密 教 文 化
弘
法
大
師
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﹃
文
鏡
秘
府
論
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王
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文
庄
司
荘
一
訳
一 中 国 両 国 の 文 化 交 流 は、 史 書 の 記 載 に よ る と、 最 初 の 段 階 で は、 仏 教 の 流 伝 と い う 通 路 を 主 に し て 発 展 し て き た。 仏 教 の 中 国 か ら 日 本 へ の 流 伝 は、 欽 明 天 皇 の 十 三 年 ︹ 五 五 二 ︺ ( 梁 の 元 帝、 承 聖 元 年 ) に、 向 原 寺 を 高 寺 郡 に、 敏 達 天 皇 の 十 三 年 ︹ 五 八 三 ︺ ( 陳 の 後 主、 至 徳 元 年 ) に、 塔 を 大 野 邸 に 建 て た の に 始 ま る。 こ れ よ り 以 後、 日 本 の 学 問 僧 が 求 法 の た め に 中 国 に 渡 る 者 が 代 々 続 い た が、 唐 代 が も っ と も 頻 繁 で あ っ た。 唐 王 朝 は 隣 国 ( 特 に 日 本 ) に 対 し て ﹁ 親 仁 善 陣 ﹂ (善 隣 友 好 ) 政 策 を と っ た か ら、 中 日 間 の 友 好 的 な 往 来 ・ 文 化 交 流 は は な は だ 促 進 さ れ た。 則 天 武 后 が 倭 国 を 日 本 国 と 改 称 し て か 麗 ・ 日 本 は そ の 名 称 を 世 界 に 国 名 と し て 通 用 さ せ る こ と と な っ つ か た。 ま た、 中 国 は 遣 唐 使 を 優 遇 し た。 王 維 は ﹁ 儀 を 司 さ ど れ つ か さ る も の、 等 を 加 え、 位 は 王 侯 の 先 に 在 り、 次 を 掌 ど れ る も の め 観 を 改 め て、 蛮 夷 の 邸 に 居 か ず ﹂ ( 秘 書 晃 監 (阿 部 仲 麿 ) の 日 本 よ し み 国 に 還 る を 送 る な ら び に 序 ) と 述 べ、 ま た ﹁ 彼 れ 好 を 以 て 来 た し れ ば、 関 を 廃 し 禁 を 弛 う す、 上 は 文 教 を 敷 け る に よ り、 虚 に み し て 至 れ る も 実 の り て 帰 れ り ﹂ ( 同 前 ) と も 述 べ て い る。 こ れ は す べ て 友 好 政 策 の 具 体 的 表 現 で あ る。 ま し て や 当 時 ﹁ 東 ( 4 ) 海 は こ れ 西 隣 ﹂ で あ っ た 日 本 は 中 国 と ﹁ 王 文 ひ さ し く 巳 に 同 ( 5 ) こ よ み じ ﹂ で あ っ た し、 す で に ﹁ 正 朔 は 夏 時 に 本 づ き、 衣 裳 は 漢 制 (6 ) に 同 じ ﹂ で あ る に お い て を や。 こ う し て、 留 学 生 と 学 問 僧 を 参 加 さ せ た 日 本 の 第 一 次 遣 唐 使 派 遣 は、 好 明 天 皇 の 二 年 ︹ 六 三 ○ ︺ ( 唐 の 太 宗、 貞 観 四 年 ) に 行 な わ れ た。 そ の 後、 唐 代 を 通 じ て 遣 唐 使 の 派 遣 は 十 九 回 の多 き に 及 ん だ。 こ れ は 公 記 録 の 記 載 だ け で あ る か ら、 民 間 の 往 来 で 日 本 人 の 中 国 に 渡 来 し た さ ま は、 王 維 の い わ ゆ る ﹁ 人 ( 7 ) 民 は 雑 居 し、 往 来 は 市 の ご と し ﹂ で あ り、 ま た、 保 胤 の い わ ( 8 ) ゆ る ﹁ 入 唐 の 問、 商 費 の 客 を 待 ち て 渡 る を 得 た り ﹂ で あ っ た。 ま た、 中 国 人 の 日 本 へ の 渡 来 は 詩 人 張 説 の ﹁ 梁 知 微 の 海 ( 9 ) 東 に 渡 る を 送 る ﹂ や、 同 じ く 詩 人 方 干 の ﹁ 人 の 目 本 国 に 遊 ぶ ( 10 ) を 送 る ﹂ 詩 篇 に 反 映 さ れ て い る。 こ う し て、 民 間 の 交 流 は 両 国 の 政 府 間 の そ れ に く ら べ て 多 か っ た に ち が い な い が、 残 念 な が ら 文 献 に 徴 す る も の が な く、 今 日 で は 調 査 す る す べ が な い の で あ る。 こ の よ う な 歴 史 の な か で、 鑑 真 和 尚 が 来 日 し た こ と、 及 び 晃 衡 (阿 部 仲 麿 ) が 中 国 で 客 卿 と し て と ど ま っ た こ と は、 今 日 に 至 る も な お、 中 日 両 国 の 人 び と の 問 に 伝 え ら れ て い る 佳 話 で あ る。 し か し、 惜 し い か な 阿 部 仲 麿 が 詩 篇 の 中 で う た っ た ( 11 ) ﹁ ( 中 国 の ) す ば ら し い 書 籍= 好 書 籍 ﹂ も、 彼 が 唐 王 朝 を あ と に 帰 国 す る 途 中、 す べ て 海 の 藻 く ず と 化 し て、 王 維 が こ い ね が っ た よ う に 書 物 や 器 物 を ﹁ 絶 域 ・ 異 姓 の 国 ( 日 本 ) ﹂ に も ( 12 ) た ら す こ と は で き な か っ た。 李 白 が 阿 部 仲 麿 の 死 を い た ん で ﹁ 晃 卿 衡 を 笑 す ﹂ を 作 り、 ﹁ 日 本 の 晃 卿 は み や こ を あ と に し た。 さ り ゆ く 帆 は 彼 の 国 へ。 し か し 明 月 の も と で あ を 海 に 沈 ( 13 ) ん で し ま い、 白 雲 が 悲 し み を お び て 南 海 の 空 に み ち て い る L と う た っ て、 い さ さ か 哀 悼 の 意 を } 首 に 託 し た の で あ っ た。 鑑 真 和 尚 が 中 国 か ら 日 本 に 渡 っ て 仏 教 を 伝 え、 そ の 後 ま も な く、 弘 法 大 師 が 日 本 か ら 中 国 へ と 求 法 の た め に 訪 れ た。 こ の ふ た り が 中 日 文 化 の 交 流 の た め に つ く し た 貢 献 は い ず れ も 後 世 に 輝 き を 放 っ て い る。 な か で も、 弘 法 大 師 の 日 本 に 及 ぼ し た 影 響 の 深 さ は、 慶 保 胤 が ﹁ 窟 然 上 人 が 入 唐 の と き、 母 の く よ マつ た め に 修 善 し た 文 で ﹁ お よ そ 入 唐 求 法 の 人、 自 ら の 宗 で は 弘 法 大 師、 天 台 で は 伝 教 大 師。 み な こ れ 権 化 の 人、 希 代 の 器 で ( 14 ) あ る ﹂ と 述 べ て い る 通 り で あ る。 二 弘 法 大 師 ︹ 七 七 四 ー, 八 一二 五 ︺ と は、 日 本 僧 空 海 の 入 寂 後 の 尊 ( 15 ) 号 で あ る。 空 海 は 俗 姓 を 佐 伯 ( 一 本 に は 佐 伯 真 ) 氏 と い い、 讃 岐 国 多 度 郡 屏 風 浦 ( 今 日 の 香 川 県 善 通 寺 市 ) の 人、 法 号 を 遍 照 金 剛 と い う。 彼 は 十 五 歳、 桓 武 天 皇 の 延 暦 七 年 ︹ 七 八 八 ︺ に 都 (奈 良 ) に 入 り、 外 舅 の 阿 刀 大 足 に つ い て. 論 語 ﹄. 孝 経 ﹄ お よ び 史 伝 弘 法 大 師 と ﹃ 文 鏡 秘 府 論 ﹄
密 教 文 化 を 授 か り、 ま た 詩 文 を も 学 ん だ。 も っ と も 仏 典 を こ の み. 聾 督 指 帰 ﹄ を 著 し て 学 道 へ の 志 を 述 べ た。 二 十 四 歳、 延 暦 十 六 年 ︹ 七 九 七 ︺ に は 司 馬 相 如 の, 子 虚 の 賦 L、 上 林 の 賦 L に な ら っ て ﹃ 三 教 指 帰 ﹄ 三 巻 を 著 し、 儒・ 仏 ・ 道 の 旨 趣 を 論 じ、 乞 児 に 自 分 を な ぞ ら え た が、 お も う に 三 教 の 帰 着 す る と こ ろ を 明 ら か に す る と と も に、 睡 辮 が 達 捌 ほ 入 る こ と を 勧 め よ う と し た。 こ の こ と か ら、 大 師 は 入 唐 以 前 か ら、 漢 字 ・ 仏 学 に 対 し て 相 当 の 造 詣 の あ っ た こ と が 知 ら れ る。 延 暦 二 十 三 年 ︹ 八 ○ 四 ︺ (唐 の 徳 宗、 貞 元 二 十 年 )、 日 本 は ふ た た び 遣 唐 使 を 派 遣 し た。 こ の 使 節 団 は、 大 使 藤 原 葛 野 麿 ・ 副 使 石 川 道 益 ・ 判 官 菅 原 清 公. 富 階 遠 成、 学 問 僧 空 海 ・ 最 澄 ( 伝 教 大 師 ) お よ び 留 学 生 橘 逸 勢 ら か ら 成 っ て い た。 } 行 は 船 四 艘 に 乗 り、 空 海 と 大 使 ・ 副 使 お よ び 橘 逸 勢 ら は 第 一 船、 判 官 ら は 第 二 船 に 乗 り こ ん だ が、 航 海 中 に 暴 風 雨 に あ っ て 四 散 漂 流 し、 空 海 ら の 船 は 入 月 十 五 日 に 福 州 の 長 渓 県 赤 岸 鎮 に 漂 着 し た。 そ の 時、 福 州 管 内 で は 日 本 の 使 節 に 応 接 せ す、 交 渉 が 手 間 ど っ た。 大 師 は こ の と き﹁ 大 使 の た め に 福 州 観 察 使 に ( 16 ) ( 17 ) 与 う る 書 ﹂ に よ っ て 事 情 を 説 明 し た。 当 時 の 観 察 使、 閻 済 美 は こ の 書 翰 を 読 ん で 称 賛 し、 使 節 を 受 け 入 れ る と と も に 入 京 手 続 き ま で 取 り 計 ら っ て く れ た。 十 月 に は﹁ 福 州 観 察 に 与 う ( 18 ) る 入 京 の 啓 ﹂ を 書 い て 使 節 一 行 に 従 っ て 入 京 し た い 旨 を 願 い 出、 観 察 使 の 許 可 を 得 る と 十 一 月 三 日 に は 行 を と も に し、 十 二 月 二 十 二 日 に 長 安 に 着 い た。 翌 年 二 月、 大 使 藤 原 葛 野 麿 ら が 帰 国 す る 際、 空 海 は 橘 逸 勢 ら と 唐 王 朝 か ら 滞 在 留 学 の 許 可 を 得 た。 大 師 は﹁ 新 請 来 の 経 等 の 目 録 を た て ま つ る 表 ﹂ で、﹁ 二 十 み こ と の り 四 年 ︹ 八 ○ 五 ︺ 二 月 十 日、 勅 に 従 い 西 明 寺 を 定 め ら れ て 住 む こ と に な り ま し た。﹂ と 述 べ、 ま た、 ﹁ 仲 春 十 一 目、 大 使 ら は 帰 国 い た し ま し た が、 私 だ け は 勅 に 従 い 永 忠 和 尚 の 故 院 で あ る 西 明 寺 に 留 ま り 住 む こ と に な り ま し た ﹂ と も 述 べ て い る。 ﹁ 本 朝 高 僧 伝 ﹂ に は﹁ 釈 永 忠 ⋮ ま た 支 那 の 仏 法 を 慕 い、 宝 亀 の 初 に 入 唐 す。 代 宗 の 大 暦 年 間 な り。 帝 は そ の 徳 業 を 聞 き、 救 し て 西 明 寺 院 内 に 居 ら し む ﹂ と あ り、﹁ 日 本 名 僧 伝 ﹂ に は ﹁ 永 忠⋮ 延 暦 の 末、 使 に 随 っ て 帰 朝 す ﹂ と あ る か ら、 大 使 藤 原 氏 に 随 っ て 此 の と き に 帰 朝 し た ら し い。 し て み る と、 空 海 が 永 忠 和 尚 の 故 院 西 明 寺 に 留 住 し た の は、 永 忠 和 尚 の 帰 朝 の 後 を 継 い だ こ と に な る の で あ る。 空 海 と 永 忠 と は、 長 安 の 辻伴 水 で は じ め て 相 会 し た の で あ る が、 そ の 後、 大 師 が 学 成 っ て
