Title
不法行為法による経済的利益の保護とその態様 : イ
ギリス法における純粋経済損失をめぐる議論を端緒と
して
Author(s)
吉本,篤人
Citation
URL
http://hdl.handle.net/10291/11075
Rights
Issue Date
2009
Text version
ETD
Type
Thesis or Dissertation
DOI
謳 一 辱 a κ. t e 1川lll川川1棚lll川lll酬Illllli 12009−03148−2 脚
懲:蹴llll;ll;;1;1蒸lll
1.3 検討の対象______..___.___.___. 2 ネグリジェンス法と純粋経済損失______... 2.1 本章の考察方法.__.____.____._._.. 2. 1.1 享読実(Z)類御盤〆ご{重)、とゴぐIY7ZkYfk_,__.. 2.1.2 髭粋樫済覆茱が墜0る典型的、な事僻. 2.2 イギリス判例法の概観____..__,_._._.1;;懸llll;;
..99.._..._._.....__......_..........,.......9 ._._._._._._.__.___.___..12 .._._..._._...._...99.......99..____.12 .....『『.._..._........『9___._____..12 9____9_____._..99_......,.._...12 ............._........................................15 2,21 崩し夏タ_9_9_...______99____.__9_9___9__9__.__9__9____915 2./2.2 、配emor(1uage著彦〆≠∠ズ降の疹ξ汐e冴.___,____99__9____9__ρ9_9___.19 2.2.3 Hedley Byrn e事件珍イ降の法抄e冴....,...........,._...__.______g。.__.__24 2.2.4 Anns專f4LL)(ffdク房ψe冴____g__9___.___.._____g_g。gg_____35 2.2.5 Mα乃ρ.ゐy考亨件の砺耳岩一一責∠誓否定御7の珂房__.._.._____g._____.47 2L 26 /lfurp、め7事〆≠∠ズ降の/ξbew−一」θわ6召6≧7伽z∼θ挙穎り1の拡笏ぎ..,._._.........__55 2.2.7 //itif._,_,_.._,._._._._,.....,.__._._,_._._._...:_.._._,_._._,_._。65 2.3 学説による分析__.. ____.______..._.__.___..____.__._68 2. 3. 1 妻享在奇差r挙艶7を支える読}麹_._...........。。..。........。...。..、。.、、、_._._.._,......,,,,,9.68 2.3.1.1 水門論_____._....._.___._.___.__._.___.___.._____6g 2.3.1.2 利益の序列または性質__._.___,______.__.__.__..___.71 2,3.1.3 歴史的観点からの説明..______..______.._.__.___...___72 2. 3.2 その勉の分汐デ___..__gg____.._____,_,_,g_____,__.__.__.72 2.3.2.1 区別に懐疑的な立場.______..__._.___..__.____,_____73 2.3.2.1.1Atiyahの見解._._____,__.____...____.__..__.____.73 2.3.2.1.2Stapletonの見解_._. ._._____.____._._,_____74 2.3.2.1.3Caneの見解______....______._.._____.______.._.80 2.3.2.2 区別を積極的に説明しようとする立場____.__.__..____.___83 2.3.2.2.1Bensonの見解______._.._____.______..._____._.83 2.3.2.2.2Howarthの見解_._____..____..__._____.._.______84 2.3,2.2.3Wittingの見解....._...._........._._........_........_........_._..........._.86 2.3.2.3 その他の立場.______99______..__.__.__..__.____.__86 2,3.2.3.1Gordleyの見解..______.______.._____._.______,862.3.2.3,2Kozio1の見解__..____9____.__..______.______..89 2.4 本章の小括_____.______.__._.___.____..__..______.__93 3 イギリス不法行為法による経済的利益の保護___.___._...__.__..._.___..g7 3.1 本章の考察方法______._.._____..____.__.___._.__..___._g7 3.2 故意による経済的不法行為法の出発点..______.____._._..______..97 3.2.1 樫済融私益を道求するβ∠カ._.___..___.______._______9__98 3. 2.2 ∠ヲ石夕競争と公正麗争__.___.__..____.______g....______.g..100 3.2.3 ネググジェンズ法との艀孫,__,_一_一._........_._.___.._._,_一_..._.101 3.3 経済的利益に着目した考察____.__.___..___._._____.._____..102 381 契約士の薩初____,____.__.,___._.__.___99___..______102 3.3.1.1 故意による加害__.__.__.____._._.__.__.__._____._.103 3.3.1.1.1 原告の契約相手方の履行を妨害する場合..______.______.103 3.3.1.1.1.1 直接の説得による契約違反誘致.__.____._._.____._...104 3.3.1.1.1.2 直接的に履行不能にする契約妨害.______...______._.105 3.3.1.1.1.3 間接的に履行不能とする契約妨害_____._..___.___._.106 3.3.1.1.1.4 三当事者間の脅迫__..____..__.____.._._____..._.112 3.3.1.1.1.5考察.______.___..___._____._....______..__113 3.3.1.1.2 原告自身による履行を妨害する場合____..∴._.______....._116 3.3.1.2 偶発的な加害_._____._.._____.___.___..______...._117 3.3.1.3 小括__._.._._____.__.___._.______._._.____._...118 3,3,2 期得ぎ____gg_g_____。_._.____.._._____.。__.____.__._121 3.3.2.1 契約に関する期待_____._.______.._._____.___.__121 3.32.1.1 契約締結の妨害_____.._...______.___..___._____.122 3.3.2.1.1.1 商業上の利益追求のためになされた行為に対する責任____.122 3.3.2.1.1.1.1共謀.______._._____..____..__.____.__....123 3.3.2.1.1.1.2不法取引妨害___._.__._____._..__.__.__..__126 3.3.2.1.1.2 第三者の財物に対する加害によって契約締結を妨害した場合..129 3.3.2.1.1.3 小括__...______,_____.._._._____.______,130 3.3.2.1.2 不利益な契約締結を誘致する場合.______,_____._.___.131 3.3.2.1.2.1善意の不実表示______...__.____....______.___.132 3.3,2.1.2.2 詐欺的不実表示.___.___.______.._._.____.__._133 3β.2.1.2.3 過失不実表示____.__.__.____..___.___.._____135 3.3.2.1.2.4 考察.._.__.__._.._____.______.______....__.136 .2.
