﹃サ ミ ュ エ ル t ア ダ ム ズ の 革 命 1 ト ア メ リ カ 独 立 革 命 に お け る 一 人 物 像 ﹄
はじめに . アメリカ独立宣言書の写しをみるとき︑サミュエル・アプムズ﹂∽
ヨ﹂①︻ン詰■∽ 通称サム・アダムズ︶の署名はあま的にも目だたなく ︑
また生涯彼につきまとったふるえを実証するかのように︑その筆蹟はい
すかにふるえてさえいる﹁しかしこのサムこそ︑ ロズ.ャリストからは﹃
放火の張本人﹂として最も恐れられ︑革命派からは
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トー﹄として信頼され︑十三植民地を独立へ之踏み切らせた悌一人者で あった一 ・ ・ ところで︑アメリヵ第二代大統領ジョン・アダムズ︵﹄OF5>住澤一︶ は︑彼のいとこサム・アダムズを後世の人々がどのように見るであろう
かと予測して次のようにいった︒﹁後世の人々は︑サムの人間像を快し
て正しく理解することができないであろう﹂と︒また︑サ払︲ の死んだ翌
は︑サレムの一僧侶は次のように書いた︒﹁サムは︑不可解な秘
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っていたように見える︒彼は敵に恐れられたが一方︑あまりにも謎が多
く︑ために友によって愛されることは難しかった﹂と︒確かにサムには︑
捕えどころのなさがあり︑そのため彼の伝記作家たちは︑彼の評価に悩
まねばならなかったのである︒
︱ 倉 田 淳 子
・ 一 ︱
アメリカ建国後︑サムの生きた時代から人々が遠ざかるほ︲ ど︑すムの
ポートレートは︑もっともらしいものとなり︑紋切り型のものとなり︑
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メーカーでぁるという印象︱政府を転覆し︑民衆の情熱を扇動した主人
公であるという印象が広がっていた︒またその項 ︑彼が︑厳格に過ぎ︑
独善的であるという評価も出されていた ︒こうtてサム
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リーダーたちの万神殿に祭ることを拒否されるに至った︐ Iジョン・
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しかし十九世紀中頃︑史家バツクロフト︵■oo一①︺R3r ︶
によってサムについての一般的通念が打ち出され︑サムは︑絶対にして
無条件な独立の唱道者であったとはいぇ︑確たる政治的心情を自党した
人ではなく︑英雄気どりの革亀扇動家であるとされた︒果してこのよう
﹃サ ミ ュ 土 ル ∴ ア ダ ム ズ の 革 命
独 立 革 命 に お け る
一人 物 像 ﹄ ア メ リ カ
倉田浮子
はじめに
アメゾカ独立望自書の写しをみるとき、サ、、、ユエル・アダムズ(sa
m u e l A d
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通称サム・アダムズ)の署名はあまりにも目だたなくまた生産彼につきまとったふるえを実証するかのように'その筆蹟はか
すかにふるえてさえいる。しかしこのサムこそへロイヤリストからは﹃
放火の張本人﹄として最も恐れられ、革命派からは﹃アメリカ革命のカ
トよとして信頼され'十三植民地を独江へと踏み切らせた第)<者で
あった。
ところで,アメリカ第二代大統領ジョン⁚.ダムズ(JohnAda
m s )
は・彼のいとこサム・アダムズを後世の人々がどのように見るであろう
かと予動して次のようにいった。「後世の人々は、サムの人間像を決し
て正しく理解することができないであろう」と。また、サムの死んだ翌
日Jサレムの1僧侶は次のように書いたo「サムは'不可解な秘密を拷
っていたように昼見る。彼は敵に恐れられたがl方へあまりにも謎が多
く,ために友によって愛されることは難しかった」と。確かにサムには、
絶えどこ
ろ り
なさがあり'そのため彼の伝記作家たちは、彼の評価に悩まねばならなかったのであるO アメッカ建国後'サムの生きた時代から人々が遠ざかるほど、サムの
ポートレー・L.は、もっともらしいものとなり、紋切り型のものとなり'
