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教師夏目金之助の研究(五)

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教師夏目金之助の研究(五)

一 教育意識の形成と展開一

森 下 恭 光

緒  言

 本稿において筆者が論究しょうとするのは,既に発表した拙稿「教師夏目金之助の研究

(一〜四)」によって十分に明らかにされたとはいえない側面,すなわち夏目金之助という 教師が持った教育意識の形成過程とその展開に見られる特質である。

 幕末に生を享け,明治という開明期に初等教育から高等教育に至る教育を当時としては 最高のレベルで受けた彼は,本人の積極的意志による決定とはいえない形で教職にっいた のであったが,帝国大学で英文学を専攻したことに見られるように,文学者として生きる ことを願望としていた。そのため彼は,折に触れて教師をつづけるべきか,文学創作に専 念する道を選ぶべきかに煩悶することになる。この煩悶は,彼の教師としての卓越した業 績を格別に妨げることなく進行したので,教師として見せる外面と,文学者を志向する内 面の矛盾は,他者の理解し難いものとなった。

 その理解し難いもの〉底に作用する教育意識の特色こそが本稿によって論究しょうとす

る主題である。

 漱石の教育意識の表出が,学校という教育機関における教師という立場で行なわれる時,

特色というより特異性をもって行なわれたことは,彼の教師としての経歴を見る者の誰し もが認めるところである。

 そこで,この教育意識の表出に見られる特異性の原因になるものが,彼の家庭環境から 来るものか,時代環境・社会環境から来るものか,それとも彼の受けた学校教育の結果か

ら来るものかなど予想される因子をとりあげて考察することから始めたい。

 まず,彼の家庭環境と時代環境,社会環境は,それぞれ密接不離の関係を持つものであ るので,この三つの因子は敢えて分けることをせず,一体化した環境として以下にとりあ げることにしたい。

 夏目漱石,本名夏目金之助の家庭環境,時代環境,社会環境を概観すると次の如くであ る。彼は,慶応3年(1867年)1月5日(陽暦2月9日)に,江戸牛込馬場下横町(東京 牛込喜久井町1)において生を享けた。

 父は,名主(1》の夏目小兵衛直克(54歳),母は後妻千枝(41歳)であった。5男末子とし ての出生であった。

 この事実,すなわち,彼の生家が武家ではなく町家であり,時代が江戸時代の末期では

あるもの〉士農工商という身分制度の存続していた時期であることから支配階級に属する

家格ではなかったことが分かる。しかし,名主は行政的役割を持つ立場であるから,その

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意味においては条件付きではあるが,支配階級的性質は持っていた。その夏目家の五男末 子であった彼は長子が家督を相続する当時の家制度により,夏目家における位置付けは,

低く軽いものにならざるを得なかった。そのうえ,彼を生んだ時,母の千枝は41歳であっ たことから,「40の恥かきっ子」として,厄介者扱いをされるという事情が加わった②。程 なく,彼は里子に出され,慶応4年(明治1年)に新宿2丁目名主塩原昌之助の養子とな

る。

 以上が彼の出生時から始まる家庭環境である。次に記すのは,その時代環境,社会環境 である。彼が生まれ育った時代は幕末から明治にかけての動乱の時代であった。いわゆる 明治維新と呼ばれる革命によって始まった明治の時代は,短期間に成し遂げられた社会変 革であったため,過大な課題をその当初から掲げる運命を持った。その中でもとくに「富 国強兵」と「文明開化」は大きく,しかも急速に達成されるべき課題であった。

 この二つの課題の中でも,とくに漱石にとって重要な意味を持ったのは,「文明開化」と いう課題であった。

 「文明開化」という課題が漱石の教育意識の形成にとって重要な因子になったという理 由によりそれは重要な意味を持つことになるのである。そして,この「文明開化」を明治 政府の課題の主なるものとして掲げた結果として実施されたのが明治5年に始まる教育制 度の整備である。漱石が受けた学校教育の経歴は,そのま〉未整備の状態から急速に整備 されていく明治期の学校制度の歴史に重なるので,以下に彼が大学教育を終了するまでの 過程を概観する。

 まず,彼が学校教育を受け始めたのは,明治7年(1874年),戸田学校下等小学第8級に おいてである。明治9年(1876年)市谷学校へ転校。明治11年(1878年),市谷学校上等小 学第8級終る。同年,錦華学校尋常科第2級後期に転学。同年10月,終了。明治12年(1879 年)東京府第一中学校正則科(3)第7級乙に入学。明治14年(1881年),第一中学校を中退。