え に し 帰 国 す る や、 ふ た た び 永 忠 と 文 字 の 縁 を 結 ぶ こ と に な っ た。 ﹁ 性 霊 集 ﹂ 巻 九 の ﹁ 永 忠 和 尚 の 少 僧 都 を 辞 す る の 表 ﹂ と ﹁ 永 忠 僧 都 少 僧 都 を 辞 す る の 表 と 敷 答 ﹂ と が そ れ で あ る。 永 忠 和 尚 は 弘 仁 七 年 ︹ 八 一 六 ︺ 四 月 に 遷 化 し た。 こ の 年 こ そ、 大 師 が 高 野 山 を 開 い た 年 で あ っ た。 そ れ は 後 年 の こ と で も あ り、 こ れ 以 上 述 べ な い。 ﹁ 本 朝 高 僧 伝 ・ 道 慈 伝 ﹂ に よ れ ば、 こ れ よ り 先、 ﹁ 聖 武 天 皇 の 天 平 九 年 ︹ 七 二 七 ︺、 天 官 寺 を 新 し く 建 て よ う と し て、 詔 を 下 し て 伽 藍 の 制 式 を も と め た が、 誰 も 知 る 者 が な か っ た。 道 慈 が ﹃ 私 が 中 華 に お り ま し た と き、 西 明 寺 を 訪 れ、 他 日 帰 国 し て、 も し 仏 教 の 盛 大 に あ う こ と が あ っ た な ら ば、 西 明 寺 の 制 式 こ そ 模 範 と す べ き だ と ひ そ か に 思 い ま し て、 諸 堂 の 規 模 を 写 し と っ て 大 切 に 保 存 し て ご ざ い ま す。 い ま 陛 下 の 下 問 を 賜 わ り ま し た が、 そ れ こ そ 私 が か っ て 抱 い て い た こ と で ご ざ い ま す ﹄ と 言 上 し て、 図 面 を 奉 っ た。 ⋮ ( 大 官 寺 は ) 十 四 年 を へ て 落 成 し、 大 安 の 額 を 賜 わ り、 道 慈 が 主 座 に 任 ぜ ら れ ( 19 ) た。 ﹂ と。 こ う し て み る な ら ば、 日 本 の 高 僧 た ち が 長 安 に 留 学 し て 西 明 寺 に 居 住 し た こ と が 縁 に な っ て、 西 明 寺 を 伽 藍 の 範 と し て 聖 武 天 皇 は 大 安 寺 を 建 立 す る に い た っ た わ け で、 西 明 寺 は た ん に 日 本 の 文 化 を 培 う 揺 藍 で あ る ば か り で な く、 中 日 文 化 交 流 史 上 の 記 念 館 と い う こ と が で き よ う。 三 西 明 寺 の 建 物 は、 イ ン ド の 祇 園 精 舎 を 模 し て 建 て ら れ た 唐 代 の 名 刹 で あ る。 ﹃ 大 唐 大 慈 恩 寺 三 蔵 法 師 伝 ﹄ に よ れ ば、 ﹁ 顕 慶 三 年 ︹ 六 五 八 ︺ 正 月、 天 子 は 東 都 (洛 陽 ) か ら 西 京 ( 長 安 ) に 帰 ら れ、 法 師 も お 伴 し た。 秋、 七 月 ふ た た び 勅 が く だ つ て、 法 師 は 西 明 寺 に 移 り 住 ま わ れ た。 寺 は 元 年 ︹ 六 五 六 ︺ 秋 八 月、 戊 子 十 九 日 に 建 て ら れ た。 こ れ よ り 前 に ﹁ 延 康 坊 の 漢 王 の 旧 ( 20 ) 宅 に、 皇 太 子 の た め に、 そ れ ぞ れ 寺 と 道 観 と を 一 つ ず つ 造 り、 法 師 に 命 じ て 見 廻 ら せ る ﹂ と の 勅 が 下 つ た が、 法 師 は、 寺 院 と 道 観 の 両 方 を 造 る に は 手 狭 な 旨 を 奏 上 し た。 そ こ で、 寺 院 だ け を ま ず 造 る こ と と し、 道 観 は 普 寧 坊 に 別 に 造 る こ と に な っ た。 そ の 年 の 夏 六 月、 寺 院 は 完 成 し た。 そ の 敷 地 は 三 百 五 十 歩 四 方、 周 囲 は 数 里。 左 右 に は 道 路 を 通 じ さ せ、 背 後 に は 街 並 を 配 す る。 そ の 外 側 に は 青 椀 が 立 ち な ら び、 そ の 間 に は 清 ら か な 川 が 流 れ て い る。 長 安 の 中 の 寺 院 の 中 で は、 も っ 弘 法 大 師 と ﹃ 文 鏡 秘 府 論 ﹄
密 教 文 化 と も ま ば ゆ い 存 在 と な っ た。 廊 殿 や 楼 台 は 天 の 川 に 接 す る ば か り、 金 色 の 扉 や 絵 の か か れ た 棟 々 は ひ か り 輝 く 霞 に ま が い、 目 を 奪 う ば か り で あ る。 十 寺 院 に は 四 千 余 の 部 屋 が あ り、 そ の 荘 厳 さ は 梁 の 同 泰 年 間. 魏 の 永 寧 年 間 に も 遜 色 の な い 建 物 で あ っ た。 L と あ る。 ま た、 蘇 顛 は 鳳、 唐 長 安 西 明 寺 塔 ( 21 ) 碑 ﹄ の 中 で ﹁ 唐 の み か ど は 太 陽 の 光 の ご と く、 千 万 世 に 伝 え る べ き 功 業 を た て ら れ、 そ の 盛 業 は 三 代 よ り も す ぐ れ た ま う。 聡 明 な る 徳 を 高 宗 ま で 伝 え ら れ た が、 高 宗 は 皇 位 を 継 が れ て 政 道 を 導 か れ た。 時 に 孝 敬 皇 帝 ( 陳 王 忠 の こ と ) が 皇 太 子 の 位 に つ か れ た が、 一 目 三 善、 よ く 徳 を 積 ま れ、 人 君 の 天 稟 お そ を 承 け 継 が れ、 喜 び か つ 惧 れ、 王 子 の 言 を 聞 い て 大 い な る 威 光 を も っ て 誓 言 を 発 し、 有 為 の 基 に よ っ て 天 子 の 位 に 即 か せ ら れ た。 顕 慶 元 年 仲 秋 に 京 兆 の 延 康 里 に 西 明 寺 を 建 て て 恩 に 報 わ れ た。 こ れ よ り 先、 命 ぜ ら れ て 三 蔵 法 師 が 現 地 を 視 察 し て 設 計 し、 次 い で 沈 謙 之 が 荘 厳 き わ ま り な い 建 築 を 完 成 し た ﹂ と い う。 西 明 寺 落 成 の 日、 高 宗 は 親 し く 盛 大 な 式 典 に 参 列 さ し た。 蘇 顛 は ま た ﹁ 田 園 百 頃、 浄 人 百 房 ⋮ を 賜 わ っ た。 ( 以 下 略 ) ﹂ と い い、 道 宣 も ﹃ 集 古 今 仏 道 論 衡 ﹄ 巻 四 に ﹁ 帝 は 西 明 寺 が 落 成 し た の で (中 略 ) 内 殿 に 僧 道 を 召 さ れ、 み ず か ら も 参 列 し て そ の 式 典 を み そ な わ さ れ た ﹂ と い い、 ま た、 そ の 第 二 に は ﹁ 顕 慶 二 年 ︹ 六 五 七 ︺ 六 月 十 二 日、 西 明 寺 が 成 る や、 道 俗 が 集 ま り 幟 や 天 蓋 は 荘 厳 ・ 華 麗 で あ つ た。 翌 日 の 吉 日 に 寺 に 入 ら れ ん と す る や、 薫 鼓 が 鳴 り、 香 花 は 空 に 乱 れ、 北 城 か ら 南 寺 に 至 る + 余 里、 街 中 が ど よ め い た。 十 三 日 朝 に は、 帝 は 安 福 門 上 に 臨 ま れ、 も ろ も ろ の 臣 僚 が 下 に 列 な っ た。 盛 大 な 行 列 を ご 覧 に な り、 終 っ て か ら 還 ら れ た ﹂ と あ る。 蘇 顛 ・ 道 宣 の 描 写 し た 西 明 寺 の 落 成 式 典 は 当 時 に お い て 盛 大 を き わ め た も の で あ っ た が、 引 き 続 き、 則 天 武 后 も 青 泥 珠 ( 23 ) を 布 施 し、 章 懐 太 子 李 賢 も 万 斤 の 釦 鐘 を 鋳 造 さ れ た の で あ ( 24 ) る。 唐 王 朝 が 西 明 寺 を い か に 重 視 し て い た か を、 こ れ ら の 事 実 に よ っ て 知 る こ と が で き る の で あ る。 西 明 寺 は 玄 弊 法 師 が 苦 心 惨 憺 し た お か げ で、 印 度 の 祇 園 精 舎 を 原 図 と し て 創 建 さ れ、 そ の 壮 観 さ は す で 蘇 顛 の 碑 文 や ﹃ 玄 弊 伝 ﹄ に 述 べ ら れ て い る が、 ﹁ 寺 額 は 玄 宗 朝 の 劉 子 果 の 書 で あ り、 西 門 の 南 壁 に は 楊 廷 光 の 両 面 の 絵 が あ り、 東 廊 東 面 の 第 一 問 に は 伝 道 者 の 図 に 楮 遂 良 が 賛 を 書 い て お り、 第 三 ( 25 ) 間 に は 利 防 等、 第 四 問 に は 曇 祠 迦 羅 と 欧 陽 通 の 書 ﹂ が あ り、 ( 26 ) ま た、 ﹁ 金 剛 経 碑 ﹂ が 柳 公 権 の 書 で あ る に 至 っ て は、 西 明 寺
