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黒崎幸吉のアドルフ・フォン・ハルナック論 : 『新世』に掲載された『全集』未収録の論稿をめぐって 利用統計を見る

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Title 黒崎幸吉のアドルフ・フォン・ハルナック論 : 『新世』に掲載された『全集』未 収録の論稿をめぐって

Author(s) 深井, 智朗

Citation 聖学院大学総合研究所紀要, No.45

URL http://serve.seigakuin-univ.ac.jp/reps/modules/xoonips/detail.php?item_i d=2023

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黒崎幸吉のアドルフ・フォン・ハルナック論

黒崎幸吉のアドルフ・フォン・ハルナック論

︱ ︱ ﹃新世﹄に掲載された﹃全集﹄未収録の論稿をめぐって

深  井  智  朗

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はじめに

本論は雑誌﹃新世﹄の一九二六年︵大正一五年︶六月号に掲載された黒崎幸吉﹁アドルフ・ハルナックの印象﹂の復 刻とその解説である︒ 雑誌﹃新世﹄は黒崎の論稿が掲載された一九二六年当時︑約三〇〇部が印刷され︑そのうち約二〇〇部が有料販売さ れ て い た に 過 ぎ な い 小 さ な 雑 誌 で あ る が︑ 彼 は こ の 小 さ な 雑 誌 に ベ ル リ ン 留 学 時 代 に 講 義 を 聴 い た ア ド ル フ・ フ ォ ン・ ハルナックについての論稿を寄稿している︒この小論は後の新教出版社刊﹃黒崎幸吉著作集﹄にも︑その続編にも収録 されていないので︑おそらく今日までほとんど読まれることがなく︑知られていなかったものと思われる︒しかしその 内容は一九二〇年代のハルナックの様子を紹介し︑また黒崎のキリスト教や神学についての理解を知ることが出来る貴 重な論稿である︒そこで本論ではこの論稿を復刻し︑それに若干の解説を付して資料として紹介することにした︒ ﹃新世﹄の全巻は︑歴史家であった故秋山   操氏が︑ ﹃基督教会︵ディサイプル︶史﹄編纂のために利用し︑現在日本

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基督教団滝野川教会に保存されている資料集の中に︑整理され︑製本され︑保存されていた︒ 本論執筆・編集にあたり︑当時の雑誌﹃新世﹄の発行者であり︑編集責任者であった故畑中岩雄氏︑故黒崎幸吉氏の ご遺族に事情を説明し︑印刷の許可を求める手紙をお送りしたところ︑それぞれにご快諾いただいたので︑ここに黒崎 幸吉の論稿を掲載することが可能になった︒

1 .雑誌﹃新世﹄ ︑黒崎幸吉︑そしてベルリン留学

『聖書之道』から『新世』へ

雑誌﹃新世﹄は︑一九二五年︵大正一四年︶四月から一九二七年︵昭和二年︶二月まで四八頁建ての雑誌として刊行 されたが︑それ以前は﹃聖書之道﹄と称する﹁基督教会︵ディサイプルス︶ ﹂の教団機関新聞であり︑昭和二年以後は︑ ﹃ 新 世 ﹄ と い う 同 じ タ イ ト ル で タ ブ ロ イ ド 版 八 頁 の 同 教 団 の ニ ュ ー ス 紙 と な っ た︒ 大 正 末 期 か ら 昭 和 初 期 に か け て の わ ずか二年間だけ発行された雑誌である︒ ﹃ 聖 書 之 道 ﹄ は︑ 一 九 〇 一 年︵ 明 治 三 四 年 ︶ 四 月 に 福 島 で 開 催 さ れ た 基 督 教 会 同 志 大 会︵ 年 会 ︶ で 刊 行 が 決 議 さ れ︑

C ・ E ・ ガ ル ス ト︑

H ・ 下 旬 発 行︑ 一 部 定 価 三 銭 ﹂ で 刊 行 が 開 始 さ れ た︒ 発 行 人 は﹁ 築 地 居 留 地 四 四 番 館 H ・ ガ イ︑ 宮 崎 八 百 吉 が 編 集 準 備 委 員 と な り︑ 同 年 六 月︑ ﹁ 新 聞 の 四 分 の 一 大︑ 一 二 頁︑ 毎 月

C ・ 川区小日向台町一丁目四番地 E ・ ガ ル ス ト ﹂︑ 編 集 人 は﹁ 小 石 H ・ガイ﹂であり︑実際の編集は宮崎がひとりであたっていた

一 九 〇 四 年︵ 明 治 三 七 年 ︶ 一 〇 月 一 三 日 か ら 聖 学 院 教 会 で 始 ま っ た 同 教 団 の 年 会 の 報 告 書 に 次 の よ う な 記 載 が あ る︒ ︒

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黒崎幸吉のアドルフ・フォン・ハルナック論

﹁﹃ 聖 書 之 道 ﹄ は 同 年 七 月 に 編 集 経 営 を 日 本 人 に 移 す こ と︵ 経 費 と し て 毎 月 一 六 円 五 〇 銭 を ミ ッ シ ョ ン よ り 支 給 ︶ を 決 定したので︑これについて協議が行われた︒大阪の平井︹庸吉︺牧師は﹃本誌の発行部数は四五〇部︑購読部数二〇四 部︑ 大 阪 で 伝 道 用 と し て 一 〇 〇 部 を 使 用 し て き た︒ 現 在 の 編 集 発 行 人 は 一 先 ず 辞 任 す る

年︵ 明 治 三 九 年 ︶ に な っ て 雑 誌 は 再 び ミ ッ シ ョ ン に 復 帰 す る こ と に な り︑ しかし村山の編集長時代﹃聖書之道﹄はしばしば休刊となり︑編集が責任的になされていなかったために︑一九〇六 もない一九〇四年︵明治三七年︶一一月から一九〇六年︵明治三九年︶八月までは村山敏雄が編集を担当している︒ ﹄﹂ と 報 告 し て お り︑ そ れ に と

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M ・ 広 告 料 七 六 円︑ 前 年 度 よ り の 繰 越 一 二 円 ︶︑ 支 出 九 一 〇 円 一一年︶ ﹁六月より本年五月までの収入七六二円︵うち年会費補助六〇円︑ミッション補助一八三円︑購読料二一七円︑ 一 九 二 三 年︵ 大 正 一 二 年 ︶ の﹃ 聖 書 之 道 ﹄ の 経 営 状 況 を 示 す 資 料 が 残 っ て い る が︑ そ れ に よ れ ば 一 九 二 二 年︵ 大 正 た︒ B ・ マ デ ン が 編 集 を 担 当 す る こ と に な っ

一日より実行に既に移されている 年 会 報 告 書 に よ れ ば︑ ﹁ 雑 誌 専 任 主 筆 と し て 畑 中 岩 雄 牧 師︵ 大 阪 玉 出 教 会 ︶ を わ ず ら わ す こ と︑ 新 計 画 は 一 四 年 四 月 オン雑誌となることを目指して︑専従の編集担当者を指名するというものであった︒ 道 の 視 点 か ら︑ ﹃ 聖 書 之 道 ﹄ を﹃ 新 世 ﹄ と 改 題 し︑ 教 団 の 機 関 紙 で あ る よ り は︑ よ り 広 く 日 本 の キ リ ス ト 教 界 の オ ピ ニ で︑ ﹃ 聖 書 之 道 ﹄ の 将 来 計 画 が ま と め ら れ︑ 一 九 二 五 年︵ 大 正 一 四 年 ︶ の 年 会 で そ の 案 が 承 認 さ れ た︒ そ の 案 は 文 書 伝 翌 一 九 二 四 年︵ 大 正 一 三 年 ︶ に な り︑ ﹃ 聖 書 之 道 ﹄ の 刊 行 継 続 に つ い て の 審 議 が 行 わ れ︑ そ の 年 の 四 月 の 総 務 委 員 会 らず︑一五〇円以上の赤字であることがわかる︒ ﹂ で︑ か な り の 補 助 を ミ ッ シ ョ ン か ら 受 け て い る に も か か わ

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る︒雑誌は三ヶ月以内に独立する 円︑ 主 筆 の 俸 給 手 当 て を 加 え て 三 六 〇 円︑ 収 入 見 込 み 一 〇 五 円︑ 差 引 き 二 五 五 円 の 赤 字 は 総 務 委 員 会 会 計 か ら 補 填 す ﹂となっている︒また﹁雑誌は基本的には四八頁建てとし︑一ヶ月の雑誌経費二七〇

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﹂という付帯決議もなされていた︒

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黒崎の寄稿があった一九二六年︵大正一五年︶六月現在の﹃新世﹄は︑定価三〇銭︒送料一銭︒編集兼発行人は東京 市外杉並町馬橋三六の畑中岩雄︑印刷人は東京市外池袋一六三〇の小谷実︑発行所は畑中と同住所の新世社となってい る︒印刷部数三〇〇部で︑有料購読は二〇〇を下回るようになっていた︒雑誌は