同年,漢学塾二松学舎に入学。明治16年(1883年),大学予備門の受験準備のため成立学舎(4}

に入学。明治17年(1884年)9月,東京大学予備門予科に入学。明治19年(1886年)東京 大学予備門は第一高等中学校(5)と改称。明治21年(1888年)7月,第一高等中学校予科を卒 業。同年9月,本科第一部(文科)に進学。明治23年(1890年)7月,第一高等中学校本 科卒業。同年9月,帝国大学文科大学英文科に入学。明治26年(1893年)7月,帝国大学

文科大学(6)を卒業。

 以上のように概観される彼が受けた学校教育の経歴には,小学校時代の転校2回を始め として,中学では正則中学を退学して漢学塾に移り,更に,大学予備門受験準備の英語学 習のため成立学舎に籍を置くというように頻繁な学籍の移動が見られる。この事実は,漱 石の側にある固有の事情と,当時の学校教育制度の一般事情を物語るものである。ここで とくに指摘しておきたいのは,当時のわが国で高等教育を受けるということが社会的にど のような意味を持ったかということである。高等教育を受けようとする意志の背景に何が あったかということである。そこで,高等教育機関の頂点に位置した帝国大学について,

その社会的期待をとりあげることとする。帝国大学という呼称は,明治19年に制定された 帝国大学令(7)によって発生したものであり,それ以前は東京大学と呼ばれていた。

 帝国大学令の第一条にはその目的が明記されている。「帝国大学ハ国家ノ須要二応スル学

術技芸ヲ教授シ及其塩奥ヲ攻究スルヲ以テ目的トス」(8)と規定されていることから,その教

育は「国家ノ須要二応スル」という至上命題を実現するためのものであったことが確認さ

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れる。このことを更に強く印象させるのは,法科大学長だけは,帝国大学総長が兼ねるこ とになっていた(26年まで)(9)ことで,法科大学がとくに,高級官僚養成機関という国家的 使命を持っていたことを象徴していたということである。つまり,帝国大学で学ぶという

ことは,それぞれの専門分野における国家的指導者として期待されるということであった。

 漱石が専攻したのは英文学であったから,帝国大学において英文学を専攻するというこ との意義を確かめておきたい。先に記したように,彼が帝国大学文科大学の英文科に入学 したのは明治23年9月であり,同科を卒業したのは明治26年7月であった。この時期の英 文科は,東京帝国大学文学部学友会発行の『卒業者名簿』(1°)によれば,文学科英吉利文学専 修と呼称されており,漱石,即ち夏目金之助の名は,明治26年7月卒業者として,明治24 年7月卒業の立花政樹の次に記載されているという(11)。この事実からすると,漱石は帝国 大学文科大学において英文学を専攻して卒業した者としては2人目であったということに なる。ちなみに,彼以後の同専攻卒業者は28年に2人,29年に3人,30年に4人という具 合で漸増しているものの,きわめて少数者であったことが確認される(12)。同時期に同じ分 野を専攻する者が極めて少ないという事実は,そのまま稀少性を表わし,それは同時に価 値の高さをも意味する。帝国大学そのものが,当時のわが国には一校しかなく,その帝国 大学文科大学の英文科を専攻する者が稀少であるということは,帝国大学令で定めるとこ

ろの帝国大学の教育目的によっても国家的使命を期待されていることから,その国家的期 待が極めて大きいものにならざるを得ないことは容易に想像されることである。

 以上のことから,彼が帝国大学で英文学を専攻し,卒業したことの国家的意味は容易に 理解されるところである。

 次に明らかにすべきは,彼が英文学を専攻した動機である。これについては談話筆記の

『処女作追懐談』㈹に,彼自身が明らかにしている。彼によれば,「漢文科や国文科の方は やりたくない。そこでいよいよ英文科を志望学科ときめた」(14)のであるが,「しかしその時 分の志望は実に荘漠極まったもので,ただ英語英文に通達して,外国語でえらい文学上の 述作をやって,西洋人を驚かせようという希望を抱いていた。」㈹というものである。彼自 身が述懐していることであるから,信頼度の高い内容であることは認めざるを得ないが,

帝国大学で英文学をこの時期に専攻することの国家的意義を確認した後でこれを読むと,

その動機が極めて漠然としたものであることに驚かされる。

 もっとも,この時期が条約改正の前段作業として,井上馨によって進められた欧化政策 が実らず,反ってその反動ともいえる国家主義的思潮が盛行し,国家の諸政策にも影響を 及ぼした時期であったことを思量するならば理由のないことではないと理解される。この 間の事情を理解する資料としては次の事実が有効である。

 その事実とは,明治22年5月頃,つまり帝国大学に入学する前年に,学内に組織された 国家主義の学生団体に入会を勧誘された漱石は,自分は中途半端な立場であるとの理由で,

