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<研究論文>罪が先か、罰が先か──フロイト・ラカンにおける超自我の諸相と諸効果(後編:症例ドラ)

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Academic year: 2021

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129罪が先か、罰が先か──フロイト・ラカンにおける超自我の諸相と諸効果(後編:症例ドラ). 研究論文. 1(9). (……前編からの続き……。¹)次に母=「現実」だが、「現実界」(リアル). ではなく「現実」(リアリティ)となっているのは、とくに表記上のミス. ではない。これに限らず、ラカンのセミネール全般に言えることだが、フ. ロイトの著述物で「理想自我」と「自我理想」がしばしば混同して使われ. ているように、「現実界」と「現実」についても、どちらのことを指して. いるのか判然としないことがままある。これには理由があって、元となる. フロイトの「現実原則」じたいが、「現実界」と「現実」のどちらを指し. ていのか曖昧なのである。. たとえば目先の楽しみを我慢し、勉強に専念することで、あとでより大. きな報酬=快感(大学合格)を得る、というのが現実原則についての一般. 的な解釈だが、大人になるにつれ徐々に分かってくるのは、そういう機会. はおそらく永遠にやってこないこと。あるとしてもほんの束の間で、悦び. も冷めやらぬうちに、次のタスク(就活)が待ち受けていること、その後. も次から次へと「現実となるあらゆるもの」が(向上心が強い人であれば. あるほど)ひっきりなしにやってくることである。こう考えていくと、そ. もそも何のための厳しい現実なのか、何のための褒美としての快感なのか. 分からなくなってくるが、もっと厳しい見方もある。それは、快感と現実. のスパイラルを享楽、つまり〝苦痛の快感〟として、一種の病理(反復強. 罪が先か、罰が先か ──フロイト・ラカンにおける超自我の諸相と諸効果(後編:症例ドラ). 清田友則. 2020final.indd 129 2021/02/21 14:24. 130 研究論文. 迫)と捉える見方であり、「現実」と「現実界」の境界線が曖昧な理由も. ここにある。. しかしなぜ母がそこにいるのか。なぜ母がいるその場所をあえて「現実」. (≒現実界)と呼ぶ必要があるのか。シェーマLでは、母が「aʼ」(他我). の代表的なイメージとして提示されているので違和感はないが、なぜ母だ. けが「現実」を専有できるのか、なぜ父や子は「現実」の中にいないのか。. 筆者は、その答えとは言わないまでも糸口となるものを、前編の糸巻き遊. びにかんする議論の中で頭出ししたつもりだ。これを目下の議論につなげ. ると、「あっち」、「こっち」の原理(またの名を反復強迫)は、糸巻き遊. びを皮切りに、「後に現実となるあらゆるもの」を母の代理表象物に変容. させる。反復強迫とは、母を何かに喩えずにはおられない病であり、あら. ゆる〝母の暗喩〟の集合体が「現実」となって主体を拘束する。. 最後の自我理想=子についてだが、これについては「I」(想像界)とい. う大きなヒントが提示されているので、答えを導き出すのは比較的簡単だ。. ここでいう自我理想とは、理想自我化された、想像的機能(眼差し)が全. 面に押し出された自我理想のことである。眼差しは、「aʼ」(母)→「a」(子). の方向に向いており、ラカンのいう眼差しはレンズの中が見えない監視カ. メラのようなものなので、子が自身の視線で見つめ返しても相手の表情は. 分からない。なので母の心中を勝手に推し量るしかないが、それでもこれ. が父(S)の位相をめぐるものであることは子どもなりに察するようになる。. それはなにも、父が母子との間に割って入ったからではなく、母の代理表. 象に日夜明け暮れることへの息苦しさを子どもが感じた始めたときに新た. な息吹として、それまでの(糸巻きが)「ない」「ある」に代わる二項対立. が垣間見えてくるからだ。このいわば(ファルスを)〝持つ“者と〝持た. ない“者の二項対立の持つ者が父で、持たない者が子となるが、自我理想. を介した父への同一化は、ファルスを将来的に持つことを「権利」として. あらかじめ保証する──。. . 子は、一人前の男となるためのあらゆる権利を持っています。. (2005a:286). . 2020final.indd 130 2021/02/21 14:24. 131罪が先か、罰が先か──フロイト・ラカンにおける超自我の諸相と諸効果(後編:症例ドラ). この権利はその時が訪れるまで封印されるが、一部の早熟な子どもを除き、. 第二次性徴を迎えるまでとくに不都合を覚える子どもはいないだろう。そ. れよりも脱性化された子どもが知りたいことは、権利としての「一人前の. 男」とはどういう存在かについてだが、「ペニスの所有者たる父」(同上. :288)といういささか露骨すぎる答えでは、逆に戸惑ってしまうだろう。. しかもこの時期の子どもにとって、「ペニスの所有者」であることは排尿. 以外のいかなる意味も持たない。. だが視点を変え、意味のなさの中に意味を、すなわち無〝意味〟(無能. なペニス)として捉えるならば、そこにあらたな意味の地平が開けてくる。. そこでは、〝持つ〟者と〝持たない〟者の固定した関係ではなく、〝持つ〟. 者と〝いずれ持つ〟者の未来の可能性に満ちた、それでいて、〝そのこと〟. についてはなぜか一言も触れない不自然な関係が父への同一化の根底にあ. るとしたら──ここで微妙に論点がずれるが、あえて議論の流れに任せる. と──それを「滑稽」と言わずして何と言おうか──。. . 人間は男性である限り、多かれ少なかれ自分自身の隠喩だ、という. ことです。まさにこのことが男 ヴ ィ リ リ テ. らしさという言葉に、かすかな滑稽. 味を加えています。(同上:287). . 「一人前の男」の最大の証である「ペニスの所有」がどういうものなのか、. 父親の背中から意味を嗅ぎ取ろうとしても何も見いだせない状況のなかで、. 唯一の手がかりとなるのが自分の無能なペニスだけだとしたら、ほんらい. 答えが宿る父の暗喩ではなく、「自分自身の暗喩」になってしまうのも致. し方ないことだ。. . 2(10). では〝一人前の女〟についてはどうか。実はここまで子ども一般と論じ. ながら男児に限定してきたのには──見え透いてはいるが──わけがある。. 女児にとって父への同一化は、当然ながら──、. . 2020final.indd 131 2021/02/21 14:24. 132 研究論文. 行う必要がありませんし、男 ヴ ィ リ リ テ. らしさへの証書を持ち続ける必要もあ. りません。(同上:287). . ならば、女児はエディプス・コンプレックスの「出口」とは無縁かという. と、そうではない。しかし、だからといって別の出口が用意されているわ. けではなく、男児と同じ出口だ。ただ、その意味合いは異なり──、. . 女性は、それ(出口)がどこにあるのかを知っており、どこに取り. に行かなくてはならないのかを知っています。それは父のところで. あって、女性は、それを持つ者の方へ向かいます。(同上). . ここまではなんとなく分かる。すぐれて常識的な(今から見ると保守的で. すらある)女性観である。問題はそのあとだ──。. . このことはまた、女 フ ェ ミ ニ テ. らしさ、真の女 フ ェ ミ ニ テ. らしさが、つねに少しばかりア. リバイの次元を持っているのはどういう点においてかを示してもい. ます。本物の女性たちには、つねに、少しばかり、道 エ ガ ㆑. に迷った[=. 取り乱した、途方に暮れた]ところがあります。(同上). . ここでは二つのタイプの女性が挙げられているが、最初の女性のタイプは. 論じるまでもないとして、問題は「本物の女性たち」のほうである。「本物」. とは何か。それは、自我理想獲得の「アリバイ」に「女 フ ェ ミ ニ テ. らしさ」を利用す. ることにある種のためらいを持つ女性たちのことであり、フロイト・ラカ. ン独自のヒステリー理解の核心部分にあたる、父への同一化のいわば副作. 