で︑有料購読者は出納簿によれば二〇三名であった 内機関紙として︑タブロイド版八頁の教団内の情報を扱う新聞にもどっている︒この時点で印刷部数はやはり三〇〇部 しかし雑誌としての﹃新世﹄は発行部数を伸ばすことができず︑結局一九二七年︵昭和二年︶六月からは︑再び教団 広く選ばれている︒ 一樹︑杉浦貞二郎︑そして黒崎幸吉等が加わっており︑内容も聖書学や神学に限らず︑文学︑経済︑政治︑芸術論など 信人︑友野三恵︑高柳伊三郎︑本多羔六︑井上吉次郎︑金子白夢︑平野国利︑御木本隆三︑郷司浩平︑毛利官冶︑鈴木 だけではなく︑広くキリスト教界全体からも原稿がよせられている︒執筆者には畑中岩雄はもちろん︑渡辺善太︑小田 た︒ ﹃新世﹄には旧聖学院神学校関係者︑あるいは﹁基督教会︵ディサイプルス︶ ﹂派の牧師や信者などが寄稿している さ て こ れ に と も な っ て 畑 中 は 一 九 二 四 年︵ 大 正 一 四 年 ︶ 三 月 に 上 京 し︑ 同 年 九 月 か ら 新 し い 雑 誌 の 刊 行 が 開 始 さ れ A 5 版で︑各号五六頁であった︒

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黒崎幸吉 黒崎幸吉が﹃新世﹄にハルナックについての論文を寄稿することとなった経緯は不明であるが︑おそらく鶴岡にあっ た鶴岡基督教会との関係のためであろう︒黒崎は一九二五年欧州留学直後︑郷里の鶴岡に戻っており︑そこで﹁基督教 会︵ デ ィ サ イ プ ル ス ︶﹂ の 鶴 岡 基 督 教 会 と の 関 係 が 生 ま れ て い る︒ 一 九 二 六 年︵ 大 正 一 五 年 ︶ の 同 派﹁ 秋 田 教 区 報 ﹂ に よれば︑鶴岡教会の﹁熊田亀之助氏は黒崎幸吉氏を招き毎週藤島で聖書研究会を行っている

﹂とあり︑黒崎自身も﹁鶴

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黒崎幸吉のアドルフ・フォン・ハルナック論

岡市に古くから存在した若葉町教会

の牧師白井為治郎氏

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うになった も旧知の先輩であったので︑その教会で時々講演などをするよ

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妻寿美子の急逝後︑伝道者となる決心をし︑住友を退職し︑内村鑑三の指導を受けつつ︑その準備にあたっていた︒ り︑ 住 友 家 嗣 子 住 友 寛 一 の 補 導 係︵ 一 緒 に 渡 米 ︶︑ 住 友 製 鋼 所 副 支 配 人 な ど を 歴 任 し た 後︑ 一 九 二 一 年︵ 大 正 一 〇 年 ︶︑ た︒一九一一年︵明治四四年︶に大学卒業後︑住友総本店に入社し︑高木寿美子と結婚している︒その間経理課主計係 部︶の政治学科に入学し︑上京し︑一九〇九年︵明治四二年︶一〇月から内村鑑三の聖書研究会に出席するようになっ そ の 長 男 黒 崎 幸 吉 は︑ 一 九 〇 七 年︵ 明 治 四 〇 年 ︶ に 東 京 の 第 一 高 等 学 校 を 卒 業 し︑ 法 科 大 学︵ 現 在 の 東 京 大 学 法 学 の社主をつとめるなど庄内の経済界の指導的役割を果たしてもいた︒ 家 松 平 穆 堂︑ 吉 田 芭 竹 な ど 多 く の 門 弟 を 育 て︑ 他 方 で 金 融 機 関 済 急 社︵ 後 に 荘 内 銀 行 の 前 身 六 十 七 銀 行 に 吸 収 さ れ た ︶ つとめた酒井了明の三男で︑後に彼は黒崎友信の養嗣子となった︒研堂は庄内における書道興隆の基礎をつくり︑書道 黒崎幸吉は一八八六年︵明治一九年︶に山形県鶴岡市に︑黒崎研堂の長男として生まれた︒研堂の父は庄内藩家老を ﹂と書いている︒

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黒崎の欧州留学及び本論の執筆時期について

黒 崎 は 一 九 二 二 年︵ 大 正 一 一 年 ︶ 欧 州 留 学 に 出 発 し 一 九 二 五 年︵ 大 正 一 四 年 ︶ 三 月 に 帰 国 す る ま で︑ ド イ ツ︑ ス イ ス︑イギリスなどで各地の大学を訪ね研鑽を続けた︒帰国後は﹃永遠の生命﹄誌を創刊し︑鶴岡︑神戸などに住み︑さ ら に 有 名 な﹃ 注 釈 新 約 聖 書 ﹄︑ あ る い は ギ リ シ ア 語 辞 典 や 文 法 書 な ど を 執 筆 し︑ 無 教 会 の 指 導 者 と し て︑ ま た 新 約 聖 書 学者として︑さらには著作家として広く知られるようになった︒ 黒崎は一九二二年︵大正一一年︶に欧州留学で出かけているが︑それは第一次世界大戦後で︑敗戦国となったドイツ

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と︑戦勝国となった日本のとの違いを身をもって経験する時でもあった︒黒崎によれば︑彼は欧州留学にあたって︑住 友 の 退 職 金 と し て 得 た 住 友 の 株 を 担 保 に 一 万 円 の 融 資 を 受 け て い る︒ ﹁ 当 時 の ド イ ツ は 第 一 次 世 界 戦 争 に 敗 北 し︑ カ イ ゼルの退位となりドイツも一つの共和国となり︑非常に貧困に陥りマルクの価値が非常に下落した時であったので︑私 は悠々として足掛け四年︑前後二年半余の往復の滞在の旅費のほか︑英︑仏︑伊︑スイスなどにも行き︑特に英国とス イ ス に は 一 学 期 ず つ 滞 在 し て 勉 強 も で き る く ら い で あ っ た

とであった ずることができ︑その背景の下にドイツの学者の業績を参照することができるようになったことは︑非常に有り難いこ 非常に多く︑日本の大学に比較して羨ましい点が沢山にあった︒しかし︑それと同時にドイツの学風の特徴もこれを感 信仰の本質的なものについては別に教えられることはなかったけれども︑ドイツの学者の学風については学ぶところが て 一 回 十 六︑ 十 七 銭︑ ま っ た く 相 済 ま な い よ う な 額 で あ っ た︒ し か し こ れ に よ っ て 私 は ど れ ほ ど 助 か っ た か 分 ら な い︒ れる学生はいくらでもあった︒謝礼は一回何千マルクとかいうので彼らにとっては大金であったが︑当時の日本金にし 語を教えてもらうことができた︒当時ドイツは一般に戦後の貧困に苦しんでおったので︑アルバイトのために教えてく ﹂︒ ﹁︹ ベ ル リ ン 滞 在 の ︺ 間 に 大 学 生 か ら ギ リ シ ア 語 や ラ テ ン

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執筆を開始した﹃注解新約聖書﹄全十巻は︑植村正久の影響を受けた富士見町教会員横尾留冶の経営する日英堂の依頼 し て 旧 制 の 山 形 高 等 学 校 で 英 語 や ド イ ツ 語 を 教 え て い る︒ と り わ け 一 九 二 八 年︵ 昭 和 三 年 ︶ に 山 形 高 等 学 校 を 辞 し て︑ 翌三月四日には郷里の鶴岡に戻り︑そこでキリスト教伝道者として活動し︑また﹃永遠の生命﹄誌の編集︑発行︑そ 月三日に神戸に帰国した︒ との交流を楽しんでいる︒さらに英国に滞在し︑帰路パレスチナとエジプトに立ち寄り︑一九二五年︵大正一四年︶三 いる︒ジュネーヴでは当時国際連盟の次長であった新渡戸稲造や日本政府代表として国連に駐在していた前田多門一家 その後黒崎はチュービンゲンで学び︑さらにはジュネーヴに滞在し︑名著﹃カルビン伝﹄のもとになる研究をなして ﹂︒

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黒崎幸吉のアドルフ・フォン・ハルナック論

によって執筆が開始され︑一九二九年︵昭和四年︶に刊行が開始された︒その後一九三〇年︵昭和五年︶一一月に関西 に転居するまで︑黒崎は鶴岡に留まった

また同教会との交流の故に執筆が依頼され︑書き下ろされたものと考えるのが自然である で︑ 黒 崎 が 欧 州 留 学 よ り 帰 国 し て 一 年 以 内 の い ず れ か の 時 期 に 書 か れ た も の で あ り︑ 既 に 述 べ た 鶴 岡 教 会 の 白 井 牧 師︑ 本論に収録した﹁アドルフ・ハルナックの印象﹂は﹃新世﹄の一九二六年︵大正一五年︶六月号に掲載されているの ︒

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ルナックの印象﹄と云ふ御文章が戴いてあるから六月号に掲載する 月 号 の﹁ 簡 編 後 語 ﹂ と い う 編 集 者 に よ る﹁ あ と が き ﹂ の 中 に﹁ 畑 中 記 ﹂ と 付 さ れ て︑ ﹁ 黒 崎 幸 吉 氏 か ら﹃ ア ド ル フ・ ハ ︒また﹃新世﹄大正一五年四

