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三代世表考 : 殷周始租を中心として

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(1)

三代世表考 : 殷周始租を中心として

本城, 說 治

https://doi.org/10.15017/2341045

出版情報:史淵. 15, pp.137-165, 1937-03-30. Faculty of Law and Letters of the Kyushu Imperial University

バージョン:

権利関係:

(2)

史記十表の中︑三代仙表はその蛎一に世かれてゐるものである︒三代とはいふまでもなく夏股間のこと

であり︑仙表とは乏の先公及び帝王の枇系表のことである︒然し三代仙表は三代のみならず︑その上に便

江上五帝の仙系をも附加してゐる︒そして川の仙系については.た回十一世閥王の次の共和までだけ彫赦

せてをり︑以下は節二の十二諦侯予表の方へ繰入れてゐる︒三代仙表は右の如き内容について其の大鰐を

とって名付けたものである︒此の小論は︑その三代仙表の中︑主として五帝の部分及び股間のⅢ︑殊に後

者に重きをおいて若干の考察を試みたものである︒

︵一︶

世表の中︑五帝に鮒する部分は五帝本紀と梱表袈する︒本紀の方は︑主として孔子所傅と稲する宰予Ⅲ

三代世表老一三七 三代世表考

1段周始租を中心こゞして︲I

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本城説

(3)

三代此表考二一八

へ注︶五帝徳股ぴ尚諜に擦ってを0︑仙表の方は帝繋と秘す季?ものにょつてゐる︒

︵誰︶乖祷徳技パ密喋の二術は今大戴禰に肺あられて売り︑諏密徳は孔子家誇にも脾あられてゐるが︑司蛎雍銅史

の活畔には片燕存在してゐたものであるO

所が司鳩進は五帝枢紀ぞ作ったことについて︑ヱの﹁太史公日﹂にかなh辮解の跡ぞ炎してゐるのであ

る︒思ふに尚普は索舜以来ぞ記すのみで︑澁帝︑帝椒須︐帝蕃哩一帯については佃ら紋するところがない︒

術語も亦雍舜をいふのみである︒今︑から兄れぱ︑股代の史料となってゐる尚評今文の五臓︵渇拝︑般庇︑

高氷形日︑西仙織黎︑微子︶も刊晦股代からの辿丈とは認め難いのであり︑況んやそれ以前に鱗ろ部分即

ち腱諜︑璽蒋に封し一﹂は典に史迩惟考泗附難いのであるが︑柑畔にあっては︑否その後礎E一千年のⅢ尭

舜以来の朧史記述の賛料を尚香に求めることについては︑何らの疑惑尚瞬蹄咄要らなかった︑聖人の川序

に對しては言句浄挿むの隙地が無かったのである︒

所が五帝の中でも茜帝︑椒預︑帝譽については卯か祁怖今や異にする︒淡の武帝の頃にはすでに多くの學

者は五帝を榊してはゐた︑孔へ性鷺からみて︑司賜遮りいふ様に術しき以前からとは恩はれないにしても︶︑

而して叉當時見在の五帝徳雌ぴ帝繋も孔子の所体と孵せられてはゐた︒けれどもこれらの書の内容が果し

て孔子哩偉のものなりや否やについては︐淵時にあってすら可なり疑川税せられてゐたのであって︑僻考

の中にも之を脹繼にあらずとして僻へ艇ぱざるものありしことは︑司馬遷向身︵天帝本紀の﹁太史・公川﹂︶

及び史記索應のいふ通りである︒況んやそれは詩諜と川等に論ぜららべきものでは洞よりなかった︒故に

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(5)

三代慨表老一四○

れろかも知れないが︑司馬進の人物を知る時には︐この様な老への徴らざることか分るであらう︒彼が寧

ろ柑時の迷信を白眼してゐたことは封祁蒋を通じても知ることが出来るし︑叉彼が時流に阿ってその信條

を曲けるような人物でなかったことは︑太史・公自序や諸州仰の太史・公日や殊に季陵刷事件等を通じて鮫も

明かである︒而してそれが恥なる好奇や街氣に出づるものにあらざることは史にいふまでもない︒

帷ふにその瑚山は︑五帝本紀よりも三代仙表の方に明白なすがたをとって現れてゐるようである︒

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(6)

一見して五帝三代の仙系がすべて黄帝に發するのを認め得る︒即ち最上段には帝系を掲げ︑下の各段に

はその帝系の山って來る所を示してをり︑帝系の發するところ︑流刑の下るところ︑本支の系統は一目瞭

然たる形に於て提↓示せられてゐる︒若し一一れが尭舜から始まってゐるとすれば︑夏股間三代︵及び案︶の

肺する川がない︒史記は装来して冠せざるものk如き形であったであらう︒費料は勿論作在してゐたので

あるが︑問題は之か嬢理統一して本紀の兜頭に侭き︑肚表に柵んで準然たる系洲と︐して提示したる意州に

存するのである︒この様底企ては史記以前には間より雌かつたし︑史記以後にも断代史たる碓史には之を

見ない︒私は五帝本紀及び三代慨表に示されたろ憲州は︑司隔進仙人のものでは左くして︑寧ろ時代の要

求であったと思ふ︒

︵誰︶股周秦の各始珈が而接尭舜に緋合せられずして緬噸蒋馨に緒合せられた理由は別に考察せらるべき問題であ

るC此の麦には曇の峅祁は咄てゐないが︑窪木細をみるとそれはやはh緬噸から旧たことになってゐる︒

然らば史記の俄而した時代の要求とは如何なるものであらうか︒それは五帝本紀及び三代佃表白鵠が語

ってゐるように︑中閏帝椛の發肺か語ると同時に古史の川發浄明かにし︑更に諾族統一の機迩に伸すもの

であった︒反面から言へば︑巾叫門代史に封する認識辛惟皿し樅在し︑現代的な統一を與へんとする欲求

であった︒慨傳の轄理といふことはすでに司蛎進の通剛するところであった︵太史公同序毫照︶が︑此の

時代的欲求は必ず︲し贈彼の意識にはっきり上ってはゐなかったかも知れない︒その方法が今Hから見て合

班的︑科學的であったか否かは川はふとするところでない︒か出る欲求←|努力との發生こそば兄のがしに

二一代仙表巻一四一 1

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(7)