用のようなものだが、なぜそのような〝病気持ち〟のほうが「本物の女性」. とみなされるのか。. いや、そもそもそれ以前に、なぜ異性である父親に同一化しなければな. らないのか。しかもここでいう同一化は同性愛者になることではない。ラ. カンが女性分析家カレン・ホーナイの症例分析から引いているものも、「私. は父のように咳をするんです」といった、性同一性とはあまり関係なさそ. うな生理現象に近いものである。(2005b:69). 2020final.indd 132 2021/02/21 14:24. 133罪が先か、罰が先か──フロイト・ラカンにおける超自我の諸相と諸効果(後編:症例ドラ). とはいえ、些細で取るに足らないものの中に意味の偽装を嗅ぎ取るフロ. イトの流儀にしたがえば、些細であることじたい一種の偽装工作であり、. だとしたら、そう見せかけることで注意を逸らす対象のほうに我々は目を. 向けなければならない。その注意を逸らすものとは、些細な対象とはとて. も思えない父への同一化だろうか。そこがなんとも不透明な点である。「父. のように」と患者本人がわざわざ明言しているくらいだから、父への同一. 化は十分認識しているはずだ。となると、そこまで深刻とまではいえない. 父への同一化によりカムフラージュされた、同一化以前に起きた別の隠さ. れた出来事にむしろ注意を向けねばならない──。. . 実際、同一化が形成されるのは、父が、ある仕方で方向づけられた. 主体の待望や要請を失望させる限りにおいてのことです。(同上. :68). . 「ある仕方で方向づけられた主体の待望や要請」とは、端的に、それまで. 愛の対象であった母親を断念し、それに代わる対象として父親に欲望をシ. フトすることであり(「父親に対して特に激しい愛着が存在する場合には、. そ れ 以 前 に、 同 じ よ う に 強 い 愛 情 を 母 親 に 注 い だ 時 期 が あ っ た。」. (1997a:332)、これが女性のエディプス・コンプレックスの第一段階(「エ. ディプス・コンプレックスの前史」(同上:324)に相当するが、当然この. 試みは失敗する。その結果、何が起きるかというと──、. . 愛であったものが同一化へと変化させられるのです。(2005b:68). これが女性のエディプスコンプレックスの第二段階である。父への同一化. によりカムフラージュされたものとは、まず父への愛であり、さらに父へ. の愛じたい、母親への愛のカムフラージュだったのである。このように断. 念に断念を重ね、しぶしぶ受け入れた同一化の果てに起きたのが、「父の. ように咳をするんです」という症状なわけだ。が、ここで見逃してはなら. はいのは、咳じたいではなく、「父のように」なることの行為遂行的(パ. フォーマティブ)、かつ象徴的な意味、より具体的には、「現実的な父にな. 2020final.indd 133 2021/02/21 14:24. 134 研究論文. るのではなく、〈自我理想〉としての父になる」(同上:69)ことの意味で. ある。. 男児のそれと違い、女児にとって「〈自我理想〉としての父」への同一. 化は、悲壮なほど自己矛盾を帯びる。先に触れた超自我と自我理想の違い. ──前者が父への同一化の禁止を要請するのに対し、後者は父への同一化. の義務を要請する──を再度確認したうえで続けると、女児にとって父に. 同一化することは、父の特権としてのファルスの享楽の女性バージョン、. すなわち「陰 クリトリス. 核的享楽」を女児にもたらすはずだ。ところが、女性器であ. るためにファルスの等価物と認められないのである. . 「男性においてばかりでなく女性においてもまた、ファルスが中心. にある」。(ラカンのフロイトからの引用、同上:39). . なぜ「女性においてもまた、ファルスが中心にある」のか。なぜ陰 クリトリス. 核はフ. ァルスの等価物と認められないのか。これを「男 フ ァ ロ セ ン ト リ ズ ム. 根中心主義」と批判し、. 斥けるのは簡単だが、問題は、かりに斥けた場合の実質上の対案となる. 「陰 クリトリス. 核的享楽」が、それによって必ずしももたらされるわけではないから. だ──。. . この[愛の対象を母親から父親への]転換にともなって、能動的な. 性の動きが著しく低下し、受動的な動きが昂進することを指摘して. おこう。〈中略〉[愛情の対象が]母親から[父親に]転換されると、. クリトリスでのマスターベーションが行われなくなることが多い。. 幼い少女がそれまでもっていた男性らしさを抑圧すると、これによ. って少女の性の営みのかなりの部分に永続的に障 しょう. 碍 がい. が生じる場合も. 多いのである。(フロイト1997a:353). . 単純に考えると、「男性らしさを抑圧」すれば、そのぶん「女性らしさ」. が増えるはずで、事実、一応そうなってはいるのだが、この「女性らしさ」. の中に性的享楽はどうやら含まれていないのである。いや、これは正確な. 言い方ではない。〝含まれていない〟というより、〝含まれてはいけない〟. 2020final.indd 134 2021/02/21 14:24. 135罪が先か、罰が先か──フロイト・ラカンにおける超自我の諸相と諸効果(後編:症例ドラ). という「剥奪」的な事態がここで問題となっているのだ。女性分析家ヘレ. ーネ・ドイチェを敷衍してラカンが言うには──、. . 女児は、自分に陰 クリトリス. 核的な享楽が禁止されていると分かると、もはや. もっぱら受動的というわけではない)態 ポジション. 勢、つまり、彼女に強いら. れた剥奪、陰 クリトリス. 核的な享楽の剥奪そのもののなかで確固たるものとな. る享楽の)態 ポジション. 勢から、満足を見出すことになるでしょう。〈中略〉. 女性は、女性というその本性において、十分に実現された──彼女. の行動や、さまざまな女性的役割への適応において、神経症や非定. 形そのものとして現れてくるものは何もないというほどに、十分に. 実現された──満足感を見出すことができるが、その際、まさしく. 性器的であるような満足感が、はっきりした形で彼女に生じること. はない、と。(2005b:75-76). . フロイトでは「抑圧」だったものが、ここでは「禁止」「剥奪」と、より. 強圧的、強制的な語にパワーアップしているが、まずそもそも論として、. 誰がこれほどまでの暴力的介入を年端も行かぬ女児に対して行使できるの. か。といっても、答えはすでに出ており──「〈自我理想〉としての父」. である──ここで問うべきはむしろ介入の仕方(女児の「場所に[=彼女. の代わりに]やって来るのです」)にかんしてである。. . 拒まれたものとしての[父への]欲望と対象[=父]との間の結び. つき、この結びつきが、この対象がある一つのシニフィアンとして. 構成されるというときの出発点にあります。このシニフィアンは、. ある一定の場所を占め、主体に置き換わり、主体の隠喩となります。. こうしたことが、女児が父と同一化する場合に、欲望の対象に対. する同一化のなかで生じます。女児が欲望した父、そして彼女にそ. の要求の欲望を拒んだ父が、彼女の場所に[=彼女の代わりに]や. って来るのです。こうして、〈自我理想〉の形成は、ある隠喩的な. 性格を持ちます。そして隠喩におけるのと同様に、そこから結果す. るのは、対象の形成にかかわっていたような欲望、別のところにあ. 2020final.indd 135 2021/02/21 14:24. 136 研究論文. る欲望、女児を母と結びつけていた欲望とは何の関係もないような. 一つの欲望の変容なのです。(同上:79). . つまり同一化とは隠喩化のことであり、女児の場所を父親が占めることで、. 「陰 クリトリス. 核的な享楽」がファルス的享楽に上書きされる。しかし女児は肝心の. ファルス(ペニス)を持たないので、享楽に浸ることができない。そんな. 状態が「永続的」に続けば、「メランコリー」(同上)になってもおかしく. ないが、それでも自我理想の教えを忠実に守っていれば、「彼女の行動や、. さまざまな女性的役割への適応において、神経症や非定形そのものとして. 