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であろう︒ 年︵大正一四年︶三月から一九二六年︵大正一五年︶三月の間のいずれかの時期に書かれたものと判断して間違いない 書かれたものと思われる︒それ故に黒崎の論稿の受理はそれ以前であるから︑欧州留学から帰国後一年以内︑一九二五 ﹁大正一五年四月二八日に印刷納本﹂とあるので︑ ﹁あとがき﹂自体は一九二六年︵大正一五年︶三月︑あるいは四月に ﹂とある︒この﹁あとがき﹂が記された四月号には

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2 .一九二〇年代のアドルフ・フォン・ハルナック

アドルフ・フォン・ハルナックとは誰か

さて次に黒崎幸吉がその﹁印象﹂を記したアドルフ・フォン・ハルナックについて︑また彼がベルリン大学で講義を 聴いた頃のハルナック︑すなわち第一次大戦後︑ヴィルヘルム帝政期が崩壊し︑ヴァイマール共和国の混乱の時代に晩

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年を迎えていたハルナックについて解説しておきたい︒ アドルフ・ハルナックは

︑一八五一年五月一七日にドイツの教会史家テオドシウス・ハルナックを父に

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グ ス タ フ・ エ ー ヴ ェ ル ス の 娘 マ リ ー を 母 に ド レ パ ト に 生 ま れ て い る ︑また法学者

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雑な憧れを持ち︑他方で家ではドイツ語とロシア語とを使いこなすという国際政治の只中で育った 文化との間の葛藤という難しい政治的情況の中で育った︒それ故に彼は一方でプロイセン的なものへの反発と同時に複 トゥであり︑ハルナックはこの母を通してリボニアの貴族の世界と結び付き︑他方でプロイセンの政治的権力とロシア ︒ こ の ド レ パ ト は 今 日 の エ ス ト ニ ア 共 和 国 の タ ル

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父ハルナックはロシアのペテルブルクの出身で︑幼少期にヘルンフート兄弟団や ︒

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J ・ 播﹄ ︵一九〇二年︶等の大部の著作を発表している ︵一八八五〜八九年︶ ︑﹃古代キリスト教文学史﹄ ︵一八九三〜一九〇四年︶ ︑﹃初期三世紀におけるキリスト教の伝道と伝 た︒ 彼 の 研 究 は グ ノ ー シ ス 主 義 の 研 究 に は じ ま り︑ マ ル キ オ ン の 研 究 に 終 わ っ た が︑ そ の 間 に 有 名 な﹃ 教 理 史 教 本 ﹄ 子 ハ ル ナ ッ ク の 教 会 史 家 と し て の 仕 事 は 多 岐 に わ た っ た が︑ と り わ け 古 代 教 会 の 研 究 に お い て は 多 く の 業 績 を 残 し ランゲン大学の客員教授としてルター神学︵とりわけルターの神学に基づいた実践神学︶についても講義している︒ る︒彼はドレパトとドイツの諸大学で学んだ後︑ドレパト大学神学部の定員外教授︑正教授を歴任し︑ある時期はエア E ・ゴスナーの影響を受けてい

舞台の中心はベルリン大学神学部であり︑ ﹁類まれな偉大な教会史家 アドルフ・フォン・ハルナックの生涯は日本で考える神学者のイメージと大きく異なっている︒もちろん彼の活躍の ︒

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﹂であり︑ ﹁他の追随を許さぬ学問的エリート

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あ り︑ ﹁ 資 料 の 扱 い の 巧 み さ と 厳 密 さ に お い て 飛 び ぬ け た 力 量 を 持 っ た 歴 史 家 ﹂で

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長 で あ り ﹂ だ っ た が︑ 同 時 に 彼 は 王 立 図 書 館 の 館

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た ︑ カ イ ザ ー・ ヴ ィ ル ヘ ル ム 学 術 振 興 財 団︵ 現 在 の マ ッ ク ス・ プ ラ ン ク 研 究 所 の 前 進 ︶ の 初 代 の 総 裁 で も あ っ

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養市民層と呼ばれるようになったドイツの知的階層の純粋再生産のプログラムを構築しつつあった︒ ︒またハルナックはこの時代の文教行政と深く関わり︑皇帝の理想とする臣民教育の確立のために︑とりわけ今日教

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黒崎幸吉のアドルフ・フォン・ハルナック論

ドイツ・ルター派教会に基盤を持たない神学者としてのハルナック、 あるいは「神学部の神学者」 、「教会外のキリスト教の神学者」としてのハルナック

ハルナックの学問的な業績外を紹介することは簡単ではなく︑またここでの課題を越えることなので︑詳細は省略せ ざるを得ないが︑ここで重要なことは︑ハルナックがどのような立場で神学という学問を営んでいたのか︑ということ であると思われるので︑その点を明らかにしておきたい︒ ハルナックは既に述べた通り︑ドイツのプロイセンの出身ではなく︑また彼はルター派であったが︑プロイセンのル ター派教会との関係は希薄で︑当時の周辺国家︑リトアニアのロシア語を母国語とする地域の出身で︑当時のルター派 教会ではいわば傍流の出身であった︒このことはハルナックが神学者としてヴィルヘルム帝政期に生きて行くために決 して小さな問題ではなかった︒というのはこの時代のルター派主流派のドイツ・ナショナリズムはハルナックのような 経歴の神学者を受け入れることができないような体質であり︑人事やルター解釈においてハルナックはその優秀な学問 的な成績に比例する評価を得ることはできなかった︒ それ故に神学者ハルナックの支持母体はプロイセンの保守的・伝統的なルター派ではなく︑彼の学問的な業績を宗派 政 治 か ら 切 り 離 し て 評 価 す る こ と が で き る 大 学 で あ り︑ 新 し く 生 ま れ た ド イ ツ 帝 国 Reich に お け る 皇 帝 に よ る 中 央 集 権 的 な 宗 教 政 策 に 異 議 を と な え︑ 各 領 邦︵ Land ︶ の 教 会 と 神 学 教 育 の 独 立 性 に 固 執 し た ル タ ー 派 で は な く︑ 帝 国 の 人 倫 の基盤となるべきルター派という国家宗教であった︒つまりハルナックはこの時代の宗派政治のコンテクストの中では 伝統的な領邦教会に支持層を持たない神学者なのであり︑必然的にそれ以外の支持母体の中で神学を営むことを迫られ た神学者であった︒

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そのことは第一にハルナックがベルリン大学神学部の歴史神学の教授となる人事は︑当時のベルリンの福音主義教会 協 議 会 が 否 決 し た た め︑ 一 旦 そ の 招 聘 人 事 は 白 紙 と な り︑ そ れ を 当 時 の 宰 相 オ ッ ト ー・ フ ォ ン・ ビ ス マ ル ク が 教 会 協 議会と議会人事委員会の決定を飛び越えて︑改めて彼を任命するということによって可能となったことからも明らかで ある︒第二に︑事実ハルナックは神学部の中で活動したというよりは︑ベルリン大学︑あるいはベルリンの王立アカデ ミ ー を 舞 台 と し て 活 躍 し た 神 学 者 で あ っ た と 言 っ て よ い

たとえば古代ローマの研究で有名な歴史家テオドール・モムゼンであり ︒ ハ ル ナ ッ ク の 業 績 を 高 く 評 価 し 続 け た の は︑ 教 会 で は な く︑

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疑 問 を 持 つ︑ ﹁ 教 会 外 の キ リ ス ト 教 ﹂ に 限 り な く 接 近 す る こ と と な っ た︒ ﹁ 教 会 外 の キ リ ス ト 教 ﹂ と は こ の 時 代 の 政 治 た︒その結果彼はキリスト教それ自体や信仰を否定したり︑疑うことは無かったが︑彼はこの時代の教会という制度に デ ミ ー の 中 に 求 め る こ と に な る 要 因 と な っ た が︑ 彼 は 同 時 に こ の 時 代 の 制 度 と し て の 教 会 へ の 不 信 を 持 つ よ う に な っ このような教会政治のコンテクストは第一にハルナックを教会政治から切り離し︑彼が神学を営む場所を大学やアカ ことは困難であった︒ ルナックにとっては﹁神学部の中で神学を営む神学者﹂である以外の道を彼の学問的なパフォーマンスとして選択する この時代の教会政治の中で作り出された対立構図であって︑プロイセンではなく︑ドイツの周辺小国からやってきたハ ﹁学問的神学﹂という立場の社会的・教会政治的なコンテクストである︒それは彼の意図的な行動であるというよりは︑ る母体を︑また読者を見出さねばならなかったのである︒それが彼へのラベリングとして今日に至るまで知られている そのことは逆に見れば︑プロイセンのルター派の支持がない以上︑彼は教会の外に彼の神学者としての活動を支持す あろう︒ 大学理事会の決定による講義がもとになっていることからも︑彼の神学の大学行政上のコンテクストが明らかになるで ﹃ キ リ ス ト 教 の 本 質 ﹄ は 神 学 部 の 講 義 で は な く︑ 彼 が 大 学 の 学 部 の 枠 を 越 え て 行 っ た 神 学 部 の 教 授 会 の 決 定 で は な く︑ ︑また彼の名を世界に知らしめることとなった

