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都市の自律性はなぜ主張されるのか

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早稲田大学教育学部 学術研究(複合文化学編)第56号 79〜94ページ,2008年2月

都市の自律性はなぜ主張されるのか

「1300年の諸規定」をめぐる都市コプレンツの位置

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古  川  誠  之

問題提起

本稿に先立って,論者は中部ライン流域の都市コブレンツに関する「1300年の諸規定」の内容を検 討したこ.とがある」。「1300年の諸規定」__とは,_コブレンツの「騎士,家人,審判人,そしてゲマイ ンデ」が,自分たちの中から「もっとも良き者,もっとも賢き者を」コブレンツの参事会員かつ代表 者として選ぶ旨を宣言した史料である。

いわゆる中世都市としてのコブレンツ市制は,都市参事会Stadtratの確立をもって「自律的な都 市制度を確立するための戦い」を貫徹しようとした,との伝統的な解釈が存在する2。この解釈は今

日のコブレンツ都市史において,必ずしも整合的ではない。というのも,史料に見られる情報はただ 参事会がこの1300年の時点で成立したという点にとどまっており,この参事会成立の動機は判然とし ていない。しかるにわずか後に,この参事会は解散させられてしまい,制度上の継続性があるかどう かは不明なままとなっている。またレーリヒ,プラーニッツらといった研究史における文脈3の中で も,コプレンツ市のこのような歴史展開は必ずしも適合的なケースではなかった。とりわけ参事会成 立時期の「ずれ」は,理論上の問題をはらんでいる。コブレンツ参事会の成立は,近隣の大都市にお ける都市参事会制度確立の過程と比較しても,時期的にかなり遅い段階に位置しているからである。

このようなずれをいかに解釈するかが,コプレンツ市研究における一つの難問として繰り返し現れ てきている。一つの方法は,中世都市としての 発展段階 の達成の遅れとして歴史展閲を解釈する ものである。そこでは例えば,「都市君主に対する広範な自律性が,コブレンツにおいては打ち立て られなかった」とされるム というのも ̄;コブレンツでは「政治的な自由を求める勢力,とりわけ遠隔 地商人に代表される,大規模な商人の活動が欠けていたからである」というのである4。この解決方 法の問題は,当時の遠隔地商業の結節点以外の「都市」は,すべからく遅れた発展にとどまることに なってしまう点にある。そのため都市共同体の発展の条件は,ただ経済活動のみに限定されてしまう。

コプレンツは「遅れてきた都市共同体」として把握され,その 発展 の 頂点 がいつの時期に存 在するか暖味なままに近世へと推移することになる。

他方で,今日におけるコブレンツ都市史の叙述は,同市をいわゆる「領邦都市」のカテゴリに属す るものとして理解する方法を採用している。この概念は,さしあたり領邦君主の支配下に属する都市

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として理解されるべきだろう。第一の方法との理論上の矛盾は,意識的にであれ無意識的にであれ,

覆い隠されている。確かに都市参事会制の成立は語られるか,先の方法では対立的なものとして解釈 されていた「都市領主ないし領邦君主の支配権」と「都市共同体の自律への志向」という要素への回 答は,この方法ではなされない。確かにコプレンツにおいて,都市参事会は1300年に一度成立する。

しかしそれはコブレンツにとってどのような意味を持っているのか,コブレンツのどのような歴史展 開を反映しているのかを語りえず,ただ歴史上の出来事の一つとしてのみ述べられることになる。第 一の方法では都市における支配権の問題が,第二の方法では都市の自律性という色彩が,それぞれ薄 められてしまう。

では「1300年の諸規定」で語られたコブレンツ都市参事会制の成立は,領主の支配権と都市の自律 性との関連において,どのような意味を持っていたのだろうか?それは「都市を権力能力および行為 能力を有する一つの法人たらしめ,又自律的な行政活動を展開してゆくための最良の道具を都市に提 供することになった」5のだろうか?これに対して論者は以前jこ,_「都市の自律の証として都市参事会 設置がなされたか否かという判断については保留せざるを得ない。そこには確かに不安定な状況下に おける自己防衛を目的としていた可能性が推測される。だが同時に,彼らの自律性は大司教の権力に 敵対するものというよりはむしろ大司教の追認を要求することで両者の権能の並存を許す」余地を残 している,との解釈を提示した6。このような解釈は,一方的な,完全な従属/支配や,あるいは完 全な自律性や独立という概念の存在しえない中世「封建社会」においては,さほど特殊な解釈ではな い。

しかしそもそも,都市共同体の「法人格の形成」なるものは,都市参事会制度のみを核とするもの なのだろうか。中世都市制度の中で「もっとも新しい基本要素」7と称される参事会制度は,ドイツ 都市のすべてが採用したものではなく,少なからぬ都市においては,14世紀にいたるまで確認できな い。このことは特に,国王領に置かれた,いわゆる国王都市において顕著である(例えばヴェッテラ ウ諸都市)8。また法人格の形成は,ただ都市参事会制にとどまらず,多様なかたちで確認できる。

例えば12世紀以来都市印章を集団で用いるようになる傾向は,法人化の過程が単一の制度の確立によっ て新たな段階に入るというよりも,それ自体の長期間にわたる過程を示唆している9。それゆえに,

都市参事会制度の成立の有無やその時期の遅さに目を向けるだけでなく,中世都市制度が長期間の形 成過程を経て生じたものであり,都市参事会制度はこの意味ではむしろ,過程の末尾を占める物とし てさしあたりは把握するにとどめておくべきではないだろうか10。

このように考えてみると,コブレンツにおける「1300年の諸規定」の意味と,この史料が置かれた 時代背景を改めて検討する必要があることがわかる。「1300年の諸規定」を,恒久的かつ自律的な制 度確立の過程と見 しかも都市領主の支配を排除しようとする性格のものとのみ把握する方法論から 離れてみることで,異なる世界観を提示しうるだろう。

そこで「1300年の諸規定」を,時期的に近接する幾つかの史料群の中に位置づけることによって,

その意味を再考したい。

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都市の自律性はなぜ主張されるのか「1300年の諸規定」をめぐる都市コブレンツの位置(古川) 81

国王アルブレヒトとライン遥帝侯,そしてトリアー大司教ディークー

ケルン大司教の封臣であったナッサウ伯アドルフは,先王ルドルフ・フォン・ハブスプルクの死後,

その息子であるオーストリア公アルブレヒトによる王位継承を望まなかった選帝侯たちによってドイ ツ国王の地位についた。この,王位請求者を選出するプロセスは複雑で必ずしも弱者を選び強者を排 する性格をもっとは言えない。ハブスブルク家と選帝侯との関係も,このことをもってただちに悪化 したわけではなかった11。アルブレヒトもまた,アドルフに忠誠を誓い,オーストリア公としての所 領を安堵された12。

しかしアドルフはほどなくして,テユーリンゲン政策をめぐるマインツ大司教との対立を契機とし て選帝侯の束縛から離れようとしはじめた。この一方でアルブレヒトは選帝侯との協調関係を保ち続 け,今やアドルフにかわる王位継承者と認められるに至った。

澤帝侯はアドルフの王位廃姉を宣言し,新国王と↓てアルブレヒトを選出する。今や放逐された前 王と新王は,戦闘という形で決着をつけることになる。アドルフとアルブレヒトの両軍はプファルツ 北部のゲルハイム近郊で激突し,戦いはアドルフの戦死という形で幕を閉じた13。