入会を拒否するということがあった⑯。

 彼が国家主義の団体への入会を拒否した理由が「中途半端な立場」に自分があることに あるとしたところに注目すると,この時点,つまり,第一高等中学校本科第一部(文科)

で英文学を専攻し始めている時点では,開明の具でもある英文学の専攻を否定することに もなりかねない国家主義には簡単には賛同できないという立場表明であったと理解される。

 無論,彼は欧化主義に全面的に依拠しょうとする者でもなかった。彼は開明期に生を享

け教育を受けたことにより時代風潮でもある開明には参加せざるを得なかったが,それが

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欧化主義という形で進められていくことには抵抗を感じていたのである。

 っまり,開明は近代国家として日本が成熟していく為の目標であり,その目標達成の手 段として外国文化の摂取が必要であり,欧化主義も必要ではあるのだが,手段としての欧 化が目的化している状況に彼は抵抗を感じていたのである。そのような背景から,彼は国 家主義者でも欧化主義者でもない「中途半端な立場」に立たざるを得なかったのである。

 以上のような事情もあり,彼が帝国大学で英文学を志望した動機は漠然としたものであ ったが,そのことが反って後の漱石の活動を特色あるものにしたということも言わざるを

得ない。

 志望は目標に連動するわけであるから,彼が英文学を専攻する志望動機の対極にある目 標は,「英語英文に通達して,外国語でえらい文学上の述作をやって,西洋人を驚かせ」る ことにあった。欧化主義と国家主義の対立する中にあって,外国語で創作を発表し,西洋 人を驚かせるということは,欧化の部分を持ちながら国家主義を実現していくという意味

を持っていたと考えるならば,それが英文学徒としての彼のアイデンティティの示し方で もあったと考えることができる。このような事情のもとに帝国大学で英文学を専攻するこ とになった漱石の学徒としての卓越性は次のような事実によって容易に推察されるであろ

う。

 明治23年(入学の年),文部省貸費生となる(17)。明治24年7月,特待生となる(18)。12 月,J・M・ディクソン教授の依頼で「方丈記』を英訳(エ9)。この英訳はディクソン教授よ

り高い評価を得たものであり,英文学者朱牟田夏雄も彼の非凡さを物語る訳業であると評 価する⑳。

 明治25年5月,哲学会雑誌にE・ハートの『催眠術』(21)の翻訳を掲載。同年10月,哲学雑 誌に「文壇における平等主義の代表者『ウォルト・ホイットマン』Walt Whitmanの詩に っいて」(22)を発表。明治26年1月,文学談話会において「英国詩人の天地山川に対する観 念」(23)と題して講演。その内容は3月から6月にかけて哲学会雑誌に発表。以上が事項の主

なものである。このような客観的事実の一方で,漱石自身の主観的状況はどうであったか を見るならば,次のような事実がその主観的状況を暗示するものとしてあげられる。

 明治23年の暮より翌年にかけて厭世主義に陥る(24)。明治24年7月頃より本格的に作句に 取り組む。このことは,明治22年1月に正岡子規を知り,子規の影響で作句を始めたのが 本格化したことを意味する。その子規に宛てて,明治24年8月3日に書いた書簡中に,「我 等が洋文学の隊長とならん事思いも寄らぬ事と先頃中より己れと己れの貫目がわかり候え ば」(25)とあるのは,客観的事実(この年に特待生となり,『方丈記』の英訳をディクソン教 授より依頼され,しかも高い評価を受けた一筆者)とは裏腹に,主観的状況としては,自 己の学力に不満を抱いていたことを暗示するものである。

 明治26年7月に彼は帝国大学を卒業する。ここで彼の英文学を専攻する学生としての時 期は終わることになる。

 学業を終えた漱石に就職の斡旋をしたのは文科大学長の外山正一であった。この間の経

緯を漱石は『処女作追懐談』で次のように述べている。「丁度私が大学を出てから間もなく

のこと,或日外山正一氏から一寸来いと言って来たので,行って見ると,教師をやって見

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てはどうかということである。私は別にやって見たいともやって見たくないとも思って居 なかったが,そう言われて見ると,またやって見る気がないでもない。それで兎に角やっ て見ようと思ってそういうと,外山さんは私を嘉納さんのところへやった。」(26)この談話の

とおりであったとすると,就職にあたっての漱石の意志の発現は不明確であるばかりでな く,就職という社会参加の場を決定する場面にある当事者としては主体性が乏しいといわ ざるを得ない。しかも,この結果は,就職の決定ということになり,彼は,東京高等師範 学校英語教師に就任することになるのである。この事実は,当人の意志に関係なく,彼が 帝国大学で英文学を専攻した学士であるということの対社会的意味の重大さを示す事例と

