来迎寺書院の襖絵について
著者 中野 志保
雑誌名 文化學年報
号 62
ページ 449‑466
発行年 2013‑03‑15
権利 同志社大学文化学会
URL http://doi.org/10.14988/00027751
来迎寺書院の襖絵について
著者 中野,志保
雑誌名 文化學年報
号 62
ページ 449‑466
発行年 2013‑03‑15
権利 同志社大学文化学会
URL http://doi.org/10.14988/00027751
来 迎 寺 書 院 の 襖 絵 に つ い て
中 野 志 保
は じ め に 浄土
宗西 山禅 林寺 派の 紫雲 山来 迎寺
︵京 都 市 中京 区
︑以 下﹁ 来 迎寺
﹂︶ の 書 院 には
︑江 戸 時 代に 制 作 され た と 考 えら れ る襖 絵が 二十 六面 現存 して いる
︒本 稿で は︑ これ らを はじ めて 紹介 し︑ 美術 史上 に位 置付 ける こと を試 みる
︒ 来迎 寺の 歴史 は︑ 開基
︑詮 空上 人音 祐大 和尚 が︑ 寛永 七年
︵一 六三
〇︶ に︑ 現在 の油 小路 六角 西入 越後 突抜 町あ たり に 来迎 庵を 築い たこ とに 始ま る︒ 二代 目住 職の 立空 上人 貞雲 和尚 の時
︑寛 永十 七年
︵一 六四
〇︶ に︑ 現在 の地 に移 り来 迎 寺 を 建立 し た︒ そ の後
︑享 保 十 六 年︵ 一七 三 一︶ と 天明 八 年︵ 一 七八 八
︶に 起 こ っ た︑ い わ ゆ る 天 明 の 大 火 に よ っ て
︑少 なく とも 二回
︑寺 域内 の建 物が 焼失 した と考 えら れて いる
!
︒そ の後 の建 造 物 の歴 史 を 詳ら か に する 同 時 代 資料 は 見つ かっ てい ない が︑
﹃ 京都 府の 近世 社寺 建築
近 世 社 寺建 築 緊 急調 査 報 告 書﹄
︵京 都 府 文化 財 保 護課 編
︑一 九 八 三︶ に よ れ ば︑ 調査 時 点 での 本 堂 は︑ 嘉 永三 年
︵一 八 五〇
︶に
︑観 音 堂 は︑ 元 治 元 年︵ 一 八 六 四︶ に 建 立 さ れ た 建 物 と い う
︒本 稿で 取り 上げ る障 壁画 のあ る書 院は
︑江 戸時 代に も建 てら れて いた と思 われ るが
︑江 戸時 代の 建立 や改 修に 関す る 記録 は残 って いな い︒ 現在 の書 院及 び観 音堂 は︑ 平成 八年
︵一 九 九︶ に 改修 が 施 され た"
︒書 院 の一 階 の 二 室︑ 二階 の 三室 には
︑こ の改 修以 前か ら伝 えら れた 襖絵 が︑ 上述 の通 り二 十六 面設 置さ れて いる
︵障 壁画 配置 現状 図︑ 以下 現状
― 449 ―
図
︶︒ 襖 絵の 内訳 は︽ 楼閣 山水 図︾ 四面
︑︽ 老松 図︾ 八面
︑︽ 群 鷺図
︾四 面︑
︽竜 王図
︾十 面と なっ てお り︑
︽老 松図
︾に は狩 野永 岳︵ 一七 九〇
〜一 八六 七
︶の
︑︽ 竜 王 図︾ には 塩 川 文麟
︵一 八
〇 八
〜七 七
︶の 落 款 が あ る
︒こ れ ら の襖 絵は
︑平 成八 年︵ 一九 九六
︶の 改修 以前 は︑ 障壁 画配 置復 元図
︵以 下
