: 武蔵国多摩郡野津田村を中心として
著者 岩橋 清美
出版者 法政大学史学会
雑誌名 法政史学
巻 46
ページ 118‑139
発行年 1994‑03‑24
URL http://doi.org/10.15002/00011196
近年、近世村落における文書の作成・管理に関する研究が進められている。近世村落において作成された文書は膨大な量にのぼるが、それらの文書がどのように作成・管理され、今に至っているかという点については検討を必要とするところである。最近の研究では主として近世村落における文書管理の実態と当時の文書に対する認識について論じられてきた。前者については冨善|敏氏・保坂裕興氏の研究成果がある。冨善氏は信州高島領乙事村を事例に文書が村落の共有物として管理された状況について述べてい(1)る。保坂氏は年貢勘定不正をめぐる村方騒動によって年一貝関係帳簿を中心とする村方文書の作成・管理システムが成 はじめに 法政史学第四十六号
近世村落における名主の文書管理と「旧記」の作成
武蔵国多摩郡野津田村を中心としてI(2)立・改変してい/、様子を論じている。後者については、大友一雄氏が、文書の利用と文書に対する認識とが不可分で(3)あることを指摘Iしている。このような文書管理史の研究は文書整理論とも密接に関連している。文書調査の際に行われている文書の保存状況の記録は、文書管理史を考える上で有効であることは言う(4)までもない。また、これまでの史料論において進められてきた個々の文書の様式・機能等の研究、および従来の村落史研究の成果と文書管理史とを関連させていくことも必要であると思われる。近世社会における記録管理のあり方を考える時、その対象となる記録は文書のみに限られないであろう。現在の史料管理史研究は文書による記録管理を対象としているた
岩橋清美
■■■■■■■■■■
八
め、近世社会の記録管理が文書管理に限定されてしまっている感がある。近世社会には文書以外の様々な情報媒体が存在していたはずである。このように考えると、文書管理とは記録管理の一部分であって、文書管理イコール記録管理ではない。また、文書は歴史的社会関係の産物であり、社会関係なくしては存在しない。同様に石造物・民具・音声・景観といったものも歴史的社会関係の産物であり、文化財である。近世社会においては、文書ではなくて音声等によって記録される情報も存在した。これらは、文書と比較すると、現在に伝えられる部分が少ないために十分な検討材料としがたい側面があったが、近年の村落史研究で((0)は、これらを有効に利用した研究も見られる。文書・石造物・民具等といった記録はすべて社会的諸関係の産物である。つまり、社会的諸関係なくして記録、および記録管理はありえないのである。このように考えていくと、史料管理史研究は文書自体の管理・公開といった側面に重きを置いているため、社会関係の産物として文書が存在すること、文書とそれ以外の歴史的情報媒体との関係について十分な検討が行われていない。近世社会においては、ある時点から文書による意志伝達が支配的になった。近世社会における記録管理のあり方
近世村落における名主の文謁袴即と「川紀」の作成毎石橘) を考えるにあたって文書による意志伝達を支配的にした社会関係とはどのようなものであったのかを考えていく必要があると言えよう。そこで、本論文では近世初期から中期に至る村落の変容において文字による意志伝達が浸透していく状況について考えてみたい。ここでは、武蔵国多摩郡野津田村名主河井亦市が寛保元年(’七四一)に作成した「野津田村年代記」をもとに、名主の文書管理と文書に対する認識について分析を行う。近世前・中期の文書管理は、文書によって意志伝達を行うことが高度に浸透した近世後期の村落の文書管理とは異なるものであると思われる。さらに、名主家に残された文書群の分析を通して、近世中期における記録管理のあり方の変容についても考えたい。ここで、本論文で扱う武蔵国多摩郡野津田村(現東京都町田市)の概要について述べてみることにする。野津田村は多摩丘陵の南端に位置する村である。村高は寛文六年(’六六六)の検地では約八一一三石、『元禄郷帳」では八三一石余、『天保郷帳』では八三七石余(6)となっている。支配関係は近世初期は幕府領であったが、元禄一○年二六九七)松平平次左衛門の知行地となった。しかし、
’九
ここでは、本論文の分析対象である野津田村名主河井家文書群の概要と特徴について述べておきたい。 松平氏が用水普請の費用の負担を理由に知行を拒否したため、元禄一一年(一六九八)に幕府領にもどった。その後、元禄一六年(一七○三)まで幕府領であったが、宝永元年(’七○四)旗本多賀氏の支配をうけることになった。享保元年(’七一六)、多賀氏が江戸城内で刃傷事件をおこしたことから再び幕府領にもどった。享保六年(’七一一一)、村高のうち四九○石余が富田甲斐守知郷、一一三四石余が山口安房守直信の知行地となった。この時幕府領であった部分も、享保七年(一七一三)には五○石が由比長左衛門邑勝の知行地になり、享保一七年(’七三一一)には四七石が高井兵部少輔信房の知行地になった。こうして享保一七年(一七三一一)には野津田村は旗本四給地となり、明治に至った。野津田村については『町田市史』において詳細な分析が(7)なされている。近世前期の村落構造については安澤秀一氏(8)の研究成果があり、本論文もこれらの研究成果によるところが大きい。 法政史学第四十六号
河井家文書群の概要 河井家の「家譜」には、同家の祖、河井越中守清正が後北条氏の家臣、武藤半六郎光晴らと共に野津田郷を開発(9)し、郷中の寺社を再興したことが伝》えられている。河井越中守清正は天正一八年(’五九○)、後北条氏滅亡に際し、その家臣であった武藤半六郎光晴の子、左近将監が討死したために、同家と養子縁組し、その後も野津田郷の開発にあたった。寛永二年(一六二五)には野津田村の開発をほぼ終了し、河井越中守清正の子、左京肋清氏の時、初めて代官今井九右衛門より年貢割付状を発給され、寛永一一年(’六三四)から野津田村の名主を勤めた。なお、河井家には天正二年(一五七四)・天正五年(一五七七)に後北条氏より武藤半六郎に発給された文書が残されて(川)いる。天正二年(一五七四)の文書は野津田郷の開発を命じた文書であり、天正五年二五七七)の文書は野津田郷の開発に関連して用水施設の整備を命じたものである。河井家が野津田郷の開発者であったことを示す史料として、次のような文書がある。(Ⅲ)〈史料1〉柚木領子ノ御成ヶ勘定之事一壱貫四百出五匁わた納一弍百拾七石七斗ハ米納 ○
