Title バイオエシックスにおける公共政策の視座の必要性 : ELSI プロジェクトの展開から( 本文(Fulltext) )
Author(s) 谷口, 泰弘
Citation [岐阜大学医学部紀要 = Acta scholae medicinalis universitatis in Gifu] vol.[56] no.[1] p.[9]-[15]
Issue Date 2010-03
Rights
Version 岐阜大学医学系研究科医学系倫理・社会医学分野
(Department of Biomedical Ethics and Social Medicine, Gifu University Graduate School of Medicine)
URL http://hdl.handle.net/20.500.12099/31585
※この資料の著作権は、各資料の著者・学協会・出版社等に帰属します。
バイオエシックスにおける公共政策の視座の必要性
―ELSI プロジェクトの展開から―
谷口 泰弘
岐阜大学大学院医学系研究科医学系倫理・社会医学分野
(主任 塚田敬義教授)
The Necessity for a Public Policy Viewpoint in Bioethics
―Reviewing the ELSI Project―
Yasuhiro TANIGUCHI
(Director: Prof. Y. TSUKATA)
Bioethics has been dealing with issues directly facing the patient/victim, while displaying a logic that is simple and easy to understand even by general society that supports the personal decisions of independent individuals. For this reason, clear answers were manifested based on personal decisions concerning the issues. That is embodied in the legal principle of informed consent. However, although that logic has found an effective solution in the medical en- vironment referred to with two names like that of the doctor-patient relationship, in spheres of advanced medical re- search that views the human body, such as human genome/gene analysis studies as fields of natural science, new un- studied problems like how to treat human genetic information have arisen.
General society tends to insist on a moratorium based on the ambiguous thing known as formation of social con- sensus. If so, this will inevitably give rise to a situation where the activities of researchers involved in medicine/life science are restricted. The traditional assertion in morals and philosophy that ethics originate in the inner soul of hu- man beings ought to be affirmed, yet relying on that alone can not solve the various questions concerning bioethics.
