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パーリ学仏教文化学 (30) - 003清水 洋平「大谷大学所蔵タイ王室寄贈貝葉写本の来歴再考」

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Academic year: 2021

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[論文]

大谷大学所蔵タイ王室寄贈貝葉写本の来歴再考

清 水 洋 平

A New Finding on the History of Otani University

Palmleaf Manuscript Collection Received

from the Royal Family of Thailand

Shimizu, Yohei

Otani University has a rich collection of Pāli palmleaf manuscripts received from the Thai(Siam) royal family more than hundred years before. It is generally known as Otani baiyō. It contains 64 packages of manuscripts mostly written in Khemr script, each package containing more than one bundle of manuscripts. It is the largest collection in Japan in the field of Pāli palmleaf manuscripts.

In the present paper, I would like to introduce briefly the present condition, physical description and the contents of the Otani baiyō to understand its special characteristics. Next, I will highlight on the history of the Otani baiyō such as when, why and how they came to Otani University. Based on such details, finally I will reconsider the history of the Otani baiyō referring to the movement of Japanese scholar monks active during the late 19th century,

particularly of Ikuta Tokunō, a scholar monk of Otani sect of Shin Buddhism. So far it is believed that the Otani baiyō was brought to Japan in 1900 along with the sacred relics of the Buddha (仏舎利奉迎) as a gift from the royal family

of present Thailand. But, in this paper I will explain with some documentary evidences that how the Otani baiyō was brought to Japan as a result of the enthusiastic movement of famous Japanese Buddhist temples, particularly the Higashi Honganji temple.

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1.はじめに

 東南アジアの大陸部で長らく書写され,伝承されてきた貝葉(1)や折本紙(2) による仏典写本は,現在,一部の寺院の経蔵に無雑作に保管されているもの も多く,所在やその内容は不詳のものが多い。また,所蔵環境も良くないこ とから隠滅の危機に瀕している(3)  このような現状のなか,日本に存在するタイ(シャム:暹羅,1939年以 降タイ国)の仏典写本に目を向けてみると,現在,大谷大学をはじめ,大正 大学や龍谷大学,国立民族学博物館や東洋文庫など,その他,複数の研究機 関や寺院等にその所在が確認されている。その中で,最も多くの纏まったタ イの仏典写本を所蔵するのが大谷大学であり,世界に誇れるコレクションで ある。上記のように,これらは現地においても散逸しかけている貴重な文書 遺産である。  大谷大学に所蔵されているタイの仏典写本は,全て貝葉に記された写本で あり,入手経路により大別して2つのグループに分けられる。一つはタイ王 室寄贈とされるもの(いわゆる「大谷貝葉」)と,もう一つは入手経路不明 のものである。  大谷大学にタイ将来の貝葉写本が数多く所蔵されている所以については, 大谷大学図書館編『大谷大学図書館所蔵 貝葉写本目録』大谷大学図書館 (1995年:以下,「大谷目録」)の解説,並びに長崎法潤「大谷大学図書館所 蔵貝葉写本の概要と入手経路」『真宗総合研究所紀要』16号(1997年:以下, 長崎説)に詳しいが,今回はこれらを参照しつつ,19世紀末に活発化した 日本人留学僧の動向を交えて再検討し,来歴に関する新たな情報を提示した い。

2.タイ王室寄贈とされる貝葉写本

 このグループの貝葉写本は,クメール文字(4)写本(59套(5)),ビルマ文字 写本(4套)(6),モン文字(7)写本(1套)からなる。これらは,大谷大学が

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所蔵するタイ将来の貝葉写本コレクションの中心を構成しているものであ り,「大谷貝葉」と言えば,こちらのグループのことを指している。  「大谷貝葉」で使用されている言語は,殆どがパーリ語で書かれている。 但し,クメール文字写本の中にはパーリ語とタイ語が混淆した形式で書かれ たものもある。  「大谷貝葉」の中には,現在までの調査で書写年代が記されているものが 幾つか判明している。現在判明しているものの中で,最も古い書写年代は, Dhammasaṅgaṇī の phūk(束)2の表題に記されている仏暦2189(西暦1646) 年である(8)。その他,仏暦2348(1805)年(9)や仏暦2372(1829)年(10)など の書写年代が見られる。 ⑴ 所蔵形態  「大谷貝葉」は,一套ずつ美麗なインド更紗やシャム更紗に包まれて保管 されてきた(現在は,貝葉写本とそれを包んでいた布地は,別々に保管され ている)。また,写本の状態も大変良好であり,大切に保管されてきたこと が窺える(11)  一葉の大きさは,縦約5.1‒5.5cm ×横約53‒60cm であり,金・朱・金(図 1)や金一色,または様々な模様(図2)などが描かれた小口塗装が施され ている。  貝葉写本の多くは,基本的に木製の挟み板が付されているのであるが, 「大谷貝葉」にも同様に木製の挟み板が付されている。それらの殆どは普通 の板(図2)であるが,12点に塗り物の美しい挟み板が見られる。それら には,黒漆塗地に金で花鳥の模様があり,中心に一対のリスのような動物が 描かれている(図1)。2点に,黒漆塗地に金で牡丹と石榴と思われる模様 や,草花の模様が描かれている。それら12点の他に,朱一色,金一色で塗 られている挟み板などもある。

