博 士 ( 文 学 ) 滝 口 良
学 位 論 文 題 名
モンゴル・ウランバートル市ゲル地区における土地私有化政策 と住民参加型開発を通じた市民の形成に関する人類学的研究
学位論文内容の要旨
モンゴル では社会主義崩壊後の2003 年に実施された土地私有化政策によって、都市部の 住民に対し て個人の土地所有権が初めて認められた。この土地私有化は、土地商品化を実 施するため に実現された政策だったが、実際には多くの住民が所有権を得るために無秩序 な土地の囲 い込みを行う結果となった。そして現在のウランバートルでは、深刻な社会問 題が引き起 こされている。これらに対処するため、さまざまな国際機関が再開発計画を提 示し、新し い市民を育成する住民参加型の開発計画を進めてきた。本論文は、土地私有化 と住民参加 型開発の対象となることで大きく変化するゲル地区において長期間の現地調査 を行い、新 たな社会を生きるモンゴルの人々の姿を実践論によって明らかにしたものであ る。
第1 章「ポスト社会主義モンゴルと『 新しい人間』の育成」では、転換期の社会におけ る市民育成 という主題の理論的課題を明確にするため、従来の教育を通じた社会の再生産 モデルに対 する批判的検討を行っている。その上で、ポスト社会主義モンゴルにおける土 地私有化政 策と住民参加型開発というニつの新たな開発政策を、新たな社会にふさわしい 市民を育成 して、参加による共同性を生み出す試みとしてとらえる本論の課題を提示して いる。
第2 章「調査地の概要」では、社会主 義体制崩壊後のモンゴル社会に関して、調査地と なるモンゴル国の首都ウランバートル市と、同市人口のおよそ半数が生活する「ゲル地区」
について概 説している。ゲル地区は、遊牧民の移動式住居「ゲル」に暮らす人々の居住区 であり、モ ンゴル固有の都市の居住形態としての特徴をもっていたとされる。しかし体制 移行後のゲ ル地区では、人口増加、スプロール化、未整備なインフラなどによって住環境 が急速に悪 化し、複数の政府・国際機関による開発プロジェクトの対象となってきたこと を論じている。
続く第一 部と第二部では、社会主義時代以降の「土地所有」に関する諸制度や解釈の変 遷と、土地私有化政策以降の問題を解決する,ための開発プロジェクトについて述べられる。
まず第一 部の「土地私有化」では、社会主義体制崩壊後の土地私有化の実施が、ウラン バートル市のゲル地区に与える影響を中心にとりあげている。
第3 章「『史上初』の土地所有」では 、モンゴルにおける
20世紀後半から現在に至る土
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地 制 度 の 変 化 を あ と づ け て い る 。 ま ず 、 土 地 私 有 化 に あ た っ て 各 メ デ ィ ア で 喧 伝 さ れ た 「 史 上 初 の 土 地 所 有 」 と い う 言 説 の 分 析 を 行 っ て い る 。 次 に 、 社 会 主 義 体 制 下 に お け る 家 屋 が 譲 渡 可 能 な 「 生 活 財 産 」 と し て 認 め ら れ て い た 事 実 を 指 摘 し 、 国 有 体 制 の な か で 存 在 し た
「 私 的 」 な 財 産 の 存 在 を 明 ら か に し て い る 。 続 い て 、 体 制 移 行 後 の モ ン ゴ ル に お け る 土 地 制 度 改 革 の 歴 史 を ま と め 、 そ の 上 で 土 地 私 有 化 政 策 の 具 体 的 内 容 に つ い て 検 討 し て い る 。 最 後 に 、 土 地 私 有 化 を 支 援 す る 国 際 機 関 と 土 地 私 有 化 に 否 定 的 な 立 場 を と る 遊 牧 研 究 者 に よ る モ ン ゴ ル の 土 地 利 用 に 関 す る そ れ ぞ れ の 歴 史 的 解 釈 を 検 討 し て い る 。 こ れ ら を 通 じ て 、 社 会 主 義 体 制 崩 壊 後 の 土 地 私 有 化 を 「 国 有 か ら 私 有 ^ 」 と い う 単 純 な 移 行 と し て は と ら え ら れ な い こ と を 論 じ て い る 。