敵対的なものとさえなっていった。①
早‑も十九世紀の初頭tより後世の人々が発展させるサムがトラブル
メーカーであるという印象
‑
政府を転覆Lt民衆の情熱を扇動した主人公であるという印象が広がっていたdまたその頃、按が、厳格に過ぎ、
聾U的であるという評価も出されていた。こうしてサムは、十九世紀早
々、アメリカ人がそのまわりに馳せ参じることを求められた独立革鼻め
リーダ⁝たちの万神殿に祭ることを拒否されるに至ったnジhン・
アダムズは,このサム軽視に反対して記した。「アメ‑カ革人相が(われ
われにとって)祝福すべきものであるならば'サムの名は、璽塩に記録さ
れなければならない」と。ジョンは'サムが‑ラブルメーカーとして過
大評価されることに反対したわけである。
しかし十九世紀中頃'史家バンクロフト(Ge(〜・geB
a n c
roftJによってサムについての叩般的通念が打ち出され、サムは'絶対にして
処案件な独立の唱道者であったとはいえ、確たる政治野心情を自覚した
人ではなく、英雄気どりの革毎扇動家であるとされたo果してこのよう
にサムを、串命運動の主要なマネ
ー
ジャーとする主張は正しいのであろうか?イギ‑ス本国に忠誠を堅持した人々は、独立革4°。は叫握りの不
満家がためにしたものと考えたが、サムは'彼らが革命という犯罪を犯
した人々として引用した幾人かのアメ‑カ人の中の1人であったo代理
総督ハッチンソン(ThomasHulchinson)らの私信によれば、
サムらニュ‑イングランド愛国派が'民衆の心をあや「二一て独立へと駆
りたてたのであり'そのようなマヌーバーはどこの世で投滑極まるもの
はなかったのであるQこうして十九世紀の伝記作家のい‑らかば、いよ
いよサムを軽蔑し、彼に敵対的とさえなっていった。③
二十世紀に入って'著名な植民地時代研究家,,,ラ
ー
教授(JohnC.MLer)はC次のように書いたO「サムは、民衆を自己の計画支持
へと導いた人形あやつり師であり、‑・・・植民地を本国からの分離に至ら
しめる危機を作り出した人である」とol方'ターナー
(
FrederickJacksonTurner)i'、ビア
ー
ド(Charles A u .s t i n
Be・ar°.I)と並ぶ今世紀アナh‑カ史学界三大家の7人であったバリン‑
ン教授(Ve
rn
onLouisParrin.gton)は、サムが職業的人心操縦者という説を支持しっつ'次のように論じた。「サムは人民主
権論に依拠して'タウン・‑ーティングを基盤とした純粋な民主主義を
信じ、いかなる形の混合政府1それが国王・貴族・平民から成るもので
あれ、簸和酢撃野当っ抑制と均衡の嵐則に従・rたものであれーにも皮 大衆のあずかり知らないものであった。彼の考えは終生変わらなかった。
即ち彼は、フランス衝命に当ってはジャコバン同調者であ月っつけ、最
後までアンタイ・フェデラ‑ストとしての甘己を貫いた。彼はデモクラ
ッーといえ百薬の使用を細心に慎しんだがT波こそ偉大な民衆指導者'
⑨すぐれた政治的作戦家であり'政治的現実主義の鋭い学究であった」と。
右のどのような形の混合政府をも非とした民主主義者'終始変わらぬ強
硬なアンタイ・フェデラ‑ストといったサム観には、若干の疑問が出さ
れるOなぜならサムは'一七八〇年マサチュ‑セッツ憲法制定当時'抑
制と均衡の原則に立卸した混合政府に同意し、また(選挙資格の財産制
限をも支持し、さらに、公立教会‑組合教会に属さない諸宗徒への課税
を主張したりしているからである。以下'サムの人生を略述する中で'
その兵の人物像を把握する手がかりを得たいと思う。餌.サム紗バックグラウンド
一七二二年サム・アダムズは'ボス‑ンの醸造業者の子として生まれ
た。父は富裕な商工業者であったばかりでな‑、高い社会的地位を保持
し(郡治安判事、市役員、代議会眉など)'また組合教会の有力者であ
り'加えて母も敬虎なカルビニストであったOこの家庭環境に育てられ
たサムは、ハ
‑ ヴ ァ ー
ド大学院雇学ヰ活発となった大覚醒運動で先頭に立ち'ジョナサン・エドワ
‑
ズ(JonathanEdwards
)に傾倒、ロ
ー
マの歴史と文学を専攻して'人々が清教徒の美徳を失えばロー
マ同対したQ波にとって専制とは常に少数者がもたらすものであって、太良了′様ニ