Consideration from a viewpoint that includes life sciences and bioethics, discussed as interdisciplinary fields, has be- come necessary for solving concrete problems. This paper focuses on bioethics issues surrounding human genome/
genetic research, which we have experienced since the end of the twentieth century. It also looks back on the public policy part of bioethics, which had been an insufficient element at the time of debates concerning advanced medical re- search in Japan. Moreover, while paying attention to approaches to the discussions and various issues in the ELSI Pro- ject, developed in the United States, and in particular reviewing the technology assessment perspective, the paper dis- cusses the perspectives to be demanded in the future.
Acta Sch Med Univ Gifu : ― ( ) Key words:bioeshics, public policy
.緒 言
技術の進歩には表裏の側面がある。ヒトゲノム・遺伝 子解析研究などの遺伝子を用いた研究の顕著な進歩に よって,遺伝子検査や遺伝子診断の臨床医療への応用,
また創薬などの遺伝子を扱ったビジネスチャンスの創出 などの恩恵がもたらされた。一方で,婚姻や就職や保険 加入などといった,新技術がもたらした遺伝子の利用に 起因する社会的差別などの負の側面も明らかになっ た)。これら遺伝子をめぐる技術は医療と切り離すこと 年 月 日受理
岐阜大医紀 ; ― ( ) は難しく,先端医療に応用されるといった技術の潮流の
側面を有する。しかし,遺伝子技術の進歩は,もはやヒ トを対象とする医学研究の被験者の人権保護という主要 原則だけでは倫理的問題を解決することが困難な状況を もたらした。自己の生命や身体について如何に処するか という自己判断が可能であった次元を超え,人体そのも のを「自然」という研究フィールドの中で扱うことが問 われるようになってきた。バイオエシックス(生命倫理)
の領域で頻繁に取り上げられる脳死・臓器移植における 実質臓器や人体組織の提供および移植の問題や,生殖補 助医療を受けるか否かの判断は,一括りに言及すること は適当ではないが,概ねその関係構造は臨床医療におい て新たに開発された技術の利用に関する医療者と患者と の関係の構図に収まる。当事者間で意思決定をどのよう に実践するかという範疇にあたる。しかし,ヒトゲノム や遺伝子という「新たなモノ(研究対象)」の存在は,
それ自体の利用価値が注目され,個人の権利が及ぶ範囲 と切り離して議論されるようになってきた。当然,研究 のために提供された試料等については原則として患者や 被験者の同意を得る必要があるが,研究で得られた科学 的知見をどう扱い,どう管理するのかなどは科学者コ ミュニティだけでは決められない。個人にかかるリスク
(危険)と,社会全体が得るベネフィット(利益)を熟 考しながら利害を相互調整するシステムを構築する必要 性が生じた。単純化した自由を尊ぶ個々人と保護する国 家という体制論だけで語り尽くすことは不完全であり,
社会的営為としてのライフサイエンスの振興とその技術 の利用を生命の尊重の概念を織り交ぜて総合的に思考す ることが肝要である)。
そこで本論は,バイオエシックスで論じられる公共政 策としての側面について論じることとする。ヒトゲノ ム・遺伝子解析研究をめぐる ELSI プログラムの発展の 過程とそこで行われた議論と葛藤をレビューし,唯一の 黄金律とも言うべき規制の手法であり様式であるイン フォームド・コンセントの役割とその限界について指摘 する。さらに,バイオエシックスを公共政策の立場から 俯瞰し,社会基盤の脆弱性を補完する方法を考える上で の概念提示をすることを目的に以下に論を展開する。
.ヒトゲノム計画がもたらした公共政策の側 面と倫理的問題