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黒崎幸吉のアドルフ・フォン・ハルナック論

的︑ 神 学 的 コ ン テ ク ス ト の 中 で は 啓 蒙 主 義 の 影 響 を 受 け た キ リ ス ト 教 の こ と で︑ ト ゥ ル ツ・ レ ン ト ル フ が 言 う よ う に︑ ﹁ 宗 教 的 で あ る が︑ 教 会 的 で は な い キ リ ス ト 教 の こ と

イ ツ・ ル タ ー 派 の 宗 派 政 治 的 コ ン テ ク ス ト と は 別 に 駆 け 上 っ た ハ ル ナ ッ ク の 中 に あ っ た﹁ 逆 立 ち し た ナ シ ョ ナ リ ズ ム ﹂ ナリズムを提示することで︑その立場を確立して行ったのである︒それは周辺小国から中央の政治機関の頂点へと︑ド 経歴から来る周囲の疑念を払拭するためであり︑彼自身の立場を明瞭にするためでもあった︒彼は誰よりも強くナショ であるために︑他のドイツ・ルター派の神学者以上にドイツ的であることを政治的には示す必要があった︒それは彼の 覚する以上に︑周囲の人々にとってのハルナックの見方でもあった︒それ故にハルナックはドイツ帝国における神学者 わけ母方の家系から大国ドイツへの複雑な国民感情を持った自立心を受け継いでいた︒そのことはハルナック自身が自 であり︑プロイセンのルター派においても周辺部に置かれていた︒彼は家庭ではロシア語を話していた程であり︑とり ろう︒それは﹁逆立ちしたナショナリズム﹂と言ってもよい︒既に述べた通り︑彼はリトアニアという周辺小国の出身 しかしハルナックのナショナリズムは他のルター派のナショナリズムとは少し性格を異にしていたと言ってよいであ ズムの要であった︒ の発見こそが︑近代の始まりであるというのが遅れてきた帝国ドイツのナショナル・アイデンティティーとナショナリ ピ ュ ー リ タ ン 革 命 で は な く︑ 一 八 世 紀 の フ ラ ン ス 革 命 で も な く︑ 一 六 世 紀 の ル タ ー の 宗 教 改 革 と﹁ キ リ ス ト 者 の 自 由 ﹂ ル タ ー の 宗 教 改 革 と ル タ ー 派 は 新 し く 生 ま れ た 帝 国 の ナ シ ョ ナ ル・ ア イ デ ン テ ィ テ ィ ー の 要 で も あ っ た︒ 一 七 世 紀 の の ド イ ツ・ ル タ ー 派 は 保 守 派 も リ ベ ラ ル も み な 新 し く 生 ま れ た 帝 国 へ の ナ シ ョ ナ リ ズ ム と い う 点 で は 一 致 し て い た︒ さ ら に ハ ル ナ ッ ク は こ の 時 代 の 保 守 的 な ド イ ツ・ ル タ ー 派 と は 違 っ た 意 味 で の ナ シ ョ ナ リ ス ト で あ っ た︒ こ の 時 代 おける﹁使徒信条論争﹂への彼の介入の社会的コンテクストでもある︒ きないが︑彼はそれに接近し︑またこの立場に政治的に同調している︒それが有名になった﹃キリスト教世界﹄紙上に ﹂ で あ る︒ ハ ル ナ ッ ク の 立 場 は こ れ と 完 全 に 同 一 視 す る こ と は で

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であった︒ そのことが第一次世界大戦においてはハルナックの両義的な立場として現われ出た︒ひとつには︑ハルナックはドイ ツ・ナショナリズムの立場から︑国際政治におけるドイツの立場を守るためにこの戦争を支持することを表明し︑他方 で︑北欧や東欧小国との深い繋がりから戦争回避のための政治的工作を非公式に開戦と同時に続けたのであり︑後者の ハルナックの政治的な行動は最近まで明らかになっていなかった︒

一九二〇年代のハルナック

さて黒崎がハルナックを訪ねたのは︑このようなヴィルヘルム帝政期のドイツが︑第一次大戦によって崩壊し︑ヴァ イマールでの共和制が混乱の中に始まった時期であった︒一九一八年が皇帝と各王家の退位と亡命の年であるから︑そ れから先ずか数年のドイツを黒崎は訪れたのである︒ 第 一 次 世 界 大 戦 に つ い て の ハ ル ナ ッ ク の 見 方 は こ こ で 充 分 に 説 明 す る こ と は 難 し い が︑ 戦 後 ハ ル ナ ッ ク は 道 徳 と 人 倫︑真理の探究と国家の存続︑愛国心の再建という課題を教会の中にではなく︑学問の再建の中に見出そうとし︑また ドイツにおけるキリスト教の再建の課題を社会的な問題や国際政治にまったく無感覚なルター派教会ではなく︑大学の 神学部の再建の中に見出そうとしていた

イツにおける神学教育︑広くは大学やアカデミーの再建の中に見ていた︒自ら諸外国にドイツの学問の政治的危機を説 的な理解も展望も持たない保守的な教会や牧師に危機感を感じていた︒それ故に戦後のドイツの再建をハルナックはド ム の 結 び つ き が︑ 理 由 な き 反 デ モ ク ラ シ ー や 反 資 本 主 義 へ と 至 っ た こ と に 失 望 し︑ ま た そ の こ と に 無 防 備 で 何 の 歴 史 ハルナックは第一次世界大戦中の経験から︑ルター派教会の中にある保守性やドイツの伝統的な政治や経済のシステ ︒

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黒崎幸吉のアドルフ・フォン・ハルナック論

き︑ドイツの経済的困窮を理解し︑大学や諸教育機関の再建のために諸外国が緊急の援助をするべきであることを主張 し︑講演し︑かつての留学生に手紙で訴えた

ルナックを教会は批判し続けた︒ 解を異にすることになり︑常に政治の中枢にあり︑ヴィルヘルム帝政期崩壊後も新しい政府の学問行政の一翼を担うハ が必要であることを力説し︑そのために自らの責務を果たそうとしていた︒そのためにハルナックは再び教会当局と見 ︒何よりも神学部が歴史的認識と高い倫理性をもった牧師を養成すること

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カール・バルトとの誌上論争

他 方 で︑ 黒 崎 が ベ ル リ ン を 訪 ね た 一 九 二 二 / 二 三 年 の 冬 学 期 か ら 一 九 二 三 年 の 夏 学 期 に ハ ル ナ ッ ク は 思 っ て も み な かった勢力からの批判を受けることになった︒それはカール・バルトを代表とする︑いわゆる﹁ヴァイマールの聖なる フロント世代﹂からの批判であり

︑それは有名な﹃キリスト教世界﹄誌上における論争となり︑今日では﹁ハルナック

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バルト往復書簡﹂として知られているものである

それ故にこの論争において重要なことは︑日本でしばしば紹介されているように︑教会の神学の代表者カール・バル ステムへの批判と趣旨を同じくするものであった︒ して登場したものであり︑この時代の神学や宗教のみならず︑社会のあらゆる領域において起こっていた既存の社会シ はなく︑むしろ︑教会や大学︑すなわちヴィルヘルム帝政期に生み出された前世紀の保守的な社会機構全体への批判と 教会の神学﹂からの批判であったが︑バルトの立場は必ずしも﹁この当時のルター派教会の神学﹂の立場からの批判で 立場からの彼の神学への批判であり︑思ってもみなかったものであった︒彼の立場への従来の批判は﹁当時のルター派 これはハルナックにとってはルター派リベラリズムの立場ではなく︑また当時の保守派のルター派でもなく︑第三の ︒

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ト と 学 問 的 神 学 の 代 表 者 ハ ル ナ ッ ク と の 対 立 で は な く︑ 実 は ハ ル ナ ッ ク も バ ル ト も︑ 教 会 批 判 と い う 点 で は 当 時 の 既 存の宗教制度としてのドイツ・ルター派には批判的であったのであるから︑むしろいかなる神学が学としての神学なの か︑ということ︑また学としての神学の営まれる場所は本当に大学神学部でなければならないのか︑また歴史主義は真 の 学 問 の 方 法 な の か︑ 学 問 の 方 法 と し て は︑ ﹁ 前 提 と し て の 方 法 論 で は な く︑ 対 象 が 要 求 す る 方 法 論 と い う も の が あ る の で は な い か ﹂ と い う 問 題 を め ぐ っ て 両 者 は 争 っ て い た の で あ る︒ す な わ ち バ ル ト は ゲ オ ル ゲ の サ ー ク ル や ゲ オ ル ク・ ジンメルなどの他のフロント世代と同じく︑学問は大学でなくとも営まれることは可能であり︑知の新しい形態を模索 していたのである︒彼はいわば﹁神学部外の神学﹂を考えていたのである