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図1: 金・朱・金で小口塗装が施され,黒漆塗地に金・朱で 花鳥の模様が描かれた挟み板が付されているもの 図2:様々な模様で小口塗装が施されているもの ⑵ 所蔵文献 ① 59套のクメール文字写本の内容は,全体的にパーリ語三蔵(律・経・ 論)の註釈文献が多く,特に論蔵に関わるもの(註釈書,復註書,複々 註)が多い。 ・ 律蔵に関わるものとしては,Pārājikakaṇḍa,Bhikkhunīvibhaṅga,Mahāvagga のほか,Samantapāsādikā,Khuddasikkhā,Uttaravinicchaya,Pālimuttaka-vinaya vinicchayasaṅgaha やその nissaya(12)などが見られる。

・ 経蔵に関わるものとしては,Majjhima-nikāya の一部(5品38経),Sumaṅgala-vilāsinī (Dīghanikāya-aṭṭhakathā),Papañcasūdanī (Majjhimanikāya-aṭṭhakathā) が見られ,Khuddaka-nikāya に関わるものとして,Dhammapada-aṭṭhakathā, Paramatthajotikā (Suttanipāta-aṭṭhakathā),Paramatthadīpanī

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(Petavatthu-aṭṭhakathā),Visuddhajanavilāsinī (Apadāna-aṭṭhakathā),Jātaka の註釈(Jātaka-aṭṭhavaṇṇanā,い わ ゆ る ジ ャ ー タ カ )の 数 種,Līnatthapakāsinī (Jātaka-aṭṭhakathā-ṭīkā),Vessantarajātaka の nissaya などが見られる(13)

・ 論蔵に関わるものとしては,アビダンマ七論(Dhammasaṅgaṇī, Vibhaṅga, Dhātukathā, Puggalapaññatti, Kathāvatthu, Yamaka, Paṭṭhāna)の他,Atthasālinī (Dhammasaṅgaṇī-aṭṭhakathā),Abhidhamma-anuṭīkā (Anuṭīkā-(dhamma) saṅgaṇī),Gaṇḍīsaṅgiṇīdīpanī,Dippanī-saṅgiṇī,Sammohavinodanī (Vibhaṅga- aṭṭhakathā),Dhātukathā-aṭṭhakathā,Dhātukathā-ṭīkā-vaṇṇanā,Puggalapaññatti-aṭṭhakathā,Kathāvatthu-aṭṭhakathā,Yamaka-aṭṭhakathā,Paṭṭhāna-aṭṭhakathā, ま た,Paccayadīpanī-paṭṭāna,Abhidhammatthasaṅgaha,Saṃkhepa-vaṇṇanā, Abhidhammatthasaṅgaha-ṭīkā,Anuṭīkāsaṅgaha (Paramatthamañjūsā-anuṭīkā- abhidhammatthasaṅgaha),Yojanāṭīkā-abhidhammatthasaṅgaha,Yojanā- abhidhammatthasaṅgaha,Abhidhammatthasaṅgaha-vaṇṇanā,更には,Para-matthavinicchaya,Paramatthavinicchaya-porāṇaṭīkā,Abhidhammāvikāsanī, Saccasaṃkhepa-ṭīkā,Mohavicchedanī などが見られる。 ・ そ の 他, 準 三 蔵 扱 い の Nettipakaraṇa,Visuddhimagga,Paramatthamañjūsā (Visuddhimaggamahāṭīkā) や,Sārasaṅgaha,Paññāsajātaka(14)

,Canda-ghāṭajātaka,Maṅgaladīpanī,Mahābuddhaguṇanvāta-aṭṭhakathā(15) Paramatthasārakathā,Paṭipattisaṅgaha,Ānisaṅgaha,Trailokyavinicchaya-niriyakathā な ど の 特 徴 的 な も の, 更 に は Dīpavaṃsa,Mahāvaṃsa,Rasa-vāhiṇī-ṭīkā,Jinakālamālinī,Amatarasadhārā(Anāgatavaṃsa の註釈),Dasa-bodhisatta-uddesa,Jayamaṅgalagāthā や,文法書である Mahānirutti-ṭīkā,Mahā-nirutti,Kaccāyanapakaraṇa,Kaccāyanarūpadīpanī,Yojanā-ākhyāta, Uṇādikappadīpaniyā-yojanā,Yojanā-uṇādi-kaccāyana,Mūlapakaraṇa-nissaya-nāma などが見られる(16) ② 4套のビルマ文字写本の内容は,律の Pārājikakaṇḍa の一部,Samanta-pāsādikā の一部,そして9種類のジャータカ(Muggapakkhajātaka (Mūga-