― ELSI プログラムの取り組み
ヒトゲノムに関する研究は,米国エネルギー省(DOE)
や米国立衛生研究所(NIH)などの各機関でそれぞれ行 われていたが,人(ヒト)のゲノム情報を全て網羅的に 解読するというヒトゲノム計画は, 年 月の米国エ ネルギー省と米国立衛生研究所の共同研究計画の成立か ら始まった。この壮大なプロトコルによって研究計画全 体を通じて,人の尊厳を冒すのではないかと不安視する 意見が科学者からも多く挙げられた。米国連邦議会は科 学政策における意思決定を主導的に行い,研究遂行に要
する全予算の額の %から %を生命に関する倫理的問 題等の検討に充当するという方針が示されて承認され た)。これが生命倫理に関するプログラム ELSI(ethical,
legal,social and issues;倫理的・法的・社会的問題)の 登場である)。
ELSI プログラムは,大規模科学研究プログラムの中 の研究予算の一部を研究の実践から生じる倫理的・法 的・社会的問題の検討に割き,研究に内在する生命倫理 上の問題を捉えて情報提供し,対策を練ることで研究を コントロールする仕組みを確立させるというものであっ た。遺伝子組換技術の発明による科学者間の自主規制に よって進展したアシロマ会議から始まる生物多様性条約
(バイオセーフティに関するカルタヘナ議定書)のよう な事例も存在するが),ELSI プロジェクトは,科学者コ ミュニティが生命倫理問題に関心を示し,各自の研究推 進のための形式的な働きかけだけに留まらず,科学研究 がもたらすリスクとベネフィットを社会に情報開示する という前例のない国家的プロジェクトであり公共政策の 要素を過分に有していた。これは,道徳観や倫理観は社 会の構成員ひとりひとりの内面に持つものという伝統的 な思考と一線を画し,科学者および社会一般が危機感を 共有するというひとつの問題共有型のモデルを提示する 画期的な事業であったといえる。
ヒトゲノムプロジェクトを共同で管理運営する米国エ ネルギー省と米国立衛生研究所は研究遂行のための生命 倫理問題の評価機能として ELSI 評価委員会を設置した
( 年)。当該委員会では,検討を重ねて「ELSI 研究 の評価分析」という形で最終報告書をまとめている(
年)。その最終報告書は,助成すべき研究の中身につい て つの方向性を示している)。①遺伝研究についての 倫理問題と新優生学,②個人情報の保護と遺伝に関する 情報の分析と利用,③基礎研究と臨床医療との統合,④ 社会一般への啓発と専門家の教育などを収載している。
非常に世論を意識した検討項目であるが具体的で分かり 易いものであった。研究推進のための手続き論に過ぎな いという強い批判もあるが現実的な課題を整理するのに 役立ったと評価できる。
― ELSI プログラムで先鋭化した倫理的問題 前段で ELSI 研究の中で助成すべきとした評価委員会 報告書の主要項目を示したが,その中でもヒトゲノム・
遺伝子をめぐる科学研究が行われることにより先鋭化し た倫理的問題は大別して具体的に次のようなものであっ たとバイオエシックスの諸家は指摘して い る(米 本 ら)),)。①ヒトゲノムに関する道徳哲学領域の学問のア プローチの在り方の問題。②ヒトゲノムという単語がも たらす先鋭化された危機感。③ヒトゲノム研究がもたら したパラダイム変化に伴う課題への対応。④ヒトゲノム と南北問題との関係。⑤遺伝研究に伴って起きた新優生 学に付随する問題。⑥遺伝的差別に係る具体的課題など 多岐にわたる。
個々に述べると,確かにヒトゲノム・遺伝子解析研究
の進歩は,ゲノム配列情報のデータベースにアクセスし,
網羅的に遺伝子解析を進めることで,その遺伝型(塩基 配列等を示すもの)から表現型(遺伝的身体症状)に帰 着しようとする新しい発想の研究アプローチである)。 仮説上の遺伝型にたどり着くために身体症状が示す情報 をもとに遺伝子の探索研究を行い,変異した遺伝子を収 集して交配を繰り返しながら原因遺伝子を染色体上に示 す作業を行う従来の表現型の研究からすれば全く逆の発 想のアプローチといえる。この着想の転換は,バイオエ シックスの視点をも変容させることになった。表現型の 患者の身体的症状からの取り組みは,医師・患者関係(
対 (家族含む))の枠内に収まり,インフォームド・
コンセントの原則を用いた協調路線での対応が可能であ る。しかし,ヒトゲノム・遺伝子解析研究を実践するこ とから生じた遺伝型探索のアプローチは,研究から得ら れる情報の集積可能性とこれらの応用による有用性の広 がりから,人類のための資源とも言うべきヒトゲノム・