︑復 元 図︶ の 通り 配 置 され て い た︒ 以 下︑ これ ら 四 つの 画 題 の襖 絵 を︑ 制 作年 代が 古い と考 えら れる もの から
︑順 次紹 介し てい く︒ 一︑ 筆 者 不詳
︽ 楼 閣山 水 図
︾に つ い て 現在
の書 院一 階大 広間 の西 側︑ 南よ りの 四面 の襖 絵は
︑改 修前 後で 位置 は 変 わ って い な い︵ 現状 図
・復 元 図 参照
︶︒ こ こ には
︑楼 閣 山 水が 紙 本 墨 画 で描 かれ
︑金 砂子 がま かれ てい る︒ 款記 や印 章は 見あ たら ない
︒四 面と も 四周 に補 紙が ある こと から
︑制 作当 初は 現状 より 一回 り小 さい 画面 であ っ た と 考え ら れ る︒ 紙の 縦 寸 法 の平 均 値︑ 三 十三
・三 セ ン チメ ー ト ル は︑ 他 の ど の障 壁 画 よ り も 狭 い︒ こ う し た 本 紙 寸 法 に 加 え
︑以 下 述 べ る よ う に
︑本 図は
︑様 式の 点か らも
︑来 迎寺 障壁 画の なか では
︑最 も古 い画 面と 考 えら れる
︒ 画面 は︑ 全体 とし ては
︑モ チー フが 少な く︑ 余白 が多 いと いう 印象 をう け る が︑ 右 端の 一 面 は︑ 比較 的 モ チ ーフ が 多 く︑ 屋根 が 重 なる 楼 閣 群 と︑
楼閣山水図 紙本墨画 4面
来迎寺書院の襖絵について ― 450 ―
その 手前 に水 辺と 岩 場 があ る
︒最 も 手前 の 建 物 の窓 辺 に は︑ 唐風 装 束 の人 物 が 座 り︑ 水辺 に浮 かぶ 小舟 の方 向を 見る 様子
︒建 物の 右手 に生 える 三本 の樹 木は
︑い ずれ も短 い線 をつ なげ て輪 郭が 描か れて いる
︒他 方︑ 建物 の左 手に ある 岩場 の皺 は淡 く︑ 柔ら かい 雰囲 気が 特徴 的で ある
︒岩 場は
︑補 筆部 分を 経て
︑右 より 二面 目に また がる 山に 繋が る︒ 右端 一面 の上 部に は︑ 補筆 部分 の山 の稜 線︑ その 奥に 塔が
︑塔 の右 下に
︑建 物群 と積 雪の 峰が 見え るが
︑画 面が 摩耗 して おり
︑図 様は 判然 とし ない
︒ 右 より 二面 目の 上部 は︑ 山の 頂き が描 かれ る︒ 山の 中腹 にも 峰が 描か れ︑ 下部 は岩 場に 繋が るが
︑そ れ以 外に
︑山 の稜 線は 描か れず
︑描 写は 限定 的で ある
︒残 る二 面目 のモ チ ーフ は
︑下 部 左側 の 二 本の 樹 木 の みで あ る︵ 挿 図1
︶︒ 右 は大 き な 松︑ 左 は比 較 的小 さい 別種 の樹 木で
︑い ずれ も根 元か ら立 ち上 がっ てす ぐ横 に伸 び︑ 再び 垂直 に上 方に 向か う形
︒大 きさ の違 う線 対 称に なっ てい る︒ 描線 は一 面目 の建 物群 横の 樹木 と同 じ︑ 太く 短い 線を 繋げ て輪 郭を 描い てい る︒ 右よ り三 面目 の主 たる モチ ーフ は︑ 画面 右下 に集 中し てい る︒ 最も 大き い楓 の大 樹は
︑S 字状 にカ ーブ を描 きな がら 大 きな 幹を 伸ば し︑ 生命 力を 感じ させ る形 態で ある
︒他 の樹 木同 様︑ 輪郭 線は 太く
︑短 い︒ 樹下 の高 士は
