである︒ここに︑われわれはシェアーの立場を︑ よ り 適 切 に は ︑
﹁協力ということ﹂をまず第一の本質的 モスクワ式協同組合並びにファッショ ﹃協同組合的国民共同体論﹄として規定
することができるであろう︒われわれはここにおいて︑協同組合の経営学的な本質について若干の検討を行い︑
ェアーの協同組合的国民共同体論の意味を検討し︑結論にかえるしだいである︒
シ
今日一般に協同組合と呼ばれているものには︑ ③
的協同組合の三者があるのであるが︑シェアーの考えているそれは︑いうまでもなく︑第一のロッチデール式のもの であり︑そしてそれは普通一般にいわゆる協同組合と呼ばれているものである︒以下問題にする協同組合とはこれ
を指すのであるが︑ かかるロッチデール式協同組合は︑ い う ま で も な く ︑
なメルクマールとするものである︒この点において個人主義︑競争主義を原理とする資本主義企業とは根本的に異 なるものであるが︑この場合︑協力とはいうまでもなく人間同志のそれであり︑二人以上の人間がそれぞれの一応
④
の自発的意思にもとづいて各自の力を一つにする活動なのである︒従って協同組合は当然に﹁資本の組織﹂ではな
固
くて︑なによりも人の組織であり︑人的団体である︒更に協同組合における人々の協力の目的︑
目的は経済目的である︒確かに例えばトトミアンツの如く︑協同組合の目的に経済的なものとともに︑道徳的なも
⑥
の︑精神的なものを挙げるものもあり︑シェアーもそういう面を強調するのであるが︑しかしそれはあくまで経済
⑧
的状態の改善により︑間接的に道義の向上を期すというものであって︑経済目的と無関係な精神的目的を目的とす るものは︑当然協同組合とはいえないであろう︒協同組合はこの経済目的を経済的事業の経営を媒介として達成せ
︐
んとするものであり︑この点において︑集団外の相手方との交渉においてその目的を達成する労働組合とは異なる︒
ツ ェ
ア ー
の 協
同 組
合 思
想 に
つ い
て ︵
大 橋
︶
つまり協同組合の 六六
255
シ ェ
ア ー
の 協
同 組
合 思
想 に
つ い
て ︵
大 橋
︶
六 七
m
hu
▼
しかもこの経済的事業は組合員の家計又は産業の一部なのであり︑組合の営む経済的事業を組合員が利用すること
によって︑組合員の家計又は産業を促進せんとするものである︒従って協同組合においては︑原則的には事業の利
用者と経営者とが同一人ということになり︑協同組合自体としては︑利潤を追及する動機も︑叉その余地も存しな
l l
U"3
いのである︒それはあくまで利用主義にもとづく非営利的な団体である︒もともと協同組合は家業原理にもとづく
家業の経営者が︑その経営者として果すべき諸任務を外縁的に分担せしめるものとして生まれて来たものであり︑
それは家業が資本主義企業に対する対抗力を得ようとして結成されるものであっても︑これと決っして同化するも
e
"
ぃ
のではなく︑あくまで基本的には家業の原理に従うものなのである︒
かかる意味においてテンニースは協同組合をもって来たるべきゲマインシャフト
( G
e m
e i
n s
c h
a f
t )
の世界の煎芽
3 1
3 U
であるとしているのである︒勿論︑テンニースのいうゲマインシャフトの概念が︑経営学において一般にいわれて
いる共同体︑経営共同体の概念と一致するものではないが︑かといって確固たる共同体の概念が経営学にあるわけ
ハ出
3 U
ではない︒ここでは唯︑われわれはシェアーが規範的な経営形態としている協同組合が︑テンニース的な意味におい
て は
︑
ゲマインシャフト︑
で あ
る ︒
しかも来たるべきゲマインツャフトの世界の朋芽として考えられている点に注目すべき
シェアーが研究の重点を経営の外部生活におき︑その結果︑社会有機観にもとづき国民共同体を主張する 2 にいたったといわれるのは確かに正しい︒そして又彼は確かに︑ディートリッヒやニックリッシュ的な意味におけ
る 経 営 内 部 的 な ︑ いわゆる経営共同体についてはなんら問題にしていないのであるが︑しかしながら︑ シェアーの
考える経営はあくまで協同組合であり︑そしてそれは︑テンニース的意味においてしろ︑ゲマインシャフトとして︑
私企業に対しては規範的な意味を有しているものなのである︒従ってシェアーの思想を︑その社会有機観のみにも