遺伝子の存在をどのように扱うべきかという道徳哲学領 域での議論を引き起こす契機となった。
さらに,ヒトゲノムの全部解読は相当なインパクトを 与えるものであった。「ヒトゲノム」という単語の存在 に親しみのなかった世論に対して,可視化できない漠然 とした危機感を煽るイメージを植えつけることになっ た。人という種(個体)の中のヒトゲノムという内なる 自然をサイエンスの対象に取り入れることへの価値判断 について一般社会が検討する準備が出来ていなかった。
ヒトゲノム・遺伝子解析研究によるパラダイムチェンジ は,がんや糖尿病などの誰もが罹患する可能性のある疾 病にも遺伝子が関係し,生活習慣などの環境要因と強く 結びつくという知識の蓄積をもたらした )。大規模集団 のヒトゲノム配列を解読して電子化された大量の医療情 報とリンクさせ,生活情報,医療情報およびゲノム情報 が関連づけられた。社会の受け入れ準備が整っていない 中で,遺伝研究と通常診療とが急速に接近したが,一般 社会と科学者との間に情報の非対称性の大きさが顕在化 した。
また,ヒトゲノム・遺伝子解析研究がもたらす南北問 題も無視できない。研究において遺伝的に均質かつ特徴 的である集団を対象とすることは効率面で優れている。
発展途上にある国や地域では未だ文明社会とは人的交流 を隔てて生活し,集団内の風土病ともいうべき病に悩ま されている集団もある。遺伝研究する側から鑑みて対象 となる集団は魅力的に映る。しかし,これらの集団に属 する個々人に同意を得るには,識字の問題がネックとな り,我々が利用するインフォームド・コンセント,試料 等の採取,権利の所在問題など行為規範として積み上げ てきた原理原則が当てはまらない状況が存する。また,
研究の結実が試料等の提供者には経済格差や社会的シス テムの差異から先進諸国に滞留し,途上にある国と地域 には恩恵が行き渡らないという現実もあることを見逃し てはならない。
さらに,過去のトラウマとも言うべき歴史的事実の反 省と検証も指摘される。現在のヒトゲノム・遺伝子解析 研究がもたらす問題と常に照らし合わせながら検討する 必要がある。周知のとおり,ナチスドイツの優生思想に 基づく政治に医学が利用された負の歴史がある )。しか し,開発されたヒトゲノム・遺伝子解析などのライフサ イエンス技術が,ナチスドイツが採った安楽死政策のよ うな人を選別するのに使われる可能性があるという側面 ばかりを強調し,吟味もせず危険性を指摘することが社 会的善だと言い切ってしまうことには論理的に無理があ る。確かに着床前診断や出生前診断などは命の選別を行 うという側面も有するが,それらの主張は技術の持つ正 の効果を全く顧慮していないことになる。果たして,ラ イフサイエンスの進歩によって人類は決まって不幸な方 向に進むのであろうか。アーサー・カプランが「ナチ・
アナロジーの濫用」というタイトルで論文を発表し,ナ チスドイツの医学に係る負の歴史的出来事と現在行われ ようとしていることを無批判で重ね合わせることによっ て危機感を煽っているとしてその害悪を指摘しているよ うに ),ただ,史実の反省を以って倫理的な行為規範と して読み解くことは極めて短絡的であり,問題の本質や 将来の有用性までも覆い隠してしまう可能性をつくるこ とになる。たしかに,具体的に遺伝情報がもたらす差別 には雇用,婚姻,保険の加入など,生活に深く密着する 問題を含むが,極端な単純化による問題の指摘は社会共 通の利益を損なうということを忘却してはならない。
.ヒトゲノム・遺伝子解析をめぐる葛藤―日 本での議論
上述した米国の ELSI プロジェクトでは,遺伝情報の 特殊性に早くから着目し,アカデミックな場を超えて政 府系の助成の予算を割いて倫理的問題を論じるというプ ロセスを経てきた。
しかし,本邦では先ず規制の枠組みを早期に整備しな ければならないという制度構築を急ぐ意見が多勢を占め たことが影響して,遺伝情報のもつ特殊性に関する倫理 的問題を本邦内で精緻に議論するという論調が高まらな かった )。政策の成果としては,本邦では遺伝子に関す る行政指針が 年 月に厚生労働省,文部科学省,経 済産業省,三省合同による「ヒトゲノム・遺伝子解析研 究に関する倫理指針」(三省指針)が策定された )。こ れは, 年策定されたユネスコの「ヒトゲノムと人権 に関する世界宣言」,その影響を受けて旧厚生省が策定 した「遺伝子解析研究に付随する倫理問題等に対応する ための指針」( 年 月),さらに, 年の「ヒトゲ ノム研究の基本原則」(科学技術会議 年 月)の内 容を包括的に構成し策定された。指針の作成作業は研究 を先ず進めるための規制づくりという側面が強く,研究 の体制論が強調されすぎたとの批判がある )。所謂,遺 伝情報に関する研究実施のための手続きについては,相 当程度議論は尽くされたが,遺伝情報の本質的な議論や