が 擁 し て い た 碑 文 ・ 壁 画 ・ 題 傍 ・ 法 書 は、 当 時 の 最 高 の 芸 術 ( 27 ) 作 品 で あ っ た。 温 庭 箔 は ﹁ 西 明 寺 僧 院 に 題 す (詩 )﹂ に ﹁ 為 に 名 画 を 尋 ね て 寺 に 来 過 し、 ⋮ ⋮ 創 洲 に 向 っ て 釣 糸 を 理 せ ず ﹂ と あ る。 槍 洲 と は、 杜 甫 の ﹁ 玄 武 禅 寺 の 屋 壁 に 題 す ﹂ 中 の ( 28 ) ﹁ 満 壁 治 洲 を 画 く ﹂ の 句 意 に も と つ く。 西 明 寺 の 壁 画 の 一 端 が、 当 時 の 人 び と に 絶 賛 さ れ て い た こ と が、 こ れ に よ っ て も わ か る の で あ る。 こ の 寺 は ま た、 牡 丹 に よ っ て も 有 名 で あ る。 ﹃ 元 白 長 慶 集 ﹄ ( 29 ) に は 元 槙 の ﹁ 西 明 寺 の 牡 丹 ﹂ ・ 白 居 易 の ﹁ 酉 明 寺 牡 丹 の 花 時 ( 30 ) に 元 九 を 憶 う ﹂ ・ ﹁ 重 ね て 西 明 寺 の 牡 丹 の 時 に 題 す、 元 九 は 江 ( 31 ) ( 32 ) 陵 に 在 り ﹂ の 詩 が 載 っ て い る。 陳 標 の ﹁ 僧 院 牡 丹 ﹂ 詩 に ﹁ 瑠 ま さ 璃 地 上 紅 艶 開 き、 碧 落 天 頭 に 暁 霞 散 る、 応 に 是 れ 西 に 向 っ て い か 地 種 な か る べ し、 然 ら ず ん ば 争 で か 肯 て 蓮 華 を 重 ね ん ﹂ と あ る。 こ の 寺 院 が 西 明 寺 を 指 す か ど う か を 明 言 し て い な い に か か わ ら ず、 わ れ わ れ は ど う し て こ れ が 西 明 寺 で は な い と 言 え ( 33 ) る で あ ろ う か。 こ の 想 定 は、 ﹁ 禅 房 花 木 深 し ﹂ 詩 の 禅 房 が、 い ざ な 万 寿 寺 の 牡 丹 を さ し ﹁ 燗 漫 た る 香 風 は 貴 遊 を 引 い、 高 僧 歩 を ( 34 ) 移 し て ま た 選 ん で 留 ま る ﹂ と あ る の と 同 様 に 当 っ て い る で あ ろ う。 西 明 寺 の 西 明 寺 た る ゆ え ん は、 こ の 寺 院 が 如 来 一 蔵 の よ う な 仏 典 を 珍 蔵 し て い る と い う 独 特 な 点 に あ る。 こ れ は、 ﹁ 大 唐 大 慈 恩 寺 三 蔵 法 師 伝 ﹂ 巻 一 〇 と、 日 本 僧 葉 課 が、 新 離 慧 琳 蔵 経 音 義 紀 事 ﹂ に 説 く よ う に 西 明 寺 の 所 蔵 に か か る も の で、 西 明 寺 こ そ は、 唐 代 に お け る 仏 教 経 典 収 蔵 の 最 尖 端 を ゆ く 宝 庫 の 一 つ で あ り、 同 時 に 当 時 の 仏 学 研 究 に お け る メ ッ カ だ っ た の で あ る。 賛 寧 の、 高 僧 伝 ﹂ 巻 一 四﹁ 唐 京 兆 西 明 寺 道 宣 伝 L に、 西 明 寺 が 完 成 す る や、 詔 に よ っ て 宣 を し て 上 座 と し、 三 蔵 玄 弊 を 止 ど ま ら せ て 訳 経 に た ず ら わ せ た ⋮ 宣 は﹁ 広 弘 明 集 ﹄﹁ 続 高 僧 伝 ﹄ を 撰 し た﹂ と あ る。 ま た、 そ の 巻 四﹁ 唐 京 師 西 明 寺 道 世 伝 L に は、﹁ ( 道 世 は ) そ の 賢 明 な る に よ っ て 西 明 寺 に 召 さ れ た。 時 に 道 宣 は 律 師 と し て 律 を 行 じ (中 略 ) と も に 五 部 の 車 を 駆 り、 三 乗 の 執 に 導 か れ て、 編 纂 に 従 い、﹁ 法 苑 珠 林 ﹄ 十 峡、 百 巻 が 完 成 し た ﹄ と あ る。 ま た、 巻 五﹁ 唐 京 師 西 明 寺 慧 林 伝 L に は、 ﹁ 字 林 ﹄﹁ 字 統 ﹄ ﹃ 声 類 ﹄ ﹃ 三 蒼 ﹄﹁ 切 韻 ﹄ 司 玉 篇 ﹄ を 引 用 し、 諸 経 雑 史 に つ い て 仏 意 と 参 合 し、 是 非 を 詳 察 し て、﹁ 大 蔵 立 呈 我 ﹄ 百 巻 を 撰 ん だ が、 貞 元 四 年 ( 七 八 八 ) か ら 元 和 五 年 ︹ 八 一 ○ ︺ に 至 っ て 完 成、 そ の 書 物 は 西 明 寺 の 弘 法 大 師 と ﹃ 文 鏡 秘 府 論 ﹄
密 教 文 化 蔵 に 貯 え ら れ、 都 の 人 々 は み な 宗 仰 し た ﹂ と あ る。 当 時 に は 聡 明 さ に よ っ て 寺 に 召 さ れ た 者 は、 上 掲 の 玄 弊 ・ 道 宣 ・ 道 世 ( 35 ) ( 36 ) ( 37 ) ( 38 ) ( 39 ) ( 40 ) ﹁ 慧 琳 の ほ か に、 円 測 ・ 良 秀 ・ 乗 恩﹂ 威 公 ・ 林 復. 自 覚. 順 ( 41 ) 貞 な ど が あ る。 こ の よ う に、 高 僧 は 輩 出 し、 名 著 は 続 々 と 撰 述 さ れ、 ま こ と に 盛 観 を き わ め た の で あ っ た。 も し、 わ れ わ れ が、 長 安 は 当 時 に お け る 東 方 の 中 心 で あ る と 言 っ た 場 合、 西 明 寺 は 長 安 に お け る 仏 教 文 化 の 中 心 に 位 置 し て い た の で あ る。 こ の よ う な 提 言 は、 い さ さ か も 言 い 過 ぎ で は な い。 唐 王 朝 は 永 忠 の あ と を 継 い だ 大 師 に こ の よ う な 好 ま し い 学 習 環 境 を 与 え た。 当 時 の 空 海 は、 朝 夕 こ こ に 憩 い、 こ こ に 遊 び、 寝 食 の 問 も こ こ を 離 れ ず、 歩 行 は い よ い よ 恭 し く、 ( 西 明 寺 の 伝 統 を ) 仲 間 と と も に ふ り 仰 ぎ、 お の ず と 感 銘 を 受 け た こ と で あ ろ う。 王 維 の い わ ゆ る. 起 た ず し て 遊 覧 し、 風 あ ら ざ る に 清 涼 た り、 世 ( 42 ) 界 を 蓮 華 の ( う ち に ) 得 て、 文 章 を 貝 葉 に 記 し た ﹂ で あ ろ う。 サつ 萄 然 の 上 表 文 の い わ ゆ る、 三 蔵 に 就 い て 学 を 稟 け、 数 寺 を 巡 り て 優 遊 し、 遂 に 蓮 華 を し て 文 を 回 ら し む、 神 筆 は 北 闘 の 北 お し え よ り 出 で、 貝 葉 に 字 を 印 し、 仏 の 詔 は 東 海 の 東 に 伝 わ っ た L の は、 大 師 の み が 西 明 寺 で 学 習 し、 生 活 し た 影 像 に と ど ま ら な い の で あ る。 四 大 師 は 西 明 寺 に 住 む よ う に な っ て か ら、 諸 寺 院 の 名 僧 を 歴 訪 し た。 大 同 四 年 五 月 下 旬、 西 明 寺 の 僧 志 明 ・ 談 勝 ら 五 人 と 青 龍 寺 東 塔 院 に 恵 果 を た ず ね て 仏 教 の 伝 授 を 請 う た。 恵 果 は ﹁ 吾 の 汝 を 待 つ や 久 し、 来 る の 何 ぞ 遅 き や ﹂ と 言 わ れ た。 六 月 十 二 目 に 東 塔 院 の 道 場 で 学 法 潅 頂 壇 に は い り、 ま ず 胎 蔵 曼 茶 羅 に 投 花 し た と こ ろ、 中 台 の 大 日 如 来 像 に ぴ た り と あ た っ た。 た い そ う 恵 果 は 感 嘆 し て 胎 蔵 梵 字 儀 軌 を 授 け、 三 部 の 諸 経 と 愉 伽 を 学 ぼ せ た。 七 月 上 旬 に は 金 剛 界 曼 茶 羅 に の ぞ ん で 五 部 潅 頂 を 授 か り、 投 花 し た と こ ろ が ま た、 大 日 如 来 に あ た っ て 恵 果 を 驚 嘆 さ せ た。 八 月 上 旬、 伝 法 阿 闊 梨 位 の 潅 頂 を 受 け、 遍 照 金 剛 の 名 号 を 与 え ら れ た。 真 済 の﹁ 性 霊 集 ﹄ 序 の 付 法 に. 今、 日 本 の 沙 門 有 り。 来 た り て 聖 教 を 求 む る に、 両 部 の 秘 奥 壇 儀 印 契 を も っ て す。 唐 た メ そ そ 梵 差 う こ と な く し て 悉 く 心 に 受 く。 な お 瓶 を 窮 ぐ が ご と し。
よ か わ 吉 き か な。 汝、 伝 灯 了 り ぬ。 吾 が 願 い 足 り ぬ ﹂ と あ る。 高 演 ﹃ 弘 法 大 師 正 伝 ﹄ に は ﹁ 大 師 は こ こ に お い て 両 部 密 教 を 得 て、 わ が 国 密 教 の 開 祖 と な っ た。 い わ ゆ る 秘 密 真 言 は こ の 時 に 確 立 さ れ た ﹂ と い う。 宋 景 濠 は 詩 を 作 っ て こ の こ と を 詠 じ た。 ﹁ 仏 陀 当 時 妙 法 を 談 じ、 一 時 の 紅 光 は 海 東 を 射 た り、 今 に 至 っ て 顕 密 二 宗 の 学、 と こ し 長 え に 扶 桑 に 伴 わ れ て 日 紅 を 出 だ さ ん ﹂ と。 そ の 注 に、 ﹁ 天 台 の 知 者 の 在 り し と き、 伝 教 ・ 弘 法 の 二 師 あ り、 来 り て 顕 密 二 ( 43 ) 教 を 授 か り て 去 り ぬ。 今 に 至 る も 国 中 に 盛 行 す ﹂ と あ る。 そ の と き、 わ が 唐 の 詩 人 馬 総 は 詩 を 贈 っ て い う。 ﹁ 増 学 し 玄 機 を 助 け、 土 人 子 の 如 き も の 稀 な り ﹂ と。 朱 千 乗 の 送 別 た か の 詩 句 に は ﹁ 玄 関 法 を 護 る こ と 崇 し ﹂ と。 ま た 鄭 壬 の 詩 に も ﹁ 他 年 続 僧 の 史、 更 に 一 賢 人 を 載 す ﹂ と。 彼 ら は 異 口 同 音 に 大 師 を 高 く 評 価 し て い る の で あ る。 劉 禺 錫 は ﹁ 日 本 僧 智 道 に 贈 る ﹂ 詩 句 で、 ﹁ た め に 問 う 中 華 ( 44 ) に て 得 道 せ し 者 に、 幾 人 か 雄 猛 に し て 寧 馨 を 得 ん ﹂ と。 こ う し て み る と、 彼 ら の 大 師 へ の 讃 嘆 は、 決 し て 大 師 ひ と り の た め に 発 し た も の で は な い の で あ る。 中 国 に あ っ た 大 師 は、 仏 道 修 業 の み で な く、 曇 貞 和 尚 に つ い て 梵 字 を も 学 ん だ。 曇 貞 は 恵 果 と 同 じ く 不 空 三 蔵 の 弟 子 で、 青 龍 寺 に お い て 恵 果 と 同 僚 で あ っ た。 大 師 は の ち に ﹃ 梵 字 悉 曇 字 井 釈 文 ﹄ を 撰 述 し て い る。 梵 字 の 日 本 伝 来 に は 大 師 を 除 い て 語 る こ と は で き な い。 大 師 は ま た、 韓 方 明 に つ い て 書 法 も 学 ん だ。 字 体 は 顔 真 卿 に 似 て 雄 偉 沈 着 を き わ め た 書 風 で あ る。 韓 方 明 に は ﹃ 授 筆 要 説 ﹄ の 著 が あ り、 陳 思 の ﹃ 書 苑 塞 円 華 ﹄ 巻 二 ○ に 見 え る。 そ の な か で 韓 は 自 分 の 書 風 の 淵 源 を ﹁ 貞 元 ︼ 五 年 ︹ 七 九 九 ︺、 東 海 の 徐 公, 癖 に、 一 七 年 ︹ 八 ○ 一 ︺ 清 河 の 崔 公 遡 に 書 法 を 授 か っ た ﹂ と い う。 大 師 は こ の 書 法 を 会 得 し て、 さ ら に 発 揚 光 大 た ら し め た の で あ る。 砒 陵 子 胡 伯 崇 が 大 師 に 贈 っ た 詩 の 中 で か ゆ た か へは か ん つ く ﹁ 天 は 吾 が 師 に 仮 し て 伎 術 を 多 な ら し む、 就 中 草 聖 に し て 最 も 狂 逸 ﹂ と う た う。 嵯 峨 天 皇 の ﹁ 綾 羅 屏 風 を 賞 す る 御 製 の 詩 ﹂ も、 大 師 の 法 書 に き わ め て 高 い 評 価 を 与 え て ﹁ 深 山 に 居 住 し う た て 奇 名 を 振 い、 氷 玉 顔 容 心 転 た 清 し、 世 上 草 書 に て 聖 た り と お と 言 う、 天 縦 は 張 伯 英 に 謝 ら ず 暫 ら く 雲 嶺 一 念 の 隙 に 乗 じ、 書 き 得 た り 綾 四 羅 帖 の 屏、 初 め て 見 る 筆 精 鷺 鳳 の 体、 請 い て 看 る ど よ も 墨 妙 虻 龍 の 形、 高 零 墜 石 も 未 だ 地 を 動 さ ず、 絶 澗 長 松 も 量 声 た ち ま し き り を 揚 げ ん や、 乱 点 乍 ち 疑 う 舞 鶴 の 起 つ る か と、 赴 湘 連 に 似 た 弘 法 大 師 と ﹃ 文 鏡 秘 府 論 ﹄
