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閣 案 格 税 別 熊 功 夫 7 湯 芸 諸 領 域 広 範 業 績 7 冊 1 湯 湯 数 寄 湯 29 1 寛 永 3 6 芸 7 7 A 判 各 均 頁 格 各

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◉ 日 常語 の な か の 歴史 16 よ う じ ょ う 【養生】 渡邊智子 ◉ て ぃ ー た い む 園城寺 の 仏像 を た ず ね て 福家俊彦   寺島典人 ◉本 づ く り 温故知新 4(最終回) 森 田 和紙 ◉ エ ッ セ イ 死 と 生 の 不思議 な 関係 樋 口 章信 「誓願寺門前図屛風」 を 歩 い て み る と 西 山   剛 お 金 の リ ア リ テ ィ 安国良一 ◉ リ レ ー 連載   世界 の な か の 日 本研究 24 台湾 の 東洋美術専門書店 か ら 民谷伊左子 ◉史料探訪 64 千里ニュータウンとバスオール 五月女賢司

2016. 9 No.103

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思文閣出版新刊案内 (表示価格は税別)

熊倉功夫

著作集

全7巻

茶の湯・民芸・食文化など、文化史の諸領域にわたる著者の広範な業績を全

冊に

第 1 巻 茶の湯 │心とかたち│ 平成 28年(二〇一六) 7 月刊行 第 2 巻 茶の湯と茶人の歴史 9 月刊行 第 3 巻 近代茶道史の研究 11月刊行 第 4 巻 近代数寄者の茶の湯 平成 29年(二〇一七) 1 月刊行 第 5 巻 寛永文化の研究 3 月刊行 第 6 巻 民芸と近代 5 月刊行 第 7 巻 日本料理文化史 7 月刊行

判・各巻平均四五〇頁

本体価格(各)七、

〇〇〇円

〔全巻構成〕

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◎日常語のなかで、歴史的語源 やエピソードを取り上げ、研究者 が専門的視野からご紹介します。

16

日常 語

なかの

歴史

物 で 治 す 「 食 医 」、 次 に 薬 を 使 っ て 治 す 「 疾 医 」、 そ の 次 に メ ス を 使 っ て 治 す 「 傷 医 」、 さ ら に 獣 を 扱 う 「 獣 医 」 に 順 位 付 け さ れ て い た 。 食 医 は 、「 食 養 : 食 事 に 注 意 し て 養 生 す る こと 」 と 「 食 療 : 食 事 に よ っ て 治 療 す る こ と 」 を 仕 事 と し 、 現 在 の 栄 養 士 とも 言 え る 。 さ ら に 、 中 国で は 老 子 や 荘 子 の 思 想 に み ら れ る よ う に 養 生 ( 生 を 養 う こ と 。 人 間 の 身 体 を 整 え る こ と ) の考 え 方 が 発 達 した 。 養 生 は 健 康 を 保 つ こ と や 、 傷 病 を 治 癒 す る 病 人 の望み を 叶 える 法 ( 食 べ て 害 に なる も の や 冷 水 な どは 与 え ては い け な い が 、飲 み 込 ま な い で 味 だけ を 味 あ わ せ る の な らか ま わ な い ) も 示 さ れ て い る 。 こ のこ と は 、 養 生 が 心 身 へ の 配 慮 で あ る こ と を 示 し て い る 。 こ の よ う な 考 え 方 も 踏 ま え 、 小 石 川 養 生 所 が 享 保 七 年 ( 一 七 二 二 ) に で き た 。 養 生 は 広 辞 苑 を み る と 、 こ れ ら に 加 え 工 事 個 所 の 防 護 を す る こ と や 、 植 物 の 生 育 を 助 成 ・ 保 護 す るた め に 手 当 て を す る こ とと の 意 味 も あ る 。 こ れ は 、 養 生 の 対 象 が 人 か

う【

養 生 は 、 現 在 で は 、 人 に も 植 物 に も 工 事 作 業 に も 使 わ れ て い る が 、 も と も と は 中 国 か ら 伝 来 し た 言 葉 で あ る 。 中 国で は 周 の 時 代 ( 紀 元 前 一 〇 世 紀 ) に 、医 者 は 一 番 格 式 が 高 い 食 べ と は 、 い ろ ん な 人 た ち のお か げ で あ るこ と 、 自 然 の 恵 み に よ る こ と を 認 識 し 感 謝 しな け れ ば な ら ず 、 感 謝 の 表 現 の 最 大 な も のは 、 健 康 で 長 生 き す る こ と で あ る 、 な ど と 述 べ て い る 。 ま た 、「 病 は 口か ら 」「 適 量 を 守 る 」「 腹 八 分 の 飲 食 」 な ど と 、 重 ね て 記 載 し 食 事 の 大 切 さ と 共 に 過 食 を 戒 め て い る 。 一 方 、 た め に 保 養 す る こ と 、 心 身 と も に 健 康 を 保 つ 知 恵 、 生 き 方で も あ る 。 こ の 養 生 の 考 え 方 は 、 日 本 で は 貝 かい 原 ばら 益 えき 軒 けん に よ る 健 康 に つ い て の 指 南 書 『 養 生 訓 』( 正 徳 二 年 〈 一 七 一 二 〉) に よ り 普 及 し た 。 こ こ では 、 最 初 に 人 間の 尊 厳 性 とし て 、 自 分 が 生 き て い る こ ら 植 物 や 物 に ま で 広 が っ た と 言 え る 。 一 方 、 故 事 こ と わ ざ 辞 典 に は 、「 諦 め は 心 の 養 生 」 等 が 示 さ れて い る 。そ れ ぞ れ に あ っ た 心 身 の 「 養 生 」 を 見 つ け 、 し な や か に 実 践 し た い も の で あ る 。  ( 渡 わた 邊 なべ 智 とも 子 こ ・ 千 葉 県 立 保 健 医 療 大 学 教 授 )

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今回の仏像公開がもつ意味 福家: 園城寺(=三 み 井 い 寺 でら )の特徴は、秘仏が多 いことです。第一巻に収録されている国宝の智 ち 証 しょう 大 だい 師 し 像二体もそうですし、第二巻は如 にょ 意 い 輪 りん 観 かん 音 のん 像と護 ご 法 ほう 善 ぜん 神 じん 像、第三巻、第四巻のなかにも あります。これらすべてを、今回かなりきちっ としたかたちで載せています。 いまの時代はそういった「秘める」というこ と に 対 す る ハ ー ド ル が 下 が っ て い る と い う か、 各お寺の意識も 「知ってもらうことの方が大事」 という傾向にあります。そういうなかで、うち の寺はいまでも秘仏の公開という機会が少ない 方です。なかなかいままでひろく知ってもらう 機会はありませんでしたが、今回はお寺として も覚悟をきめたようなかたちで公開しましたの で、これが後世ずっと伝わってくれるのが一番 の狙いです。調査も含めてですが、一般の方に 拝んでいただくようにしようと思っても、なか な か や り に く い 条 件 が い ま で も あ り ま す の で、 一般の人にとっても研究者にとっても、この本 が活躍すれば良いと思いますね。

「秘仏」とされる意味とは 福家: そもそも秘仏とはなにか。私は、秘仏と はひとつの制度だと思っています。 本来仏さんや神さんは目に見えない、人間の ことばでは表現できない存在です。でもそれを ことばに翻訳したらお経に、ひとつのイメージ を結晶化させたらお像になる。 そのお姿を「見せない」とかそういうことで はなくて、扉を閉めることで、目には見えない けれどもおられるという、その存在をどう我々 が感じとって対話するのか考える機会となる。 そ れ を 制 度 化 し た も の と い え る の で は な い で しょうか。とはいえ学術的なことは当然必要で す か ら、 我 々 の 足 下 を 固 め る と い う 意 味 で も、 今回の本には大きな意味があります。 研究するということは、秘仏を観念するのと はまた別のかたちの仏さんとの対話の仕方であ り、今後そういうあり方が広がっていくのかな と思います。

大きい転換ですよね、お寺にとっては 福家: 今回出版に踏みきったことで、これから 秘仏というものを守っていくという我々の考え 方、お寺の自己認識というものが、当然少し変 わってくるでしょう。 また秘仏に限らず、国宝とか重文以外のいわ

園城寺の仏像をたずねて

お ん じょう じ

寺島典人

てら しまのりひと (大津市歴史博物館学芸員)

福家俊彦

ふ け としひこ (園城寺(三井寺)執事長)