三代泄表老一四二

ならないものである︒

一の災族が祁術文化の城と壯態に逹すれば︑↓七の雌族の發肺及び發展の膝史を州川しやぅとするのは自

然的な欲求であらう︒而してかkろ欲求の性髄︑縄度等は勿論っての民族文化の商鹿︑様祁に佼つものなる

が故に︑術然その時代の丈化状態が刷られなければならない︒か上る概恥からすれば︑淡の武帝時代に於

ける史記の川現lその五桁本紀と三代仙表との細述は︑河に現︽◎べくして現れたものであるとの感が深

共和以來芥秋︑峨閏の川となり︑案楚の際の争乱を經て途に高組定陶に即位するに至るまで︑唾に六百

年の芥秋李ぞ分立搬乖の耐凱の中に過してきた山である︒長いⅢ支那はその歴史今学.顧るの機命岬を有たなかっ

た︒幟陽修は栄文總川に於て獅鋒を娩叩する巾.に︑涜鋒起於牌仙︑自尚肌至於武家︑共後正盗相交︑史不

服錐.といって一?︒が︑府代の中乱れたりと雌も︑春秋戦剛秦楚の際の各剛攻伐州つぐの推し背から見れ

ば靜諦なりしといはねばならぬoがそ虹ですら猫史鋒するに暇あらすといふのであるっ推して探すぺきで

ある︒然るに漢帝凹の刺立によって支那は初めて︑而かも妓大の版川に於て巾剛としての大統一を完成し

た.名震共瞥后統芯碓乢疑得るために陣鼠から誕嶋へ十年彰維為を必要としたが五推七剛の剛

が鋲定して武帝の仙となった時こそ︑手ての詔変の其ろを得た時であった︒斯くて支那は今こそ支那として

の歴史卒顧るべき畔期に辿遇したのである︒

正にうてれは支那としての歴史を刷るべき時期ごあった︒淡宗の朧史としてはまだ漸く六七十年を閲した h1BⅡF︲

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に止まる︒此の六七十年に比しては︑支那は反行し︑熱加し︑綜合統一すべきあまりに長い過去を有って

ゐた︒史記催l耐賜進燗人の胤はと蝋伽もl麓に此の灰符と蕊那と綜合統一の成処であったのであ

る︒史記が邪なる淡罪の雁史でなくして︑苛帝を︑王とする五帝本紀に始まってゐるのは樹に黙るべきであ

り︑夏股刷三伏︑茶︑及びその他の諦族か北ハに黄帝に肺一してゐる︵同表参照︶のは︑形態的に中剛統一

を先成した徽代の︑内側的な欲求の現れであったのである︒机し五帝本紀及び三伏仙表に現れた市の意川

と欲求とは必ずしも瀧帝閏のそれを代表すらものではなく︑飛・ろもつと一般的な漢災族としての文化意識

の現れであったと兄ら︷わくきものなのである︒このことについては今少し詳説すべ誉であるが︑川か枝諭

に互ろので符略することLした︒

史記三代仙表の五桁の部分は先きに略猫したが︑三代仙表の根擁となった帝繋の文によって系川を作っ

てみると次の如くである戸

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(9)

此の系岡の中梱を左すものはいふ迄吟なく五帝である︒五帝についてはこ上に掲げられたものi外に数

佃の麺類があり︑その起朧と發鵬とは一の併究問題であるが︑それの岐も原始形と川されるものは孔子崇

語の五帝端に載ってゐるものであらう︒﹁天に五行あり︑水火木金上なり︒時を分ちて化育し︑以て蔑物

を成す︒その祁をぱとれを五帝と謂ふ﹂︒即ち五帝の税は五行縦から起ってきたものである︒布子の識に

よると五行説は子思が之を咽へ︑孟刺が之に和したといふのである︵非土手箙︶が︑杵通には疏子と同

#'。 三代慨表考

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(10)

時代の郷術の提唱にか比るものだとせられてゐる︒尤も之に對しては椎迩の反對識の如きもある︵史記探

源︑終始五徳︶が︑何れにしても五行説の起原は戦闘中期を遡るものではない︒封榔番に現れてゐる芥秋

常初以來の幾多五帝に開する記述の如きほ勿論後批の儒作であつ◎っ五帝が五行ぞ司り︑四時方位を支剛す

る艸堂であった時分には系糾の如きものは必蝉で左かつた︒然るにその系譜が作られるようになったとい

ふことは︑天界の川共が直接人界につながりをもってきたといふことである︒從って五帝にも出入移動が

行はれ︑人界に於ける叩想の帝王乗舜がこれに参加して︑家語の五帝補︑澱記月令︑呂氏奔秋十二紀等に

於ける五帝た坤采︶︑炎帝︵火︶︑黄帝︵主・小峰︵金︶・倣項︵水︶lから.五帝徳︑帝繋

の五帝l黄帝帝俶預︑帝審帝だ.帝嫁︲lへの鐘化が行はれることによって︑右のっ底がりは完成

したのである︒︵五術読については湫川仰士の﹁瀧代政治思想の一m﹂に激へらるk所が多い︶︒五帝徳︑

帝繋の作成された年昨は明確ではないが︑荷子︑秦記に擦れる秦始皇本紀︑海誠新辨等により五帝の現疵

化されてゆく過漉ぞ辿るに︑それは沈代に入ってからのものであるらしい︒早く見て・も始皇帝時代の上に

出るものではない︒︵詳細な論究淀此の小論では別愛することぞ餘縦たくされてゐる︶︒而してか上るもの

i出現が塊なる五帝説の發展といふ以上に︑かの五帝本紀及び三代冊表を生んだ時代的欲求の先行的施物

であることはいふまでもないであら︾勺︒

帝紫は一の罷系である︒五帝の外に夏股川の川を包括し︑諦族諦侯の始机をさへ結合して︑中間の全氏

於諾統合した一大僻系である︒が斯様な開系としての川現は秦沈の交であるとしても︑柵系の素材となつ

三代世表考一阿五

1

(11)