岐阜大医紀 ; ― ( ) 法政策に関する方向性については十分に議論されなかっ
たという指摘である。手続きの在り様に終始したという 国内批判がある中で,国際的には 年 月にヒトゲノ ムの完全解読が完結し,主要国首脳らの完了の宣言がな された。半年後にはユネスコ(UNESCO)の総会で「ヒ ト遺伝情報に関する国際宣言」が採択されている。その 前文に注目すると,ヒト遺伝情報を,医療情報全般の一 部であり,遺伝情報及びプロテオーム情報を含めたすべ ての医療情報の内容は,前後関係及び特定の状況に大き く依存するものであることを認識すると述べている )。 具体的にはヒト遺伝情報の性質について次のように挙げ ている。①ヒト遺伝情報は,個人に関して遺伝的疾病体 質を予見することが可能であり,その予見性は,情報を 引き出した時点の評価よりも大きくなりえる。②世代を 超えて子孫を含む家族に対して,事例によっては集団全 体に対して重大な影響を及ぼす。③生体試料収集の際に はその意味が必ずしも知られていない情報を含むかもし れない。④個人及び集団に対する文化的意義を持ち得る と定義した。また,ヒト遺伝情報がその機微な本質によ り,特別な地位を持つことも認識して,その扱いの在り 方に関しても次のように言及している。
①遺伝情報を含む全ての医療情報について,その題目 上の内容によらず,機密性を持って取り扱うべきことを 強調されるべきである。②ヒト遺伝情報の経済的及び商 業的重要性が増していることに注目すべきである。③ヒ ト遺伝学の分野において発展途上国には特有の必要性及 び脆弱性があること,並びに国際協調を強化する必要性 があることを考慮すべきである。④ヒト遺伝情報の収集,
処理,利用及び保管は,生命科学と医学の進歩及びそれ らの応用,並びに非医学的目的のための利用にとって非 常に重要であることを考慮すべきである。⑤収集される 個人情報の量が増加していくことによって,真の連結不 可能匿名化がますます困難になることをも考慮すべきで ある。⑥ヒト遺伝情報の収集,処理,利用及び保管は,
人権及び基本的自由の実行と観察,並びに人の尊厳の確 保に対して,潜在的危険性をもつことを承知して行動す べきである。⑦個人の利益並びに福祉が,社会及び研究 の権利並びに利益よりも優先されるべきであるとしてい る。
本邦ではたしかに既存の倫理原則と新しいトピックで あるヒト遺伝情報の収集や利用や保管の在り方との葛藤 に対して,公正,正義,研究の自由,個人の権利,さら に人間の尊厳や思想表現の自由などを精緻に議論しなが らルールを構築していったという背景は薄い。しかし,
主要国の研究の進捗状況や制度設計の進み方を配慮して 指針を整備し,早い時期に研究を行える体制を整えたこ とは評価できる。今後は,指針の作成時に議論されたよ うに,指針の改正が必要とされる場合は速やかに改定す るという姿勢が必要である。そうでなければ,研究を行 うことを命題にしていると批判されたことに対して,真 摯に倫理的問題を研究者,医療者,患者,被験者,一般
社会が整理・議論する場を持ちながら規範をつくってい くという理念が放置されることになり,ますますライフ サイエンスに関するリテラシーの欠如につながる要因に 成り得るからである。
.遺伝情報めぐるインフォームド・コンセン トの限界性
既述したように,ヒト遺伝情報がその機微な本質によ り特別な地位を持つことを認識し,如何に保護するのか という意見が世論を席捲している。国際的な宣言文書で も強調されている。それでは,相応の保護をヒト遺伝情 報に与えるとして,取扱いを実効性のある規制に押し上 げるには,通常の医療情報との関係を明らかにしておく 必要がある。本邦におけるヒトゲノムおよび遺伝子に関 する規制として,「ヒトゲノム・遺伝子解析研究に関す る倫理指針」が存することは述べた。その支柱はイン フォームド・コンセントを得ること,個人情報の保護を 徹底すること,さらには施設内の倫理審査委員会等の承 認を得ることを求めて直面する諸問題について社会に公 正さを示すことで解決を図っている )。現在では,遺伝 情報は当初の遺伝子例外主義の議論とは違い,医療に係 る個人情報のうちのひとつとして考えるのが妥当である とされている )。