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pakkhajātaka), Mahājanakajātaka, Suvaṇṇasāmajātaka (Sāmajātaka), Nemijātaka (Nimijātaka), Candakumārajātaka (Khaṇḍahālajātaka), Bhūridattajātaka, Nārada-jātaka (MahānāradakassapaNārada-jātaka), Vidhura(paṇḍita)Nārada-jātaka, MahosadhaNārada-jātaka (Mahā-ummaggajātaka))である(17)

③  1 套 の モ ン 文 字 写 本 の 内 容 は, 律 に 関 す る 文 献 Pālimuttakavinaya-viniccha yasaṅgaha nissaya である(18)

 これらの文献すべてが完本というわけではなく,一部を欠いているものも 多い。だが,上記の写本文献の中で,論蔵に関わる註釈文献(復註書,復々 註など)や綱要書,東南アジア撰述文献と考えられる文献の多くは,未だ ローマ字テキスト化されておらず,写本のままで存在しており,パーリ仏教 研究において未開拓の分野である。そのような点からも「大谷貝葉」の中の クメール文字写本は,今後のパーリ仏教研究にとって貴重な資料を提供する ものである。

3.所蔵経緯について

 このような「大谷貝葉」の概要を踏まえ,次にその来歴について再検討し ていきたい。来歴について理解を深めるには,先ず「仏舎利奉迎」の出来事 を確認しておかなければならない。以下にその概略を記す。  1897年1月,イギリス人の駐在官ウイリアム・クラクストーン・ペッぺ によって,ネパール国境近くのインド北部のバスティー郡ピプラワー村で釈 尊の遺骨(仏舎利)が発掘された。発掘された仏舎利は,インドがイギリス の植民地であったため,イギリス政府を通じ,当時独立を保っていた仏教国 であるシャム(タイ)の王室にも贈られることになった。1899年2月,シャ ム王室は仏舎利を受け取り,その仏舎利をワット・サケートの大塔に納め た。シャム王室は,その仏舎利を,当時,イギリスの植民地ではあったが隣 国の仏教国であるビルマ(ミャンマー)とセイロン(スリランカ)に分与し

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た。その後,その仏舎利は,王室間の繋がりがあったロシア,更には初代駐 タイ公使の稲垣満次郎の尽力により,日本へも分与されることになった。  日本では,1900年4月,仏教の各宗派協議会を開いて,釈尊御遺形奉迎 使節団を結成した。奉迎正使に大谷光演(19)(真宗大谷派),奉迎使を前田誠 節(20)(臨済宗妙心寺派),藤島了穏(21)(浄土真宗本願寺派),日置黙仙(22)(曹 洞宗)の4名,文学博士の南条文雄(23)ら14名を随行員として決めた(24)。そ して,同年5月に総勢18名からなる使節団を派遣した。 ⑴ 従来の説について ① 奉迎した仏舎利は,紆余曲折を経て,1904年に仏舎利を安置するため に名古屋市に覚王山日泰寺(旧称日暹寺)(25)が建立され,ラーマ5世王(26) から日本の仏教徒のためにこの使節団へ贈られた仏像と共に同寺院へ納め られた。 ② また,仏舎利奉迎を伝える詳細な資料(『宗報』第25号(1900年7月28 日発行:真宗大谷派本願寺寺務所文書科),[葦名1902],[小室1903],[南 条1979]など)には,「シャム国王后から三蔵聖教の写本が後日,寄贈さ れた」との記述が散見される。[小室1903: 71‒74]の記述によると,この 写本は,王后陛下が,日本仏教徒に寄贈するため,ジアスリンドル僧正に シャム文の「抄略三蔵経」を貝葉に写出させたものであり,それは7編か らなり,一枠に納め,枠には真珠をあしらった金繍の絹蓋を備え,象牙製 の剣形のネームタグが付され,チーク材の外函に納められているとする。 そして,それは1900年10月30日に,駐タイ公使の稲垣氏を経て,当時の 仮奉安所の京都の妙法院に到着したと記されている。   上記①,②より,以下の従来説1が語られるようになったと考えられ る。 *「大谷貝葉」の来歴に関わる従来の説1:仏舎利奉迎の時(1900年5月) にシャム王室から正使である大谷光演に贈られたもの(27)