密 教 文 化 ま さ あ ま ね り 旋 雁 の 行 く に、 華 苑 正 に 開 く 春 日 の 色、 月 天 遍 く 照 ら し て ま な こ ぎ ら め 秋 夜 明 ら か な り、 之 に 対 し て 観 る 者 目 眩 曜 き、 共 に 草 書 を 賞 し て 丹 青 を 笑 う。 絶 妙 の 芸 能 測 る べ か ら ず、 二 王 の 没 後 此 の に 僧 生 ま る、 既 に 知 る 風 骨 の 人 に 擬 た る 無 く、 収 め て 秘 府 に 置 こ こ ろ け ば 最 も 情 を 開 く ﹂ と た た え て い る。 大 師 の 真 跡 は、 今 日 も か な り 目 本 に 保 存 さ れ て い る が、 い ず れ も 国 宝 と み な さ れ て い る。 恵 果 は 大 師 に 法 事 を 伝 え て ま も な く、 永 貞 元 年 ︹ 八 ○ 五 ︺ 十 二 月 十 五 日 に 円 寂 し た。 亨 年 六 +。 僧 籍 四 十。 元 和 元 年 ︹ 八 ○ 六 ︺ 正 月 十 七 日、 孟 村 の 竜 泉 大 師 塔 の か た わ ら に 葬 ら れ た。 会 葬 す る 者、 弟 子 と 民 間 人 が 千 余 人 で あ っ た が、 大 師 は 推 さ れ て 碑 文 を 撰 し た。 当 時 の 長 安 に は、 筆 蹟 と い い、 文 章 と い い、 そ の 道 に 秀 で た 者 は い く ら も い た に か か わ ら ず、 こ の 堂 々 た る 一 代 の 宗 師 た る 恵 果 の 碑 文 が、 一 介 の 海 外 の 僧 侶、 恵 果 と わ ず か 半 年 の 師 弟 関 係 し か 持 た な か っ た 空 海 に よ っ て、 書 と と も に 撰 せ ら れ た の で あ る。 こ の こ と に よ っ て も 朱 千 乗 が 彼 に 贈 っ た 詩 に そ の ﹁ 文 学 は 儒 宗 に 冠 た り ﹂ と あ る の も 過 褒 の 詞 で な い こ と が わ か る。 ま こ と に、 中 日 文 化 交 流 史 に お け る 佳 話 で あ る。 も と も と 大 師 は 二 十 年、 留 学 す る 予 定 で あ っ た が、 す で に 真 言 の 密 伝 を 受 け た 以 上、 師 の 命 に 従 っ て 早 々 に 帰 国 し よ う と し た。 た ま た ま 遣 唐 使 高 階 遠 成 ら の 船 が 到 着 し た の で、 上 書 し て 帰 国 を 請 い、 そ の 請 い は 許 可 さ れ た。 帰 国 に 際 し て、 ふ だ ん 交 際 の あ っ た 僧 俗 で は ﹁ 朱 千 乗 ・ 朱 少 端 ・ 鄭 壬 ・ 県 靖 ・ 鴻 漸 ら が 送 別 の 詩 を 贈 っ た。 大 師 は ま た、 青 竜 寺 の 義 操 に も 送 別 の 詩 を 贈 っ て い る が、 義 操 と は 恵 果 の 門 下 で あ っ た。 こ れ ら の 詩 に は、 す べ て、 別 れ は 易 い が 再 会 は む ず か し い、 と 述 べ ら れ ﹁ 喜 遇 は 深 し ﹂ と の 心 情 が よ く 表 明 さ れ て お り、 中 日 友 好 の 歴 史 の う え に、 新 し い 一 ぺ ー ジ を 加 え た も の で あ る。 元 和 元 年 四 月 ︹ 八 ○ 六 ︺、 彼 ら 一 行 は 長 安 を 離 れ て 本 国 へ の 帰 途 に つ い た。 帰 国 の 途 中、 大 師 は 越 州 ( 紹 興 ) に お い て 華 巌 和 尚 神 秀 に 謁 見 し、 彼 か ら ﹁ 金 師 子 章 ﹂ と ﹁ 縁 起 六 相 ﹂ ( 45 ) 一 巻 と を 授 か っ た。 ﹁ 宋 史. 目 本 伝 ﹂ に は、 ﹁ 次 い で、 桓 武 天 皇 の と き、 藤 元 葛 野 ・ 空 海 大 師 と 延 暦 寺 (最 ) 澄 が 入 唐 し、 天 台 山 に い た り 智 者 止 観 義 を 伝 え ら れ た。 元 和 元 年 に 当 る ﹂ と あ る か ら、 大 師 は 実 に 真 言 ・ 天 台 の 二 宗 を 日 本 に 伝 え た の で あ る。 ﹁ 叡 山 護 国 縁 起 ﹂ に よ れ ば、 空 海 の 名 刺 に ﹁ 僧 空 海
( 一 行 目 ) 奉 上 ( 二 行 目 ) 大 同 四 年 ︹ 八 ○ 九 ︺ 二 月 三 日 ( 三 行 目 ) 右 為 天 台 伝 灯 奉 問 比 叡 大 禅 師 謹 捧 名 書 敬 白 ( 四 行 目 ) ﹂ と あ る。 こ う し て み る と、 大 師 と 天 台 宗 と の 関 係 は、 文 献 に 徴 す べ き も の が な い わ け で な い の だ が、 惜 し い か な、 真 言 宗 開 祖 の 著 名 度 に お お わ れ て し ま っ て い る。 越 州 で は、 大 師 に ﹁ 越 州 の 節 度 使 に 与 え て 内 外 の 経 書 を 求 ( 46 ) む る の 啓 ﹂ が あ る。 そ の 求 め た 書 物 の 範 囲 は、 ﹁ 三 教 (儒・ 道 仏 ) の う ち 経 ・ 律 ・ 論 ・ 疏. 伝 ・ 記 か ら 詩 ・ 賦 ・ 碑 銘 ・ ト ひ ら 医 や 五 明 所 摂 の 教 え の、 蒙 を 発 き 物 を 済 う べ き 者 ﹂ で あ っ た。 越 州 の 節 度 使 は、 大 師 の 要 求 を 満 足 さ せ た。 そ の こ と は、 大 師 が 撰 述 し た ﹃ 文 鏡 秘 府 論 ﹄ や ﹃ 象 隷 万 象 名 義 ﹄ に み ら れ る 博 引 傍 証 の あ と に よ っ て う か が う こ と が で き る の で あ る。 大 師 は こ の 書 面 で ﹁ 現 在、 長 安 中 で 写 し 得 た 経・ 論・ 疏 な ど、 お よ そ 三 百 余 軸、 お よ び、 大 悲 ・ 胎 蔵 ・ 金 剛 界 大 曼 茶 羅 尊 容 ﹂ に 言 及 し て い る。 大 師 の ﹃ 請 来 目 録 ﹄ に は ﹁ 新 訳 経 等 百 四 + 二 部 二 百 四 十 七 巻、 梵 字 真 言 賛 等 四 二 部 四 四 巻、 論 疏 章 等 三 二 部 二 七 ○ 巻、 総 二 一 六 部 五 六 一 巻 ﹂ と あ る か ら、 越 州 で 入 手 し た 書 物 は 二 五 ○ 巻 前 後 で あ ろ う。 惜 し い か な ﹃ 請 来 目 録 ﹄ に は 僅 か に 仏 典 を 記 す だ け で、 仏 典 以 外 の 書 物 の 記 載 が な い。 も し、 そ れ ら も ﹃ 目 録 ﹄ に 加 え ら れ て あ っ た な ら ば、 こ の 目 録 は、 ま さ に ﹃ 日 本 現 在 書 目 ﹄ に 匹 敵 す る で あ ろ う。 陸 亀 蒙 の ﹁ 円 載 上 人、 儒 を 挟 み て 日 本 国 に 帰 る の 詩 ﹂ に、 し の ﹁ 九 流 三 蔵 一 時 に 傾 け、 万 軸 光 は 凌 ぐ 渤 潔 の 声、 此 の 遺 編 東 か え ( 47 ) 去 せ し よ り の 後、 却 っ て 応 に 荒 外 に 諸 生 あ る べ し ﹂ と あ る。 こ の 詩 は そ の ま ま、 大 師 が 多 く の 書 物 を 抱 い て 帰 国 さ れ た こ と に あ て は ま る。 こ の 二 つ の 書 籍 目 録 は、 今 や 唐 代 に お け る 中 日 両 国 の 文 化 交 流 史 の 生 き た 証 拠 と な っ て い る。 大 師 は 帰 国 後、 ﹁ 表 し て 請 来 目 録 を 上 る ﹂ の ほ か に、 続 々 と ﹃ 勅 賜 世 説 屏 風 書 画 献 表 ﹄ ﹃ 書 劉 希 夷 集 献 納 表 ﹄ ( 王 昌 齢 ﹃ 詩 格 ﹄ 一 巻、 ﹃ 貞 元 英 傑 六 言 詩 ﹄ 三 巻、 ﹃ 飛 白 書 ﹄ 一 巻 を 含 む )、 ﹃ 奉 献 雑 書 迩 状 ﹄ ( ﹃ 徳 宗 呈 帝 真 跡 ﹄ 一 巻、 ﹃ 欧 陽 詞 真 迩 ﹄ 一 巻、 ﹃ 張 誼 真 迩 ﹄ 一 巻、 ﹁ 太 土 諸 舎 帖 ﹄ 一 首、 ﹃ 不 空 三 蔵 碑 ﹄ 一 首、 切 岸 和 尚 碑 ﹄ 一、 徐 侍 郎 ﹃ 宝 林 寺 碑 ﹄ 一 巻、 釈 令 起 入 分 第 一 帖、 ﹃ 謂 之 行 草 ﹄ 一 巻、 ﹃ 鳥 獣 飛 白 ﹄ 一 巻 を 包 抽 ) ﹃ 奉 献 筆 表 ﹂ ( 空 海 が 中 国 で み た も の と 考 え ら れ る ) 司 献 雑 文 表 ﹄ ( ﹁ 急 就 章 ﹄ 一 巻、 ﹃ 王 昌 騨 集 ﹄ 一 巻、 ﹃ 雑 詩 集 ﹄ 四 巻、 ﹃ 朱 書 詩 ﹂ 一 巻、 ﹃ 朱 千 乗 詩 ﹄ 一 巻、 ﹃ 雑 文 ﹄ 一 巻、 ﹃ 王 智 章 詩 ﹂ 一 巻、 ﹃ 賛 ﹂ 一 巻、 弘 法 大 師 と ﹃ 文 鏡 秘 府 論 ﹄