三代惟表考一四六

たものは決して冊系つけらる出の日に惣然として現れたものではない︒その断片的素材かどこまで遡れる

ものであらうか︒素材としての紡合はどの粍度に行はれてゐたであらうか︒そして僻系化の結果は如何て

現はれてゐるであら弓か︒

並古の文献たる詩維及び易維には此の冊系山素材と兜しきもの乏しく︑たぜ詩の中に岡と脈桜と契とが

弓たはれてゐるのみである︒術評に至って尭舜が現れてゐるのであるが︐しかも尭舜の現れる尭典及び半

陶説の如きは︑尚書中にても比鮫川後枇の作であるといふ税は砧んど動かぬ所の如くである︒尭舜は峅家

に於ける刈勉の帝王であり︑黄帝の事は餅にも論研にも・亦子にも川てゐないによって見れば︑それは赫家

以外の鵬のが咄へ出したものであらうと恩はれる︒司馬進口く︐百家言二黄帝一︑共文不二雅馴一︵五帝本紀﹁大

史公日﹂︶︒即ち両家山徒か帖家の尭舜の向ふを張って︑発舜以上のものとして咄へ川したものであらう︒

然るに文献に現はれた所では︑茜帝はとNに推定したよりも遥か以前から知られてぬる事になってゐる︒

左傳係公冊五年の條に曰く︑遇上黄帝戦二子阪泉一之兆上︒

倒語群語に曰く︐黄帝能成二命Ⅳ物一︑以叫レ雌無し財此の催の出てゐるのはやはり榊公の時である︒而

して菰帝の外に伽玖.帝蕃・尭舜ら川訓る五帝吻名か川てゐろが︐烈川氏︑共工氏︑岡なども共に川てを

2﹂︑五帝の形は︲とつてゐない︒

剛証許諦に曰く︑小典.::生二黄布炎術一︒これは文公の時であって︐文公は前掲枠の偽公とほど同時の

人である︒

(12)

秤山僧公廿五年といふ年娃幽ハ三五斗で︑孔子の川生に先立つ八十四年である︒此の唖に果して黄帝そ

の他がすでに知られてゐたかどうか︑問題は左仰剛詔の害評といふ面倒なことになって来るが︑今は︐かり

峰川北一を躍って既に知られてゐ↑にとしても︑職剛から秦淡にかけて山國︑一川家の徒によって並勇祀大な帝

王として栄拝されてゐるよらな壯態には無かったといふことだけは︑錠ふの餘地がない︒

なほ左傅昭公十七年の條には︑黄帝以レ雲紀云糞の記蕊があり︑蛍術の外に炎帝.共工︑大岬︲少雌︑椒

瑛の名が川て居り︑此の談をなした邦子といふ者について︑孔子が學ぶ↓︶とになってゐ|心︒後仙黄老の徒

の作爲せる孔子説話の初期のものであらう︒価し此の説話に於ても主だ五帝説は成立してゐない︒

纈頚︑帝譽については蝿碑奇説が少くない︒しかも古い所には無くて洩代以後に多いのである︒仙本︑

五帝徳を始めとし︑淡志︑市史老︵誰川︶︑帝王仙紀︵皇市諦︶︑路史︵羅泌︶︑迩錐外記︵劉恕︶︑絲史

︵馬剛︶等がそれらの主なるものである︒然し椒頭も帝巻も黄帝と同じく閣諦︑左舛以前には見えず︑國

諦左傳にも夫糞一三度現れてゐるにすぎない︒殊に帝の蕃名は左仰に無く︑た世高辛の名が出てゐるだけ

である︒

前辿のように左仲閏語には五帝の説はまだ固定してゐないが︐帝繋の栗村となる系荊か生じてゐたらし

い形迩かある︒即ち榔語には次のように川てゐろ︒

有鹿氏流二黄桁一而川二纈瑛一︑郊y尭米y舜︒

夏后氏流黄帝而刷細譽︑郊僻而宗孤︒

三代世表考一四七

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(13)

三代肚喪老一四八

商人流舜而祗契︑郊其而宗湯︒

川人流審而郊程︐州文王而宗武王︒

︵註︶堆辻は此の舜は琴の誤ならんといふ︒

類似の文が慨記祭法に出てゐる︒

有鹿氏稀黄帝而郊審︐川版須而宗殖︒

夏后氏諦黄帝而郊審.測纈頭而宗禺︒

股人諦審而郊撰︑肌奨而宗湯︒

周人稀審而郊櫻︑肌文王而雅武王︒

以上辛帝紫に照合してみるに︑枠誘の有虚氏︵舜の後︶が篭葬郊にし︑商人が舜孝流にし︑祭法に有皮

氏が悪弟郊にし︑奄浄↓宗にすと云ってゐろのは︑何れも帝繋に剛蹄する︒岡語敢淀が商人流舞辛諦騨の誤

なりとしてゐるのは︑すでに完成間定せる帝梁底どの諭によりしものであらろが︑若しか様に汀順すると

すれば︑訂正するぺきものは棚り諦舜のみに止走らないのである︒惟ふに斯く帝梁と剛蹄するものがある

のは︑帝繋以前の未間寵時代の状態を示すものである︒後価川定の説を以て之を遡訂すろは不當である︒

王閏維氏は﹁股卜辞中所見光公先王老﹂︵美心條︶及びその﹁緬考﹂︵高祀委の條︶に於て︑卜昨中の

皇及び垂等の字今毎以て委山字なりとし︑桑は即ち譽にして︑健の父たることを老諦論定してゐるが︑碑研

及び祭法の股︵商︶に開する祁分だけ卒引川し︑枠濡に對してはやはりポ注毒権川して舜仕馨の課なりと

(14)