一京銭百出七貢文納一六石三斗ハゑ納一永弍百四十四貫八百六十五文金納以上右分請取御勘定所二而勘定相済申候、以来之ため書かへ如此渡者也寛永弍年丑ノ八月廿八日今井九右衛門⑳河井左京助との〈史料1〉は代官今井九右衛門が河井左京助に発給した年貢請取手形である。研究史によれば、この史料は柚木領全体の年貢請取手形ではなく、野津田村を含む周辺数ヶ村(旧)の年貢請取手形である。左京助は野津田村とその周辺村々の年貢徴収を代官より任されていたのである。寛永三年(’六二六)以降、年貢請取手形には、受取人の部分に左(旧)一泉助とともに山口久右衛門の名前が記されている。山口久右衛門については明確にはできないが、河井家と同様に、この地域の土豪百姓であったと思われる。その後、河井家は元禄六年(一六九三)に隣村小野路村の名主退役に伴い、一時的に小野路村の名主を兼帯してお
近世村落における名主の文詳管理と「Ⅲ記」の作成(岩橋) (M)胴リ、翌七年(一六九四)には代官古郡文右衛門に従って武(旧)蔵国足立郡の村々の検地の帳付役を勤めた。河井家文書群の構成にも、当然のことながら河井家の土豪百姓としての動向が反映されている。(肥)河井家文書群は総点数一一一一○点である。このうち、年未詳文書九八点と近代文書を除くと、近世文書(ここでは便宜上、天正一八年(一五九○)から慶応四年二八六八)までに作成されたものを示す)は七一九点である。この七一九点のうち、後述する「野津田村年代記」が書かれた寛保元年(’七四一)以前に作成された文書は一一三八点で、近世文書全体の四八パーセントを占める。関東農村では近世中期以降、文書量が増加する傾向が一般的であるが、この傾向と比較すると、河井家における享保期以降の作成量はそれほど増加していないと言える。これは散逸等保存状況によるところもあろうかと思われるが、文書が社会的諸関係の産物であるという視点に立つと、河井家と村・地域との関係の変化が文書の作成にも大きく影響していると考えることができる。次に時期を区切って同家の文書群の特色を見ていこう。元和・寛永期の文書は二○点存在するが、このうち一九点が年貢請取手形・年貢割付状である。これらの年貢関係文
-
-
-
-
書のうち元和期のものは八点を数える。この八点の文書はいずれも代官から左京助あてられた山崎村(郷)の年貢請取手形である。左京肋が山崎村(郷)の年貢請取手形を発(Ⅳ)給されていた点については、ムマのところ明確にできない。寛永期の年貢関係文書は二点存在する。年貢高は永高で示されている。元和期には金納・京銭納・米納であったのに対し、寛永期には金納・京銭納・米納・綿納・荏納になっている。さらに寛永一○年(一六三三)からは宛所の記載がそれまでの「河井左京助殿・山口久右衛門殿」から「野津田村名主・百姓中」にかわり、年貢勘定項目にも変化が見られる。つまり、寛永一○年(’六一一一三)頃にこれまでの年貢徴収方法に変化が生じており、この変化は河井家が近世的名主へと変質しつつあったことを示している。元禄期に至るまで同家の文書は、そのほとんどが年貢・土地(検地帳・新開改帳等)関係文書である。これ以外の文書としては、村内の寺社である宝珠院(野津田村花厳院末寺)の仏具に関する文書(元和九年)が存在するが、後年の写である。寛文期より隣村との地境・山論関係の文書が見られるようになる。野津田村において元禄期までに作成された文書は、|部消滅した可能性もあるが、現在の残存状況から年貢関係文書が中心であるといえる。つまり、 法政史学第四十六号
この時期までは、年貢徴収における領主と土豪百姓との関係において、文書による意思伝達が一般的であったのである。元禄期以降になると、同家文書の中に、幕府法令に対する請書・五人組帳・宗門人別帳等がみられるようになる。河井家が名主を勤めていた関係上、作成・管理された文書は元禄期以降、急激に増加した。享保期に作成された文書には、野津田村が幕府の鷹場再興により御捉飼場となったことから鷹場関係のものが多く存在する。これらの文書のほとんどは、鷹匠通行の際の村人足の動員に関する文書である。また、享保四年(一七一九)には同家の分家である権兵衛が綱差役に任じられている。この他、享保期に作成された文書としては分郷に関するものも多い。野津田村では分郷に際して、議定書が作成され、鷹場・用水普請等の負担を知行に拘らず、村内で負(旧)担することを定めた。野津田村は分郷後も知行に拘らず一村としての意識が強く、このような関係を反映して安永二年(’七七三)から万延元年(一八六○)まで「御三給割合之帳」・「御四給割合之帳」といった文書が作成された。河井家は分郷によって旗本山口氏の知行地の名主を勤めるようになったのであるが、四袷名主のまとめ役的な存在で
あり、用水などの普請においても中心的な役割を勤めていた。なお、宝永元年(’七○四)、野津田村が旗本多賀氏の知行所になってからは河井家は旗本の代官役を勤めていたため、名主役を分家久米右衛門家に譲った。その後、享保六年(一七一二)、同家は旗本山口氏の知行地の名主を勤めるまでは名主役を勤めていない。村内においては、名主の上位に位置し、主導的な立場であったことが文書上から窺える。しかし、享保期を画期に名主としての職務上作成された文書の残存状況に偏りが見られるようになるのである。まず、一般に名主家に共通して残されると思われる文書が存在しないことがあげられる。同家の文書群中には、名主家に通常残されている村人用帳や御用留は見られない。このことは文書の伝来過程における散逸によるものだけとは言い難い。また、享保六年(’七一二)以降、同村では年貢取立帳簿が作成されているが、連続的には残されていない。享保期以降、年貢取立帳簿が作成されるようになるのは関東農村では珍しくはない。近世初期には土豪百姓の請負制による年貢収集が行なわれていたが、領主・土豪百姓・村落の関係の変質から年貢徴収方法にも変化が生じ、その結果、年貢取立帳簿が作成されるに至った。同家文書