3.3.2.2 契約外の期待__..____.______...___.___._._..__._._13g 3,3。3 」会鐸塗7躍贋.9._..,.g.____.._,___..____『,......_._,____。_____141 3.3.3.1 故意による加害______.__..____._.___.__.____.__.141 3.3.3.2 故意によらない加害___._.__.___..___.___.__._.___._143 3.3.3.2.1第三者の財物に対する損害.___.___.______.______.143 3.3.3.2.2 低水準のサービスの提供..______.___..___._______143 3.3.3.2.2.1金融サービス___.___.._._____._.._____._____144 3.3.3.2.2.2 医療サービス__.____._.___.__...______.__..__.148 3.3.3.2.2.3物の製造または建築に関するサービス_._____._.____..149 3.3.3.2.2.3.1蝦疵ある動産_.._____.__..____.____..…∴・..……150 3.3.3.2.2.3.2瑠疵ある不動産______,.,_.__.___.._____._._.152 3.4 本章の小括____..._.._____.______.___..___,__.___._.._158 4 おわりに一一日本法への示唆.____.__.._._._._._._____._.._.__._.164
1 はじめに 1.1 本稿の目的 古くは違法性概念の導入による「権利侵害」要件の緩和に代表されるように,我が国の 不法行為法は一貫してその保護対象を拡大し,種々の現代的リスクに対応して被害者保護 の充実を図ってきた1)。この不法行為法による保護対象の拡大が,極めて意義の大きな発 展であったことはほとんど疑いがない。他方で,近時,諸外国特に欧州においては,その 不法行為法上の保護の可否をめぐって,いわゆる純粋経済損失[pure economic loss]の問 題に関する議論が活発となっている。純粋経済損失をめぐる問題領域における諸事例は, 様々な性質のものを含んで多岐に亘り,契約法と不法行為法の競合問題をも巻き込んで, 不法行為法の限界の一つを呈示しつつあるように思われる。 「権利侵害」要件の緩和さらには民法七〇九条の文言改正によって,純粋経済損失であ ることを理由に不法行為の成立を否定しない立場をとる我が国において,純粋経済損失に 対する問題意識は,一見すると,「損害」論の問題に結びつきやすい2)。我が国の不法行為 法における判例理論でもある伝統的な解釈に立てば,損害は差額説によって把握され,損 害賠償の範囲は,民法四一六条の類推適用とされる相当因果関係説によって決せられる。 そこでは賠償範囲の画定という問題を,事実的因果関係と同様に因果関係の問題として理 解しようとする立場が見受けられるが,事実的因果関係の及ぶ損害の中から賠償責任を認 めるのが相当と見られる部分を画定するという作業には,法的価値判断が含まれているこ とが指摘されて久しい。平井教授の学説3)の登場によって我が国の不法行為法理論は再考 を迫られ,賠償範囲画定という分野に於いても因果関係とは明確に区別した議論が交わさ れ,多様な学説が主張されるに至ったが,不法行為法上いかなる損害が賠償されるべきか という法的価値判断をめぐる理論的問題にとっても,純粋経済損失の賠償をめぐる問題は, 有益な例の一つを呈示していると考える。もっとも,純粋経済損失であることを理由に不 法行為の成立を否定しない立場をとる我が国においては,純粋経済損失に対する保護を図 るために特別な理論を立てて論じる必要性は少ない。むしろ,我が民法下においては,純 粋経済損失の賠償を制限する必要のある場面があるとするならば,その賠償を適切な範囲 に制限するための理論が求められることになる。そこでは,専ら人身や財物に対する侵害 を念頭に置いて展開されてきた従来の解釈論が,純粋経済損失の賠償が問題となる場面に おいて,どれほど妥当し得るか再検討されることになる。 我が国においては,純粋経済損失を明確に意識した裁判例は見出しがたく,これまであ まり活発に議論されてこなかった領域であるが,世田谷ケーブル火災事件判決4)を契機と して純粋経済損失をめぐる問題が再認識されている。送電線や通信ケーブルのように現代 社会において重要な役割を占める社会的インフラストラクチャに関しては,これに依拠す .4.
る取引上の利害関係を持つ者が多数かつ多岐に亘り,ひとたび事故が起こると様々な利益 が多方面で損なわれるため,経済的損失をめぐる問題が特に顕在化しやすい。また,純粋 経済損失の賠償問題は,製造物責任法の立法審議過程においても議論されたが,最終的に 制定された同法第三条が用いた「財産」の語が,純粋経済損失をも含むものであるのかと いう点に関しても議論がある5)。とりわけ,我が国の製造物責任法が事業用物損を保護対 象に加え,拡大損害が存在する場合に製造物自体の損害をも賠償範囲に含めるという,諸 外国とは異なる制度を採用したことに鑑みれば,一般法たる不法行為法において純粋経済 損失の保護の在り方を検討することにも,一定の意義が認められよう。このような経済的 損失を我が国の不法行為上どのように取り扱うかを検討するにあたって,純粋経済損失を めぐる諸外国の議論は,示唆に富むものであると考える。 ところで,近時の欧州における比較法研究の成果6)は,純粋経済損失に対する主要各国 の法制度が三種に分類可能であることを既に明らかにしている。第一は,フランス・ベル ギー・ギリシャ・イタリアおよびスペインが属する「リベラルな制度」である。この制度 の特徴は,アプリオリに純粋経済損失に対する不法行為責任を排除しない統一的な一般条 項を法典に有する点にある。この制度においては,純粋経済損失に対する賠償を認めるこ とについて原則上は異論がなく,かかる損失を加えることの不法性は,抽象的な前提問題 として論じられるのではなく,過失不法行為法の通常の要件が充足されているかどうかに よって左右される結果でしかない。それゆえ,純粋経済損失という概念自体がそもそも認 識されてこなかった制度である。この制度の他の特徴として,純粋経済損失の問題は,ほ とんど排他的に契約外責任にもとついて処理されており,契約法の準則と重なり合うこと はないこと,さらに実証することは極めて困難であるが,一般条項の通常の要件(とりわ け因果関係)の微妙な操作によって,この種の責任を制御するための技術が,秘密裏に用 いられている可能性が指摘される。 第二の制度は,「実用主義的な制度」と呼ばれるもので,これに属するのは,イギリスお よびオランダである。この制度の特徴は,純粋経済損失の賠償を認めることによる具体的 な社会的・経済的な影響を,ケースバイケースの手法によって用心深く研究することにあ る。賠償が認められるか否かは,立法者の手による広範な不法行為法準則の指図によって 定まるわけでもなく,いわゆる「絶対権」のチェックリストによって定まるわけでもない。 噺たな問題状況が生じるたびに,原告をこの種の損失から保護する「注意義務」が果たし て存在するかという抽象的な前提問題がまず問われ,これについて裁判所が公然と政策判 断を為すことが期待されている。また,約因[consideration]および契約関係[privity of contract]の法理の厳格さが,契約責任の拡張を困難なものとしているイギリス法において 特に顕著であるが,不法行為法による救済の否定が,契約法準則の拡張による救済を促す という構造にはなっておらず,不法行為法による救済が認められるかという問題が,より