する意向を示してゐるj此心諭證の爲に引川せられてゐる文献は史記索應︑史記正義であり︑初學記に引

川せられた帝王仙紀であり︑残に山海經が甚だ亜川せられてゐる︒而してその.努読として契と並べる后稜

が譽の子であるとの説は︑すでに早く仙本及ひ大赦記帝梁縮に川てゐると述べてゐる︒然し吾登は今その

帝梁を問題として取止けてゐるのである︑之を以て誰となすことは許されない︒呪んや秤府の書を以てす

るをや︒なほ此の瓢に閥しては契后桜の條で燗れる笹であ︾わ︒

王氏は五帝説の史疫性を信じ︑帝繋をそのまL信川してゐたらしい句股楜制度論にいく︑

自五桁以来︑都邑之自東方叩移於四方︑悲目川蛉︑故以族如言之︑川陸奥皆纈瑛後︑殿川皆帝譽後︑

窓股間爲親︒

帷ふに史記の股帝王仙系の雌変なることが卜辞によって餘りに緋かに立誰せられたので史記が過度に信

川せられ.五帝以下についても五帝本紀︑三代仙表がそのま上史箇なりとせられる伽きを生じたのではな

からうかo堂が麦なりや︐或は契なりや︑史に灸か果して譽なりやはまだ決して碓定されたりとはいへな

いのであるO

詩に発舜の名が出てゐないといふととは︐尭舜出現の時期を老察する上に蚊も注目されるものである︒

郭沐若氏は︑占金文中︑般呵以前の禰王名にして最古のものは瓜に極まり︑店尭喚舜は共に見えないとぃふととを

折燗してゐる︒﹁金丈推考﹂四一二瓦︒

詩は三千篇以上もあったのを︑Ⅲ序して三百筋となしたといふのであるが︑その削除されたもの上中に

三代世表考一四九

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(15)

三代.肚表老一五○

も尭舜をうたふものがあったとは老へられない︑之をⅢ序する頃には堯舜はすでに儒家の上に理想の帝王

として臨んでゐたのであるから︑若し詩の中に一浦でも左傑なものがあったとしたら︑詩のⅢ序者が之を

看過する筈がないからである︒即ち詩の時代には尭舜傅挽はまだ起ってゐなかったか︑若しくは起ってゐ

たとしても︑詩人讃嘆の對象とならぬ程庭のものであったとせねばならぬ︒なぼ堯典には︑放鯏︵尭名︶

乃釧落︑百姓如喪考砒三戦とあるが︑郭沫若氏は老砒と述ね川ふることの後仙なること︑百姓の語もも亦

無かりしことを指摘して︑帝典は孔門の偏託なりと断じてゐろ︒

仙し同氏は古三年の衷抵かりしととの鐘として孟子朧丈公上の丈を別用し︑以て矢張帝典の孔門個託なるとと穿識

じてゐるが︑満時滕國でそれが行はれてゐなかったとしても︑Rに孔子の時︑宰予が三年の衷は長渦ざるといひ︑

孔子之に對して三年の変は天下の諦装なりといってゐるのをみれば︑鵬剛の例を出て三年の衷古砿かりしととを証

するのは不當であらうO源.んや滕剛でも剛初頭には行はれたるやも知れざるをやo

尭舜の誕生は︑同時にこれにまつはる凡ての傳説の誕生であった︒抑哨尭舜といふ名がすでにか上る誕

生の凡ての意味の象徴である︒白虎辿に日尭猫兎尭也︑至高之貌︒風僻迩に円︑尭者尚也︑饒也︑言其隆

興炳炳岐高明也︒円虎通に川・舜猫係係也︒風併迩に日︑舜粁推也︑術也︐言共推行道徳・術尭締也︒︵妓

後のものなど川か附會に過ぎるが︶之に對して函の如きは︑それが夏の肌であるといふ以外に︑文字とし

て如何なる意味を有するかも明かでないのである︒か上る事怖はその各々にまつはる傅説のすがたの上に

もよく現れてゐる︒即ち馬の洪水傅挽に比すれば尭舜はその徳について語られ︑悲しく概念的なものを含

んでゐるワ尭の徳として雌初に述べられてゐるのが允恭蒐誕といふことである︒舜も亦堯のすIめにも拘

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(16)

ら歩﹁誕手徳一兆し胴﹂のである︒か様次行罵葬理想と老へる思想によって生み川された博説であることは 郷像す︽︒に難くない︒尤吐︲北刷砂禺貢に現れた岡の業恥叫の如きはヒルト氏の研究以来一般に疑はれるように

なったが︑洪水撫読の原始形はもつと素朴なものであったであらう︒

︵一二︶

股州奨の誕生のことは瀞の商砿玄舟筋に川て鵬り︑川帆啼役のことは詩の各所にうたはれてゐるが︑そ

の誕生のことは大雅生鵡肺に川てゐら︒

商蚊︑天命玄賜︑降叩生商︑宅股土芒世..⁝︒

犬雅︑恢初生雌︑昨維姜蛎︑生民如何︑克帷蒐肥︑以弗無子︑履帝武敏︐散枚介彼止︑載震載夙︑載

生載育︑時維后桜︒︑

塊と后唆との誕生について弓たへるものは汁を迦じてた■これだけである︒それは天が玄烏に命じて商

を生ましめたものであh︑蜂郷も亦帝心足跡か腹んで孕んだのである︒︵詩仁於ける帝が天帝山意でぁ↓心

Cとは史めていふまでもない︶即ち股川の皿は哩接天若しくは上帝より川てをり︑特別な父のありし何ら

の形辿もない︒

雁桜仁不克︑上帝不臨︵大雅泌︶

一五一

三代慨表考

咽に閏は股刷の緋に於て共にうたはれてゐるが︑刑に海て解へられ瀦瓜壮洪水に開してより虫彌・ろ啼磯に先立つ硬祁としての岡であるといふ魂が︑Ⅷ噸川氏によって唱へられてゐ︾や○︵古史辨︑第一川巾権妙︒ 01

1

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11

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(17)

鋤I

股本紀には︑前狄か姉妹ら三人と行きて川に浴してゐた川︑玄賜か卵を肱した︑簡狄取って之を呑み・

閃って孕んで契を生んだといふととになってゐるが︑之は司賜進の勝手遊件鰯ではなくして︑かや弓な仰

説が別に行はれてゐたので︑これによって詩を布沈したのであらうと忠ふ︒

契后桜の誕生舛読についてその母のことは詩られてゐろが︑父について何らいふ所のないのは︑やはり

陳始舛読の形態を残してゐるものであらう︒所詔知北感而不知北︿父ものであるっ説交に姓の字ぞ解して︑

古之祁聖母感天而生子︑蔽榊天子以女久生といってゐるか︑簡狄や美姫はまさに此の榊聖母に杵耐るもので

三代仙仰表考一五二

思文クル后溌︑克剛彼天︵川浦吻︶

等に於ても偏溌は直接天につながってゐること狩思はせ︑小くと吟上帝の衣には垳秘を堆商の地位にお

いて岬宋微してゐるのか見る︒商孤に於ける梨の誕生はあまりに簡函恥である︒契の名さへなく︑その僻術狄

の箱も川てゐない︒司鵬遜は商頚によって契のこと等無序したといってゐる︵股木紀犬史公H︶が︑此の商

だけによったのでは殆んど何哨記せないであらう今それは既に脈飴的た形態を脱してをり︑雛︲ろ非M迦化 してゐた契の誕生偉説によって︑概念的にのべたものと忠はれる︒商浄生ましむなどと一三mってゐるのもそ