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3 .黒崎幸吉におけるアドルフ・フォン・ハルナック

これらのハルナックの神学的立場が︑無教会の指導者内村鑑三の影響のもとで伝道者となり︑大学は法科大学であっ た が︑ 自 力 で 神 学 を 学 ん だ 黒 崎 に ど の よ う な 影 響 を 与 え た の で あ ろ う か︒ ま た 具 体 的 に は 黒 崎 幸 吉 は ベ ル リ ン 大 学 で︑ どのような意味でハルナックの影響を受けたのであろうか︒それが今回復刻された小論から読み取られるべきもっとも 重要な点である︒最後にその点に触れておきたい︒ この論稿から読み取れる︑黒崎が受けたハルナックからの影響とは︑神学の学問性についてのハルナックの考え方で あ ろ う︒ 黒 崎 は 次 の よ う に 述 べ て い る︒ ﹁ ハ ル ナ ッ ク の 場 合 の 如 き は 無 蓋 蔵 な る 彼 の 知 識 の 宝 庫 よ り 彼 の 科 学 的 能 力 を 以て自由に必要なるものを取り出すが故であります︒其處に彼のオリヂナリテーが明らかに見え︑其處に彼の学者らし さが明かに表はれて居りました﹂ ︵二〇六頁︶ ︒また﹁ハルナックの如きはあれだけの博識を以て希臘︑拉丁の原書殊に

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黒崎幸吉のアドルフ・フォン・ハルナック論

其の古典を渉猟し︑之より彼の学説を組立てて居り乍ら︑其處に其の知識の為めに左右せらるる事無く︑其の奥底に流 るる深い信仰が其の知識を従僕として使つて居るのを見て誠に羨ましく思つた次第であります﹂ ︵二〇七頁︶ ︒さらには ﹁ 唯 ハ ル ナ ッ ク を 以 て 代 表 せ ら れ し 此 の 独 逸 の 科 学 の 立 場 の 極 め て 尊 い 点 は︑ 飽 く 迄 も 科 学 的 良 心 に 忠 実 で あ つ て︑ 真 を真として少しも遠慮しない事︑そしてそれが信仰に益するや否やによりて之を曲げない点にあると思ひます︒そして 此の正直なる態度が却て信仰に其の常然の地位を与え︑又同時に知識に其の本来の地位を与えて此の両者をして其の使 命を全ふせしめる事と思ひます﹂ ︵二〇八頁︶ ︒ 第二に黒崎はハルナックの思想や学者としての発言の中にあるナショナリズムに心地よい響きを感じていたと思われ る︒ハルナックが一九二三年にフランス軍がドイツのルール工業地帯を賠償金未払いを理由に再占領した際に彼が講義 のはじめに述べた言葉を記憶していて︑ ﹁此日ハルナックは蒼白の顔をして教室に出てきました︒そして学生に向つて︑ 涙 を 流 し て 此 の 非 常 な る 国 辱 に つ い て 語 り︑ か か る 時 に は 到 底 講 義 を す る 気 は 出 て 来 な い ﹂︵ 二 〇 九 頁 ︶ と 報 告 し て い る︒ 別 の 文 章 の 中 で は﹁ こ こ に 七 十 五 歳 の 老 愛 国 学 者 を 見 る こ と が で き て う れ し か っ た

頁 ︶︒ そ れ は ハ ル ナ ッ ク の 歴 史 研 究 の 中 に あ る 歴 史 主 義 的 な 態 度 へ の 批 判 で あ り︑ こ の 時 代 繰 り 返 し ハ ル ナ ッ ク が 受 け ず︑ 又初代教会に於ける信徒の心を充分に汲み取る事が出来ないのではないかと思ふ様な事が屡々ありました﹂ ︵二〇九 が あ ま り に 円 満 で あ り︑ 彼 の 頭 脳 が あ ま り に 明 晰 で あ る が 為 め に︑ パ ウ ロ 其 他 の 使 徒 達 の 人 格 の 複 雑 さ を 充 分 に 味 は まず黒崎は次のように述べている︒ハルナック﹁の著書及彼の講義の中に常に私の感ぜざるを得ざる点は︑彼の人格 で︑それは歴史主義批判︵あるいは合理主義批判︶と終末論とそれに基づくキリスト教の現実理解の問題である︒ し か し こ の 論 稿 で も っ と も 注 目 す べ き は︑ 黒 崎 が こ の 時 点 で︑ ハ ル ナ ッ ク の 神 学 的 立 場 の 問 題 点 を 指 摘 し て い る 点 のかもしれない︒ ム︑愛国主義への共感というよりは黒崎が内村から受け継いだ日本への愛と響きあうものをハルナック中に感じていた ﹂︒ こ れ は 政 治 的 ナ シ ョ ナ リ ズ

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ていた批判でもある︒そのことはたとえばハルナック自身が一九二六年にボンのフリードリッヒ・ヴィルヘルム大学で 行 っ た 講 義 の 中 で 次 の よ う に 述 べ て い る こ と か ら も 明 ら か で あ る︒ ﹁ 私 は︑ 近 年︑ 少 な く と も 四 度︑ ま っ た く 異 な っ た 立場の神学者たちから︑次のように批判されているのを読んだ︒すなわち︑今やキリスト教の歴史及び教義の認識につ いて︑新しい原理と新しい方法とが提示されねばならない︒これに基づいて全てがやり直されねばならない︒もちろん そのためには多くの時間が必要とされるであろうが︑それによって︑時代遅れになった歴史主義や︑古くなった神学と 入れ替えるに足る真の満足を約束すると

との意味が甘く取れないからであろうと思はれます﹂ ︵二〇九頁︶ ︒ る点などは︑どうしてもハルナックの理智的の性格には人生の奥底に潜む其深の罪感と之より生ずる現世に対する絶望 ス自身の中に現在の神の国と未来の神の国との二つの神の国の観念が矛盾して存在する事となり不可解であるとして居 ヤ人の間に行はれて居つた終末思想をイエス及初代の教会が其まま取入れたのであると解し︑然らざるに於ては︑イエ リストの再臨を待つ心の切であつた事の説明や︑キリスト及弟子達が此の考を持つて居つた事の理由を凡て常時のユダ ウ ロ の 終 末 論 の 誤 解 な ど を 指 摘 し て い る 点 が 重 要 で あ ろ う︒ 彼 は 次 の よ う に 述 べ て い る︒ ﹁ 例 へ ば 初 代 教 会 に 於 け る キ しかし黒崎は︑さらに一歩進んで︑ハルナックの歴史主義的な方法論が歴史的研究に与える弊害︑また初代教会とパ ものである︒ とからも明らかである︒この点で黒崎の批判は晩年のハルナックに向けられた当時のドイツ神学界における批判と同じ Cr edo, quia absur ditas 事は六 かしい事であつて矢張り と云ふ立場を取るものであります﹂ ︵二〇八頁︶と述べているこ 有るであろうと思ひます︒又信仰を養う為めになる事もならない事もあると思ひます︑故に私は科学的信仰と云ふ様な であり︑そのことは︑黒崎が﹁科学的研究より得たる真理は︑基督教の真理と一致する事も有るべく︑又一致しな事も 黒崎自身はハルナックの神学の行きすぎた合理主義︑あるいは歴史主義的な方法をゆるやかな表現で批判しているの ﹂︒

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黒崎幸吉のアドルフ・フォン・ハルナック論

これはハルナックの初代教会史の見方への批判であるが︑同時にこの時代の神学を支配していたリッチュル学派の神 の国理解︑あるいは終末論︑そしてそれに基づいたキリスト教的市民社会論の根本を批判するもので︑後にヴァイマー ルの聖なるフロント世代の神学者たちから︑カント化されたリッチュル学派の神学による﹁神学の倫理学化﹂として批 判されるようになった問題であり︑黒崎はわずか二学期の講義を聞くことを通してそのことを感じ取り︑この短い論稿 の中でそのことを適切に指摘している︒ また黒崎はハルナックの中に︑学問と信仰との結びつきや関係のひとつの理想の姿を見出しすつつ︑その限界を感じ ており︑黒崎自身はアンセルムスの﹁不合理なるが故にわれ信ず﹂という立場に立ち返ろうとしている点で︑次の時代 登場してくるカール・バルトの神学︵まさに一九二二年はドイツでバルトの﹃ローマ書注解﹄の改定第二版が出版され た年であった︶をはじめとする次世代の神学的動向と繋がる時代的センスを持っていたというべきであろう︒ この論稿をきっかけに黒崎とハルナックとにおける﹁宗教と愛国心﹂という問題を考えてみる必要があると思う︒あ るいはこの時代の﹁教会外のキリスト教﹂や﹁神学部外と神学﹂と日本の無教会運動を比較してみることも重要であろ う︒さらには約一〇年前に︑やはりベルリンでハルナックの講義に出席していてそれをもとに一九一二年に﹁かのよう に﹂というハルナックを題材にした短編小説を書いた森鴎外と黒崎幸吉のハルナック理解の比較︑とりわけナショナリ ズムの問題をめぐって︑という研究もなされるべきであろう︒しかしこれらは全て今回新しく見出された黒崎の古い論 稿の解説の域を超えるものであるので︑ここでは課題を指摘するに留めねばならない︒

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4 .資料篇 凡例 1 . ﹃ 新 世 ﹄ に 掲 載 さ れ た 黒 崎 幸 吉 の 文 章 は 旧 漢 字︑ 旧 か な 使 い で あ る が︑ 転 載 に あ た り 漢 字 は 旧 漢 字 で は な く︑ 現 在使用されているものに改めた︒