︑唐 風装 束で 杖 を持 ち︑ 向か って 左側 を向 く︒ 顎鬚 をた くわ え︑ 強い 意志 を感 じさ せる 面差 しの 横顔 であ る︒ 高士 の方 に向 かっ て何 か を 捧 げ持 つ 従 者は
︑後 頭 部 が 描か れ 表 情は 見 え ない
︒両 者 と も 衣装 の 輪 郭線 は 太 く濃 く
︑直 線 的 だ が
︑高 士 の 顔 面 や
︑従 者の 頭髪 など は淡 墨で 繊細 に描 かれ てい る︒ 彼ら の進 行方 向手 前に は︑ アー チ型 の橋 があ り︑ 画面 中央 の左 端に 小 舟が 二艘 ある こと から
︑橋 の周 辺よ り上 は水 辺と わか る︒ 小舟 はい ずれ も無 人だ が︑ 帆を 張り
︑上 に燈 籠や 積荷 があ る など
︑描 写は 細か い︒ この 二艘 のす ぐ左
︑三 艘目 の舟 は右 より 四面 目に 描か れて いる
︒摩 耗と 後補 の金 砂子 で見 え難 く なっ てい るが
︑画 面左 端の 下部 には
︑樹 木の 輪郭 線が あり
︑こ れら は︑ 右よ り四 面目 の右 下部 の柳 と一 連の もの と思
挿図1 楼閣山水図 右より2面部 分
― 451 ― 来迎寺書院の襖絵について
わ れる
︒ 右よ り四 面目 は︑ 三面 目か ら続 く一 連の モチ ーフ
︑す なわ ち右 下部 の柳 二本 と︑ 中央 右端 に描 かれ た小 舟の みが
︑モ チ ーフ とし て確 認で きる
︒柳 二本 は︑ 右側 が小 さく
︑左 側が 大き い︒ いず れも 外側 に向 かっ て︑ 斜め 上方 に伸 び︑ 右よ り 二面 目の 樹木 同様
︑大 きさ の違 う線 対称 の形 態で ある
︒水 辺に 浮か ぶ三 艘目 の小 舟に は︑ 乗っ てい る人 物の 輪郭 線が 見 える が︑ ディ テー ルは 磨滅 して いる
︒残 りの 空間 は︑ 広い 余白 とな り︑ 金砂 子が まか れて いる
︒ この よう に︑ 本図 の特 徴は
︑主 たる モチ ーフ を右 端一 面と 画面 下部 に集 中さ せ︑ 余白 を広 くと る点
︑樹 木を
︑幾 何学 的 形態 で︑ 短く 太い 輪郭 線を つな げて 描く 点︑ また
︑淡 くや わら かな 岩の 皺法
︑人 物や
︑道 具類 など に︑ こま やか で繊 細 な描 写が 施さ れる 点に ある と言 える
︒ こう した 墨画 山水 にお ける 広や かな 余白 とモ チ ー フの 集 約 は︑ 寛永 十 一 年︵ 一 六三 四
︶︑ 名 古屋 城 上 洛殿 の 障 壁 画制 作 以降
︑狩 野探 幽︵ 一六
〇二
〜七 四︶ によ って 定型 化さ れた 狩野 派の 新 機 軸の 一 つ とさ れ て いる
︒!
ま た
︑モ チ ー フの 幾 何 学 的形 態 は︑ 元 和か ら 寛 永 期︵ 一六 一 五
〜四 五
︶に お け る 狩 野 派 の 傾 向 の 一 つ と し て 指 摘 さ れ て い る"
︒す な わ ち
︑本 図は
︑余 白や
︑モ チー フの 扱い
︑ま たそ の形 態の 特徴 から
︑寛 永期 の制 作︑ しか も狩 野派 の系 統の 絵師 の手 によ る 可能 性が ある と考 えら れる
︒さ らに
︑短 い輪 郭線 を繋 げる 筆法 から
︑筆 者を 絞る なら ば︑ 例え ば︑ 狩野 興以
︵?