密 教 文 化 ﹃ 詔 勅 ﹄ 一 巻、 ﹃ 訳 経 図 記 ﹄ 一 巻 を 包 括 ) ﹃ 書 劉 廷 芝 集 奉 献 表 ﹄、 ﹁ 献 梵 字 井 雑 文 表 ﹄ ( ﹃ 梵 字 悉 曇 字 母 井 釈 義 ﹄ 一 巻、 ﹃ 古 今 文 字 賛 ﹄ 三 巻、 ﹃ 古 今 象 隷 文 体 ﹄ 一 巻、 梨 武 帝 ﹃ 草 書 評 ﹄ 一 巻、 王 右 軍 ﹃ 蘭 亭 碑 ﹄ 一 巻、 ﹃ 曇 } 律 師 碑 銘 ﹄ 一 巻、 ﹃ 大 広 智 三 蔵 影 ぶ 賛 ﹄ 一 巻 を 包 括 )、 ﹃ 進 李 畠 真 迩 屏 風 表 ﹄ な ど を も た ら し た。 こ の ほ か に も ﹃ 象 隷 万 象 名 義 ﹄ 三 十 巻、 ﹃ 文 鏡 秘 府 論 ﹄ 六 巻 を 撰 写 し、 ま た 弘 仁 年 ︹ 八 二 ○ ︺ に は ﹃ 文 鏡 秘 府 論 ﹄ の 要 点 を 抄 録 し て ﹃ 文 筆 眼 心 抄 ﹄ を 著 わ し た。 ま た、 漢 字 に も と ず い て、 は じ め て 平 仮 名 を つ く っ た。 こ れ よ り 先、 元 正 天 皇 の 霊 亀 二 年 ︹ 七 一 六 ︺ (玄 宗 の 開 元 四 年 に 当 る )、 朝 臣 真 備 が 唐 に 留 学 す る こ と 十 八 年、 開 元 二 十 年 (七 三 三 ) ( 聖 武 天 皇 の 天 平 五 年 ) に 帰 国 し、 姓 を 吉 備 と 賜 わ っ た が、 こ の 人 が は じ め か り て 仮 名 を つ く っ た。 仮 名 と は 仮 の 字 で あ り、 漢 字 の 偏 や 労 を と っ て 音 を あ ら わ し た の で 片 仮 名 と い う。 片 と は、 伊 か ら イ を、 呂 か ら ロ を、 波 か な ハ を、 と い う ふ う に 偏 を 借 り た の で あ る。 大 師 の と き に は 平 仮 名 が つ く ら れ た。 平 と は 全 の 意 で 漢 字 の 全 体 を 萱 書 に く ず し て つ く っ た の で あ る。 以 上 を 綜 合 す る な ら ば、 大 師 に よ る 中 国 文 化 の 伝 播 は 広 範 に わ た る も の で あ り、 日 本 文 化 に 与 え た 影 響 は た い へ ん な も の で あ っ た。 大 師 の 中 日 文 化 の 交 流 に 果 た し た 貢 献 は、 け っ し て 仏 学 に と ど ま ら な い の で あ る。 五 大 師 の 中 日 文 化 交 流 に お け る 貢 献 は 古 今 に 絶 し、 そ の 業 績 は 中 日 両 国 の 人 民 に と っ て 世 々 代 々、 銘 記 す べ き も の で あ る が、 こ こ で は、 そ の う ち の ﹃ 文 鏡 秘 府 論 ﹄ に つ い て 述 べ る。 ﹃ 半 江 暇 筆 ﹄ に ﹁ 唐 代 の 詩 論 は、 長 い 間、 専 門 的 な 書 物 が な く、 た ま に 書 物 中 に 散 見 す る も の も 夜 空 の 星 の よ う に 少 な い。 釈 空 海 だ け が 大 同 年 間 に 唐 に 遊 学 し、 崔 融 の ﹁ 新 唐 詩 格 ﹄ 王 昌 齢 の ﹃ 詩 格 ﹄ 元 競 の ﹃ 髄 脳 ﹄ 咬 然 の ﹃ 詩 議 ﹄ な ど を 入 手 し て 帰 国 し、 ﹃ 文 鏡 秘 府 論 ﹄ 六 巻 を あ ら わ し た。 唐 人 の 断 片 的 な 見 解 は す べ て 盛 ら れ て い る が、 惜 し い こ と に、 そ れ ら の 断 片 が 誰 の 言 葉 な の か が 明 記 さ れ て い な い た め、 後 世 そ れ ら を 採 用 し よ う に も 採 用 し よ う が な い ﹂ と 述 べ て い る。 私 は、 こ の 書 物 が、 漢 ・ 魏 か ら 階 ・ 唐 に い た る、 歴 史 の な か の 一 時 期 に お け る 文 学 作 品 の、 修 辞 に 関 す る 指 導 書 で あ る と 考 え る。 こ の 書 物 の ﹁ 序 ﹂ は ﹁ 沈 侯 ・ 劉 善 の 後、 王 昌 齢 ・ 絞 然 ・ 崔 融・ 元 競 の 前、 盛 ん に 四 声 を 談 じ、 争 っ て 病 犯 ( 欠 点 ) に つ
い て 述 べ た 書 物 は、 筐 に あ ふ れ、 車 に い っ ぱ い あ っ た ﹂ と い い、 ま た、 西 巻 の ﹁ 論 病 ﹂ で は ﹁ 周 顯 ・ 沈 約 か ら の ち、 元 競 ・ 崔 融 い ぜ ん に お い て、 声 譜 や 病 犯 に 関 す る 議 論 が さ か ん に お こ り、 格 式 の あ り か た や 反 則 に つ い て 談 じ た ﹂ と 述 べ て、 斉 の 永 明 年 間 の 沈 約 ・ 周 顯 か ら 階 ・ 唐 の 劉 善 経 ・ 王 昌 齢 ・ 釈 較 然 ・ 崔 融 ・ 元 競 に い た る こ の 時 期 の 代 表 的 作 家 と そ の 論 著 を 徹 底 的 に、 見 聞 の 限 り を つ く し て 挙 げ て い る。 こ の 書 を 読 む な ら ば、 そ の 時 代 が 手 に と る よ う に わ か り、 し た が っ て 声 病 説 の 長 所 短 所 が 一 目 瞭 然 と な る。 ﹃ 南 史 匹 の 庚 肩 吾 伝 に ﹃ 斉 の 永 明 年 間、 王 融 ・ 謝 眺 ・ 沈 約 は、 は じ め て 四 声 を 用 い て 新 し い 文 章 を 書 い た が、 今 や 以 前 ぱ で に も ま し て 声 韻 に こ だ わ り 文 章 は 麗 靡 に な っ た ﹄ と あ る。 ま た ﹃ 陸 厭 伝 ﹄ に は、 ﹁ 当 時、 さ か ん に 文 章 が 作 ら れ た が、 呉 興 の 沈 約、 陸 郡 の 謝 眺 ・ 狼 郷 の 王 融 は 気 類 を 推 毅 し、 汝 南 の 周 顯 は 声 韻 に 巧 み で あ っ た。 沈 約 ら の 文 章 は 宮 ・ 商 ( な ど の 五 声 ) と 平 ・ 上 ・ 去 ・ 入 の 四 声 に よ っ て 文 字 の 韻 を 平 頭 ・ 上 尾 ・ 蜂 腰・ 鶴 膝 の 四 つ に 分 け た。 五 字 の 音 韻 が ぜ ん ぶ 異 な り、 両 句 の 角 ・ 徴 な ど の 五 声 が ぜ ん ぶ 同 じ で な い。 世 間 で は こ れ を 永 明 体 と よ ん だ ﹂ と あ る。 ま た、 ﹃ 周 顯 伝 ﹄ に は、 ﹁ ( 彼 は ) は じ め て ﹃ 四 声 切 韻 ﹄ を 著 わ し、 世 に 行 な わ れ た ﹂ と あ り、 ま た ﹃ 沈 約 伝 ﹄ に は ﹁ ﹃ 四 声 譜 ﹄ を 著 し、 む か し の 詩 人 は 千 年 の あ い だ 悟 ら な か っ た が、 ( 自 分 は ) 胸 中 に そ の 妙 旨 を き わ め え た と し、 自 ら の 作 品 を 入 神 の 作 だ と い っ た。 ﹂ と あ る。 沈 約 は ﹃ 宋 書. 謝 霊 運 伝 論 ﹄ ね い う に お い て、 声 韻 の 文 学 に お よ ぼ す 作 用 に つ い て ﹁ 五 つ の 色 が た が い に 鳴 り、 入 音 が の び や か に な る の は、 玄 黄 律 呂 が リ ズ ム に 合 う か ら だ。 音 律 の 高 下 を 変 え よ う と す る な ら ば、 前 の な だ ら か ほ う は 浮 声 に 後 の ほ う は 切 迫 し た 声 に す る と い う ふ う に、 一 節 の 音 韻 が す べ て 異 な り、 両 句 の 軽 重 が す べ て 異 な る と い う 趣 旨 が 徹 底 さ れ た と き に は じ め て、 そ れ が 本 当 の 文 で あ る と い え る の だ ﹂ と い っ て い る。 鍾 蝶 の ﹃ 詩 品・ 下 篇 の 序 ﹄ に は ﹁ 斉 代 に 王 融 と い う 者 が い て、 私 に ﹁ 宮 商 (五 つ の 音 階 ) は 二 儀 ( 天 地 ) の は じ ま り と と も に 生 ま れ た も の だ と い う こ と を、 む か し の 詩 人 は 知 ら な か っ た。 顔 延 之 も 律 呂 (音 律 ) の 調 和 を い う が 実 は た い そ う ま ち が っ て い る。 萢 曄 や 謝 荘 が や や わ か っ て い る に す ぎ な い。 ( 自 分 は ) ﹁ 知 音 論 ﹄ を 書 い て 献 上 し よ う と し た が 未 完 成 の ま ま で あ る ﹂ と。 こ の よ う に 王 融 が 声 律 論 の 創 始 者 で あ り、 沈 弘 法 大 師 と ﹃ 文 鏡 秘 府 論 ﹄
密 教 文 化 約 が そ れ を 広 め た の だ ﹄ と い っ て い る。 こ の よ う に し て 声 病 の 説 (声 律 論 ) は 一 世 を 風 靡 し、 詩 文 の 製 作 に は、 こ れ を 規 準 に し な い も の は な い と い う ふ う に な っ た。 ﹃ 顔 氏 家 訓 ﹄ ( 文 章 篇 ) に は ﹁ 詩 格 と い う も の は、 そ れ 以 前 に は 先 例 が な く、 詩 を つ く る 本 意 に 合 わ な か っ た ﹂ と か ﹁ 江 南 で は 文 章 を つ く る と き に 他 人 に み て も ら っ て、 そ の 批 評 と 指 摘 を 受 け、 具 合 の 悪 い と こ ろ が あ る と 判 れ ば、 す ぐ さ ま 作 り 直 す ﹂ と あ り、 鍾 嘆 の ﹃ 詩 品 ﹄ 下 の 序 に も ﹁ 蜂 腰 や 鶴 膝 の 技 法 は、 田 舎 の 歌 に も 具 わ っ て い る ﹂ と あ る か ら、 音 律 論 が、 す で に 世 間 に 知 れ わ た っ て い た の で あ る。 ﹃ 中 説 ﹄ の 天 地 編 に ﹁ 伯 薬 が 先 生 ( 王 通 ) に ま み え て 詩 に つ い て 論 じ た が、 先 生 は 何 も 答 え ら れ な か っ た。 伯 薬 は し り ぞ い て 酵 収 に 言 っ た。 ﹁ 私 は 古 く は 応 壕 ・ 劉 槙 か ら、 近 く は 沈 約 ・ 謝 桃 に つ い て 述 べ、 四 声 入 病 ・ 清 濁 剛 柔 ( 声 律 論 ) を あ た か も 音 楽 の 調 べ の ご と く 順 序 正 し く 述 べ た に も か か わ ら ず、 先 生 は こ た え て は 下 さ ら な か っ た。 ひ ょ っ と し た ら、 私 は し か る べ き レ ベ ル に 到 達 し て い な い か ら で あ ろ う か ﹂ と あ る か ら、 当 時 に お け る 音 律 論 の 研 究 が 人 々 に 注 目 さ れ て い た こ と が わ か る。 ﹃ 新 ( 49 ) 唐 書 ・ 宋 子 問 伝 ﹄ に は ﹁ 魏 の 建 安 ︹ 一 九 六 -二 一 六 ︺ 以 後、 東 晋 ︹ 三 一 八 -四 二 ○ ︺ に 至 る ま で、 詩 律 は た び た び 変 化 し た。 さ ら に (斉 ・ 梁 時 代 の ) 沈 約 ・ 庚 信 ︹ 五 一 三 -五 八 一 ︺ に な る た い ぐ う と、 音 律 の 理 論 に よ っ て 詩 形 を 秩 序 だ っ, た も の に し、 対 偶 は 精 密 な も の と な っ た。 