現れてくるものは何もないというほどに、十分に実現された……満足感を. 見出すことができる」──ということは、要は病気にならないだけマシだ. から、それ以上はあまり人生から期待するなということか……。. それともこのような見方をすることじたい、性器的快感を偏重する男性. (男根)中心主義にどっぷり浸かっていることの証なのか。確かに他人に. 言えない女性特有の悩みはあるし、性に関する不満や不安は男性よりもは. るかに多そうだが、だからといって、そこまで言い切ってよいものだろう. か。せいぜい言えることは、男根に汚されない女性独自の性のあり方. (「陰 クリトリス. 核的な享楽」)を、少なくとも臨床に根ざした形での立証が、「女性差. 別は存在しない」と明言するのと同じくらい困難であることくらいではな. かろうか。. 女性の多くが「陰 クリトリス. 核的な享楽」を求めていない(とされる)ことが、単. に必要と感じないからか、それとも男根中心主義の抑圧によるものなのか. ──は、二択ではなくコインの裏表であり、抑圧の結果、必要性を感じな. くなったと捉えるべきだろう。男根からの見えない磁力は重力と似ている。. 「男性においてばかりでなく女性においてもまた、ファルスが中心にある」. 磁場のなかで、それでも女児なりに最善の選択肢を選ぼうとする際、最も. 頼りになる指標が自我理想ではなかろうか。. とはいえ、どちらの性においても「ファルスが中心にある」ということ. は、どちらの性においても同じ自我理想が指標とされるわけで、自我理想. だけが例外的に男女に対して中立ということにはならず、徹底して非対称. 的である。端的に言うと、男児にとっての自我理想は、大人になったあか. 2020final.indd 136 2021/02/21 14:24. 137罪が先か、罰が先か──フロイト・ラカンにおける超自我の諸相と諸効果(後編:症例ドラ). つきに獲得を約束された父の身分と相応の欲望対象(未来の妻)だ。一方、. 女児にとっての自我理想は、女児の姿をまとった父であり、欲望対象は当. 然ながら自分の妻(女児の母)だ。. ここで混同してはならないのは、女児のこれまでの愛(の喪失)の遍歴. (母への愛着→拒絶→愛着の父へのシフト→拒絶→父への同一化)の出発. 点であった母への愛に、一周回って戻ってきたわけではないことだ。そも. そも最初の母への愛が拒絶されたのは、それが許されぬ愛(同性愛)だか. らであった。ところが今回のそれは異性愛であり、母ではなく妻への愛で. ある。しかるに、彼女に憑依する父はあくまで隠喩としての父であり、母. の目に映るのは娘である。しかも娘にとっては母でも、父にとっては妻な. ので、かつての同性愛的な母娘関係と重ね合わせることはできない。. そんな八方塞がりのなか、彼女に与えられた選択肢の一つが、先の「彼. 女の行動や、さまざまな女性的役割への適応において、神経症や非定形そ. のものとして現れてくるものは何もないというほどに、十分に実現された. ──満足感」だが、そのあまりに控えめな表現内容がかえって気になって. しまう。素直に「女性らしさ」と書けばよいものを、「女性的役割への適応」. と、まるで心の病の予防措置のように読めてしまうが、女性らしさとはし. ょせんその程度のものか。それとも、そこに実はアイロニーが込められて. いて、「十分に実現された──満足感」に飽き足らず、「道 エ ガ ㆑. に迷った[=取. り乱した、途方に暮れた]」末に、享楽の道を選んだ者たち(「本物の女性. たち」)たちの生き方(ヒステリー)をラカンは密かに推奨しているのだ. ろうか。. . 3(11). ラカンは、上記の引用元のセミネール『無意識の形成物』(1957~1958年). の2年後のセミネール『精神分析の倫理』(1959~1960年)でこの問題を. 本格的に取り上げ、「汝は汝に宿る欲望に従って行動したか」という格律を、. 人間的行為に対する「〈最後の審判〉」とまで言い切り、人間の条件の根幹. に据えた。(2002b:223)ということは、ヒステリー者たちが「本物の女性. たち」と呼ばれるのは、彼女たちが自身の「欲望に従って行動」したから. 2020final.indd 137 2021/02/21 14:24. 138 研究論文. か。ここで思い出されるのが、フロイトが同僚に語ったとされる有名な(悪. 名高い?)言葉だ──。. . 経験と考察を三〇年積み重ねても、ずっと答えが見つからないでい. る点が一つある。女は何を欲しているか。Was will das Weib? これ. だよ。(2002a:12). . フロイトの患者の多くが女性で、その大半がヒステリーを患っていたこと. を考慮すれば、彼女たちが「道 エ ガ ㆑. に迷った[=取り乱した、途方に暮れた]」. 状態にあったことは想像に難くない。が、そのことをもって、享楽の道を. 選んだとまで言い切れるのか。それとも「何を欲しているか」分からない. なりに、それでも何かを欲していること自体が重要なのか。ラカンは、の. ちにセミネール『Encore』(1972~1973年)のなかで、ファルス的享楽に. 対抗する女性独自の「他者の享楽」を提唱することになるが、現時点でこ. れに相当する概念はない。ただ同一化概念の中に萌芽のようなものは窺え. る。たとえば症例ドラの中の次のような指摘だ──。. . ドラが主体として存続しているのは、あらゆる良きヒステリー者と. 同様に愛を要求する限りにおいてですが、しかしまた、〈他者〉の 0 0 0. 欲望それ自体を支える限りにおいてでもあります 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0. ──それを支えて. いるのは彼女であり、その支えとなっているのは彼女なのです。. (2002b:219、傍点筆者). . 四人の登場人物の関係(ドラ、ドラの父、K氏、K夫人)を簡単にまとめ. ると──父とK夫人は不倫関係にある(ドラもそのことを知っている)。. その陰でK氏はドラに言い寄るが、彼女もまんざらではない(当時彼女は. 14歳)。ある日、K氏がドラに向かって「私にとって妻は何でもない」と. 告げると、ドラはK氏に平手打ちを食らわす。以上が事の概要だが、フロ. イトが掲げる命題は、K氏に平手打ちを食らわす「ドラは何を欲している. か」である。. ドラ自身、自分が何を欲しているのか分からない以上、彼女に訊いても. 2020final.indd 138 2021/02/21 14:24. 139罪が先か、罰が先か──フロイト・ラカンにおける超自我の諸相と諸効果(後編:症例ドラ). 無駄である。ならば残りの三人に訊けばよいかというと、そうもいかない. のは、以下に示すラカン自身によるシェーマLの応用が示すように、症例. ドラにおいては、「何を欲しているか」がドラひとりの問題を越えて、四. 人の共同作業の産物としての無知が構造化されているからだ(2006:182). ──。. . . . . . . . . . まず見て驚くのが、ドラが主人公ではないこと、ドラにとっての 0 0 0 0 0. 主人公(主. 体=S)がじつはK夫人であることだ。もっとも、だからといってK夫人. に同一化しているわけではない。図の注釈にもあるように、ドラが同一化. しているのはK氏である。しかも二人は逢い引き関係にある。. ただ、平手打ち事件や彼女の年齢からすると、どこまでK氏に対して本. 気だったのかよく分からない。唯一はっきりしているのは、K氏と一緒に. いることが、父とK夫人の情事の暗黙のお膳立ての役割を果たしていたこ. とであり、その意味で二組の不倫カップルは共犯関係にある。ではなぜド. ラは、彼女の歓心を買うためのK氏の発言に逆ギレしてしまったのか。夫. 婦関係が冷え込んでいたことは彼女も先刻承知済みのはずで、突然のサプ. ライズに気が動転したとも思えない。. シェーマLに沿って紐解いていこう。一介の小娘が大の大人に思わず平. 手打ちしてしまうほど衝撃を以て受け止めてしまったのは、図のK夫人の. 