して理解される。現代的観点からすれば信じ難いことが起こり得た時代であったのである。

 しかし,ここで確認しておきたいのは,就職をしたことによって社会的使命を教師とし て果たすことになったが,彼自身のアイデンティティとしての「英語英文に通達して,外 国語でえらい文学上の述作をやって,西洋人を驚かせ」ることには当たらない道の選択で あったということである。職業としての教職に就くことになるという事実は,彼がそれを 如何に弁解しょうとも彼自身の決断によって発生したことであるから,経緯の如何にかか わらず,結果の責任は彼自身にあった。

 そして,そのことは彼自身もよく認識するところであったので,以後約15年にわたる教 師生活に伴う煩悶を経験することになる。

 東京高等師範学校の英語担当講師に就任した漱石が受ける報酬は年棒450円,月給37円50 銭であった(27)。ここで触れておかなくてはならないのは彼の経済観念である。

 明治の開明期に高等教育を受けた彼は,先にも記述したとおり,明治という国家社会の 指導者階級たるべき教育を受けたのであり,また,彼自身もその意識を持って国家社会に 何かの形で貢献することを期していた。しかし,彼には,そういう意識を直線的に発揮で

きにくい事情があった。それは,彼の生家と養家の経済事情から来るものであった。

 英文学を専攻するということ自体が彼の抱えている経済事情からすると矛盾をはらむも のであったが,それを敢えて実行するところに彼の意志の強さを測ることができるが,現 実問題としての経済事情は,絶えず彼を圧迫することになった。そのため,彼は早い時期 より学資補給のための経済活動をしている。

 その最初は明治19年(大学予備門予科に在学中一筆者)の江東義塾教師就任(28)であっ た。アルバイトというべきものであった。次いで,明治25年(帝国大学文科大学の英文科 に在学中一筆者)の東京専門学校講師就任㈹であった。これもアルバイトというべきもの であった。この次に来るのが,東京高等師範学校への就職である。ただし,この時は,ア ルバイトとしてではなく正規の職業としての就職であった。

 ここに見られるように,彼は早い時期から学資補給という経済事情によってアルバイト というべきものであったとはいえ,職に就いたのである。

 彼に,英文学を専攻した上での国家的貢献への意志の所在に関係なく彼に作用し,圧迫 を加えたこの経済事情が,あたかも不本意ででもあるようなこの職業選択を強いたと考え ることもできるのである。

 とも角,漱石は教職に就いた。定職に就いた漱石は,翌27年2月の初めに風邪をひき,

やがて血疾を見るようになり,初期の肺結核と診断される。このことにより大きな精神的

打撃を受けた彼は,健康上の悲観から人生の悲観にまで苦悩を深めていった。幸い,病気

の方が回復するにつれて,彼の人生悲観もそれ以上深刻になることもなかったが,完全に

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回復したとはいえず,職場における活動も際立ったものがなく,他の時期に比べて著しく 資料の少ない時期になっている。ただ,明確な事実として残っているのは,明治28年4月,

高等師範学校を就職し,あわせて,講師を勤めていた東京専門学校も辞任したということ

である。

 高等師範を辞職した漱石は教職そのものを捨てたわけではなく,新しい職場として愛媛 県尋常中学校を選んだ。管虎雄の仲介によるものであった㈹。東京から地方都市松山へ。

高等師範教師から中学教師へと地理上,身分上の大きな移動を彼が選択した決定的理由は 未だに不明である。しかし,松山は,第一高等中学校本科以来の親友である正岡子規の郷 里であったことと,月給80円(31)という破格の待遇を受けたことは彼が松山を任地とした理

由の中に数えられよう。

 正岡子規との交流は,とくに俳句を通じて親密なものであり,松山滞在中も8月27日に 子規が松山に帰省して以来10月19日に出発するまで,子規の運座に加わり,句作に熱中し た。このことを見ても松山が子規とのつながりで選択された可能性は否定できない。

 また,月給80円という待遇は,高等師範での月給37円50銭と比較すれば,2倍強という ことになる。さて,この新赴任校愛媛尋常中学校における漱石の教師としての姿勢はどの ようなものであったかを次に見る。

 松山時代の教師としての漱石を生徒として見た真鍋嘉一郎(32)は,4年,5年の2か年に わたり英語教師夏目金之助から指導を受けた。真鍋による漱石追懐は,主として英語教師

としての卓越性を語るものである。その卓越性は,その内容が当時の中学校英語教育の型 を破るものであり,当時の英語教育が難解な教材の消化に精力を費やすものであったのに 対し,学習者である生徒に英語の総合力をつけるということに教師の側から工夫と努力を 傾注するというものであった。読む,書く,聞くという英語の基本能力を独特の教育法で 育てようとしたというのである。