近世村落における名主の文書管理と「旧記」の作成(岩橋) 群中に年貢取立帳簿が連続的に残されていないこと、村入用帳・御用留が存在しないことは、宝暦期以降、野津田村(旧)において年番名主制が導入されたことと無関係ではないであろう。さらに文政期には村方騒動が生じており、同家は一時的に名主退役に追い込まれた。こうした状況から同家がこれまで行っていた文書作成・管理が他の名主家においても行われることになった。河井家文書の残存状況は同家をめぐる社会関係の変化を反映しているのである。|方、家政に関する文書の作成は数量的には名主の職務として作成された文書を越えるものではないが、享保期以降増加する傾向にある。例えば、まとまって残されている文書としては「年礼年玉受納帳」があげられる。この文書は文化五年(一八○八)から作成されており、年始の贈答について記録されている。このほか、万延元年(一八六○)から文久二年(一八六二)にかけては「異聞録」が作成されている。この文書は幕政の動向や異国船情報を書き留めたものである。情報を収集して書き留めた文書は、名主家文書にはしばしば見られるものであり、名主の職務上、作成されたものと思われる。しかし、この時期、同家が名主を勤めていないことから考えれば、作成者である三左衛門の意識が村内より村外に向けられていたことを示し
一 一
- 一 一
 ̄
ていよう。また、河井家は文化九年(一八一二)、白川家(別)より神主の許状を授けられた。名主退役後、同家は寺子屋をはじめている。文化・文政期以降、河井家と村との関係においては、名主役を通じてのつながりが弱くなり、その結果、同家の文書群中には通常、名主家に残されている文書が見られないのである。河井家文書群の構成は、同家をめぐる社会関係の変化を反映しており、まさに社会関係なくしては文書群の形成はありえないのである。
ここでは、野津田村名主河井亦市(後に清太夫と改名)が寛保元年(一七四一)に記した「野津田村年代記」を取り上げ、この時期の名主の文書管理の実態を検討していくことにする。(ご形態・表題・作成者について「野津田村年代記」(以下では「年代記」と略す)は寛保元年(一七四一)、野津田村名主河井亦市が作成したものである。「年代記」は現在、同家に二冊残されている。この一一冊を仮にA本.B本とすると、A本は横半帳、袋綴で、大き 二「野津田村年代記」の分析 法政史学第四十六号
さは縦を一二センチメートル、横一六センチメートルである。表紙と後部が欠損している。B本は幅九センチメートルから一三センチメートルにいたる紙を横に繋いだものである。B本には訂正箇所が多いのに対し、A本は訂正箇所が少なく、文字の乱れもそれほど見られない。おそらくA(Ⅲ)本はB本をもとに書かれたものと思われる。「野津田村年代記」という名称は、この史料の原表題ではない。A本は表紙が欠けており、B本には表題は付されていないため、原表題は不明である。「野津田村年代記」とは『町田市史』編纂過程おいて付けられた表題である。史料中、「此年代記ニハ大辻計記之」(享保一一○年八月二八日条)とあり、作成者がこの史料を「年代記」と意識していたことがわかる。このような史料中の記述から、現在、この史料は「野津田村年代記」と称されている。この「年代記」の作成者である河井亦市は寛文一二年(’六七二)、河井清太夫秀胤の子として生まれ、元禄一一年(一六八九)家督を相続し、名主役に就任した。宝永元年(’七○四)、野津田村が旗本多賀氏の知行地になると、亦市は多賀氏の代官役を勤めた。享保六年(’七二一)の分郷の後は旗本山口氏の知行地の名主であった。「年代記」の記述からも窺われるが、河井家は分郷の後も村内における中
四
心的存在であった。(二)内容の特色「年代記」には野津田村における様々な事柄が編年体で書かれているが、いわゆる「日記」とは異なる。「年代記」は河井家の「日記」をはじめ同家が保管していた様々な文書を利用して、まとめられたものである。「年代記」の記述には、その記述が同家の「日記」や文書をもとに記したことや同家に関連する文書が所持されていることを示す文言が見られる。この「年代記」は河井家と領主・村・地域との関係から野津田村の歴史を記しているところに、その特色がある。筆者は、先に、村や地域の歴史や由緒を記した史料を「旧(皿)記」と位置付けた。「旧記」には、この史料のように年代順に事柄を書いたもの、あるいは村明細帳的な記述がなされているものもあり、御用留や村入用帳のように形態や記述方法における共通性が見いだされない。「旧記」の記述は作成者の教養によるところが大きく、表面的には共通性が見いだすことができないところに特徴がある。しかし、家意識に基づいて作成され、自己の家と村・地域との関係において村の歴史が記されており、近世後期に至ると、宮の記述選地誌に近い「旧記」が作成される傾向にある。
近世村落における名主の文書管理と「旧記」の作成(岩橋) ここでは「年代記」の内容の特色について述べるが、分析対象とする史料は河井家に残された二冊のうちのA本である。この「年代記」は文正元年(’四六六)より書きはじめられている。ただし、冒頭部分は「文正元丙戌」とあり、続いて「応仁六丁亥」と書かれており、以下は寛永四年(一六二七)まで年号のみが記されている。寛永四年(’六二七)から年号のほかに事項が書き加えられているが、元禄六年(’六七三)までは河井家の当主・家族の誕生・死亡についての記述が中心である。村に関する記述としては領主の変遷(天和二年条・天和三年条・貞享三年条・元禄二年条)、鮎持人足(寛永四年条)・鉄炮拝借(貞享二年六月一六日条)、鷹場の廃止(元禄六年条)がある。本格的な記述がはじまるのは元禄六年(一六九三)からであり、寛保元年(一七四一)まで続いている。河井亦市が元禄二年(’六八九)に名主役に就き、寛保二年(一七四二)に死去していることから自己の名主としての業績を村の歴史として、子孫に対して書き残したものであると言える。
各記述の書きはじめには「●」・「○」が付けられている。記述の内容から判断すると、「●」が村に関するこ
五
と、「○」が河井家の家政に関することを示すと思われるが、例外も存在する。「●」・「○」は、作成者である河井亦市の認識である。「●」・「○」は、その事例に対する作成者の意識を表すと同時にその事柄を書くにあたって使用した文書に対する認識も示している。そしてそこには、現在この文書を見る者と当時その文書を管理していた者との認識の差異が存在するのである。「年代記」の内容は大別すると、①河井家に関する事項、②野津田村に関する事項、③他村の動向、④江戸情報、に分けられる。時期によって記述内容の重点が変化しているが、これは河井家をめぐる社会関係の変化によるものであろう。次に①~④について説明を加えておきたい。①河井家に関する事項これについては、当主・家族の誕生・死亡、家督相続、先祖の法事、家普請、女子の屋敷奉公等の記述が多い。元禄七年二六九四)条に以下のような記述がある。(胆)〈史料2〉(一兀禄七年条)○御代官古郡文右衛門様ら又市御頼被遊、則二月廿八日御屋敷江伺公仕、三月朔日御手代石川伴右衛門殿・尾花薗右衛門殿右御両人一道仕、小者角兵衛召連候、籾細井九左衛門様御支配武川足立郡差一扇領下宝 法政史学第四十六号