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ゆる未指定のものについても、それがお寺にとって、また社会に と っ て ど う い う 意 味 が あ る の か を 説 明 し て つ ぎ の 世 代 に 渡 し た い。 そ う し な い と 今 後、 ど う い う 時 代 に な る か わ か り ま せ ん し、 失われてしまうことがあるかもしれません。現にそういったこと が歴史的にあるわけです。できるだけそういう可能性を消すため に、調査や撮影をずっと行ってきたので、この本は私としては園 城寺の仏像の集大成になるのかなと。これが出版されていればつ ぎの人たちに大体わかってもらえるという、お寺としてはそうい う意味合いもありますね。 学術調査での発見 寺島: 調査でわかったことは色々とありますが、第一巻の智証大 師像で言いますと、御 お 骨 こつ 大 だい 師 し さんと中 ちゅう 尊 そん 大 だい 師 し さんでは、痛み具合 が全然違うんですよ。 どちらも現在では秘仏になっていますが、中尊大師は表面の保 存 状 態 が 良 い の に、 御 骨 大 師 は 剝 落 が 進 ん で い る。 と い う こ と は、たぶん扉を開いていた時期が長くあったのではないかと思い ます。 また、御骨大師は ほ とんど智証大師そのまま、当時なりのリア ルさで造られているのに対し、中尊大師は大分理想化された、ま つる存在として観念化された造形になっています。そういう部分 が、扱いの違いというか、表面の状態の違いを生んだのかもしれ ません。扉の向こうに神仏としてあった中尊大師と、実際に目の 前にして拝まれていた御骨大師という。

調査で苦労されたことは 寺島: 秘仏ということでなかなか写真撮影をする機会を得るのが むずかしかった。二〇〇八年から九年に大阪・東京・福岡で国宝 三井寺展がありましたが、そういった機会を利用して、少しずつ 撮影してきました。 福家: こういう本を将来なにかのかたちでおおやけにするべきだ という思いがあったのですが、いつでも撮影できるものではない し、いずれ機会がきた時に出せるように、いろんなタイミングを はかりながら進めたので、準備にはかなり時間をかけました。 寺島: 円 えん 珍 ちん さん(智証大師)のお像は、大津市歴史博物館で展示 した時に撮影しました。新 しん 羅 ら 明 みょう 神 じん さんは、お堂の屋根の葺き替え 修理の際、神様の上に人が乗るわけにはいかないということで大 津 博 に 避 難 さ れ た 時 に 。 如 意 輪 観 音 さ ん は 三 三 年 の ご 開 扉 の 時 に 。 福 家: そ の よ う な 状 況 の な か、 仏 像 を 一 〇 年 く ら い で 撮 影 で き た、調査もしてもらえたというのは非常に得難いことでした。あ る意味「短期間に」機会が重なって出版できた。 撮影の機会もそうですが、人との出会いもそうです。今回たま たま一定の理解をしてくれる人、寺島さんがいて、撮影の機会が 巡ってきた。ふしぎな巡り合わせがきたんだなあと思いますね。 『園城寺の仏像』の特色 寺島: いままでの本は、正面からの写真と像の大きさくらいしか データがありませんでした。今回はいろいろな所の大きさや、ど ういう構造になっているのかという情報、調書を、初めて載せま

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す。 福家: 調査には結構時間もかけてもらったしね。 寺島: はい。総論は良いんですけど、調書を書くのが一番大変な ん で す よ。 嘘 を 書 く わ け に は い か な い の で。 総 論 は ま あ 多 少 言 い 過 ぎ た か な と い う こ と が あ っ て も 良 い か な と 思 う ん で す け ど (笑) 、調書はそれを元にあとの研究者が研究するので。つぎにも う 一 度 見 に い こ う と い っ て 見 に い け る よ う な も の で は な い の で、 それはもう責任重大でしたね。 今 日 も 光 こう 浄 じょう 院 いん の お 不 動 さ ん を 見 て い た ん で す け ど、 古 い で す ね。今までは鎌倉かなあという意見もありましたけど、平安で間 違いないと思います。ひょっとしたら一一世紀とか。 そういう古い仏さんが普通においてあるんですよ。なので私が 書く文章が、だんだん増えていくんです。毎年収録するべき像が 増えていくので。それが本づくりに良いのか悪いのかわかりませ んが(笑) それと、お像の写真を大きくするべきかどうか、毎日それで悩 むんです。小さくていいかなと思った像でも、よくよく見ている と立派なので、もうちょっと大きくするべきだというのがでてく るので。でもページは増やせないので、どう入れ込んでいくのか というのが大変です。 福家: 寺島さんが一生懸命調査してくれたなかで見出していった ものが結構含まれているので、今回の本は未指定の仏像にもかな り大きなインパクトがあると思います。とくに専門の人ほど、こ ういうのがあったんや、というのがあるのではないでしょうか。 専門の人でも知らないものがあると思うので。 二〇年、三〇年前の私自身が感じていた個別の仏像に対する理 解度も全然変わってきました。時代がそんなに古くはないだろう と思っていたものが、結構古い。 我 々 と し て は 先 人 が ず っ と 守 っ て き た と い う 歴 史 を 背 中 に 背 負っているので、こういうふうにちゃんとしたかたちで情報をい ただくと、もちろんぞんざいなことはできないし、伝えていかな あかんな、というこちらの覚悟も改められます。 秘仏として今回の本に出る仏像は、我々としてはある程度決定 版みたいな意味合いがあります。初めて基本的な調査データ、調 書のついたものを公開しますので。 いっぽうで、いままであまり知られていなかった未指定の彫刻 の な か に も、 意 味 の あ る も の が た く さ ん 含 ま れ て い る と い う の は、みなさんあまりご存じなかった情報だと思います。 なのでこの本には、秘仏と未指定という、ふたつの大きな特色 があるのではないでしょうか。 寺島: 仏像を勉強したり、好きな人たちにとってみたら、そうい う立派な像がたくさんあるんだなというのが、この本だけでわか りますからね。あと彫刻をつくっている人は、真正面からだけで なくいろんな角度からの写真が見られる。各時代の代表選手がそ ろっていますから、それを見るだけでもすごく参考になると思い ますね。

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智証大師の感 した像

各巻の必見ポイントを教えてください 寺島: 第二巻はやはり如意輪観音さんがすばらしいですね、平安 中期です。西国の札 ふだ 所 しょ 、三十三所巡礼のいってみれば親玉の観音 さんなので。三十三所巡礼を始めたのは三井寺のお坊さんですか ら、始める時に自分のお寺の観音さんをどれにしようかと、たぶ ん 悩 ま は っ た と 思 う ん で す よ。 そ れ で わ ざ わ ざ あ の お 像 を 選 ん だ。よ ほ どの思い入れがあったと思いますね。なにかしらのたく ら み が あ っ た は ず で す。 そ れ は い ま だ に 私 も わ か ら な い の で す が、いろいろな思いがつまった観音さんで、その柔和な作風を含 めてすばらしいです。 あとは護法善神さんもよくわからない不思議な像で、 ほ かに類 例がありません。吉 きっ 祥 しょう 天 てん とよく似た姿なので吉祥天なのかもしれ ませんけどね。それが仏ではなく神としておまつりされていると いう……わからないですね。護法善神というのは、如来とか菩薩 といっているのと同じなんです。特別な名前ではない、固有名詞 で は な く 普 通 名 詞 で す。 「 守 る 神 様 」 と い っ て い る よ う な も の だ から、 名前がないんです。新羅さんだったら新羅明神ですが、 「明 神」といっているのと同じです。 福 家: こ れ は 円 珍 さ ん が こ ど も の 時 に 現 れ た 神 だ と い う 伝 承 が あって、母親のイメージなんですが。 寺島: 感得像なんですね。 黄 き 不 ふ 動 どう さんも、黄不動さんしかないお姿なんです。 ほ かにない 不動明王、本当に不動明王なのかというくらい不思議な形なんで すが。それは円珍さんの頭に浮かんだ、感得したお姿なので、護 法さんもひょっとしたらそうかもしれないです。 数奇な運命をたどった千手観音 二 巻 目 は 如 にょ 意 い 寺 じ の 千 手 観 音 も で ま す ね。 如 意 寺 は 京 都 の 東 山 の、いまは大 だい 文 もん 字 じ 山 やま と呼ばれている所、あれは本来如 にょ 意 い が嶽 たけ とい う の で す が、 そ こ か ら 三 井 寺 さ ん と の あ い だ の 山 中 に あ り ま し た。三井寺さんの別院です。だから三井寺さんの西の門はいまの 南禅寺のあたりだったんです。なので、京都からみれば東側はみ んな三井寺みたいな感じのイメージだったのですが、そこに如意 寺という大きいお寺があった。 そ れ が 応 仁 の 乱 く ら い で、 軍 勢 が は い っ て 荒 れ ち ゃ う ん で す ね。その時に三井寺さんにご本尊の千手観音を避難するんです。 だから応仁の乱ぐらいからずっと三井寺さんに避難している。 その千手さんがまたおもしろくて。九世紀のお像なんですよ。 でも如意寺の創建は九世紀まであがらないんです。一〇世紀には 確実にあったんですけど。 で、すぐそばの山科に安 あん 祥 しょう 寺 じ というお寺があって、そこの九世 紀の資 し 材 ざい 帳 ちょう に、北に桧 ひの 尾 お 寺 じ というお寺があったと書いてあるんで す。 そ の あ た り を 京 都 市 が 発 掘 す る と 九 世 紀 の 瓦 と か が 出 て き て、九世紀にお寺がどうやらあったらしい。それが如意寺の西方 院 と い う と こ ろ の あ た り、 だ か ら 如 意 寺 の 前 身 寺 院 が 桧 尾 寺 で あった可能性もあるかなと思います。