256
とづいて国民共同体論としてのみ規定するのは︑誠に不充分であり︑
周 知
の 如
く ︑
の立場に立つもの︑並びに協同組合主義の立場に立つものがあり︑更に最後の協同組合主義には︑生産者の協同組
合を基礎とする生産者協同組合主義︑消費組合を基礎とする消費組合主義︑及び生産者並びに消費者の両協同組合
を基礎とする綜合協同組合主義がある︒消費組合を出発点として全経済の協同組合化を主張するシェアーの連帯主
義思想は︑明らかに消費組合主義に属するのであるが︑消費組合主義︑特にプッシュ的なそれは︑すべての利潤が
流通過程において商人による消費者の搾取によって生ずるという考えを︑ ︱つの基本的な支柱としているのである︒
^U
h u
従って消費組合主義によれば︑あくまで流通過程が問題なのであって︑生産の問題はさしあたり問題にならない︒
シェアーは︑前述の如く︑生産は経済的な問題であるが︑分配は社会的な問題であり︑今日の社会問題は本質的
には賃銀と消費の問題にあるとしているが︑
な︑収奪的な商業の克服︑消費組合への改造によって消費問題さえ解決されれば社会問題は解決されると考えるの
である︒そしてそれは︑消費力が資本力より強い︑やがては消費力が資本力を支配する︑消費力が資本力を支配し
た時こそ︑無政府的な︑無統制的な生産は消費に従っ組織される︑従って消費協同組合のみが経済的な問題たる生
産と社会的問題たる分配の両者の問題をよく解決しうるという思想を根拠にしているのであるが︑
い て
は ︑
かえってディートリッヒやニックリッシュと
一般に協同組合思想には︑特に資本主義との関連において︑資本主義の立場に立つもの︑社会主義
シェアーは前者を閑却し︑後者の問題にのみ目を向け︑不等価交換的
いずれにしろ︑賃銀の問題はさしあたり問題にはならないのである︒かかるシェアーの考えに対して︑デ
ィートリッヒやニックリッシュは正にシェアーの閑却しさった賃銀の問題をとりあげ︑ の関係を不明ならしめるものであるといわざるをえない︒ シェアーの協同組合思想について︵大橋︶
かかる考えにお
シェアーが流通過程︑従っ
六八257
シェアーの協同組合思想について︵大橋︶
わ れ
わ れ
は ︑
六 九
て経営外部生活を問題にするに対して︑生産過程︑従って経営内部生活において問題をとりあげんとするのである︒
かかる意味において︑ディートリッヒやニックリッシュの労働共同体︑或は経営共同体の思想に対し
て︑シェアーのそれを流通過程における共同体の思想であるということができるのである︒
シェアーが生産過程を過小評価し︑流通過程に目を奪われ︑協同組合に固執したのは︑
彼の時代的制約にもよるのであるが︑もともと協同組合主義者として企業という資本主義の基本的な経済形態に目
を向けえなかった彼個人の特殊な事情にもよるであろう︒いずれにしろ︑われわれはテンニースが協同組合をもっ
て来たるべきゲマインシャフトの煎芽であるとしているように︑ いうまでもなく︱つには
シェアーの﹃協同組合的国民共同体論﹄をもって︑
来たるべき経営共同体思想の先駆的形態として位置づけることができるのではなかろうか︒
註山J•F.
S c h l i r ; A l l g e m e i n e a H n d e l s b e t r i e b s l e h r e
︑
4.
A u f l . , S .
4 3 .
図市原季一﹁経営における共同体論﹂山城章編﹁企業形態﹂五八頁 矧 平 井 泰 太 郎 緬
﹁ 経 営 学 辞 典
﹂ 一 六
0 頁
④ 磯 部 喜 一 ﹁ 協 同 組 合 ﹂ ︱ ︱ 一 七 ー ︱ ︱ ︱ 九 頁
固国弘員人﹁協同組合﹂山城章編﹁企業形態﹂︱︱八ー
1
一九頁︒沢村康﹁協同組合論﹂一 0 頁
⑥
V . T
o t o m i a n z
; G r u n d l a g e n e d s G e n o s s e n s c h a f t s w e s e n s
̀ 2 . A u f l . , B e r l i n 1 9 2 9 , S .
6 .mJ•F.
S c h l i r ; G e n o s s e n s c h a f t l i c h e R e d e n n u d S c h r i f t e n
︑
s .
4 6 .