来村名主方へ罷越、夫段々御検地野帳付役相勤候、角兵衛義も竿取差支候節ハ竿取仕候、近山与左衛門様御支配村々も御検地有之、御役人一道二御越候、御検地中泊々其外委細日記有之これは、元禄七年(一六九四)河井亦市が代官古郡文右衛門に従って検地の帳付役として武蔵国足立郡に赴いた際の記述である。傍線部に示されるように、これは、この時記した「日記」をもとに書かれたものである。なお、この「日記」は現在、同家文書群中に残されている。〈史料2〉は河井家と代官との関係を示す記述である。検地の帳付役を勤めたことは野津田村名主としてではなく、あくまでも代官と河井家とのパーソナルな関係に基づくものである。家政に関する記述には、このように領主と同家とのパーソナルな関係を強調するものがいくつか見られ、同家の家意識が反映されている。なお、「年代記」中には「○」が付けられた記述(亦市が家に関する事柄と認識した記述)は元禄期に多く、享保期になると「●」が付けられた記述(亦市が村に関する事柄と認識した記述)が多くなり、村に関する事項が増加する傾向にある。②野津田村関係事項野津田村に関係する事項は名主の職務に関連する事柄が 一一一一へ
多い。内容は多様であるが、時期ごとに偏りが見られる。例えば、元禄一一年(一六九八)~一一一一年(’七○○)は支配替、享保二年(’七一七)~四年(一七一九)は鷹場関係、享保六年(一七一一一)・七年(一七二一一)は分郷、享保一一一一年(一七二八)は日光社参の記述が多い。この記述の集中は前述の同家の文書群構成とも密接に関連する。現在、同家に残されている享保期に作成された文書においても鷹場関係、分郷関係の文書が占める割合は大きい。特定の時期に特定の事柄が集中しているのは、その時期、同家・同村にとって中心事項であったことを示し、記述の推移は同家をめぐる社会関係の変化を反映している。この他に隣村との山論(元禄一五年八月二四日条)、用水管理(元禄一七年六月九日条)、無尽(宝永元年九月条・同年一○月二日条)に関する記述がある。享保期以降になると、村入用の割合(元文二年閏一一月条)、質地出入(享保一五年条)、借金出入(享保一五年条)、百姓の遺跡相続(享保一五年条)に関する記述が見られる。一例として以下の史料をあげておく。(別)〈史料3〉つ兀禄九年条)○福生寺薬師如来九月廿四日5霜月迄開帳、如来御手(ママ)(ママ)大座五光再元、抑如来御姿江一P二而為彫参詣之方江
近世村落における名主の文蕎管卵と「旧記」の作成(岩橋) 御出し、右開帳中参詣之男女暗一嘩口論無之ため、毎夜年寄中弍人シ、付、尤左之通札立申候、
し不一暗一嘩口》油井参詣之防二成あばけ候事一切可為無用事一御法度之酒狂之者此地征一切不可入事附、商売候共其心得可致事一博変之類井見せ物等堅ク仕間敷候事附、火之用心大切二可仕事右之通違背仕間敷者也子九月〈史料3〉は元禄九年(一六九六)、村内の福生寺において行われた開帳の様子を記したものである。野津田村では開帳中、年寄二人ずつが村内の取締りを交代で勤めることを定め、さらに暗一嘩・口論・酒狂・博突を禁ずる高札を立てた。同家文書中にはこれに関連する文書は見られない。この史料は元禄期に村役人が村内の風俗取締りを行っていることを示すものであり、記述自体は後年のものであるが、村落の自律性について考える上で興味深い史料である。また、この開帳において、披露された如来像は江戸にて造られたものであり、江戸との文化的関係も形成されて
七
いたことが窺えよう。この記述は内容から村に関する事柄であると判断できるが、〈史料3〉の文頭に「○」とあるように作成者はこの事項を家に関する事柄であると認識していた。「年代記」中の寺社に関する記述はすべて「○」がつけられている。これは、おそらく近世初頭に河井家が野津田郷の開発を行った際、郷中の寺社を再興したという(あ)伝承を作成者が認識していたことによるものであろう。寺社に関する文書についても同家では同家の家政に関わるものと認識していたと思われる。また、「年代記」中には村内で連続して生じた火災に際して下手人を鉄火によって決めようとした記述(享保一八年条)や隣村との山論において、制裁処置として所持していた鎌や馬を取り上げた記述(元禄一五年八月二四日条)がある。「年代記」に描かれた世界は中世的な側面と近世村落として組織化された側面との両者を合わせ持っている。前代からの慣習を残しながらも近世村落として組織化されていく様子が窺われるのである。③他村の動向他村に関する記述としては、開帳・祭札の記述が多く、元禄一五年(一七○一一)’一月二六日条にある武蔵国多摩郡金井村の芝居興業の記述が初出である。野津田村の百姓が 法政史学第四十六号
他村の祭札に出かける様子も書かれている。そのほか、元禄一六年(一七○三)八月一○日条に武蔵国多摩郡本町田村と同郡大谷村との山論の裁許についての記載がある。名主の職務として他村の争論に関する情報を収集していたことを示すものである。しかし、同家文書中に他村の争論における訴状等の写が見られるようになるのは、これより後年のことである。④江戸情報江戸に関する情報は火災と開帳に関するものがほとんどである。開帳については、元禄一三年(一七○○)条に見られる護国寺の開帳の記述がもっとも古く、その後も頻繁に記述が見られることから、作成者の関心の高さが窺われる。また、江戸の地頭屋敷の動向についても記されており、特に多賀氏についてはまとまった記述がなされている。このほか、歌舞伎役者の死亡(元禄一七年二月八日条)、庖瘡の流行(享保一五年八月二八日条)、風邪の流行(享保一八年条)等に関する記述がある。特に庖瘡については庖瘡除として「禁裏様出候由」と伝えられる「御書付」を家の戸口に張り付けたり、小袖の襟に縫いつけるこ(邪)との効能を記している。江戸情報については、ほとんどが当時の風聞である。江戸に関する記述のうち、火災や開帳
八