しかし,第三者とは違う血縁者間で共 有される情報であるという特別な側面を有することは言 うまでもない。それ故に,従来の自律した個人がこれか ら起きることを自分自身で決定する(自己決定)原則と の間で緊張関係を生むことになる。規範倫理が示してき た行為準則だけでは対応が難しく,インフォームド・コ ンセント,個人情報の保護,倫理委員会の承認を拠り所 にして慎重に手続を正当化することが求められる。例え ば,ハンチントン舞踏病のような遺伝病を抱える患者の 血縁者に対する遺伝情報の情報開示の場面が想定される が,他者危害を防ぐための従来の無危害・恩恵の原則と 自己決定の原則とが衝突することになる。しかし,これ らの衝突を調整しなければ一般社会に正義を示すことが できない。現在では単一遺伝病の原因遺伝子の同定のみ ならず,ライフサイエンスが進歩し,疾患の発症に係る 遺伝子の同定・解析と生活習慣などの環境要因を相関さ せた研究や診断・検査・投薬に有効とされる体質の同定 を行う研究など,その有益性は高まっている。因って,
患者,家族,血縁関係という枠組みには収まらなくなっ てきており,そのバリエーションは際限なく広がってい る。つまり,従来のケースコントロール研究などと結び ついた SNP 解析研究などの全ての遺伝子を対象とする 網羅的解析研究が計画され,実施されているところに現 在の研究の特徴がある )。当然のことながら遺伝情報を 扱う研究においては,多数のサンプル等を集めることが 要求される。これらの研究は,自己にもたらされる侵襲 行為と研究方法や研究目的に納得をして同意を与える従 来のヒトを対象とした研究の枠組みとに解離が生じるこ とになる。また,遺伝情報にアクセスするための肉体的
な侵襲は決して大きいわけではなく,比較的小さい。因っ て膨大な遺伝的情報を得て,被験者の健康関連情報と併 せて研究することは,従来の被験者の身体的リスクと研 究によって得られるベネフィットを均衡させて考える問 題と離れて,如何に遺伝情報を包摂した医療情報を保護 し,研究によって得られる成果とのバランスを保ってゆ くかという別の問題を提起することになる(玉井))。
現に,「ヒトゲノム・遺伝子解析研究に関する倫理指 針」では,得られた試料等について,インフォームド・
コンセントの取得の厳格化を求めながら例外的に研究利 用を認める規定を設けている )。指針の試料の取扱いを 規定する箇所では,C 群試料等(試料の提供時に,研究 に利用することの同意が与えられていない試料等)は,
提供者又は代諾者等からヒトゲノム・遺伝子解析研究へ の利用についての同意を受けない限り,原則として,ヒ トゲノム・遺伝子解析研究に利用してはならないとしつ つも,(ア)連結不可能匿名化されていることにより,
提供者に危険や不利益が及ぶおそれがない場合,(イ)
連結可能匿名化されており,かつ,次に掲げる要件の全 てを満たしている場合において,①ヒトゲノム・遺伝子 解析研究により提供者等に危険や不利益が及ぶおそれが 極めて少ないこと。②その試料等を用いたヒトゲノム・
遺伝子解析研究が公衆衛生の向上のために必要がある場 合であること。③他の方法では事実上,ヒトゲノム・遺 伝子解析研究の実施が不可能であること。④ヒトゲノ ム・遺伝子解析研究の実施状況について情報の公開を図 り,併せて提供者又は代諾者等に問い合わせ及び試料等 の研究への利用を拒否する機会を保障するための措置が 講じられていること。⑤提供者又は代諾者等の同意を得 ることが困難であること。そして(ウ)法令に基づく場 合を想定して例外を認めて二次的な利用を可能にしてい る。指針の示す理念と実際の研究の管理運営という実務 との間に隙間が生じている。勿論,既存の試料等を使っ てはいけない,間違っていると言っているのではない。
当初は連結不可能匿名化が主流であったが,経時的に慎 重に指針の改定を行い,連結可能匿名化を安全に行うと いう現在の研究環境に合わせてきた。そこを全く無視し てはいけない。既存の試料等を利用することで新たな知 見をえる機会も多分にあることも事実である。しかし,
インフォームド・コンセントの原則を無視することも出 来ない。またインフォームド・コンセントに過度な期待 を寄せることもできない。したがって,研究をコントロー ルする施設内の倫理委員会に過度な負担が強いられるこ とになる。自己決定の原理を制約するものとして「侵害 の原理」がある )。これは,社会の構成員に危害などが 及ぶ場合に行動が制限され得るという理論である。しか し,ヒトゲノム・遺伝子解析研究などの先端医学研究の 有用性から鑑みて,個別ケースに焦点を当てて侵害の原 理だけをもって説明することは妥当ではない。これまで 医の倫理で構築されてきた倫理規範とイノベーションに よってもたらされる新たな技術との狭間を調整する視点