さ ら に 宋 之 問 ︹ 2 1 七 一 二 ︺ ・ 沈 僅 期 ︹ ? -七 一 三 ︺ の 時 代 に な る と い っ そ う 華 麗 に な り、 韻 律 上 の 欠 点 を 避 け る に つ と め、 詩 句 は 修 正 さ れ て、 そ の 詩 文 は あ た か も 錦 や 繍 を 織 り な し た よ う な 見 事 な も の と な っ た。 学 ぶ 者 た ち は た っ と ん で 沈. 宋 と 称 し た ﹂ と あ る。 ま た、 ﹁ 杜 甫 伝 賛 ﹂ に は ﹁ 唐 の は じ め、 詩 人 た ち は 陳. 階 の 遺 風 を 継 承 し て、 内 容 の な い 美 し さ を 誇 り あ っ て い た が、 宋 ひ よ う そ く 子 問 ・ 沈 栓 期 ら に 至 っ て、 音 律 が 磨 き き た え ら れ、 平 灰 が 整 え ら れ る よ う に な っ た。 そ し て 人 々 は そ れ を 律 詩 と よ び、 競 っ て 従 い な ら っ た ﹂ と あ る。 ま た 元 積 ︹ 七 七 九 -八 三 一 ︺ の ﹁ 唐 の 故 工 部 員 外 郎 杜 君 墓 誌 銘 な ら び に 序 ﹂ に は、 ﹁ 沈 ・ 宋 の 流 は、 詩 句 が よ く 練 か れ て、 な だ ら か な 韻 律 に し た が っ て い る。 こ れ を 律 詩 と い う。 こ れ 以 後、 文 体 の 変 化 は 極 ま っ た。 そ し て、 質 朴 さ を 好 む 者 は 近 体 を わ す れ、 華 麗 さ に つ と め る 者 は 質 実 さ が な く な っ て い っ
た。 斉 ・ 梁 の 文 体 を 模 倣 す れ ば 魏 ・ 晋 に 及 ぼ な く な り、 楽 府 体 に 巧 み に な れ ば 五 言 詩 に 屈 し、 律 切 な れ ば 骨 格 存 せ ず、 閑 ( 50 ) 暇 な れ ば 繊 禮 さ が 備 わ ら な い ﹂ と あ る。 沈 ・ 宋 体 が 律 詩 と よ ば れ る そ の 特 徴 は、 韻 律 上 の 欠 点 を 去 り、 浮 華 で な い と こ ろ に あ り、 詩 人 に 注 目 し た 場 合 は 沈 ・ 宋 ( 51 ) 体 と よ び、 時 代 に 注 目 し た 場 合 は 斉 ・ 梁 体 と よ ば れ る。 た だ し、 こ こ で い う 律 詩 と は、 唐 ・ 宋 以 後 の 五 言 な い し 七 言 の 律 詩 と は 異 な る も の で、 唐 ・ 宋 の 律 詩 は 入 旬 に 限 ら れ る が、 沈・ 宋 の 律 詩 に は 句 数 の 多 少 は 問 題 に な ら な い。 ﹃ 文 鏡 秘 府 論 ﹄ 天 巻 の ﹁ 調 声 ﹂ ﹁ 斉 ・ 梨 調 詩 ﹂ に 引 用 さ れ て い る 張 謂 の ﹁ 故 人 の 別 業 に 題 す ﹂ 及 び 何 遜 の ﹁ 徐 主 簿 を 傷 む ﹂ 三 首 が、 か な り 唐. 宋 の 律 詩 に 近 い に か か わ ら ず、 こ れ ら を 大 師 が 斉 ・ 梁 調 詩 と し て い る の は、 ﹃ 声 調 譜 ﹄ に い う と こ ろ の 粘 す る か 粘 し て い な い か を 基 準 に し た も の で あ ろ う。 斉・ 染 調 の 律 詩 は ま た 格 詩 と も よ ば れ た。 ﹁ 白 氏 長 慶 集 ﹂ 巻 二 ○ ・ 巻 三 ○ に は 格 詩、 巻 三 六 に は 半 格 詩 と い う 言 葉 が 用 い ら れ て い る。 そ れ で は、 い か な る も の を 半 格 詩 と よ ぶ か と い え ば、 一 首 の 詩 の な か で 前 半 は 古 体 で、 後 半 を 斉 ・ 梁 体 で 作 っ た も の を い う の で あ る。 趙 執 信 の ﹁ 声 調 後 譜 ﹂ は 半 格 詩 に お い て、 白 楽 天 の ﹁ 小 閣 閑 坐 ﹂ 五 言 + 二 句 を そ の 例 に あ げ て ﹁ こ の 詩 は 前 の 六 句 は 古 体、 後 の 六 句 は 斉 ・ 梁 体 だ ﹂ と い っ て い る。 唐 は 進 士 科 を 設 け、 詩 に よ っ て 士 を 選 ん だ。 ﹃ 唐 会 要 ﹄ 巻 七 五 の ﹁ 帖 経 の 条 例 ﹂ に よ れ ば、 ﹁ 開 元 二 〇 五 年 二 月 の 勅 に、 ﹁ 今 の 明 経 ・ 進 士 は 古 の 孝 廉 ・ 秀 才 ( に 相 当 す る )。 近 日 以 来、 殊 に 本 意 に そ む く。 進 士 科 を 受 け る 者 は 声 律 を 学 ん で い る が、 古 今 の 韻 律 に 暗 く、 明 経 科 を 受 け る 者 は 帖 諦 を 学 ん で い る が 旨 趣 を き わ め て い る 者 は 稀 で あ る ﹂ と あ り、 ま た 巻 七 六 の ﹁ 科 挙 を 制 す ﹂ に は ﹁ 天 宝 二 年 一 ○ 月 一 日、 天 子 は 勤 政 楼 に 出 御、 四 科 の 挙 人 を 試 問 し た が、 そ の 辞 藻 宏 麗、 策 問 の ほ か に、 さ ら に 詩 ・ 賦 を 各 一 題 ず つ を 課 し た ﹂ ( 制 挙 の 試 験 に 詩 ・ 賦 を 課 し た の は こ の 年 か ら 始 ま る ) と あ る が、 こ の 詩 と は 斉 ・ 梁 体 の 詩 を 規 定 に よ っ て 作 ら せ た の で あ る。 萢 櫨 の ﹃ 雲 渓 友 議 ﹄ 上 の ﹁ 古 制 興 る ﹂ に、 ﹁ 文 宗 の 元 年 秋、 礼 部 侍 郎 高 錯 に 再 び 科 挙 の 監 督 を つ か さ ど ら せ た。 ⋮ そ の 問 題 は、 賦 で は 規 則 通 り で あ っ た が、 詩 で は 斉 ・ 梁 体 に 従 っ て 作 ら せ た ﹂ と あ る。 こ こ で 斉 ・ 梁 体 の 詩 体 を 採 用 し た の は、 主 と し て 科 挙 に 応 ず る 者 が 韻 律 を き ち ん と 把 握 し て い る か 否 弘 法 大 師 と ﹃ 文 鏡 秘 府 論 ﹄
密 教 文 化 (53 ) か を た め そ う と し た か ら で あ る。 質 至 の ﹁ 楊 結 の 貢 挙 を 条 奏 す る を 議 す る の 疏 ﹂ に お い て ﹁ 今 日、 詩 文 を 考 査 す る 者 は 韻 律 に か な っ て い る か ど う か に よ っ て 合 否 を き め、 浮 艶 な も の を 選 ん で い る。 そ の よ う な 者 が、 ど う し て 天 下 を 徳 に よ っ て 感 化 さ せ る こ と な ど 知 っ て い よ う ( 54 ) か ﹂ と 上 奏 し て い る。 ま た、 牛 希 済 の ﹃ 文 章 論 ﹄ に も ﹁ 今 や 試 験 官 の 出 す 問 題 の く だ ら な さ は、 詩 賦 と 判 章 と だ け で 合 否 あ た を 決 め、 韻 律 に 合 う か 否 か を 重 視 し、 比 喩 が 中 っ て い. る と い っ て も 譜 誰 に 過 ぎ、 古 代 を 学 ぶ 者 は 問 題 に 解 答 す る こ と を 深 ( 55 ) く 恥 じ て い る ﹂ と あ る。 こ れ に よ れ ば、 韻 律 を よ く 心 得 て い な い 者 は 落 第 す る わ け で あ る。 ま た、 沈 霊 芝 の ﹃ 京 兆 の 試 官 に 与 え る 書 ﹄ に、 ﹁ 去 年 は じ め て 都 に き て、 受 験 生 と と も に 試 こ と ば の あ や 験 を 受 け た が、 賦 の 八 昧 は 椅 言 と 韻 律 に か か わ る 問 題 で あ っ た た め、 自 分 は 習 熟 し て い な か っ た し、 礼 部 の 問 題 形 式 に ( 56 ) は ず れ て い た の で、 ま っ さ き に 落 と さ れ た ﹂ と あ る。 こ れ ら に よ る と、 科 挙 を 志 す 者 は、 韻 律 に つ い て 苦 心 し た の で あ る。 う け 杜 甫 の ﹁ 沈 八 丈 東 美 の 膳 部 員 外 郎 に 除 せ ら れ し を 承 た ま わ い わ わ る も、 雨 に 阻 ま れ て 未 だ 馳 せ て 賀 奉 ざ れ ば 此 の 詩 を 寄 す ﹂ ( 57 ) ( 詩 題 ) に ﹁ 詩 律 は 群 公 に 問 う ﹂ と あ り、 元 棋 の ﹁ 詩 を 叙 し て 楽 天 に 寄 す る 書 ﹄ に 只 元 ) 積 は 九 歳 に し て 賦 詩 を 学 び、 長 ほ ぼ 者 往 往 に し て 其 の 教 う べ き に 驚 く。 年 十 五 六 に し て 粗 声 病 を ( 58 ) 識 れ り ﹂ と あ る。 白 居 易 の ﹁ 唐 生 に 寄 す ﹂ ( 詩 ) に ﹁ 宮 律 の ( 59 ) 高 き を 求 む る に 非 ず、 文 字 の 奇 を 務 め ず ﹂ と あ り、 李 渉 の ﹁ 六 な ら 嘆 並 び に 序 ﹂ に ﹁ 之 を 私 斎 に 禄 し、 以 て 同 道 に 示 し、 格 韻 の 敏 ( 60 ) 枯 欠 は、 多 く 知 ら る る を 漸 ず ﹂ 挑 合 の ﹁ 武 功 県 中 の 作 三 ○ 首 ﹂ の う ち、 其 の 三 ○ に ﹁ 詩 は 八 病 の 外 を 標 し、 心 は 百 憂 の 中 に ( 61 ) 落 つ ﹂ と あ る。 詩 の 作 品 と い え ば、 そ れ が た だ ち に 斉 梁 体 の こ と を さ す 揚 合 も あ る。 劉 禺 錫 に ﹁ 楽 天 の 洛 城 春 (詩 題 ) に 和 す る 斉 梁 体 ( 62 ) 八 韻 ﹂ と い う 詩 が あ り、 皮 日 休 に も ﹁ 天 台 国 清 寺 に 寄 題 す 斉 ( 63 ) 梁 体 ﹂ が あ り、 当 時 の 大 詩 人 杜 甫 で す ら こ の 斉 梁 体 に つ い て は な は ( 64 ) ﹁ 陰 鰹・ 何 遜 が 苦 だ 心 を 用 う る を 覚 っ た ﹂ と 苦 し み を 詠 ん だ の で あ る。 彼 は ﹁ 後 賢 は 旧 列 を 兼 ね、 歴 代 お の お の 清 規 あ ( 65 ) り、 法 は 自 ら 儒 家 有 り、 心 は 弱 歳 の 疲 る る 有 り ﹂ と う た い、 も と ま た ﹃ 句 を 覚 め て は 新 た に 律 を 知 り L ま た ﹁ 辞 を 遣 れ ば 必 ず あ た ( 67 ) く わ ( 68 ) 律 に 中 る ﹂ ま た ﹁ 晩 節 漸 く 詩 律 に 細 し ﹂ と も う た っ て い る。 彼 が 斉 梨 体 に 力 を 注 い だ こ と を、 こ れ ら に よ っ て 知 る こ と が
