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中央学術研究所紀要 第25号 049リタ・グロス、篠崎友伸「宗教経験としての宗教研究のあり方」

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はじめに

宗教経験としての宗教研究のあり方

はじめに 序言︵フレッド・ストレング︶ 宗教経験としての宗教研究︵リタ・グロス︶

リタ・グロス

篠崎友伸訳

49 仏教とキリスト教の研究会︵弓け①の○g①弓馬日、ロ且匡の庁︲○胃騎爵口の白島①の︶は、米国宗教学会の年次総会と関連 のなかで、一九八七年十二月六日に結成された。第一一一回の研究会は、宗教学会の年次総会に合わせてカリフォルニ ア州、アナハィムにて一九八九年十一月十七日から十八日にかけて開かれた。その年に行われた分科会の一つにお ける主題は﹁科学と解釈学的懐疑主義、そして社会・経済的理論との関連における、仏教とキリスト教の対話﹂で

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フレッド。J・ストレング 仏教とキリスト教の対話に参画している︵多くの︶人達の経験によれば、もっとも深い対話の接触面は両者の宗 教的立場の間にあるのではなく、それは、むしろ諸宗教間の対話は批判的な感性や倫理的な問題、特に、人種問題、 性差別主義や階級差別などの諸問題によって、それ自身豊かにさせられているところにある。その対話に関わった 人達は、科学的説明や解釈学的懐疑主義や社会・経済的理論のパースペクティヴから、それぞれの自他の宗教伝統 について批判的な問いをなげかけている。仏教徒もキリスト教徒もそれぞれの伝統の規範的な誓いや実践に直面す るのみならず、彼らは、意味や真理を判断するべき内的な一貫性や言語的精密さとしての基準を用いて、科学的発 見を彼らのコスモロジー的かつ心理的な形式に統合し、そして、社会的秩序の正義を促進させるべき社会経済的諸 理論にかみ合わせなければならない。 対話に参画している人達のなかには、仏教とキリスト教との相互理解や相互変革の重要性を、特に宗教的︵霊性 的︶努力として、強く訴えている者がいる。その努力は﹁世俗性﹂と直面している。その世俗性とは、唯物論的科 学主義や環境に対する搾取やエゴ中心的帝国建設に組みするほんの一握りの手による政治経済的権力の集中化によ って支配されている世界と規定されうる。他の人達は、外的な[①胃]解釈的カテゴリーや批判分析と理解に関する 内的[①目○]な原理とを結びつけて理解する必要があると主張している。仏教とキリスト教の伝統的な要請を、宗 二 序 言 50 あった。その主題はフレッド・ストレングによって述べられ、リタ・グロスほか数人の学者によりリスポンスされ ている。ここでは、フレッド・ストレングの主題の序言とそれに対するリタ・グロスの小論文を載せる。

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フレッド・ストレングが我々に間うている諸問題に対して、私は学者と実践者の立場から考察してみたい。一方 では、私は学問をする者の立場から、宗教に関する学識にもとづく経典を忠実に堅持するし、また、一方では、私 は宗教共同体の一員として、チベット仏教伝統のカルマ・カギューの信者でもある。そして、これらの二つの価値 体系は相互補完的にありながら、私の意識の中で働いている。学者であると共に実践者として、私は学問の世界と 宗教共同体の両方に住む者として、私は﹁内部者﹂であると同時に﹁外部者﹂でもある。このことは、学問研究の リタ・グロス

三宗教経験としての宗教研究

いくつかのアプローチを考えることができる。 のある世界、そして、真理や本来的な生き方を規定する手続きの世界、そういう一つの世界のなかで共生する為の 能性を消し去ろうとしているのか。おそらく、問題の領域から考察を始め、そして、多信仰で諸々のイデオロギー いる語葉や諸問題の取り上げ方はいかに調和的にグローバルな文化の形成に貢献しているのか、それとも、その可 く相違しているので、それらは相互に両立できない二者択一としてのみ存在しうるのであろうか。我々の使用して 一貫したあり方で一つの﹁世界﹂を理解することができるであろうか。または、言述の領域と評価の構造は、大き の共同体に対して内的な解釈を外的な批判的原理と同じように真面目に受け取るならば、仏教徒とキリスト教徒は 説明や社会経済的理論の観点から、変更︵再形式化︶されうるものがあるかどうか。もし仏教徒とキリスト教徒と ゴリーのなかに再び形式化できるであろうか。仏教とキリスト教の伝統的な要請のなかには、理性的基準や科学的 教的要求や実践の中心的性格を歪めることなく、総合的[ぬg①国]]︵普遍的[目弓の刷巴]で中立的[ロの具国]]︶カテ 5] 宗教経験としての宗教研究のあり方