直戴に現れていることもこの制度の特徴である。 第三の制度は,「保守的な制度」と呼ばれるもので,これに属するのは,ドイッ7)・オー ストリー・フィンランド・ポルトガルである。この制度の顕著な特徴は,不法行為法にお いて保護を受けるいわゆる「絶対権」に純粋経済損失は含まれないとする点にある。ドイ ッ民法典八二三条一項の列挙主義はよく知られているところではあるが,法典において一 般条項を有する国々であっても,ドイツ法流の学説の受容により,裁判所や学説が絶対権 の概念を導入することとなった国々もある8)。この制度の第二の特徴は,それゆえ,純粋 経済損失の賠償は例外的であり,何らかの救済を求める者は,特別に用意された他の不法 行為法の規定か,あるいは拡張された契約法準則の適用に訴えなければならない点である。 しかしながら,不法行為法だけに注目すると,この制度に属する国々は,純粋経済損失に 対する賠償について極めて制限的である。このことは第三の特徴を生み出している。すな わち,この制度における純粋経済損失の賠償は,契約法や特別法による広範な隠れた支持 を受けており,このことを加味すると,これらの制度は結果において,相当程度リベラル なものになるという点である。 さて,このように一応の分類が可能な欧州の主要各国の制度のうち,本稿はどの国の制 度を取り上げるべきか。勿論,全ての国々を採り上げるのが最善の策ではあるが,筆者の 能力的な制約から,それは困難といわざるを得ない。また,こうした分類が一応できるこ との意味は,純粋経済損失の問題に対して,問題に対するアプローチの点でも結果の点に おいても,欧州内においてなお収束を見ることのできる状況にはないということを示すも のであって,各国における対応状況は内実においても相当程度の隔たりがあるというのが, 現状分析としては妥当であり,性急な調和を図ることは困難であると思われる。そこで, 本稿においては,上記の分類のうち,実用主義的な制度の代表として,イギリス法におけ る判例および議論状況を採り上げる。 本稿でイギリス法を検討対象とするのは,以下の理由による。第一に,前述したように 約因および契約関係の法理の厳格さが契約責任の拡張を困難なものとしているイギリス法 においては,不法行為法がほぼ唯一の訴えの途であり,それゆえ不法行為法による純粋経 済損失の賠償が認められるかという問題意識が,より直戴に現れている。また,純粋経済 損失の賠償可否が問題とされた判例もある程度蓄積されており,この実際的な諸事例に則 して判例の説明を試みようとする努力が行われている。それゆえ,変遷を経てなお不確か な部分もあるものの,イギリスの法状況は,純粋経済損失の問題に取り組む上で欠くこと のできない好例を示していると考える。第二に,我が国の不法行為法は,戦後,英米法の 影響を強く受け,過失概念とは行為者の心理状態ではなく,客観的な注意義務違反である とする立場が,裁判実務においても学説においても,通説的地位を占めるに至ったと思わ れる。そもそも「注意義務」の存否を判断しようとする枠組みは,イギリス法の思考様式 一6一
に親和性があり,同法における議論を参照することがあってもよいと考える。第三に,従 来,経済的損失は,「英米法においては,エコノミック・ロスの問題として処理されている 9)」とされることがあったが,その内容については必ずしも具体的に立入った検討がなさ れてこなかった感があり,どのような処理がなされているのかを詳らかにすることにも, 一定の意義があると思われる。第四に,その理由自体も別途研究されなければならないが, 我が国において過失不法行為法上の純粋経済損失の賠償可否という観点から論じられた裁 判例が極めて少ないということも,消極的な理由ながら,外国の裁判例を題材とすること を余儀なくさせる理由の一つである。 以上の次第により,本稿は,不法行為法によって経済的利益の保護が与えられる場合に 考慮される諸要件・諸因子を,純粋経済損失をめぐるイギリス法の議論をもとに見出し, 我が国の不法行為法において,参照すべき事項がないか検討作業を行うものである。次に, イギリス法の検討に入る前に,本稿における純粋経済損失の定義を明らかにした上で,若 干の検討対象の限定を図ることにしたい。 1.2 純粋経済損失の定義 純粋経済損失という概念をそもそも認識してこなかった国々があること,さらにはこれ を認識する国々においても各国の法制度毎に定義は微妙に相違していることから,純粋経 済損失を厳密に定義することには困難がつきまとうが,少なくとも二つの主要な定義が存 在し得ることが,既に指摘されている10)。一方は,物的殿損または身体被害ないし健康被 害と無関係に発生した経済的損失の全てを,純粋経済損失とする立場であり,他方は,法 益または権利に対する侵害の結果として生じたものではない経済的損失の全てを,純粋経 済損失とする立場である。このような定義の相違は,専ら,ある法制度がその不法行為法 においていかなる概念を用いているかという点に由来している。不法行為法の要件として, 「権利侵害」概念を用いる法制度においては,後者の立場がとられ,かかる概念を用いな い法制度においては,前者の立場がとられる傾向がある。 イギリス法の純粋経済損失[pure economic loss]の定義は前者の立場に属し,しばしば, 「原告が被った,原告自身の身体または財物[property]に対する損害とは無関係で,かつ この損害から発生したものでない,財政的な損失11)」,あるいは「性質上,財政的または 金銭的なものにすぎない損失,すなわち,原告が被った身体的または物理的な侵害と何ら 関連性を有しない損失12)」,あるいは「原告自身の身体または財物に対する,物理的な侵 害の因果的な結果でない財政的な損失13)」,という具合に定義される。他方,ドイツ法の 純粋経済損失14)[rein Verm6gensschaden]の定義は後者の立場に属し,これに従うと,ド イッ民法典八二三条一項15)が掲げる,法益または権利の侵害の結果として生じたものでは ない経済的損失が,純粋経済損失ということになる。
ところで,人の身体の完全性利益に対する侵害がもたらした不利益に対して,賠償が命 ぜられるのは自明のことであるとして,ひとまず考慮の対象から除外すると,前述した純 粋経済損失の主要な定義は,それぞれ「物的殿損」の法的内容,あるいは「権利侵害」の 法的内容に左右される反射的な定義でしかないことになる。すなわち,前者の定義におい ては,「物的殿損」の解釈が問題となるのに対して,後者の定義においては,「権利侵害」 の内容画定が重要な課題となる16)。したがって,厳密にいうならば,両者の定義が指し示 す損害は,必ずしも完全に一致するものとはいえないということになる。しかしながら, 両者は,「物的殿損」ないし「権利侵害」が被害者にもたらす経済的損失と,純粋経済損失 との区別17)を認める,という点で共通しており,この点に着目するならば,両者は少なく とも同種の重なり合う問題領域に属するものであり,これを並列的に論ずることも許され よう。なお,ここでいう「物的殿損」とは,英米法の用語を使うと,財物[property]に対 する加害を意味する。英米法におけるプロパティの概念を説明することは容易ではないが, ここでは,次の記述で満足をしておくことにしたい。すなわち,イギリス法において,「不 法行為法の最も重要な機能の一つは,有形のプロパティと無形のプロパティにおける利益 を保護することである。プロパティ法がプロパティの諸利益を創設し,不法行為法がこれ らを保護する…(中略)…有形のプロパティは,物的[real]なものか人的[personal]な ものかのいずれかである。物的プロパティとは,土地および土地に付着させられた物であ る。人的プロパティとは動産をいう。無形のプロパティとは,物理的な形状を欠いている が,法が人々にプロパティの権利を付与したものである。その例としては,特許・商標お よびその他の“知的財産権”並びに金銭債務[debts]が含まれる18)」。したがって,プロ パティとして法が承認した無体の知的財産権に対する加害によって生じた経済的損失は, 純粋経済損失と呼ばれるものではなく,本稿の検討の対象外である。 イギリス法を主たる検討対象とする本稿においては,さしあたりイギリス法流の定義に 依拠することが適当である。そこで,本稿においては,純粋経済損失を以下のように定義 することにしたい。すなわち,純粋経済損失とは,自己の人身または財物[property]に対 する物理的な加害を媒介することなく,被害者の一般財産に生じた財政的・金銭的損失の ことをいう。例えば,投資家が誤った助言を信頼したために被った金銭の喪失や,電力途 絶によって一定期間の操業停止を余儀なくされた工場の経営者やその従業員が被った得べ かりし利益の喪失などが,この例である。ところで,人身または財物に対する物理的な加 害も,通常,被害者に一定の経済的な不利益をもたらすことになる。例えば,けがの治療 費や,殿損された物の修繕費,入院期間中に被った収入の喪失や,修繕期間中に物を使用 できなかったことによる逸失利益などが,これである。しかしながら,純粋経済損失とい う概念を用いる法制度は,このような物理的加害から派生した経済的損失(派生的経済損 失[consequential economic loss]と呼ばれる)と,物理的加害を媒介しないという意味で 一8一