で き る。 元 積 は ﹁ 終 始 を 舗 き 陳 べ、 声 韻 を 排 比 べ、 大 な る は 或 い は な 千 言、 次 い で 猶 お 数 百、 詞 気 は 豪 適 に し て、 風 調 は 清 深、 属 ( 69 ) 対 律 切 に し て 凡 近 を 脱 棄 す ﹂ と 述 べ、 白 居 易 も ﹁ 杜 詩 が 最 も つ ら む 多 く、 伝 え る べ き 価 値 の あ る も の は 千 余 篇、 今 古 を 貫 穿 き、 つ ぶ キ へし に の た く み つ ( 70 ) 格 律 を 鰯 縷 べ、 工 を 尽 く し 善 を 尽 く す こ と、 ま た 李 白 に 過 ぐ ﹂ と 述 べ て い る。 声 病 の 説 が お こ っ た た め、 詩 文 に は 重 い 足 か せ 手 か せ が は め ら れ、 文 学 形 式 の 自 由 な 発 展 が 阻 ま れ る と、 か え っ て 声 病 説 の 流 行 に と も な っ て、 こ れ に 対 す る 反 対 意 見 も 出 る よ う に な っ た。 あ な た 斐 度 の ﹁、 李 物 に 寄 す る 書 ﹂ に﹁ 弟 の 近 ご ろ の 作 品 は、 対 句 を な ら べ、 音 律 の 約 束 に が ん じ が ら め に な っ た 今 は や り の 文 章 が 多 く て、 た い そ う 文 弊 に お か さ れ て い る か ら、 す べ て 雄 大 遠 志 の 文 に 矯 め ら れ た (い71 )・ ﹂ と あ る。 元 槙 の﹁ 詩 を 叙 し て 楽 天 に 寄 せ る 書 ﹂ に、、 久 し ぶ り に 杜 甫 の 詩 を 数 百 首 入 手 し、 そ の 浩 蕩 津 涯 を 愛 し、 は じ め て 沈 栓 う れ ( 72 ) 期 ・ 宋 之 問 の 詩 の 有 益 で な い こ と を 病 え た L と あ り、 股 瑠 の ﹁ 河 岳 英 霊 集 叙 ﹂ に は ﹁ 斉・ 梁 ・ 陳 ・ 階 に 下 品 の 詩 が ま こ と そ こ に 多 く、 詩 律 に こ だ わ る あ ま り、 ま す ま す 道 を 損 な っ て い リ ズ ム る。 そ も そ も よ い 文 章 と は 四 声 が 流 麗 で 入 病 を す べ て 犯 し て い な い 作 品 の こ と で は な い。 た と え、 二 字 を 拮 す る 規 則 か ら ( 73 ) は ず れ て も、 致 命 的 な き ず で は な い ﹂ と あ る。 咬 然 の ﹃ 詩 式 (四 声 を 明 ら か に す る ) ﹄ に は ﹁ 音 楽 の リ ズ ム に は 五 音 が あ る が、 四 声 の あ る こ と を 聞 か な か っ た。 し か る に、 近 ご ろ 周 顯 ・ 劉 給 た ち が 出 現 し て か ら 五 音 の 韻 律 が の び や か に な り、 軽 重 高 低 の 音 節 が リ ズ ム に 合 う よ う に な っ た。 こ れ に よ っ て 文 章 の 格 式 は そ こ な わ れ は し な い が、 沈 約 の 文 ふ く よ か さ 章 は 入 病 を き び し く 言 い、 四 声 を 仔 細 に 用 い る た め 風 雅 が ほ と ん ど な く な っ た。 そ れ 以 後 の 才 子 は 天 分 が す ぐ れ ず、 沈 約 の 弊 風 に 媚 び て、 無 自 覚 に 流 さ れ て し ま っ た ﹂ と い う。 李 徳 裕 の ﹃ 文 章 論 ﹄ に は ﹁ 沈 約 の 文 は 音 韻 を 鼻 に か け、 軽 重 を や か ま し く い い、 言 葉 づ か い は 巧 妙 だ が、 論 旨 が 深 く は へ き な い。 楚 の 壁 や 階 の 宝 玉 の よ う な 立 派 な 文 章 で も 完 壁 と い う わ け に は ゆ か な い。 文 章 の 論 旨 が 絶 妙 で あ っ た な ら、 音 韻 を や か ま し く い う べ き で は な い。 文 章 に つ い て の 規 律 を と や か く 言 っ て も よ い が、 文 章 外 の こ と ま で 言 う べ き で は な い ﹂ と (74 ) い っ て い る。 弘 法 大 師 と ﹃ 文 鏡 秘 府 論 ﹄
密 教 文 化 李 渤 は ﹁ 弟 淑 の 再 び 至 る を 喜 び 長 歌 を つ く る ﹂ (詩 ) で ﹁ 近 ご ろ 詩 想 は た と え よ う も な く す ば ら し い が、 時 流 に な ら う ま い と 苦 心 し て い る。 雲 騰 浪 走 の 勢 い は ま だ 衰 え て い な い、 鶴 膝. 蜂 腰 に ど う し て ひ っ か か っ た り す る も の か ﹂ と い っ て い る(75 )。 こ の よ う に、 科 挙 に 斉・ 梁 体 の 詩 を 課 す る こ と に 疑 問 が 提 出 さ れ、 何 ら か の 修 正 が 試 み ら れ る よ う に な っ た。 し け ん 権 徳 輿 は 進 士 の 策 問 第 五 問 で﹁ 問 う。 人 材 を 育 成 す る の は 国 家 を 治 め る 根 本 で あ る。 詩 を 作 っ て 質 問 に 答 え る の は 賢 士 の み が で き る こ と で あ る が、 流 麗 さ を き そ う あ ま り、 声 病 に 牽 制 さ れ て は な ら な い。 た だ 試 験 官 が い る か ら 規 則 で し ば り、 音 律 の 合 っ た 者 も ゆ き す ぎ を 指 摘 さ れ、 詩 の す ぐ れ た 者 で も 欠 点 を 指 摘 さ れ る。 い く ら 欠 点 の な い よ う に し て も、 ど ) 76 ) う し た ら 採 択 さ れ る か、 そ の 手 だ て が わ か ら な い ﹂ と 言 っ て い る(76 )。 し か し な が ら、 積 み 重 ね ら れ た 風 習 は も と に も ど り に く く 唐 以 後 も そ の ま ま 続 い て 改 め ら れ な か っ た。 清 代 に 至 っ て も 依 然 と し て 詩 を 課 す る 試 験 で 官 史 は 採 用 さ れ つ づ け、 文 学 の 発 展 史 の 流 れ の な か で 逆 流 と な っ た の で あ る。 ﹁ 宋 史 ﹂ 選 挙 志 一 ﹂ に よ れ ば、 ﹁ 仁 宗 の と き、 参 知 政 事 萢 仲 渣 は 古 学 を 復 興 し よ う と し て、 学 校 を 興 し、 実 践 を 重 ん ず べ き こ と を 主 張 し た。 そ こ で 宋 祁 ら は﹁ 教 育 が 学 校 に も と ず か ず、 官 吏 が 郷 里 か ら 選 ば れ な け れ ば、 そ の 人 物 が 優 れ て い る か ど う か の 名 実 を 明 ら か に す る こ と が で き な い。 し か る に、 高 級 官 僚 は 受 験 生 を 声 病 で 縛 り、 学 問 す る 者 は 暗 諦 を 専 ら に し て い る ⋮ ﹄ と 上 奏。 ( し か し 萢 が 退 陣 す る と ) そ の 冬、 詔 に よ っ て 萢 氏 当 時 に 定 め ら れ た 大 学 の 在 学 期 限 が 撤 廃 さ れ た。 学 制 の 不 都 合 を 言 う 者 が 多 か っ た が、 そ れ は 受 験 生 に と つ て ( 最 初 の 試 験 課 目 で あ る ) 詩 賦 の 声 病 は 暗 諦 し や す い の に 反 し て、 策 論 の 問 題 の 方 が、 範 囲 が 広 く て む ず か し い と 考 え た か ら で あ っ た。 官 僚 は も と に も ど し て ほ し い と 請 う 麺 ﹂ と あ り、 ま た ﹁ ( 神 宗 の 時 ) し ば ら く し て か ら 中 書 門 下 が ﹃ む か し、 役 人 を 採 用 す る 揚 合、 み な 学 校 に も と ず き、 道 徳 は 上 に 帰 一 し、 習 俗 は 下 に 成 っ て、 人 材 は す べ て 世 の た め に 役 立 っ た。 い ま 古 の 制 度 を 復 活 し よ う と す れ ば 漸 進 主 義 で な け れ ば な ら な い。 ま ず 声 病 対 偶 の 文 を や め て、 学 生 に 専 ら 経 学 を 学 ば せ、 朝 廷 が 学 校 を 興 す の を 待 っ て 三 代 に お け る 教 育 ・ 選 挙 の 方 法 を 講 求 し て 天 下 に 実 施 す る な ら ば、 古 に 復 す る こ と が
で き る で あ ろ う ﹂ と 上 奏、 法 が 改 正 さ れ 詩 賦 が 廃 さ れ た ﹂ と あ る。 こ の よ う に、 宋 人 い ご 清 人 ま で、 声 病 説 は 徹 底 的 に 攻 撃 さ れ た。 蘇 転 の 詩 に ﹁ 蜂 腰 ・ 鶴 膝 ( 調 の 詩 を 作 る 人 ) は 林 希 逸 ( の 詩 ) を 嘲 笑 し、 春 矧 秋 蛇 ( な よ な よ し た ) の ( 詩 文 を 書 く 者 ) は 楊 子 雲 の ( 文 ) を 非 難 し て い る。 酔 い に ま か せ て 書 き、 醒 め る お の に ま か せ て 自 ず と 笑 う。 い ま 二 絶 句 を つ く っ て 貴 方 に 会 う こ と が で き た ﹂ と あ り、 陳 与 義 の 詩 に ﹁ 人 生 は 行 楽 の み だ。 詩 ( 78 ) 律 な ど は 余 分 な も の だ ﹂ と あ る。 厳 羽 の ﹃ 槍 浪 詩 話 ( 詩 体 ) ﹄ に は ﹁ 詩 に は 八 病 が あ る が、 作 詩 の 場 合、 か な ら ず し も 拘 わ る 必 要 は な い。 こ の よ う な 弊 法 は 拠 り ど こ ろ と す る に 価 し な い ﹂ と い い、 王 世 貞 の ﹃ 藝 苑 屈 言 ﹄ 巻 三 に も ﹁ 沈 約 の い う、 平 頭 ・ 上 尾 ・ 蜂 腰 ・ 鶴 膝 ・ 大 韻 ・ 小 韻 ・ 労 紐 ・ 正 紐 の 八 病 の う ち、 上 尾 と 鶴 膝 と が、 も っ と も 忌 む べ き も の と さ れ て い る が、 沈 約 の 拘 わ り 方 は、 ち ょ う ど 古 文 体 と 正 反 対 で あ り、 近 体 詩 の う ち 律 詩 ( い わ ゆ る 絶 句 も 八, 口む ) と は 多 少 の 関 連 が あ る も の の、 拘 束 ぶ り は 商 鞍 の 法 の き び よ う に 酷 し い。 四 病 に つ い て も 根 拠 が な く、 い う に 足 り な ( 79 ) な み だ ( 80 ) い ﹂ と い い、 蓑 中 郎 は ﹁ 格 式 な ど は 涕 や 唾 に す ぎ ぬ ﹂ と い い、 法 式 善 も ﹁ 試 験 用 の 詩 体 は も と 宗 派 が い ろ い ろ あ る。 