〜一 六 三六
︶筆
︽山 水図 屏風
︾︵ 東 京国 立博 物館 蔵 十七 世紀
︶や
︑二 条城 二の 丸御 殿黒 書院 障壁 画︽ 楼閣 山水 図︾
︵筆 者不 詳
︑元 離宮 二条 城事 務所
十 七世 紀︶ に描 かれ た樹 木に
︑本 図に 近い もの が見 いだ され る︒ 余白 に金 砂子 を蒔 き︑ 比較 的 柔ら かな 皺法
︑要 所で の繊 細な 墨の 使い 分け も
︑本 図 とこ の 二 図に 共 通 す るこ と か ら︑ 本図 は
︑狩 野 派の な か で も︑ 探 幽や 興以 とい った 寛永 期に 活躍 した 主要 陣営 から
︑そ う遠 くな い絵 師の 作で ある 可能 性も 考え られ よう
︒
来迎寺書院の襖絵について ― 452 ―
二︑ 狩 野 永岳 筆
︽ 老松 図
︾ につ い て 現在
の書 院一 階大 広間 の西 側押 入の 襖四 面お よ び 同 二 階 北 側 和 室 の 南 側 の 四 面 の 合 計 八 面
︵現 状 図 参 照
︶に は
︑紙 本 墨 画 で︽ 老 松 図
︾が 描 かれ
︑金 砂子 がま かれ てい る︒ 今は 二室 にあ る これ らの 襖八 面は
︑改 修前 は︑ 一階 広間 の西 側 四 面 と
︑南 側 四 面 と し て
︑つ な が っ て い た
︵復 元図 参照
︶︒ 画面 を見 ると
︑ま ず︑ 西側 四面 には
︑右 上方 か ら 左 下 方 に 向 か っ て 伸 び る 太 い 枝 が 描 か れ る
︒右 より 二面 目で 主枝 はい った ん上 方向 に伸 び てか ら︑ 再び 左下 方へ 伸び
︑枝 先は
︑右 より 四 面目 の右 端に 至る
︒他 方︑ 枝分 かれ した 細い 方 の枝 は右 下方 へ伸 び︑ 右よ り一 面目 の右 端か ら はみ 出す 勢い であ る︒ 枝の 表皮 は︑ 淡墨 の柔 ら かい 筆で
︑大 振り のタ ッチ と細 かい タッ チを 巧 みに 使い 分け て隈 取り され
︑そ の凸 凹し た質
老松図 紙本墨画 旧西側4面
老松図 紙本墨画 旧南側4面
― 453 ― 来迎寺書院の襖絵について
感が 丁寧 に再 現さ れて いる
︒ま た︑ 葉叢 を構 成す る松 葉は
︑一 本一 本︑ 割れ た筆 で引 っ掻 いた よう な︑ 繊細 な線 で描 かれ
︑淡 墨で 描い た上 に濃 墨を 重ね るた め︑ 立体 感が 生 まれ て い る︵ 挿図 2︶
︒ 下枝 は
︑濃 い 墨 で︑ 手早 く 伸 びや か に 描か れ て い る︒ 右端 の 一面 には
︑中 央左 下に
︑﹁ 文 政 丁亥 夏 四 月/ 狩野 縫 殿 助 藤原 永 岳﹂ の 款記 と
﹁狩 野﹂
︵ 白文 八 角 印︶
︑﹁ 永 嶽
﹂︵ 朱 文方 印
︶︑
﹁ 脱庵
﹂︵ 白 文方 印︶ の印 章が ある
︵挿 図3
︶︒ 南側 四面 は︑ 左端 一面 に︑ 巨大 な松 の主 幹が
︑右 下方 から 左上 方に 伸び る︒ その 下部 には
︑大 きな 雨露 が勢 いあ る筆 致 で描 かれ てお り︑ 雨露 の右 手か ら生 える 大き な枝 が︑ うね りな がら 右方 向へ 上昇 し︑ 画面 中央 で二 股に 分か れる
︒一 方 は︑ カー ブを 描い て左 側に 曲が り︑ もう 一方 は︑ 右下 方へ 伸び る︒ 先端 は︑ 右端 一面 の引 手近 くに 至る