 そのため,教材として『スケッチブック』を扱ったリーダーの授業では,4年,5年の 2年間で「ヴォイエージ」,「ロスコー」,「ブロークンハート」の3章を読了しただけであ った。生徒間では,このような卓越性を示す漱石について「あんないい先生が松山なぞへ 来たのは,道後の温泉がある故,保養芳々教鞭をとるに過ぎまいなぞと言われていた」㈹と

いう。

 同じ中学校で漱石による英語教育を受けた松根東洋城(34)は,真鍋が漱石の卓越性を強調 しているのに対して,漱石の人間性を賞揚している。松根によれば,どのような質問にも 答えられるように見えた漱石が「知らぬ事は平然として知らんと言われた。それが当時の 誤魔化し上手な教師たちと比べて,吾々を敬服させた」㈹と追懐し,人間としての漱石が,

自分の知らないことは知らないと偽わらず答えるというところに,通常の教師に比べ,人 間として卓越した存在であったことを伝えている。

 また,松根は「先生気質というものはどこにでもあって,どの教師でも厭に態度を作る ものであるが,先生には初めからそれがなかった。教場でも廊下でも,先生は常に先生で あった。」㈹とし,「先生気質」というものが漱石ちは見られなかったということを賞讃して いる。教師であることによって,職業的態度は自然に身に具わるものであると考えるなら ば,漱石は現実に教師でありながら,職業的態度を否定しつづけるところがあり,その部 分が人間漱石としての存在を印象づけたということになる。「先生は常に先生であった」

は,「漱石は常に漱石であった」と同義である。しかし,このように生徒から敬愛されなが

(7)

らも,11月に『保恵会雑誌』(松山中学校友会誌一筆者)に『愚見数則s(37)を発表した頃に は松山に執着する心境にないことをうかがわせている。

 職務には忠実で,しかも卓越性を示し,そのことによって職場では有能な教師として,

同僚からも生徒からも敬愛されながら,漱石自身の中では,明確な形をとらない不満や焦 燥感ともいうべきものがあったと見られる。明治29年4月,漱石は愛媛尋常中学を辞職し

て,熊本の第五高等学校の講師となる。したがって,松山での教師生活はわずか1年で終 わっている。外面的には何の問題もないのみならず,むしろ生徒に敬愛された生活であっ たことを思量するならば,もし理由があるとすれば,内面的,精神的面での問題があった

ことを推測することになるが,これも確定的なものはない。意外な結果というべきである。

 熊本の第五高等学校での待遇は,月給100円であった(38)。赴任して程なく,6月には貴族 院書記官長の中根重一長女鏡子と結婚。7月には教授に昇格している。

 ここに見られる変化は,松山から熊本へと地理には更に東京より遠隔地に勤務すること になったこと,中学校から高等学校へと学校の種類が変わり,教育内容も教育対象も変わ ったということ,結婚により独身から妻帯へと生活の態様が変わったことの3点に要約さ れよう。中でも結婚は,彼が人生上において初めて経験することであり,独身生活の長か った漱石にとっては予測し難い期待や不安が発生することになる。これらのことと直接に 連なることと断ずることはできないが,同年10月には,『竜南会雑誌』(39)(五高校友会誌一        エックス 筆者)に「人生」を発表し,人間の内部に存在する不条理で思慮を絶する不可思議な「X」

は良心が主宰できないもので,狂気の原因になるとの見解を述べている㈹ことは注目され

る。

 つまり,状況的には,幸福で順調な人生の最中にあると思われる漱石の内部に存在する 暗部が暗示されていると見られるからである。さて,第五高等学校教授としての漱石は如 何なる姿を職場において見せていたかを次に見る。

 3年次に漱石の授業を受けた速水滉{41)によれば,「当時我々は先生をさほど偉い人とも 思わず,時々突っかかったものであった」{42)が,課外講義の『ハムレット』は興味をそそる

ものであったという。全般的印象としては,厳格な態度で授業をされ,快活なところは少 なく,下読をしないで臨む学生にはとくに厳しかったと述べている㈹。このようなところ から,学生からは怖がられたところはあるが,「温味のある,一風変った感じがあった」(44)

とも付け加えている。

 同じく第五高等学校の二部で英語を教わった内丸最一郎㈹は,英語が不得手であったこ ともあり,漱石についての印象は,教場におけるものより,教場外での漱石について,そ の人間性を賞揚している。それを表わすのは次のエピソードである。

 英語を担当しているクラスの学生であるに過ぎない内丸に対して,同僚の教授から聞い た内丸の経済事情に同情し,漱石は,大学を卒業するまで学費を出すことを申し出たとい うのである。結局,育英会から資金を借りることになり,漱石の申し出は生かされなかっ たが,この一事により,内丸は,漱石の愛情と配慮の細やかさを痛感したという㈹。