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◇従来説1の矛盾点と従来説2(長崎説) 1)これらの仏舎利奉迎を伝える資料の中には,仏像などが寄贈された記述 はあるが,「大谷貝葉」に該当する記述がどの資料にも全く見られない。 2)シャム国王后から日本仏教徒へ贈られた7編からなる貝葉写本は,様々 な装飾品が付されているとされるが「大谷貝葉」には認められなく,数も 全く異なる。 3)このシャム国王后から寄贈された貝葉写本は,[小室1903: 73‒74]に 記載されているブハスカラヴオンゼ(パーサコーラウォン)文部大臣(28) から稲垣公使に宛てた書状のなかに,王后陛下からの「抄略三蔵経」は, 「国王陛下より下賜せられたる黄金仏と相対して其荘厳を添るものに有之 候」と記されている。よって,この貝葉写本は,仏像と共に日泰寺に納め られたと考えるべきである(29)   これらの点から[長崎1997: 128]は,「大谷貝葉」は,仏舎利奉迎の時 にシャム王室から大谷光演に贈られたものではないとし従来説1を否定 し,以下の見解を述べる。 *従来説2(長崎説) ① 「大谷貝葉」がタイ国王からの寄贈であることを伝える最初の記録は, 1911年(明治44年)2月25日発行の『宗報』第113号「真宗大学図書館 現況」(pp. 17‒18)においてである。   「貝葉蔵経は,暹羅先帝より當法主臺下に寄贈したまひしものにして, 全て貝多羅葉より成り,全部60帙(30),一帙の長一尺九寸,幅一寸八分, 厚概五六寸なり。表装亦丹朱金泥を用い…」 ② これを踏まえると,「大谷貝葉」は,1911年2月25日発行の『宗報』第 113号「真宗大学図書館現況」に記すように,シャム国先帝(ラーマ5世) から大谷光演法主に寄贈されたものであり,その時期は,仏舎利奉迎の時 以降,『宗報』第113号発行に近い時期:1910年後半∼1911年初頭までに 真宗大学図書館に収められたものと考えられる(31)

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⑵ 新たな可能性について  ここまでが「大谷貝葉」の来歴に関わる従来の説であるが,上記の従来説 2を検討すると,以下の疑問が生じてくる。 ◇従来説2(長崎説)の疑問点 1)仏舎利奉迎の時(1900年)以降,1910年後半∼1911年初頭までの『宗 報』に,「大谷貝葉」が寄贈されたことについて,全く記されていないの はなぜか。 2)1911年2月25日発行の『宗報』第113号「真宗大学図書館現況」には, 「大谷貝葉」の寄贈された年月は,全く記されておらず「仏舎利奉迎の時 以降」とも記されていない。  これらを勘案すると,従来説2には,真宗大谷派(東本願寺)とタイ国 (ラーマ5世在位時期)との関係が「仏舎利奉迎の時」からスタートしたと 考える前提が背景にあったのではないだろうか。  では,真宗大谷派とタイ国との関係が認められる出来事や人物が「仏舎利 奉迎の時」以前にはなかったのであろうか。この点を確かめるために,先ず 19世紀末に活発化した日本人留学僧の動向を以下の表1で確認する。 表1:19世紀末に活発化した主な日本人留学僧の動向(32) 渡航年 人名 所属宗派 渡航先 1875年 今立吐酔 浄土真宗本願寺派 アメリカ 1876年 笠原研寿 南条文雄 真宗大谷派 真宗大谷派 イギリス イギリス 1881年 北畠道竜 浄土真宗本願寺派 欧米 1882年 藤枝沢通 藤島了穏 菅了法 浄土真宗本願寺派 浄土真宗本願寺派 浄土真宗本願寺派 フランス フランス イギリス 1886年 常盤井堯猷 釈興然 真宗高田派 真言宗 ドイツ スリランカ

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1887年 釈宗演 臨済宗 スリランカ 1888年 生田得能 善連法彦 小泉了諦 朝倉了昌 東温譲 真宗大谷派 真宗佛光寺派 真宗誠照寺派 真宗大谷派 浄土真宗本願寺派 タイ タイ・スリランカ スリランカ スリランカ スリランカ・インド 1889年 徳沢知恵蔵 川上貞信 浄土真宗本願寺派 浄土真宗本願寺派 スリランカ・インド スリランカ・インド 1890年 高楠順次郎 イギリス,ドイツ,フランス 1892年 比留間宥誡 真言宗 スリランカ 1893年 釈守愚 大宮孝潤 臨済宗 天台宗 スリランカ インド 1897年 上村観光 遠藤龍眠 臨済宗 曹洞宗 タイ タイ 1898年 概旭乗 浄土宗 タイ 1899年 荻原雲来 渡辺海旭 薗田宗恵 藤井宣正 松本文三郎 姉崎正治 浄土宗 浄土宗 浄土真宗本願寺派 浄土真宗本願寺派 ドイツ ドイツ ドイツ イギリス ドイツ ドイツ  19世紀末に日本人留学僧の動向が活発化した背景としては,1880年代頃 の日本の仏教界が,1868年の廃仏毀釈の打撃で廃絶寸前となったことから 仏教の革新が急務であるという認識と,文明開化の流れの中で仏教界も西欧 先進国などの思想文化を摂取する必要性にかられたということがあり,優れ た人材を海外に続々と留学させているのである。上記の表1からも分かるよ うに,特に先鞭をつけたのが真宗の東西両本願寺であり海外視察や留学に特 別力を注いでいる(33)  上記の表1の中で,真宗大谷派とタイ国に関係がある人物を見てみると, 1888年にタイ国へ留学した生田得能という人物がいる。また,この生田が 留学した1888年から,日本の仏教界とタイ国との人的交流が開始されたと もいえるのであるが,この留学実現の背景にはどのような動きがあったのだ

