博 士 ( 文 学 ) 下 茂 英 輔
学 位 論 文 題 名
日 本人移 住者及 びその 次世代 のエ スニシ テイに関する研究:
西部 カナダ を事例 として
学位論文内容の要旨
本論文の目的は、1967年の移民法改正後に日本からカナダに渡った「移住者」とその次 世代(以下「新二世」)のエスニシテイ、および日系コミュニティの現在について文化人類 学的視点から明らかにすることである。
本研究の意義は、主に次の2点である。(1)日本人の戦後移住の実態に民族誌的に追っ た点。在外日系人に関する研究は、分賢を問わず幅広く研究されてきた。しかし、第二次 世界大戦後の日本から海外への移住に関する研究は十分に行われていない。本研究は、カ ナダを事例として、時代的背景に基づぃた移住者の分類、日系コミュニテイの現状、日本 文化の資源化、新二世のエスニシティという観点から、戦後日本から海外への移住研究の 発展を 目指した もので ある。(2)エスニシテイ論への新たなアプ口ーチを提示した点。こ れまでの目系人のエスニシティに関する研究では、世代間に見られる文化変容やェスニッ ク・アイデンテイテイなどが中心に取り上げられてきた。本研究では、移住に伴う日本人 意識の強化や現地化に伴うエスニック・アイデンテイテイの揺れに加え、移住者や新二世 に見られるエスニシテイの流動的かつ偶発的な特徴に注目した。その結果、日本人である ことに固執しない移住者が、自らのエスニシティを「資源」として活用するプロセスが浮 かび上がってきた。また、新二世においては、旧来の二世の議論には当てはまらない側面 と、三世的な側面を併せ持っという興味深い特徴が明らかとなった。以上を考慮し、本研 究では移住者や新二世のエスニシテイを「居場所」という観点から捉えることを試みた。
第一章では、まずカナダ・パンクーバーにおける日系コミュニテイの変遷を辿り、移住 者と新二世の生活基盤の歴史的背景を確認した。現在のバンクーバーにおける日系コミュ こティの特徴は、その地理的な不可視性にある。本章では、旧日本人街の誕生、第二次世 界大戦による強制移動と強制収容、それに伴うエスニック・コミュニテイの拡散、日系移 民百年祭、戦後補償運動(リドレス運動)などを通して、現在に至る過程を述ぺた。次に、
−40―
本研究の理論的枠組みであるエスニシティ概念の再考を行った。「民族」や「ネイション」
などの関連概念の整理の後、本研究ではェスニシティを「歴史的・文化的に口ーカルな文 脈で生成され、民族的に何らかの実体性を持ちながら、個人が居場所を求めた結果の複合 的産物」として定義した。方法論としては、文化人類学の王道である参与観察と聞き取り を中心とした。
第二章では、これまで一括りにされてきた「移住者」を、日本とカナダの時代的背景に 基づいて、(i)1960年代から1970年代(アメリカ文化の流入に影響を受けた世代)、(ii) 1980 年代から1990年代(高度経済成長期の日本を経験し、個人のライフスタイルを追求した世 代)、(iii) 1990年代以降(バブル経済崩壊後、職や精神的安らぎを求めた世代)に分類し た。近年は「ワーキングホリデー制度」(最長1年間滞在可能)を経由して永住権を取得す る移住者が多く、同制度が移住のための試行的機能を果たしている。次に、地理的な凝集 性を失い、かつ様々な社会的背景を持つ移住者を抱える現在の「日系コミュニティ」が拡 散した具体的な要因について、移住者の特徴から以下の4点を指摘した。(1)「日本」の否 定:日本において周縁的位置に追いやられた人々(ゲイ、いじめ経験者など)にとって、
現地の日系コミュニティに参加することは日本での負の記憶を追体験するものとなる。(2) メディアの役割:メディアの発達により、移住者同士あるいは目系人との対面的な場が減 少し、ヴァーチャルな紐帯が強くなった。(3)脱外国化:グ口ーバリゼーションの影響で日 本とカナダの文化的境界線が曖味になり、移住者の在外感覚が希薄になりつっある。(4) ライフスタイル移住と複数の「ホーム」:個人のライフスタイルを優先する移住者の多くは、