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52 上でも、宗教実践の上でも、理想的であると私は見なしている。 ﹁阿部lコップ﹂グループのメンバーによる仏教とキリスト教の対話でも、また、他の対話に関わるときでも、学 2 者で実践者である自分に私は耳を傾けている。私は時々、﹁︸﹂のコメントを自分が仏教徒であるからしているのか、 宗教学者であるからしているのかどうかわからない﹂という前置きの自分の発言を耳にしている。また、別の時に は、そのコメントが私の仏教徒としての立場からか、フェミニストの立場からなされているのかの立場の問題があ る。ここで、仏教徒とキリスト教徒の出会いの中で必要とされている点について話を進めてみたい。私が普段感じ ていることだが、自分がフェミニストや宗教学者であることが、少なくとも自分が仏教徒であることを啓発し、私 の仏教理解をより深めてくれている。 仏教徒の学生の一人がかって私に、今生きている時代を暗黒時代とする一般的な仏教︵チベット仏教も含む︶が 見なすことについて賛同するかどうか聞いてきたことがあった。私はかってサーッダナ︵3号四目︶のテキストにあ る﹁ご濁悪世の時代に生きているが⋮⋮﹂というところを何度も何度も唱えたことがある。それにも拘わらず、そ の時私は﹁今は、暗黒の時代ではない﹂と答えた。﹁今は暗黒の時代ではない﹂と言ったが、今は異文化間の深い知 識や多文化・多宗教の経験が本当に可能になった初めての時代である。また今は他宗教のパースペクティブの知 識を認めたり、それから恩恵を受けることができ、数世代に亘る異文化間の学問や歴史的な学問の成果を自分の精 神的な人生観に統合することができる最初の時代である。それほど多くの資料が新しく手に入り、宗教的に考察で きる今の時代が、何で暗黒の時代であり得ることができようか。更に、宗教研究にも実践にも真剣に取り組んでいる女 性として、たとえ今の時代が暗黒の時代であれ、私にとっては明らかに将来性のある見通しの明るい時代である。 これらのコメントについて、この一年間考えてきたが、ある思い出が私をとらえた。二十年以上も前、私がシカ

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フレッド・ストレングのコメントと私の立場をできる限りありのままに、かつ思い切って対比して述べてみたい。 特に宗教の歴史や性質についての科学的知識、多元主義時代に避けることのできない解釈学的懐疑主義、そして、 伝統的宗教における多数の断片によって描かれた社会秩序の正義を求める社会的・経済的運動、それらは、我々の 時代に宗教的意味や忠実さを求めるうえで噴きにならない。それらは宗教の理解を深める重要なものであり、新し い宗教的出来事としても重要である。もし宗教について我々が今日知らざるを得ないことだとすれば、この科学的 知識、解釈学的懐疑主義、そして社会的・経済的運動は、それ自体では今日伝統的宗教との知性的で正直でかつ同 情的な提携の為の手段である。宗教学または宗教の科学的研究の発見によって、また、我々は多元主義的なグロー バル村に生きていることに目覚めつつあるという気づきによって、特に、宗教的フェミニズムなどの、強力な社会 的抵抗運動の出現によって、新しい宗教状況は作り出されてきている。その状況とは、宗教的であるという事に関 する慣習的な方法は、不適切で合ってないということである。これらの新しい発展にはまた大きな﹁宗教的﹂重要 性や潜在的可能性がある。それ故、その様な全ての主要な宗教的発展のように、その三つの出現は非常に大きく解 放に貢献しつつある。我々が今真理を知っているように、そして、仏教とキリスト教が﹁真理はあなたを自由にす 本当に適切であると思える。 それほど考えたことはなかったし、最近まで、ほとんど思いだしたことさえなかった。しかし、今そのコメントは デに彼の宗教的立場について尋ねた。エリアーデは﹁宗教研究は私の宗教経験である﹂と答えた。そのコメントを の小説を書く話を聞いた。そして宗教現象としての、種々の公民権運動について議論した。学生の一人がエリアー 的にお話をして下さることになった。ミードヴィル神学校のラウンジで、シェリー酒をちびりちびり飲みながら彼 ゴ大学にいたときのある夏のことであるが、ミルチャ・エリアーデが寛大にもご自分から宗教学専攻の学生達に私 53 宗教経験としての宗教研究のあり方