⑧ 磯 都 喜 一 前 掲 書 四 二 頁 圃 磯 都 喜 一 前 掲 書 四 七 頁 皿 沢 村 康 前 掲 書 九 頁
u l l
沢村康前掲書︱︱頁︒このほか協同組合の本質を規定するメルクマールとして多くのものが挙げられのであるが︑
そのうち﹁民主主義﹂をそれに入れるかどうかが最も重要な問題である︵磯部喜一前掲書五四ー五六頁︑国弘員人前掲書一
258
磯部博士は民主主義を論じなくても協同組合の解明は不十分にはならないとされている︒私見もそれに贅
二 0
頁 等 参 照
︶ ︒
成 で あ る ︒
四栗田真造﹁家業の性格と企業﹂山城章編﹁企業形態﹂三五頁︒栗田教授によれば︑家業とは﹁一家の生計維持を目的とし
て︑家産を用い︑家族労働を中心とする経営を意味し︑生産湯所が生活湯所と融合し︑或は未分離の状態を呈しているもの﹂
︵前掲書ニー頁︶であり︑営利経済に立脚し︑経済合理主義によって導かれる独立事業体たる資本主義的経営としての企業に
対する︑いわゆる︑前資本主義的経営である︒従って家業は次の如き原理に立脚している︒即ち︑生活目的を経営目的とし︑
家政経済を基礎とする生成体であり︑家産を土台にして︑家族労働を基本とする家長的支配にあり︑収支計算によって嘩か れ る の で あ る
︵ 前 掲 書 二 六 ー ︱
︱ 一 六 頁
︶ ︒
⑬
F . T o n n i e s
; G e m e i n s c h a f t u n d G e s e l l s c h a f t , 杉 之 原 寿 一 訳 岩 波 文 庫 阪 下 巻
︱
‑1
一五ーニ
1‑1^頁︒なお
d e r s e l b e
; E i n f u h r u n g i n d i e S o z i o l o g i e , S t u t t g a r t
19 31 ,
S S .
521a5
. 会 ニ 照
︒ 閥市原助教授は︑共同体論を有機体論であるとされ︑経営共同体論とは経営を有機体視する思考であるとされているが︵市
原季一前掲書五六頁︶︑必ずしもそれが定説であるとも︑正しいともいえないのではなかろうか︒因みに平井泰太郎絹﹁経営
学辞典﹂には経営共同体という項目はなく︑共同社会という項目においてテソニースのゲマインシャフト論が紹介されてい
るのみである。又
H•Nicklisch;
H a n d w o r t e r b u c h d e r B e t r i e b s w i r t s c h a f t
U おいても
B e t r i e b s g e m e i n s c h a f t と い う項目は設けられているが︑労働法的概念が述べられているにすぎない
( a . a . 0 . ,
S. 1
08 2)
︒
⑮ 国 弘 員 人
﹁ 協 同 組 合 概 論
﹂ 三 四 ー 四 一 頁
⑱一八九四年春以来︑ドイツ︑オーストリア︑スイスにおいては︑殆んど時を同じくして協同組合の理念についての論争が
生ずるのであり︑その際ブッシュ
( E . B u s c h ; D i e s o z i a l e F r a g e n u d i h r e L o s u n g , . B e r l i n
1
89 0)
の考えから出発す
るものと︑ボック
( B . P o t t e r ; T h e C o , o p e r a t i v e M o v e m e n t i G n r e a t B r i t a i n , L o n d o n
18 91 .
因みに本書の独訳阪
は一八九一ー一年ブレソクーノの訳で出阪されている︶の考えから出発するものとの二つの流れがあった︒シェアー自身は後者
に属するのであるが︑もともと彼がその協同組合思想を確固たるものにしたのはこの論争の中においてであった︒以下参考 までに簡単にこの二つの思想の流れをあとづけることにする
(J
F .
.S c h a r ; e G n o s s e n s c h a f t l i c h e R e d e n u n d S c h r i f t e n ,
s .
362
f f . ) ︒ シェアーの協同組合思想について︵大橋︶ 七〇
259
シェアーの協同組合思想について︵大橋︶
七
ブッツュの考えは要するに︑利潤が生ずるのは商品の交換過程において商人が消費者を不当に搾取するからで︑小売商が消
費者から獲得した利潤が卸売商•生産者に配分される。従って又全ての営業の基礎をなしているのは顧客(Kundschaft)である︒それ故最終消費者の組織こそが真に社会問題を解決しうる能力を有しているものである
( V .
T o t o m i a n z ; T h e o r i e , G e s c h i c h t e u n d P r a x i s d e r K o n s u m e n t e n o r g a n i s a t i o n ,
2.
Aufl••Berlin
19 23 , S.
19
f f .
) ︒
スイスにおいてプッツュの影響をうけたものにミューラー
( H . M u l l e r )
がある︒彼の考えは一八九六年彼がスイス消費
組合史
( D i e s c h w e i z e r i s c h e n K o n s u m g e n o s s e n s c h a f t e n , i h r e E n t w i c k l u n g u n d R e s u l t a t e , B a s e l
1 89 6)を執筆
したのを契機として大きく変っているが︑ここで重要なのは執筆以前の考えである︒それによると︑社会において個々の階
級は︑それぞれ生産と分配において果す役割によって決定される社会的力関係
( s o z i a l e s M a c h t v e r h ! i l t n i s )
~あり、こ