れである︒商蛾は朱の代に入ってから作られたものであり︑叉商全冊の性質からみて︑か様な形をとっ

たのも自然であるかと忍ふ︒

宋祉家の太史公Hによると︒宋延の時に大夫死考噛が商︿を作ったとあるが︑これはあまりにおそ通さるようであ

る︒正考甫が股存の詩を手に入れたとなすの説を以て正しとなすべきであらう︒

9

(18)

あらう︒卵生傳説は秦肌大我の父太業についても謙られてをり︑朝鮮諸王の姑肌についても亦存すること

は瑚知である︒又亜人の跡を賎みて孕むの傅詑は包犠についても諦めれてをり︵三里本紀︶︑路史商辛紀

には︑⁝・・蛎極収陣塑氏日一認肱大跡而側能審.と馨についても亦之を体へてゐろへ仏様や帝署は︵そし

て恐らくは素肌大業も︶眺剛以後の川現にかLるものと川心はるⅨが故に︑之について語られてゐる傅説も

從って醜存のものの附愈であるかも知れないが︑契や后穫などに存するものは祁先の發聯ぞ語る民族信仰

の脈姑形であると老へら虹ろ︒されば私は脚初に於ては偏稜は川の並古の祁先であって︑その上は直に上

帝につながるのであり︑后桜の父としての帝嬢閏などは全く老へられてゐなかったと推定する︒呪んや股祁

契の父としての馨などは尚更老へられないものである︒若し王固維氏の説のように罰が契︑后殺の父であ

り商人及び周人のよって川づる所の布として祀られてゐたものならば︑契后程を讃嘆する詩人が曾て一度

も之に及ばないといふことはあり得・へからざる抑ではないか︒史記志疑引く所の術即魏の博士張融が曰く︑

若使審総稜契父︑帝銀蝿聖火︐美川f妃︑詩仙故仙歎北感︑不美北︿父︑則知尭別溌契非兄弟︐審非尭

稜契ノ父︒

然るにとkに蛾へ垳椴の仲説的川生彩︿︑那的に解粋しやらとする一聯の説がある︒朧述は商誇信鋒に於て

鮮明允の読を招介してゐるが︑要約すると︑玄賜のおとした卵を取って之を呑むなどいふは︑簡狄主さに

狂氣の沙汰であるo叉野に川でてⅨ人の跡などあろを見れば蹄曹逃けてこそ然るべきであるのに︑析然と

して之を践むなどいふは︑美蛎何ぞ白愛せざるや︒司馬進は詩の解粋を誤ったのである︒毛公詩体に︑恥

三代仙表老一五三

I

111

■ロ■

(19)

三代吐表考一五四

島の降るといふは郊煤ぞ祀るの雌となし︑帝此〃腰むといふは商辛︵帝審︶の行に從へる蔵りとしてゐる︒

史記川で︑鄭雌成之に從ふに及んで天下侍︑聖人は人にあらずゞ及ぶべからずとたすに至った︒進の聖人

左証ふるや終しいかなぅ餅に毛公の碗に從ふべきであるといふのである︒從述は之に附言して︑按渉ろに

詩を論くには常にその意を求むぺく︑その丈に泥むくからずとて毛仰︑蘇説に左川してゐるのである︒即

ちこれは︑帥は人なりとなす合那的見地に立つものである︒が此の解繩は果して旅しいであらうか︒まづ

啼概の川生について帝繋を肺としてゐ・鮎で収らを得ない︒即ち一方に合迦化を行ひつL︑他方に作鰯的

結合になる傅枕〃看過してゐるのである︒次に乙烏の降るといふぞ郊楳を祀るの候なり上|なす鮎であるが

毛体の脱文は次の通りである︒

恭一分尤剛降︐愉狄研於郊裸而紫契︑故木共鯛天所命︑以沁蝿至而碓鴻︒

とれは澱記月令の仲恭の剛に川てゐる説によつたものであるらしい︒同く︐

迅月也玄島至︲至之日以尺牢耐二於商媒一︑天子親往︑后妃帥二九峨一御云令

誹仰は即ちこの商媒彬刺ゞ︵︒の説によって棚孜契牟雑むの所仰葬解したのである︒然しこれは順序顛倒で

ある︒一定の時候に大牢を以て商媒ぞ祀り︑或は商雌に洲るといふのは︑原始的な信仰のすでに或る程度

に形式化した形態であって︑月令のものはそれが全く隣式となったものである︒詩体流の解探は︑此の後

●仙的形態のものを以て原始的信仰海合理的に論かうとするのである︒健や屏櫻それ︑僻がすでに信仰的︑

仰説的存在である︒その出生を尤もらしく説き得たとした所で︑我堂は到旋それ孝史資として受取ること

1

(20)

一一

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︲ずが一鉤丙恒﹈一一一一詳謬評か熱中鈩犀

s漁錦安泰窯謝謝ゆ八5歳一岬隠・鶚 却一側針誉削一︑画一里鷲宮・・﹄言訓舛 川二﹂一︶炉岩で・・ゴ齢蝋︑〆ぅ蕊鰭了 冷ぐゞ.令詞八→潅料再騨一ぃ龍︹蕊丙s

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治芭﹂一匡写丙圖寺一s丙 ・詞丙ノ三弐秘蝋Iq誌三ぐづ

(21)