が重要となる。これに対応するには次に述べる倫理的問 題を含めた技術評価の考え方が参考になる。
.科学技術の評価とバイオエシックスとの接 近性
米国では,科学技術に関して技術評価の概念を逸早く 取り入れ,環境政策や国際的なパワーポリティックスに 積極的に反映させてきた )。また,医療や医学研究の領 域においても他の技術と比して未整備であったものの技 術評価の必要性が主張されて保健医療政策に反映させて きた。このアセスメントの方式が導入された社会背景に は,患者の権利運動の推進によって全人的な医療の必要 性について議論された時期であり,医療の質,つまり有 効性と危険性を評価し,社会がそれを判断する材料を得 ることによってなされる行為が受け入れられるものか否 かを決定するという機会が必要であったからである。医 療に結び付くヒトを対象とする研究の倫理的問題につい ても技術評価の要素を内包させたことで,医療保険の収 載に関する施策など,公共政策としての関心が高まり大 きく進歩した。これにより,今までは医師・患者関係に 留まっていたものが,医療の質さらに医学研究の質を考 えるうえで公共政策的な視点を取り込むという認識をつ くり出し,技術評価の地位が確立されていった。まさし く,医学研究および医療の質を評価するという視点にお いては,伝統的なメタ倫理学では対処することが困難な のである。技術評価を行うことの基底には,医学研究や 臨床医療の有効性・安全性や患者・被験者の生命や生活 の質(QOL),さらには社会性や経済性などの多面的な 視点を以って評価されなければならない )。バイオエ シックスも万能ではなく,ひとつの要素であるという認 識が重要である。しかし,社会的合意形成という美しい 便利なことばが頻繁に使用される。倫理的問題の議論の 中で社会的な合意がないことを理由にモラトリアム(猶 予)しなければならないという主張がなされる。しかし ヒトゲノム・遺伝子解析研究などの科学技術の進歩は永 続的に続くものであり,モラトリアムだけを根拠にして 進歩の停滞を招くことは社会にとって損失となる。相容 れない意見があることを前提に,ライフサイエンスを如 何に公にコントロールしていくかという視点が重要にな るが,それには公共選択・空間論からの考え方が参考に なる。
元来,科学技術は社会・市民・公共のものであるとの 認識から,その財政基盤の根拠や社会的有用性の根拠は 広く解釈され,利害関係者間の調整を行いながら民主的 コントロールがなされて統治されることが望ましいとす る主張がある(木原))。ヒトゲノム・遺伝子解析研究 などの先端科学技術を統治するには意思決定はどのよう になされるべきかという問いに,公共選択・空間論では 中心的役割として民主的コントロールの実践,目標設定,
利害関係者の調整,社会的学習の場が主張される。社会 基盤によって異なるが,治水のような日常生活に影響す
岐阜大医紀 ; ― ( ) るが人の種(世代を超える)に影響しない限定的なもの
は,科学技術と社会との接点を統治者・非統治者という 対抗的権力関係に置き,パターナリズムをもって取組む ことができた。しかし,述べてきたヒトゲノム・遺伝子 解析研究などの医学研究をめぐる問題は従来の統治構造 では対処が不可能である。医療情報のひとつの側面とし て述べたが,遺伝情報は種に直接的な影響を及ぼす可能 性を含んでいるからである。利害関係者の多様性から一 般社会でも賛否は分かれるが,世代間の問題は,単純な 統治者対被統治者,加害者対被害者という構図では成立 しない。公共空間において科学技術に関する意思決定の 枠組みをいかに具体的に政策過程に乗せていくのか高い 説明能力も求められる。さらに,社会的意思決定のため の判断材料をどのレベルにまで求めるかが問題となる。
科学的知見による合理性が意思決定要因として支持され ていた時代は正当性を主張できたが,ライフサイエンス のような技術は日々知識が書き換えられる。因って意思 決定には社会的な要素を含まざるを得ない。本邦におけ るバイオエシックスにおける意思決定は,既に患者およ び被験者の自己決定(権)が確立される時期から応用さ れて成熟に向かう段階にあり,次に社会的な意思決定を 行う際の足場となる段階にある。科学と一般社会との関 係は,各々の行動様式や行動規範は理解しつつも,世界 観が交わりにくい。我々が健康または病気の状態を考え る際,社会的な価値観に大きく左右される。医療は科学 に基づくものであるが,社会的行為であるという側面を 十分に理解する必要がある。個のレベルにおいては自己 決定(権)の理念で対応できるが,自己決定(権)で全 てが解決きる訳ではない。個人に全て責任を負わすシス テムから社会の構成集団として意思決定する場をつくる 意識の転換も肝要である )。