「純粋な」経済的損失とを峻別し,後者について過失不法行為法にもとつく保護を否定す る,という原則を伝統的に採用してきた。 もっとも,本稿で検討の対象とするイギリス法,さらにはドイツ法においても,純粋経 済損失の賠償が,契約法において認められることに疑いはない。契約にもとつく債務の不 履行が債権者にもたらす損害は,給付義務不履行に伴う代替物の購入費,または履行遅滞 にあった期間の得べかりし利益の喪失などのように,むしろ純粋経済損失が中心的な損害 となることの方が一丁・般的であるともいってよいだろう。このことは,我が国の損害賠償法 においても,同様である。rもっとも,契約にもとつく債務の不履行を理由とする損害賠償 が,個別の事例において具体的にどこまで認められるかという問題については,各国の賠 償範囲画定の理論によって異なり得る19)。しかしながら,こと契約責任にもとつく損害賠 償について,純粋経済損失の賠償をアプリオリに排除しようとする立場は,どの法制度に おいても窺うことはできない。 他方で,不法行為責任にもとつく損害賠償に目を向けると,同様に経済的損失でありな がら,人身または財物に対する物理的加害から派生した金銭的損失については,その賠償 を認めるが,人身または財物に対する物理的加害を媒介しない第一次的な金銭的損失,す なわち純粋経済損失については賠償を認めないという原則が,前述した「実用主義的な法 制度」に属する国々並びに「保守的な法制度」に属する国々において見受けられる。勿論, この原則の直接の根拠となる判例または法典上の条文は,各国において異なるが,もしこ の原則がなお維持されているとするならば,人身または財物に対する物理的加害を媒介と したか否かによって,賠償の可否一一より正確には不法行為成立の可否一一が左右される のは何故か,その背景にある実質的な理由はどのように説明されるのか,という点が本稿 の問題意識の根底にある。 1.3 検討の対象 ここで,純粋経済損失と我が国において従来議論されてきた「経済的損害」との関係に ついて触れておきたい。我が国において,「経済的損害」は人身損害,物的損害と並列して 議論され,そこで侵害される利益とは,営業活動そのもの,営業活動の基礎を為す人的・ 物的財産,あるいは営業活動の結果,様々な経済的利益を獲得する可能性ないし期待の侵 害である,とされる20)。このような営業活動上の経済的利益においては,自由競争の保障 という要請が働くため,不法行為法によって保護されるためには経済的利益の要保護性と 侵害行為の悪性が必要であるとされる。我が国の不法行為法において「経済的損害」が論 じられる場合,営業活動の自由という面からの考察が重視され,知的財産権の侵害や不正 競争行為による侵害,私的独占・取引制限・不公正な取引方法による侵害,といった特別 法によって規制されている侵害形態によって生じた損害に関するものが多い。
これらの侵害行為によって生じる損失も,法が承認した有形ないし無形の財産権に対す る加害を媒介せずに発生する場合には,一般に,純粋経済損失と評価され得るものである。 しかし,現実には多くの場合,営業活動の自由の保障とその調整という観点から特別法に よって規制されている領域であって,一般法たる民法が前面に出てくる場面はそれほど多 くはない。そこでは,営業活動の特殊性に対する配慮が見受けられるが,いわゆる純粋経 済損失の全てが競争に晒された営業上の利益であるということはできない。すなわち,我 が国において従来議論されてきた「経済的損害」とは,あくまで営業上の経済的利益に絞 った議論であって,純粋経済損失という概念は,それを部分的に包含し得るが,より広く 中立的な概念である。純粋経済損失という場合の「経済」の語には,営業上の利益に対す る侵害という意味は含意されていないことに注意しなければならない。ただし,次のこと を指摘しておく必要がある。 Llにおいて,近時,諸外国特に欧州において,純粋経済損失の問題に関する議論が活 発となっていると述べたが,厳密にいうと議論が活発なのは,不法行為法のうち過失不法 行為にもとつく責任が認められるかという領域だけである。故意不法行為ないしは意図的 不法行為と呼ばれるものによって損失が加えられた場合については,それが純粋経済損失 であるという理由によって不法行為法による救済が否定されることは,少なくとも外見上 はない。純粋経済損失の問題について,「欧州の法制度は,過失にもとつく責任が問題とな るまでは,分岐し始めることはない。ここに,ある者は渡るのを恐れ,他の者は暢気に忘 れ去ってしまう一種のルビコン河がある21)」。ただし,欧州の国々の法制度においても, 故意によって加えられた経済的損失が,不法行為法によって常に救済されるわけではない。 我が国において「経済的損害」が論じられる場合に侵害行為の悪性が必要であると主張さ れるように,故意不法行為法においても,不法行為責任の限界を画するために,損失の種 類に着目したものとは異なる制御装置が組込まれている。このことは,次のことを示唆す る。すなわち,純粋経済損失であるか否かという損失の物理的な性状に着目した限界付け は,故意と過失を含めた不法行為責任の限界を画するという複雑なバランスをとる作業の 一要素でしかないのであって,加害者の主観的態様を始めとした他の制御装置によって合 理的な限界を画することが可能な領域においては,純粋経済損失であるか否かという点は およそ問題にならないのではないか,ということである。したがって,不法行為法による 経済的利益の保護とその態様を把握するには,過失不法行為法と故意不法行為法とを横断 的に考察することが,必要であるように思われる。 そこで本稿では,まず,過失不法行為法において,純粋経済損失の賠償可否が問題とな る事例とはどのような場合が考えられるか,これについて判例がある程度蓄積されたイギ リス法からその諸事例を抽出し,いかなる理由によって責任否定準則の理由が説明されよ うとしているかを検討する(2ネグリジェンス法と純粋経済損失)。次に,イギリス法にお 一10一
いて経済的不法行為[economic torts]と呼ばれる法領域において,不法行為責任の限界を 画する装置がどのように組込まれているかを検討し,過失不法行為法における純粋経済損 失の責任否定準則とどのような関係が認められるかを考察する(3イギリス不法行為法に よる経済的利益の保護)。この際,純粋経済損失という概念は,損失の側から見た概念であ ることに鑑み,いかなる経済的利益が侵害されたのかという観点からの再整理という手法 をとる。両章を合わせて,イギリス不法行為法において経済的利益の保護が与えられる場 合に考慮される諸要件・諸因子を分析し,日本法においても参照すべき事項がないか検討 を試みる(4おわりに一一日本法への示唆)。それでは早速,次章において,イギリス過失 不法行為法における純粋経済損失をめぐる法状況を検討していこう。
