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東 欧 革 命 と 「開 発 独 裁 」 体 制 の 終 末

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(1)

論 説

東 欧 革 命 と ﹁開 発 独 裁 ﹂ 体 制 の 終 末

中 村 平 八

33

はじめに

硝九八九年は︑現存社会主義国にとって画期的な年になった︒時あたかも︑イギリス革命﹁権利の章典﹂三〇〇周

年︑フラソス革命二〇〇周年にあたる︒ブルジョア民主主義権力よりも高度な権力と言われる社会主義権力のもとで︑

ソ連は七〇年余︑中国︑東欧諸国は四〇年余ものあいだ︑人類の理想とされる﹁社会主義﹂を実現するために努力し

てきた︒しかし結果はどうであったのか︒現実に存在するソ連︑中国︑東欧の社会主義は︑﹁生存の自由﹂では一定

の前進をかち得たものの︑近代ヨーロッパ革命が提起した一連の問題︑とりわけ市民的自由と民主主義の点で︑ブル

ジョア民主主義よりも劣っていることを暴露した︒一九八九年六月︑中国青年学生の民主化を求める天安門事件は敗

北した︒だが同じ年︑東欧の勤労市民は︑共産党の﹁開発独裁﹂体制に反対し︑民主主義革命に勝利した︒東欧革命

の影響のもとに︑一九九〇年三月︑ソ連では︑共産党独裁体制に終止符を打ち︑複数政党制に道を開く大統領制が導

入され︑ゴルバチョフが初代大統領に選出された︒

(2)

一九八九年の夏から冬にかけて︑ポーランド︑ハソガリー︑東ドイツ︑チェコスロバキア︑ブルガリア︑ルーマニ

アで︑あいついで共産党政権が崩壊し︑一党独裁体制に終止符が打たれた︒文字どおりこれは革命であった︒この革

命の影響をうけて︑ユーゴスラビアにおける共産主義者同盟の一党支配体制も︑ほころび始めた︒東欧社会主義八力

国のうちで︑今回の東欧革命の圏外におかれたのは︑鎖国体制をとるアルバニア一国のみである︒特に注目したいの

は︑今回の東欧革命が︑ルーマニァを例外として︑無血の平和革命であったことである︒革命の性格は民主主義革命

(1)であり︑革命の担い手は勤労市民であった︒勝利したのは勤労市民だから︑東欧市民革命と呼んでもよい︒

東 欧 革 命 と ﹁ 開 発 独 裁 ﹂ 体 制 の 終 末

東欧革命の国際的背景東欧革命の勝利を考える上で︑米ソ両大国の動向を無視することばできない︒もしソ連が

軍事介入したならば︑東欧革命は流血のうちに流産したであろう︒またアメリカ合衆国の軍事介入のおそれがあった

ならぽ︑ソ連は確実に東欧革命に軍事介入したであろう︒米ソの不介入が︑東欧革命の勝利を可能ならしめたのであ

る︒今日の米ソ両国は︑依然として大国であるが︑世界の憲兵であった昔日の面影はなく︑東欧革命のような世界史

的大革命に軍事介入する力はなくなったのである︒

東欧に社会主義政権ができたのは︑第二次世界大戦(一九三九‑一九四五)におけるドイツの敗北と密接に関連して

おり︑ドイッからの東欧の解放にあたっては︑ソ連軍の力が大きな役割を果たした︒ソ連は︑第二次世界大戦後のヤ

ルタ体制のもとで︑アメリカの明示的あるいは黙示的了解を得て︑東欧を自国の勢力圏として支配しつづけることが

できた︒こうして︑いわばソ連の占領地域にソ連型社会主義のミニチュアとして生みだされたのが︑東欧の社会主義

であった︒東欧諸国は︑軍事的にはワルシャワ条約機構(友好協力相互援助条約︑一九五五年締結)︑経済的にはコメコ

(3)

東 欧 革 命 と 「開 発 独裁 」 体 制 の終 末 35

ソ(経済相互援助会議︑一九四九年発足)に組み込まれ︑事実上︑ソ連の支配下におかれてきた︒

東欧諸国は︑ソ連の意向にそわない内政外交政策を行うことは許されず︑もし自主独立の政策を行おうとすれば︑

ソ連の直接あるいは間接の影響力行使によって︑その試みは潰されてきた︒たとえば︑一九四八年のユーゴスラビア

﹁破門﹂︑東欧諸国におけるチトー主義者の追放︑同じ年のチェコスロバキア政変︑一九四九年のドイッの東西分裂︑

一九五六年のポーラソド﹁人民蜂起﹂︑ハソガリーの反ソ﹁人民蜂起﹂︑一九六八年の﹁プラハの春(チェコスロバキ

(2)ア)﹂への軍事介入︑一九八一年のポーラソドの戒厳令施行には︑いずれもソ連が直﹁接に関与していた︒

ソ連で進行中のペレストロイヵは︑対外政策においていちじるしい︒ソ連は︑アメリカとの軍事対決を止め︑和解

と協力の道を模索しはじめている︒対東欧政策では︑一九六八年のチェコスロバキァ改革運動への軍事介入を正当化

するために発明されたブレジネフ・ドクトリン(制限主権論)東欧諸国は制限された主権しかもち得ないー1は︑放

棄された︒これこそ︑東欧革命を平和裡に成就させた決定的な国際的条件であった︒蛇足であるが︑一九八九年一二

月︑遅きに失したがソ連政府は︑チェコスロバキアへの軍事介入を﹁誤り﹂であったとする公式声明を発表している︒

東欧革命の国内的背景ユーゴスラビアとアルバニァを除く東欧社会主義国では︑建国時から東欧革命まで︑ソ連

の大国主義的介入に加えて︑ソ連に迎合する小型スターリソ主義が支配しつづけ︑いわゆるスターリソ型社会主義

(途上国型社会主義)が︑一九八九年の東欧革命まで存続した︒ソ連の介入を排した自主管理社会主義の国ユーゴスラ

ビアも︑共産主義者同盟の一党支配の国であり︑またソ連に反旗をひるがえしたアルバニアも︑実質的にはスターリ

ソ型社会主義の国であって︑広い意味では︑共産党の﹁開発独裁﹂体制を特徴とする途上国型社会主義の国であった︒

そのスターリン型社会主義が︑東欧各国の勤労市民によって徹底的に批判され︑その政治経済体制をつくる上で大

きなカをふるってきた共産党政権は︑東欧革命によって打倒されたのである︒東欧革命は︑政治的には︑共産党の一

(4)