については「○」が付けられ、河井家の私的な事項と認識されており、地頭屋敷の動向や庖瘡の流行については「●」が付けられ村に関わる内容として認識されている。以上、述べてきたように「年代記」は様々な内容を含んでいる。これらの記述から元禄期から享保期にかけて野津田村が中世的慣習を有しながらも、近世村落として組織化されていく様子が窺われる。また、各事項の文頭に付けられた「●」・「○」は、その事項に対する当事者の認識が示されている。前地百姓の動向や村内の寺社に関する記載はそれ自体を見る限りでは村に関することと判断できるが(史料調査者の認識)、これらの記述の文頭には「○」が付けられ、河井家の私的な事項(当事者の認識)として認識されている。このような作成者の認識は近世初頭における同家と村との関係の上に形成されたものであろう。この「年代記」が同家所蔵文書を用いて書かれている点を考慮すれば、「●」・「○」は作成者の文書認識を示していると言えよう。(三)「野津田村年代記」に見る名主の文書管理「年代記」は先に述べたように、河井家が所蔵していた文書をもとにまとめた野津田村の歴史である。「年代記」(”)中には「委細其節之帳面袋栫入候」・「日光御用一通之袋二
近世村落における名主の文書管理と「旧記」の作成(岩橋) (配)(羽)入置申候」・「諸事之儀ハ御狩一同袋二人置候」L」いった記述があり、「年代記」の記述のもとになる文書の存在を示している。このような記述から「年代記」作成にあたり、河井亦市がそれまで同家で保管していた文書を用途ごとに再整理したことがわかる。以下では「年代記」の記述をもとに同家における文書管理の実態について述べていきたい。河井家が袋に納めて管理した文書は家政に関する文書と名主の職務に関する文書に大別できる。さらに名主の職務に関する文書は、野津田村一村に関する文書と野津田村他数ヶ村にわたる広域支配に関する文書とに区別できる。なお、ここでの家政に関する文書と名主の職務に関する文書との区別は「年代記」中の記述の文頭にある「●」・「○」を基準とし、「年代記」の作成者、河井亦市の文書認識に従った。以下では同家が整理した文書について具体的に見ていくことにする。①家政に関する文書河井家の家政に関する文書として管理されていた文書としてはまず同家の屋根の葺替に関する文書があげられる。「年代記」の享保二○年(一七一一一五)八月条に、家普請の経緯が書かれており、その末尾に「委細ハ葺替一同書類入
九
法政史学第四十六号
(卯)候袋二帳面致入置候、勿論当年之日記二日切二記置候」とあり、屋根替の入用等を記した帳面を家普請関係文書を納めた袋に一括したことが示されている。このほか、家政に関する文書として管理されたものには元禄一二年(’七○○)閏九月一五日、東福寺の境内山入札の際に作成された(別)文書がある。また、文書袋には納め『られていないが、家政関係文書として管理されたものには、享保一四年(’七二九)四月、花厳院老僧頼尊法印の葬式に際して作成された(蛇)香璽帳、一早保一一○年(’七一二五)に作成された同族団によ(卵)ろ光明真一一一一口講の帳簿がある。寺社に関わる文書が家政関係文書として管理されているのは、先述の通り、近世初期に同家が村中の寺社を再興したという伝承に基づく認識によるものである。②野津田村に関する文書名主の職務として作成・管理されたもののうち、野津田村一村に関するものとしては、村内における争論(元禄一六年九月条・元禄一七年六月一九日条)、伊勢参宮(享保九年正月一四日条)、堰普請(享保一四年条)、旗本山口氏の屋敷普請(享保一七年条)、橋普請(享保一七年条)がある。元禄期の争論はいずれも評定所の裁許をうけているものである。 ここでは一例として享保一四年(一七二九)の堰普請について見ていきたい。野津田村では前年の洪水の影響で普請所が増加したため、四給名主の相談の上、普請所目録を作成し、享保一四年(’七二九)二月、それぞれの領主に対して提出した。その後、旗本富田氏による普請所の検分が行われ、四給惣百姓の負担によって普請がなされた。この普請に関する文書については、「年代記」に「右普請一(狐)同袋栫尤委細致訳書入置候」とあるように、一括して袋に入れて管理された。この時、普請の経緯を記した「訳書」を袋に入れ、後日の控えとした。享保六年(一七二一)以降、分郷によって河井家は旗本山口氏の知行地の名主となるが、四給名主の中心的存在であり、その関係から山口領に限らず広く野津田村に関わる文書が管理されていた。これは、その一例である。③広域支配に関する文書野津田村およびその周辺村々を含む広域支配に関する文書としては、鷹場(享保四年三月九日条)、猪狩(享保一四年正月一一九日条)・日光社参(享保一三年一一月一一日条・同年四月条)に関するものがあげられる。まず、鷹場について見ていきたい。(羽)〈史料4〉
○
●三月九日二九山権兵衛江戸へ罷越、御鳥見高月忠右衛門様御世話一一而小石川御餌差志村甚右衛門様弟子餌差二罷成、十一日一一罷帰、則小栗長右衛門様御焼印札二枚受取罷帰、依之三月十七日二右御札井甚右衛門様へ差出候証文写致御鷹場御用袋二人置享保元年(’七一六)、鷹場制度が再興され、同三年二七一八)綱差役の六筋常駐化が定められた。この時、在地から綱差役がとりたてられたが、野津田村百姓権兵衛もその一人であった。権兵衛は鳥見高月忠右衛門の扱いにより、餌差志村甚右衛門のもとで綱差役見習を勤めた。その後、権兵衛は享保六年二七一一一)綱差本役となり、武(洲)蔵国荏原郡上目黒村(現東京都目黒区)へ移住した。この記述は文頭に「●」が付いていることから、名主としての職務として書かれたものと思われる。河井家では権兵衛が小栗長右衛門から受け取った焼印札と餌差志村甚右衛門へ提出した証文の写を「御鷹御用袋」に納めて管理した。しかし、権兵衛家は河井家の分家であり、同家から幕府の鷹場役人に取り立てられたという点では、この史料は家に関する記述でもある。同家では〈史料2〉に見られるように同家と領主とのパーソナルな関係を示す文書は家政に関する文書として認識されているのだが、権兵衛に関する文書
近世村落における名主の文書管理と「旧記」の作成(岩橋) は村に関する文書として「鷹御用袋」に他の鷹場文書と共に納められた。野津田村が御捉飼場であったことから、このように認識されたものと思われる。次に享保一三年(一七二八)の日光社参について見ていきたい。享保一一一一年(一七二八)二月、日光社参に伴う人馬徴発と触次名主・宰領役の取り決めを命じた廻状が野津田村名主久米右衛門(河井家分家・旗本富田氏の知行地の名主)へ届けられた。これをうけて、野津田村はじめ近隣村々の名主による寄合が行われ、触次名主が決定された。その後、同年二月下旬に至って小野路村・木曽村が相州矢倉沢より上川へ続く往還の人馬継立を理由に人馬徴発が免除されたことから野津田村他四ヶ村も免除を願い出た。「年代記」中に「先年方津久井縣道志川占御菜之御鮎持送人足相勤候訳申立、御赦免之願申上候而可然段時々申合セ、二月末二野津田村情太夫方江上小山田・下図師・大蔵・三輪右四ヶ村之衆中両日寄合有之致相談候処、右御菜之儀(享保七年l筆者註)|元和年中b享保六丑之年迄年々相勤申候処、寅年5右御菜御買上二被仰付、依之只今程者人足等も差出不申候得共、道志川之儀今以商人付候而川運上年々差上ヶ御捨川ニハ無(Ⅳ)御座候」とあるように、野津田村他四ヶ村は江戸城への鮎献上の際、鮎持人足を勤めていたことを免除理由として主