︒細 かい 筆を 重 ねて
︑丁 寧に 質感 を表 現し た︑ 鱗の よう な幹 の表 皮︑ 葉叢 や下 枝の 描き 方は
︑西 側四 面と 同様 であ る︒ こ のよ う に︑ 本 図は
︑画 面 全 体と し て は︑ 主 幹の 大 き さも さ る こ とな が ら︑ 勢 いよ く
︑う ね り な が ら 伸 び て い く 枝 が
︑意 志を 持つ 生物 のよ うな
︑伸 びや かさ があ り︑ 大樹 の生 命力 あふ れる 画面 とな って いる
︒他 方︑ 幹の 表皮 の質 感や 松 葉の 立体 感を
︑墨 の濃 淡を 使い 分け た細 やか な筆 遣い で再 現す る写 実的 な表 現も 特筆 に値 する
︒ 上述 した 款記 には
︑本 図は
︑京 狩野 家の 九代 目当 主︑ 狩野 永岳
︵一 七九
〇〜 一八 六七
︶が
︑文 政十 年︵ 一八 二五
︶四
挿図2 老松図 旧西側右より3面 目(部分)
挿 図3 老 松 図 落款・印章 来迎寺書院の襖絵について ― 454 ―
月 に描 いた こと が記 され る︒ 狩野 永 岳 は︑ 寛政 十 一 年︵ 一七 九
〇︶
︑ 京 の絵 師
︑影 山 洞玉
︵生 没 年 不詳
︑後 に 狩 野 永章 と 名の る︶ の息 子に 生ま れた が︑ 京狩 野家 の八 代目 当主
︑永 俊の 養子 とな り︑ 養父 が没 した 文化 十三 年︵ 一八 一六
︶に 九 代目 当主 を継 いだ
︒先 代ま でに 衰え てい た京 狩野 家の 勢力 を盛 り返 すべ く︑ 安政 度の 御所 造営 や︑ 桂宮 御殿
︵現 二条 城 本丸 御殿
︶等 宮中 の仕 事を はじ め︑ 妙心 寺︑ 大通 寺等 の大 寺院
︑彦 根藩 伊井 家︑ 紀州 藩徳 川家 等︑ 武家 の御 用も 勤め た
︒ま た︑ 京都 のみ なら ず︑ 近江 や摂 津︑ 飛騨 高山 の豪 商な ど︑ 幅広 い需 要者 を獲 得し
︑京 狩野 家の 最後 の光 芒を 放っ た と言 われ る絵 師で ある
︒画 風の 点で は︑ 桃山 様 式 から 円 山 四条 派
︑文 人 画︑ 復 古や ま と 絵︑ 中国 の 袁 派に 至 る ま で︑ 実 に多 様な 様式 を使 いこ なし
︑こ れら をま とめ 上 げ て︑ 独自 の 様 式を 作 り 上 げた と さ れる
︒な か で も︑ 三十 代 ま で は︑ 懐 古的 な桃 山趣 味を 強く した 作品 に特 徴が ある とい う!
︒ 本図 が制 作さ れた 文政 十年
︵一 八二 五
︶︑ 永 岳は 三 十 八歳 で あ る︒ 本 図に 先 行 する
︑文 政 八 年︵ 一八 二 三︶ 制 作 の妙 心 寺隣 華院 客殿 障壁 画で は︑
﹁ 現実 空間 と地 続き につ なが る よ う捉 え ら れた 一 つ の 地盤 の 上 に﹂
︑﹁ 力 強 く重 厚 さ を 感じ さ せる 景物
﹂を 展開 し︑ 自ら の解 釈す る﹁ 桃山
﹂様 式を 示し た"
︒ 本図 も ま た︑ 桃山 時 代 に端 を 発 する
︑大 樹 を 画 面構 成 の中 心に 据え る︑ いわ ゆる
﹁巨 木構 成﹂ をふ まえ てい る︒ 本図 の他
︑巨 木構 成を 取り 入れ た作 品に
︑旧 岡本 家伝 来の
︽若 松・ 老松 図︾
︵紙 本墨 画
︑六 曲 一双
︑京 都 国 立博 物 館 蔵︶ の 左隻