 第五高等学校教授時代の漱石は,職務には精励し,紹介したようなエピソードも残して いるが,それと並行して,明治29年,30年の2年にわたり,教師生活を続けることに疑問 を抱き,文学者として生きることへの願望を募らせているのは,意識の底にある文学への 執着が折に触れて浮上して来る彼の性向を示している。しかし,第五高等学校での地位は,

明治32年6月に英語主任,明治33年4月に教頭心得と上昇し,同年5月には英語研究を目

(8)

的とするイギリス留学を命ぜられる㈹。現職のままでの2年間のイギリス留学は身分は五 高教授であっても教育には従事しなかったから,事実上,留学の2年間は空白になる。

 明治36年1月,2年間の留学を終えた彼は東京に帰着する。帰国後の彼は,本来ならば 現職の第五高等学校教授としての留学である立場からも第五高等学校に復帰すべきである が,彼はそれを好まず,東京で就職することを切望する。結局,彼は第五高等学校を依頼 免官となる。新たに彼が就いたのは,第一高等学校講師,東京帝国大学英文科講師の職で あった。待遇は第一高等学校が年棒700円,東京帝国大学が年棒800円であった(48}。帰国後 の新しい職場における漱石の教師として姿勢はどのようなものであったかを次に見る。

 まず,第一高等学校における同僚であった畔柳都太郎㈹によれぼ,漱石が第一高等学校 に赴任するということを聞いて自分が喜んだのは,漱石が所謂英語屋ではなく,思想家で あるという点やその教育法が厳正で学生に迎合するようなところが無いという点などにあ るとして,漱石の特性が当時の一般教師とは異質な存在であったことを指摘している㈹。

 また,漱石が教育に従事する一方で文学者としての生活も並行させており,その為両立 に苦しでいた様子が見えたことを休講や試験の採点の遅延などの事例をあげて紹介してい る。更に,漱石の対人関係に触れて,漱石が先生,友人,弟子というように自分にとって の相手の立場によって区別を設けていたことを指摘している。この指摘は意外な印象を与 える。教養人である漱石が,一般人にも見られるような態度をとっていたということに意 外性があるわけである。しかし,彼が儒教的倫理である長幼の序を重んずる時代でもあっ た明治人であったことをし思量するならば,意外と感ずるのは現代的感覚で漱石という教 養人の対人関係を推し測ることから来ることであるとも考えられる。

 次にあげるのは,東京帝国大学で1年の3学期より帰朝直後の漱石の講義を受けた松浦 一(51)による追懐談である。松浦によれば漱石が初めて教室に現われて発した言葉は「私は アヴェレージな日本人の一人としてお話をする」㈹というもので,そこには謙虚さがうか がわれたという。しかし,一方では都会趣味と俳人趣味とが一体化し,一癖ある鋭い様子 であったことも指摘している。松浦が漱石が受けた講義は文学論であった。この講義は翌 年も続けて受けたのであったが,難解であるとの評判もあり,漱石自身労多くして評価さ れることの少ないことを嘆いてもいたこの講義を松浦は「此講義をされたと言うだけでも,

大学の講座に一生面を開かれた功績を没する事はできない」㈹と讃えている。

 一方,「私の知って居る大学奉職時代の先生は生活と思想の両方面で奮闘されていたため か,形容には段々と人生の疲れと言うような様子が加わるように見えた」(54)とも述べてい る。松浦の追懐談によって知られるのは,学者,教師としての卓越性を学生の一人として 感じ取りながら,人間像として見る時には,人生の疲れを感じさせるところがあったこと

も認めているということである。

 もちろん,漱石が当時経験していた生活と思想両面の奮闘が実際に如何なるものであっ たかは漱石本人のみが知り得ることであるに違いなく,学生の松浦にはうかがい知ること

も出来ないことであったに違いない。しかし,次のエピソードを知る時,学生の松浦にも

漱石の生活苦の一面がとらえられていたことが理解される。松浦によれば,「先生は大学の

講師兼高等学校講師で両方の俸給を合しても充分な収入とは言われない。或時私に明治大

学へ行くので助かると言われた事があった」㈹というのである。漱石は学生に自己の生活

苦を打明けることもあったわけで,そういうことがあれば,漱石の生活面の一部は理解さ

れ得たということになる。

(9)