祥 鳳 は す 高 梧 に 栖 み、 未 だ 菅 翻 を 伴 な う を 許 さ ず、 山 水 の 音 に 至 り て は、 何 ぞ 幽 径 を 妨 げ ん、 雲 堂 に 商 競 の 病 あ る も、 原 は 彊 界 を 限 ら ず、 陪 頭 桑 婦 の 辞、 江 上 漁 父 の 話、 譜 に 風 謡 の 中 に 入 り ふ く か な て、 一 々 鼓 鯖 に 譜 う。 之 に 教 う る に 反 切 を も っ て す る も、 其 の 音 或 い は 崩 壊 し、 鍾 蝶 ・ 司 空 図、 神 仙 は 狡 狛 を 施 す ﹂ ( 奴 は な は い わ ま た 畳 韻 ) ﹁ 沈 約 韻 書 を 定 む、 そ の 法 ま た 己 だ 酷 な り、 矧 ん や 復 わ が 心 を 強 い て 必 ず 人 欲 に 従 わ し め ん と す る を や。 天 上 風 雲 よ う 好 し、 人 間 草 木 佳 し、 年 年 と 日 日 と、 重 複 あ る を 聞 か ず。 一 ち ぢ む 朝 に 十 禽 従 え ば、 御 者 も 猶 お 悪 縮 す、 温 柔 敦 厚 の 辞、 如 何 ぞ し た ババ 俗 に 狗 う を 許 さ ん。 声 は 四 に し て 音 は 入、 相 生 し て 相 触 る る な ん げ ロ バ ( 81 ) 莫 し、 誼 ぞ 再 三 漬 さ る る を 忘 れ ん ﹂ と あ る。 以 上 の 例 は 一 端 に す ぎ な い。 彼 ら の 努 力 は ﹁ 狂 瀾 を 既 例 に か え さ え ぎ 挽 し、 百 川 を 障 っ て 之 を 東 に 流 さ せ る ﹂ こ と は で き な か っ た け れ ど も、 商 鞍 の 残 酷 な 法 制 の よ う だ と さ れ た こ の 声 病 説 は、 中 国 文 学 発 展 史 の。 へ ー ジ を 飾 っ た の で あ る。 声 病 に よ っ て 官 吏 を 選 ぶ こ の 方 法 の 余 波 は 日 本 に も 及 ん で き た。 日 本 の 一 条 天 皇 の 長 徳 三 年 ︹ 九 九 七 ︺ ( 太 宗 の 至 道 三 年 ) 大 江 匡 衡 と 弘 法 大 師 と ﹃ 文 鏡 秘 府 論 ﹄
密 教 文 化 紀 斉 名 は、 学 生 の 大 江 時 棟 が 省 試 の 際 に 献 じ た﹁ 詩 病 は 蝦 瑛 を 累 ね る ﹂ と い う 答 案 を め ぐ り 書 面 を や り と り し て、 繰 返 し 討 論 を 重 ね て い る が、 そ れ ら は す べ て、 元 競 の 司 詩 髄 脳 ﹄ は じ め﹁ 文 章 儀 式 ﹄﹁ 文 筆 式 ﹄﹁ 詩 格 ﹄ を 拠 り ど こ ろ に し て 行 な わ れ て い る の で あ り、 同 時 に ﹁ 本 朝 に お け る 時 代 に 沿 っ た 議 論 を も っ て、 唐 家 不 易 の 文 に 背 こ う か ﹂ と 強 調 さ れ て い る の で あ 麺 。 弘 法 大 師 も ﹁ あ る 人 は、 察 邑 の﹁ 筆 論 ﹄﹁ 王 義 之 の﹁ 筆 経 ﹄ は、 た と え ば 詩 人 の 格 律 の よ う な も の だ、 と い っ て い る が、 と と の 詩 に は 声 調 を 調 え、 声 病 を 避 け る 規 則 が あ る よ う に、 書 道 に も 書 弊 を 除 い て 理 に か な う 道 と い う も の が あ る。 詩 人 が 声 病 を 避 け な か っ た な ら ば、 ど う し て よ い 詩 を 作 り 続 け る こ と が で き よ う。 書 家 も 病 理 に 明 る く な か っ た な ら ば、 ど う し て 一 流 の 書 と し て 書 評 に 価 す る で あ ろ う か ﹂ と 述 べ て い 麺。 こ の よ う に み て く る と、 日 本 文 化 と 中 国 文 化 と の 関 連 は、 た い そ う 密 接 で あ り、 大 師 は 当 時 の 文 化 交 流 に お け る 移 植 と 影 響 の う え で、 重 大 な 役 割 を 果 し た の で あ る。 今 日、 中 日 の 平 和 友 好 条 約 の 締 結 一 周 年 に あ た り、 か さ ね あ た た て 歴 史 を 温 め る こ と に よ っ て、 両 国 の 友 好 的 な 往 来 と 文 化 交 流 の 源 流 が 長 か っ た こ と を 一 層 痛 感 す る の で あ る。 こ の こ と は、 十 分 に 珍 重 し、 輝 か し い 誇 り と す る に 価 す る と 思 う の で あ る。 六 声 病 の 説 は な が い 間、 世 の 弊 風 と な っ た。 今 日、 わ れ わ れ は ﹃ 文 鏡 秘 府 論 ﹄ に よ っ て、 は じ め て そ の 全 貌 を 知 る こ と が で き る。 そ の 消 極 的 な 要 素 に つ い て は す で に 論 じ て き た が、 公 平 に み て、 そ の 中 に は 積 極 的 な 要 素 も あ る。 そ れ は、 声 病 が 一 方 で は 詩 の 音 楽 感 を 高 め る か 強 め る こ と に 寄 与 し た 点 で あ る。 詩 の 詩 た る 所 以 は、 詩 以 外 の 文 学 作 品 よ り も 音 律 が 整 っ て い る と い う 点 に あ る。 音 律 を 調 和 さ せ よ う と す れ ば、 ま ず 声 病 の も た ら す 弊 害 を 除 か な け れ ば な ら な い。 そ う し て こ そ、 詩 は 書 か れ た も の と し て ば か り で は な く、 朗 詠 さ れ た 場 合 に も 広 範 囲 の 読 者 に 読 ん で も ら え る し、 聞 い て も ら え る の で あ る。 沈 約 は ﹁ 音 律 が 整 う と、 六戸 が 流 れ る よ う に 出 る が、 整 わ な ( 84 ) い と、 の ど が つ ま る ﹂ と い い、 魏 徴 も ﹁ 江 左 の 音 律 の 発 し か た は き ら き ら し た 美 し さ を た ハノ と ぶ。 音 律 が き れ い だ と 内 容
以 上 の 効 果 を あ げ る。 ⋮ 詩 文 が 華 麗 だ と 朗 詠 に も 似 つ か わ し い ﹂ (﹁ 階 書。 文 学 伝 序 ﹄ ) と い っ て い る。 鍾 礫 も ﹁ 朗 諦 は つ ま っ て は な ら な い。 清 濁 が な め ら か で、 口 訥 し や す い の が よ い ﹂ と い う。 (﹁ 詩 品 ﹄ 下 序 ) 彼 ら は、 詩 は 朗 諦 し や す く な く て は な ら な い と い う 点 で } 致 す る。 杜 甫 の 詩 で い え ば、 彼 自 身 ﹁ 老 箋 に 向 っ て か ら、 だ ん だ ん 詩 の 音 律 の 繊 細 さ を 身 に つ け た ﹂ ﹁ で き た て の 詩 を 改 作 し た ら 長 吟 ( 85 ) が お の ず と で き た ﹂ と 詩 作 の 経 験 に つ い て 語 っ て い る。 こ の 杜 甫 の 言 葉 を ど う 理 解 し た ら よ い の で あ ろ う か。 ﹃ 清 波 雑 志 ﹄ 巻 一 に ﹁ 李 公 は 生 ま れ つ き の 虚 心 さ で 勤 務 し た が、 詩 作 を 好 み、 同 年 の 曽 致 尭 と 詩 の 応 酬 を し た。 曽 が ﹁ 君 の 詩 は 巧 み だ が、 韻 律 は ま だ ぎ ご ち な い ﹂ と い っ た が、 李 は そ の 意 味 を 理 解 で き な か っ た。 の ち に 沈 約 の ﹁ 前 の 句 が 浮 声 で あ る と き に は 後 の 句 は 切 響 で な け れ ば な ら な い ﹂ と あ る の を 理 解 し て か く わ ら、 韻 律 に 精 し く な っ た。 自 分 は 建 康 で 北 方 人 の 杜 帰 順 と 知 り 合 っ た。 彼 は あ る と き ﹃ 杜 甫 の ﹁ 麗 人 行 ﹂ の ﹁ 坐 中 入 嬢 真 貴 人 ( 坐 中 の 八 娩 は ま こ と に 貴 人 ) の 八 の 字 は も っ と も 響 く 字 で あ る。 詩 句 に 用 い る 文 字 の 使 い 方 は、 あ の よ う で な く て は な ら な い。 杜 甫 は ず っ と 以 前 か ら 陳 子 昂 か ら 詩 を 学 ん だ か ら、 こ の 説 は 陳 か ら 教 え ら れ た も の で あ ろ う ﹂ と あ る。 朱 郵 尊 は ﹁ 査 徳 弄 編 修 に 寄 す る 書 ﹂ に お い て ﹁ む か し、 友 人 の 李 天 生 の 議 論 を 聞 い た こ と が あ る。 彼 に よ る と、 杜 甫 が く わ )8 6 ) 晩 年 に 詩 律 に 細 し く な っ た、 と い う が、 細 し い と は 何 か。 い っ た い、 五 言 ・ 七 言 の 近 体 詩 に お い て 唐 の 詩 人 は 一 紐 に 用 い た 韻 は 連 用 し な い。 彼 ら で す ら そ う な の で あ る。 し か し、 ] 三 五 七 句 に 灰 字 の 上 ・ 去 ・ 入 声 の 字 を 用 い る 場 合 に、 杜 甫 は 必 ず 離 し て 用 い、 続 け ざ ま に 用 い な か っ た が、 他 の 入 び と は そ う で は な か っ た ﹂ と い う の で あ る。 杜 師 顔 や 李 天 生 は 杜 甫 の 造 句 に つ い て、 そ の 苦 心 惨 恒 ぶ り は な は だ ﹁ 苦 だ 心 を 用 い た ﹂ 点 を 指 摘 す る け れ ど も、 要 は 声 病 を 避 け て 作 っ た と い う こ と な の で あ る。 も し、 声 病 を な く し な い と き つ く つ こ う けの い わ ゆ る ﹁ 倍 屈 贅 牙 ﹂ ( ご つ ご つ ) と な っ て し ま い、 ど う し て も 朗 諦 に 適 さ な く な る。 し た が っ て 人 も 喜 ん で 聞 い た り 見 た り し な く な る わ け で あ る。 ず ず め 皇 甫 提 が ﹁ 李 生 に 答 え る (第 三 書 ) ﹂ で い う よ う に ﹁ 鳥 雀 の さ え ず り 凋 鍬 の よ う な も の で、 哺 き や め ば ほ っ と す る。 人 が 聞 い て く れ な か っ た ら、 何 の 値 う ち も な い ﹂ の で あ る。 要 す る に、 詩 の 詩 た る 所 以 は、 そ の 芸 術 と し て の 形 式 の 面 か ら い え ば、 そ 弘 法 大 師 と ﹃ 文 鏡 秘 府 論 ﹄