2 . 誤植と思われる個所についてもそのまま転載し︑

︹ママ︺

と付した︒

3 . 注は編者によるもので︑本文の理解を助けるための情報に挿入した︒

で注において示している︒ かであるが︑ほぼ同じ趣旨の内容をハルナックが述べている個所をハルナックの著作から見つけ出し編者の判断 4 . 黒崎がハルナックの言葉を﹁     ﹂で引用している場合でも注はなく︑それが厳密な引用ではないことは明ら 挿入文章なので︑編者の判断で改行した︒ 5 . 歴史的資料なので︑五行ごとに︑行数を示す数字を挿入した︒二〇七頁一一行目から二〇八頁二行は括弧付きの

6 . ︹   ︺の中は編者が補った語︑文章である︒

︵最後の四行のみ二七頁︶である︒ 7 . 底本は﹃新世﹄第二八八号︵この号数は﹃聖書之道﹄以来の通算の号数である︶大正一五年六月︑二八〜三二頁

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黒崎幸吉のアドルフ・フォン・ハルナック論

﹁アドルフ・ハルナックの印象

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黒  崎  幸  吉

一方学者の方面よりは世界の珍品の如くに思われ︑他方保守的な基督者からは︑悪魔の隊長の様に阻まれて居るハル ナックについての短い印象を記して見ようと思ひます︒ 私が伯林大学に居つたのは一九二二︱三年冬学期と一九二三年夏学期即ち一ヶ年間でありました

ありません︒ゼミナールに出なかったので唯講義を聴いただけであります ハルナックの講義には缺かさずに出席して居ましたから可なり深い印象を受けました︒個人的に面会した事は一回しか ︒此間毎週四時間の

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国から彼を聞かんが為めに集まる学生が多いからであります︒ ナックの講義だけは何時も満員であるのは︑矢張り他の哲学︑法律︑経済等の諸科の学生も聴講に来るのと︑世界の各 り ま し た︒ 欧 州 戦 後 で 基 督 教 が 最 も 勢 力 無 き 時 で あ つ て 神 学 生 の 数 も 非 常 に 少 な く な つ て 居 つ た 時 で あ り 乍 ら︑ ハ ル 教室は二百人以上入る室ですが︑聴講生が多いので何時も満室で︑早く行かないと善い席を取る事が出来ない位であ

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つきをして居ました︒学校への出勤は常に自動車に乗つて人に助けられて乗降して居りました︒ も学者らしい顔をして居りました︒頭髪は八分通り白く︑腰は曲つては居ませんが歩く時などは如何にも老人らしい足 背の高いスラリとした体格で︑顔は独逸人としては温和な方ですが︑併し英米人の様な俗な顔ではありません︑如来に 丁 度 始 め て ハ ル ナ ッ ク の 講 義 を き い た 年 に 彼 は 七 十 三 歳 位 で あ る と の 事 で し た︒ ︵ 日 本 の 年 で 云 へ ば 七 十 四 五 で す ︶ ︒

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私が居つた時の彼の講義の題目は冬学期には﹁新約聖書緒論﹂で︑夏学期には﹁教会史﹂でありました︒教会史の講 義は別に本講があり一週間四時間づつ三年を費やして居りますが︑此のハルナックの教会史は例外的に臨時に一学期で 全教会史を講じたのであつて︑彼の如き博学を以て始めて︑かかる簡にして要を得た講義が出来るだろうと感心しまし た︒彼の講義は極めて流暢で明瞭であります︒原稿はあまり見ません︒驚く可き記憶力と極めて明瞭なる頭脳を持つて 居ると云ふ事を感ぜずには居られませんでした︒此の点に於て確かに︑今日の学者中の学者である事は何人も否定する 事が出来ないと思ひました︒其の講義は実に面白く少しも飽かずに聴く事が出来ます︒時々諧謔をも交へて学生を喜ば し乍ら︑而も要点要点は実に歯切のよい結論を以て結んで行く處︑彼一流の處があります︒私は日本で法科大学の学生 時代の経験により講義と云ふものは面白くないもので︑筆記と云うものは面倒なものと云ふ事が深く脳裏に入つて居り ました︒そして独逸に行つて講義をきき始めて大学の講義

    

を云うものは面白いものであると云ふ事を知り︑そして特に ハルナックの講義は実に興味津々たるものがある事を覚えたのであります︒其理由は明らかであつて日本の学者の多く は欧米の学者の説を紹介するか又は竊み取つて居るに過ぎないのに︑ハルナックの場合の如きは無蓋蔵なる彼の知識の 宝庫より彼の科学的能力を以て自由に必要なるものを取り出すが故であります︒其處に彼のオリヂナリテーが明らかに 見え︑其處に彼の学者らしさが明かに表はれて居りました︒ 基 督 教 は 本 来 学 問 で は 無 い と 思 ひ ま す︑ 夫 故 に 学 問 的 の 優 劣 は 直 に 信 仰 の 優 劣 を 定 む る 標 準 に は な ら な い と 思 ひ ま す︒併し日本に入つて来た基督教が一方学問を無視せる社会的運動又は狂信的宗派があると同時に︑一方学問的基督教 は 其 の 信 仰 を 失 ひ 力 な き 熱 な き 形 骸 と な り つ つ あ る を 見 る 時︑ 何 と か し て 信 仰 を 基 礎 と せ る 基 督 教 的 知 識 が 日 本 に も︑ もつと広まらん事を願はない訳には行きません︒而して日本で少しく基督教を学問的に研究し始めるや否や活ける信仰 を失ふ所以は︑全く基督教を学問的に取扱ふだけの信仰と霊力とが無く全く学問によりて支配せられ︑信仰か知識の従 僕 に な つ て し ま う か ら で あ る と 思 ひ ま す︒ ア ン セ ル ム ス と 同 じ く﹁ 識 ら ん が 為 め に 信 ず る ﹂ 事 が 必 要 で あ つ て 知 つ て

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後︑信を失ふ様であるならば知らざるに如かずであると思ふのであります︒そしてハルナックの如きはあれだけの博識 を以て希臘︑拉丁の原書殊に其の古典を渉猟し︑之より彼の学説を組立てて居り乍ら︑其處に其の知識の為めに左右せ らるる事無く︑其の奥底に流るる深い信仰が其の知識を従僕として使つて居るのを見て誠に羨ましく思つた次第であり ます︒日本に居つて初代基督教の文献を其の原語を以て読みこなし︑之によつて自己の学説を立てる事の如きは中々容 易ではありません︑日本の基督教学界は常分外国人の研究の又聞きに満足しなければならず︑将来とも固有の材料に少 き日本の基督教社会は学問的には容易に欧州に比較し得ないだろうと思ひます︒ 而 も か か る 又 聴 き︑ 又 は 些 少 の 知 識 が 信 仰 を 破 壊 し つ つ あ る の を 見 る と 実 に 悲 し ま ざ る を 得 ま せ ん︑ 日 本 に も ハ ル ナックの様な学者が一人でも有つたならばと思はれました︒ 而して学者としての彼の純粋に学問的真理を求めて生きて居る事を認めざるを得ませんでした︒其事を特に明らかに する事が出来たのは彼の博士号獲得の五十年祝賀の時でありました︒当時独逸は困難なる国情にあつたので︑其の式は 極めて簡単でありました︒学生が教室の教壇をタンネン樹の青葉を以て装飾し︑ハルナックの入り来るのを待つて拍手 して彼を迎えました︒そして学生の総代が彼に祝辞を呈して︑彼の国家の為め又学術界の為めにせる貢献を賞讃し︑而 し て 学 生 に 対 す る 親 切 な る 薫 陶 と︑ 学 生 が 之 に よ り 信 仰 上 受 け し 感 化 と に つ い て 感 謝 を 呈 し ま し た︒ 之 に 対 す る ハ ル ナックの答は略左の如きものであつたと記憶して居ります

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﹁ 私 は 博 士 号 受 領 五 十 年 記 念 の 為 め に 国 家︑ 社 会 か ら 多 く の 祝 賀 を 受 け ま し た︑ 併 し 其 中 に 於 て 最 も 愉 快 な 祝賀は︑此の最も簡単なる学生諸氏より受くる祝賀であります︒併し私の諸君と共に為し来りし研究は真理

W ahr heit の 為 め で あ り ま し て︑ 徳 を 建 つ る が 為 め Erbaunung で は あ り ま せ ん で し た︒ 私 の 研 究 が 或 は 諸 君 の信仰の為めになり徳を建つるが為になつた事もあるかも知れません︒併し是は別問題であります︒私は唯

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真理を求めて今日に至り︑今後も亦之に終始しようと思ひます︑そして諸君と共に此の研究を継けるのが私 の終生の事業であるからして諸君より受くる祝辞は私に取つて最も愉快なるものであります﹂