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です。第二巻と第三巻とあわせて、平安時代の仏像がずらりと並 ぶのですが、三井寺さんは、いってみれば京都の中心的なお寺さ んなので、当時の京都の一番良いレベルの仏像がそろっている。 だから未指定の像もみんな良い、平安時代のりっぱなお像なんで す。それが全部出ますので。 福 家: な ん べ ん も 焼 け て き た か ら、 そ ん な に 良 い お 像 が 大 量 に 残っているというのは、 「結構残ってるんやな」という印象です。 平安時代にも南北朝にもかなり焼けているわけですから。大きな 丈 じょう 六 ろく 仏 ぶつ が残っていないのは明らかに焼失したわけですが、持って 運べる範囲の仏さんで、これだけ残ってるというのもちょっと驚 きでしたね。とにかく仏さんを助けよう、持って逃げられるもん は持って逃げようというのがあったと思います。秘仏はもちろん のことね。 ほ かのことをさしおいてでも、とくに智証大師さんに ご縁のある、ゆかりの神仏はなんとしてでも守るというのがあっ たから残ったんだと思います。 寺島: 調査中に見つけたんですが、御骨大師さんのお尻のところ ( 像 ぞう 底 てい ) に 穴 が あ い て い る ん で す よ。 へ っ こ ん で る、 ぶ つ か っ た 穴なんです。だからたぶん落ちたことがあるんです。落ちて地面 か何かの角かわかりませんが、ぶつかった跡が何か所かあって。 何回も避難しているあいだにぶつけたんだと思います。それはも う本当に必死で守って持っていくという状況が想像されることな ので、あれを見みた時は結構胸が熱くなりましたね。よ ほ ど緊急 事態で持っていったんだろうと思います。 福家: 如意寺は応仁の時に退 たい 転 てん しますが、それでも江戸時代まで は存続しています。かなり規模が大きいお寺でした。中世は、う ちはあそこで伝 でん 法 ぽう 灌 かん 頂 じょう しています。 寺島: 鎌倉時代にまた三井寺が焼き討ちにあった時ですね。ご本 堂がないわけですから、焼け残った如意寺にご本尊を持っていっ て灌頂したりとか、サブになるお寺だった時期もありました。 福家: だからうちにとってはとても大きな意味があるお寺だった と思います。 寺 島: そ の 数 奇 な 運 命 を た ど っ た 千 手 観 音 さ ん が ま だ な ん と か 残っている。 福家: 奈良国立博物館の仏像館にいってもらえばいつでも拝めま す。常設でおいてありますので。 秘められし神羅明神 第三巻は新羅明神さんですね。これは ほ とんど紹介されていな い、写真も ほ とんど出ていません。 寺島: 二〇年くらい前、京都国立博物館・東京国立博物館で出陳 しましたよね。 その時は京博が先に展示しましたが、 東博で 「やっ ぱ り 出 陳 で き な く な り ま し た 」 と な っ た ら い け な い と い う の で、 京都にずっと泊まりこんで、毎日新羅さんだけを見にきたという 方がいらっしゃるそうです。あの時は展示期間が短かったですよ ね。 福家: 一週間でした。 寺島: そうそう拝めるものではないという。それが本になるわけ

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鎌倉彫刻の真骨頂 第 四 巻 目 は な ん と い っ て も 黄 不 動 さ ん。 本 当 は 絵 画 で す け ど、 あれは慶 けい 派 は なのかな。 寺島: 慶派です。わたしは運 うん 慶 けい の息子の湛 たん 慶 けい だと思っています。 福家: あれは非常に保存状態が良いですね。修理をすれば慶派な りなんらかのサインが残っているのがわかると思いますが、修理 なんて必要ないくらい保存状態が良いからね。 八 〇 〇 年 た っ て ま っ た く 修 理 が 必 要 な い と い う、 も の す ご く、 ある意味生々しいというか、いつできたん?   みたいな(笑) 。 寺島: 一二一五年くらいですから本当にちょ うど八〇〇年ですね。 福家: これもオリジナルの絵画と一緒で秘仏 です。何年に一度開けるというきまりはあり ま せ ん か ら 、め っ た に 見 ら れ る も の で は な い 。 寺島: 黄不動さんは、正面から見るとちょっ とぎこちない感じなんです。国宝の絵を正面 から写しているから。ところが横とかうしろ から見ると筋肉隆々の、もう、背中の背筋と かすごいですよ。それはつまり、絵を参考に しなくて良いわけで、造像上のしばりがない んです。 正 面 か ら の 写 真 し か い ま ま で な い ん で す よ。それが今回の写真を見たら、うしろとか 意味をもった本になると思います。 寺 島: 今 回 像 底 の 写 真 と か も 載 せ て ま す か ら、そうなるとお像の造り方、構造がわかり ます。一般の人は像底なんか見たことないと 思いますが、この本を見ると、ああ、こうい うふうに造ってるんだとか、造り方がいろい ろあるんだとかがわかって、良い参考になる と思います。 福家: そういう意味では、だいぶ画期的な内 容になっているんじゃないでしょうか。既成 の「園城寺の仏像」イメージはずいぶん変わ ると思います。  (八月九日   於:園城寺) ▼ 24ページに書籍案内を掲載 びっくりしますよ、背筋がガッて、水球やってるみたいな、ポセ イ ド ン ジ ャ パ ン み た い な 感 じ で( 笑 )。 そ れ で ま た 背 中 の 肉 が や わらかそうな、本当に質感がすごくて。あれは鎌倉彫刻の真骨頂 のひとつだと思いますね。 その写真を載せられるのは、非常に良いなあと思います。いろ んな角度からの写真が出るというのは、立体物を研究する者には あ り が た い で す 。 正 面 か ら の 一 枚 だ け だ と わ か ら な い で す か ら ね 。 福家: 各巻秘仏が必ず載りますし、いままで専門家にも知られて いなかった未指定のものも載りますので、これまでにない大きな 左:福島氏 右:福家氏

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連 載 の 最 終 回 を 飾 る の は、 京 都 経 済 の 中 心 地・ 四 条 烏 丸 か ら ほ ど 近 い 東 ひがしのとういん 洞 院 通 に モ ダ ン な 店舗「倭 わ 紙 がみ の店」をかまえる森田和紙さんです。もともとは越前(福井)の和紙の里で日用雑 貨とともに和紙を漉 す く道具を商っていましたが、昭和二年(一九二七)に京都へ進出、当時ま だめずらしかった日本全国にネットワークを持つ和紙問屋を始められました。京都に移る前は 和紙を漉く機械の製造を手がけていた時期もあるそうで、和紙業界との深い縁を感じます。い まなお越前の和紙産地とは太いパイプで結 ば れているとのことです。 も と も と 版 元 が 多 い 京 都、 戦 争 中 の 中 断 を 経 て 再 開 し た 森 田 和 紙 の 強 み は、 サ イ ジ ン グ( に じ み 防 止 ) 加 工 や 平 滑 加 工 を ほ ど こ した《印刷に強い和紙》を豊富に扱っていたことでした。出版業の隆盛のなか、つぎつぎと出 版された大型の美術全集などに紙を提供してきました。繊維質でインクがにじむイメージのあ る、一般によく目にする和紙とはまったく異なる、印刷用和紙の美しさにし ば し目を奪われま した。 森 田 和 紙 の 名 を 全 国 に 広 め た の は『 手 漉 和 紙 大 鑑 』( 毎 日 新 聞 社、 一 九 七 三 〜 七 五 年 ) の 出 版でした。同書は当時日本全国に存在したあらゆる和紙のサンプル(実物の和紙)と解説で構 成された和紙の図鑑ともいうべきものです。いまではもう入手不可能な和紙も多く、復刊は不 可能!   この本自体、文化財と呼べる大作です。 同書は四代目耕平氏の叔父にあたる康敬氏が中心となり、全国の産地を訪ね歩いて完成にこ ぎつけました。このときに築いた全国の和紙産地とのネットワークはいまも森田和紙を支える 財産になっています。