 ̄
=
-
-
張した。その結果、野津田村他四ヶ村の要求は認められ、(犯)同年一二月一一日、伊奈半左衛門より「御用人足御赦免」が申し渡された。河井家では日光社参関係の文書と「御用人足(羽)御赦免」に至る経緯を書き留めた訳書とを「日光御用袋」に納めて管理した。「年代記」には、この記述の後に野津田村が鮎持人足を勤めた由緒が書かれている。享保一一一一年(’七二八)の記述には日光社参関係が多いが、このことについて「已後御伝馬等被仰付申立一一も仕候時分ノ為心得委細如此記置申(Ⅲ)候」と記している。「年代記」に日光社参について記述し、関連文書を保管したことは名主の職務上の必要性と五ヶ村の惣代として免除運動を行った河井家の顕彰を意味するものであろう。河井家では寛保元年二七四一)、「年代記」作成にあたり、同家でそれまで保管してきた文書の整理を行った。その整理方法とは文書を用途ごとに袋に納めるというものであった。袋に入れて管理された文書は大別すると、家政に関する文書と名主の職務として作成された文書とに分けられる。河井家の文書管理は基本的には同家における利用を基本としたものであり、近世後期に見られるように公開を前提としたものではない。よって同家の文書を用いて作成 法政史学第四十六号
された「年代記」は名主を勤めるであろう同家の子孫に対して職務の心得として書かれたものである。河井家の文書は、同家当主の事績を顕彰するものとして同家において管理されたのである。河井家では、近年にいたるまで天正期に発給された後北条氏照印判状二通については他見を禁じていた。この二通の文書は包紙に包まれており、包紙に他見を禁じる旨の文言が書かれている。この文言は、包紙の紙質と筆跡からおそらく、近世に記されたものであると思われる。つまり、公開を前提としない文書管理も存在したのであり、公開しないことによって逆にその文書の存在が認識され、文書を所持する同家の家格が保持されてきたのであろう。しかし、これまで述べてきたように河井家が管理してきた文書は同家をめぐる社会関係によって作成されてきたものである。したがって河井家が同家の利用に基づく文書管理を行っていたことも、同家をめぐる社会状況と無関係ではないであろう。
寛保元年(一七四二、野津田村名主河井亦市は同家の 三「野津田村年代記」作成の意義I記録管理方法の転換I
-
-
-
-
-
-
文書をもとに「野津田村年代記」を記した。「年代記」は同家の子孫のために書かれた村の歴史であり、この点に「年代記」作成の意義を見いだすことができる。しかし、これだけでは文書を利用し史料的根拠に基づく歴史が書かれたことの意義は説明できないであろう。多摩地域の事例に限れば、村落において歴史が書かれるようになるのは享保期以降である。武蔵国多摩郡落合村には村の歴史を記したものとして「当村記録帳」という史料が伝えられているが、その冒頭部分において、落合村名主川井五兵衛は村の歴史を書くに至った経緯について「当村之儀末世二至り難知之事多ク可有哉、為子孫之二右之二記録改置也、尤老人(Ⅲ)之語り伝へし事ハ無証拠也」と書いている。つまりは村の歴史は古老によって語られるものであり、音声による記録管理がなされてきたのである。「年代記」の作成は近世村落における記録管理のあり方の変化を示しているのではないだろうか。そこで、村落における記録管理のあり方について「年代記」の記述から考えてみたい。享保一二年(’七二七)以降の「年代記」の記述には文書の作成に関するものがいくつか見られる。まず、|例として「年代記」の享保一五年(’七三○)条を見ていきたい。
近世村落における名主の文書管理と「旧記」の作成(岩橋) (⑰)〈史料5〉(享保一五年条)●千右衛門殿遺跡之儀、大蔵喜左衛門殿執持一一而黒川浅右衛門殿一一男惣助殿被致相談、三月十日吉日之由一一而九日ノ夜中同道被成、十日之婚礼首尾能相済候、持参金拾両ノ内此度五両御持参、残金之儀ハ其内喜左衛門殿御受取被遺候筈也、尤取替之証文互一一入置候この史料は野津田村百姓千右衛門の遺跡相続についての記述である。享保一五年(’七一一一○)、大蔵村百姓喜左衛門の扱いによって黒川村百姓浅右衛門二男惣助が千右衛門家の養子となり、同家を相続した。相続にあたり、史料中の傍線部に見られるように千右衛門家と浅右衛門家において証文が取り交わされた。このような百姓の相続に関する文書は河井家文書中では正徳四年二七一四)より残されている。また、「年代記」の享保一四年(一七二九)条には野津田村名主久米右衛門・清太夫(亦市)ら村役人の相談によって野津田村を多摩郡鴨志田村小屋頭半助の「留場」とすることを取り決めた記述がある。この時、村側と半助との間において、半助手下幸八が野津田村を廻ること、および半助への合力は多摩郡図師村と同様とすること、が定
められた。なお、この記述の末尾に「委細ハ書付久米右衛門・清太夫両人方二差置候、勿論村方へも定之通書付相廻二字欠)(旧)し、留りち被返候問、番口訳書類袋入置候」とあり、久米右衛門と清太夫(亦市)が、この取り決めに際して作成した文書を所持し、村内百姓に対しては廻状によって、このことを知らせたのである。そして、河井家ではこの証文を袋に入れて保存した。このほか、村内における質地出入(享保一五年条)、借金出入(享保一五年条)に関する記述においても、どのような文書のやりとりがあったのかを記している。近世村落においては、〈史料5〉にあげたような百姓の相続証文をはじめ、様々な村内の取り決めが文書によって行われるのは当然のことである。では、なぜ「年代記」中に文書を作成したことを記したのであろうか。この点について河井家文書群の構成に関連させて考えてみたい。先述のように河井家文書は元禄期までに作成された文書は、そのほとんどが年貢関係文書である。このような河井家の文書の残存状況は、関東農村における名主家文書には一般的に見られるものである。野津田村は近世初頭に土豪百姓であった河井家によって開発された村である。同村は「山之根」と称される武蔵国多摩郡西南部に位置する山間 法政史学第四十六号