このような経緯を経てドイツ国王となったアルブレヒトと選帝侯たちは,ほどなく新たな対立関係 へと陥ることとなる。両者の関係の変化は,1299年に主をなくしたレーエン地であるホラント・ゼー ラント・フリースラントの諸伯領の帰属をめぐる問題,前王アドルフが協調的にふるまったフランス 王との緊張関係などに関して,ケルン大司教をはじめとする低地ラインの諸侯と距離を置いたことに 端を発している。マインツ大司教及びプファルツ宮中伯もまた,かつての王領地の帰属をめぐって潜 在的な敵対勢力となる余地を残していた。

このようなおりにトリアー司教区に新大司教ディ一夕ー・フォン・ナッサウが現れたことが,国王 と選帝侯の緊張関係を表面化させる一つの契機となった。そこで以下に,ディークーとトリア一大司 教区のおかれた立場について述べたい。

まず13世紀後半とは,制度としての教会が,教皇の指導のもと,その構造の一元化を狙われた時代と いうことができる14。既に叙任権闘争期において問われていた聖俗南棟のあり方は,この時点では個々 の職権に対する,教皇の関与・干渉がどこまで及ぶのかを争うというやり方で示されることとなった。

このような教皇の狙いは;国制上では既にインノケンティウス4世による皇帝フリードリヒ2世の 廃位(1250年)にあらわれており,また1300年に独仏両王に対するボニファティウス8世の政策に示 されることになる15。またこのような思考モデルは教会会議,特にリヨン第一および第二公会議

(1245−1274年)においても明らかに示されている。

しかしこのような教皇側の動向の意味するところは,他方で教会の 地方化 が明らかに現れてき たことのしるLでもあった。各司教区を治める(大)司教は使徒の後継者として自らが責任を持つ司 教区を,聖的にも俗的にも指導する責務を持つと見なされていた。このことは宗教共同体としての司 教区民の自己像にも影響を及ぼしており,自らの司教区を治める司教を選出することは,司教区民の

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協議により決められるべきとする考え方が,11世紀以来浸透し,最終的には聖堂参事会の成立という 結果を導いた。

この点で,司教選出は教皇の主導する普遍教会と,地方教会との対立する焦点の一つとなっており,

このような動向は14世紀にいたるまで続くことになる16。今や頻繁な二重選挙と,それに対する教皇 の干渉が明白に見出された。地方司教区の司教選出は,国王,教皇,地方教会民の錯綜する関係の場 となった。このような相互の緊張関係は,長期的な視点で見る限りでは教皇の勝利という結果へとた どり着いたように見える。ただしこの結果は,多くの教皇側の立法によって導き出されたものであり,

しかもそれ自体としては,地方政治に対する(特に国王への)教皇の勝利を意味しはしなかった。む しろ地方教会に対する国王権力の影響の増大という状況が生じた。この過程が13世紀末の教皇と独仏 両王との関係には明白に示されており,それは1309年のアナ一二事件で一つの転機を迎えることにな る。

ここで視線をトリア∵大司教区に向けたい。一前任のHトリア丁大司教ポエムントtフォン1ヴァルス ベルクの後を継いでその職務を担うことになったディ一夕ー・フォン・ナッサウは,歴代のトリアー 大司教の事蹟を記した『トリア一事蹟録』にその固有の記録が残っていない,稀有な人物である。

『トリア一事蹟録』17では,後任の大司教バルドゥイン・フォン・ルクセンブルクについて述べる「大 司教バルドゥイン事蹟」18の前説の位置において,ほんのわずかにディ一夕一について述べられてい る。そこでは1300年前後のトリアー司教区の歴史が,帝国の状況から語られ始める。1298年の国王ア ドルフの敗死と新国王アルブレヒトの登場,このハブスブルク家の国王に対する,教皇ボこファティ ウス8世による破門宣告。「大司教バルドゥイン事蹟」の著者は,この教皇の振る舞いについて,「な ぜならば,彼の妻は[反キリストとして教皇の敵対者と考えられてきた]皇帝フリードリヒ2世の血を

引いていたからだ」19と述べている。少なくとも『トリア一事蹟録』の中では,時代はまだ「大空位 期」よりも以前の,シュタウファー朝時代との繋がりを保っていた。

折りLも1299年12月9日,トリアー大司教ポエムントが逝去した20。13世紀後半のトリアー大司教 選出は,常に生じる二重選挙の問題を抱えており,この傾向は既に述べたように,教皇の普遍教会政 策と関連していた。

今回の司教選出に際して,トリアーの聖堂参事会は翌1300年1月26日,ケルン教会の聖堂参事にし て大助祭であるパインリヒ・フォン・ヴィルネプルクを新大司教として選んだ。

しかし教皇は,この地方教会の決定を認めなかった。選出に先立つ1月4日に,既にトリアー大司 教位を空位として保全し21,同月18日には先の国王アドルフの実の兄弟であるディークーを新大司教

として選んでいた22。いまや三度,トリア一大司教区を二重選挙の事態が到来したのである。

トリアー司教区という地方教会の外部の思惑,特に教皇ボこファティウス8世の対皇帝政策の一環 として指名されたディークーの当初の立ち位置を示すとすれば,その指名は一方では,同司教区の選 出したパインリヒ・フォン・ヴィルネブルクに代表される,低ライン諸侯の政策の緩和という側面 を持っていた。他方で,教皇の狙いは「アルブレヒトの狂気を食い止めるcausa Albertivesaniae

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都市の自律性はなぜ主張されるのか「1300年の諸規定」をめぐる都市コブレンツの位置(古川) 83 resistendi」23ことにあった。前王アドルフの実の兄弟にあたるディークーを担ぎ出した点に,ライン 選帝侯たちを自らの陣営に引き込もうとの教皇側の思惑があったことは否足しにくい。フランス王フィ リップ4世の動向を警戒する低地ライン諸侯と,アルブレヒトと同様にフランス王を牽制したい教皇 の思惑は,いずれにせよさほど遠く離れてはいなかった。二人の対立大司教がどの程度争ったのかに ついては,良くわかっていない。ディ一夕ー自身の政治的立場がいずれにあったにせよ,トリアー教 会の意思を超えて任命された彼に対し,トリアー教会所属の聖職者たちが当初,協力的な態度を取ら なかったであろうとする解釈が一般的となっている24。この状況は,少なくとも1304年にパインリヒ がケルン大司教として(パインリヒ2世)選出されるまで続いたと考えられる。ホルバッハは二人の 対立大司教が,深刻に対立しつづける利害基盤を,基本的には持たなかったと見ている25。

いずれにせよ大司教となったディークーは,パインリヒが既に手中におさめていた大司教のプルク や所領,教会を自らの支配化に「取り戻す」ため,武力闘争の準備に入る以外の手段を持たなかった。

就任当初のディ一夕「のこのような行動の対象がト主として!\インリヒではなぐ,国王アルブレヒト へと向けられていたと考えることができる。現在確認することのできる,ディークーが取り結んだレー エン契約の多くは,その条項に対ハブスブルクの項目を含んでいる26。

コプレンツの動向と帝国政治:「ハイムバッハ選帝協約」

周囲のこのような状況下において,トリアー大司教の 領邦都市 であるコブレンツはいかに振舞っ ただろうか。その鍵と見られてきた史料が,参事会員を自らが選ぶことを宣言した「1300年の諸規定」

だった。ここでは都市民が自ら最良の者を選んだと述べている。参事会員として選ばれたのは「ヘル フェンシュタインのヘルである兄弟ヘルマンおよびパインリヒ,ジークフリート・フォン・ワルポッ