出版業

のつながり

版元集う京都の和紙問屋の先駆け

 

本誌一〇〇号を記念して始まった連載もいよいよ最終回。今回は本づくりを支える〝故 ふる くて新しい〟和紙の 世界をご紹介します。 『手漉和紙大鑑』  全国各地の美しい和紙に目を奪われます 全国の和紙が保管されている倉庫。 湿気と日光に気を遣うそうです

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出 版 界 の 低 迷 と と も に、 高 品 質 の 和 紙 を 書 籍 に 使 う 機 会 は 減 り、 い ま で は 社 寺 で 記 念 に 制 作 す る 豪 華 本 や 博物館でのレプリカ作成など、出版の需要は限られているそうです。同時に印刷技術の高度化 があだとなり、和紙に印刷できる職人的技術をもった印刷会社が減ってきているとのこと。森 田和紙ではいまなお和紙印刷に対応できる印刷会社との関係を大切にし、協力して時代にあっ た商品を生み出しています。 考えてみれ ば 、最近ブームのご朱印帳、和菓子屋さんの掛け紙、箸袋、絵葉書などなど、身 の回りには和紙製品がたくさんあります。さらに海外のアーティストも和紙ならではの風合い に注目しています。 驚 い た の は 現 在 流 通 し て い る 和 紙 の 多 く に は パ ル プ が 使 わ れ て い て、 楮 こうぞ ・ 三 みつ 椏 また ・ 雁 がん 皮 ぴ と い っ た 自 然 原 料 一 〇 〇 % の 和 紙 は、 高 級 品 に 限 ら れ て い る と い う こ と。 本 来 の 和 紙 は 繊 維 が 長 く 複 雑 に 絡 み 合っているため丈夫。また、化学原料を使っていないので時間がたっても変色や劣化が少ない のも特徴です。 ただし、楮など原料が高騰している現在、和紙の魅力をより広く伝えるためにはパルプ和紙 が必ずしも悪いとは言えない、と森田さん。森田和紙では商品の魅力だけでなく和紙の正しい 知識もお客さんに伝えることを心掛けておられます。 やはり楮一〇〇 % の手漉き紙は美しさも丈夫さも格別。時代が変わっても本来の和紙でない と代用が利かない商品も少なくありません。たとえ ば 着物を包む文庫紙(たとう紙)には長い 時間がたっても劣化せず、湿気をよく吸収する高級和紙が求められます。そのほか漆製品の下 張りや文化財の修復などは当然、上質な和紙でなくてはつとまりません。一見、紙とは関係の なさそうな分野でも和紙が日本文化を支えているのです。 紙( )  京 都 市 下 京 区 東 洞 院 通 仏 光 寺 上 ル   ☎ 0 7 5 ─ 3 4 1 ─ 0 1 2 3

和紙の魅力を伝えるために

時代

とと

もに移り変わる需要

色鮮やかな和紙製品が並ぶ倭紙の店。 「倭紙の店」の命名と揮毫は、なんと『広辞苑』で有名な新しん村むらいずる出先生 戦後のころの和紙の見本帳 うっすらみえる布袋さんがキュートです

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不思議

関係

ぐ ち

しょう

し ん 過日、ノーマン・ワデル氏の『売 ばい 茶 さ 翁 おう の生涯( Baisaō, the Old Tea Seller: the Life and Zen Poetry in 18 th Century Japan )』の 翻訳本が思文閣出版から出た。この本の翻訳作業を終えて、売茶 翁の生きざまを知り、生きていくその姿の意味深さについて考え た。それは当然、死にゆく姿の意味を考えることにもなる。生 しょう 死 じ という表現と同時に、死生という表現を使うことが、生と老と病 と死から、苦悩する人間を見つめる佛教の核心を、逆にうまく浮 かび上がらせることになると思う。 私が祖父を亡くしたのは二十歳を過ぎた頃だったが、父を亡く したのは五十歳を越してである。私は今数え年で六十五歳となっ た。佛の加護か、母は九十一歳でまだ健在だ。還暦を五年過ぎた 私は、生きるということよりも、死するということを想像するよ う に な り つ つ あ る。 生 き る こ と は「 生 を 行 ず る 」、 そ し て 死 ぬ こ とは「死を行ずる」ことだと言い換えられないだろうか。件 くだん の売 茶翁は、常に死を意識して生きていた。つまり「死を行じて」い たのである。禅者としてというよりも、佛教の極意において、売 茶翁は〝生きざまの名人〟である。 禅 佛 教 は、 石 せき 霜 そう 和 尚 の 言 う「 百 尺 竿 かん 頭 とう に す べ か ら く 歩 を 進 め、 十方世界に全身を現ずべし (『無門関』 )」 という教えを実践する。 死を念頭に置いて生きることが禅修行の眼目であり、売茶翁もそ うした死生の感覚を体得していたであろう。しかし、それにして も売茶翁の覚悟がすごいのである。翁は決して寺に落ち着くこと なく、一生の間「非所有の精神」を実践した。六十歳を超えてか らの無住処的生きざまが目を引く。それは複数の真の友人が翁の 周辺にいたということでもある。売茶翁は貧困を楽しんだように も 見 え る。 「 貧 」 と い う 状 況 の な か で「 百 尺 竿 頭 に す べ か ら く 歩 を進」めていた。八十一歳になって、生活手段だった茶道具をす べて焼却している。馴染んだそれぞれの道具に名を付けて人格化 し、謝念と共に、翁はそれらを炎中に投げ入れて荼 だ 毘 び に付した。 僧 侶 は 住 職 に な り た が る 。 僧 も 欲 を 有 す る 人 間 な の で 安 定 を ほ し が る の だ ろ う か 。 だ が 、 物 質 的 執 着 か ら 離 れ よ う と 決 心 し た は ず の 僧 が 、 物 質 的 安 定 を ほ し が る の は ど う も 矛 盾 だ 。 住 職 も 妻 帯 し て 子 供 を つ く り 、 普 通 に 家 庭 生 活 を 営 む よ う に な っ て い る 。 日 本 佛 教 は ( 全 て で は な い も の の ) 執 着 か ら 離 れ る ど こ ろ か 、 妻 ・ 子 供

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や 財 産 、 土 地 、 地 位 と い っ た 執 着 対 象 に 悩 ま さ れ て い る 。 さ て 、 ど う す る 。江 戸 時 代 に 生 き た 売 茶 翁 は こ の 部 分 に 根 本 的 に 踏 み 込 ん だ 。 「正 しょう 命 みょう 食 じき 」 と 「邪 じゃ 命 みょう 食 じき 」 ということを、 私は売茶翁から学んだ。 上述の『売茶翁の生涯』に『対 たい 客 かく 言 げん 志 し 』のテキスト全文が入って いる。そこで売茶翁は正命食と邪命食について語る。中心となる 叙 述 の 一 つ は「 今 時 の 輩 を 見 る と、 身 は 寺 院 に 置 い て い な が ら、 心がけは俗世のほこりの巷に走る者が、十中八九までいる」とい う部分である。これは享保二十年(一七三五)頃の話だ。今から 二八一年前の様子を語っているものだが、何も今と変わらない。 現今のように「末法相応の教えだから」と言っていたわけでもな かろう。佛教の八正道における「正命」とは「正しい生活」であ るから、どのように生活しているかということにこそ、僧の本質 が顕在化するのである。翁は自らの生きざまを「非僧、非道、ま た非儒」とも表現した。 「 百 尺 竿 頭 に す べ か ら く 歩 を 進 め、 十 方 世 界 に 全 身 を 現 ず 」 る ことがいかようにして可能か。ヒントは売茶翁の生き方にある。 そ れ は「 非 所 有 の 精 神 」 を 実 践 す る こ と だ が、 「 死 を 念 頭 に 置 い て生きる」ことでもある。 死と生は別物ではなく「命の裏表」である。とりわけ戦後にお ける西洋文献の浅い翻訳によってもたらされた「近代」の洗礼を 受けて、日本では己 こ 事 じ 究 きゅう 明 めい の伝統をおざなりにしてきた。戦前の 日本人を美化するのではない。だが、刹那に滅していく「生命の あわれ」を意識して生きる日本人があまり現代に見られないので あ る。 真 の 豊 か さ と は、 持 ち 家 に お け る ゴ ー ジ ャ ス な 食 生 活 や、 将 来 を 安 心 さ せ る 金 融 資 産 を 意 味 す る の で は な く、 「 も の の あ わ れ」と共に、今を充実して生きることではないだろうか。 もう一つ、心の問題がある。すなわち「転 てん 生 しょう 輪 りん 廻 ね 」である。多 くの現代の佛僧は転生を信じていないのではないか。浅薄な合理 主義を呼び込みがちな西洋的思想が佛僧にまで影響を及ぼし、 「個 人 主 義 」「 民 主 主 義 」「 人 権 主 義 」 と か を「 粗 い 日 本 語 の ま ま に 」 信じ込ませている。 私は今まで、出来るなら「よく生きたい」と思ってきた。しか しよく生きることは、そう簡単ではない。組織というものは「活 か す ル ー ル 」 で は な く、 「 殺 す ル ー ル 」 を つ く る 場 合 が あ る。 売 茶翁を知ってから気が付いたのは、組織(寺もその一つ)への執 着 に 悩 む よ り も、 「 執 着 の 対 象 か ら 離 れ る 」 こ と で、 生 き 生 き と した自分が回復されうるということである。いったん「殺すルー ルをもつ組織」から離れてみるのだ。生活が苦しくとも、深い死 の底から物を見たり感じたりすれば、次第に人生観は変わってく る。よく生きるためにこそ、死を見つめるべきである。そうすれ ば、 「 た と え 殺 さ れ て も、 決 し て 死 ぬ こ と の な い 自 己 」 が 現 出 す るだろう。売茶翁という人はとても興味深い人物であった。死と 生との不思議な関係を、売茶翁は私に教えてくれたのである。転 生して今もなお生きている翁を感じる。今後も翁の精神世界によ り深く分け入りたいと思う。  (佛教大学非常勤講師) ▼ 25ページに書籍案内を掲載