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54 るであろう﹂と宣言しているように、それらは宗教についての真理の多くを構成している。そうなので、私は、宗 教的な人々がこれらの発展によって脅かされているという感じを持っているというのは想像できにくいのである。 宗教についての異文化間・比較研究は、特にその非常に強力なレンズを通しての宗教学は、逆戻りできないほど、 かつ決定的に、我々が宗教について知っていることを変えてきた。ひとたび何か知ってしまったら、意識的に無視 するか、あるいは極端な暴力行為によってのみ、宗教について知っていることを意識の中に入れないようにできる し、また、精神的見方の変革から守ることができる。我々は今、諸宗教の経てきた歴史的過程をかなり知ってもい る。そして、いつでもどこでも全ての諸宗教に少なからずうまく当てはまる宗教の基本的なモデルがあることも我々 は知っている。いかに宗教的象徴や神話が生じてきたかも知っている。宗教についての歴史的、比較的、現象学的、 社会学的、心理学的記述によって全ての諸宗教は明らかにされてきている。それは、各々の宗教は孤立し、宗教的 思想に関わる因果の法則に関しては不明瞭であり、歴史において超越的介入の結果として自分自身を説明してきた 時には、決して解明されることはなかった。この知識によってもたらされた自由は伝統的な宗教的思想を評価する 自由で、その思想を、もはや歴史的出来事とか科学的真理とか見なすことを求められない。 宗教学︵門①]侭○口の乱印のgの。自陣︶の十全な表現によってこれらの記述的︵。①のQ甘嘩ぐの︶意味合いをもたらすのみな らず、神学的意味合いをももたらすのである。宗教的象徴や神話についてよく学べば学ぶほど、我々はお互いの象 徴や神話の相対性ついて確信せざるを得なくなる。我々は、ひとつの象徴やひとつの神話が比類なく全ての時代全 ての場所で適切であるという、不可能な非現実的な夢から解放されている。その不可能な重荷から解放されていれ ば、象徴や神話はそれらの文化的に条件づけられたマトリクスにおいて、よりはっきりと真価を発揮できるであろ う。さて、また、これらの種々の象徴体系のなかにほんとうの金の鉱脈の情報がある。それ故、人類の歴史のうえ

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で以前には決してなかったことだが、それらの多様性の真価を認めそして賞賛する事が授けられた.我々には信じ がたい程すばらしい機会が与えられている。それは、これらの新しい解釈学的道具を充分に用いて自分の宗教を理 解する機会であり、また、自分の宗教では発見されていないめずらしい宝石によって我々の精神的生活を高められ る機会である。ついに、我々人間には、人間の宗教的知覚や概念の全領域を通して評価し思考する可能性がある。 今日、科学や解釈学によって諸宗教に要請されていることには、説得力があるが、その要請に応えることは多分、 知的エリートによってのみ要請されているものと見なされている。そのような推測は、宗教に関する今の社会的か つ経済的諸理論によってなされる要請には全く適用されていない。主な世界宗教はすべて、もちろん仏教とキリス ト教も含まれているが、それぞれの伝統的形式において、経済的かつ社会的教えや実践を含んでいるが、非常に困 惑させ、不適切なものである。性差、階級、人種、そして性的志向の諸問題をはっきりさせるためには、伝統的諸 宗教に見られる典型的で通常の行為に言及する必要がある。預言者的洞察は仏教にもキリスト教にも共にあるが、 それは性差別、人種差別、貧困の永続化、そして性志向という理由では迫害を許さないという洞察だ。しかし、こ れらの諸宗教の歴史的記録や今の時代の実践は、その宗教自身の倫理的基準の内的要請を発揮していない。私は一 人の女性として、女性に与えられた慣習的な期待や役割に縛られないようにしてきたし、一人のフェミニスト学者 として、フェミニストの革新運動のリーダーシップの役割を多少担ったこともあった。明らかに、この二つの問題 に関して私が成功したのは、伝統的宗教制度や慣習による勇気づけや助言によるものではなく、むしろそれらによ って落胆させられたのであるが、そして、更に言えば、学者のサークルによってもまた落胆させらたのである。そ れでも、ほんとうに、保守的な既成宗教やアカデミックなエスタブリュッシュメントに対するフェミニスト側や他 の社会経済的批判の側に正義︵固い茸①○口目①のの︶があるということ明らかである。それらの声︵意見︶が聞かれる以 55 宗教経験としての宗教研究のあり方