カナダにおいて「日本人」としてっながることに重きを置いていない。その原因のーっと して、脱出したはずの日本との心理的紐帯の維持が考えられる。以上を踏まえ、本章では 現 在 の 日 系 コ ミ ュ ニ テ ィ を 新 た な っ な が り に 向 け た 移 行 期 と し て 位 置 づ け た 。 戦後カナダにおける日系コミュニテイは、いわゆる「工スニック・夕ウン」としての影 は潜めているものの、各種団体や組織ごとの草の根的な結びっきは維持されている。第三 章では、そのーっとして日系の非営利福祉団体「隣組」(実名)を事例として取り上げた。
参与観察の結果、隣組は移住者や日系人の間での贈与交換による自助的活動が活動の原動 カとなっており、各種イベントでは参加者主体の催し物を通して彼/彼女らの文化的紐帯 が維持されている。これらの活動には、日系一世から受け継がれた一昔前の日本的価値観 や食文化などが温存されており、人間関係の希薄化した戦後の日本で生まれ育った一部の 移住者にとって、それは日本人としてのアイデンテイテイを喚起する要因のーっとなって いる。一方、カナダ的ライフスタイルを享受している移住者も存在しており、移住者には
ー 41―
戦前の一世には見られなかった 現地化の兆候も見られる。ただ、現地生まれの日系人と移 住者の間にある文化的ギャップが根強いことも事実である。
移住者の中には、非日系あるいは個人のアイデンティティに重きを置く人々も存在する。
第四章では、エス三シティヘの 依存度が低い移住者にとって「日本らしさ」がいかなる意 味を持つのか、という点に注目 した。事例として取り上げたN氏の画廊ピジネスでは、和 紙と西洋的画風を融合した独自 の技法が用いられており、ユニークかつ現地の人々に馴染 みのある作品が特徴である。作品の販売においては、以下の点が特徴的である。(1)言語運 用力、(2)コミュニケーションカ、(3)ホワイトネス(白人性)の獲得。エスニシティの資 源化は、移住者が異国の地で生 き抜く術として有効である一方、それは社会的経済的変化 と決して無関係ではない。本章 では、2008年9月のりーマン ショックの影響によって絵画 の売れ行きが思わしくない中で 、それを補完するアジア各地で仕入れた小物や装飾品、衣 類などが重要な役割を果たしていることを指摘した。
本論文で最後に考察したのは 、戦後移住者の子供世代に当たる新二世のエスニシテイで ある。他の世代との比較におけ る新二世の特徴は、まず戦前の二世が抱いていた人種差別 や偏見に基づく「エスニック・ スティグマ」を経験することなく、現地化している点であ る。次に、日本や日系コミュニ テイと新二世の間に軋轢がないとは言えないものの、戦前 の二世のように自らのエスニシ テイに対して否定的な価値観を持たない彼/彼女らの多く は、日本での長期滞在を通して自身の文化的ルーツに触れている。その結果、「親が忘れよ うとしたことを孫が思い出す」 というハンセンの法則は新二世には部分的にしか当てはま らず、「日系であることを忘れないが、それに固執もしない」という、これまでの世代論と は一線を画した特徴が明らかとなった。なお本論文では、いったんカナダに渡った後に様々 な事情で帰国した者(いわゆる「帰国者」)に関する言及はないが、調査の過程で重要な問 題として浮かび上がってきたので、今後なるべく早い時期に調査・研究を行う予定である。
‑ 42―
以上
学 位 論 文 審 査 の 要 旨 主 査 教 授 桑 山 敬 己 副査 准 教授 村 田勝 幸 副 査 教 授 煎 本 孝
学 位 論 文 題 名
日本人移住者及びその次世代のエスニシテイに関する研究:
西部カナダを事例として
本論文は、戦後カナダにおける日本人移住者 とその次世代である新二世のエスニシティ を、2003年以 降バンクーパ ーで断続的に行ったフイールドワークに基づいて、資源 人類 学の成果を利用して明らかにしたものである。 近年、資源概念がさまざまな分野で注目さ れるに及んで、エスニシテイをーつの資源として捉えた人類学的研究が生まれっっあるが、