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ろうか。この点を次に確認しておきたい。 ◇真宗大谷派とタイ国(ラーマ5世在位時期)に関係がある出来事・人物 ① 真宗大谷派の僧侶で仏教学者である生田(織田)得能(34)が,シャムに 留学(1888∼1890年)(35)  生田得能のタイ留学が実現した背景としては,以下のような出来事があ る。  1888年1月,シャム国の特命全権大使であったパーサコーラウォンが日 暹修好通商宣言の批准書交換のため来日する。その際に,滞在先の東京の鹿 鳴館に,外交関係の樹立を機に両国間の宗教上の交際を開くために,僧侶の 一団(浄土真宗本願寺派の島地黙雷,真宗大谷派の寺田福寿,平松理英,英 語通訳は本願寺派の今立吐酔,大谷派の徳永(清沢)満之などが務める)が 訪れる(36)  2回行われたこの対談により,日本からの留学生の受け入れの約束がなさ れ,寺田福寿からこのことを聞いた生田が自ら志願する。生田は大使に面会 して同行の承諾を得る。そして寺田の協力のもと,本山から留学許可を取り 付けるのである(37) *この時の真宗大谷派の動きとしては, ・ 1888年1月から来日中のパーサコーラウォンが,京都に在留中の2月22 日,宿舎に御門跡(大谷光勝)(38)よりラーマ5世への進献する品を南条文 雄らが届ける。 ・ 翌日,大使一行が来山し,御門跡,新御門跡(大谷光瑩)(39)はじめ歓待す る(40)。その後,新御門跡は南条文雄等を伴い大使の宿舎を訪問し,再び 歓待し交流を深める。  これらの経緯により,生田は日本からの留学僧として,2月末に帰国の 途につくパーサコーラウォン一行に随行してシャム(タイ)留学に出発す

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る(41) ◇生田得能の帰国時の記録  これらのことを踏まえながら,生田のシャム留学に注目してみると,生田 の帰国時の記録に「大谷貝葉」と関係のある記述があることが判明した。 ② 生田得能が,シャムでの留学から帰国した際,「貝葉経60余帙,仏像数 躯,霊塔数基の他,種々の法具を受けた」と自伝に記し(42),更には貝葉 経60余帙を「我祖山に納めり」(43)としている。 ③ また,『本山報告』第61号(1890年7月25日発行:真宗大谷派本願寺寺 務所文書科)の「贈品並びに帰朝」の欄(p. 151)にも,生田の帰国のこ とが報告されており,更にパーサコーラウォン(44)が東本願寺管長大谷光 瑩に宛てた書簡の内容の記事も掲載されている。そこには,パーサコーラ ウォンが,シャム国王の弟であるパーヌランシー親王が日本に来遊するの に同伴して帰国する生田得能に託したものとして,   「三蔵中の第三部である阿毘達磨蔵をパーリ語によって貝多羅葉に書か せる本書及び其の釈増補とも合わせて之を台下(45)に贈献し…」 とされている。  この記述を踏まえ,「大谷貝葉」と比較してみると, ④ 生田が託され,本山に納めた貝葉は,60余帙(「大谷貝葉」は64套), パーリ論蔵並びにその釈増補(「大谷貝葉」は,その多くは論蔵とその註 釈)という一致がみられる。 ⑤ また,大谷大学や本山(東本願寺)等には,現在まで,「大谷貝葉」以 外に60套以上の貝葉写本を所蔵する報告はない。 ⑥ 加えて,上述の『宗報』第113号には「暹羅先帝より當法主臺下へ」と あることからパーサコーラウォンがラーマ5世の命(許可)を受けて託し たと考えた方がよい。 ⑦ 先にも述べたが,大谷光瑩法主は,前法主と共にラーマ5世に法具・法

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衣など,多くの贈り物をして全権大使を歓待しているので,その御礼と捉 えることもできる。  以上,①∼⑦の点から,「大谷貝葉」の来歴に関わる新しい説として,次 の可能性が示せるのではないだろうか。   「大谷貝葉」とは,仏舎利奉迎の時より,10年程遡る時期(1890年), シャム(タイ)に留学していた真宗大谷派の学僧である生田(織田)得 能が,帰国する際に,ラーマ5世の命(許可)を受けたタイの名門貴族 プラヤー・パーサコーラウォンから東本願寺第22代法主・大谷光瑩へ の受け渡しを託されたものである。

4.おわりに(今後の課題)

 国内には,「大谷貝葉」と関わりが深いと考えられる貝葉写本が幾つか存 在する。大正大学所蔵とされるクメール文字パーリ語貝葉写本の一部(46)や, 龍谷大学所蔵のクメール文字貝葉写本の一部(47)である。最近では,東洋文 庫に所蔵されている河口慧海旧蔵とされるクメール文字パーリ語貝葉写本に ついての報告がなされ(48),それらが「大谷貝葉」から分けられた可能性の あることが示された。よって,これら「大谷貝葉」と関わりが深いと考えら れる貝葉写本との比較検証を経てはじめて,その関係性が判明し「大谷貝 葉」の全容が明らかとなる。また,「大谷貝葉」に関わりが深いクメール文 字パーリ語貝葉写本が,まだ他のどこかに人知れず,保管されている可能性 があるので,更なる調査,情報収集に努めなければならない。  現在,国内に所蔵されているタイ将来のパーリ語仏典写本の所在について は,情報がほとんどなく,どのくらい国内に存在するのかなど全体像が不明 である。このような現状が少しでも改善されれば,国内に存在するタイ将来 のパーリ語仏典写本の全体像が見渡せ,個々に存在する写本間の関係性も明 らかになるであろう。そこにはタイ将来の仏典写本を通じて,日・タイ交流 の歴史や交易史への新たな知見が得られる可能性も秘められている。