此の返答は学生の祝辞中にあつた一点を反駁したのであつて非常に面白い事であると思ひました︒茲にハルナックの 真面目があらはれて居ると同時に︑独逸に於ける﹁科学

るものであります Cr edo, quia absur ditas る と 思 ひ ま す︑ 故 に 私 は 科 学 的 信 仰 と 云 ふ 様 な 事 は 六 か し い 事 で あ つ て 矢 張 り と 云 ふ 立 場 を 取 真理と一致する事も有るべく︑又一致しな事も有るであろうと思ひます︒又信仰を養う為めになる事もならない事もあ 科学的研究法によりて終局の基督教の真理に達する事は出来ないと思ひます︒科学的研究より得たる真理は︑基督教の ﹂の地位が明らかにされた様に思ひました︒私の考えとしては

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彼を父の様に思つて居りました︑ 私が一番感動したのは独逸が戦後の疲弊のために科学的に非常に困難に陥つて居た時 に 接 す る 機 会 が 少 な か つ た の で︑ 此 の 方 面 を 観 察 す る 事 が 出 来 な か つ た の で あ り ま す が︑ 彼 に 接 し て 居 る 学 生 は 実 際 思はず理屈に走りましたが︑ハルナックは学者であるのみならず︑又人間である事を思ひました︒不幸にして個人的 に思ふ英米の保守的基督者はハルナック自身の心持ちがよく分らないのでは無いかと思ひました︒ が本当の信仰であると思ひます︒此の独逸科学の根本思想を理解せずしてハルナックを以て信仰を破壊する悪魔の如く ぶつて辛うじて維持せらるる様な貧弱なものでは無く︑科学的真理を充分に真理と認めて而も尚不合理を信じ得る信仰 な事は起らず︑進化論を学校で教えないと云ふ様な事にならないだろうと思ひます︒信仰は明瞭な科学的真理に目をつ Fundamentalist 両 者 を し て 其 の 使 命 を 全 ふ せ し め る 事 と 思 ひ ま す︒ 此 の 立 場 を 明 ら か に す る な ら ば 米 国 に 起 つ た の 様 思ひます︒そして此の正直なる態度が却て信仰に其の常然の地位を与え︑又同時に知識に其の本来の地位を与えて此の 忠実であつて︑真を真として少しも遠慮しない事︑そしてそれが信仰に益するや否やによりて之を曲げない点にあると ︒唯ハルナックを以て代表せられし此の独逸の科学の立場の極めて尊い点は︑飽く迄も科学的良心に

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黒崎幸吉のアドルフ・フォン・ハルナック論

に︑其の救済を世界に向かつて訴へた堂々たる文書と

Aber das muss vescheh en い と 云 つ て 講 義 を つ づ け ま し た に向つて︑涙を流して此の非常なる国辱について語り︑かかる時には到底講義をする気は出て来ない︒乍併止むを得な 主要なる独逸人を捕虜にした時の事でありました︒此日ハルナックは蒼白の顔をして教室に出て来ました︒そして学生 ︑それから一九二三年一月仏国がルール地方を占領して其地方の

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潜む其深の罪感と之より生ずる現世に対する絶望との意味が甘く取れないからであろうと思はれます 矛盾して存在する事となり不可解であるとして居る点などは︑どうしてもハルナックの理智的の性格には人生の奥底に 入れたのであると解し︑然らざるに於ては︑イエス自身の中に現在の神の国と未来の神の国との二つの神の国の観念が 此の考を持つて居つた事の理由を凡て常時のユダヤ人の間に行はれて居つた終末思想をイエス及初代の教会が其まま取 事が屡々ありました︒例へば初代教会に於けるキリストの再臨を待つ心の切であつた事の説明や︑キリスト及弟子達が の人格の複雑さを充分に味はず︑又初代教会に於ける信徒の心を充分に汲み取る事が出来ないのではないかと思ふ様な ぜざるを得ざる点は︑彼の人格があまりに円満であり︑彼の頭脳があまりに明晰であるが為めに︑パウロ其他の使徒達 最後に彼の人格が彼の学説に及ぼす影響につきて私の感じた處を一言します︒彼の著書及彼の講義の中に常に私の感 た︒ 之によつて明らかになり︑其冷静なる頭脳の裏にある此の温かさによつて彼の学問が一段の尊さを増した様に思ひまし ます︑彼は学者であるけれども唯死せる学者では無かつたのであります︒内に燃ゆるが如き人間味を持つて居つた事が ︒ 実 に 憂 国 の 至 情 が 其 の 面 に 溢 れ て 居 つ た の を 見 た の で あ り

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居る点﹂を挙げる事は歴史的考證として有力であろうと思はれますが にパウロの筆になる部分と然らざる部分とがありとする理由として﹁教会発展の程度がパウロ時代としては進み過ぎて ︒又教会書簡の中

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が 入 つ て 居 る 事 ︑其の他の理由として﹁パウロらしからざる文句

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﹂ を 挙 げ 而 し て パ ウ ロ ら し い と 云 ふ の は﹁ ロ マ 書 コ リ ム ト 前 後 書 ガ ラ テ ヤ 書 に 現 れ た 様 な 思 想 及 文 勢

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を意味すると説く点などは歴史的考證文献的説明の範囲を脱して︑ハルナックの人格を以てパウロの人格を解釈し︑パ ﹂

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ウ ロ の 人 格 が ロ マ 書 以 下 の 所 謂 真 正 な る 書 簡 echte Briefe 以 外 の 書 簡 を 書 く 程 多 方 面 で あ り 得 な い と 考 ふ る よ り 起 る 事 であろうと思はれます︒茲に多くの考證を挙げて論ずる場合では有りませんが︑彼の講義をきいて居る間に其の種の感 じを受けた事は再三に留まらなかつたのであります︑要するに純粋に客観的真理と云ふ様なものは有り得ないのであつ て︑如何に独逸の科学でも矢張り学者の主観の外に完全に出る訳に行かず︑殊に神学の如きは多くの場合に於て其人の 信仰や人格が其の学説の背景を為して居る事を気が付かずに居られなかつた次第であります︒そこで信仰と智識︑信仰 の客観的妥当性等に関する種々の重要問題が︑ハルナックの講義をきき乍ら種々心の中に湧いて来て之について考へさ せられました︒ 要するにハルナックは或る意味に於て独逸の善き方面の代表者であると思ひます︑其の科学的真理に対する忠実さ其 学識其の愛国心而して其の缺点すらもよく独逸の持つて居る缺点を代表して居ると思ひます︒独逸が彼を国品の如くに 考へて居るのも無理はありません︑彼は決して保守的基督者が考へる様な悪魔の隊長では無く︑人間として立派な人で あり而も同時に人間の不完全さを具へて居る稀代な学者であると云ふべきであると思ひます︒ ︵をはり︶ ﹂

    注

︵ Uni. Pr ess, Universität Aussbur g, 1 2009 , 5 -14 は︑ ︵ ︶ に掲載されている︒ 1 ︶ 本 原 稿 は 二 〇 〇 八 年 一 二 月 一 六 日 に ア ウ ク ス ブ ル ク 大 学 哲 学・ 社 会 学 部 で 行 っ た 講 演 原 稿 の 翻 訳 で︑ ド イ ツ 語 の 講 演 要 旨 2 ︶ 秋山   操﹃基督教会︵ディサイプルス︶史﹄昭和四八年   基督教会史刊行委員会   六九頁

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黒崎幸吉のアドルフ・フォン・ハルナック論

第 一 号 に は 宮 崎 に よ る﹁ ﹃ 聖 書 之 道 ﹄ の﹁ 宣 言 ﹂﹂ と い う 文 章 が あ り︑ ス ト ー ン

キ ャ ン ベ ル 運 動 に 基 づ く﹁ 聖 書 主 義 ﹂ に つ い て の 解 説 が な さ れ て い る︒ ち な み に こ の﹁ 宣 言 ﹂ に つ い て は 翌 週 の﹃ 福 音 新 報 ﹄ で 植 村 正 久 が 痛 烈 な 批 判 を 書 い て い る︒ ︵

︵ 3 ︶ 同右   四九頁

︵ 4 ︶ 同右   一六頁より再録

︵ 5 ︶ 同右   二四頁

︵ 6 ︶ 同右

︵ としてまとめられている︒ 世 界 規 模 で 行 っ た 事 業 調 査 を ま と め た も の で︑ 日 本 で の 調 査 結 果 は﹁ 日 本 に お け る 基 督 教 会 の 方 針 ﹂︵ ガ リ 版 刷 り 八 九 頁 ︶ Sur vey of Ser vice, Disciples of Christ, 1928 by The Christian Boar d of Publivation. 7 ︶ これは﹁基督教会︵ディサイプルス︶ ﹂が

︵ 8 ︶ 秋山   操﹃基督教会︵ディサイプルス︶史﹄一三九頁

︵ れている︒正式には﹁鶴岡基督教会﹂と称していた︒ 9 ︶ ﹁ 基 督 教 会︵ デ ィ サ イ プ ル ス ︶﹂ 派 の 鶴 岡 教 会 の こ と︒ 現 在 に 至 る ま で 鶴 岡 市 の 若 葉 町 に あ る の で︑ 通 称 若 葉 町 教 会 と 呼 ば

︵ る︒ 10 ︶ 白 井 為 治 郎 氏 は 明 治 四 二 年 四 月 か ら 大 正 七 年 一 月︑ ま た 大 正 一 四 年 四 月 か ら 昭 和 一 七 年 六 月 ま で 鶴 岡 教 会 の 牧 師 を し て い 11 ︶ ﹃ 永 遠 の 生 命 ﹄ 第 三 六 三 号  昭 和 三 六 年 一 二 月 号  引 用 は﹃ 黒 崎 幸 吉 著 作 集