︽老 松 図︾ が 挙げ ら れ る︒ 京博 本 の
︽老 松 図︾ は︑ 一 本の 老松 が︑ うね りな がら 画 面 上方 に 伸 び︑ 桃山 時 代 の 狩野 派 の 巨頭
︑狩 野 永 徳︵ 一五 四 三
〜九
〇︶ の︽ 檜 図︾
︵紙 本 金地 著色
︑八 曲一 双︑ 東京 国立 博物 館蔵
︶に 代表 され る よ うな
︑桃 山 時 代盛 期 の 巨 木構 成 を 想起 さ せ る構 図 で あ る︒ デ ィテ ール は︑ 鱗の よう な幹 の表 皮を
︑細 やか な筆 遣い によ って 写実 的に 表現 し︑ 葉叢 の松 葉も
︑細 く︑ 繊細 な線 を重 ね て描 く点 に︑ 来迎 寺の
︽老 松図
︾と の強 い近 似性 が認 めら れる
︒京 博本 も来 迎寺 本も 同じ 巨木 構成 を踏 まえ た構 図だ が
︑京 博本 は︑ 地面 から 生え る主 幹が 垂直 方向 に伸 び︑ 枝も 細く
︑比 較的 形態 が律 せら れた 印象 があ るの に対 し︑ 来迎 寺 本に は地 面が なく
︑画 面下 部か ら太 い幹 が突 然立 ち上 がり
︑太 い枝 が画 面い っぱ いに 拡が るた め︑ より 迫力 ある 印象
― 455 ― 来迎寺書院の襖絵について
が 生ま れて いる
︒ この よう な来 迎寺
︽老 松図
︾の 構図 は︑ 二条 城二 の丸 御殿 障壁 画の うち
︑狩 野永 徳の 孫︑ 探幽 また は永 徳の 弟子
︑山 楽 が描 いた と言 われ る!
大 広間 四の 間の
︽松 鷹図
︾を 彷彿 とさ せる
"
︒と りわ け︑
︽ 松鷹 図︾ のう ち 南側 の 襖 四 面は
︑画 面 中 央 に左 下 方 から 右 上 方 に向 か う 主幹 あ り︑ 下 部の 大 き な 雨露 か ら 左側 に 大 きな 枝 が 伸 びる
︒こ れ を 左右 反 転 さ せ て
︑松 を左 に寄 せる と︑ 来迎 寺の
︽老 松図
︾の 構図 にか なり 近い もの とな る︒ 永岳 が︑ 文政 十年
︵一 八二 五︶ 以前
︑二 条 城 二 の丸 御 殿 障壁 画 を 見 たか ど う かは 分 か らな い
︒し か し︑ 永 岳が
︑永 徳 的 な盛 期 の 桃山 様 式 だ け で な く
︑そ の 末 期
︑桃 山様 式か ら新 しい 様式 の転 換期 と言 われ る作 品を も踏 まえ てい たの だと した ら︑ 本図 は︑ 永岳 の熱 心な 桃山 様式 探 求の 姿勢 がう かが える 作品 と言 えよ う︒ 三︑ 筆 者 不詳
︽ 群 鷺図
︾ に つい て 現在
の書 院二 階南 側和 室 の 北側 四 面︵ 狩 野永 岳 筆︽ 老 松 図︾ の裏 面
︶に は︑ 紙 本墨 画 で︑
︽ 群鷺 図
︾が 描 か れ︑ 金砂 子 がま かれ てい る︵ 現状 図参 照︶
︒ 改修 前 は︑ これ ら は︑ 裏 面の
︽老 松 図︾ と 同 様︑ 一階 の 大 広間 の 南 北を 間 仕 切 る襖 で あっ た︵ 復元 図参 照︶
︒ 款記 や印 章は 見ら れな い︒ 画面 全体 を見 渡す と︑ 右端 から
︑一 番手 前に 芦の 草叢 があ り︑ その 向こ う側 に陸 地が 見え
︑そ の奥 にも う一 度芦 の草 叢 と陸 地が ある
︒す なわ ち︑ 芦と それ が生 える 地面 が︑ 重な りな がら