2 ネグリジェンス法と純粋経済損失 2.1 本章の考察方法 2.1.1 事実の類似性にもとつく類型化 本章の叙述に先立って,次の点を指摘しておかなければならない。過失不法行為法にも とつく純粋経済損失の賠償に関するイギリス判例法の立場は,相当の変遷と曲折を経て形 成されてきており,多くの判例をどのような視座から整理するかによって,得られる分析 にも相違が出てくる。一つの立場は,純粋経済損失がどのような事実関係から発生するの かに着目して,事実関係の類似性に従って,事案の類型化を図ろうとするものである。 Feldthusen22)が,なお強く説くところで,イギリスの最上級審である貴族院も,事実関係の 類似性に着目した類型化を指向していた時期が認められる。Feldthusenの示す類型化は, (1)過失による不実表示,(2)過失による役務[service]の提供,(3)欠陥ある製造 物または建物に関連する損失,(4)関係的経済損失[relational economic loss],(5)制定 法上の公的機関の責任,の五つである。 これに対して,もう一方の立場は,単なる表層的な事実の類似性にもとつく類型化の有 用性に疑問を呈して,注意義務の存在を認めるにあたって有利ないし不利となる実質的な 法的関心事を,詳らかに分析すべきだというもので,Stapleton23)が強く説くところである。 近時の貴族院判決は,前者の事実関係の類似性に着目した類型化による制約(例えば,ご く最近まで「言葉[word]」に関して責任を例外的に肯定する準則は,当然には「行為[deed]」 に拡張して適用されることはなかった)から,徐々に脱却しつつあるように思われる。 貴族院の近時の動向に照らせば,後者の立場も説得的ではあるが,事実関係の類似性に 着目した事案の整理は,叙述のための道具として用いられることはあってもよいと思われ るので,本章の内容の叙述に入る前に,どのような事例群において純粋経済損失が生じる と考えられるのか,後述するイギリス判例法に顕れた事件を元にして,大まかな例を便宜 のために示しておこう。 2.1.2 純粋経済損失が生じる典型的な事例群 純粋経済損失が生じる場面として,第一に挙げられるのは,関係的経済損失[relational economic loss24)]と呼ばれる損失が生じる場面である。関係的経済損失とは,原告以外の 第三者の身体または財物に対して物理的な加害が加えられた場合において,その加害が原 告の経済的利益の減少を引き起こしたときに認められる損失をいう。原告は,経済的な損 失のみを被る間接的な被害者にすぎない。原告が,直接被害者と有していた「関係」のせ いで,損失を被ることから,イギリス法においてはこのように呼ばれている。例えば,A 一12.
がBの船を曳船する契約を結んでいたところ,Cの過失によりBの船が沈められたために, Aは曳船契約を履行することができなくなり,その結果,期待していた収益が奪われてし まったという場合25)や,BがAの企業またはスポーツチームにおける中心的な被用者であ ったところ,Cの過失ある運転によってBが死亡または無能力となり,その結果, Aの有 する企業またはチームが,利益および収益を失うという場合26)が,この例である。
この第一の事例群である関係的経済損失の特殊な場面といえるのが,損失転嫁
[transferred loss]と呼ばれる場面である。原告以外の第三者の身体または財物に対して物 理的な加害が加えられるという点では同様であるが,原告は独自の経済的な不利益を被る のではなく,通常は直接被害者である第三者に生じるはずの損失が,原告と第三者との間 の契約または法の定めによって,原告に生ずるよう転嫁されていたという場合である。我 が国における「間接被害者」論において,転化損害または反射損害と称され議論されてき たものが,この一部にあたる。例えば,Aは, Bが所有する船について定期傭船契約を結 んだ者であるが,船の使用が認められる期日前でBが船を占有している間に,Cの過失に より船のプロペラが穀損された。必要な修理のために二週間を要し,その結果,Aは契約 により予定していた船の使用をすることが全くできなかったという場合27)が,これである。 また,別の例として,物品が運送される間の権原を,売主Bが留保するが,輸送中の損失 の危険については買主Aが負担するという売買契約がなされた場合において,技術的には なおBが所有する物品が,輸送中に運送人の過失により損害を被った場合28),さらには, Aの被用者であるBが,Cの過失ある運行によって負傷し,これにより三ヶ月の間勤務で きなくなった場合において,反対給付として労務の提供を得られなくとも,AがBの賃金 を引き続き支払うことを制定法が要求している場合29),がこれである。この損失転嫁の考 え方を示したイギリスの裁判例もあるが,上級審によってこの考え方は否定されたため, イギリス判例法においては,この損失転嫁の事例も,第一の事例群である関係的経済損失 の一場面と把握する傾向が見受けられる。 第Lの事例群の亜種として考えられるのは,公の市場,公路および社会的インフラスト ラクチャが閉鎖された場合である。真正型の関係的経済損失,並びに損失転嫁型の関係的 経済損失の事例群は,原告以外の第三者の身体または財物が加害されることを常に前提と している。それゆえに直接の被害者が一応,観念できる場面である。これに対して,ここ での問題は,個人による所有が観念できない公的な資源[resource]に対して物理的な加害 が加えられ,その結果,原告が経済的損失を被った場合にどうなるかという問題である。 例えば,Cが過失により化学薬品を河川に漏出させたために,除去作業の二週間の間,水 上交通が停止されることとなった場合,運送業者は,より費用のかかる陸路を使用しなけ ればならなくなり,この地域の海運業に携わる者,船の供給者,ホテルの経営者や漁業を 生業とする者は,深刻な経済的損失を被ることになる。また,別の例として,Cが伝染病にかかった畜牛を過失により自己の土地から逃がしてしまい,政府が全ての畜牛市場およ び食肉市場を閉鎖することを命じなければならなくなった場合30),在庫を処分できなくな った畜牛飼育者,供給を受けることができなくなった食肉加工業者等,広範囲の者が純粋 経済損失を被ることになる。直接被害者が観念できるかの違いであって,この事例群も, 広義では関係的経済損失の場面であるといってよいだろう。本稿では,この事例群並びに 損失転嫁型の場合をも含めて,広義の意味で関係的経済損失と呼ぶことにする。 第二の事例群は,蝦疵のある助言や資料,専門的な役務に対する信頼があった場合であ る。財務上の問題について,助言,資料または役務の提供を為す者は,その情報が依頼人 に提供された後に,契約関係のない第三者によって信頼される場合があることを,しばし ば理解している。この助言や資料または役務が,過失にもとづき作成または提供された場 合,これを信頼した第三者に純粋経済損失を与えることがある。例えば,Aは, Bに対す、 る信用取引を拡大する前に用心して,Bの取引銀行であるCに, Bの信用状況について助 言を求めた。Cが過失により良好と返答したところ,実際には程なくBが支払不能に陥っ たとき,Cの返答にもとづき信用取引を進めたAは,巨額の損失を被ることになる31)。ま た,別の例として,会計士Cが,公開会社Bの会計監査をするに際して,過失により会社 の評価を大きく誇張した場合において,会計監査が正確であることを信頼して,投資家A がBの株式を実際の価格の二倍で購入してしまったという場合32)が考えられる。さらに, 高齢のBが,弁護士Cに対して,Aに一〇万ポンドを遺贈するという旨の遺言の作成を依 頼したところ,Cが六ヶ月間何もせずにいたためにBは遺言なしのまま死亡し, Aは何も 得ることができなかったという場合33)が,その例である。イギリス法においては,歴史的 な理由から,口頭であれ書面であれ「言葉」が経済的損失をもたらす場面と,役務による 「行為」が経済的損失をもたらす場面とを区別してきた節があるが,この点は後述する。 第三の事例群は,イギリス法に特殊と思われ,他国との比較議論では前面に出てくるこ とが少ないが,瑠疵ある製造物または建物に関連して経済的損失を被る場合である。製造 または建築の過程において,製造者または建築者等に過失があり,これによって瑠疵ある 物が引渡された場合において,人身または当該物以外の他の物に何らかの物理的な被害が 生じる前に鍛疵が発見された場合,その璃疵を修補するために要する費用の支出は,イギ リス法においては純粋経済損失であると評価される34)。これは,蝦疵が危険な性状を有す る場合よりも,とりわけ品質上の綴疵にすぎない場合に問題とされる傾向がある。製造者 または建築者等と直接の契約関係にない原告が,不法行為法によって救済を得られるかが ここでの問題である。また,過失により理疵を看過して建築許可を出した公的機関の責任 35)も,この文脈においてしばしば議論がなされている。 本章の叙述に際しては,上記の三種類の事例群を念頭に置きつつ,記述を進めることに したい。便宜のために,第一の事例群を関係的経済損失(第1事例群),第二の事例群を不 .14.