「問い」(=「問い」としてのK夫人)に、K氏がはっきりとした答え(「何. でもない」=意味がない)を提示したことで、ヒステリー者のアイデンテ. ィティの根幹を成す問い──「女であるとは何か?」(1987b:22)──が. 無効になってしまったからだ。一見すると、K氏のメッセージはドラとの. 2020final.indd 139 2021/02/21 14:24. 140 研究論文. 関係、父とK夫人との関係を二重に支持補強しているように思えるが、じ. つは多分に損ねている。. ドラがK氏に求める理想的な関係は、父とK夫人の関係を──より正確. には、〈他者〉としての父のK夫人に対する欲望を──「支える限りにお. いて」の関係であり、そこでK氏に期待される役割は、せいぜいドラの「支. え」の邪魔をしないことぐらいである。逆に、K氏が絶対にやってはいけ. ないことは、ドラのK夫人への〝異性愛〟がバレないためのダミー(疑似. 恋人)としての役割の放棄である。だが、この偽装の機能については、ド. ラはもとよりK氏、さらにK夫人ですら、「女(ドラ)は何を欲しているか」. について構造的無知の立場にいるため、どこにどんな地雷が隠されている. のか知りようがない。そんな誰が踏んでもおかしくい状況のなか、たまた. ま貧乏くじを引いたのがK氏だったわけだが、彼が踏んだ地雷はことのほ. か凄まじかった。. どういうことか。K氏にとって妻が「何でもない」存在だということは、. K氏に同一化したドラにとってもK夫人はどうでもいい存在ということに. なる。そうなると、K氏を介したK夫人との繋がりが切れるばかりか、「支. え」としてのドラの存在意義までなくなってしまう。「女であるとは何か?」. という「問い」の体現者が、ドラでなくK夫人であるのには構造上の理由. がある。簡易版シェーマLにはK夫人と父を結ぶ線(「A」→「S」)が省か. れているが、もう一つの対角線である想像線(「aʼ」→「a」)が壁として. この線を分断しているため、構造内で唯一回答資格を持つ父が見えなくな. るからである。ラカンによるヒステリー者の定義である「父への同一化」. をこの文脈の中で言い換えれば、「『女であるとは何か?』の答えを知る者. への同一化」となる。ちなみに、ここでいう「知る」は「欲望する」と限. りなく同義である。父が欲するものは、それだけで知=答えとなる。. このように、父は正体を見せないことで、真の欲望主体の証である〈他. 者〉となるが、その一方で、先のエディプス三角形(「エディプス・コン. プレックスの出口」)で「父のようであることはゆるされない 0 0 0 0 0 0. 」)の禁止命. 令を下す超自我でもある。これをシェーマLに重ねると、禁止内容は「ド. ラは、父のようにK夫人を愛することはゆるされない 0 0 0 0 0 0. 」となるが、シェー. マL的には「ゆるされない 0 0 0 0 0 0. 」よりも「不可能である」と言うべきだろう。. 2020final.indd 140 2021/02/21 14:24. 141罪が先か、罰が先か──フロイト・ラカンにおける超自我の諸相と諸効果(後編:症例ドラ). 父が「彼女の場所に[=彼女の代わりに]」いる以上、ドラがどれほどK. 夫人を慕おうと、いや慕うからこそ、父がドラの代理を買って出たのであ. る。. . 4(12). ところで、すべての発端はドラのK夫人への恋着にあったのだろうか、. 結論から先に言うと、そうではない。シェーマLの対角線の矢印の向きが. 示すように、〈他者〉(父)の欲望を支えるだけでなく、K夫人の父への愛. を「aʼ」→「a」の壁の〝こちら側〟から支援することも、ヒステリー者. の役割(症状)のひとつである。蛇足だが、主人公への感情移入ではなく、. カップルの関係性に重きを置く腐女子の願望に「壁になりたい」(=遠巻. きにカップルをみつめていたい)というのがあるらしい²。ラカンはフロ. イトの『夢判断』に出てくるある症例(姉の夫への禁断の恋慕)を引きな. がら、次のように述べている──。. . 「ヒステリー者がどちらの側から興味を持つのであれ」と付け加える. ことさえできません。それは既に、ヒステリー者がこちら側かあち. ら側のどちらかから興味を持つ、ということを含意することになる. からです──つまり、彼女が姉の視点から義兄に興味を持つか、あ. るいは義兄の視点から姉に興味を持つか、ということを含意するこ. とになるからです。ヒステリー者の同一化は、相関的な仕方でさま. ざまな方向に向かって成立することが十分あり得ます。(2005b:115). . 「こちら側かあちら側のどちらかから 0 0 0 0 0 0. 」(傍点筆者)ではなく、どちらから 0 0 0 0 0. も 0. 「興味を持」てるのは、「aʼ」→「a」の壁が両方の側に向いていること. の構造上のメリットだろう。一方、デメリットは、壁の一部(「a」)とし. て無機物化(〝壁女子化〟)することで身動きがとれなくなることだが、そ. れはあくまでその良さが分からぬ傍からの意見であって、当人としては. 「相関的な仕方でさまざまな方向に向か」える自由を満喫しているのかも. しれない。実際のところ、平手打ち事件で四角関係が崩れるまでは、ドラ. 2020final.indd 141 2021/02/21 14:24. 142 研究論文. の症状もそこそこ安定していたのである。. ところで安定した症状とは、分かるようで分からない表現だ。喩えるな. ら、増殖しないがん細胞のようなことか。だとしたら、そのまま日常生活. が営めることになるが、寛解を維持するために薬の服用が欠かせなくなる. ように、二組のカップルの〝ダブル共依存〟の存続維持が欠かせなくなる。. それでも日常生活が営めるなら、それでよしとする考え方を一概に否定. はできないが、そもそもの元である父への象徴的同一化(と、その派生形. としての「aʼ」(K氏)への想像的同一化)が、ヒステリーの原因の発端で. あることを考えると、そうもいかなくなる。つまり、がん細胞にあたるも. のが、これら二重の同一化なのだとすると、安定した状態じたいがドラの. ヒステリーを硬化させていることになり、ひいてはヒステリーの存在自体. を容認することになる。そうしないためには──もっとも、容認する必要. があるのかどうかはまた別の話だが──そもそもなぜ同一化がヒステリー. を引き起こすのかについて問わねばならない。. 端的に言って──、. . 理想化とは、対象への主体の同一化のことであって、(2002a:165). . と、フロイトの『ナルシシズム入門』に言及しながら、ラカンは同一化と. 理想化が同じ心的行為であることを明言しているが、念のため出典元を確. 認すると──、. . 理想化は、対象の性質を変えることなく拡大し、心的に高めるプロ. セスである。これは自我リビドーの領域でも、対象リビドーの領域. でも行われる。〈中略〉理想化とは、対象に対して行われるものに. ついて記述する概念である……。(1997b:263). . 中略を挟んで前半の文と後半の文が用語的に混乱しているように見えるが. (前半で「自我リビドー」と「対象リビドー」のどちらもと言っておきな. がら、後半では「対象に対して」となっている)、自我も対象の一種(「a」). と理解するなら、いちおう整合性はとれている。. 2020final.indd 142 2021/02/21 14:24. 143罪が先か、罰が先か──フロイト・ラカンにおける超自我の諸相と諸効果(後編:症例ドラ). シェーマLに則して見てみよう。対象が、本来の意味での対象(「対象. リビドー」)と自我(「自我リビドー」)のふたつに分かれているのは、そ. れぞれ「aʼ」と「a」のふたつの小文字の他者(「autre」)に対応している. からである。さらに同一化=理想化の観点から。「aʼ」→「a」が理想自我、「A」. →「a」が自我理想を、それぞれ形成する線と捉えることができる。どち. らであれ、理想が形成される場所は主体(「S」)ではなく対象(「a」)であ. り、理想のモデルは他者(「aʼ」「A」)である。. 通常のエディプス三角形では、これら二つの他者は、前者が〈母〉、後. 者が〈父〉となるが、ドラの場合、別の女性(K夫人)をめぐるライバル. 