︑左 方向 へ広 がる 構図 であ る︒ 陸地 の奥 と画 面の 左 側は 水辺 にな って おり
︑こ の陸 地が 水に 囲ま れた 岸辺 であ るこ とが 分か る︒ 水辺 を挟 んだ 向こ う岸
︑遠 景に は︑ 森が 描 かれ
︑そ の向 こう に山 が連 なる
︒こ のよ うに
︑モ チー フが 緊密 に重 なり
︑少 しず つず れな がら
︑左 方向 に展 開す るこ と で︑ 画面 に奥 行と 安定 感が 生ま れて いる
︒
来迎寺書院の襖絵について ― 456 ―
陸 地に は︑ 鷺が 二十 九羽
︑画 面左 側の 遠山 から 飛来 する 鷺は
︑二 十一 羽描 かれ てい る︒ 鷺を 描く 筆遣 いは
︑細 く︑ 軽や かで ある
︒ど の鷺 も目 は楕 円形 で︑ 嘴の 形︑ 身体 の大 きさ は陸 地と 上空 で大 小2 種に 揃え られ てい る︒ 個性 のな い個 体が 無数 に群 れ︑ その 同じ 形の 反復 が︑ 画面 に不 思議 なリ ズ ム 感 を 与 え て い る
︒陸 地 に 生 え て い る 芦 も ま た︑ 大部 分が 左方 向へ
︑一 部が 左右 に傾 斜す るこ とで
︑画 面に 動き が出 てい る︒ 芦の 葉は
︑速 度と キレ のあ る筆 致で 描か れ︑ 淡墨 で描 いた うえ に濃 墨で 描く こと で︑ 草叢 全体 に立 体 感が 出 て い る
︵挿 図4
︶︒ さ ら に 芦 の 葉 の 間 に は
︑細 か い 点 状 で 穂 が 描 か れ︑ 筆者 の再 現性 への 細や かな 配慮 がう かが える
︒ こ のよ うに
︑本 図は
︑広 がり と奥 行き を持 った 安定 した 構図
︑写 実性 を意 識し た鷺 や芦 の細 やか な描 写に 特徴 があ る︒ 本図 の持 つ瀟 洒淡 麗な 印象 は︑ 一見 して 裏面 の狩 野永 岳筆
︽老 松図
︾の 豪快 さと は異 なる
︒し かし
︑モ チー フを 横へ 横へ と ずら し な がら 緊 密 に重 ね て 画 面 を 構 成 し︑ 広 が り と 奥 行 き を 感 じ さ せ る 画 面 は︑ 永岳 作品 の特 徴と して 指摘 され る と ころ で も ある
︒!
モ チ ー フに 見 ら れ る墨 の濃 淡を 使い 分け て立 体感 を出 す描 法も また
︑裏 面の
︽老 松図
︾の 松葉 にも 見ら れる
︑狩 野永 岳の 特徴 的な 描法 で あ る"
︒ 本図 の 紙 縦寸 法 の 平均 値 三 十 四・ 二セ
群鷺図 紙本墨画 4面
挿図4 群鷺図 右より2面目(部分)
― 457 ― 来迎寺書院の襖絵について
ン チメ ート ルが
︑︽ 老 松図
︾の 平均 値三 十四
・二 セン チメ ート ルと 同一 であ るこ とか らも
︑本 図は
︑︽ 老松 図︾ と同 時期 に
︑永 岳本 人か
︑あ るい は︑ 彼に 近い 周辺 絵師 によ って 描か れた 可能 性が 高い
︒仮 に永 岳本 人の 作と すれ ば︑
︽ 老松 図︾ と
︑そ の裏 面に 描か れた 本図 は︑ 豪壮 な巨 木図 から 瀟洒 淡泊 な花 鳥図 まで 自在 に描 き分 ける
︑彼 の画 域の 幅広 さを 示す 好 例と 言え るだ ろう 四 ︒
︑ 塩 川 文麟 筆
︽ 竜王 図
︾ につ い て 現在
︑書 院一 階仏 間北 側の 押入 襖二 面︑ 同大 広間 西側 の押 入襖
︽老 松図
︾の 裏側 四面