ト,パインリヒ・フォン・デア・アルデとその弟アレクザンダー,ベーター・フォン・アイヒ,以上 騎士。パインリヒ・フォン・デア・アルケン,ヴィルヘルム・フォン・デム・ブルクトール,ヴェッ ツェル・フォン・メレネ,クラフト・ヴェルナー・フォン・リュッツェルコブレンツ,ギゼルブレヒ

ト・フォン・リューベナハ,シュヴェレパージ,エンゲルベルト・ヴァーレ・フォン・モーゼルヴァ イス,以上家人。小ジークフリート・[シュペデル],ヨルダン・フォン・ヴィルドゥンゲン,ワルター・

フォン・ケッセルハイム,ツァハリアスの子フリードリヒ,パインリヒ・フォン・デム・ケルレ,リ コ ̄ルフ, ̄ゴデベルト,ヘルヴィヒ,以上審判人。ツァハリアス・フォン・プファッフェンドルフ,ヘ ルマン・フォン・デム・ケラー,トルイドウィン,ヤコブ・ショーデウィン,クレメンス,パインリ ヒ・ヴェッレ,ジークフリート・フィールフイシェ,クリスティアン,以上市民」27の諸氏である。

彼らの多くは13世紀後半のコブレンツ関連の文書に,たびたびその名を見出せる名士たちだった。

この史料の解釈が主に二通りの異なる文脈の上でなされてきたことは,本稿の冒頭で述べたとおり である。一般論として,参事会成立の過程がしばしば政治的騒乱と関連付けられてきたことは確かで

ある28。しかしこの関連性は,もっぱら政治的騒乱を利用して,都市の自律性をより拡大しようとす る都市の意思の結果として語られてきた。

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84  都市の自律性はなぜ主張されるのか「1300年の諸規定」をめぐる都市コブレンツの位置(古川)

本稿では,この関連性をより不可避的な,都市民の好むと好まざるとに関わらず参事会員を選ばね ばならないような,政治的騒乱から引き起こされた一つの帰結と見るべきだろうとする態度に立つ。

というのも,政治状況を利用しようとする都市の自律への志向のあらわれとして「1300年の諸規定」

を解釈しようとする場合,それは政治基盤の弱いとされる大司教ディークーの弱みにつけこむという,

いわば一回性の状況を前提とすることになる。しかし実際のところ,「1300年の諸規定」は参事会員 選出の自律性については主張するものの,その目的をあくまで「都市の権利と名誉を守り」「我々と トリアーの殿の法を保つこと」29にある,と宣言している。つまり両者の支配・被支配という関係性 の断絶を意味しない,ということを少なくとも額面上都市の側が述べていることになる。

ここで「トリアーの殿」である大司教の法と権利が,参事会員選出と一体の懸案となっていること を,あわせて確認しておかねばならない。都市内のブルク,モーゼル河畔の港,なにより都市壁の維 持の問題が大司教及び市民双方にとって重要だったことは,特に13世紀後半のコブレンツ市に関する 史料の存雇から理解できる寧㌦特に大司教の持つ築城権,港整備権portas・et murOS−.OPidi Confluencieedificareetconstruereに関する両者のやりとりは,既に1283年の史料に現れており31,

「1300年の諸規定」の際にも問題となっていたことが,「諸規定」を承認する大司教側の文書からもわ かる32。この問題はさらに1303年にも再び現れることになるが,この点については後で再び述べる。

このトリアー大司教の権利が問われたのが,「ハイムバッハ選帝協約」の成立から生じた国王と選 帝侯の対立局面である。ハイムバッハ選帝協約とは1300年10月14日,3人の大司教とプファルツ宮中 伯が中部ライン沿岸のハイムバッハに集い,相互に援助しあうことを取り決めた行為を指す33。彼ら の仮想敵は「今やドイツ王と呼ばれる,強大なるオーストリア公アルブレヒト」であった。アルブレ

ヒトは彼ら選帝侯に不法行為をなし,略奪者として振舞っているからだというのである。

したがってこのハイムバッハ選帝協約こそ,4人のライン選帝侯が対アルブレヒトの立場を明確に した画期であった。そこで今やアルブレヒトは,1301年から始まることになる彼ら選帝侯との戦い,

つまりクロイツの呼び方に従うならば34「選帝侯戦争(1301/02年)」に備えた。

選帝侯の臣民,特にケルン・トリアーの両司教区は先に述べたような対仏関係との関連で,教皇と 妥協する余地を持っていた。教皇ボこファティウス8世はハイムバッハ選帝協約の締結を知り,国王 アルブレヒトが教皇の法廷に現れない限り,3人の聖界選帝侯が国王に従うことのないよう命じてい る35。またマイシツおよびプファルツの両遠帝侯も,テユーリンゲンやオーバープファルツなどの領 土をめぐって国王との緊張関係を強めていたので,アルブレヒトはいまや教皇とライン地方の結びつ きを弱め,選帝侯たちを屈服させるための新たな同盟者を求める必要に迫られていた。

自衛政策としての都市同盟:13世紀都市政治の伝統から

その新たな同盟相手を,アルブレヒトは中部ライン諸都市に見出していた。有名なライン都市同盟36 を引くまでもなく,政治状況がしばしば不安定なものとなった13世紀において,相互の平和協力と一 致した政治党派を形成しようとする政治文化が,この地方には長らく根付いていた37。

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都市の自律性はなぜ主張されるのか「1300年の諸規定」をめぐる都市コブレンツの位置(古川)  85 既に1293年に同盟を結んでいた三都市は,アドルフとアルブレヒトという二人の「国王」に引き裂 かれていたものの,1299年初頭には一致してアルブレヒト側に立っていたと見ることができる38。

1301年5月6日付けの2通の文書で,アルブレヒトはウォルムスおよびシュパイヤに対し「それぞれ の了解無しに,我々の共通の敵と同盟を結ばないこと」を約束している39。

このような都市同盟の動きを,中部ラインの北部地方の諸都市にも確認できる。コブレンツは同 1301年に近傍の都市アンデルナハ40と,また同年12月31日までにポッパルト及びオーバーヴェーゼル41 と都市同盟を結んでいる。アンデルナハとの同盟文書の中では,コプレンツ市民は「シュルトバイス,

騎士,参事会,審判人,コブレンツのウニベルシタス」として示され,その指導者には「パインリヒ 殿,ヘルマン殿の両ヘルフェンシュタイン卿,パインリヒ・フォン・デア・アルケン,ヨルダン・フォ ン・ヴィルドゥンゲン,ヴァルター・フォン・ケッセルハイム」の名が挙げられている。彼らは既に

「1300年の諸規定」において,参事会員として言及されていた者たちである。

一国王アルブレヒトは,1マインツ,_ ウォルムス,,.シュパイヤを中心とする都市同盟に対してと国様,▼.