同士であり、しかも両者どちらもK夫人に対して弱みを抱えている。K氏. はもはやK夫人を愛しておらず、一方の父は、K夫人への愛の証であるは. ずの性的能力を欠いている。だからK夫人は不幸かというと、むしろ逆で. ある。これら二つの欠如を念頭に置いた発言なのかはさておき、ラカンが. 愛の成立要件として掲げるのが、ほかならぬ欠如である──。. . 愛が問題になるのは、まさに人がそれをもっていないという限りに. おいてだからです。(2005b:201). . ドラにとってK夫人が「問い」であるのも、まさにその点においてであり、. 焦眉の問い「女であるとは何か?」を、(問いとしてのK夫人)に体現さ. せることで解決(先送り?)を図るのである。問いが空白でなければなら. ない以上、女であるとは斯々然々といった具体的な回答はすべて無効とな. る。埋めるべきはドラの自我(「a」)のほうであり、その際、指針となる. のが二つの理想(理想自我、自我理想)だ。ただ、どちらであれ、元とな. るモデルが掴みどころのない他者(「aʼ」「A」)である以上、理想の中身を. 明示するのは困難であり、また困難だからこそ謎の魅力も高まる。. 事実、ドラの父への愛着の基盤にあったのは、父の健康の欠如であり. (「父が幾度も重病を患ったために、父への愛着はいやがうえにも高まった」. (2006:25))、あたかも父の病気に寄り添うように彼女みずから心を病むこ. とで、〝病〟を通じた象徴的同一化が確保される。K氏との想像的同一化が、. 同じ対象(K夫人)を通じてなされたことについてはすでに述べた。英語. 2020final.indd 143 2021/02/21 14:24. 144 研究論文. の〝want〟には〝欲する〟と〝欠ける〟の二つの意味があるが、何かを欲. するのはそれを持たないからという点では、両者はつながっており、また. つながっている以上、因果関係を逆にしても(「何かを持たないのは、そ. れを欲するからである」)意味は成り立つ。ドラにないものをK夫人が持. つことがそれじたい問いとなるのは後者の意味においてであり、ドラが、. K夫人が持つとされるその何かを欲するのは、K夫人自身、それが何かを. 知らないからである。. . 5(13). こうして欠如と欲望が同時に反対方向を循環することになるが、時計回. りや逆時計回りのようにぐるぐる回るわけではないのは、シェーマLが円. 形状になっていないことからも分かる──。. ドラと父を結ぶ矢印が逆向きであれば、円環(といってもメビウスの輪の. ように捻れた円環だが)が完成されたはずだが、そうなっていないのは、. 先述したように、父に表の顔と裏の顔(自我理想、超自我)があるからで. ある。. とはいえ、先の「超自我」「現実」「自我理想」からなる三角形に見られ. るように、「A」の場所を占めるのは自我理想ではなく超自我であり、自. 我理想は「a」に玉突き移動させられている。しかもその担い手はドラで. ある。となると、三角形の残りの極「aʼ」を占めるのは理想自我となるは. 2020final.indd 144 2021/02/21 14:24. 145罪が先か、罰が先か──フロイト・ラカンにおける超自我の諸相と諸効果(後編:症例ドラ). ずだが、なぜかそこにあるのは「現実」(母)である。ラカンは別のとこ. ろで「現実」を「フィクション」と言い換えているが、それは、ドラがダ. ブル不倫関係から自分の存在だけをみずから抹消し、残りの3人が織りな. すドラマを、K氏に感情移入(同一化)しながら〝鑑賞〟する様子を示唆. している。. またこのように見ていくと、自我理想の「理想」がどういうものなのか. も、うっすら見えてくる。この理想を一言でいうと、当事者性の放棄であ. る。表舞台から退き、目(想像的同一化)と耳(象徴的同一化)だけの裏. 方に徹すること──そうすることで、ドラから対象にではなく、対象から. ドラに向けられた同一化のベクトルを最大限に局所的(フロイト的に言う. なら、「部分欲動」的に)に受け止めることができる。こうしてドラの無. 意識の中にK氏と父が「彼女の場所に[=彼女の代わりに]やって来る」。. その際、そしてその都度、理想自我に自我理想が上書きされる。. ちなみになぜそのようになるのかというと、父とK氏がそもそも対等な. 関係ではなく、従属関係にあるからだ。円環が捻れているのもそのためで、. K氏がドラの同一化の対象に選ばれたのも、シェーマLの左上の三角形を. 見ても分かるように、父が黒幕として陰で糸(点線矢印部分)を引く存在. であるほうが都合が良いからだ。. さらに言うと、K夫人ですら、構造的には父からK氏への象徴的指令. (〝娘をあげるから寝取られ役を演じなさい〟)の橋渡し役にすぎない。重. 要なのは、父の愛がK夫人、K氏と回り回ってドラに伝わることであり、. これら三人の共謀回路は決してドラに知られてはならない。自我理想によ. る理想自我の上書きは、ひとえにこうした裏工作を隠蔽するためのもので. ある。. K氏が「子煩悩」であることにドラが親近感を抱き、進んでK夫妻の子. どもたちの世話をするようになったことが(2006:53)、結果的 0 0 0. に父とK夫. 人の逢い引きの機会が増やしたのか、それとも意図的 0 0 0. にK氏への同一化を. 通じた子煩悩への共感なのかは、俄には判別できない。ただ少なくとも、. 子どもの世話というすぐれて母親的な役割がドラの生来の気質によるもの. ではなかったにもかかわらず、結果的に父のためになったことが、ドラの. 子ども好きという後天的気質を育むことになったとすれば、それこそ自我. 2020final.indd 145 2021/02/21 14:24. 146 研究論文. 理想の事後的 0 0 0. 賜物と言えるだろう。これをジジェクによる自我理想の定義. に当てはめてみると──、. . 〈自我理想〉は、私[ドラ]が自我イメージ[=理想自我≒子煩悩. なK氏]でその眼差しに印象づけたいと願うような媒体であり、私. を[K氏、K夫人と連携して]監視し、私に最大限の努力[子ども. の世話]をさせる〈大文字の他者〉[父]であり、私が憧れ、現実. 化したいと願う理想[女性らしさ、母親らしさ]である。(2008:139). . ここだけ読むと、なんの変哲もないよくある自我理想に読めるが、シェー. マLと照らし合わせながら、ドラが本来いるべき場所「S」になぜかK夫. 人がいて、ドラが「a」に追いやられているのかまで含めて考えてみると、. 話が込み入ってくる。「エスのあったところに自我をあらしめよ(Wo es. war, soll ich werden)」がフロイト精神分析の目標だとすれば、ドラの治療. では、彼女が居座る「a」からK夫人のいる「S」に、すなわち「彼女[K. 夫人]の場所に[=彼女の代わりに]やって来る」ことが回復の目安とな. るが、ドラはこれを頑なに拒絶する。. もっとも、ドラにも一理あって、先に触れたように、たとえ〝非主体的〟. (非当事者的)な生き方であっても、鑑賞者(傍観者)としてドラマに没. 入できれば、それ以上を人生に求めないと居直られたら、分析家はなす術. もない(事実、ドラはある日を境に二度と来なくなる)。. とはいえ、臨床の打ち切りを以て分析終了とはいかないのは、患者が去. った理由についての大事な総括が残っているからで、「症例ドラ」の肝と. なる部分もそこにある。まず失敗理由についてだが、フロイトの落ち度に. よるのか、それとも最初から無理だったのかは、さして重要な問いではな. い。. それでもあえて結論付ける後者だろう。そもそも臨床時のドラの振る舞. いじたい、挑戦的で、治癒を望む態度ではなかった。要は、被分析「主体」. として診察室にいようがいまいが、フロイトの分析目標とは裏腹の(対象. 関係論的)対応──「自我[ドラ]のあったところにエス[K夫人]をあ. らしめよ」──を貫き通したのである。. 2020final.indd 146 2021/02/21 14:24. 147罪が先か、罰が先か──フロイト・ラカンにおける超自我の諸相と諸効果(後編:症例ドラ). そしてこの頑なな態度の中核にあるのが、封印された問い──「女であ. るとは何か?」