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注 ⑴ 貝葉とは,「貝多羅葉」の略称であり,パーリ語の ‘patta’(サンスクリット ‘pattra’:葉)と,オウギヤシである ‘tāla’(多羅樹)を漢訳したものに基づく。オ ウギヤシやコウリバヤシなど,ヤシ科の植物の葉を加工して,鉄製などの尖筆で線 刻するか,竹や葦製のペンまたは筆を道具にしてインクで書写する記録媒体であ る。 ⑵ タイではコーイ樹皮(ムクバナタレボク)やサー樹皮(コウゾ)から作られる紙 を用いたサムット(帳面)に記される。 ⑶ タイ国の寺院では,一般的に,これらの写本は経蔵の厨子に大切に保管されてい ると認識されている。しかし,その多くは雨漏りや虫害により朽ちていることも多 い。そのようになると調査は不可能であり,写本でしかまだ存在していない貴重な 文献が,失われつつあるのが現状である。 ⑷ クメール文字は,東南アジアの文字の中で古い歴史を持ち,カンボジアの公用語 であるクメール語を書くのに用いられる。タイでは仏典写本等に用いられていた古 いクメール文字のことを ‘Khom’ 文字と言い習わしている。また,タイ中部地域の 寺院では,伝統的に仏典写本はクメール文字で書写されている。 ⑸ 套とは,経文が記された貝葉の束を数本束ね,纏められた単位。24枚程度の貝 葉を一束にまとめたものを phūk(束)と呼ぶ。 ⑹ 筆者が2009年8月に実施した調査では,ビルマ文字で記された写本が更に1套 存在していることを確認した。但し,他の4套のビルマ文字写本とは,写本のサイ ズや書き方が全く異なるものであり,来歴に疑問点が生じる。よって,本稿では, この1套を考察から外している。 ⑺ ミャンマー南部のモン州,カレン州の一部からタイ国にかけて話されている文 字・言語である。ビルマ文字などの成立の母体となった。 ⑻ 「大谷目録」:請求番号 XXXVII-2。タイでは,現存している貝葉写本の多くが19 世紀から20世紀初頭に書写されたものである。その意味では,このような1600年 代のクメール文字貝葉写本が現存していることは貴重である。 ⑼ 「大谷目録」:請求番号 IV-1‒16, 18‒20(Atthasālinī の phūk 1‒16, 18‒20)。 ⑽ 「大谷目録」:請求番号 XLVII-8(Vessantarajātaka-nissaya の phūk 3)。 ⑾ 現在,貝葉写本は,大谷大学図書館・博物館で準備されたウコン染めの布に一套 ずつ包まれており,貝葉写本の元の包み布は,桐の箱に入れられて別に保管されて いる。 ⑿ ニッサヤとは,パーリ語の語句が書かれ,その語句について後続してビルマ語や タイ語などその土地の言語で逐語訳や註釈が書かれる形式のことであり,その形式

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を繰り返しながら文献が書かれていく。

⒀ Dīgha-nikāya,Saṃyutta-nikāya,Aṅguttara-nikāya は一つも見られない。

⒁ これは The Pali Text Society(PTS)から出版されているインド起源の500ジャー タカとは異なり,東南アジア地域に伝承されてきた物語が数多く仏教的に翻案さ れジャータカとして約50話分纏められたものである。「大谷貝葉」をベースにした 本テキストの校合テキストは,15名の研究者により2004年3月に,Paññāsajātaka: Thai Recension Nos.12–18, 22–39 kept in the Otani University Library Transliteration from Manuscripts in Khumer Script. Kyoto: Pāli Manuscripts Research Project, Shin Buddhist Comprehensive Research Institute, Otani University として出版された。