実表示または役務提供(第H事例群),第三の事例群を製造物または建物の蝦疵に起因する 損失(第皿事例群)と呼称する。また,主立った事件を引用する際に,事件番号を付すと 同時に,どの事例群に属する事件かを分かりやすくするために,ローマ数字を付すことに する。なお,これらの事例群は,主としてイギリス判例法に顕れた事件を元に記述したも のであり,純粋経済損失と呼ばれるものが発生する場合が,これに尽きるという性質のも のではない。また,後述するようにこれらの事例群同士の境界線も,決して明確なもので はない。それゆえ,本稿では,「類型」と呼ばすに,単なる「事例群」と呼称する。 2.2 イギリス判例法の概観 イギリス法における過失不法行為法であるネグリジェンスは,被告が原告に対して注意 義務を負っていたこと(注意義務の存在),被告がその義務に違反したこと(注意義務違反), 義務違反の結果,原告が損害を被ったこと(因果関係の存在)を要件とする36)。中でも, 注意義務の要件は,当該状況において被告が注意深く振舞う義務を負っていたかを問うも のであり,被告がその義務状況になければ,どんなに不注意に振舞ってもネグリジェンス 責任を問われることはない。その意味で,注意義務の存在はネグリジェンス責任の最も基 本的な要件であり,ネグリジェンス責任の射程を形成する制御装置であるとされる。 損害の発生も,またネグリジェンス責任の成立要件であるが,他の法制度において過失 責任の決定に不可欠な損害の定義および類型化という問題は,イギリス法においては異な る要件項目で取り扱われる傾向がある37)。その例が,物理的損害38)と純粋経済損失の区別 であり,この損害種類の問題は,専ら,注意義務の存在という要件項目で論じられ,純粋 経済損失が法の認める義務状況に該当する損失であるか否かをめぐって,常に議論の対象 となってきた。 2.2.1 前史 (一)イギリス法において,不法行為法からの契約法の独立が完成したとされる39)一九世 紀以降,純粋経済損失は第一次的には契約法の問題であり,詐欺[deceit],契約違反誘致40) [inducing breach ofcontract]等の,故意にもとつく不法行為法類型による訴えの場合に限 って,例外的に賠償を認めるという立場がとられてきた。それゆえ,加害者・被害者間に 契約関係があれば,被害者は契約責任を追及することで純粋経済損失であっても,その賠 償を得ることができたが,当事者間に契約関係が存在せず,被害者に生じた純粋経済損失 が加害者の故意によらない場合には,十分な救済を受けることができないという現象が生 じていた。
しかし,イギリス法においては,過失不法行為法において純粋経済損失の賠償は原則上 認められないとの原則が,過去のある時点において突如出現したわけではなく,一連の裁 判例の出現によって次第に生成されていったと見るのが適当である。今日,我々が純粋経 済損失と呼ぶものの過失にもとつく不法行為責任の成否が問題となった事件で,最も古い とされるものは,Cattle v. Stockton Waterworks事件である41)。 【1一事件1】Cattle v. Stockton Waterworks(1875)LR l O QB 453 原告建築会社は,訴外土地所有者とトンネル建設を目的とする契約を締結していたが, 被告水道会社が当該土地所有者の土地に水道管を適切に敷設していなかったために漏水が 生じ,工期の延期と追加費用の支出を余儀なくされ,契約は完遂したものの当該契約から の利益が減少したと主張してその賠償を求めた。裁判所は,被告には害意または故意がな く,また,被告は土地所有者の財物への侵害を惹起した義務の惚怠については有責である が,その義務の解怠は原告の財物を何ら侵害していないと述べて,原告の請求を棄却した。 本事件を担当したBlackburn裁判官は,次のように説示する。 もし本件において原告の請求を認めたならば,「我々は,Fletcher v. Rylands(Law Rep 3 HL 330)のような事件において,浸水した鉱山の所有者や,道具や衣服を殿損された労働者の 訴えだけでなく,鉱山の操業停止によって,事故がなければ得られたであろう賃金よりも 少ないものしか得られなかった全ての労働者や人々による訴えについても,被告が責任を 負うという先例を作ってしまうことになる。…(中略)…こうした者達もその損失を賠償 されるべきであって,法がそうした救済を与えないならば不完全であるといわれるかもし れない。おそらくはそうであろう。しかしながら,…(中略)…裁判所[courts ofjustice] は,r全ての違法な行為に対して完全で完壁な救済を与えることを追求する余り,我々の法 がその限定された能力を賢明にも自覚して自らに課した限界,すなわち違法な行為の直近 かつ直接な結果についてのみ救済を与えるという限界を越えることを許してはならない』 42)」。 【1一事件2】S孟mpson&Co v. Thomson[1877]3AC 27g 本事件の概要は,次のとおりである。被告Bは,二隻の船D号とF号の所有者であった が,F号の過失によってこの二隻が海上で衝突し, D号とその積荷を完全に喪失した。 D 号の保険者である原告は,失われた船D号の所有者としてのBに対して保険金を支払った 後に,過失ある船F号の所有者としてのBに対してその金額の賠償を求めた。保険代位の 権利にもとつく訴えを起こすことができなかった原告は,代位とは無関係の自己の名によ る訴えであると主張して訴えを起こしたが,貴族院は,この請求を棄却した。本事件にお いて主要な説示をしたPenzance卿は,次のように説示する。 一16一
原告の主張する「準則は,次のようであるように思われる。加害者によって動産に対し て損害が加えられた場合において,当該動産の所有者だけでなく,この所有者との契約に よって義務を負担していたがその負担が重くなった者,あるいは契約によって利益を確保 していたがその利益が減少した者の全てが,たとえその動産に直接的に帰属する財産権 [property]や,リーエンや抵当権[hypothecation]のような何らかの契約によって動産に 付着させられた占有権[possessory right]を有しない場合であっても,加害者に対して請 求権を有するべきというものである。…(中略)…もしこの準則が健全なものであるなら ば,次のようになる。加害者の過失によって動産が殿損された場合において,その動産の 所有者が契約によって当該物を第三者に供給する義務を負っていたときは,この第三者も 所有者と同様に,殿損によって被ったあらゆる損失について請求権を有することになって しまう。 しかしながら,動産に対してなされた加害についてこのことが妥当するとするならば, このことは人身に対しても妥当することになるように思われる。過失によって運行された 馬車によって被害を被った個人は,馬車の所有者に対して請求権を有する。ある医師が, 年間に固定料金で診察し投薬する契約を結んでいた場合に,この医師は,事故によって負 担させられた診察と投薬の費用増大を,請求することができるであろうか?