これら北中部ライン諸都市の同盟にも承認を与えている。アルブレヒトの北部地方や低地ライン方面 への政策は,1301年2月6買付けのケルン市民への特権付与に端を発している42。それは「ラーンシュ タイン,コブレンツ,アンデルナハ,ボン,ノイス,ラインベルクの各関税」からの放免を約束して いる。

アルブレヒトは最終的に,これら一連の特権承認や同盟承認を,一般的な性格を持つラントフリー デの枠組みにおいて統括する43役割を果たす文書を,1301年5月7H,シュパイヤにおいて公布した朝。

そこでは,あらゆる 不法な関税徴収 は禁じられる旨が宣言されている。具体的には「バッハラバ,

ラーンシュタイン,コブレンツ,アンデルナハ,ボン,ノイス,(ライン)ベルク,シュミットハウ ゼン」,すなわちライン選帝侯が所有する関税徴収を対象としたものだった。

アルブレヒトのこの宣言は,実際にはほとんど有効に機能しなかったと考えられている45。1306年 5月には既にケルン大司教が,ボンとアンデルナハにおいて再び関税を徴収している46。マインツ大 司教もまた,1307年10月23日にラーンシュタインの関税に対する権利を回復している47。したがって,

アルブレヒトとの同盟政策にもかかわらず,諸都市は「選帝侯戦争」後,全体としては都市領主との 関係を,元の状態に回復するにとどまったと見ることができる。アルブレヒトの政策は,帝国国制上

は一時的な影響を与えたにとどまった。

しかしこのようなアルブレヒトの政策は,これまでの国王政策においてきわめてラジカルなものと 見なすことができる48。確かにライン選帝侯の関税所の多くは,シュタウファー朝の崩壊後,即ち13 世紀後半に設置されたものが主体となっている。アルブレヒトはこれらの関税所を不法なものと宣言 することで,ライン地方の関税高権が本来,国王の権力を淵源とすることを確認させた。ライン選帝 侯は関税徴収に関する限り,アルブレヒトの政策によってその正統性を問われることとなったのであ

る。両者の対立は,このような意味あいで正統性をめぐる争いであった。

このような展開の中に「1300年の諸規定」つまりコブレンツの置かれた政治的背景を位置づけると

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86  都市の自律性はなぜ主張されるのか「1300年の諸規定」をめぐる都市コプレンツの位置(古川)

すれば,それはどのように解釈されるべきだろうか。

1299年11月末日,すでに死の床にあった前トリアー大司教ポエムントを除く3人のライン選帝侯は,

独仏両国の境界線上,トゥールとヴォークルールの間にあるQuatrevauxの地での集会に参与して いた49。この集会の目的は,アルブレヒトの息子ルドルフと,フランス王フィリップ4世の妹ブラン

シェとの婚姻を取り結ぶことにあった。前述のように低地ラインの諸侯は,国王の対仏政策に対し利 害関心を持っていたにもかかわらず,3人のライン選帝侯がこの集いに参加している。この事実から は,1299年末時点で国王と選帝侯との対立が,なお表面化していなかったと理解することができる。

その後トリアーでの二重選挙から,ディークーが中部ラインの政治に実質的に登場するのは5月半 ば(メッスにおける司教位任命50)以降と言える。その後もディークーとボこファティウスの間には,

大司教位をあがなうための金銭授受についてのやりとりが8月半ばにいたるまで続いた51。

以上の政治展開を見る限り,1300年の最初の半年間は,コプレンツ市史にとっての「空白期」と呼 ぶことができる甘確かに7月12日に,都市は大司教の周意なしに参事会員を選ぶことを宣言し,大司 教はこれを認めている。このことを「弱体な大司教権威の間隙をついた」都市の自律への志向のあら われと解することは,確かに可能であろう。また同時にディークーの大司教としての登位が,最初か ら反アルブレヒトという方向性を持っていたであろうことも認められる。

しかしライン選帝侯たちの反皇帝政策が明白なものとなるのは,早くともケルン大司教がプラバン ト公と同盟を結んだ(1300年8月17日)時点であり,遅くともハイムバッハ選帝協約(10月14日)の 時期と考えることができる。

「1300年の諸規定」は確かに同時代の状況,特に都市同盟運動の影響を受けていた。そのことを示 唆するのが,1293年にマインツ,ウォルムス,シュパイヤの間で結ばれた,無期限の都市同盟文書で ある52。この文書の冒頭では,既に長らく存在している三都市間の友愛について述べられ,新たな同 盟を取り結ぶことによってこれを維持しようとする意思が示されている。彼らの 仮想敵 はここで

は国王になっており,「同盟都市が国王に対して臣従を誓うのは,ただ彼の前任の国王たちによって 認められた諸特権が,改めて文書で確認されたとき」とされた。

同様の規定が,新たに選出された司教に対しても定められている。この新たな司教は,司教都市の 特権と自由を認めた後に,初めて都市にその権威を承認された。この段取りを踏むことを新司教が拒 否した場合,この都市と同盟を結ぶパートナーたちの武力を含む援助がなされるべきとされた53。

コブレンツの「1300年の諸規定」に現れる,大司教と都市の相互の権利承認は,この新たな支配者 が統治を始める際のある種の政治行為として解釈することが可能である。新大司教ディークーは1300 年前半の半年間という,短からぬ期間をかけてコブレンツ市に自らの権利を認めさせた。このことは しかし,必ずしも直接的な危機状態を裏付けているとはいえない。1299年末から1300年秋にかけての 時期は,選帝侯とと国王の両者が対決姿勢を明白にする以前の段階といえるからである。

したがって7月12日の「諸規定」承認の時点は,なお潜在的な緊張の時期に含まれていると見るべ きだろう。むろん既に述べたとおり,その緊張は理由なきものではなかった。低ラインの諸侯は既に

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都市の自律性はなぜ主張されるのか「1300年の諸規定」をめぐる都市コプレンツの位置(古川) 87 述べたとおり,アルブレヒトのホラント公領政策に対し反発を強め,ライン選帝侯は10月14日の「ハ

イムバッハ同盟」で,おそらくは対アルブレヒトの方向性に向けて一致したと見られる。このため中 部ライン諸都市は,既に国王側に大きく傾いていたマインツ,ウォルムス,シュパイヤの三都市の他 1301年になると北部諸都市もまた戦争に対する備えを強めた。アンデルナハ,ポッパルト,オーバー

ヴェーゼルなどとともにコプレンツもまた都市同盟を結成し,これらの諸同盟は国王アルブレヒトに よって承認された。さらにアルブレヒトは,コブレンツの「1300年の諸規定」に定められた都市制度 を,1302年3月になってから承認している54。「諸規定」の宣言と大司教ディ一夕一による承認から,

実に2年弱の時間が過ぎていた。この点で,1300年の時点でのコブレンツの動向が,大司教と国王の 間の緊張関係に 直接的にば 結びついていなかったと考えることができるだろう。いずれにせよコ ブレンツを含む中部ラインの北部諸都市は,1301年に至って皇帝側に傾いたと考えることができる。

国王の都市政策に対抗して,ディークーもまたコプレンツとの関係の強化を試みている。1300年12 月11日,彼jま甥であ&ナッサウ伯ルブレヒト以下,_臣下jこあたる▼ロビン・フォン・コベルン,ヨハン・

フォン・リンベルク,コンラート・フォン・ポッパルトといった騎士たちの前で,コブレンツと間接 税Accizeについての取り決めを結んだ55。それによると,コプレンツ市民は今後6年間,市内で徴収 される間接税の総額を自らのものとする。この権利と引き換えに,都市は大司教に対し,毎年100マ ルクを支払うこととされた。

これと同じころまでに,ディークーは都市トリアーと,少なくとも聖堂参事会との対立を解消する ことに成功していたように見える。1302年1月12日に,ディークーは大司教就任以来初めてトリアー で文書を発行しており,同日までに都市に無事入市できていたことがうかがえる56。都市トリアーと 大司教との関係は,最終的に1303年4月2日付けで両者の調停が図られて安定を取り戻した57。翌1304 年9月2日には,両者の間でさらに2年間のアイヌングが結ばれている58。

「選帝侯戦争」の終結:都市領主権力に回帰する都市コプレンツ

国王と選帝侯の対決は,ほどなく後者の屈服という形で幕を下ろすことになった59。この勝敗に,

上述したハイムバッハ選帝協約,すなわち選帝侯の相互の援助協約がどれほど意味を持ったかを示す のは困難である。国王軍は1301年夏に,まずプファルツ宮中伯領に向けて進軍を開始した。アルブレ ヒト軍の矢面に立ったプファルツ宮中伯軍は,同年7月半ばには既に白旗を揚げている。宮中伯はこ の敗北により,重要な所領(いわゆる コンラーディナー遺領 60)を差し出さざるを得なくなった61。