──であり、分析を通じて答えを本人に告げることは、劇. 中人物が突如、壇上越しに観客に話しかけてくるような、映画『リング』. さながらのショックを与えたであろうことは想像に難くない。それでなく. とも、ただでさえ敵対的なドラに、解釈の波状攻撃を執拗に仕掛けてくる. フロイトがよく思われるはずがない。こうして、当初の挑戦的な振る舞い. に復讐的な要素が加味されていくにしたがって、「女であるとは何か?」. の「女」が、それまでの「女はこうあるべき」から「女はこうなってはい. けない」と非定形としての答え──「女は結婚してはいけない」(=「女. であるとは結婚しないことだ」)──に置換され、「すべての男」(フロイ. トも含む)が「断る」べき対象として一般化(圧縮)される──。. . 断るということには、たぶん「すべての男はほんとに嫌らしいのだ. から、私は結婚なんかしたくない」という意味があるのだろう。こ. れは私への復讐である。(2006:183). . フロイトの何への復讐か。彼女を治せなかったことへの復讐なのか。そう. ではない。むしろ逆で、ドラにとっては、自身が治らないこと自体が復讐. 行為(アクティングアウト)にほかならない──。. . この女性患者にとって、医師がどれほど無能であるかをわが身で示. すのに優る復讐はありえない。(同上:184). . 「わが身で示す」というのはもちろん病気に居直ることを指す。発症をき. っかけにせっかく分析の機会を得たにもかかわらず、あれこれ難癖をつけ. てはさんざん焦らした挙げ句、何の前触れもなしに突如フロイトのもとを. 去っていったのである(「彼女は、いつものように言い返すこともなく、. 耳を傾けていた。彼女は心を打たれた様子で、とても愛想よく心を込めて. 深淵に向けた挨拶をし、そして──二度と来なかった。」(同上:167)。. とはいえ、これら一連の行動じたいが症状の一部であることを考えると、. 復讐行為としての分析の打ち切りは、症状が比較的落ち着いていたフロイ. 2020final.indd 147 2021/02/21 14:24. 148 研究論文. トと過ごしたときよりも、(もはや復讐意欲が湧かないほど)症状が悪化. したことを意味する。ちなみにここでいう「意味する」は文字通り〝意味〟. する。すなわち──、. . 症状とは一つの 意 シニフィカシオン. 味 であり、シニフィエなのです。(2005b:322). . 症状としての復讐行為は、フロイトに伝わるべく発症(発話)したメッセ. ージであり、復讐(「心を打たれた様子で、とても愛想よく心を込めて深. 淵に向けた挨拶をし」……)がメッセージのシニフィアン(意味するもの). だとすれば、症状がそのシニフィエ(意味されるもの)となる。ドラは、. フロイトに復讐というシニフィアンを通じて自身の症状を訴えていたので. あり、もともと何かしら別の症状(偏頭痛、失声、希死念慮など)があっ. て、それらが一向に改善されないことへの怒り「医師がどれほど無能であ. るか……」)を医師に向けたわけではない。. ドラの目に映るフロイトは「無能」だったかもしれないが、それは彼女. からすれば受診前から織り込み済みのことであって、予期に反して有能だ. ったとしても、医師への対応にさして変化はなかっただろう。臨床者とし. てフロイトがすべきだったことは──ラカンの「知っているとされる主. 体」をもじるなら──〝何も知らないとされる主体〟としての分析家への. ドラの対応を、それじたいひとつの症状として、その裏に隠された原因を. 分析することだった。. どういうことか。フロイトは、ドラの男性嫌悪(「すべての男はほんと. に嫌らしいのだから、私は結婚なんかしたくない」)を分析家である自身. への復讐と受け止めたが、実は別のより深刻な原因から目を逸らさせるた. めのカムフラージュだとしたら……。ここで間接的ヒントとなるのが、ラ. カンやジジェクもよく引き合いに出すフロイトの『機知』の中のあるユダ. ヤ人ジョークだ──。. . 「クラカウに行くと言って、あんたがレンベルクに行くとわしに思. わせたいんだろう。だけどあんたは本当にクラカウに行くとわしは. 知っている。それなのになぜ嘘をつくんだ。」(2008:137). 2020final.indd 148 2021/02/21 14:24. 149罪が先か、罰が先か──フロイト・ラカンにおける超自我の諸相と諸効果(後編:症例ドラ). . この言ってみれば〝事実から注意を逸らすために事実に注意を促す〟のと. 同じ手口が、ドラの男性嫌悪にも使われているとしたらどうだろうか。も. っとも、そこには大きな違いがあって、ユダヤ人ジョークではクラカウに. 行くという事実と、レンブルグに行かないという事実が併記されているが、. ドラの場合、男性嫌悪と相反する事実が示されていない。. . 6(14). ……とここまで書いてきて、遅まきながら最初に注記すべきことを書き. 忘れていたことに気付いた。「すべての男はほんとに嫌らしいのだから…」. は、実はドラが発した言葉ではなく、分析が頓挫して数ヶ月経った後にフ. ロイトが当時を振り返り、ドラを代弁した言葉(解釈)である。ただ、重. 要なのは、それがドラの言葉ではないことよりも、解釈が分析中になされ. たリアルタイムのものではないことのほうだ。なぜタイムラグが生じてし. まったのか。フロイトといえども、相当な時間をかけないと解釈に辿り着. けなかったのだろうか。症例ドラで、解釈が困難を極めたのは、実はある. 特殊な事情──それも患者ドラではなく、フロイトの側の──があり、そ. のためにしばらく時間を寝かせる必要があった。その事情とは、フロイト. のヒストリー理論の失われた鎖としての女性同性愛であり、「レンブルグ. に行かない」に相当する部分に示されるべきはずの洞察が実際に書かれた. のは、症例ドラからさらに20年の年月が経ってからである³──。. . この分析が終わってから時が経てば経つほど、私には、自分の技術. 面での誤りが次のことを看過した点にあったに違いないと思えるよ. うになってきた。すなわち、私はK夫人への同性愛的な愛(女性へ. の愛)の興奮が、彼女の心的生活における無意識な流れのなかで、. もっとも強力なものであることを適切な時期に見破り、そのことを. この女性患者に伝えるのを怠ったのである。. . 精神神経症者における同性愛の流れの意味を認識する以前の私は、. 2020final.indd 149 2021/02/21 14:24. 150 研究論文. さまざまな症例の治療においてしばしば立ち往生してしまったり、. あるいは、完全な混乱に陥ったりしていたのだった。(2006:183). . ここだけ読むと、ドラの症状の根っこにあるのは、男性嫌悪というよりは、. それを隠れ蓑にした自身の同性愛の隠蔽のように思える。だがそれだけな. ら、反動形成としての男性嫌悪で十分であったように思える。それを復讐. という、自分自身も無傷では済まされない行為にまで駆り立てるものがあ. ったとしたら、それはもはや同性愛とは別の、もっとトラウマ的な何かが. 関与していたと見るべきではないか。そう考えると、父もK氏も、復讐の. ターゲットとしては少し役不足な気がする。確かにフロイトは男性嫌悪を. 復讐の観点から捉えているが、ラカンの指摘にあるように、復讐の「意味」. は症状であり、症状の原因が復讐であるとは考えにくい。. となると、残るはK夫人だが、K夫人はそもそも愛の対象ではなかったか。. それとも二人のあいだに何かあったのか。少し長いが先の続きを引用する. ──。. . 私は、ドーラが性的な事柄に関する知識を得るについて主役を演じ. ていたのは、ほかならぬK夫人でしかありえないことを見抜いてい. なければならなかった。そして、ドーラは、そののちまさにこのK. 夫人にとって、そういった事柄に興味をいだいているという告げ口. をされたのである。ドーラはいかがわしいことについては何でも知. っているのに、どこでそれを知ったのかについては、決して知って. いると言おうとしなかった。この謎に私は執着すべきだったし、こ. の奇妙な抑圧の動機を探求すべきであった。そうしていれば、第二. の夢によって、それが解き明かされたはずであった。