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誓願寺門前図屛風

いてみると

西

に し

や ま

 

つよし 京都の博物館に着任し六年が過ぎた。この間、いくつかの展覧 会を担当し、さまざまな方々との関わりを得て、充実した仕事を させていただいている。とりわけ昨年おこなった特別展「京 みやこ を描 く   洛中洛外図の時代」は国立歴史民俗博物館・小島道裕氏のご 協力を得ながら、コンセプト、出品作品、展示叙述などを先輩や 同 僚 と 議 論 し な が ら 構 成 し 、心 か ら 楽 し ん で 仕 事 が で き た と 思 う 。 この展覧会では、当館が所蔵する「誓願寺門前図屏風」にも光 をあてるつもりでさまざまな角度から検証をおこなった。賑わい の絶えない寺町通りに所在する寺院の門前景観を捉えており、都 市・京都を表象する重要な作品として位置付けることができると 考えたからだ。 展覧会の開催にあたり、まず立命館大学アート・リサーチセン ターにご協力を依頼した。当該研究機関では、以前から「デジタ ル風俗画研究」に取り組んでおり、その過程で作品の細部まで行 き届いた観察ができる高精細デジタル画像を取得するシステムが 構築されていた。この方法を用いて「誓願寺門前図屏風」のデジ タル画像を取得し、展示室のタッチパネルで利用者に作品の細部 まで観察してもらおうと考えたのだ。 技術者の方々にカメラや照明、オペレーションを行う PC など 大 掛 か り な セ ッ ト を 博 物 館 に 持 ち 込 ん で い た だ き、 縦 151セ ン チ、 横 166センチにわたる作品の分割撮影を実施し、たっぷり一日をか けて八億画素に及ぶ高精細画像を取得した。この高精細画像の閲 覧システムを搭載したタッチパネルを、実物作品が入ったケース の隣に設置し、 展覧会を開幕させた。 実物の作品を鑑賞したあと、 タ ッ チ パ ネ ル を 利 用 し て 細 部 を 確 認 し、 ま た 実 物 に 戻 っ て い く、 というような鑑賞スタイルも提案したつもりである。 「 誓 願 寺 門 前 図 屏 風 」 は、 経 年 劣 化 が 進 み、 ま た 部 分 的 に 汚 損 が甚だしい。実物作品のみの展示であったら、行き届いた観察を 促すことはできない。実物作品が持つネガティブな要素を高精細 デジタル画像は十分に補ってくれたと考える。それを物語るよう に展示期間中、ケースの前には常に賑わいがあった。実物とデジ タルの相互補完的な展示は、この種の展示においてはたいへん効 果的であると、身をもって知ることができた。 しかし、やはり誓願寺は京都にある。誓願寺は建立以来、都市

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に生きる人々の信仰を集めた名 めい 刹 さつ であり、しかも私が勤務する博 物館からは歩いて数分程度だ。それならばやはり現地にいき、実 際の誓願寺と絵画のイメージを比較してみることこそ醍醐味では なかろうか。そう考えて、展覧会準備期間中には、数回にわたっ て現地を訪れ、ぐるぐると周囲を踏査してみた。 そ の 中 で、 特 に 気 に か か る も の が あ っ た。 誓 願 寺 門 前 に あ る 「迷子みちしるへ」という石標がそれだ。明治十五年(一八八二) に建てられたこの石標は、道に迷った子と親が再会の目印とする もので、近代に入り行政の肝いりで屈指の繁華街となった新京極 の象徴ともいえる。これまで、あまり注目してこなかったが、門 の左側にどっしりと立ち続ける姿は今でもなお存在感を示してい る。 実はこの石標は、物をなくした場合にも効力を発揮する。四角 柱 の 石 標 の 向 か っ て 左 側 に 探 し て い る 物 品 の 名 前 を 記 し て お く と、向かって右側にはそれに関する情報が提供されることとなっ ている。 ふと思い立ち、左側の面を覗いてみた。そこには驚いたことに 今でも探し物の名前がいくつも貼られていた。どこかで落として しまったのであろう PHS や思い出が詰まった文房具、さらには 結婚指輪のような、失くしたら洒落にならないようなものまでが 付箋などに記され、貼られている。現代に至ってもなお、誓願寺 門前にある石標の機能は忘れ去られることなく、人々の心に根ざ しているのだ。 道に迷った子供とその親、あるいは失せ物の発見、これらはい ずれも一度切れてしまった縁を再び繫ぎあわせることを意味して おり、誓願寺は〝縁の再接続の場〟としていまなお機能している のである。 調べてみると、この習俗(あるいは信仰)は、室町時代後期頃 から流布される誓願寺の縁起と関わりがある。すなわち、誓願寺 本尊の阿弥陀如来坐像は、賢 けん 問 もん 子 し ・芥 け 子 し 国 こく という親子が合作をす ることで建立されており、親子の絆が信仰の中核である本尊を生 み出したという説である。この言説を基礎としながら、近世に入 ると、生き別れになった母子が誓願寺の施 せ 餓 が 鬼 き 会 え の際に再び巡り あう人情話も成立してくる。誓願寺の語りには、 決まって 〝再会〟 〝再接続〟というテーマが立ち現れるのだ。 豊臣秀吉による寺地移転、明治初頭の境内の削減など、順風満 帆な歴史を歩んでいるとはいいがたい誓願寺であるが、都市民と 結びあうささやかな信仰の中には、何百年にもわたる大いなる歴 史が生きている。そのことを気づかせてくれた出来事だった。 (京都府京都文化博物館学芸員)

京都府京都文化博物館・京都市歴史資料館

企画

京都

 

実相院門跡

5判・一四四頁・本体二、 〇〇〇円

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のリアリティ

や す

く に

りょう

い ち 『 日 本 近 世 貨 幣 史 の 研 究 』 に よ っ て よ う や く 貨 幣 史 の 考 え 方 の 枠組みをまとめることができたが、書き終えてもなお貨幣は難し い存在である。近世においてはその種類が多く、素材・単位・流 通域あるいは使用の場面も異にした多様性に特徴があった。近代 に な っ て 統 一 さ れ た 円 貨 も、 近 ご ろ で は 各 種 の カ ー ド や 電 子 マ ネ ー、 さ ら に は 情 報 数 じ ゅ ず 珠 つ な ぎ の ビ ッ ト コ イ ン ま で 出 現 す る と、 その「実体」すら疑わしい。 形態だけの問題ではない。私たちの日ごろの生活に不可欠なお 金でありながら、ゼニ・カネの話は表現を誤れば品格を損なうこ とにもなるし、貨幣や通貨の経済学というと近寄りがたい気がす る。きれいなお金の遣い方もあれば、汚いお金の洗浄の仕方(マ ネ ー・ ロ ー ン ダ リ ン グ ) ま で あ る。 道 徳 観 ま で 含 め て 考 え る と、 お金についての認識はかなり高次に属するものであり、時代とと もに変化してきたことは想像できるが、自らの記憶をたどっても どのように獲得してきたのか判然としない。 はたして子どもの発達のなかに歴史の痕跡は見出されるのだろ うか。そんな思いで、子どもたちがどのようにお金を認識してい くのか少し勉強したことがある。参照したのは、 H ・ G ・ファー ス『 ピ ア ジ ェ 理 論 と 子 ど も の 世 界  