選帝侯側の不利は既に明らかとなり始めていた。1301年10月1日,ディークーはアルブレヒトに組 みする者たちに破門の脅しをかけている62。しかし彼らにとっての状況は好転しなかった。同じ10月 中に,マインツ大司教の重要な拠点である都市ビンゲンが国王軍によって占拠された63。翌1302年3 月21日には,マインツ大司教ゲルバルト2世が国王と平和条約を結んでいる64。国王の対マインツ政 策にとって重要だったのは,アルブレヒトがラインガウ・タウメスの諸侯,特にカッツェンエルンボー ゲン伯およびナッサウ伯を自らの側に引き込んだことだろう65。先述の対都市政策および関税政策に

(10)

88  都市の自律性はなぜ主張されるのか「1300年の諸規定」をめぐる都市コプレンツの位置(古川)

加え,既に先王アドルフとの戦いで疲弊していたマインツ大司教は,中部ライン地方を保つことがほ とんどできなくなっていた。

直接的に国王軍と直面していた両選帝侯が屈服したことにより,既に大勢は決していたと見ること ができるだろう。しかしアルブレヒトは手綱を緩めなかった。同年8月末日には,ウォルムス.シュ パイヤの両都市に対して,いまだ残るケルン・トリアーの両大司教と個別に和平を結ばないことを約 束している66。最終的に,1303年10月23日および翌24日,国王は高らかに都市ケルンの特権を確認し,

一つの勝利宣言としている67。

ライン選帝侯は武力による屈服の後,すぐに国王の正当性と権威を認めるに至った。このことはもっ とも反アルブレヒト的立場にあると見なされていたディークーも例外ではない。両者の関係の修復は,

おそらく1302年10月ないし11月には既に達成されていた。それを裏付けるのが,各選帝侯がエルザス の国王代官の統治代行を承認している一連の文書である68。

ディ一夕・Tとアルブレヒトの和平条件もま盈r史料が存在しないために明ら▼かではない。−プファイ ファーはコブレンツのライン関税の停止がその条件に含まれていたのではないかと推測している69。

ライン選帝侯の敗北により,教皇の対ドイツ王政策も転換を余儀なくされた。まして教皇にとって は,今や対フランス王政策のほうが差し迫った脅威となっていた。ボこファティウスは1303年になっ てようやく,即位後すでに5年も経過したアルブレヒトの国王就任に同意した。この際,アルブレヒ

トがそれまでの親仏政策を修正することが妥協の条件となった可能性が考えられる70。

しかしアルブレヒトとボニファティウスの新たな関係は,長く続かなかった。同年9月2日,アナ一 二においてフランス王軍に捕らえられた教皇は,フランスへ連行されることこそ逃れたものの,1ヵ 月後にローマで死去した。ボニファティウスの死は,13世紀の普遍教会政策と地方教会との乳轢の,

一つの重要なエピソードとなった。

一方トリアー大司教ディ一夕一にとって,国王との関係修繕は自身の司教区における立場の改善を 意味したと考えられる。都市トリアーと大司教との関係をも考慮に含めてみると,1303年初頭には既 に,トリアー司教区にとっての国王軍の脅威という問題は解消されていたことが伺える。都市トリアー と大司教は1303年4月2日付け71で,都市コブレンツは仲裁者を得た上で同年9月15日72に,和解を 試みている。

この仲裁裁定は「聖ヨハネ騎士団の教会博士ゲルバルト・フォン・ユリアーコ,ドミニコ会士ベー ター・ミュンスター及びアルノルト・フォン・ゼライン,ルーディンスドルフの代官である騎士ヴェ ルナ ̄,ジークフリート・フォン・シュタイン,ドゥードー・フォン・アンデルナハ」の連名によっ て,多くの点に関する判断が提示されている。トリアー大司教は都市に対し,彼らの法と慣習によっ て認められた自由を許し,いかなる者の侵害からも守り,援助することとされる。また大司教は,都 市の敵対者をブルクに引き込まぬこと。さらに市民を傷つけず,財産を侵さず,承認されたコブレン

ツの慣習そして同地の審判人の司法権を侵さぬこと。

これに対して都市の市民たちは大司教の家臣となって,彼やその後継者が同市を守る限りにおいて,

(11)

都市の自律性はなぜ主張されるのか「1300年の諸規定」をめぐる都市コプレンツの位置(古川) 89 大司教の権利を尊重すること。現在在職中の参事会員はその職を解かれるべきこと。しかる後に,大

司教と都市の一致した意思と同意の下で,参事会員が選ばれるべきこと。都市は集会を開くことがで きるし,都市に関する規定を定めることができること。トリアー大司教は城や港を作ることができる こと。「1300年の諸規定」に触れられている,かつての大司教パインリヒの命令も,ディークーの承 認も,いったんすべて無効として原状に回復すべきこと。今回の不和に関連して追放された者は帰還 を許されるべきこと。そしてなにより,両者の不和にけりをつけて,調和が回復されるべきこと,以 上である。

残念ながら,この仲裁裁定そのものが両者の対立に決着をつけたわけではなかった。おそらくは翌 1304年初頭に,大司教ディークーは武力をもってコブレンツを屈服させ73,1304年5月28日には市民 たちに宣誓を強制したと考えられる。このことは1304年5月28日,大司教の諸権利を証明する文書に,

多数のコブレンツ市民が現れること,そして何よりその際に参事会に関する語が現れないことから伺

える。、_

この文書には実に68名ものコブレンツ 市民 が現れるが,興味深いことにその大半は「1300年の 諸規定」で参事会員として名の挙げられた者たちである。内訳は騎士5名,戦士armigeros(おそ らくは「1300年の諸規定」における家人)9名,審判人9名,その他の市民45名である。都市は仲裁 を受けいれ,和合を取り結び,大司教との闘争を終え,彼に3000マルク銀貨を支払うことを約束して いる。上述の市民たちは,この約束の証人として現れる。しかし他方で,都市の権利や自由について は述べられていない。ここでは都市共同体は「騎士,審判人,都市のウニベルシタス」という,13世 紀における慣例的な自己表現に回帰している。

同年6月20日,都市側から大司教の諸権利を認める文書が作成された74。ここでは都市が大司教と 和解し,彼の諸権利を尊重することが述べられている。特記されているのは聖俗の司法権が大司教に 属すことのみである。確かに彼の前任者の権利をも,現今の大司教の権利とともに守られることが述 べられてはいるが,これがどの程度具体的な内容,特にパインリヒ・フォン・フィンスティンゲンの 命令と関連しているのかは不明である。都市の自由や権利については述べられず,都市共同体の自己 表現は「騎士,審判人,都市の全コムニタス」である。

さらにその翌21日付で,今度は大司教側から,都市の諸権利を認める文書があらわれる75。この組 み合わせは「1300年の諸規定」と同様のかたちを取っており,都市側と大司教側が相互の権利を認め 合うという構図に戻っている。

以上,一群の史料を比較して判明するのは,1300年前後の展開の中で,コブレンツ都市共同体とい う大枠の中で,都市参事会制の占める位置の曖昧さであり,それに比して大司教が都市に対して持つ 権利が明確にされてゆくという過程である。

大司教の対アルブレヒトという立場が,自身の敗北の後とはいえ解消されることで,ディークーは ようやく 平常時 の領邦政策に力を入れることができるようになった。ここで重要なのは,「弱体 な権力しか有さなかった」76はずのディークーの司教区が,それまでに空中分解しなかったという事