党独裁体制を廃して民主化を進め︑複数政党制と政権交代制︑つまり議会制民主主義の実現を目指している︒経済的

には︑中央集権的統制経済制度を廃止し︑制限された市場経済制度(民①σ・爵邑屋H犀雲︒88日団︒︒団︒・冨日)への移行を目指

している︒現在進行中の東欧革命の背後には︑ソ連支配に対する勤労市民の反発︑市民的自由の抑圧に対する抵抗︑

共産党政権の腐敗に対する憤激︑経済・科学技術の停滞と市民生活の窮追に対する抗議があった︒

共産党独裁体制の長期化と腐敗東欧社会主義国に共通した政治体制の特微は︑第一に共産党﹁開発独裁﹂体制が

しかれたこと︑第二に共産党政権が長期永久政権として君臨し︑腐敗が進行したこと︑第三に共産党政権批判の自由

が欠如していたこと︑の三点である︒

第一の特徴であるが︑東欧ではソ連の政治制度にならって︑共産党独裁体制がしかれ︑事実上︑共産党以外の政党

の存在は許されなかった︒共産党以外に政党のようなものが存在した国もあるが︑いずれも翼賛政党であり︑政権交

代を要求する野党の存在は許されなかった︒立法府としての国会(議会)は形骸化され︑国会も︑国会議員も︑権限

らしい権限はもっていなかった︒国会議員選挙もおざなりで︑議員はすべて︑共産党員か共産党の同調者であった︒

執行府としての政府は︑共産党政府であり︑共産党が決めた政策が政府の政策であった︒党と政府は癒着しており︑

党の最高指導者である書記長あるいは総書記の類いがその国の最高指導者であった︒司法府の独立も明確でなく︑党

の権威が優先し︑違憲立法審査権︑法治主義︑法の下の平等もないがしろにされた︒

東欧諸国は︑ソ連にならって︑憲法に﹁共産党の指導性﹂規定をもりこみ︑この規定を︑共産党の権力独占︑絶対

的支配の根拠としてきた︒国の内外政策や基本方針︑政府や主要企業の人事︑経済活動など全般にわたって︑共産党

の意志︑指導が優先した︒しかし︑今回の東欧民主主義革命で︑勤労市民の共産党批判は極限に達し︑憲法の﹁共産

党の指導性﹂規定は︑ハソガリー︑チェコスロバキァ︑ポーラソド︑東ドイツ︑ブルガリア︑ルーマニアで︑放棄さ

(5)

東 欧 革命 とr開 発 独 裁」 体 制 の終 末 37

れるか削除されるにいたった(周辺革命の影響をうけ︑テゴスラピア・蓮もこの規定を削髄・

第二の特徴は︑共産党政権が長期永久政権として存続し︑腐敗したことである︒﹁権力は腐敗する︑絶対的権力は

絶対に腐敗する﹂という格言があるが︑一党独裁体制をしく共産党政権の場合も例外ではない︒共産党のピラミッド

型タテ割り権力組織に対応したコネとワィロの政治経済システムができあがり︑コネ次第︑ワイロ次第で公的政策が

ねじまげられ︑構造的腐敗が蔓延した︒今回の東欧革命では︑共産党幹部の不正腐敗が批判され︑ルーマニアではチ

ャウシェスク書記長一族の︑東ドイツではホーネッカー書記長らの贅沢な生活が暴露された︒共産党11政府幹部の子

女の裏口入学︑裏口留学︑裏口就職︑コネ昇進は公然の秘密であり︑幹部用特別店舗があり︑住宅や乗用車の優先的

(4)入手もある︒

専制的抑圧者に対する勤労市民の不満は爆発し︑たとえば︑チャゥシェスク大統領夫妻は処刑され︑彼の私党のご

とき存在に堕落し︑勤労市民を弾圧してきた旧ルーマニア共産党(革命前の党員数三七一万人)は︑離党者があいつぎ︑

消滅した︒ルーマニア以外の東欧の共産党でも離党者があいつぎ︑解党の危機に直面している︒それぞれの共産党は・

一党独裁を放棄し(放棄させられ)︑特権を失い(奪われ)︑諸政党の一つとして活動することになった︒動労市民の支

持を失った共産党の前途はきびしい︒

ハンガリー社会主義労働者党(共産党)は︑臨時党大会を開き︑新綱領を採択し︑社会党と党名を変え︑民主主義

的社会主義の実現をめざすことになった︒ドイツ社会主義統一党(共産党)は︑臨時党大会を開き︑民主社会党に改

名し︑再出発した︒ポーランド統一労働党は︑党解散大会を開き︑あらたに﹁ポーランド共和国社会民主主義﹂を結

成した︒チェコスロバキア共産党は︑臨時党大会を開き︑民衆抑圧政策を自己批判し︑指導部を一新するとともに・

新行動綱領を採択した︒ブルガリア共産党は︑党名を社会党に変え︑選挙法改正に賛成し︑自由選挙で国民の信を問

(6)

うことになった︒ルーマニアの勤労市民は︑旧共産党員から成る救国戦線評議会政府に対して疑念をいだき︑いわゆ

る﹁自由選挙﹂によるルーマニア共産党権力の復活に反対している︒

第三に・市民的自由︑情報の公開︑民主主義の欠如︑つまり勤労市民の共産党政権批判の自由の欠如が︑東欧社会

主義に共通の特徴であった︒共産党政権を批判する野党︑政権交代をせまる野党が存在しなかった現存社会主義国で

は・共産党内部の相互批判と︑世論を代表するマスコミの共産党政権批判が重要な意味をもつ︒しかし実状は︑共産

党内部の相互批判にも︑マスコミにも期待できなかった︒

﹁下級は上級に従う﹂︑﹁少数は多数に従う﹂︑﹁地方は中央に従う﹂︑﹁民主集中制﹂という党規約のもとで︑共産党

内部の民主主義は衰弱し︑共産党の官僚制化が進み︑一般党員︑とりわけ党機関の専従党員は︑批判的精神を失い︑

自己保身のことなかれ主義に流されてしまった︒﹁書記長←政治局(幹部会)←中央委員会←地方委員会←市委員会←

地区委員会←支部委員会←支部﹂というピラミッド構造の党組織では︑上意下達が普通となり︑一般党員の幹部批判︑

下部機関の上部機関批判は︑困難になる︒幹部の選出︑交代の方法も曖昧であり︑人事はよどむ︒密室のなかで再選

に再選を重ね︑十年︑二十年︑三十年も要職︑たとえば書記長の座に居座る人物が現れる︒正当な批判者が弾圧され

たり︑職を失う︒共産党の政策や方針に反対したがために︑収容所や刑務所︑精神病院に送られる︑といったことが

起こる︒だいたい︑共産党内部の相互批判や自浄作用が常時適切に機能していたならぽ︑今回の東欧革命など起こら

なかったし︑不必要であった︒

テレビや新聞といったマスコミの政治批判については︑どうだろうか︒=高でいってまったく期待できない︒マス

コミ組織にも中央に直結する共産党支部があり︑要所要所には共産党の幹部がいる︒彼らは︑時の共産党政権の内外

政策や方針に対する正当な批判︑共産党・政府幹部の不正や腐敗の当然の暴露を許さないのである︒なぜそんなこと

(7)