子 ど も が 理 解 す る 大 人 の 社 会

』( 加 藤 泰 彦・ 北 川 歳 昭 編 訳、 北 大 路 書 房、 一 九 八 八 年 ) である。南イングランドの約二〇〇名の子どもたち(日本の小学 生にあたる年齢)からの聞き取りを通して、お金とその概念の形 成や社会の仕組みについての理解の発達段階を観察している。ピ アジェ理論とは、著名なスイスの児童心理学者ジャン・ピアジェ ( 一 八 九 六 〜 一 九 八 〇 ) に よ る 知 的 発 達 の 理 論 で、 あ ら ゆ る 行 動 の根底には認知的な構造と機能があり、それが主体・客体の能動 的な相互作用によって構成されていくことを説いたものである。 ファースの研究は、主な対象が物理的領域にとどまるピアジェ理 論を、子どもの社会認識まで広げたことに意義がある。 専 門 的 な 発 達 段 階 の こ と に つ い て は 全 く の 門 外 漢 だ が、 お 金 が、家族を超えた外部の社会を子供たちが理解していく際の一つ のモノであることは疑いないだろう。しかも、お店での売り買い から始まって、お金の出どころや利益という考え方、さらに財と ( 公 共 ) サ ー ビ ス の 区 分、 お 金 の 供 給 者 と し て の 国 や 役 所 の 役 割

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など、身近な経験的世界から、子供たちにとっては未知のマクロ な経済の世界にまで (正確ではないにしろ) 認識は広がっていく。 ファースの著書には、チップと給料の区別が、ある年齢までつ きがたいという指摘があった。お金の授受ということでは同じ事 象ながら、 TPO が違うのである。チップの慣行は日本では育た なかったが、お駄賃や御 お た め 為の名目で少額の遣り取りがおこなわれ る場面が思い起こされる。子どもたちは (たとえ大人になっても) 人間関係の機微をこうした場面から学び、次代へ引きついできた のである。それはリアルなお金を通してであって、けっして振込 や電子マネーで贈られたチップやお祝いではなかっただろう。日 本 に は、 イ ギ リ ス の 子 ど も た ち に は 経 験 の な い リ ア ル な「 お 年 玉」もある。大げさかもしれないが、実体と社会的意味が結びつ いたお金のリアリティが歴史と文化を支えてきたと言えないだろ うか。 社会的性差を指す「ジェンダー」は、歴史や文化を背景にもつ 言葉として定着してきた。同様の歴史性・文化性を含んだ言葉と して、 筆者は 「お金」 の語を気に入っている。客観的で冷めた 「貨 幣」ではなく、卑近な「ゼニ・カネ」でもなく、現在の価値観を なんとなく反映した温かみを内包している日本語のように思う。 こうした観念が実体の変化とともに将来続く保障はないが、今少 しお金のリアリティにこだわってお付き合いしてみたい。できれ ば仲良く……。 (住友史料館副館長) ・ 銀 ・ 金 。 い な は 代 時 た し 通 流 が 幣 貨 の 類 種 多 ど ほ 世 近 、 上 史 歴 の 本 日 貨 銀 金 る れ ら み に 国 領 名 大 の 頭 初 世 近 、 」 貨 三 「 の 定 制 府 幕 う い と 銭 。 る あ で 大 膨 は 数 の そ ば れ え 加 を ど な 幣 紙 の 札 私 や 札 藩 、 」 幣 貨 国 領 「 。 る い て れ さ 識 認 も と た し 立 確 を 度 制 幣 貨 は 力 権 の 世 近 、 方 一 の 。 る み 試 を と こ る す に か ら 明 を 質 特 の 幣 貨 る す 盾 矛 見 一 の こ 、 は 書 本 け づ 味 意 や 能 機 の 自 独 の そ 、 し ぐ ほ き 解 を 観 幣 貨 う い と 貨 通 一 国 一 。 著 良 す お な い 問 を 法 方 と 題 課   章   序     立 成 の 度 制 貨 三   章 一 第 合 統 的 世 近 と 性 域 地 の 幣 貨   章 二 第 章 三 第 情 事 貨 通 の 期 後 中 世 近 た み ら か 域 地   ( 一 │ ) に 心 中 を 磨 播 │ 章 四 第 情 事 貨 通 の 期 後 中 世 近 た み ら か 域 地   ( │ 合 場 の 予 伊 │ ) 二     開 展 の そ と 能 機 の 貨 銀 金   章 五 第 構 機 替 引 貨 旧 新 と 鋳 改 幣 貨   章 六 第 │ に 心 中 を 立 設 の 合 組 軒 五 十 、 期 政 文 │ 用 効 的 化 文 ・ 的 会 社 の 幣 貨   章 八 第     造 鋳 次 一 第 の 宝 通 永 寛   章 九 第 座 銭 坂 大 の 期 永 寛   章 十 第 銭 鋳 の 座 銭 波 難 坂 大 、 期 保 享   章 一 十 第 通 流 と 造 鋳 の 銭 文 四 鍮 真   章 二 十 第 望 展 と め と ま   章   終

。 │ │ か の た え か む を 焉 終 、 し 通 流 、 れ ま 生 に う よ の ど は 幣 貨 世 近 内 容 … 、 在 現 。 ) 学 文 ( 士 博 学 大 都 京 。 生 年 三 五 九 一 長 館 副 館 料 史 友 住 月6 / 頁 〇 二 三 ・ 判 5 A ▼

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台湾

東洋美術専門書店

から

た み

台湾台北市の片隅で小さな東洋美術の専門書店を営んで早二〇 余年。先ごろの熱狂的な台湾総統選挙の結果に安堵していた。も ちろん台湾の将来を左右する重要な選挙だったし、今までの滅茶 苦茶な八年間から漸く脱却できるなどの大きな理由もあるが、本 屋の身としては「予算が下りるぞ!」も大きな関心事。 そう、日本と違いここでは「政治」が学術や文化予算に大きな 影響を及ぼすのだ。例えば故宮博物院は文化団体ではなく政治団 体。院長は総統によって直接任命され、与党が中国寄りならばそ れに従える人選となる傾向。表向きは 「色々やってるんですよー」 的に体裁を繕って中華文化以外の特別展などもやるけれど、大学 や研究機関、図書館などから発注される本の種類があからさまに 変わってくる。 文化予算には限りがあるので、どこの大学でも教授達はなんと か公費で欲しい本を入手しようと経費の争奪戦が繰り広げられる のだが、中国寄りの政権になると中華関連以外の書籍リクエスト が通ることがグッ!と減少。ちょっとえげつないぐらいに。日本 美術関連の本もウリのうちとしては「中国の○○」というタイト ル ば か り を 納 品 箱 に 詰 め る の は ち ょ っ と ウ ン ザ リ。 「 日 本 美 術 も なかなか面白いですよ、旦那!」とばかりに店の目立つ所に関連 書籍を配置してせめてもの抵抗を試みる。 アジア一の親日国イメージが強い台湾はもちろん概ね親日では あるけれど、 「知日」の部分に今一つ?な部分が多い。 五〇年間日本の植民地として日本語による日本人としての教育 が 行 き 渡 り、 多 く の イ ン テ リ が 多 数 日 本 本 土 に 学 び に 行 っ た た め、 あ の 時 代 は 確 か に 知 日 で あ っ た し、 む し ろ ほ ぼ 日 本 だ っ た (ちょっと遠距離の) 。台湾語(中国語ではなく)の中にも「おじ さん、おばさん」 「運ちゃん」 「弁当」などの言葉が、外来語とし てではなく台湾語の単語として残り、今も普通に使われている。 母国語として日本語を話す老人も多いことは日本でも良く知られ ているところだろう。 その後の長い、 ほ ぼ鎖国のような中華一辺倒の洗脳と弾圧の暗 黒の時代を経てもなお脈々と「日本」というものが生き残り、美 し き 誤 解 が 強 調 さ れ た 日 本 イ メ ー ジ が 作 ら れ て い っ た。 そ し て 二〇年 ほ ど前の李登輝総統時代に鎖国のドアが開かれ 「日本なう」