第4章 の 「 土 地 所 有 者 に な る た め に : ウ ラ ン バ ー ト ル に お け る 土 地 私 有 化 」 で は 、 ウ ラ ン バ ー ト ル の ゲ ル 地 区 に お い て 実 施 さ れ た 土 地 私 有 化 の 検 討 を 行 っ て い る 。 ま ず 経 済 学 者 De Sotoの 「 効 果 と し て の 所 有 」 と 、Verderyの 「 あ い ま い な 所 有 」 と い う ニ つ の 対 照 的 な 所 有 論 の 検 討 を 通 じ て 、 ポ ス ト 社 会 主 義 国 に お け る 私 有 化 の 理 論 的 モ デ ル に つ い て 検 討 し て い る 。 そ の 上 で 、 モ ン ゴ ル で 出 版 さ れ た 土 地 私 有 化 の 手 続 き に 関 す る 市 民 向 け ガ イ ド ブ ッ ク の 分 析 を 行 い 、 こ こ か ら 土 地 所 有 者 に な る た め に 必 要 と さ れ る 知 識 や 実 践 が 、 単 な る 法 学 的 な 知 識 で は な く 、 人 々 が 日 常 的 に 行 う 行 動 に 直 接 に 関 わ る も の で あ る こ と を 示 し て い る 。 最 後 に 、 ニ つ の 家 族 の 土 地 私 有 化 前 後 の 移 動 と 居 住 の 事 例 を 通 じ て 、 土 地 私 有 化 が ゲ ル 地 区 に お い て 土 地 と 居 住 を め ぐ る 複 数 の 認 識 と 実 践 が 可 能 な 「 不 確 定 な 」 状 況 を 生 み だ し て い る こ と を 論 じ て い る 。
第 二 部 の 「 柵 の 外 」 で は 、 土 地 私 有 化 後 の ゲ ル 地 区 に お い て 実 施 さ れ た ニ つ の ゲ ル 地 区 開 発 の プ ロ ジ ェ ク 卜 を と り あ げ て い る 。 両 プ ロ ジ ェ ク ト は 、 ゲ ル 地 区 に 地 域 コ ミ ュ ニ テ ィ を 形 成 す る こ と に よ っ て 土 地 私 有 化 後 に 生 じ た ゲ ル 地 区 の 混 乱 を 解 決 し よ う と す る 試 み で あ る 。
第5章 の 「 ゲ ル 地 区 の 分 離 と 包 摂 」 で は 、 土 地 私 有 化 後 の グ ル 地 区 で 生 じ た 公 共 空 間 の 荒 廃 問 題 を 概 観 し 、 こ れ を 社 会 主 義 体 制 下 の ゲ ル 地 区 に お け る 公 共 空 間 の 管 理 と 比 較 し て い る 。 社 会 主 義 体 制 下 の ゲ ル 地 区 は 、 ア パ ー ト 地 区 と 同 様 の 住 民 組 織 ・ 行 政 組 織 が 存 在 し 、 ま た 日 常 生 活 の 監 査 に よ っ て 家 庭 内 外 の 関 係 が 制 度 化 さ れ て い た 。 し か し 社 会 主 義 体 制 の 崩 壊 に よ っ て ゲ ル 地 区 の 秩 序 を 維 持 し て い た 諸 制 度 が 失 わ れ た こ と が 、 今 日 の ゲ ル 地 区 の 公 共 空 間 の 管 理 不 在 と い う 事 態 の 要 因 と な っ て い る こ と を 明 ら か に し て い る 。 第6章 の 「 土 地 所 有 者 た ち の 共 同 体 」 で は 、 ゲ ル 地 区 に お け る 土 地 私 有 化 に 代 わ る 新 た な 開 発 計 画 と し て の 住 民 参 加 型 開 発 の 事 例 を と り あ げ て い る 。 モ ン ゴ ル 政 府 ・ 国 際 機 関 は 、 土 地 私 有 化 後 も 混 乱 が 続 く ゲ ル 地 区 に 対 し 、 住 民 参 加 に よ る イ ン フ ラ 改 善 を 含 む 総 合 的 な ゲ ル 地 区 開 発 の 枠 組 を 作 成 し て い る 。 こ の 枠 組 に 基 づ く ゲ ル 地 区 開 発 の 事 例 と し て 、 ウ ラ ン バ ー ト ル 市 土 地 局 に よ る 住 民 参 加 型 開 発 プ ラ ン ( 「 私 の 土 地 、 私 の 財 産 プ ロ グ ラ ム 」 ) を と り あ げ て い る 。 同 プ ラ ン は 土 地 区 画 整 理 を 地 域 コ ミ ュ ニ テ ィ の 合 意 形 成 を 通 じ て 実 施 す る も の で あ り 、 モ デ ル 地 区 の 住 民 を コ ミ ュ ニ テ ィ と し て 編 成 す る た め の 手 法 を 備 え て い る 。
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同 プランの住民説明会での計画者と住民の応答の分析を通じて、計画者が立案し住民に提 示 したコミュニティのモデルが、コミュニティの参加者の成員資格や範囲を決定できず、
地 域住民の合意形成に失敗していることを明らかにしてい る。