…(中略)… このような例は,無限に増大するのであって,こうした場合に請求権を認めると,契約に よって複雑な相互関係が日々生成される現代社会においては,多くの新奇な訴えをもたら すことになるであろう43)」。 【1一事件3】Anglo−Algerian Steamship Co Ltd v. Houlder Line Ltd[1908]1KB 659 本事件の概要は,次のとおりである。被告の過失ある航行によって港湾施設の水門が殿 損され,これによって修理のために数日間,港湾が閉鎖されることになった。原告の船舶 は,港湾内に用意されていた積荷のために港湾の外まで来たが,水門が閉鎖されていたた めに二日と半日の間,水門の外で立ち往生を余儀なくされた。原告は,これにより損害を 被ったと主張したが,この訴えは,裁判所によって斥けられた。本事件を担当したWalton 裁判官は,次のように説示する。 「港湾会社の義務は,馬車で荷物を運搬しなければならない運送業者や宿泊客を受入れ なければならない宿屋の主人のそれと似ている。もし加害者の不法行為によって,宿屋が 宿泊客を受入れるのに不適当となった場合において,これによってある者が当該宿屋にお いて宿泊するのを妨害され支出をしたときに,この者がその損害を加害者から回復するこ とができるとする先例があるであろうか? 私はいかなる先例も見出すことができなかっ た。…(中略)…私の判断するところ,被告のネグリジェンスは,原告が妨害されたと主 張する権利と余りに間接的な関連性しか有しておらず,それゆえに原告の被告に対する有
効な訴訟原因を構成するものとはなり得ない44)」。 (二)ここで挙げた一九世紀末から二〇世紀初頭の裁判例は,尽く原告の請求を棄却して いるが,その理由付けに注意する必要がある。初期の判例は,純粋経済損失であるという 損害の種類が請求棄却の理由であると決して述べているわけではない。引用した説示から 読み取れる裁判所の関心事は,事件1と事件3に共通するのは,原告の被害が「直近かっ 直接」の結果でなく,「余りに間接的」すぎるということ,三つの事件に共通していえるこ とは,訴えを認めると類似の訴えを起こす原告の数が増大する恐れがあるということ一一 事件1については鉱山労働者で賃金が低下した者,事件2については事故の被害者と契約 していた医師,事件3については宿屋を利用できなかった宿泊客一一,の二点である。前 者は,損害の遠因性45)[remoteness]の問題であり,通常は,因果関係あるいは賠償範囲 画定の問題として把握されるものである。後者は,後述する「水門論」に関わる実用主義 的な理由付けである。いずれにしても,初期の裁判例は,今日,純粋経済損失と呼ばれる ものを賠償請求することはできない,と提示するものではない。また,ここで挙げた事件 は,全て関係的経済損失(第1事例群)の場面であるという点で,特徴的であることも指 摘しておかなければならない。 しかしながら,二十世紀に入って数々の学術書が,これらの事件に対して異なる解釈を 示し始めた46)。一九〇四年に発行されたClerk&Lindsell第三版によると,事件1は,役務 の権利または契約上の権利に対する妨害は一般には訴え可能なものではない,という準則 を示すものであるとされ,この点において,これらの権利は制限のないプロパティのよう な権利とは異なるものであると解説された。同様の解釈は,一九〇六年に発行された Addison第八版においても編集者の手によって新たに加筆され,ネグリジェンスとは義務 違反であり,それゆえに被告47)が責任を負うのは,原告に対する義務がある場合だけであ り,注意深くあるべき義務が存在しない場合にはネグリジェンスの訴えは認められないと して,事件1をその例として引用する。 Salmondも,一九一〇年に発行された学術書の第二版において,事件1と事件3につい て類似の解釈を採用している。事件1については,ニューサンス[nuisance]は悪影響を 受けた土地の占有者または所有者の訴えにおいてのみ可能になるのであって,ニューサン スがなければいかに金銭的利益を有したであろう者であっても,占有者でも所有者でもな い第三者の訴えにおいては,請求可能なものとはならない,と説明する。また,事件3が 示した準則とは,財物に対する過失による加害は,その財物の所有者あるいはその財物に 物権的利益[proprietary interest]を有する者に請求権を与えるが,加害によって金銭的損 失を余儀なくされた単なる第三者に請求権を与えるものではない,と解説された。さらに, 両事件ともに,侵害のない損害[damnu〃1・sine・iniuria]について訴えは認められないという 一18一
法諺の例であるとされた。後の版において,Salmondは,次のように準則を一般化してい る。「違法な行為を行った者は,その権利が侵害された者に対してのみ責任を負う」,と。 これを例証するものとして,事件1と事件3を引用する。このような解釈は,やがて裁判 所の採用するところとなり,イギリス判例法は,一つの契機を迎えることになる。 2.2.2 Remorquage事件以降の法状況 【1一事件4】La Soci6t6 Anonyme de Remorquage a H61ice v. Bennetts[1911]1KB 243 本事件の概要は,次のとおりである。原告の所有するタグボートが曳船契約を締結した 第三者が所有する船の曳航に従事していたところ,被告の所有する船が過失によりこの曳 航の対象である船と衝突し沈没させた。原告のタグボート自体には何ら損傷はなかったが, 原告は曳船契約を完遂することができなくなり,これによって契約を完了すれば得られた であろう報酬を得られなくなった。原告は,この報酬に相当する額の損害賠償を求めて訴 えを提起したが,裁判所は,この請求を斥けた。 本事件において,原告側の弁護士がこの損害は「遠すぎる[too remote]」ものではなく 賠償を認めるべきだと主張したのに対して,被告側の弁護士は,遠すぎるか否かについて は言及せずに,「曳航の対象である船の所有者が被った損害については義務違反があったが, タグボートに関しては,iniuria・sine・damunoがあったにすぎない48)」と反論した。本事件を 担当したHamilton裁判官は,この被告側の主張に同調して,原告は「iniuriaすなわち被告 の義務違反だけでなく,法が認める損害という意味でのdamnu〃1を被ったことも立証しな ければならない49)」と説示して,事件1および事件2を先例として引用する。 このように同裁判官は,被告側弁護士の主張に引きずられて,Salmondが述べたdamnum sine iniuriaの語を逆さにしたのであるが,その意味するところは,同様のものであった。 すなわち,Salmondが意味したのは,原告は経済的損失を被ってはいるが,法が正すべき 侵害行為を受けたわけではないということであり,この考え方は,単なる損失ではなく「法 が認める損害」を被ったことを要するとするHamilton裁判官の思考様式と,ほぼ同旨であ ったといってよい。本事件において初めて,イギリス判例法において,損害の種類を理由 として過失不法行為責任を否定する立場が現れたと見ることができる。本事件の後,問題 となるのは損害の遠因性[remoteness]一一すなわち因果関係あるいは賠償範囲画定の問 題一一ではなく,原告が被った損失の類型であると説示する一連の裁判例が到来した。主 な事件の概略を述べると,次のとおりである。 【1一事件5】Elliott Steam Tug Co Ltd v. Shipping Controller[1922]lKB l 27 曳船および船舶引揚げ会社である原告は,傭船契約にもとついてタグボートを保有して