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90 都市の自律性はなぜ主張されるのか「1300年の諸規定」をめぐる都市コプレンツの位置(古川)

実である0このことは,自律性を求めたトリアーとコブレンツの両都市を,安協こみとはいえ手中に とどめておくことに成功していたことを意味している。本稿で見てきたように,トリアー大司教ディー クーの就任直後の状況は,確かに有利なものではありえなかった。それにもかかわらず,都市領主と 都市の関係は断絶することもなく,対ハブスブルクという局面が過ぎ去った後に,コブレンツは好む と好まざるとに関わらず,トリアー大司教という都市領主の権威と権力に敬意を服さずに済ますこと はできなかった0このような意味において,トリアー大司教ディークーは決して弱体な権力しか持た ない領主ではありえなかったのである。

中部ライン地域を取り巻く不安定要因の一つである,大司教の反国王的位置が解消されると同時に,

再びコブレンツにおいて参事会の語は語られなくなる0「1300年の諸規定」において現れた参事会制 度が,新たな大司教の登位とそれに引き続いた対国王闘争によりもたらされたことを,確かに示して

いる。

その ̄方で,わずか後の1325年にはふたたび参事会の語が出てくること77,14世紀前半には都市帳 簿が初めて現れ制度の固定化が進むこと,そもそも13世紀後半からこの語が散発的に見出されること などから,コブレンツにおける参事会制度は当初,政情の不安定さと関連をもつ非常時体制であった,

と解釈することが可能である。

以上のように見てくると,一つの仮説を立てることができるだろう。トリアー聖堂参事会による選 出ではなく,教皇留保権によってその地位を得たディークーの地盤は確かに強大とは言えず,しかも 国王への対決姿勢の表明によって中部ライン地域の正常は不安定なものとなった。しかし,司教承認 からごくわずか後の時点でコブレンツが「1300年の諸規定」を宣言しその承認を大司教に迫ったのは,

確かにこの政情の不安定化に影響を受けてのこととはいえ,1293年のウォルムスなどの都市同盟文書 の先行例に見えるように,なおこの時代全般の都市領主と都市との慣例的な行為にとどまっていた。

論者が先の論考で主張したように,「1300年の諸規定」はなお都市領主としての大司教の諸権利に敬 意を払っている。しかもアルブレヒトの都市政策が具体的な形をとって現れるのは,10月19日のハイ ムバッハ選帝協約によって選帝侯が旗職を鮮明にした後に,一連の関税停止令が出てからのことであ る。したがってコプレンツは1300年7月12日の時点では,なお両者のいずれかのみの側に立つことを 宣言しておらず,国王寄りになびいたと見なせるのは1301年後半と考えられる。

まとめ

13世紀後半の一連のコブレンツ関連の史料で強調されるのは,参事会員選出の権限が誰に属するの かというよりも,都市に付属する防衛施設を建て,維持し,どのような人間を入れるかという権限が 誰に属しているのか,という点である0この間題は既に1283年の時点で言及され,本論で見てきた範 囲では「1300年の諸規定」,1303年9月の仲裁裁定で言及された。これに対して参事会員選出の権限 は確かに「1300年の諸規定」で「大司教の同意なしに」都市側から主張されるが,この点は1303年仲 裁裁定の時点で既に「大司教の同意のもと,一致して」と修正され,1304年の時点では言及されずに

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都市の自律性はなぜ主張されるのか「1300年の諸規定」をめぐる都市コブレンツの位置(古川)  91 終わった。

大司教パインリヒ・フォン・フィンスティンゲンの治世より,ディ一夕一にいたるまで,都市の外 敵からの防衛の問題が,この時期には焦眉の点であり,参事会員選出もまた平和と調和の確立という 点において,関連していた。これは1300年夏の時点では,対国王問題というよりも,コブレンツ近傍

に領地をもつナッサウ家と,コブレンツ周辺のミニステリアール諸家門との緊張関係にその淵源を持っ ていると見ることができるだろう。

さらにアルブレヒト軍の脅威が去った1302年冬以降になると,参事会の問題はもはや語られなくな る。もちろんこのことは,1300年以降参事会員として名を連ねていた指導者層が排除されることを意 味しない。確かに1303年9月の時点で参事会の解散が語られ,1304年5月の時点では多くの市民の中 に参事会員を名乗る者は存在しない。参事会の名が言及されないことをもって参事会制度が一度廃滅 させられたと理解することは可能である。

しかし1283年に追放された者,1300年に参事会員と名乗?亘考たちは,1即4年の時点でも変ノわらず に都市の指導者としての地位を占めていることが,資料の中から読み取れる。1304年文書の中にその 名を欠いているヘルフェンシュタインのヘルたちも,決してトリアー大司教に指導されるコブレンツ 周辺の政治関係から排除されなかったことは,わずか後にヘルフェンシュタイン家の後裔たちが大司 教の職務を預かる例が多く見えることからも明らかである。

このことから,コブレンツという都市共同体は,1300年前後の政治状況を反映して不安定になって いたものの,大司教ディークーとの関係を断絶することはなかったと言える。ディークーはコブレン ツに対する自身の支配を保ち続け,国王という脅威が去るとともに再びその手綱を握りなおすことに 成功したと評価することができる。

「1300年の諸規定」はしたがって,非常時体制について言及する性格を備えていると見ることがで きる。コプレンツにおいて,参事会の名はすでに1276年8月5日に示されている78こと,同様の制度 が1282年4月24日付の文書から推測されること79からも,1300年がコブレンツにおける参事会の初出 とはいえない。また1300年に参事会員として名の挙げられた者の多くが,1304年文書で都市指導層と

して名を連ねているという点は,たとえ彼らが今や参事会員と名乗り得ないのだとしても,コプレン ツ市政にとって,参事会制度がこの時点で継続的に存続したと証明される制度とは言えないことを示

している。参事会への言及頻度の少なさは,13世紀後半のコブレンツに限定する限り,恒常的な性格 を持つというよりも,危急の際に打ち立てられる非常時体制としての性格を示唆している。1303年文 書で言及されていた参事会制度が,確かに当時の参事会員の放職という文脈で語られ,1304年文書に おいて制度としての参事会が語られていないことから,コブレンツ市史の研究者は参事会制度の廃止 という解釈を引き出した。しかし,14世紀前半の史料の少なさという問題を考慮に入れる限り,制度 の恒常性という問題に最終的な解決を与えることはできない。1303年文書に示されるように,コブレ

ンツ参事会はこの時点では「大司教の同意を得て」はじめて成立する性格のものだった。言い換える ならば,この 制限 を都市側が受け入れて初めて,コプレンツ都市参事会制の恒常性の萌芽を見出

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92  都市の自律性はなぜ主張されるのか「1300年の諸規定」をめぐる都市コブレンツの位置(古川)

だせる,と結論づけることができる。14世紀前半には,確かに恒常的な都市参事会制度の確立を裏付 ける史料を見出すことができる80。

[注]

1古川誠之「中世都市コプレンツにおける「1300年の諸規定」」『西洋史論叢』25,2003年,23−34頁。

2 Hermann Conrad,Stadtgemeinde und Stadtfriedenin Koblenz w丘hrend des13.und14.Jahrhunderts.in:

Zeitschrtftde7 Sauigny−StytungjbrRechtsgeschichte.GermanischeAbteilung58,1938,S.337−366.引用はS.346.