第7 章の「生成する市民グル ープ」では、日本の支援による住民参加型開発プラン「ウ ラ ンバートル市公共サービス改善計画」(以下、NAAST とする)の事例をとりあげている。
NAAST
は、ゲル地区の行政区毎に住民グループを育成し、住民グループへの援助を通じて地 域 のインフラを改善する計画である。NAAST のゲル地区の住民グループに対する教育・管 理 ・評価の手法は、従来の開発計画とは異なり、住民グループの日常的な動向や関心まで を 対象としていることに特徴がある。NAAST による住民グループの詳細な管理を通じて、住 民 グループのあいだで公共空間に対する関心やコミュニティをめぐる協約可能な現実が作 り 上げられていることを明らかにしている。さらにNAAST に参加するニつのグループの実 例 をとりあげ、こうした管理のもとで住民グループがどのような関心をいだき、新たな地 域 の 現 実 を 生 み だ す 実 践 を 行 な っ て い る の か を 明 ら か に し て い る 。
結論部となる第8 章の「市民 の生産」では、各章の内容を総括したうえで、転換期の社 会 における人々の実践をとおして社会主義後のモンゴルの変容をとらえる本論の人類学的 研 究への意義について、ラビノウやインゴルドの存在論的人類学研究の議論を参照しつつ 検 討している。
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学位論文審査の 要旨 主査 副査
副査 副査
特任教授 教授 教授 准 教 授
宮武 棄山 橋本 石川
学 位 論 文 題 名
公夫 敬己 雄一
守(地球環境科学研究院)
モンゴル・ウランバートル市ゲル地区における土地私有化政策 と住民参加型開発を通じた市民の形成に関する人類学的研究
審査の方法および経過
平 成 24 年10 月23 日第1 回審査委員会 平成24 年11 月6 日 第2 回審査委員会 平成24 年11 月27 日 口述諮問の実施 平 成 24 年11 月27 日第3 回審査委員会
論文を審査委員に配布、日程調整 論 文 内 容の審 査、問題 点の検 討
口述諮問の結果及び審査内容の検討 学位授与の可否判定
平成24 年12 月3 日第4 回審査委員会審査報告書(案)の作成と点検 平 成 24 年 12 月 6 日 第 5 回 審 査 委 員 会 審 査 報 告 書 の 確 定
審査の概要 論文内容の検討
モンゴルでは社会主義崩壊後の2003 年に実施された土地私有化政策によって、都市部の 住民に対して個人の土地所有権が初めて認められた。この土地私有化は、資本主義経済の もとでの土地の商品化を実施するために実現された政策だったが、実際には多くの住民が ウランバートル郊外のゲル地区に移り住み、土地の所有権を得るために無秩序な土地の囲 い込みを行う結果となった。そして現在のウランバートルでは、ゲル地区の拡大によって、
都市環境の悪化、上下水道の不備、薪ストーブの使用による大気汚染、犯罪の増加などが 深刻な社会問題となっている。このような問題は、社会主義からの解放によって、近代的 で理性的な市民が生まれるという国際機関の期待が破綻し、その一方で混沌としたインフ オーマルな領域が都市に拡大している事を示している。これらに対処するため、ウランバ ートルではさまざまな国際機関が再開発計画を提示し、これまで土地の個人所有概念を持 たなかった人々に学習や教育の機会を与え、新しい市民を育成する住民参加型の開発計画
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を進め てきた 。
本 論 文 は 、 以 上 の よ う に 政 府 ・ 国 際 機 関 の 主 導 す る 土 地 私 有 化 と 、 住 民 参 加 型 開 発 の 対 象 と な る こ と で 大 き く 変 化 す る ゲ ル 地 区 に お い て 長 期 間 の 現 地 調 査 を 行 い 、 先 行 研 究 を 批 判 的 に 参 照 し な が ら 、 伝 統 的 な も の 、 社 会 主 義 的 な も の 、 市 場 経 済 的 な も の 全 て を 「 器 用 仕 事 」 の よ う に 用 い な が ら 、 新 た な 社 会 を 生 き る モ ン ゴ ル の 人 々 の 姿 を 、 社 会 や 文 化 を 分 析 枠 組 み と す る 従 来 の 人 類 学 研 究 に 対 し て 、 正 統 的 周 辺 参 加 論(LPP)や 実 践 コ ミ ュ ニ テ イ 論 と い っ た 実 践 論 を も と に 明 ら か に し て い る 。