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56 前の時代に、私は生きていなかったことに非常に感謝している。というのは、女性としての私の人生はその様な状 況下ではほんとうに貧困の中で生きたであろうことは確かだからだ。 諸宗教が、科学や解釈学的懐疑主義や社会経済的理論によって影響を受けている状況下で、私が喜び溢れるとい うよりも脅されていると想像するなどは難しい。学問的でかつ異文化間の宗教研究法によってつくり出された新し い宗教状況に対して応答するとき、何故、普遍的真理とかユニークな妥当性の要請に逃げ込むのであろうか。同じ ように、この新しい宗教的状況を自分の宗教観に統合して悦に入っている人を理解するのは難しい。異文化間宗教 研究や歴史的宗教研究の成果を自分の宗教的スタンスに生かそうと飛びつかないので、かなり伝統的なあり方で自 分の伝統にぱかりに関心を向けていることでなぜ満足しているのであろうか。私にとって、更にもっと理解できな い人々というのは、その人達はその宗教に深く影響を受けていると主張しているにも拘わらず、その宗教のビジョ ンを実践的な表現にもたらそうとする社会的または経済的改革に抵抗する人々である。そして、その変革が数世紀 間の慣習から人々を解放するとしてもである。 要は、宗教者が、歴史的宗教研究や異文化間宗教研究の成果、更に、宗教に対する種々の社会的批判によっても たらされた結論、そういうものを解放の福音の外にあるものと見なすと言うことは理解しがたい。今の状況のもと で、現在の知識を知りながら、宗教学的アプローチや社会経済的批判からの宗教の情報を採り入れることなしに、 どの伝統的諸宗教でも堅持するのは不可能である。暴力なしには無視できないし、また避けることのできない科学 的かつ歴史的知識があたえられている状況では、どの伝統的宗教の要求や要請も、慣習的なあり方で理解しようと すると、あまりにも単純で非常識なものになる。しかし、これらの伝統的な要求や要請を象徴として聞くことを学 ぶとき、つまり、それを特定のかつ相対的な文脈の中から成長してきて深く根付いている象徴として理解するとき、

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また、真にその要求や要請を神話として見なすことを学ぶならば、その時それらは再び、我々に語りかけてくるし、 我々を温かく包んでくれる。社会改革が、たとえ革命でさえ、伝統的な宗教のビジョンに正反対でなければ、我々 はその時変革に抵抗することができないであろう。 もちろん、もし自分の宗教のみを深く研究・熟考することだけに自分自身を狭く閉じこめておくのであれば、自 分の宗教の評価を認めるレベルまで達するにはむずかしい。我々は、むしろ宗教を人間の創造的活動として、その 多種・多様性を研究かつ考察しなければならない。我々が現在知りうる限りでは、その多種・多様性や相対性は宗 教に対する真理であり、同様に、諸宗教の正義と慈悲の洞察は慣習を超えて行く必要がある。 私は非常に強烈な主張をしている。それは、私たちが知識からまったく意識を閉じてしまわないのなら、今日応 答的に︵責任をもって︶宗教的である唯一のあり方は、宗教学︵H①]喧目の量ののgmo冨津︶や宗教に対する批判的社会 経済理論の方法や成果を採り入れることである。これらの創造的活動のために、私は普通なされない主張をしてい る。それは、その創造的活動が科学的真理を含んでいるだけでなく、精神的または社会経済的な重要性・真理を、 つまり諸宗教がもはや無視できないものを含んでいるということだ。更に、宗教学︵制の]値○口の乱ののgの。富津︾号の言のsq o陣里値目の︶の方法や成果を採り入れる立場は、ひとつの宗教的立場であり、これらの学問は我々の知るあらゆる 宗教の相対性や諸宗教の多元性に関する避けがたい結論をもつものだが、宗教学を採り入れる立場の方が、これら の学問を無視しようとする宗教的スタンスよりもより満足すると主張しているのである。更に、社会経済的批判や 特にフェミニズムから指摘されたように、慣習上の変革が必要であることを無視したり蔑視したりすることは断固 として反宗教的であるとも訴えている。 多分、私が更に言いたいことは、一つの伝統的な宗教的概念または実践が、我々が真面目に受け取らなければな 57 宗 教 経 験 と し て の 宗 教 研 究 の あ り 方