この夢におい. て表現されている、容赦ない復讐欲ほど、それに対立する流れを隠. 蔽するのに適したものはない。すなわちここで表現された復讐欲の. 背後には、女友達の裏切りを赦すとともに、また、さまざまなこと. を伝授したのがまさにこの女友達であることは──そんなことを知. っているせいでのちにドーラはあらぬ嫌疑をかけられたのであるが. ──誰にも言わないという高潔さが隠されていたのである。(同上). 2020final.indd 150 2021/02/21 14:24. 151罪が先か、罰が先か──フロイト・ラカンにおける超自我の諸相と諸効果(後編:症例ドラ). . 二人のあいだに起こったこととは、K夫人のドラに対する裏切り(性につ. いての二人だけの内緒話を父に密告し、ドラの評判を落とす)と、ドラの. K夫人への報復であった。ところで細かいようだが、文言が「復讐」では. なく「復讐欲」となっていることに注意したい。復讐は実際になされたわ. けではなく、潜在意識(「欲」)のままである。なのに、なぜかK夫人をド. ラは「赦」してしまうのであり、フロイト自身、この点に当惑を隠せない. ──。. . 実際、総じて私は、K夫人に関してドーラから辛辣な言葉も、激昂. の言葉も聞いたことがないと言わねばならない。しかし、過大視さ. れた想念の見地からすれば、ドーラはK夫人に自分の不幸の元凶を. 見いださねばならなかったはずである。(同上:91). . ここで鍵となるのが「過大視された想念」というフレーズである。この想. 念とは、別のフロイトの言葉を使えば「性的過大評価」である。実際、ド. ラは──、. . K夫人について物語るたびに、夫人の「うっとりしてしまうような. 白い身体」のことを褒め称えるのだった。そのときの口調は、敗北. した恋敵というより、むしろ恋する者のようだった。(同上). . これだけならよく分かる。若い女性が年上の女性に異性愛と見紛うような. 性的憧れを抱くことは、とくに同性愛者でなくてもそんなに珍しいことで. はない。ところがドラの問題は、こうした「恋する者」の振る舞いとは裏. 腹の事態が彼女の「無意識的な愛情生活」の中で起こっていたことだ──。. . この[父とK夫人の関係をめぐる]過大視された想念の連なりは、. K夫人への愛という流れに対して、直接的に対立する関係にある。. (同上:92). . 2020final.indd 151 2021/02/21 14:24. 152 研究論文. 普通に読めば、父がK夫人を独占することで、ドラのK夫人への愛を邪魔. している──と読めるが、それだと「過大視」の意味が抜け落ちてしまう。. 「過大視」、もとい性的過大評価の対象はK夫人だけである。にもかかわら. ず、「父とK夫人の関係をめぐる」となっているのは、ドラの「無意識の. 愛情生活」の中で二人の関係が、まるで賃借対照表のように、K夫人(純. 資産)と父(負債)のセットとして扱われているからだ。. 父の負債とはもちろんドラに対しての負債だが(「お父さんがK夫人を. 自分のものにするのは赦さない」(同上))、それを言うなら、K夫人が父. の愛を受け入れたことに対しても、同じくらい我慢できなかったはずであ. る。しかもK夫人は「裏切りによって[ドラ]を幻滅に陥れた」(同上). 張本人であるにもかかわらず、高い評価(純資産)のままである。もちろ. んそれが偽りの感情であることをフロイトは見抜いていたが(「…幻滅に. 陥れたのは勘弁できないということを自分に対して隠していた」(同上))、. なぜ父への怒りは意識され、K夫人への怒りは無意識のままなのかについ. ての洞察までには至らなかった。そしてようやく答えに辿り着いたときに. は、ドラはもはやそこにはおらず、彼女に直接伝えられるべきはずの解釈. は空砲となって虚しく響くのだった──。. . 女性としての嫉妬の興奮は無意識において、男性が感じるような嫉. 妬と結び合わされていた。こうして男性的な流れ、あるいは、それ. よりは女性への愛 0 0 0 0 0. の感情の流れと言ったほうが適切であるが、そう. した感情の流れは、私の考察によれば、ヒステリーの少女たちの無. 意識な愛情生活における典型なのである。(同上) . . 一言でまとめるには惜しいほど歴史を根底から覆したヒステリー解釈でも、. ドラに対しては遅きに失したことを念頭に置きつつ続けると、ドラのK夫. 人に対する同性愛は、実は異性愛だったのであり、男性が女性を愛するよ. うに、K夫人を愛したのである。つまり、真に隠蔽されていたのは、同性. 愛ではなく、同性愛によってカムフラージュされた異性愛なのである。し. かも、ドラの中でK夫人の性的加工が施されていないとすれば、加工され. たのはドラ当人ということになる。ドラの無意識で重層化された抑圧の最. 2020final.indd 152 2021/02/21 14:24. 153罪が先か、罰が先か──フロイト・ラカンにおける超自我の諸相と諸効果(後編:症例ドラ). 深部にあったもの、ドラ自身そのことに意識すら及ばなかったものが、男. 性異性愛者という性別アイデンティティだったのである⁴。. 筆者は先ほど、「ドラの症状の根っこにあるのは、男性嫌悪を隠れ蓑に. した自身の同性愛の隠蔽」ではない 0 0 0 0. と示唆したが、いま述べたことがまさ. にその理由である。さらに、「復讐という、自分自身も無傷では済まされ. ない行為に関して、同性愛とは別の、もっとトラウマ的な何かが関与して. いる」という記述は、次のように言い換えられる──ドラは男性としてK. 夫人を愛していた。一方のK夫人は父に愛を向けている。ドラはふたりの. 橋渡し役をみずから買って出るが、彼女がじつは父の恋敵であることを、. 父もK夫人も知らない。K夫人にいたってはドラを裏切り、恩を仇で返す. 始末である。. だがドラにとって最大の屈辱は、この肌でひしひしと感じる屈辱の理由. ──女性同性愛者に扮することで彼女自身の男性異性愛者としての欲望を. ひた隠しにしていることを、当のドラ自身が気付かなかったことである。. K夫人に仮託した問い「女であるとは何か?」は、よってすり替えであり、. 本来問うべきは「『女であるとは何か?』を、異性(男)の立場から問う. 女(ドラ)とは何か?」である。「エスのあったところに自我をあらしめ. よ(Wo es war, soll ich werden)」のラカン=ジジェクの解釈は、「私は私の. 真理の場所にあえて接近しなければならない」であり、「真理」とは「私. が共生することを学ばなければならない堪えがたい真理」である。何と何. の「共生」か。主体(「S」)という椅子取りゲームの一つしかない椅子を. めぐる、男と女の(不可能な)共生である。. . . 2020final.indd 153 2021/02/21 14:24. 154 研究論文. 註. . 1. 「罪が先か、罰が先か──フロイト・ラカンにおける超自我の諸相と諸効果 (前編: シェーマL)」、『横浜国立大学教育学部紀要、II、人文科学』第四巻、横浜国立大学 教育学部、2021/2/28(予定)。. 2. 『「国旗に興奮する」「壁や天井になりたい」 深すぎる女性オタクの世界』参照。 2020/1015、https://www.itmedia.co.jp/lifestyle/articles/1607/25/news003.html. 3. 『女性同性愛の一事例の心的成因について』(1920年)。. 4. ラカンはこのいわば“異性愛としての同性愛”を、ドラに限らず同性愛に全般一般化 している。ただし、対象はあくまで女性であり、男性の男性に対する愛はその限り ではない──。. 定義上異性愛とは、おのれの性が何であろうと、女性を愛することである。そ れは最も明瞭なことである。(『蚊居肢』、Lʼétourdit, AE.467, le 14 juillet 72、蚊 居肢による私訳、2020/10/01、http://kaie14.blogspot.com/search?q=%E5%90%8C %E6%80%A7%E6%84%9B). . 