(帽)村落で、、氷高制が施行されていた。河井家は同家文書中の年貢受取手形が示すように寛永期頃までは柚木領の年貢請負人であった。安澤氏の分析によれば寛文六年(一六六六)の検地における同家の名請所持高は三一六石余りであったが、その後、同家の前地百姓に耕地を与えたことによって経営が縮小・分割され、寛文九年(’六六九)の所(妬)持高は一七九石余胴リに減少している。関東における近世初期の村落構造の研究成果によれば、野津田村に見られような土豪百姓の動向は一般的であり、土豪百姓は寛文検地を経て元禄期頃には土豪的性格が払拭され近世的名主へと変(〃)化を遂げたのである。このような近世前期までの村落状況と文書の残存状況を関連させて考えれば、近冊初期の村方文書に年貢関係文書が多く見られるのは、土豪百姓をめぐる社会関係によるものと言えよう。近世初期においては、主として領主と土豪百姓との間の年貢徴集に関して文書による意志伝達が行われていた。このため、村落には多数の年貢関係文書が残されるに至った。〈史料1〉に示したような文書は領主と土豪百姓との関係において作成されたものであるが、そこには、土豪百姓と前地百姓との関係も反映されていた。しかし、土豪百姓と前地百姓との関係は文書の作成を前提とす
=
四
るものではなかった。このために、土豪百姓と前地百姓との間で作成された文書は少ないのである。つまり、文書が存在しないという状況自体が社会関係の反映なのである。近世社会においては、文字以外の様々な情報伝達方法が存在したはずである。「年代記」中の庖瘡の流行等の記述に見られるように風聞もその一つである。また、〈史料3〉の事例に示されるような村役人による自主的な風俗取締りにおいて、取締りの議定書の作成が一般化するのは、これより後年であろう。〈史料3〉は議定書や請書が作成されなくても村落において取締りが行われていたことを窺わせている。そして、村の歴史も語られることによって(音声による記録管理)伝えられてきたものであった。「年代記」作成の意義はそれまで音声によって伝えられてきた村の歴史が文字によって表現されたことに求められよう。村の歴史を書くという行為は河井家文書群において寛文期以降、徐々に様々な文書が増加していること、および先述のように「年代記」中に文書の作成・管理を示す文言があることと無関係ではない。「年代記」の内容の中心になっている元禄期から享保期にかけて、村落では様々な情報伝達方法が存在しながらも文書による意志伝達が支配的になっていった。「年代記」の記述が示すように文書による
近世村落における名主の文書管蝿と「旧記」の作成(岩橋) 意志伝達は生活レベルまで浸透していったのである。ここ(蛆)に村落における文書主義社△室の成熟が見られるのである。寛保期に河井家が同家の文書を整理し、「野津田村年代記」を作成したことは文書による意志伝達が支配的になったという、それまでの記録管理のあり方の転換を意味している。そして、このような記録管理の転換は河井家をめぐる社会関係の変容に基づいているのである。最後に享保期以降の動向について、簡単にまとめておきたい。野津田村では宝暦期以降、年番名主制が導入されている。さらに文政一○年(一八二七)には、四給の領主より検地帳の取り調べが命じられ、これを契機に四給の村役人立会において寛文六年(一六六六)の検地帳とそれぞれが所持する書抜帳との照合が行われ、検地帳の写が作成さ(い)れた。こうして野津田村では一部の村方文書が村落に公開されるに至ったのである。
本論文では「野津田村年代記」をもとに近世中期の村落における記録管理について述べてきた。野津田村名主河井家では寛保元年二七四一)、自家の文書を整理し、「年代記」を作成した。この「年代記」は おわりに
五
多様な内容を含んでおり、特に文書の作成、管理に関する記述がなされている点に特色が見られる。「年代記」の記述をもとに河井家が整理を行った文書を分類すると、家政に関する文書と名主の職務上作成された文書に分けることができる。河井家では、その歴史的経緯から村内の寺社に関する文書、および前地百姓に関する文書は家政に関する文書として分類しており、そこに「年代記」の作成者の文書認識が示されている。このような河井家の文書整理は、同家内部における利用を前提として行われたものであった。この点から「年代記」は同家の子孫に対する村の歴史であり、名主の心得書であったと言えよう。そして、「年代記」の作成と文書の管理は同家の事績を顕彰する意味も持ったのである。しかし「年代記」作成の意義はこれだけではなく、村落における記録管理方法の転換をも意味していたのである。近世社会においては、文字以外の様々な情報伝達方法が存在していた。|例をあげれば、村の歴史は語られるものであって、書かれるものではなかった。河井家が寛保元年二七四一)以前に保管していた文書を新たに整理しなおし、村の歴史をまとめたことは様々な記録管理方法が存在するなかで文字による記録管理が支配的になったことによ 法政史学第四十六号
フ(》oさらに、本論文では河井家文書群の構成の検討から文書が歴史的社会関係の産物であることを述べた。同家文書群中、近世初期の文書のほとんどを占める年貢受取手形は当時の領主と土豪百姓との関係に基づいて作成されたものであり、さらには土豪百姓と前地百姓との関係を反映している。近世初期に年貢関係以外の文書が少ないという事実は土豪百姓をめぐる社会関係が文書を必要としないものだったからであろう。寛文期以降の村方文書の増大はまさに土豪百姓が近世的名主へと変化を遂げたことによるものである。このような変化は寛永一九年(’六四一一一)五月二四日付の「覚」において幕府が名主の年貢関係帳簿の作成を定(卯)めていることと土〕無関係ではないであろう。「年代記」の作成は享保期に至って文書による意志伝達と記録管理が村落に定着したこと象徴的に示している。そこには近世村落システムの形成と文書主義社会の成熟とが看取できるのである。このような文字による記録管理を浸透させるに至った社会関係の変容をもたらしたものが何であったのかは、今後さらに検討していかなければならない課題である。 ’一一一一ハ
註(1)富善一敏「近世村落における文書整理・管理についてl信州高島領乙事村の事例からl」(『記録と史料」二号、’九九一年)、同「近世村落における文書引継争論と文書引継・管理規定について」(『歴史科学と教育』第一二号、’九九三年)。(2)保坂裕興「村方騒動と文書の作成・管理システムー武蔵国秩父郡上名栗村を事例としてl」(『学習院大学史料館紀要』六号、一九九一年)。(3)大友一雄「近世社会における文書管理と文書認識l美濃国加茂郡蜂屋村を事例にl」(『史料館研究紀要』第二一一一号、一九九二年)。(4)文書整理論としては大藤修・安藤正人『史料保存と文書館学』(吉川弘文館、’九八六年)、塚本学「文学史料の整理をめぐる問題若干」白国立歴史民俗博物館研究報告』第四五集、’九九一一年)、菅原憲二「伊予国宇和郡一一一浦田中家文書調査中間報告」(千葉大学『人文研究』第二一号、’九九二年)、岡部真二「現地調査における史料整理の方法について」(『記録と史料』第三号、’九九一一年)、『牛久市小坂・斉藤家文書概要調査報告書』(牛久市編さん委員会、一九九三年)などがある。(5)歴史学と民俗学の相互交流については、塚本学氏が人類文明の所産の評価と、土着的な文化の評価との関係の重要性を主張している.塚本学「近世再考I地方の視点から