三代慨表老一五六

なほ間紀では母斐鰄溌右祁氏の女なり皇一両ってゐるが︑之は美郷を審吻妃となす場合に一一百はねばならなく

なることで︑都の地にあってはその必要がない︒瀞に之を一言はないのは鰈艸然であるっ又︑書によれば︑粟

は黎雌の机を救ふ爲に后稜を命ぜられてゐろのであるが︑詩に於けぁ垳稜は生れながらの后桜であって隙

穫い椛化であ〃︑淡竹としての性庇は少しも有ってゐない︒同様の棚察はおそらく契に對しても下される

と忠ふのであるが︑詩には契について︑たF玄鳥によって生れたことだけしかのせてゐないので.か上る

比較をなすことが川來底い︒価し契は一沁來巾陳の川身であるから︑比較が出来たとしても︐西方の后椴に

ついて見たような矛肝は無かったであらう︒

土向に於ける右の洲匝開係は︑帝梁に於ては遂に血縁鮒係によってつながれ︑后稜︑契︑尭らは北︿に帝審

の子として兄弟となり︑これらと淑瑛の孫となった瓜とはふた従兄弟の開係におかれるに至った︒舜は何

どく細預山子孫とせられたが︑前歎宥らに比べると一人とび離れて川代も後となってゐる︒それだけに他

の四帝に比して帝舜にはその系誹に異体が残ってゐる︒

右の人些を親戚關係におく訓は自ら極共の矛所撤茄を惹起すことになった︒例へぱ尭は己れの業絃を穂

ぐぺき人物ぞ探し求めてゐながら︑己れの兄に契︑后桜の如き傑物ある老知らず︑尭の諸匝亦之を知らす

にゐるといふようなことになる︒叉若し后桜か果して帝審2凡妃の子であるならば︑帝譽は百五歳で脱じ

たといふから︑その時后桜は少くとも五十歳にはなつてゐやう︒その後審を剛いで立った蕊の在位が九年

次の尭の百歳を経て舜の祉となった時は︑稜は百六十戯となってゐる筈である︒契は帝譽の次妃の子であ

(22)

■■■■■■■■■■︑︐1VlllIIIIbIIIIIlllllⅡ︑1●lI11l

ろといふが︑やはh此の昨百五十筬位にはなってゐろ勘定になる︒果して此の理があらうや︒害には戦っ

て居らず︐帝繋にも亦一三mはない所であるが︑左徳には瓶瑛の才子八人即ち八僻︑帝塞自の才子八人即ち八元

のあること矛記してをり︑史記の五帝本紀︵腱舜の條︶亦おそらくは之に擦って八慨八旭︑事雍の季へてゐ

ろ︒この十六族の暇命は壯空化︿の美少ぞ満し︑その名牟峨さかして赤心に至ったが︑雍心之葬恥け川斗︽わこと能は

ず︑舜に至って之を川ひたといふのであるが︑八一肥が馨り子であるとすればま︽︲↓禿の兄弟であることにな

り︑纈預の子なる八慨は從父であることになる︒然らばやはり叩L弟や伯父に劣姓の才物ぁるを知らなかっ

た︑或は謡川し得なかったといふことになる︒聰明な︽具廻としては似つかはしくない︒Rつ細須︑帝審の

子として仙堂其の美を満してに尭奉ったといふ八慨︑八元が︑やはh帝騨の千なる尭と兄弟である如きは

撤治の最も甚しきものである︒班記に於けるが朧な矛応撤飛の卿ぞ指摘したものは心くないが︑五帝の條

に開しては梁張繩の史記志疑巻一︑岬帷述の府唯蒋信録などはその代表的なものであらう︑がもとノ︑血縁

關係は後仙になって︵|けたのであるから︑猫がすぐれ↑卜兇弟や叔父なFか小しも知らなかったといふよう

なことは︑少しも不凧瀧ではないのである︒

︵四︶

次に侭︑契︑后桜らわ夫迂索誹に從って少しく下つふ上所から願みて見上う︒岡は一帆の剣士欺抽といふと とになってゐるが︑それは股湯︑洲武らとは﹄よぼ必﹂迷った一M場にある︒川ち後背の史筏性は殆んど疑ふ今へ からざるもりであるに對し︑閃は仰説的派剛蓉邪の巾に仏主れてをh︑同じく仲縦的仔在たる唖へや啼桜以上

三代朏表考一五七

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(23)

111

奥本紀の岡山條には︑韮口の縄文︑益桜︐皐陶砿等によった施大な記覗があるが︑二仙呼以下には殆んど

記事無く︑性かに廿垂画による僻の記事と︑左傅による孔甲失龍の記事があるのみである︒何しろ夏に鮒す

る眞の文献は齢んど無く︑考古蕊上から提供される材料も轟く無いので︑深く考察を進めることは不可能

である︒

三代慨表老一五八

ではないのである︒股にも川にも先・公といふものがあ︾o︒即ち股にありては成湯以前契に至る部分︑脚に

ありては武王以前脈桜に至るまで山肌先である︐尤も此允公の部分には史庇的に粘だ疑はしいものを含む

のであるが︑とも角股楜には↓てれがある︒少くとも一朝州創群として此の先公を右するのは鱗然のことで

なければならない︒然るに両を以て鋪一価とする夏朝には此の先公と柵すべをものがないのである︒前拙

剛諦稗諦及び幟記祭法には夏脈氏の祭主として黄帝︐俶瑛︐媒︑岡をあけてゐるが︑此の四人は帝繋にあ

けられてゐる夏の系誹の殆んど凡てなのである︒而かと茄帝︑細瑛は五帝のメム︾ハーであって後仙の附加

にかLり︑間より夏に川有の先・公ではない︒すると岡の父としての解があるだけとなる︵鰊は群に川づ︶

が︑此の解は器量人縄の父としては似つかはしくない︒秤詔及が祭法に之を夏后氏の郊祭の主としてあけ

てゐるのは︑夏の光公に全く人が無いから巳むなく畢け犬ものであらう︒開剛第一柵の帝王が傳碗的歩悶

氣に包まれてゐるといふとと︑及びそれが全く光公を右たないといふとと︑此の二軸から私は裏朝節一価

としての両の史衝性李怨疑ふものである︒若︲し契や后桜を創朝の弟一世とすれば︐丁度右の二つの疑軸為共 へることになるであらう︒

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(24)