参考文献一覧. . ジークムント・フロイト(1969)『ナルシシズム入門』、『フロイト著作集5』、懸田克躬 他訳、人文書院。. …………………(1996a)『快感原則の彼岸』、『自我論集』、竹田青嗣編、中山元訳、ちく ま学芸文庫。. …………………(1996b)『自我とエス』、『自我論集』、竹田青嗣編、中山元訳、ちくま学 芸文庫。. …………………(1997a)『女性の性愛について』、『エロス論集』、中山元編訳、ちくま学 芸文庫。. …………………(1997b)『ナルシシズム入門』、『エロス論集』、中山元編訳、ちくま学芸 文庫。. …………………(2006)『あるヒステリー分析の断片 ドーラの症例』、金関猛訳、ちくま 学芸文庫。. …………………(2006b)『女性同性愛者の一事例の心的成因について』、『フロイト全集 17』、藤野寛訳、岩波書店。. …………………(2008)『機知──その無意識との関係』、『フロイト全集8』、中岡成文 他訳、岩波書店。. …………………(2011)『続精神分析入門講義』、『フロイト全集21』、道籏泰三訳、岩波 書店。. ジャック・ラカン(1987a)『精神病(上)』、ジャック=アラン・ミレール編、小出浩之 他訳、岩波書店。. …………………(1987b)『精神病(下)』、ジャック=アラン・ミレール編、小出浩之他訳、 岩波書店。. …………………(1997c)『フロイト理論と精神分析技法における自我(上)』、ジャック =アラン・ミレール編、小出浩之他訳、岩波書店。. 2020final.indd 154 2021/02/21 14:24. 155罪が先か、罰が先か──フロイト・ラカンにおける超自我の諸相と諸効果(後編:症例ドラ). …………………(1997d)『フロイト理論と精神分析技法における自我(下)』、ジャック =アラン・ミレール編、小出浩之他訳、岩波書店。. …………………(2000)『精神分析の四基本概念』、ジャック=アラン・ミレール編、小 出浩之他訳、岩波書店。. …………………(2002a)『精神分析の倫理(上)』、ジャック=アラン・ミレール編、小 出浩之他訳、岩波書店。. …………………(2002b)『精神分析の倫理(下)』、ジャック=アラン・ミレール編、小 出浩之他訳、岩波書店。. …………………(2005a)『無意識の形成物(上)』、ジャック=アラン・ミレール編、佐々 木孝次他訳、岩波書店。. …………………(2005b)『無意識の形成物(下)』、ジャック=アラン・ミレール編、佐々 木孝次他訳、岩波書店。. …………………(2006)『対象関係(上)』、ジャック=アラン・ミレール編、小出浩之他 訳、岩波書店。. …………………(2015)『転移(下)』、ジャック=アラン・ミレール編、小出浩之他訳、 岩波書店。. スラヴォイ・ジジェク(1996)『快楽の転移』、松浦俊輔他訳、青土社。. …………………(2008)『ラカンはこう読め!』、鈴木晶訳、紀伊國屋書店。. マルクス エンゲルス(1951)『共産党宣言』、大内兵衛他訳、岩波文庫。. (都市イノベーション研究院・教授). 2020final.indd 155 2021/02/21 14:24. 156 研究論文. Crime or Punishment?: Aspects and Effects of Super-Ego in Freud and Lacan (Part 2: the Dora Case). Tomonori Kiyota. This is the second part of the two-part article of the same title (the first part, named “Schema L,” appears in Journal of the College of Education, Yokohama National University, The Humanities, vol. 4, 2021). The purpose of the article is to find the hidden traces of the absences, in Lacan’s Schema L, of two major Freudian concepts: the super-ego and the death drive. The missing link(s) between the two terms and the four manifest concepts on Schema L — the subject (S), the ego (a), the big Other (A), and the small other (a’) — are explored from various mutually contradictory and/or complementary angles, which I think is Lacan’s aim of schematizing what is unschematizable. The sources of the unschematizable are originally found in Freud’s ways of conceptualization, on the one hand: conscious and unconscious, the subject and the ego (and, the ego and the alter-ego, for that matter), super-ego and ego-ideal; and, on the other hand, Lacan’s ways of conceptualization: the big Other and the small other, subject and object, and language (the Symbolic) and image (the Imaginary), and finally schematizable and unschematizeble. These pairs of contradiction are often falsely but necessarily resolved (transformed) into pairs of binary oppositions, and thus moved cyclically among the four poles of Schema L (reminding one of Freud’s “interminable analysis”) The part 2 (the Dora Case) examines Lacan’s re-interpretation (L-schematization) of Freud’s Dora’s Case, and attempts to find the structural reason why Dora is not located at the first pole (that of the centered subject), and instead is relegated to the third pole (that of the ego). This question concerns female homosexuality which, according to Lacan, is actually heterosexual because the object of love — the ultimate other — has to be woman, which contradicts Mrs. K’s position as the subject on Schema L, thus begging question “What is being a woman?” (Lacan’s rewording of Freud’s “What does the woman want?”).. 2020final.indd 156 2021/02/21 14:24

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