近世村落における名主の文書管理と「旧記」の作成(岩橋) I」(日本エディクースク「ル出版部、’九八六年)、村落景観については木村礎編『村落景観の史的研究』(八木書店、’九八八年)、石造物の分析を取り入れた研究としては村上直「江戸幕府代官の民政に関する一考察」(徳川林政史研究所『研究紀要』昭和四五年度、’九七○年)、羽賀祥二「史蹟をめぐる歴史意識’一九世紀前期の歴史と文化I」(『日本史研究」三五「’九九一年)などがある。(6)河井醇造家文書(東京都町田市)寛文六年「武川多摩郡野津田村御縄打帳」、関東近世史研究会編『関東甲豆郷帳』(近藤出版社、’九八八年)。(7)町田市史編纂委員会編『町田市史』上巻二九七四年)。(8)安澤秀一『近世村落形成の基礎構造』(吉川弘文館、’九七二年)。(9)『町田市史史料集』第五集(町田市史編纂委員会、’九七一一年)、’’二頁。(、)『町田市史史料集』第四集(町田市史編纂委員会、一九七一年)、’四九・’四三頁。なお、『町田市史』では、戌七月五日付の北条氏照印判状を永禄五年、丑三月一一○日付の北条氏照印判状を永禄八年発給としており、安澤氏の見解と異なる。ここでは安澤氏の年次規定に従った。(Ⅱ)註(9)、一四六頁。(胆)註(8)、八一頁。
七
(旧)註(9)、’四七頁。(u)註(9)、’九頁。(旧)註(9)、’三○頁。(旧)河井家文書については、町田市史室さん室『町田市史史料目録第四集野津田村河井将次家文書目録』二九七五年)、東京都教育委員会『南多摩文化財総合報告』第二分冊(’九六一年)がある。本稿成稿にあたり、これらの成果をもとに史料調査を行った。(Ⅳ)安澤前掲書では、この文書は元和期には野津田村が山崎村の枝郷であったことを示すと述べられている。(旧)河井醇造家文書、享保六年「相究申相談證文之事」(旧)河井醇造家文書、宝暦四年「覚」(別)河井醇造家文書、文化九年「願書之扣」(Ⅲ)「野津田村年代記」は『町田市史史料集』第五集に収録されている。書誌学的考察については同史料の解説を参照されたい。また内容の詳細については『町田市史』上巻を参照。(皿)拙稿「近世多摩地域における「旧記」と「郷土」(『法政大学大学院紀要』第二九号、一九九二年)、「近世後期における歴史意識の形成過程l武蔵国多摩郡を中心にしてl」(『関東近世史研究」第三四号、一九九三年)・(羽)註(9)、二○頁。(皿)註(9)、二○~二一頁。(閉)註(9)、’一二頁。河井家の家譜にこのような記述が 法政史学第四十六号
あることから、同家ではこのように認識していたもの思われる。(別)註(9)、七六頁。(町)註(9)、七八頁。(閉)註(9)、六六頁。(別)註(9)、六九頁。(釦)註(9)、九五頁。(別)註(9)、二四頁。(釦)註(9)、七○頁。(胡)註(9)、九二頁。(別)註(9)、六九頁。(妬)註(9)、五三頁。(弱)権兵衛家については「綱差役川井家文書」(目黒区教育委員会、’九八二年)を参照。(師)註(9)、六四頁。(胡×羽)註(9)、六五頁。(側)註(9)、六六頁。(u)佐伯弘次編『峯岸虎夫家文書』(多摩市教育委員会、’九九○年)、二四六頁。(岨)註(9)、七四頁。(蛆)註(9)、七一頁。(“)『近世初期の村方文書の特質については、木村礎「寛永期の地方文書」(日本古文書学会編『日本古文書学論集』皿近世Ⅱ、吉川弘文館、’九八七年)がある。
八
(妬)「山之根」地域に関する研究としては、神立孝一「「山之根九万石村高改帳」の基礎的研究」(『関東近世史研究』第二五号、’九八九年)がある。(岨)註(8)、’’九頁。(⑪)土豪百姓・「小領主」論については、朝尾直弘『近世封建社会の基礎構造』(御茶の水書一房、’九六七年)、水本邦彦『近世の村社会と国家』(東京大学出版会、’九八七年)、佐藤孝之『近世前期の幕領支配と村落』(嚴南堂書店、’九九三年)などがある。多摩地域については、大舘右喜『幕藩制社会形成過程の研究』(校倉書房、’九八七年)、村上直「関東幕領における八王子代官」(『日本歴史』第一八六号、’九六二年)、馬塲憲一「近世初期・武州多摩郡における土豪的農民の系譜と土着化」(『多摩のあゆみ』第四六号、一九八七年)、大石学「武州多東郡中野郷と小代官堀江家」(『多摩のあゆみ』第四六号、’九八七年)、同「近世江戸周辺農村の機能と性格l武州野方領の分析を中心にl」(徳川林政史研究所『研究紀要」昭和五八年度、’九八四年)、吉岡孝「近世村落における鎮守社の地所と神事」(村上直編『近世社会の支配と村落』文献出版、一九九二年)などがある。また、土豪百姓の意識の問題を扱ったものとして、根岸茂夫「近世前期武蔵における土豪層の家伝と家意識l「道祖士氏伝記」を中心にl」(『埼玉地方史』二四、’九八七年)がある.(蛆)註(9)、’四三頁。
近世村落における名主の文書管理と「旧記」の作成(岩橋) (蛆)文書主義社会について論じたものとしては、網野善彦「日本の文字社会の特質をめぐって」(『列島の日本史』五、’九八八年)、青木美智男「近世の文字社会と村落の文字教育をめぐってl『長野県史』通史編近世と網野氏の近業に刺激されてl」(「信濃』第四二巻二号、’九八八年)がある。(印)石井良助校訂『徳川禁令考』前集第五(創文社、」九五九年)’五四頁。この法令の分析は、安澤前掲書一六七頁においてなされており、安澤氏は、寛永末年に出された年貢関係帳簿に関する一連の法令とこの時期の村方騒動との因果関係を指摘している。寛永期にこのような文書作成に関する法令が出されていること自体が、それ以前の村落構造の変質を意味している。〔付記〕本論文は一九九三年度法政大学史学会大会報告および平成四年度国立国文学研究資料館史料館主催史料管理学研修会提出レポートをもとに作成したものである。成稿にあたっては法政大学大学院指導教授村上直先生をはじめ史料管理学研修会の先生方に御指導いただいた。また史料閲覧にあたり、河井醇造氏に便宜をはかっていただいた。記して感謝の意を表する次第である。
=
九