111

■■■■■■■fIh10iIh咄■Ⅱ7日111

︵誰︶此の記事も塁子川・魁禰︑弛苑政理締には喝の仁と隠して博へてゐる︒

里木と股禾との聯仲が不思遜な狸蝿似してゐるcとは竹北肌紀年について見られるであらうc里災考崇に對す

る一のヒントを提慨するものである︒

舜より司徒を命ぜられた拠︑雁桜を命ぜられた棄が夏縄に事へたか否かは箸には明かでないが︑夏本紀

によれば︑舜の崩後天下の諦侠皆舜の子商均を去って孤匡朝し︑閃こ上に天子の位に叩いて南而して天下

を朝せしむとあり︑益︑皐陶らも川ひられてゐろによってみれば・契︑澱若しくはその後もやはり瓜に確

事したものと見なければなるまい︒然るに股本紀によるに︑契の次の照明より成湯の前の主癸に至る十三

仙︵即ち股光公︶の間は夏との棚に何ら交渉めろを見ず︒た凹その仙系があけられてゐるのみである︒而

して湯に至って夏桀と對抗關係に於て相見えることになってゐるのである︒

︵誌︶但し竹排糾年には更の部げに商侯又は股侯の名が數腰現はれてゐるOそして叉王州維氏の研究によって︑史

記所赦の股先公は大部分卜融叩に存旅することが川かにされた︒︵股光公先王琴︶所が王氏の研究の桔騨によ

ってみると︑卜雛に見える股尤公は刈って麓在したものではないことを蹄示してゐるのである︒股先公の性

庇については別に考兼すべきであるがと﹂に緋脱するを得ない︒竹諜の古い所はた・噌仰碗を年昨にはめ込ん

だ﹄けのものであるO

叉脚本紀についてみると︑爪桜の子不常が失育して戎狄の間に群つ・たので︐とkに川は夏ルー絶縁するこ

とLなり︑その後脚ぞ処てた股棚との肌にも何ら交渉あるを見ず︑股水閥仙伽起︾のに班んでこLに史めて

股紺との抗↓争關係に於て州對すらことLなるのである︒脈縦よ〃文王に至るまでには夏股か.合して一千年

に近い年独が経ってゐる︒年澱の差はあるが︑股の夏に對する關係と︑川の豆股に糾する鮒係との機相は

一五九

三代祉諜考

9

1

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(25)

二一代枇斐巷一六○

全く同一である︒

秦のことは帝繋に川て居らず︐從って三代価表にも救ってゐないが︑業本紀についてみる上その帆以来

の事怖が亦股川のそれと極めて類似してゐることを知る︑即ち・︽︽測柄鶏は契︑機らと北へに舜両に事へてゐ

ろが︑その後壇脱ぞ通じて川初に至る川端んど記事がなく︑た噌系祁叩があるのみである︒否その中川に股

の湯に事へた礎昌︑雌ぴ太戊に事へた中術といふ群のことが出てをつて︑股川の方の光公が時の王朝と何

ら交渉無きに比して︑その系加川の一処睡らしさ幸や禰△ものL如くであるが︑然し一千年の長年月の間にたっ

た一二のさやうな事峨が如何にして体はh得たか︑却つ了疑はしい︒否所舛の如何よりも︑その交渉の仕

方が疑問である︒西糀の地に州よりも典に後に起った楽人が︑刷初以前五百年︵斐凰の場︿︑︶︑若しくは

四百年︵中術山場今川︶の唖︑すでに中脈の地に於て股に事へてゐたといふことは︑餘程有力な論述でも示

されない限りは到底信じられないのである︒

︵注︺緬鰐は碓岫に於ける州徒今これについては稗挿町論があるが︑同一人とみる方が有・刀である︒

以上の考察から推定されることは︑二一代雌ぴ案の川だけを將遡上せしめて五帝上緒合してゐるといふこ

とである⑨その爲に︑速い始肌のことだけが祥細に記述されてゐながら︑その後は夫袋の剛辛超丈喋剛に

至るまで殆んど或は全く奉隙に礎されてを〃︑たぜ系諏町があるのみといふととになったのである︒所が

その系誹も始帆今ぞ速く遡上せしめた鯨に︑先公の部分が維だ稀沌とならざる浄得ない︒

夏の刺帆若禺は画接五帝につながってゐるから先公溌もたず︑從ってと上には先公稀苅の事怖もない︒

II

(26)

股の先公については先きの注に少しく一言及したが︑その史狂性は疑はしいとしても︑迩朝川百餘年をぼ瞥 埋むるに足るだけの先・公数はある︒豆朝に直につ噂く股としてはさAありぬぺしとも︑心はれや弓が︑然し

へ誰︶1その先公の部分に叩︑乙︑丙︑丁︑壬︑癸といふような十千の順序さながらの名の薪が紬き︑これにふさ

︵縦︺2はしくその系譜も全部面系相絨となってゐるのはどういふわけ病︾あるか︒惟ふに先公稀苅性の股朝澗特な

現れに外らないのである︒

︵誰︶L史氾三代枇表に於ける股の先分機︑柵丁︑報プ︺︑辨丙が礎は上申︑招乙︑報丙︑辨丁であることは王呵純氏

の研兜によって立通せられた︒

︵註︶当股が牌湯川袴児輔柵鞭を以イ幡州とすることは唱早阿知のととであるが︑光公畔蝿の而宰へ細郷州から︑成湯

に至ってとの社命制腱を念鰹したとは考へ難い︒

川の先公は股〃それより更に稀苅で疑川を仇瓶する︒後代の王柳になる瀧ての始肌孝遠く遡上せしめた

ことになるのであるから︑さうなるのは榊然の叩である︒股の光公は十川代といふ事になってゐるが︑一

代三十年とみて四百二十年である︒︵此の年数は標準年表による夏朝の年敬川百二千九年にほ噌該餅する︶︒

︵註︶

所が川の先︾公は此の四百二十年に虹に股朝の五百十年を川へた九一M三千年に一口蒼洲のものなのである︒西

方戎狄の地に起った川に︐后稜以來の優年川の間の光公が仰へられたといふことは一寸老へられまい︒亜

なるかな︑周本紀及び三代価表の示す川によれば︑屑挫よh武王に至るまでに伽に十六代しかないのであ

る︒尤も史記の川先公には多少の誤脱があるらしいのであるが︑探り得る限りの餐料で此の誤脱を埋めて

もなほ︐到底后桜以来一千年に近い年川を光すことは川来ない︒川米ないのが此の場介は至岱であって︑

三代世表考王全

1

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(27)