東 欧 革 命 と 「開 発 独 裁」 体 制 の終 末 39

をするのか︒それは︑﹁共産党無謬論という神話を守るためである︒情報の公開︑言論の自由という点で・現存社会主義国は決定的に遅れていた︒

ペレスよイカのもとでのソ連︑今回のような東欧革命の際には︑権力の統禦ゆるんだため・マζミの報道は

かなりの程度自由化され︑曇自論の畠と情報の公開が蒔的にみられた︒しかし︑蓮のス字リン批判・中国の毛

沢東批判︑東ドイッのホーネッ空批判︑チェ員﹃ハキアのフマク批判︑ハンガリゐ多ル批判・ブルガリアのジフコフ批判︑ル←ニアのチャウシ︑スク批判︑朝鮮の金日成批判など雇に指導者批判は・同時代に行われて

︑﹂そ意義がある︒彼らの死後や失脚後︑引退後に︑いくら大々的に批判が行われたとしても・その政治的現実的意義

は減殺されざるを得ない︒結論的に菅︑って︑東欧の勤労市屡︑共産党の一党独裁体制に反対し・市民的畠と民主

主義の実現のために立ちあがったのである︒東欧革命は︑文字通り︑市民の民主主義革命であった︒

東欧の経済的破綻

東欧各国に連鎖的民主革命をもたらした有力な原因の;は︑東欧経済を律してきた中央集権的﹁計画﹂経済の破

綻である︒今後建設してゆく新しい政治制度の成否もまた︑それを支える新しい経蒲度の馨に依存している・社

会主義国でもっとも長い歴史をもつのはソ連である︒その蓮三九八九年夏︑クズバ羨鉱労讐+万人のストライキが起.﹂った︒労働者は︑体を洗うタオル碧鹸︑作響や洗剤︑夜勤労働者の食事の不足を訴え・これで協け

ない︑政府は至急︑物不足を解決せよ︑と要求した︒

物不足はクズバスにかぎらない︒西側から洗剤やパソストを緊急輸入した︑というモスクワ発の二→スが日本の新聞に嚢されたりする︒ソ連の物不足に叢される経済的困離︑東馨国に共通する経済的困難でもある・たと

(8)

えぽルーマニアでは︑西側への債務返済のため︑国民が必要とする食糧品まで西側に輸出するという飢餓輸出を強行

して・二三〇〇万人国民を苦しめた︒ポーラソドやユーゴスラビアでは︑イソフレーショソが荒れ狂い︑一年間に物

価が何倍・何十倍にも上昇し︑低所得階層や年金生活者を直撃している︒チェコスロバキアやブルガリアの工業製品

や農産物は︑国際競争力を失った︒東ドイツやハソガリーの経済も︑一九八〇年代後半に入って急速に悪化し︑ゼロ

成長に近づいてしまった︒ソ連・東欧圏では︑生活水準の向上どころか低下.悪化が現実化した︒

経済成長率の急激な低下︑国家財政の赤字︑貿易収支の赤字︑累積債務の返済不能と国際信用の失墜︑陳腐化した

産業構造・経済不均衡の深化︑経済効率と競争力の低下︑勤労意欲の低下︑賃金水準の凍結︑イソフレと物価騰貴︑

物不足︑市民生活の困難︒こうして革命の年一九八九年に︑東欧各国の経済は︑積年の弊害を噴出し︑完全な機能不

全におちいってしまったのである︒

国家統制経済制度の破綻ソ連にならって東欧各国は︑中央集権的﹁計画﹂経済制度を採用してきた︒端的に言っ

てソ連型の﹁開発独裁﹂社会主義の経済管理システムは︑①すべての国有企業と集団農場に対して︑政府が上から計

画課題を与え︑それに見合った設備機械︑原料︑エネルギーなどの供給を政府が保障する︑②国有企業と集団農場は︑

その生産物を政府に納入し︑計画課題の遂行実績によって評価される︑というシステムであった︒市民の消費経済を

みると・政府は賃金総額を計算して決定し︑市民消費財の生産は政府の﹁計画﹂にもとついて行われ︑主として国営

商業網を通じて販売された︒

公式には私企業が廃止され︑市場が消滅した国営経済体制のもとでは︑国家計画委員会をはじめ中央の経済関係官

庁は︑資金・資源・労働力の配分権をもち︑各種の許認可権を独占して絶大な権限を傘下の企業にふるってきた︒行

政的で官僚的な経済管理システムが︑国民経済や企業を動かしてきたのである︒管理者と労働者.職員の分断化︑労

(9)

41東 欧 革 命 と 「開発 独 裁」 体 制 の 終末

図1ヨ ー ロ ッパ経済圏地 図

嚇 スランド

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[皿EFTA加 盟 国 圏 コ メ コ ン加 盟 国

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表1ヨ ー ロ ツ パ 経 済 圏(1988年)

lGNP(GDP)億 ドル

E C

EFTA

東 欧6力 国 合計(大 欧 州)

47,400 s,700 9,500

口(万 人)

32,304 s,Zoo 12,200

63.600 47,700

(参考)

日 本

米 国

ソ 連

中 国

2s,600 48,800 a5,400

3:840

1

12,000

1

24,200

27,800 104,000

(出 所:IFS統 計,国 連 統 計 年 鑑 よ り 作 成)

EC12力 … … 西 ドイ ツ,フ ラ ン ス,イ ギ リ ス,イ タ リ ア,オ ラ ン ダ,ベ ル ギ ー ル ク セ ソ ブ ル ク,デ ン マ ー ク,ア イ ル ラ ン ド,ギ

リ シ ヤ,ス ペ イ ソ,ポ ル トガ ル

EFTA6ヵ 国 … … ス ウ 晶 一 デ ン,ノ ル ウ 呂 一 フ ィ ソ ヲ ソ ド,ア イ ス ラ ソ ド,オ ー ス ト リ ア,ス イ ス

(10)

表2東 欧諸国 の経 済力比較(1990年)