︵ 牧師の︹鶴岡基督︺教会を助けることを専らの仕事としておった︒ ﹂ 下 の よ う に も 書 か れ て い る︒ 鶴 岡 に 帰 京 し て﹁ は じ め の 間 は 二︑ 三 の 著 作 と 信 仰 の 友 人 た ち と の 集 会 と︑ そ し て 時 に は 白 井 5 ﹄︵ 新 教 出 版 社  四 一 八 頁 ︶︒ ま た 同 号 に は 以 12 ︶ ﹃永遠の生命﹄第三六〇号   昭和三六年九月   ﹃著作集﹄第

︵ 5 巻  三九四頁

︵ 13 ︶ 同右 14 ︶ その後の黒崎幸吉の生涯と思想については﹃黒崎幸吉著作集﹄第

︵ 5 巻収録の﹁恩寵の回顧﹂を参照のこと︒

に は 教 会 の 牧 師 や 長 老 も 加 わ り︑ 会 員 の 宅 を 巡 っ て 開 か れ る 聖 書 研 究 会 で あ っ た︒ ⁝⁝ こ の よ う な 不 変 な 根 強 い 信 仰 の 15 ︶ ﹁ 私 は 鶴 岡 に 前 か ら 開 か れ て お っ た 諏 訪 君 や 大 滝 君 の 集 会 に 加 え て も ら っ た︒ こ の 集 会 は 前 に も ち ょ っ と 触 れ た と お り︑ 中

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グ ル ー プ は︑ 決 し て 数 多 は 見 得 な い で あ ろ う︒ 大 滝 徳 蔵 君 や︑ 現 在 姫 路 で 独 立 教 会 を 建 て て お ら れ る 永 井 貞 雄 君 や 山 形 相 互 銀 行 取 締 役 の 白 崎 君 そ の 他 若 葉 町 教 会 の 長 老 阿 部 君 や 伝 道 婦 村 井 姉 な ど も 皆 そ の 当 時 の 会 員 で あ っ た ﹂︵ ﹃ 著 作 集

︵ 四二二頁︶ ︒このような交流が本小論を生み出したものと推測できる︒ 5 ﹄

︵ 16 ︶ ﹃新世﹄大正一五年四月号   五二頁上段

︵ für Buchkunst und Bibliophilie 170 2003 , 26 -43, 171 2003 3- 21 ︵ ︶ ︵ ︶ 17 Vgl. Friedhilde Krause, Menschen Bücher und Bibliotheken. Adolf von Har nack und seine Familie in: Mar ginalien. Zeitschrift ︶

︵ T roeltsch-Gesellschaft 17 2004 , 83 -94 ︵ ︶ 18 Vgl. H. Cymor ek, F. W . Graf, Zwei unbekannte Texte Agnes von Zahn-Har nacks über ihr en Vater , in: Mitteilungen der Er nst- ︶

︵ Güthersloh 1992 T he od os iu s H ar na ck 18 16 -1 88 9 , in : P ro file d es n eu ze itli ch en P ro te sta nti sm us . B d.2 , K ais er re ich T eil 1 . hr g. F. W . G ra f, ︵ ︶ ︵ ︶ 19 Volker Dr ehsen, Konfessionalistische Kir chentheologie. ︶ 父 デ オ ド シ ウ ス・ ハ ル ナ ッ ク に つ い て は 以 下 の 文 献 を 参 照 の こ と︒

︵ Staatsbibliothek, Berlin 2999, 173 -200 die ja hr hu nd er tw en de , in : M eli ne P eh liv an ia n hr sg . , A rm en isy n die m en sc he n ge na nt. E in e K ult ur be ge gn un g in d er ︵ ︶ 20 V gl. H ac ik R afi G az er, A do lf vo n H ar na ck u nd d ie a rm en ie r B etr ac ht un ge n zu e in em w iss en sc ha ftli ch en A us su sc h um ︶

︵ Mit einem Geleitwor t und bibliographischen Nachträgen bis 1985 von Jür gen Dummer , Leipzig 1990 を参照のこと︒ 21 Friedrich Smend, Adolf von Har nack. Ver zeichnis seiner Schriften bis 1930. ︶ ハルナックの著作文献目録としては︑ とりあえず︑

︵ 22 Paul T illich, Adolf von Har nack. Eine W ür digung anläßlich seines T odes, in Gesammelte W erke, Bd. XII. Berlin 1971, 85 ︶

︵ Rendtor ff, Gütersloh 1999, 28 23 T rutz Rendtor ff, Vor wor t. in: Adolf von Har nack, Das W esen des Christentums. Herausgegeben und Kommentier t von T rutz ︶

︵ T rillhaas, Gütersloh 1985 2. Anlf. , 13 ︵ ︶ 24 W olf ga ng T ril lh aa s, Vo rw or t. in : A do lf vo n H ar na ck , D as W es en d es C hr ist en tu m s. M it ein em G ele itw or t v on W olf ga ng ︶

schaften von 1700 bis 1990, Heidelber g, 1991 に詳細に論じられている︒ 25 W . Har tkopf und G.W anger mann hsg. , Dokummente zur Geschichte der Berliner Akademie der W issen- ︶ こ の 点 に つ い て は ︵ ︶

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黒崎幸吉のアドルフ・フォン・ハルナック論

︵ für W issenschaftsgeschichte 113 ︶ を参照のこと︒ von Har nack und Max Planck. Berlin: Max-Planck-Institute für W issenschaftsgeschichte 1999 =Pr eprint Max-Planck-Institute ︵ 26 Jür gen Renn, Giuseppe Castagnetti, und Simone Rieger , Adolf ︶ マ ッ ク ス・ プ ラ ン ク 研 究 所 と ハ ル ナ ッ ク と の 関 係 に つ い て は

︵ ンク研究所の運営︑さらには神学部の有り方に関する諸論文を参照のこと︒ Ber nhar d Fabian, Hildesheim 2001 収 録 の ハ ル ナ ッ ク の 文 部 行 政 と ア カ デ ミ ナ ー の 議 長 と し て の 仕 事︑ ま た マ ッ ク ス・ プ ラ 27 Adolf von Har nack. W issenschaftspolitische Reden und Aufsätze. Zusammengestellt und herausgegeben von ︶ この点については

︵ ausgehenden 19. Jahr hunder ts. Mit einem Anhang: Edition und Kommentier ung des Briefwechsels, Berlin 1997 を参照のこと︒ 28 S te fa n R eb en ic h, T he od or M om m se n un d A do lf H ar na ck . W is se ns ch aft u nd P oli tik im B er lin d es ︶ こ の 点 に つ い て は

︵ Nowak/O.G. Oexle hg. , aaO. 397 ff. ︵ ︶ 29 T ru tz R en dto rff , A do lf v on H ar na ck u nd d ie T he olo gie . V er m ittl un g z w isc he n R eli gio ns ku ltu r u nd W iss en sc ha fts lu ltu r, i n: K . ︶

︵ Technik, 15 1920 , 100 -106 ︵ ︶ 30 V gl. A do lf vo n H ar na ck , W iss en sc ha ft un d K ult ur 19 20 , in : I nte rn ati on ale M on ats sc hr ift fü r W iss en sc ha ft, K un st un d ︶ ︵ ︶

︵ はその典型的な論調である︒ 31 Adolf von Har nack, The Crisis of the Ger man Science, in: The Nation and the Athenaeum, 2. Dez. 1922 ︶ 最初に英語で書かれた

︵ W eimar er Republik, in: Jahrbuch des historischen Kollege 2004, München 2005, 49f f. を参照のこと︒ 32 F . W . G ra f, A nn ih ila tio n his to ria e? T he olo gis ch e G es ch ic ht sd isk ur se in d er ︶ ﹁ ヴ ァ イ マ ー ル の フ ロ ン ト 世 代 ﹂ に つ い て は

︵ Moltmann, München 4. Aufl. 1977, 323 -347 33 V gl. B rie fw ec hs el zw isc he n K ar l B ar th u nd A do lf vo n H ar na ck , in : A nfä ge d er d ia le kti sc he n T he olo gie , Te il 1, hg . v . J . ︶

︵ 学部外の神学﹂ ﹃聖学院大学総合研究所紀要﹄四三号︵二〇〇八年︶を参照のこと︒ 34 ︶ こ の 点 に つ い て は 拙 論﹁ ゲ オ ル ク・ ジ ン メ ル と 現 代 神 学 ﹂﹃ 聖 学 院 大 学 総 合 研 究 所 紀 要 ﹄ 四 二 号︵ 二 〇 〇 八 年 ︶︑ 及 び﹁ 神 35 ︶ ﹃永遠の生命﹄第三六〇号   昭和三六年九月︵引用は﹃著作集

︵ 5 ﹄四〇四頁︶

vi 36 Adolf von Har nack, Die Entstehung der christliche Theologie und des kir chlichen Dogmatik, Leopold Klotz V erlag, Gotha 1927, ︶

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