諏市l昌意︲︲凱玖○I女心l大業1大輩︲

へ札騎︶

三代惟表考一六二

若し幾多光公の名前が川て来たとしたら︑却ってそれは慌しいものでなければならぬ︒

︵註︶湯より紬に至るまでは三十肚であるが︑兄郎州縦が行はれてゐるのでゼネレーションとしては十七といふと

とになる︒五百十年は一代三十年として十七代問の年敷である︒醗准年表では般朝の年歎六百四十四年とな

ってゐるが此の計筑では一代三十八年となり︑少し長錨ざる︒孟子に﹁由湯王於女王五百布余歳﹂とあるを

以て輿に近しとなすべきであらう︒

所か川の光公数の少いことを談なりとして指抽した椛威ある先僻の碗が少くないのである︒︵例へば洪

迩の容齋随筆︑徐位山の竹諜紀年統錐.梁玉細の史記志疑等︶みな共亦談突とか︑其誰信之とか︐史記所

記帝王仙次娘鰯不可悲信とか︑その不合迦にしてあり得べからざるものなることを指摘論誌するのである

が︑前述氷のように寧ろ少いのが至制であるとすれば︑その誤脱を論かろのは無意味であらう︒なぜ少い

ととにならぬぱならなかったかを考究するに如くはない︒

妓後の孟辮は川の二祇成王に事へてをり︑女防以下は漆室山宗流をなすものであって︑秦記はこのあた 先公の鈴談︐稀薄性は案に至って更に註しい・今案本紀に従ってその系譜を表示すると次の如くである︒

(1 )

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︲諮木︲OIO︲○︲蜜昌思峅繩 IIi11

鋤一叩い〃9r軒m−U

大(2) C(:') C(4) C(n)

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I1 (6) Wi(6)

C(7) C(8) C(9) ri'(1o) 乱(11 瑚(12)

1

(28)

凸﹃

りから周室のそれと北︿にぼ図正確となって来る︒所がこのあたりまで來ろまでの欣態についてみるに︑始測桁騎︵大喪︶から鯉へて鰯六代に常ろ独昌は︑股王第一仙湯に事へてその御となってゐるのに對し︑同じく錐六代の中術は吸王九仙︵節五代に淵ゐ︶太戊の御となってゐるのである︒その後中術の子孫は仙廷股剛を佐けたとあるが︑その中竹から鯉へて六代目の荻脈︑七代目の悪來の父子は︑中術に事へた太戊から数へてこ士一世︵土一両目︶に徴ろ股約に事へてゐろのである︒更に別の側からみると︑成湯に事へた災

昌から対に事へた悪來に至るまでは七代であるのに對し︑成湯から耐に至るまでは十七代となってゐる︒

中桁から悪來に至るまでは同じく七代であるが︑中術の蕊へた太戊から數ふるも紺に至るまではなほ十三

代あるのである︒更に系譜全臘の上から兇るに︑始皿栢溺は纈鋲の玄孫に當り︑輩帝より必へて五代に常

ろ契︑后稜らより二代後れてゐるだけであるが︑その栢騎より悪來に至るまでは僅か土一代であるのに對

し︑股の方についてみると契より般討に至るまでは淀に三十一代︵帝王だけについてみるも十七代︶ある

のである︒卜僻の研究によって股帝王の世系の碓賛なることが明かとなった今日では︑股系譜と秦先公の

それとの右の如き釧鯆は︑凡て秦の側に誤ありと言はなければならない︒

間皿后稜の子不宙が失官して戎狄の地に舞ったといふ記述は︑彼が中央にあって稜官に就いてゐたとい

ふ事を指定するものL如くであるが︑これは后桜が封ぜられて西僻部の地に居ったことL披等する︒その

戎狄の地に稗れりといふは︑后稜が部に封ぜられた件と共に︑川の先が一九來西戎の地に超れるものなるこ

とを語るに落ちたものである︒︑股池契はもとノ︑中原の地に人となったものであるが︑か様に全然その發

表考

'1

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一一︿一二

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(29)

三代世表老一六四

朧地を異にし諏族を異にするものが?帝繋に於ては等しく帝悪ら子として兄弟の關係におかれてゐる︒こ

の關係をつける爲に︑右部氏差蛎は間初以前一千数百年の餌︑遥糞西戎の地から帝悪品妃として嫁したと

︵註︶とにせられてゐるのである︒有域氏簡狄が馨の妃とせられるには︑地理的には大した不都合はなかったよ

うである︒

︵批︶有姓氏については股本紀正義に円く︑雛記云︑雛敗於有侭之聯︑有峨常在蒜州︒即ち蒲姑商奄と稲される股

商の故地なり︒

結語

以上夏股周三代腿ぴ案の肌を五帝に結合するに當って︑直接尭舜から系統を引くように關係つけること

は︑常時すでに作在してゐた尚齊の手前川來なかったであらう︒そこで系謡上の作爲的附加はすべて帝審

と伽瑛との上に集った︒此の鞆は前拙帝梁の州表についてみれば明かであらう︒帝梁には川てゐないが︑

剛預.帝騨にそれノー八才子のある戸一とが古仲に川で︑案記によって秦川が椒瑛に附加されたことは前述

の通りである︒細預にはなぼ楚を始め多くの折氏族が結合せられてゐるが︑その川が契櫻桁溺らと同じ様

に惟しく遡上せしめられてゐることは次の一例によっても窺はれやう︒即ち邪公鉦鐘の銘文に﹁雌蕊之孫

邪公鉦﹂とあり︑この陸鍾なるものが猛は陸経ならんといふととが王閏維氏︵槻堂集林巻十八︑祁公鐡峨︶

及び郭沫若氏︵金文推考﹁金文所無老﹂︶にょヨ︐︸發表されたが︑今此の陸絡なるものを帝紫によってみる

と黄帝六代の孫に常つてをり︑帝発や夏閃より一代後れてゐるに止まる︒即ち夏股以前の人間といふとと

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参照

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