国 名

東 ド イ ツ

チ ェ コ ス ロ バ キ ア

ポ ー ラ ソ ド

人 口(

万 人)

1,664 1,557 3,766

一 ソ ガ リ ー11・ ・6・

ノレ

ブ ル

一 マ ニ ア

ガ リ ア

東 欧6力 国 合 計

面 積(

1,000kma) cos 128 313 93

2,294 238

897 11,239

111 991

GNP (億 ドル)

2,072 1,582 2,763

1,513 s7s 9,524

一 人 当 た り GNP(ド ル)

12,480 10,X40 7,270 8,660 5,490

?,510 平 均8,474

加盟 状況 ガ ッ トIMF

X X

0 D

0 0

0 0

0 0

● O

(参考)

ユ ー ゴ ス ラ ビ ア1島342i ソ

25611,541

6,530Q

連12&3・ ・122,4・2125,353

V

&85・1● O

(出 所:CIA,HandbookofEconomicStatistics,1989よ り作 成)

ガ ッ ト,IMF加 盟 状 況 … … ○ 加 盟,x未 加 盟,△ 申 請 中,● オ ブ ザ ー バ 参 加

図2ソ 連 ・東 欧 と 日米 欧 の 貿 易 (88年の 輸 出額,単 位:億 ドル)

377sa3

(う ち 西 欧147)

ユ99

(出 所:OECD統 計 よ り作 成)

(11)

43東 欧 革 命 と 「開 発 独 裁」体 制 の終 宋

表 き ソ連 ・東欧の対西側 債務 (億 ドル)

81 82 83 84 85 86 87 88

ソ 連(総 債 務)

(D.S.R.%)

265 22

267 19

23fi 14

225 15

280 19

331 22

ss7 23

380 21 東 ドイツ (総 債 務)154130122113144157199200

(D.S・R・%)7567464141495262

ポ ー ラ ソ ド (総 債 務)259265266269298336393373 σ)S・R・%)1631731319581546868 チ ェ コ ス ロ バ キ ア(総 債 務)

(D,S,R.%)

464036313543 ].?12012011?11?11?

54f57 19116

ハ ン ガ リー (総 債 務)

(D.S.R./)

87180f83188111?115111771168 4ZI36135146153159147152

ル ー マ ニ ア (総 債 務)10298897266656040 (D.S.R.%)3646352527282922 ブ ル ガ リア (総 債 務)

(D.S.R,%)

32130125122(37 ziz42ilis(i5

ユ ー ゴ ス ラ ビ ア(総 債 務)168 (D・S.R.%)4

51163f73 32i32136 1781195

1213

(出 所:OECD,FinancialMarketTrends,Na42,1988,WorldDebtTables,1988‑89年 版 よ り 作 成,88年 数 字 は 予 測)

D・S.R.(%)黙(元 利 返 済 額 ÷ 財 輸 出 額)x100

裏4賃 金 比較(1988年)

西

2.45 1.70 1.35 1.84 10.5fi I8.07 13.90 13.14 (出 所 言『欧 州 ・最 後 の 革 命 』 日本 経 済 新 聞 社,1990年 。 製 造 業 労 働 者 の 時 間 当 た り平 均 賃 金,単 位 ドル)

(12)

商 経 論 叢 第26巻 第1号 44

働者・職員内部の階層化が進み︑経済活動における人間的要因は軽視され︑勤労市民は員数視︑労働資源視されるに

いたった︒

朝令暮改の官僚的命令的経済管理システムのもとで︑企業の自主的活動は封じられ︑現場の管理者や労働者の勤労

意欲は低下した︒長年の﹁不足の経済﹂のもとで︑質よりも量を重視した経済活動があたりまえとなった︒企業間競

争や経営的刺激が欠けているため︑製品管理や品質向上︑新製品開発や技術革新︑コスト切り下げ︑生産性向上はお

ろそかになった︒設備機械などの生産財や︑衣料・家電製品などの消費財の品質は︑国際水準をいちじるしく下回っ

た︒国産品は粗悪品という評価が︑ソ連・東欧製品の別名となった︒

ソ連・東欧では︑生産財は配給制であるが︑納期・規格・数量が守られることは稀であった︒国営工業企業や建設

図3ソ 連 ・東 欧 の 生 活 水 準 (1>乗 用 車 台 数(1000人 当 た り,1986年) 9

209404

190

135121

105

4744

n

台珈

ユ00

0 西独皿

ル←ニア醐

ずランド獣

一9787

7773

一] 6663

㎏㎜

50

0 西

(注)ル ー マ ニ ア は 不 明

台(3)電 話 台 数(1000入 当 た り,1988年)451 200r190r‑,

ユ0

西

ル←ニア功

0

(13)

東 欧 革 命 と 「開発 独裁 」 体 制 の終 末 45

企業では︑膨大な労働力の浪費か行われている︒出勤しても仕事がないのである︒企業は計画課題の未達成を恐れて︑

生産財在庫の拡充につとめた︒生産財の闇市場が存在するようになった︒市民消費財はというと︑これまた製品の納

期.規格.数量が守られないために︑品不足や商品パニックが常態となった︒市民は買いだめで生活を防衛すること

(6)になる︒これがまた品不足や商品パニックを呼ぶ︒

ソ連.東欧の経済制度は︑﹁社会主義計画経済制度﹂と称されてきたが︑その内実は︑国家統制経済制度であった︒

このような国家統制経済制度の起源は︑第一世界大戦(一九一四i一八)の参戦国︑とりわけ当時のドイッの戦時経済

制度であった︒国家によって経済は統制され︑労働力や物資は軍隊と軍需産業に優先的に配分された︒食糧品などの

配給制度がしかれ︑人々は耐乏生活を強いられた︒ちなみに太平洋戦争(一九四一1四五)のときの日本経済もまた国

家統制経済であった︒国民経済の生産‑分配‑消費のシステムは︑政府の行政的命令によって運営された︒戦争に勝

利するための経済システム︑それが国家統制経済制度である︒

ソ連.東欧諸国は︑第二次世界大戦(一九三九‑四五)の戦場になったため︑戦後の主要課題は︑破壊された国民経

済の復興であった︒工業︑農業︑運輸通信などの復興のためには︑資源やエネルギーなどの物的手段や専門家・熟練

労働者が大量に必要であった︒しかしそれらの供給は限られていた︒そのため強力な権限をもつ国家が資源︑資金︑

労働力の配分権を独占し︑重点プロジェクトに優先的に配分するシステムは︑一定の合理性を有していた︒市場シス

テムにまかせておけぽ︑目先の利益を追って︑儲かる業種︑とりわけ闇市場に資金︑資源などが流れ︑国民経済の復

興テソポにブレーキがかかる︒資本主義︑社会主義の体制を問わず︑経済活動の目的が単純な戦時経済と戦後復興経

済の場合︑強弱の差はあれ︑政府主導の統制経済体制は有効であった︑

国家統制経済の生産関係は︑戦時および戦後経済復興段階︑あるいは途上国の工業化初期段階の生産関係として︑

(14)