当 該 研 究 領 域 に お け る 本 論 文 の 研 究 成 果 の 検 討
本 論 文 の 第 一 の 成 果 と し て は 、 社 会 主 義 後 の モ ン ゴ ル に お け る 土 地 私 有 化 と い う 問 題 を 、 外 部 の 法 や 経 済 の 押 し っ け た 問 題 と し て で は な く 、 住 民 の 学 習 と 実 践 の 関 わ る 問 題 と し て 内 側 か ら 捉 え 直 し た 点 に あ る 。 滝 口 氏 は 長 期 間 の 参 与 観 察 を と お し て 、 土 地 所 有 制 度 ・ 住 民 参 加 型 開 発 と い う 外 部 の 諸 制 度 や 知 識 と 、 人 々 が 日 常 的 に 行 う 実 践 と の ダ イ ナ ミ ッ ク な 関 係 を 詳 細 に 描 き 出 し 、 「 伝 統 」 的 な モ ン ゴ ル の 土 地 や 家 族 概 念 と 、 国 際 機 関 が 導 入 し た 市 場 経 済 的 な 諸 制 度 が 混 在 す る ゲ ル 地 区 の 姿 を 、 住 民 が 学 習 や 知 識 を 参 照 し な が ら 身 近 な モ ノ や 技 術 を 用 い て 生 み 出 す 、 新 た な 共 同 性 の 形 成 過 程 と し て 明 ら か に す る こ と に 成 功 し て い る 。 ま た 第 二 の 成 果 と し て は 、 こ れ ま で 「 国 有 」 か ら 「 私 有 」 と し て 切 断 さ れ 、 「 土 地 私 有 」 と い う 資 本 主 義 的 な 市 場 経 済 制 度 の 導 入 に よ っ て 生 み 出 さ れ た 、 全 く 新 し い 社 会 問 題 と さ れ た 土 地 私 有 化 の 問 題 に 、 社 会 主 義 時 代 に お け る ゲ ル 地 区 の 公 共 意 識 と 社 会 秩 序 と い う 視 点 を 導 入 し 、 社 会 主 義 時 代 か ら の 連 続 性 と 非 連 続 性 の 問 題 と し て 再 検 討 し て い る 点 に あ る 。 さ ら に 第 三 の 成 果 と し て は 、 ラ ピ ノ ウ や イ ン ゴ ル ド な ど の 人 類 学 研 究 に お け る 実 践 論 や 存 在 論 の 成 果 を 参 照 し な が ら 、 社 会 や 文 化 と い っ た 還 元 論 に 陥 る こ と な く 、 モ ン ゴ ル の 人 々 の ゲ ル 地 区 に お け る 活 動 を 理 解 す る 理 論 的 枠 組 み を 提 示 し て い る 点 に あ る 。
学 位 授 与 に 関 す る 審 査 委 員 会 の 判 定
本 研 究 は 滝 口 氏 の 延 べ4年 間 に わ た る モ ン ゴ ル に お け る 調 査 研 究 の 集 大 成 で あ り 、 近 年 の 人 類 学 に お け る 実 践 論 研 究 の 理 論 的 成 果 を 用 い た 事 例 研 究 と し て 高 く 評 価 さ れ る 。 ま た 幅 広 く 詳 細 な モ ン ゴ ル に お け る 調 査 結 果 は 、 地 域 研 究 や 文 化 人 類 学 研 究 と し て 評 価 さ れ る だ け で な く 、 環 境 科 学 、 村 落 ・ 家 族 研 究 等 の 他 領 域 の 研 究 と し て も 高 く 評 価 で き る も の で あ る 。 し か し 本 論 文 で は 前 半 部 の 実 践 論 研 究 の 枠 組 み が 後 半 部 で は 明 確 に さ れ て い な い 点 や 、 第5章 で 大 き く 取 り 上 げ ら れ た 社 会 主 義 時 代 に お け る ゲ ル 地 区 の 公 共 性 の 問 題 が 、 第6 章 の 参 加 型 開 発 の 事 例 で は 取 り 上 げ ら れ な い な ど 、 若 干 の 問 題 が 残 さ れ て い る 。 し か し こ れ ら の 問 題 は 滝 口 氏 自 身 が 認 識 し て お り 、 今 後 の 調 査 研 究 で よ り 明 確 に さ れ る 事 が 期 待 さ れ る 。 以 上 の 審 査 結 果 か ら 、 本 審 査 委 員 会 は 全 員 一 致 で 本 研 究 を 博 士 ( 文 学 ) の 学 位 を 授 与 す る に 相 応 し い も の と の 結 論 に 達 し た 。
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