3 さしあたりH・プラーニッツ『[改訳版]中世都市成立論』鯖田豊之(訳),未来社,1995年を参照。

4 Conrad,Stadtgemeinde und Stadtfrieden,S.338.

5 櫻井利夫「中世都市コープレンツにおける都市ゲマインデと都市君主制(一)」『法学(東北大)』50−2,1986年,1221167 貢。引用は131貢。

6 古川「1300年の諸規定」,31頁。

7 KlausEiler,Stad舟eiheitundLandesherT・SChqftinKoblenz.Wiesbaden1980,S.120.

8 ヴェッテラウの国王都市についてはMichaelaKrissl,K6nigAlbrechtI.unddieReichsstadteamMittelrheinund

inderWetterau・in=JahrbuchfilrwestdeutscheLandesgeschichte16,1990,S.175−197.

9 中世都市成立論における都市印章の役割については,古川「中世都市イメージの出現‥中部ライン流域における都市印章」

『早稲田大学教育学部 学禰研究(外国語ト外国文学編)』−弘一′2006年,79−92甘;同十ミメーナスとしての都市印章と中世 都市の『出現』」『早稲田大学教育学会紀要』8,2007年,176−183貢。

10 このような長期の過程としての中世都市成立論に関し,GeorgFriedrichB6hn,RandbemerkungenzurEntstehung derKoblenzerStadtgemeinde・in:JahrbuchjurwestdeutscheLandesgeschichte19,1993,S.137−151.ここではS.146.

11国王選挙のプロセスについて・AminWolf,DieEnstehungdesKu埴rstenhollegs11981298,2,Aufl.,Idstein2000;

A・ヴォルフ「選帝侯団の成立」比較法史学会(編)『歴史と社会のなかの法:比較法史研究2』1993年,178−219頁。またケ ルン大司教ジークフリートとアドルフの姻戚関係について,以下の文献を参照o Franz−RainerErkens,Siegかieduon WesterbuTg・Bonn1982;Ders・,TerritoriumundReichinPolitikundVorstellungdesK61nerErzbischofsSiegfried VOn Westerburg.in:NassauischeAnnalen94,1983,S,25r46.

12 以下,13世紀末のドイツ国王をめぐる政治状況については,以下の文献を参照。AloisGerlich,K6nigtum,rh。inisch。

KurftirstenundGrafeninderZeitAlbrechtsI・VOnHabsburg.in:FbstschriftfurFranzPetT3,,2.Bde.,Wiesbad。n 1986/87,Bd・2,S・25→88;UlfDirlmeier,GerhardFouquet,BerndFuhrmann,EurQPaim軸atTnittelalter1215−1378.

Mtinchen2003;アドルフ・フォン・ナッサウについて,EvamariaEngel,Adolfvon Nassau1292−1298.in:Deutsche K6nige undKaiserdesMittelalters・EberhardHoltz,EvamariaEngel(hrsg.),K6ln;Weimar;Wien1989,S.251−

257;Gerlich,AdolfvonNassau(1292−1298)・in:NassauischeAnnalenlO5,1994,S.17−78;Ders.,K6nigAdolfv。n Nassau・in:NassauischeAnnalenlO9,1998,S.1−72;アルブレヒトについて,Christine Reinle,AlbrechtI,(1298−

1308)・in:DiedeutschenHerrscherdesMittelalters・BerndSchneidmiillerupStefanWeinfurter(hrsg.),Mdnchen

2003.

13 ゲルハイムの戦いについてはKarinaKel1ermann,DieFragmentezurSchlacht beiG611heim・FrdheZeugnisse historischrpolitischerEreignisdichtung・in:Euphorion.Zeitschr的jilrLiteratuTgeSChichte83,1998,S.98−129.

1413世紀後半のドイツにおける地方教会の役割に関し,MartinKaufhold,加erregTuLTn.Darmstadt2002,S,107ff.ま た教皇と地方高位聖職者との関係について,FranZ−J・Felten,PapstlichePersonalpolitik?in:mStOrischeJahrbuch122,

2002,S.43−86.

墜 教皇の首位権について獲埠ノ千コー『テオ_クラシ「:中世や教会と権力』坂口昂書,_驚見誠一(訳),創文社,1985年を参 照。

16 この過程についてはR・W∴サザーン『西欧中世の社会と教会』上燦敏子(訳),八坂書房,2007年,175頁以下。

17 テキストとしてGestaTreuirorum・3Bde・,JohannesH.Wyttenbach,MichaelC.Miiller(hrsg.),Lintz1838.

18 Ebd.,Bd.2,S.184ff.

19 Ebd.,Bd.2,S.184.

201以下・1300年のトリアー大司教選出の過程については以下の文献を参照。Rudolf Holbach,Dietervon Nassau.in:

Rheinische Lebensbilder12,1991,S・69−90;Alexander Dominicus,Das Erzstift Trier unter Boemund von Warnesberg(1289−99)und Diethervon Nassau(1300−1307).in:Jahresberichtilberden Schulcursusl852A53an dem hbniglichen qymnasiu7n Zu Coblenz1853,S.3−40;Heinrich H.Sauerland,Der Trierer Erzbischof Dieterv。n NassauinseinenBeziehungenzurpapstlichenKurie・in:AnT lendesmstorischenVereinsfilrdenNiederrhein68,

1899,S.1153.

21th・hunden und Regesten zur Geschichte deT・RheiTuande aus deTn Vatihanischen AT・Chiv.7Bde.Heinrich

(15)

都市の自律性はなぜ主張されるのか「1300年の諸規定」をめぐる都市コプレンツの位置(古川) 93

H.Sauerland(hrsg.),Bd,l:Bonn1902,Nr.79.(以下,Urk・Vatikanと略記)

22 Ebd.,Nr.81.

23 Gesta77・eUiroT・uTn.Bd.2,S.184;Vgl.,Holbach,Dietervon Nassau,S・76f・

24 MariannePundt,Erzbischofund Stadtgemeindevom EndedesInvestiturstreitesbiszum AmtsantrittBalduins

(1122−1307).in:2000Jαhre TrieT・.Bd.2,TrieriTnMittelalteT・,Trier1996,S.289.

25 Holbach,Die Besetzung des Trierer Erzbischofsstuhlsim spaten Mittelalter・in:Archit)jilr Tnittelrheinische

∬ircゐe柁geSCんic短e35,1983,S・11−48・ここではS・22ff・

26Ingrid Bodsch,BuTg und Herrschqft:Zur Territorial−und Burgenpolitik der Erzbisch6fe von Trierim HochmittelalterbiszumTodDietersvonNassau(1307).Boppard1989,S.198f.;Vgl.Dominicus,DasErzstiftTrier unter Boemund von Warnesberg,S.29f.

27 Max B互r,【方触れde柁UndA短e花Zur Gesc/licl血derl布巾ssu柁g U花d Ver∽α短柁g der Sαd ∬0鋸enZ玩S2Ⅱm Jahre1500.Bonn1898,S.29ff.

28 Eiler,ぶαd妨e兢eね,S.124.

29 Max Bゑr,かUnde柁ⅡmdA如e花,S.29ff.

30 Bar,DerKoblenzerMauerbaLL:Rechnungenl276−1289.Leipzlg1888・

31JohannesN.Hontheim,mStOria rreuiT・enSisdiplomatica etpragmatica.3Bde・Augsburg1750・Bd・1,S・819・

32 B丘r,L補以柁den比和dA如e花,S.31f.

33 M。nuTnenta Germaniaemstorica.Constitutiones4,Nr.1188.(以下,MGHConst.と略記)

34 Bernhard Kreutz,StadtebilndeundStadteTWtZamMittelrheiniTn13・undl4・t7ahrhzLndeT=・TrierL2005ぅS・98・g−

35 MGH Const.4,Nr.109.

36 ライン都市同盟については,Ernst Voltmer,Der Rheinische Bund(1254−1256).in:PrqpterculturaTnPaCis・ DeT・

T・heinische Stadtebund z)On1254P6.Worms1986,S.117−143;Arno Buschmann,Der Rheinische Bund von1254 ̄

1257.in:KomTnunale Bilndnisse Oberitaliens und Oberdeutschlandsiml存Tgleich.Helmut maurer(hrsg.),

Sigmarlngen1987,S・16ト212・

37 以下,マインツ,ウォルムス,シュパイヤを中心とする都市同盟に関して,Kreutz,ぶたゐ加は柁de.中世ドイツ史におけ る都市同盟概念と,その国制史上の機能と意義については,Eva−Maria Distler,Stadtebiindeim deutschen馳atmittel−

alter,Frankfurt a,M.2006.