.まとめ―ヒトES細胞研究の研究規制の反省 から
年代にヒトゲノムプロジェクトが計画され,実践 を経て全部解読が終わった現在,当初心配されていた「坂 道理論」と称された坂道を転げ落ちるように人の尊厳が 侵害されるという危機的事態は起こっていない。ヒトゲ ノムの解読は,ヒトという自然を研究対象としたが深刻 な倫理的な危機を惹起させるような事態を招くまでには 至らなかった。よってヒトゲノム・遺伝子解析研究の活 動自体を取り止めさせるような強硬な社会運動も起こら なかった。これは,将来的な展望として,ゲノム・遺伝 子研究を進めることが社会の全体の利益につながると社 会一般が理解しているからであろう。西欧諸国において は,ライフサイエンス技術を応用した医療技術はもはや 特別な疾患を捉えた特殊な医療ではなく,臨床医療に確 実に結び付けていくという最終的なエンドポイントを見 据えてルールづくり,つまり法制化・指針の作成を進め ている。最近,発表されたヒト ES 細胞の臨床試験が米 国の FDA で承認されたことに象徴されるように ),開
発された技術に対して利用・共存を図るという姿勢が社 会全体を通じて首尾一貫している。
一方で,本邦の状況は,ガイドラインを厳しくすれば するほど生命倫理に適うという極端な信仰にも似た意見 が尊重されるあまり,ライフサイエンスを推進する意味 を議論し,本質を踏まえたうえでのルールの策定が十分 になされなかった。医学研究や医療行為を総合的に評価 するという視点においては,促進側の心理であれ,抑制 側の心理であれ,心情の衝突に終始するだけでは一面的 すぎる。技術に対する安全性・有効性を検証したうえで 社会が先端科学技術をモニターする方法を開発すること が肝要なのである。そのための道具として社会倫理が求 められる。ライフサイエンスに携わる者は,科学者の中 のコミュニティに帰結するのではなく,ブラックボック スと揶揄される先端科学技術の利点・不利な点を出来る 範囲で開示し,公共的な議論の場に参加し,チェックを 受けることが大切である。そのためには,政策立案側に,
ライフサイエンスを単に技術に留めるのではなく,社会 的共通資本と捉えて実用化につなげるための機会を創出 し,科学者が広義のコミュニティに参加できるような時 間・予算に考慮したプロジェクトを立ち上げて,体制を 整備する必要がある。また別に,社会的規制の有り様を どのように捉え,描き,政策立案していくかという視点 も重要である。本邦のヒト ES 細胞研究の規制では,研 究に参加するグループは倫理的問題について十分に理解 していることが求められ,施設内倫理委員会等の委員会 議録で確認したうえで中央の委員会で審査に付された。
また,動物の細胞を扱う研究設備において同じくヒト ES 細胞を扱うことは人の尊厳を損なうものと解され,区別 して扱うことが指針の運用によってなされてきた(近時,
緩和の方針が示された ))。これらの規制は非科学的で 合理性に欠ける規制であったといる )。現在,本邦で iPS 細胞の作製が世界に先がけて行われ,難病治療への期待 など再生医療の更なる発展可能性に世論は沸いている。
しかし,実情は厳しく国内の過剰規制の過去の記憶から,
今後,他国の後塵を拝する悲観的な意見も出されている。
これまで述べてきたように,ヒトゲノムプロジェクトの 経験を通じて,我々はバイオエシックスの視点も包摂し たライフサイエンス技術を正しく評価する視点を持たな ければならない。唯一の拠り所にしてきた自己決定の原 理原則は万能ではないことを熟知したうえで,技術評価 の視点,得られた知見に対する安全性かつ有効性を検証 する視点,一般社会の道徳的感を調整するための社会倫 理の視点,これらを上手く融合させる必要がある。その ために科学者ならびに一般社会がライフサイエンスを題 材にして公共の場でコミュニケーションが図れる機会を 得ること,つまりサイエンスコミュニケーションの構 築 )が公共政策として重要であると指摘して論を終え る。
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