肯定的意義をもつ︒道徳的批判は別として︑このような時期︑政治的独裁体制(開発独裁体制)を必要とすることも歴

史的事実である︒しかし︑社会的生産力が一定段階に達すると︑国家統制経済の生産関係は︑生産力発展にとって邪

魔となる︒政治経済体制の改革が日程にのぼる︒それは︑改革派と保守派との闘争の時代︑危機の時代の開幕を意味

する︒ソ連・東欧諸国は︑いずれも一九六〇年代にこの段階に到達した︒しかしソ連・東欧の保守派は︑根本的改革

を拒否し︑骨抜きし︑妨害した︒ソ連共産党の改革派は︑無為の二〇年をへて︑ペレスト胃イカで危機の時代をのり

きろうとしている︒東欧の保守派目共産党は︑命脈の尽きた国家統制経済制度と政治的独裁体制の保守をはかったた

め︑勤労市民によって︑歴史のくず籠に投げ捨てられてしまった︒

国家統制経済とレーニンの理論的誤り国家統制経済と社会主義経済とは︑理論的に別のものである︒両者を混同

する誤りは︑いつ始まったのであろうか︒現存社会主義の経済制度(と政治制度)の原型は︑スターリソ時代の一九三

〇年代に完成した︒このときから国家統制経済制度を社会主義経済制度とみなす見解が唯一絶対の教条となった︒ソ

連のみならず世界中にこの教条を信奉する社会主義者が輩出した︒おどろくなかれ︑この非科学的な教条が全面的に

批判され放棄されるのは︑ソ連でペレストロイカが本格化した一九八七年以後のことである︒

国家統制経済と社会主義経済とを同一視する誤りは︑レーニソ(一八七〇1一九二四)に発する︒レーニソは︑一九

一七年のロシア十月革命を勝利に導いた指導者として尊敬され︑その後のソ連の政治.経済.社会.学問.社会主義

理論に大きな影響を与えた人物である︒この人物の理論的誤りは︑現存社会主義の経済理論に重大な否定的影響を与

えることになった︒レーニンは︑第一次世界大戦の参戦国ドイツの戦時経済体制を﹁国家独占資本主義﹂と規定し︑

この体制と社会主義との差異を︑国家権力の差異︑すなわちブルジョア権力かプロレタリア権力かに求めた︒

いまここで詳説する余裕はないが︑レーニンの上記の理解は誤りである︒戦時統制経済あるいは﹁国家独占資本主

(15)

東欧革命と 「開発独裁」体制の終末 4?

義Lの時代︑国家の力︑すなわち国家権力を構成する政治家と高級官僚と資本家の三角形の力は・最強となる︒この

鉄の三角形を解体し︑民主的につくり変える困難な仕事が︑労働者階級の戦略的任務となる︒たとえ社会主義者の政

治集団が頂上の強襲に成功して︑国家権力の掌握に成功したとしても︑鉄の三角形が形を変えて残る︒社会主義を冠

した政治家︑高級官僚︑官僚経営者の三角形の力が再生し︑成長肥大する︒レーニン死後のスターリン時代のソ連が・

まさにそういう社会であった︒

レーニソは︑十月革命を勝利させ︑国政の担当者になったとき︑﹁国家独占資本主義﹂の戦時経済政策を︑ソ連の国

内戦時代に﹁共産主義﹂政策として実行した︒ソ連の﹁戦時共産主義﹂は三年足らずで破綻したのであるが・レーニ

ソには︑国家統制経済体制と﹁共産主義﹂との関係︑さらには政策転換後の﹁ネップ﹂との関係について︑理論的に総

括する時間がなかった︒理論的混乱を残したままレーニンは︑マルクスのもとに去ってしまった︒レーニソの誤りは・

スターリン(一八七九ー一九五三)によって倍加されて受け継がれ︑ソ連やその他の社会主義国に広められ︑国家統制

経済制度(その上部構造としての共産党独裁国家)を社会主義経済制度(社会主義国家)と強弁する理論的・実践的誤りが・

蓮のペレス占イカと東欧革命の発生までつづいたのである︒われわれは︑いまその是正過程を目撃して鹿・︑

東 欧 革 命 の 衝 撃 と ソ 連 の 大 統 領 制

一九九〇年三月︑ソ連に大統領が誕生した︒ソ連史における画期的事件である︒大統領制の導入を急いだ理由の一

つは︑共産党独裁政権を倒した東欧革命である︒初代大統領にはゴルバチョフ共産党書記長が就任した︒ソ連大統領

は︑国家元首として︑外交交渉を主導し︑ソ連軍最高総司令官を兼ね︑首相・閣僚の任免提案権︑議会を通過した法

案の拒否権をもち︑宣戦布告︑戒厳令︑非常事態を宣言することができる︒大統領は︑ソ連連邦会議を主宰し・大統

(16)