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糞﹂か.い・ このことは、一体仏教とキリスト教の対話にどんな関係があるのでしょうか。この問いに出会う人々はこれらの 現代の批判的なパースペクティブを共有すると信ずる。これは我々の共通の世界観であり、それが我々に対話をう まく遂行させると同時に愛想よく反対することをも可能にさせている。共通の世界観は我々の意識の中心にあり、 その共通の世界観は宗教的相違によって我々を分離させるよりもむしろ我々を結びつける程、中心的なのである。 その共通の世界観なしには、対話はもっともっと難しくなり、不可能なことさえあると思う。我々は、近代化によ ってもたらされたうわく上の諸問題にも注意深くあるべきであるが、その近代化がこれらのアプローチによって宗 教の研究や﹁行動する﹂宗教を可能にしたのである。それで、それらのアプローチのない世界には住みたいと私は 思わないであろう。それはもっと暗い暗黒の時代だ。 この文脈の中で、フェミニズムや宗教学︵号①旨のgqO陣①]喧目の︶の精神的かつ宗教的重要性を強調してきた。 それはこの研究グループにとって適切な方便である。しかしながら、更に言うならば、宗教学の専攻の同僚に同じ 58 らない情報や価値と衝突を起こすとき、その宗教は変革されるかまたは放棄されるべきである。なぜならば、自分 の思考のうえでも自分の表明のうえでも、私は自分自身をホーリスティクであると見なしているからである。私は 自己分裂的に相反するものの両方に誠実であろうとすることはできないが、自分に承伏できるように見える種々の 理解を通して、常に継続的に内的な対話を行うことはできる。ただ、もし私の一連の意識や理解を諦めざるを得な いとするならば、わたしは宗教学︵制①]喧目の乱ののgmog津︶または宗教的フェミニズムにたいする忠誠を放棄するこ とができないであろうということも、私が認めなければならない。宗教との関わりにおけるこれらの二つのレンズ の明瞭さと適切さはとても抵抗できないほどで、ひとたび二つのレンズを知ってしまったら決して忘れることはで

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﹃圧 仙団且巳︺風︲○胃厨画目の甘日のの︵国目○巨F出国急農皿ロヨぐの風ご○怜国四尋昌・岳巴︶9.画ミー函.四目目・函置1m.﹃仏教と キリスト教の研究﹂第十一巻︵一九九一年︶ ②訳者注﹁阿部lコップの研究グループ﹂とは研究会は﹁北米神学的出会いのグループ︵弓毎①z9号跨冒①国8口目丘①○]○四s] 両国8口貝閏Qog︶﹂として知られているが、一九八○年にハワイで、阿部正雄教授︵元京都大学︶とジョン・コップ教授 によって結成された。特に仏教徒とキリスト教徒の対話を長年続けてこられている。これがもととなり、仏教とキリスト教 の研究会︵の○gのご閉自国且号興︲○再勝画目の言&①の︶へと発展してきた。 様に、我々のグローバル村における自分自身の仕事や道徳的責任に関する規範的かつ構成的︵解釈上の︶次元に注 意を向けなければならないと私は説いている。しかし、それはほとんどの人達に無視されている。 とにかく、一つの意識の中に、これらの三つのパースペクティブ、つまりフェミニズム、宗教学そしてある宗教 的関連を保持することは必須に思える。それにも拘わらず、私が言うのも悲しいことだが、私の述べた三つの共同 体のそれぞれのメンバー達は私の属している他の二つのグループへの関わりに対して、私を裏切り者として見なす のである。それは、我々は非常に破砕され、かつ引き裂かれた世界を体験しているが、その世界において我々は保 持すべき一つの中心を見いださなければならないことを示している。その中心とは、我々が一つの多元的な多宇宙 の市民であるところの条件であると思う。その一つの多元的な多宇宙において、我々各々がほんとうに人間として 存在する。そこでは、性差別主義、階級主義、その他の﹁主義﹂や古い秩序のヒエラルキーが有効でないことを示 している。 59 宗教経‘験としての宗教研究のあり方

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