⒂ Mahābuddhaguṇa(nvāta)-aṭṭhakathā については,既に[Skilling, Peter and Pakdeekham, Santi 2002: 39]の中で,同様のタイトルを記す貝葉写本の存在が指摘されている ([永崎1976: 68]にも,書誌情報の記載はないがその存在を指摘している)。しか し,そこに言及されているタイ国立図書館所蔵の写本については,1 phūk のもので あり,「大谷貝葉」のものとは異なる。「大谷貝葉」のものは2 phūk で構成されて おり,この2 phūk のものは,タイ国においても,現時点では,その存在は確認さ れていない。「大谷貝葉」に基づいた本テキストのローマ字転写テキストは,2014 年3月に,清水洋平・舟橋智哉「Mahābuddhaguṇa aṭṭhakathā(『偉大なる仏徳の註 釈』)─クメール文字からのローマ字転写テキスト─」『真宗総合研究所紀要』31 号として出版された。 ⒃ 経典名を網掛けにしている29経典は,部分的にタイ・エディションがあるもの も少しあるが,全文の出版という意味では未出版と考えられるものである。 ⒄ ビルマ文字が記される貝葉写本は,一般的にはタイ中部地域で流布するクメール 文字の貝葉写本に比べ,貝葉の幅が少し大きく,一葉の一面に書かれるビルマ文字 の行数は10行前後である。これは貝葉に使用されるヤシの木の種類が異なること にもよるが,「大谷貝葉」の中のビルマ文字写本は,クメール文字が記される「大 谷貝葉」と貝葉の幅も長さも同じであり,行数もクメール文字のものと同じ5行で 書かれている。また,貝葉写本としての形態は,基本的には,クメール文字のもの は紐で約24葉ごとに束(phūk)として括り,数束で一套を形成する。ビルマ文字 のものは,貝葉を紐によって束に括らず,貝葉全体を竹や木の細い棒で貝葉に開け ている2ヵ所の穴に挿す形で整え一套を形成している。しかし,「大谷貝葉」のビ ルマ文字写本は,「大谷貝葉」のクメール文字写本に合わせるように,クメール文 字のものと同様の形態にして一套が形成されている。おそらく,「大谷貝葉」に見 られるビルマ文字写本は,ビルマで書写されたものではなく,何らかの意図で,タ イ中部地域においてビルマ文字で書写されたものと考えられる。 ⒅ このモン文字貝葉写本は,クメール文字が記される「大谷貝葉」と貝葉の幅や長

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さは同じであり,行数は6行で記されている。 ⒆ 大谷光演(1875‒1943):後の東本願寺第23代法主(号:彰如,俳号:句仏)。こ の時は新門(門首継承者)であり25歳。若いときに東京・浅草別院に移り,清沢 満之から教育を受けた。大谷探検隊を組織した西本願寺の大谷光瑞とは一つ違いの 同世代である[加藤2000: 36‒37]。 ⒇ 前田誠節(1845‒1920):臨済宗妙心寺派教務本所第一部執事を経て,花園大学の 前身にあたる普通学林の総監,妙心寺派宗務総長を務めた。釈尊御遺形奉迎を推進 する日本菩提会の副会長を務め,奉安地確保に努める[加藤2000: 37]。 藤島了隠(1852‒1918):1882年から7年間,フランスに留学。留学中に義浄の 著『南海寄帰内法伝』をフランス語に翻訳し,フランスの学術研究に貢献したとし てフランス政府から勲章を授かる。1889年に帰国して浄土真宗本願寺派の執行に 就いたところに奉迎使に選ばれる[加藤2000: 37‒38]。 日置黙仙(1847‒1920):1892年に静岡県袋井市の名刹,可睡斎の住職に迎えら れて諸堂,伽藍の大修理を成し遂げる。タイから帰国してから日泰寺の創建,充実 に尽した。1917年から1919年にかけて本山・永平寺で曹洞宗第9代管長を務めた [加藤2000: 38]。 南条文雄(1849‒1927):オックスフォード大学のマックス・ミューラーのもとに 留学。近代的な仏教研究の基礎形成に貢献。大谷大学第2代学長。日本第1号の文 学博士。 その他は,医師の高島吉三郎,タイ公使館付け通訳の山本安太郎,関係宗派か ら,石川馨,大草慧実,藤岡勝二,松見得聞,浅井恵定,飼田辰一,尾崎英吉,下 間頼信,三谷泰恩,上村観光,忽滑谷快天が任命される[加藤2000: 36]。 いずれの宗派にも属していない日本で唯一の超宗派寺院であり,寺院建立の当時 の条件により,住職は各宗派(現在19宗派が参加)の管長が3年交代の輪番制で 務める。 ラーマ5世(チュラーロンコーン,1853‒1910):ラッタナーコーシン王朝の第5 代国王(在位:1868‒1910)。 [長崎1997: 127]参照。 Phraya Phatsakorawong(1849‒1920):名門貴族ブンナーク家出身の官僚。ラーマ 4世,ラーマ5世に仕え,ラーマ5世王の時は側近として国王を補佐し,1887年 に関税長官に就任し,1888年に日本と国交を開く日タイ修好条約調印のために, タイ国の特命全権大使として来日した。この時は寺院管理長でもある。その後,農 務大臣,教育(文部)大臣を歴任。 但し,[長崎1997: 128]は,日泰寺での調査でシャム国王后陛下から寄贈された とされる7篇からなる「抄略三蔵経」を特定することができなかったとしている。