領会議で内政・外交︑国家安全保障の基本方針を決定する︒米仏の大統領に劣らぬ大きな権限をもつ大統領である︒

ゴルバチョフ政権が任期五年の強大な権限をもつ大統領制の導入に踏みきった理由は︑公式には︑﹁権威主義的で

官僚主義的な社会主義﹂に決別し︑﹁人間的で民主的な社会主義﹂に一刻も早く移行するためである︒具体的には︑

①書記長就任から五年をへても不振をつづける経済︑②わき上がる国民の民主化要求︑③バル上二国の分離独立要求︑

深刻化する民族紛争などの重大問題に︑迅速かつ効果的に対処するためである︒ペレストロイヵは︑外交面では大き

く前進したが︑内政面では成果に乏しく︑経済的困難が増幅している︒市民はこう質問している︒﹁教︑兄て下さい︑

食べものや衣服や石鹸など︑基本的な生活物資がこの国にまるでないことを︑党の指導者たちは知っているのです

大統領制の導入は︑九〇年二月の共産党拡大中央委員会総会で提起された︒同総会は︑﹁共産党の指導性﹂規定の

削除・大統領制導入︑政治局の廃止など党機構の大幅改革を盛りこんだ政治綱領を採択した︒それから一カ月余りで

憲法が改正され︑大統領制度を創設︑特例として第三回臨時人民代議員大会で初代大統領が選挙された︒余りにも性

急な大統領制の導入は︑共産党の一党支配︑主権在党を憲法上保障した﹁共産党の指導性﹂規定の放棄と密接に関連

する︒ゴルバチョフは︑共産党と国家︑共産党と政府とを組織的に分離することで︑共産党が国民から見離されて政

権の座から転落しても︑ゴルバチョフら改革派が国家権力を保持できる体制をつくったのである︒別の言葉で言・兄ば︑

ペレストロイカに反対する党内保守派に見切りをつけ︑党と国家︑政府とを分離し︑来るべき複数政党制時代ののり

きりを目指したのである︒

ゴルバチョフの脳裏には︑東欧各国における民主主義革命の急展開と︑共産党政権の崩壊が焼きついており︑東欧

の二の舞いをしてはならない︑との決断があった︒事実︑九〇年三月に行われた東ドイツ人民議会(国会)議員の初

(17)

東 欧革 命 と 「開発 独 裁 」体 制 の終 宋 49

の自由選挙で︑旧社会主義統一党u共産党系の民主社会党は第三党(四〇〇議席中六六議席)に転落︑第二党のキリス

ト教民主同盟(一六三議席)を中心とする保守系のドィッ連合が大勝し︑ドイッ統一をめざす保守中道政権が発足した︒

九〇年三月ー四月に行われた複数政党制下のハソガリi総選挙でも︑旧社会主義労働者党‑‑共産党系の社会党は第四

党(三八六議席中三一二議席)に転落︑第一党の民主フォーラム(一六五議席)を中心とする非共産党系連立政権が誕生し

た︒九〇年中に他の東欧諸国でも︑複数政党制のもとでの総選挙が予定されているが︑共産党が勝利することは不可

(11)能だとみられている︒

ソ連社会の成熟と複数政党制ソ連をはじめとする現存社会主義は︑南北問題の視点からいえば︑南の途上国型資本

主義(資本主義的途上国)と姉妹関係にある途上国型社会主義(社会主義的途上国)と呼ぶことができる︒たとえぽ資本主

義的途上国フィリピソのマルコス独裁体制は︑﹁開発独裁﹂の典型であったが︑それは︑ソ連のスターリソ独裁︑中国

(12)の毛沢東独裁︑ルーマニアのチャウシェスク独裁など社会主義的途上国の﹁開発独裁﹂と共通する特徴をもっていた︒

ソ連では︑スターリソ独裁体制が四半世紀もつづき︑そのもとで開発(工業化)政策が強行された︒払った代価は

大きかったが︑残された遺産も大きい︒その第一は︑教育の普及にもとつく市民社会の成熟である︒一九一七年のロ

シア十月革命当時︑ソ連は国民の大部分が文盲という教育後発国であった︒ソ連時代の七〇年間に︑国民の教育水準

は高くなった︒普通義務教育が普及し︑同世代の青年の三〇%以上が大学教育を受けるにいたった︒この水準はイギ

リスをしのいでいる︒

教育の普及は︑市民社会の成熟を意味する︒市民社会は︑独裁体制を嫌う︒万年政権党の共産党は︑思想・情報を

統制し︑市民に盲従を求める︒だが高い教育を受けた広汎な市民層は︑共産党政府の政策や宣伝を鵜のみにせず︑批

判的に受けとめる︒さらには批判の意志を表明し︑広く市民の支持を得るために政治活動にのりだす︒ここに共産党

(18)

以外の政党の成立基盤が生まれる︒他方で万年政権党の共産党の官僚制化と腐敗が進行する︒彼らは︑批判政党によ

って権力の座から追放されることを恐れる︒そこで﹁共産党の指導的役割﹂なる条項を憲法の規定に入れ(一九七七

年制定ソ連憲法第六条)︑一党独裁の法的根拠をつくる︒主権在党の﹁権威主義的で官僚主義的な社会主義﹂が出現す

る︒国家あって市民なしの国が社会主義社会だと強弁される︒当然︑共産党内部にも批判勢力が登場する︒党内外に

巨大な批判勢力のエネルギーが蓄積される︒共産党以外の政党の登場は時間の問題となる︒現在のソ連は︑まさにこ

のような段階に到達しているのである︒

バルト三国の独立問題ソ連が直面するさまざまな問題のうち︑国際的にみて民族問題のゆくえが最も注目される︒

ソ連政府がこの問題の処理を誤るならぽ︑重大な否定的影響を国際関係に与え︑米ソ対立︑冷戦時代に逆戻りしかね

ない︒ゴルバチョフは失脚し︑改革派と保守派の力関係も逆転するであろう︒現在ソ連にはグルジア︑アゼルバイジ

ャソ︑アルメニア︑モルダビア問題などがあるが︑バルト三国の独立問題が最も突出した係争問題になっている︒

リトアニア︑ラトビア︑エストニアといった聞きなれない小国の名前が︑ソ連民族問題と関連して最近盛んに登場

するようになった︒ソ連は名にしおう多民族国家であり︑一五の連邦構成共和国の結合した連邦国家である︒上記バ

ルト三国もソ連を構成する共和国である︒バルト三国の市民は︑八九年︑ソ連のペレストロイカと東欧革命に鼓舞さ

れて︑ソ連からの分離独立を要求する運動を展開し︑九〇年にはあいついで独立宣言を発表︑独立を要求してモスク

ワの中央政府と鋭く対立するにいたった︒

バルト三国の主張は︑﹁独ソ不可侵条約秘密追加議定書にもとつくバルト三国のソ連への併合は︑違法無効︒五〇

年間不法に併合されてきたが︑この状態を解消し︑一九四〇年の併合以前の状態を回復する﹂︒ソ連政府の主張は︑

﹁ソ連への加盟は合法有効だがバルト三国の離脱の権利を認める︒離脱は合法的に進められるべきである︒一方的独

(19)