 ここにあげた2者による追懐談によって知り得るのは,学者,教師としては卓越した存 在であった漱石も,生活者としては,精神面,物質面から強い圧迫を受けた時期でもあっ たので生彩を放っていたとは言い難いということである。この後,間もなく彼は一切の教 職を辞して朝日新聞社の人となるのであるが,その決断を促したものは,それにより長年 苦しんで来た精神,物質の両面から加えられる彼の生活への圧迫と苦痛から自分自身を開 放しょうとする強い意志であったと考えられる。それによって得られる安楽と比較するな らば,その決断によって逃がすことになる世俗的栄達(帝国大学教授への昇進など)など 問題にならなかった。朝日新聞入社を彼が決意する過程を知るならばこのことは容易に納

得される。

 明治36年,イギリス留学から帰国して間もない時期に教師か文学者かの問題に悩んだ彼 は,明治38年半ば頃より再び教師か文学者かの問題に悩む。この年は,『吾輩は猫である』

を第二から第六まで発表したのを始めとして文学的に多産の年であり,とくに『吾輩は猫 である』に寄せされた好評は,文学者として生きて行くという年来の願望を助長するもの であった。一方,教師という職業は彼に精神的負担を与えることが多いのに反して喜びを 与えることは少なかった。彼を教職に留めていたのは,この職業によって得られる収入が 安定しているということにあった。

 したがって,文学者であることと収入が安定するということの両者が両立するならば,

文学者への道の選択は何時でもなし得るという状況であった。そのような時期に両者の両 立に保証を与えた朝日新聞に入社することを決意したのは当然の選択であったといってい いのである。この時朝日新聞が提示した月俸は200円で,しかも累進式ということであっ

た(56)。

結  言

 以上の論究によって明らかにし得たことは,教師夏目金之助の教育意識の形成は,家庭 環境が大きな要素となっていたとは考え難く,むしろ,家庭外の社会的要素から受けた作 用によって性格づけられたところが大きかったということである。中でも,時代的背景と

しての明治の開明期という時代と,その時代に彼が受けた学校教育,とくに帝国大学とい う社会から特別の期待を寄せられた教育機関で高等教育を受けたことが大きな意味を持っ た。高等教育を受けた彼は必然的に当時の知的階級に組み込まれることになったが,一方 で,英文学を修めることによって獲得した高度な語学力と,深切で鋭利な人間観察力と過 剰な自意識は,彼の職業である教職の場面でも仮借なく働き,本来は外に向いて働く教育 意識も内へ向かって働くことが多く,内向的教育意識とでも呼ぶべき形を示した。

 彼が高等教育を受けることによって獲得した高度な語学力は教師としての彼にとっては 職業を支える大きな力になったが,深切で鋭利な人間観察力と過剰な自意識は,絶えず自 己に向かって働くことによって,彼の精神を疲労させた。そのようにして起こる精神の疲 労から彼を回復させるのは,願望として持続させて来た文学者への転身であった。したが

って,彼の教育意識の持つ特異性は,文学者への転身によって自己開放を為さんとする意 志の働きに帰因すると考えることができる。

 つまり,夏目金之助の教育意識は,文学者夏目漱石になった時,初めて自然な形で発露

されることになったのである。

(10)

  (注)

(1)名主には「ミョウシュ」と「ナヌシ」の二通りの読み方があり,ここは後者。

(2)当時40歳台での出産は例が少なく,異例であることが世人の耳目を集めた。

(3)正則中学は「日本語許りで普通学の総てを教授」するため,英語の学習がなされない。夏目漱   石,私の経過した学生時代,漱石全集第34巻所収,岩波書店,1980年,189ページ。

(4)成立学舎は私塾で英語教育に特色があった。神田駿河台に所在。

(5)明治19年の中学校令により,中学は高等と尋常に分け,尋常中学が5年,高等中学が2年を修   業年限とした。文部省,学制百年史(資料編),128ページ,152ページ。

(6)帝国大学は,明治19年の「帝国大学令」により帝国大学を法,医,工,文,理の分科大学によ   って分け,文科大学はその一つである。文部省,学制百年史(資料編),152ページ。

(7)明治19年3月2日,勅令第3号。文部省,学制百年史(資料編),152ページ。

(8)同前書,152ページ。

(9)田中保隆,大学生,国文学,解釈と鑑賞。至文堂,昭和43年,51ページ。

(10)朱牟田夏雄,漱石と英文学,国文学,夏目漱石,学燈社,昭和54年,52ページ。

(ID同前書,52ページ。

(12)同前書,52ページ。

(13)明治41年9・15「文章世界」に発表された漱石,漱石全集,第34巻所収,岩波書店,1980年,

  162−166ページ。

a4 同前書,164ページ。

a5)同前書,165ページ。

a6)荒正人,夏目漱石,五月書房,昭和32年,14ページ。

07)貸費生に対しては年額80円が貸された。

㈱ 特待生になると月謝は不要。月謝は2円50銭。

09)ディクソンDixon.James Maim(1856−1933)は漱石による「方丈記」の英訳と解説を聞い   てワーズワースとの比較を行なう講演をした。松岡譲,漱石,人とその文学,潮文閣,昭和17