38 アルブレヒトはアドルフ側に立っていたウォルムスとシュパイヤに対し,先王までに与えられた諸特権を認めている。ウォ ルムスについてはHeinrich Boos,UT・hundenbuch derStadt WorTnS2Bd息,Berlin1886,Bd・1,Nr・488・シュパイヤに ついてはAlfredHilgard,thlhundenzurGeschichtederStadtSpqyer・Strassbourgl885,Nr・203・

39 ウォルムスについてBoos,UT・hundenbuchderStadt WorTnS,Bd.2,Nr・.4.シュパイヤについてHilgard,こけたundenzur Gescんic加e derSαd 劫秒er,Nr.209.

40 CodeェdiploTnaticus Rheno−Mosellanus.Urkundensammlung zur Geschichte der Rhein.und Mosell丘nde,der

Nahe−und Ahrgegend,und des Hunsrtickens,des Meinfeldes und derEifel,5Bde・Wilhelm Gilnther(hrsg・),

Koblenz1822−26.Bd.3,Nr.6.(以下,CDRMと略記)

41MGH Const.4,Nr.130.

42 MGH Const.4,Nr.128.

43 実際どの程度までこのアルブレヒトの行為が,ラントフリーデの観点に基づいていたのかについては論争がある。たとえ 都市自身がライン都市同盟の伝統に沿ってそのように行動したとしても,年代記から読み取れるアルブレヒトの行動規範か らは,そのような仮説を見出しにくい。対照的な解釈を提示しているのは,以下の文献である。Ulf Dirlmeier,

Mittelalterliche HoheitstT・agerim zL)irtschαルIichen Wettbewerb.Wiesbaden1966;Friedrich Pfeiffer,Rheinische Trqnsitz∂lleiTnMttelalter.Berlin1997,いずれにせよ,実利的か名目的かといった問題を保留した上で,アルブレヒト の政策が中部ライン諸都市を彼の側にひきつける要因を生んだと見ることは可能である。

44 MGH Const.4,Nr.134.

45 Pfeiffer,Rheinische Transitz6lle,S.471,

46 DieRegestenderErzbischEifevoTnK6lnimMittelalter.Bd・4,WilhelmKisky(bearb・),Bonn1915,Nr・147・

47 MGH Const.4,Nr,1162.

48 Ebd.,S.446ff.

49 Reinle,AlbrechtI.,S,375f.

50 Holbach,Diet,er VOn Nassau,S.72.

51Urk,Vatikan,1,Nr.85,88,89.

52 Boos,tかhzLndenbuchdeT・Stadt WorTnS,Bd.1,NrA53;Vgl.RudolfSteffens,DasStadtebiindniszwischenMainz,

Worms undSpeyer.in:Zeitschriftjilrdie Geschichtedes OberrheinsNF.142,1994,S・59−82・

(16)

94  都市の自律性はなぜ主張されるのか「1300年の諸規定」をめぐる都市コブレンツの位置(古川)

53 このような規定が含まれた契機を,クロイツは1293年当時のウォルムス市とウォルムス司教の緊張関係に見ている。

Kreutz・Stadteb血dnis,S・92f・ウォルムス市史については GeschichtederStadtⅥもrms.Gerold B6nnen(hrsg.),

Worms2005.

54 B且r,とかゐU柁de柁U柁dA短e71,S.32f.

55 CDRM3,Nr.5.

56 AdamGoerz,RegestenderErzbisch的zu771ieruonHettibisJohannlL814−1503.NeudruCkAalen1984,S.62;

Vg1,,Sauerland,DerTrierer Erzbischof Dieter von Nassau,S.23f.

57 Vgl・Pundt,Erzbischofund Stadtgemeinde,S.292;Holbach,DietervonNassau,S.81.

58 Hontheim,HistoTlia77・eUiT・enSis,Bd.2,S,27.

59 Gerlich,K6nigtum,S.28ff.

60 Marte Prietzel,Das肋iligeR6mischeReichiTn劫atTnittelalter.Darmstadt2004,S.39.

61MGH Const.4,Nr.137,138,139.

62 Noua Alammaniae・Urkunden,Briefe und andere Quellen besonders zur deutschen Geschichte des14,

Jahrhunderts.Edmund E.Stengel(hrsg.),1H邑Ifte,Berlin1921,Nr.51.

63 Kreutz,Stadtebundnis,S.100.

64 MGH Const.4,Nr.141.

65 Gerlich,K6nigtum,rheinischeKur錆rstenund Grafen,S.30f,bes,Anm.28.

66 Hilgard,Urhundenzur GeschichtederStadt劫qyer,Nr.216.

67  ̄MGH Const.′4,Nr二155∴

68 MGH Const・4,Nr・151.マインツ大司教は10月23日付,ケルン及びトリアー大司教は11月9日付。

69 Pfeiffer,Rheinische ナansitzblle,S.459.

70 Reinle,AlbrechtI.,S.376.

71Goerz,月塔eSとen derErZb云sc九的ZⅡ7ナier,S.62.

72 B邑r,〔存短胱短日肌dA紘勒S・33f・中世における紛争,裁判,仲裁の問題は,近年あらためて注目されている重要な問 題群である。ここでは参考文献として,邦語文献を挙げるにとどめる。服部艮久「中世ヨーロッパにおける紛争と紛争解釈」

『史学雑誌』113−3,2004年,60−82頁。山内進「紛争と訴訟:同意は法律に,和解は判決に勝る」歴史学研究会(編)『紛争 と訴訟の文化史』青木書店,2000年,3−33亘。服部艮久(編訳)『紛争のなかのヨーロッパ中世』京都大学学術出版会,2006 年。

73 Fritz Michel,Die Geschichte derStadt KoblenziTn Mittelalter・Trautheim1963,S.111f.;Holbach,Dieter von Nassau,S,82ff.

74 B邑r,こ存ゐU柁de柁㍑花dA短en,S.37.

75 B邑r,こ存ゐⅡ柁de柁UndA如e花,S.38.

76 櫻井「中世都市コープレンツ(一)」291貢。

77 Eiler,Stad舟eiheit undLandesherrschqft,S.124.

78 UrhundenbuchdesDeutschen Ordens,Johannes H.Hennes(hrsg.),Bd.2,Mainz1861,Nr.240.

79 Eiler,Stad舟eiheit undLandesheTTSChqft,S.124.

80 EmilSchaus,Ein Koblenzer Ratsbuch ausdem14・Jahrhundert・in:RheinischeHeimatblatter5,1928,S.500−

502;Vgl・Thea Buyken,Herman Conrad,Die邑ltesten Stadtbiicher von Koblenz.in:Zeitschr的derScwigny−

StUtungjiirReehtsgeschichte.GermanischeAbteilung59,1939,S.165−193.

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