東欧 革 命 と 「開発 独 裁 」 体制 の終 宋 51

立宣言を撤回し︑ソ連からの離脱手続きを定めた連邦離脱法(九〇年四月制定)に従えLである︒独立への動きは︑リ

トアニア(人旦二六四万人︑海外在住人口一〇〇万人)が先頭を切り︑エストニア(人口一五六万人)︑ラトビア(二六五万

(13)人)がこれを追っている︒

リトアニアを例にとると︑この国は一二〇年におよぶロシア帝国の支配︑五〇年におよぶソ連の支配をうけてきた︒

ラトビア︑エストニアもほぼ同じような歴史をたどった︒バルト三国の独立は早晩実現するであろう︒だが無理おし

は禁物である︒モスクワとバルト三国は︑冷静でねばり強い交渉を通じて︑独立の条件を整備し︑ソ連とバルト三国

との新しい国家間関係を築いていくべきである︒賢明な前例がある︒それは︑ソ連とフィソラソドとの国家間関係で

ある︒

発達した社会主義論議その後スターリソ主義的社会主義との決別が告げられるなかで︑現在のソ連社会主義をど

のように把握するかをめぐって︑百家争鳴の状態になった︒ブレジネフ時代にもてはやされた﹁発達した社会主義﹂

という規定は捨て去られ︑ペレスト百イヵ時代の現在︑﹁初期社会主義﹂(A・ボヴィン)︑﹁スターリン的な国家・行政

的社会主義﹂︑﹁兵営型の国家・行政的(国家.官僚主義的)社会主義﹂(A・ブテソコ)︑﹁兵営社会主義﹂(B・キセリョ

フ)︑﹁行政的・官僚主義的社会主義﹂︑﹁官僚主義的戦時体制的社会主義﹂(B・エリッイソ)︑﹁発展途上社会主義﹂︑﹁人

(14)間的で民主的な社会主義﹂(M.ゴルバチョフ)などの規定が用いられている︒

ソ連のある哲学者によれば︑ソ連では今日︑﹁"発達した社会主義"のタームはおおむね公式の政治的用語から消え

"発展途上社会主義"におきかえられた﹂という︒ゴルバチョフ書記長が冨ω︒ロ属田δ日憲$8長薗自ω竃(α㊦︿︒喜剛5αq︒︒甲

6凶巴δ目発展途上社会主義)という用語を使用することがあるので︑公式用語になったのであろうか︒ソ連社会科学の致

命的欠陥は︑時のソ連共産党指導者の意向にしたがって︑﹁理論﹂を発明してきたことである︒ソ連社会の現在の発

(20)

展段階を﹁発達した社会主義﹂として把握することが誤りであるとするならば︑その誤りを基礎理論にまでさかのぼ

って解明する必要がある︒発達した社会主義という﹁そんな概念は最初から存在しないといったふうを装ったり︑空

虚な"作り話"だと託宣﹂してはならない︒﹁その都度の首脳部の気に入るように歴史を書き替え︑つい昨日まで自

明と見られていたことを抹殺し去ることに慣れて﹂はならない︒ゴルバチョフの使用する﹁発展途上社会主義﹂とい

(15)う用語が理論的に何を意味しているのか︑いまのところ不明確である︒

おわりに

かつてわれわれは︑現存社会主義についてこう考えた︒﹁既存の前衛党による権力代行制は︑肯定的意義を失い否

定的要因に転化しつつある︒ソ連︑ポーラソド︑中国などの発展途上社会主義が全面的に活力をとりもどし︑マルク

ス主義の古典がいう社会主義へ向けて前進できるか否かは︑時代遅れとなった権力代行制を廃止し︑言葉の真の意味

での労働者階級の権力を樹立できるか否かにかかっている﹂︒﹁ソ連︑中国などの二所有制社会主義国は︑いま体制的

困難に逢着しているが︑もしソ連・中国などの支配集団が二所有制社会主義の現段階に満足し︑この体制の管理シス

(16)テムを維持するために強権を行使するならば︑勤労民衆が決起するある種の"社会革命"が必至となるであろう﹂︒

残念なことに︑われわれの予測は当たり︑天安門事件が起こり︑東欧革命が起こった︒社会主義敗北論︑社会主義

ダメ論が日本の論壇をにぎわせている︒現存社会主義︑とりわけ東欧社会主義はどこに行くのだろうか︒資本主義に

向かうという説があり︑社会民主主義に向かうという説もある︒方向を決めるのは︑それぞれの国の勤労市民である︒

社会主義の時代︑正確には途上国型社会主義の時代を四〇年間経験した東欧の勤労市民は︑捨てるべきものと︑捨て

てはならないものとを︑選別するであろう︒

(21)

革命の季節がすぎ︑経済の季節がやってくる︒おそらく︑﹁制限された市場経済﹂以外に選択肢はないように思わ

れる︒そこでは資本の論理が貫徹し︑弱肉強食の状態が起きるであろう︒ぬるま湯にひたってきた純朴な東欧は︑西

側先進国の﹁経済的植民地﹂に転落する可能性がある︒そのとき東欧の勤労市民は︑あらためて﹁市場の失敗﹂や﹁市

場の暴力﹂を学び︑﹁制限された市場経済﹂の制限に向かい︑政府により広い公共政策の実行を迫るであろう︒さら

に言︑兄ば︑ヨーロッパ統合が進むなかで︑二一世紀を迎えるとき︑国境を越えてヨーロッパ左翼の結集が進み︑アフ

リカ︑西アジアを加えた拡大ヨー冒ッパ規模で︑最適社会システムや最適経済システムの模索が始まるにちがいない︒

東 欧 革 命 と 「開 発 独 裁」 体 制 の終 末 53

︿注﹀

(1)東欧革命については︑多くの文献が出版されている︒さしあたり次の文献を参照されたい︒﹃激動の東ヨー胃ヅパ﹄日本

共産党中央委員会出版局︑一九九〇年︒毎日新聞外信部編﹃1989年革命東欧︑ソ連の明日を問う﹄毎日新聞社︑一九

九〇年︒加藤哲郎﹃東欧革命と社会主義﹄花伝社︑一九九〇年︒南塚信吾・宮島直機編﹃舶・東欧革命﹄講談社現代新書︑

一九九〇年︒南塚信吾﹃ハソドブック東欧諸国﹄岩波書店︑U九九〇年︒

(2)F.フェイト﹃スターリン時代の東欧﹄熊田亨訳︑岩波書店︑一九七九年︑同﹃スターリソ以後の東欧﹄熊田訳︑岩波書

店︑一九七八年︒一九六八年のチェコスロバキアの民主化運動﹁プラハの春﹂は︑ソ連をはじめとするワルシャワ条約機構

五力国軍によって軍事弾圧された︒事件当時のチェコスロバキア共産党書記ムリナーシの証言によれば︑ドプチェク第一書

記らチェコスロパキァ政府"共産党の指導者はモスクワに連行され︑ソ連共産党書記長ブレジネフからこう言いわたされた︒

﹁第二次世界大戦の結果はソ連にとって不可侵のものであるから︑新しい戦争の危険を冒してでも守る︒このような危険を

かけて︑ソ連はチェコスロバキアへの干渉を実行したのだ︒しかし︑今はこのような戦争の危険はない︒わたしはジョンソ

ン大統領に︑アメリカ政府は今でもヤルタとポツダムの会議の結果を完全に承認するか︑と問い合わせた︒八月一八日につ

ぎのような回答を受け取った︒チェコスロバキアとルーマニァについて無条件に承認するが︑ユーゴスラビアについては︑これからも協議しなければならないという回答だ︒きみたちに都合のよいことが起こると思うかね︒何も起こらんよ︒戦争