本論文はそうした新しい動きの中に位置づけら れる。
第1章「課題と方 法」では、バンクーパーにおける日系コミュニテイの歴 史的背景につ いて述ベ、さらに本研究の理論的枠組みである エスニシテイ概念を検討している。その上 で、「居場所」概念を用いた新たなエスニシテ イ分析を提案している。第2章「日本人移 住者とポスト・リドレス(補償運動)期の日系 コミュニティ」では、現在、拡散状態にあ る日系コミュニテイを、(1)「日本」の否定、(2)ヌディアの役割、(3)脱外国化、(4)ライフ スタイル移住と複数の「ホーム」、という4つの要因から分析している。い ずれもグロー バル化とメディアの発達と関連しており、近年 の社会変化を的確に反映していると言えよ う。第3章「日系コ ミュニティに集う人々」では、「隣組」(実名)という歴史的組織を事 例に、その社会的役割に焦点を当てている。そ こでは、日本人としての帰属意識を喚起さ れる移住者がいる一方で、移住者の現地化とい う傾向も見られる。さらに、日本という枠 組みに固執しない移住者も存在するという。第4章「エスニシテイを売る技 法」では、エ スニックな帰属意識が希薄な移住者にとって「 日本らしさ」がもつ意味について検討して いる。本章で注目したのは、エスこシティの資 源としての側面である。事例として取り上 げた 画廊 経営 者N氏 の店 の分 析は 、氏 に密 着して行った参与観察を基としており、 大変
― 43ー
興味深い民族誌となっている。第5章の「新二世のエスニシテイ」では、これまでほとん ど研究されていない「新二世」のエスニシテイを考 察しているふ彼らには「日本」と「カ ナダ」という文化的重層性が見られるため、日系で あることは忘れないが、それに必ずし も固 執も しな いと いう、従来の世代論とは一線を画した特徴があると筆者 は主張する。
以下は本論文の総合的評価である。本論文の第1の成果は、エスニシテイという「古く て新しい問題」を正面から取り上げ、近年注目され ている資源人類学の成果を利用して民 族誌的に描写分析したことにある。第2の成果は、文化人類学ではあまり研究されていな い北米、なかんずくカナダにおける移住者を取り上 げたことにある。日本では北米研究に おいてさえ、戦後の移住者に関する本格的研究は少 ない。第3の成果は、従来のエスニシ テイ論や移民論の枠組みでは捉えられない人びとの 意識、っまり自らのエスニシテイに対 して原初的愛着を感じる一方で、グローパル化やメ ディアの発達によってエスニックな帰 属感が希薄化したという両義的な状況の中で、「居 場所」を探している人びとの存在を指 摘し たこ とに ある 。そ して 第4の 成果 とし て、1980年代半ばの「ライテイ ング・カルチ ヤー・ショック(WritingC, ぬ 胞shock)」および「実験的民族誌」の試みを受けて、部分 的にナラテイヴを採用したことにある。本論文は人 類学におけるエスニシティ研究を再活 性化する可能性を秘めていると評価できる。
その一方で、以下のような問題点も指摘しておき たい。第1に、実証という観点からす ると方法論に多少の難点があり、後学が使えるよう な形での資料提示がない。第2に、理 論的枠組みが先にあるような印象を与える部分があ り、資料と議論の乖離が見られる。第 3に、長期にわたるフイ ールドワークを実施したものの、移住者との生活感覚の共有がま だ十分ではなく、それが記述に厚みをもたらさなか った。第4に、「居場所」が論として 完成しておらず、エスニシテイに関する独自の理論 の提示には至っていない。もっとも、
これらの問題は本論文の学術的価値を損ねるもので はなく、今後の課題として理解される べきであろう。
以上のような審査結果に基づき、審査員は全員一 致で本論文を博士(文学)の学位を授 与するにふさわしい業績であるとの結論に達した。
以上
一 44―