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が一気にドバドバとなだれ込み大洪水。ありとあらゆる分野に日 本文化が入り込み、日常生活にごく普通に「日本」が存在してい る。特に社会の担い手の中心である中高年層は、家では親世代の ノスタルジックな日本昔話を聞かされ、外では恐怖政治下で自身 の台湾アイデンティーを否定され続け、自分が何者かがあやふや なまま再度押し寄せてきた日本文化の波を浴びている。自分の文 化や歴史は封鎖されちゃんとした理解がないまま、先に圧倒的な 質と量でやってきた「日本文化」 。 こんな複雑な状況下では、他国の日本研究のように純粋な学問 として、異文化に対する健全な興味の対象として、外交相手とし ての戦略的な目標として日本を捉え研究していくのは、なかなか 難しいだろう。 「 自 分 は 台 湾 人 で あ る 」 と い う 立 ち 位 置 に 自 然 体 で 立 つ よ う に な っ た 若 い 世 代 は ず い ぶ ん 違 っ て き て お り、 「 外 国 」 と し て 日 本 を 捉 え て は い る が、 あ ま り に も 普 遍 的 に 食 い 込 む 日 本 文 化 が か えって日本を「知ったような気」にさせている面がある。日本の 新しいものは常にリアルタイムで周囲にある。日本の雑誌もコン ビニで買えるし、翻訳版だってすぐに出る。ただただあまりに普 通で日常すぎるのだ。自分たちが一番日本を理解しているという 思 い 込 み が、 も う 一 歩 踏 み 込 ん だ 日 本 研 究 を 妨 げ て い る 気 が す る。彼らの思う日本文化の多くが既に台湾風味に味付けされたも のだということに気づきにくい。ありのままの姿を、裏側にひっ そり息づく光と影を、好奇心と興味と時に嫌悪感なども感じなが らでも掘り下げていく姿勢は、もしかしたら他国よりもずっと少 ないのではないか、とも感じる。 まぁ、日本も、屋台が面白い、とか、ほっとする国、親日的な 等の相変わらずの切り口でしか台湾を見ていないことが多いので お互いさまなのだが。 ここは一つ知ったかぶりはひっこめて、もう一度フレッシュな 気持ちで互いの文化を見つめ直す時期なのではないだろうか。 美しき過去の亡霊にも、ダダ流しになっている安いサブカル的 なものにも、訳の分からない思い込みにも左右されず、独自の台 湾 人 目 線 で 掘 り 下 げ ら れ て い く 日 本 を、 そ の 日 本 研 究 を も っ と 色々見てみたい。 「 ほ ー、 こ う 来 た か 」 と 思 え る 日 本 研 究、 台 湾 研 究 の 本 は、 私 がいそいそと平置きで一番目立つ所に配置するのでお任せあれ!  (汗牛書店〈東洋美術専門書店 @ 台北〉副総経理) 【 汗 牛 書 店 】 台 湾 台 北 市 に あ る、 台 湾・ 香 港・ 大 陸・ 欧 米 か ら の中国美術を中心とする、東洋美術書籍の専門書店。 入門書から研究書、美術館・博物館の図録、美術雑誌まで約 四〇〇〇タイトルを常備。 店名は「汗牛充棟」から。

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吹田市岸部北の紫 し 金 きん 山 ざん 公園内に所在する吹田市立博物館は、平 成四年(一九九二)に地域歴史博物館として開館した。常設展示 室では、吹田の考古・歴史・民俗・美術工芸などを古代から近現 代にいたるまで、資料・模型・ビデオガイド等により展示してい る。 ま た、 古 代 窯 よう 業 ぎょう 遺 跡 を 実 物 大 ス ケ ー ル で 再 現 し て い る。 近 年では、千里ニュータウンの現代生活資料や仏像の複製などをロ ビーで常設展示しており、実際に手で触れることができる。さら に、年間五〜六回程度の特別展や企画展も開催している。 紫金山公園には初期平安宮造営における瓦の供給窯であった国 史跡「吉 き 志 し 部 べ 瓦 が 窯 よう 跡」があり、里山の自然とともに歴史探索を楽 し め る。 ま た、 「 吉 志 部 瓦 窯 跡 」 の 北 東 二 〇 〇 メ ー ト ル に は 聖 武 朝(後期)難波宮の内裏およびその周辺部で数多く検出された瓦 の生産工場だった国史跡「七 なな 尾 お 瓦窯跡」もある。 近 年 で は、 当 館 を 舞 台 に し た 市 民 活 動 が 活 発 に な っ て き て お り、 平成一八年 (二〇〇六) には 「千里ニュータウン展

ひと ・ ま ち・ く ら し

」 が 市 民 参 画 の も と に 企 画・ 開 催 さ れ、 好 評 を 博した。以降、特に現代史や自然史関連の展覧会については、市 民参画型の企画として実施されることが多くなった ほ か、ニュー タウンや万博の市民研究家やニュータウンの住民との結びつきが 深くなり、そうしたつながりから、次の展覧会企画が生まれたり するなど、さまざまな展開を生んでいる。 さ て 、 今 回 の テ ー マ の 千 里 ニ ュ ー タ ウ ン と バ ス オ ー ル で あ る が 、 こ れ ら も 当 館 の市 民 参 画 型 展 示 づ く り と 深 い 関 係 が ある 。 平 成 一 六 年 (二 〇〇四 ) に 小 山 修 三 氏 が 当 館 の 第 二 代 館 長 に 就 任 し て 以 降 、 市 民 参 画 の 展 示 づ く りや さわ る展 示 の 大 幅 更 新 を 打 ち 出 し た 。 そ の 第 一 弾 が 、当 館 に よ る 初 め て の 市 民 参 画 型 展 示 で あ る 前 述 の 「 千 里 ニ ュ ー タ ウ ン 展 」 で あ っ た 。 平 成 一 七 年 ( 二 〇 〇 五 ) から 市 民に よ る実 行 委 員 会 を 組 織 し 、 市 民 主 体 の 話 し 合 い に よ る 企 画 を 進 め た 。 そ う し た 話 し 合 い の な か で 、「 当 時 、 千 里 ニ ュ ー タウ ン へ の 引 っ 越 し の 際 に は 、 ミ ゼ ッ ト と い う 三 輪 自 動 車 を 使 用 し た が 、 途 中 で エ ン ス ト し て 大 変 だ っ た 」 と い っ た 話 や 、「 府 営 団 地 に は 一 九 七 〇 年 代の 「 一 部 屋 増 築 」( 住 民 に よ る 生 活の 質 改 善 運 動 ) を 契 機 に 風 呂 が 設 置 さ れ る ま で 風 呂 が な く 、 大 阪 府 か ら は 近 隣 セ ン タ ー の公 衆 浴 場 に 入 り に 行 く よ う 指 導 さ れ て い た が 、 こ

千里ニュータウンとバスオール

さ お と め

け ん

(吹田市立博物館   学芸員)

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れ が 気 持 ち よ く 入 る こ と が で き る 風 呂 で は な か っ た の で 、 バ ス オ ー ル な る 独 立 型 の 風 呂 を 購 入 し て 、 台 所 や ベ ラ ン ダ に 置 い て 使 っ た も の で あ る 。 府 営 団 地 の ベ ラ ン ダ に は 、 外 か ら 見 る と バ ス オ ー ル が 並 ん で い た 」 な ど の 話 が 、 あ る 実 行 委 員 か ら 出 る と 、 で は ミ ゼ ッ ト と バ ス オ ー ル を 探 し 出 して 展 示 し よ う 、と な っ た の で あ る 。 バ ス オー ル探 し に は 苦 労 し た よ う で あ るが 、 実 際 に 探 し 出 し て 、 展 示 す る こ と が で き た 。 結 局 、 バ ス オ ー ル に つ い て は 、 一 台 の 寄 託 、二 台 の 寄 贈 を い た だ い て 、現 在 当 館 に 常 設 展 示 し て い る 。 では、そもそも千里ニュータウンとはどういった存在で、 バ ス オールとは何なのか。 昭和三〇年代に日本経済が急成長を遂げる時期、都市部への人 口 集 中 が 起 き る。 大 阪 府 下 に お い て も 例 外 で は な く、 増 え 続 け る 人 口 に 対 す る 住 宅 問 題 が 重 要 な 課 題 の 一 つ と な っ て い た。 千 里ニュータウンは、こうした住宅問題を解決し、健康で文化的な 生 活 を 享 受 で き る 新 し い 住 宅 都 市 を 建 設 す る と い う 目 的 で 建 設 された、日本で初めての大規模ニュータウンで、地域的には吹田 市と豊中市にまたがる。開発主体は大阪府企業局、開発面積は約 一一六〇ヘクタールであった。クラレンス・ペリーの近隣住区論 に基づき、各住区に小学校、近隣センター、保健・診療施設、レ クリエーション施設などを計画的に配置し、歩車分離を徹底する な ど、 当 時 と し て は 斬 新 な 近 代 的 都 市 を め ざ し た。 昭 和 三 七 年 ( 一 九 六 二 ) 九 月 の 初 入 居 か ら 五 〇 年 を 超 え、 住 民 の 年 齢 構 成 の 変化、住宅の建て替え、商業施設の衰退と再生など、さまざまな 現象が起きている。 次 に バ ス オ ー ル に つ い て 紹 介 す る。 写 真 左 の 風 呂 は、 の ち に 「 ほ く さ ん バ ス オ ー ル 」 と 呼 ば れ る こ と に な る シ リ ー ズ 最 初 期 の 型 で、 「 ほ く さ ん ス タ ン ウ ェ ル バ ス 」 と い う 製 品 名 で 昭 和 三 八 年 ( 一 九 六 三 ) 一 二 月 に ま ず 北 海 道 で 発 売 開 始 さ れ た。 こ れ は、 水 戸の発明家であるヤエス化工の社長・立井宗久氏が、この製品を 同年五月に東京国際見本市に出品する際に「立井」の名をとって 「 立 は ス タ ン ド、 井 は ウ ェ ル 」 か ら「 ス タ ン ウ ェ ル バ ス 」 と 名 付 バスオール 左から、1963年販売開始(エア・ウォーター(株)蔵)/ 1965年頃販売開始(当館蔵)/ 1967年販売開始(当館蔵)