にはならん︒同志チトーやチャウシェスク︑それに同志ベルリングエルも演説はぶつだろうが︑それでどうなる︒きみたち

(22)

は西ヨーロヅパの共産主義運動を当てにしているが︑あんなものは五十年前から︑何の役にもたたんL(ズデネク.ムリナ

ーシ﹃夜寒プラハの春の悲劇﹄相沢久・三浦健次訳︑新地書房︑一九八〇年︑三六四⊥一一六五ページ)︒ヤルタ体制の本

質と米ソの大国覇権主義を露骨に示した事実が証言されている︒

(3)ソ連のペレス占イカ︑東欧の民主主義革命の影響をうけて︑アジァのモソゴル人民共和国にも民主化の波はおしよせ︑

モソゴル人民革命党(共産党)は︑﹁党の指導性﹂規定を放棄し︑複数政党制を認める憲法改正に踏みきった︒朝鮮労働党

(共産党)と中国共産党は︑一九九〇年現在︑﹁党の指導性﹂規定を守っている︒

(4)スヴェルド・フスク州党委員会第毒記︑党中央委員会建設部長︑党中央委員会書記︑モスクワ市党委員会第妻記︑党

!

()

(5)

(6)蓮・東欧の勤労民衆は飢餓線上をさまよっている︑としてはならない︒家庭内在庫︑つまり買いだめで生活防衛をはか

(.

).

(7)L

(8)スぞリソは︑その独裁体製固め空九三六年に︑﹁ソヴ言社会は︑すでに基本的に社会主義を実現し︑社奎義体

制をつくりだすことに成功した︒すなわち︑マルクス主義者が別の言葉で共産主義の第一段階あるいは低い段階と呼んでい

るものを実現した﹂と強弁して︑その後の理論的誤謬︑ボタソのかけちがえの端初をつくった(スタ!リン﹁ソ連憲法草案

(23)

東欧革命と 「開発独裁」体制の終宋 55

L1)(9)九〇年二月から三月にかけて︑憲法改正のほか︑賃貸法︑農地の私的所有を認めた土地薬法・生肇段の市民的所有を

認めた所有権法などの重要法案が採択された︒大統領選挙の侯補者はゴルバチョフ一人であった︒投票総数一八七八票・賛

成=ご二九票︑反対四九五票︑無効五四票︑欠席・棄権三六七票であった︒

(10)市民の声は︑エリッイソ﹃告白﹄︑一四一ページより引用︒週刊紙﹃モスクワ・ニュース﹄(一九九〇年第一〇号)は・ソ

連に月収七八ルーブリ以下の貧困者が四一〇〇万人おり︑一八歳以上のソ連市民の約二〇%を占めると報道した︒貧困者の

月収は平均賃金の三分の一以下であり︑このカテゴリーに入るのは︑年金生活者︑未婚の母︑母子家庭︑身体障害者︑失業

者である︒共和国別にみると︑中央アジアでは人口の半数から三分の{以上が賃困者層に属し(タジク共和国五八・六︑ウズベク四四.七︑キルギス三七.一︑トルクメソ三六・六)︑民族対立がつづくアゼルバイジャソ共和国三三.三・アルメニア共和国一八.一%である︒ロシァ共和国は六・一%︑独立を求めるバルト三国は三%台と貧困者の比率は最低である︒

(11)東ドイツ人民議会選挙の党派別議席数は次の通り︒キリスト教民主同盟(CDU)一六三︑社会民主党(SPD)八八︑

民主社会党(PDS)六六︑社会同盟(DSU)二五︑自由民主同盟二一︑九〇年連合=一︑民主農民党(DBD)九︑緑

の党.独立婦人同盟八︑民主主義の出発党四︑国民民主党二︑民主婦人同盟}︑統}左派行動一︒ハソガリー国会議員選挙の党派別議席数は次の通り︒民主フォーラム一六五︑自由民主同盟九二︑独立小農業者党四三︑社会党三三︑青年民主連盟

一=︑キリスト教民主国民党一二︑その他十一︒

(12)菊池昌典編﹃社会主義と現代世界1社会主義革命﹄山川出版社︑一九八九年︑一ニー一六ぺ!ジ︒

(13)一九三九年八月二三日︑独ソ不可侵条約調印︑その秘密追加議定書でポーラソドの分割︑エストニア︑ラトビアのソ連勢

力圏への編入を決める︒同年九月一日︑ドイツはポーラソド侵略を開始︑九月三日︑英仏両国はドイッに宣戦布告・第二次

世界大戦が始まった︒同年九月一七日︑ソ連軍はポーラソド侵略︒同年九月二三日︑独ソ友好・境界条約が結ばれ・その秘

密追加議定書でリトアニアのソ連圏編入が決定された︒二つの秘密追加議定書およびバルト三国問題については︑次の文献

を見よ︒﹃世界政治資料﹄一九八九年九月下旬号︑十月上旬号︑﹃東欧・バルト三国と社会主義﹄日本共産党中央委員会出版

局︑一九八九年︒

(14)アファナシエフ編﹃ペレストロイカの思想﹄群像社︑一九八九年︑二三四ページ︑エリツィソ﹃告白﹄一六〇︑咽七四1一七五︑二五一ページ︒小島敦﹃ソ連知識人ペレストロイカを語る﹄読売新聞社︑一九九〇年︑二一ページ︒発達した社

参照

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ハンガリーの経済改革のその後については,筆者が1985年秋の交換研

Economies, Japan External Trade Organization (IDE-JETRO) http://www.ide.go.jp シリーズタイトル アジアを見る眼 シリーズ番号 95 雑誌名

“Political Liberalization in an Authoritarian Regime: The Case of Mexico.” in Transitions from Authoritarian Rule.. Baltimore: The Johns

5) Masahiro Matsumura, “Fusing a Perspective on Historical Development into Strategic Studies: The Case of Northeast Asia”, paper prepared for the National Bureau of

[r]

[r]

課題 機能/役割 効果 効果 結果 選挙勝利 政策的譲歩/ レントの分配 反対勢力の取り 込み/分断 有利な政治環 境の構築成功