いたが,海軍省が制定法上の権限により,原告からこのタグボートを徴用した。原告は, この徴用の時までタグボートを運行して収益を上げていた者である。原告は,徴用の間に タグボートを使用して得られたであろう平均的な利益の概算に相当する額の損害賠償を求 めた。控訴院は,原告の請求を認めたが,それは制定法上の規定50)によるものであり,も しこれがなければ原告の訴えは認められなかったであろうとされた。本事件において Scrutton裁判官は,次のように説示する。 「コモン・ロー上の立場に疑問の余地はない。動産に対して違法行為がなされた場合, 動産について占有またはプロパティの権利を持たず,利益ないし利潤を上げる目的で動産 の使用または動産による役務を受ける契約上の権利しか有していない者を,コモン・ロー は,承認するものではない。このような者は,契約上の権利に対してなされた加害を理由 として訴えを提起することはできない51)」として,事件1および事件2を引用する。また, 「衝突事故の事件において,傭船契約の債権者がその利益を賠償請求できないのは,修理 の間の得べかりし利益の喪失が違法行為の直接的な結果でないからではなく,コモン・ロ ーは,良きにせよ悪しきにせよ,単なる契約上の権利に対する加害を理由として,訴えを 認めるものではないからである52)」,と説示する。 【1一事件6】Morrison Steamship Co Ltd v. Greystoke Castle(Cargo Owners)[1947]AC 265 C号とG号の二隻の船が海上で衝突し,G号は船の修理のために寄港を余儀なくされた。 G号の積荷は損傷を被っていなかったが,船の修理のために積替え作業を要し,これらの 費用は共同海損[general average53)]になると宣言された。船荷証券の条項によると, G号 の積荷の所有者は,衝突事故が部分的にG号の過失による場合であっても,共同海損にも とつく費用の負担を義務づけられており,さらには衝突事故の結果によって被った損害に ついてG号を訴えることはできないとされていた。そこで,G号の積荷の所有者が原告と なって,共同海損によって負担した費用の賠償をC号の船主に対して求めたのが,本事件 である。貴族院は,三対二で本事件の訴えを認容したが,本事件は共同海損という海事法 上の特殊な事例について説示したものであるとして,今日においてはやや孤立した扱いを 受けている。ちなみに,関係的経済損失(第1事例群)において,例外的に請求を認めた イギリス判例法の事例は,唯一,本事件のみと思われる。 本判決において,貴族院の裁判官達は,従前の先例についても言及を行っている。例え ば,多数意見に立ったRoche卿は,事件4について「もしこの事件が正しく判決されたも のであるとするならば,私はこの点について意見を表明する者ではないが,船(A)は,船(B) を曳航するタグボートに対して,過失により船(B)に衝突しないという義務を何ら負うもの ではないという見解にもとつくものでなければならないと思う54)」,と説示する。少数意 見に立ったSimond卿は,事件2の原告について次のように説示する。すなわち,「原告が 一20一
賠償請求できない理由は,原告ないし少なくとも一定の保険者が損失を被るであろうとい うことが,合理的に予見され得るものではなかったからではなく,原告の損失が,法が賠 償可能であると認識しない種類のものであったからである55)」,と。ここでは,予見可能 性の有無の問題ではないこと,損害の種類こそが責任否定の理由であることが,貴族院の 裁判官においても定着したことが窺われる。 ここまで見てきた事件は,原告以外の第三者の財物に加害がなされた事例であった。で は,第三者の身体や健康に過失により加害が加えられ,これによって間接的に原告が経済 的な不利益を被るという場合はどうであろうか。我が国においては,企業の役員や中心的 な従業員が交通事故によって受傷した場合に,企業が被る固有の経済的損失につき不法行 為法による救済が認められるかという観点から,「企業損害」の事例としてしばしば議論さ れてきた領域である。この領域におけるイギリス判例法の立場は,次に掲げる判例が示す ように,第三者の財物に対して加害がなされた場合と異ならない。 【1一事件7】Best v. Samuel Fox&Co Ltd[1952]AC 716 本事件の概要は,次のとおりである。原告の夫は被告工場において作業に従事していた 者であるが,被告の過失により作業中にクレーンに衝突・落下し,重大な身体障害を負い, これにより性的不能となった。原告の夫は,被告工場を相手に別訴を提起し勝訴したが, その六ヶ月後に,妻である原告が,被告のネグリジェンスにより配偶者権[consortium] を妨害されたと主張して,被告工場を相手取って損害賠償を求めた。ちなみに,配偶者権 とは,夫婦の一方が他方に対して有する共同生活,家事労働,性関係,夫婦の愛情などか ら受ける権利・利益の総称であるとされる56)が,当時のイギリス法においてはまだ明確に は廃止されていない利益概念であった。また,原告の主張は,事故により更なる子をもう ける機会を失い,通常の婚姻関係が損なわれたこと,これによって神経症や不眠症等に陥 ったというものであったことから,原告の被害は,健康被害または精神的苦痛の慰謝を求 めるものに近く,厳密にいうと本事件は,経済的損失の事例ではないともいえる。 貴族院の裁判官は,全員一致で原告の請求を斥けたが,このうち,Goddard卿は次のよ うに説示する。「ネグリジェンスが法的責任を生ぜしめるためには,それによって損害を被 った者に対する義務違反に由来するものでなければならない。しかしながら,夫の雇用主 がその妻に対して負う義務とは,いかなるものであろうか? もし本件において妻が訴訟 原因を有するとするならば,不注意な運転者によって路上で礫かれた男達全員の妻もまた 訴訟原因を有することになってしまう…(中略)…運転者は,その運行する道路を使用す る他人を加害しない義務を負っている。運転者は,加害を回避するよう義務づけられてい る道路に存するかまたは隣接する財物[property]を所有する者を除けば,道路にいない者 に対して,何ら義務を負うものではない。ある者に対する加害が,他人に影響を与えるこ