  年,79ページ。

⑳ 朱牟田夏雄,前掲書,53ページ。

(20アーネスト・ハートの講演「催眠術」を翻訳したもので,「哲学雑誌」に掲載。松岡譲,前掲

  書,79ページ。

(22)漱石が初めて公にした英文学の論文である。漱石は自主独立の精神をもったホイットマンに   共感を寄せ,一つの理想像をみている。瀬沼茂樹,夏目漱石,東京大学出版舎,1962年,25−

  26ページ。

倒漱石はこの論文で,人工が自然に似るときに価値があるとした。リアリズムの理論である。瀬   沼茂樹,同前書,26−28ページ。

⑭ この時期に漱石を襲った厭世主義を松岡は「人生で最も希望多き輝かしい時期が選ばれたも   のになる程最も呪われた時として与えられる」と評する。松岡譲,前掲書,68ページ。

(田)漱石,漱石全集第27巻所収,岩波書店,1980年,29ページ。

(26)漱石,処女作追懐談,漱石全集第34巻所収,1980,162−163ページ。

⑫7)荒正人,前掲書,20ページ。

㈱ 江東義塾は,本所松坂町にあった私塾。月給は5円。英語で地理や幾何学を教えた。古川久,

  夏目漱石辞典,東京堂出版,昭和57年,66ページ。

(29)東京専門学校では,ミルトンの「アレオパジカ」を教えた。

(3》菅虎雄は明治24年帝国大学文科大学独文科卒業し,五高,三高,一高の教授を歴任した漱石の

  親友。古川久,前掲書,97ページを参照。

(11)

(3D月給80円は校長の月給を上廻るものであった。

(32)真鍋嘉一郎は,後に医師になり,漱石臨終の折の主治医であった。

(33)真鍋嘉一郎,松山時代,文豪夏目漱石所収,春陽堂,大正10年,29ページ。

(34松根東洋城は本名豊次郎。大正4年より俳誌『渋柿』を主宰。宮内省式部官を勤める。

(35)松根東洋城,松山時代その二,文豪夏目漱石所収,春陽堂,大正10年,33ページ。

(36)松根東洋城,前掲書,34ページ。

㈹愛媛中学校友会誌に発表したこの文章は挑戦的ともいえるもので,当時の漱石が教師である   ことに疑問を感じていたことがうかがわれる。

⑱夏目鏡子によれば,100円のうち10円は軍事費として引かれ,7円50銭は貸費生としての返   金,他に父に10円,姉に3円の仕送りで70円しか残らなかったという。夏目鏡子,述松岡譲筆   録,漱石の思い出,文春文庫,1994年,36−37ページ。

(39)第五高等学校校友会誌で漱石は,明治29年10月号に「人生」を発表した。夏目漱石,人生,漱

  石全集第22巻所収,1979年,217−221ページ。

⑩ 荒正人によれば,漱石における狂気の問題を考える資料としての意味を持つ小文。荒正人,前

  掲書,29ページ。

ω 速水滉は心理学者。

(42)速水滉,熊本時代その一,文豪夏目漱石所収,春陽堂,大正10年,36ページ。

倒 速水滉,同前書,36−37ページ。

㈹ 速水滉,同前書,37ページ。

㈲ 内丸最一郎は後に東大工学部長となる。

(46)内丸最一郎,熊本時代その二,文豪夏目漱石,春陽堂,大正10年,39−41ページ。

(47)漱石が留学中に支給された留学費は,年額1800円で月割りにすると150円であった。これが留   学中の漱石にとっては十分な金額といえなかった事情は,漱石夫人の述懐に詳しい。夏目鏡子

  述,前掲書,109−110ページ。

(48)第一高等学校と東京帝国大学の年棒を合わせると1500円であるが,これでも不足であったた   め明治大学で非常勤をやり30円がこれに加わる。

㈲ 畔柳都太郎,明治29年に帝国大学文科大学を卒業。一高教授を勤めた。

(5》 畔柳都太郎,大学教授時代その一,文豪夏目漱石,春陽堂,大正10年,45ページ。

(5D松浦一は英文学者。

(52)松浦一,大学教授時代その二,文豪夏目漱石,春陽堂,大正10年,59ページ。

(53)松浦一,同前書,60ページ。

(SO 松浦一,同前書,62ページ。

(55)松浦一,同前書,63ページ。

(56)荒正人,前掲書,47ページ。

※引用文中の旧漢字,旧仮名遣いはすべて新漢字,新仮名遣いに改めたことをことわっておく。

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