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日泰寺所蔵の貝葉写本については[柏原2000],[Tanabe 2012]に詳しく紹介され ているが,筆者は,2010年以降,同寺院を6回訪問する機会を得,タイ国の寺院 に収蔵されている貝葉写本との比較の観点から調査を行った。その結果,複数ある 貝葉写本集成の中のから,それを特定できたと考えている。①その套は,律に関す るもの2束(Pāṭimokkha, Bhikkhunī pāṭimokkha),経に関するもの3束(Suttanipāta: 束としては4束に分けられているが,束の表紙の装飾から判断すると3束で分類さ れていたことが見て取れる),論に関するもの2束(Mohacchedanī)の合計7束か ら構成されており,このような文献が一套として纏められている集成はタイに現存 例が見当たらない。②この套の挟み板に,ラーマ5世のエンブレムもしくはラーマ 3世からラーマ5世まで使われた The National Achievements が描かれており,その ような挟み板の現存例も殆ど 見当たらない。これら①,②の点から,この套が,日 本仏教徒に寄贈するために特別に誂えられたものであり,シャム国王后陛下から寄 贈された7篇からなる「抄略三蔵経」のことであると考える。 ここでは60帙とされており,「大谷貝葉」は合計64套であり数に少し誤差があ る。しかし,当時,60帙をどのような基準で数えたかは不明であり,この場合は, 「大谷貝葉」を指していると考えても問題ないと思われる(ここでの「帙」とは 「套」と同義と考えてよい。注⑸参照)。 [長崎1997: 129]参照。 [柏原1990],[奥山2004],[石井2008],[ナワポーン2012],[川口2015],[林 2016]参照。また,高楠順次郎,松本文三郎,姉崎正治は僧侶ではないが,近代仏 教学の形成に大きな役割を果たす海外留学者なのでここに挙げた。 真宗大谷派のこの背景には,後述の注 に記したが,1872‒73年に後の第22代法 主になる大谷光瑩らの欧州視察が大きいと考えられる。浄土真宗本願寺派のこの背 景には,同じく1872‒73年に,連枝(門主に連なる家系の一族)の梅上沢融・島地 黙雷・赤松連城・堀川教阿・光田為然らの欧州視察が大きいと考えられる[柏原 1990: 71‒72]。 生田(後に織田姓)得能(1860‒1911):真宗大谷派の学僧。1890年に島地黙雷 とともにインド・中国・日本の仏教史を述解した『三国仏教略史』を編纂。また, 『仏教大辞典』を著したことでも有名。 『本山報告』第33号(1888年3月15日発行:真宗大谷派本願寺寺務所文書科)の 「暹羅渡航の欄」参照。 [『明教新誌』1888a]の「日本僧暹羅大使を訪」の項目参照[奥山2014: 80]。奥 山は,この対談が日本とタイ仏教徒の近代における初の本格的な接触として極めて 興味深いとしている。 [『明教新誌』1888b]の「生田得能氏」の項目参照[奥山2014: 80]。

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大谷光勝(1817‒1894):東本願寺第21代法主(号:厳如)。パーサコーラウォン が来日中(1888年)であった翌年,法主を現如(大谷光瑩)に譲る。 大谷光瑩(1852‒1923):東本願寺第22代法主(号:現如)。両堂再建事業に力を 注ぐ。法嗣の頃,1872年9月から1873年7月かけて,石川舜台,松本白華,成島 柳北らと欧州各国に宗教事情の視察を行う。 『本山報告』第33号(1888年3月15日発行:真宗大谷派本願寺寺務所文書科)の 「暹羅國大使の欄」参照。本派の留学僧(生田得能)の保護のことも,御門跡から 大使へ,この折に話されている。 この時,善連法彦(真宗佛光寺派)も同行しシャム留学に向かうが,善連は5ヶ 月ほどでバンコクを離れセイロンに向かう。 [織田1891: 13「生田得能自伝」]参照。 [織田1891: 58]参照。また,欄外に「カンボジア文のパーリ語60余帙我日本に 入れり」という記述がある。 この当時は農務大臣兼関税長官。 ここでの台下とは,大谷光演ではなく大谷光瑩のことを指す。 大正大学には,Visuddhimagga や Kathāvatthu,ジャータカの11種類など合計21 種類が所蔵されている([大正大学出版会編2003: 38‒42]参照)。[吉元2006]には, 2004年7月にジャータカ類のみを調査した時の報告が一部なされ,その中で「大 谷貝葉」との関係性を指摘している。 第29回大蔵会展観目録(昭和18年(1943年)11月7日;於 大谷大学)の記述 には,「カンボジア文字貝葉二筴,龍谷大学図書館蔵(大谷光演上人招来)」とあ る。[大蔵会編1981]参照。 [庄司2013]参照。 参考文献 葦名信光 1902『釈尊御遺形奉迎紀要』京都:日本大菩提会本部. 生田(織田)得能 1891『暹羅仏教事情』東京:真宗法話会. 石井公成 2008「明治期における海外渡航僧の諸相─北畠道龍,小泉了諦,織田得能, 井上秀天,A・ダルマパーラ─」『近代仏教』15, pp. 1‒24. 石井米雄・吉川利治 1987『日・タイ交流600年史』東京:講談社. 大谷大学図書館編 1995『大谷大学図書館所蔵 貝葉写本目録』京都:大谷大学図書 館. 奥山直司 2004「ランカーの八僧─明治二十年代前半の印度留学僧の事績─」『インド 学諸思想とその周延』東京:山喜房佛書林,pp. 89‒106.

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