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けたものである。昭和三九年(一九六四)九月にオープンしたホ テルニューオータニに装備された東洋陶器(現・ TOTO )のユ ニット バ スとあわせ、日本におけるユニット バ スの先駆けの一つ で あ る。 先 の 住 民 の 発 言 の と お り、 千 里 ニ ュ ー タ ウ ン 開 発 当 初、 府営団地約一万戸には浴室が設置されず、近隣センターに公衆浴 場 が つ く ら れ た。 そ の た め、 府 営 団 地 の 住 民 の 間 で 大 ヒ ッ ト し、 多 く は 台 所 や ベ ラ ン ダ に 置 か れ た。 ガ ス 湯 沸 か し 器、 シ ャ ワ ー、 浴槽などがセットになっており、価格は当時の給料一か月分を目 安に設定されたという。 「まず浴槽に湯を入れ、 頑丈なフタに乗っ て 体 を 洗 い、 フ タ を 外 し て 浴 槽 に 浸 か る よ う に な っ て い る 」 と、 多くの住民は当時の思い出を語るが、フタには「フタの上には乗 らないでください」との注意書きがある。 写 真 右 の「 ほ く さ ん バ ス オ ー ル 」 は、 昭 和 四 二 年( 一 九 六 七 ) 発 売 開 始 の 製 品 で、 洗 い 場 が つ い た 大 型 タ イ プ で あ る。 「 ほ く さ ん バ スオール」は、昭和三八年(一九六三)の発売開始から、昭 和五三年(一九七八)に始まった府営住宅の一部屋増築(浴室が 設 置 さ れ た ) が 完 了 す る ま で、 二 〇 年 前 後 に わ た っ て 使 わ れ た ケースもあった。なかには、洗い場がない バ スオールから洗い場 つきの バ スオールに買い替えた家もあった。 市民参画型展示の実行委員の記憶が展示となって来館者と共有 され、三台並んだ常設化につながり、さらに多くの人々に新たな 記憶や知識が共有されることとなる。記憶や知識の新たな紡ぎ方 として、これからも大切にしていきたい。

市立博物館

平成 28年度秋季特別展 •住    所   〒 564 -0001   大阪府吹田市岸部北 4丁目 10│ 1 ℡ 06 │ 6338 │ 55 00 ℻ 06 │ 6338 │ 9886 • アクセス   J R「岸辺駅」より徒歩 20分 • 開館時間   総合展示   午前 9時 30分〜午後 5時 15分 • 休 館 日   月 曜 日 、   祝 日 の 翌 日( 祝 日 が 月 曜 日 の 場 合 、 火 曜 日 も 休 館 )   12月 29日 〜 1月 3日 • ホームページ   http://www.bunpaku.or.jp/ 考古、歴史、民俗、美術工芸などの資料を中心に展示。 ま た 、 特 別 展 も 開 催 。 隣 接 す る 紫 金 山 公 園 に は 国 史 跡 「 吉 志 部 瓦 窯 跡 」 が あ り 、 里 山 の 自 然 と 歴 史 探 索 を 楽 し める。 「古代の港か? 祭場か?    

五反島遺跡の謎 迫る

• 会    期   10月 8日(土) 〜 12月 4日(日)

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 書評・紹介一覧 6 〜 9月掲載分         ※(評)…書評(紹)…紹介(記)…記事〔敬称略〕 おもてなしとマナー 西山地蔵院文書 (記)『清流』10 (紹)『史学雑誌』125編6号 (紹)『味の手帖』49巻9号 大航海時代の日本と金属交易 園城寺の仏像 (評)『社会経済史学』82巻1号(櫻木晋一) (紹)「中外日報」5/27 中国南北朝隋唐陶俑の研究 花道の思想 (評)『古代文化』68巻1号(市元塁) (紹)「中外日報」7/22 鎮守の森の物語 記念植樹と日本近代 (紹)「毎日新聞」6/26 (紹)「毎日新聞」6/26 天下人の神格化と天皇 (紹)「山林」8月号 (評)『ヒストリア』256号(石津裕之) (紹)「アーカイブス通信」No.17(みどりの図書館) (評)『日本歴史』817号(田中暁龍) 京都 実相院門跡 動物・植物写真と日本近代絵画 (紹)『リポート笠間』No.60 (記)「日本経済新聞」8/14 近世の王権と仏教 日本中世の環境と村落 (評)『日本歴史』820号(野村玄) (評)『歴史評論』795号(蔵持重裕) 近世日本の銅と大坂銅商人 (紹)『地方史研究』382号 (紹)『日本史研究』645号 売茶翁の生涯 近代の「美術」と茶の湯 (紹)「茶華道ニュース」8/1 (記)「日本経済新聞」5/1 (紹)「佐賀新聞」8/21(川本喜美子) 近代日本の都市社会政策とマイノリティ 平安王朝の葬送 (評)『大原社会問題研究所雑誌』694号(中嶋久人) (紹)「中外日報」7/8 (評)『民衆史研究』91号(藤田貴士) (紹)「週刊読書人」7/22 熊倉功夫著作集 変容する聖地 伊勢 (紹)「茶華道ニュース」8/15 (紹)「朝日新聞」6/18 正倉院の香薬 (評)「読売新聞」7/3(月本昭男) (紹)『リポート笠間』No.60 (紹)「世界日報」8/28 正倉院染織品の研究 (紹)「中外日報」8/26 (評)『日本考古学』41号(東村純子) 万国博覧会と人間の歴史 正倉院宝物と古代の技 (記)「読売新聞」7/10 (紹)『家具道具室内史』8号 和食とは何か (評)『日本歴史』820号(稲田奈津子) (紹)『茶の湯』508号 図  書  名 著 者 名 ISBN978-4-7842 本体価格 発行月 日本中世の政治権力と仏教〔オンデマンド版〕 湯之上隆著 7018-7 C3021 8,800 7 中世寺社信仰の場〔オンデマンド版〕 黒田龍二著 7017-0 C3021 7,800 7 近世寺社参詣の研究〔オンデマンド版〕 原淳一郎著 7013-2 C3021 8,300 7 売茶翁の生涯 ノーマン・ワデル著 1845-5 C1023 3,500 7 幕末外交儀礼の研究 佐野真由子著 1850-9 C3021 5,000 7 墨と響きあう 町田泰宣著 1851-6 C0071 3,000 8 箜篌の研究 中安真理著 1849-3 C3070 6,000 8 デンマーク人牧師がみた日本 長島要一訳・編注 1860-8 C1021 3,700 8 7月から9月にかけて刊行した図書 シ リ ー ズ 名 配本 回数 巻数 巻タイトル ISBN978-4-7842 本体価格 発行月 熊倉功夫著作集 1 1 茶の湯 心とかたち 1852-3 C3321 7,000 7 東寺百合文書 12 12 リ函一 1862-2 C3321 11,500 9 和食文化ブックレット 4 4 和食と健康 1861-5 C1077 900 9 熊倉功夫著作集 2 2 茶の湯と茶人の歴史 1853-0 C3321 7,000 9* 7月から9月にかけて刊行した継続図書(*は予定) (表示価格は税別)

参照

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