︑そ して
︑二 階の 南側 和室 の西 側 の四 面に は︑ 紙本 墨画 淡彩 で
︽竜 王 図︾ が描 か れ︑ 金 砂子 が ま か れて い る︵ 現 状図 参 照︶
︒ 改修 前
︑こ れ ら は︑ 書院 仏 間の 北側 と東 側︑ 南側
︑す なわ ち部 屋の 三方 を囲 んで いた
︵復 元図 参照
︶︒ ま た︑ 仏間 北側 押入 の左 の床 壁貼 付に は︑
︽釈 迦如 来図
︾が 紙本 墨画 淡彩 で描 かれ てい る︒ こち らは
︑改 修で 南側 に移 動し たも のの
︑︽ 竜王 図︾ 北側 二面 との 位置 関 係は 変わ って いな い︒ 北側 の襖 二面 のう ち︑ 右端 一面 には
︑海 や湖
︑池 など に住 み︑ 水を 司る 神と して 仏教 に取 り入 れら れた
﹁竜 王﹂ とそ の 従者 五名 が︑ 向か って 左側
︑す なわ ち︽ 釈 迦如 来 像︾ の 方を 向 い て海 上 に 立 つ︵ 挿図 5︶
︒ 最も 大 き く描 か れ る 男性 が 竜王 で︑ 長い 髭を 生や し︑ 尺を 持ち 左手 前に 向か って 拝す る︒ その 右手
︑頭 に小 さな 竜を のせ た竜 女は
︑竜 王に 桃を の せ た 盆を 捧 げ 持つ
︒竜 王 の 左 側︑ 若い 男 性 の従 者 は︑ 袖 のな か で 手 を組 み
︑竜 王 と同 じ く 左手 前 に 拝 す る 姿 勢 で あ る
︒目 と口 が小 さく
︑頬 と顎 が大 きい 特徴 的な 顔立 ちに は︑ 高雅 な雰 囲気 があ る︒ 竜王 の右 後方 に︑ 団扇 を掲 げる 従者 が 一人
︑基 本的 には 人間 の男 性の 姿だ が︑ 鼻と 顎か らド ジョ ウの よう な長 い髭 が生 えて いる
︒竜 王の 左後 方で 幡を 持つ 従 者 は︑ 身 体は 人 間︑ 顔 は魚 で あ る︒ そ の背 後 で 両手 を 合 わせ る 人 物 は︑ 顔と 身 体 は人 間 だ が︑ 頭 上 に 魚 を の せ て い
来迎寺書院の襖絵について ― 458 ―
る
︒団 扇を 持つ 従者
︑幡 を持 つ従 者︑ その 後方 の従 者の 三人 はす べて
︑海 洋生 物の 擬人 化さ れた 姿だ が︑ 擬人 化の 方法 が それ ぞれ 異な って おり
︑興 味深 い︒ 彼ら の足 下に は︑ 細か いし ぶき をあ げる 波頭 があ り︑ 波は 大き な弧 線を 描い て画 面左 側へ と打 ち寄 せて いる
︒東 側四 面 と南 側四 面は
︑い ずれ も海 面と 波︑ 岩場 を描 き︑ 画面 左右 下部 の岩 場と 波の 稜線 の繋 がり によ って
︑東
・南
・北 側の
竜王図 紙本墨画淡彩 北側2面
竜王図 紙本墨画淡彩 旧東側4面
竜王図 紙本墨画淡彩 旧南側4面 紙本墨画著色 釈迦如来図
1面
― 459 ― 来迎寺書院の襖絵について
画 面の 連続 が示 され てい る︒ 東側 四面 は︑ 画面 中央 に︑ 手前
︑中
︑奥 の三 か 所に
︑ま るい 丘陵 のよ うに 連な る白 い波 が描 かれ る︒ 左側 では 岩場 で波 が 激し く砕 け︑ 右側 では
︑波 が平 らか な形 で︑ 右方 向︑ すな わち 南側 画面 へ 向か って いく
︒南 側四 面に は︑ まる で巨 大な 白い 壁の 様に
︑中 央に そそ り 立つ 波が ある
︒波 の左 側︑ 岩場 に当 たっ て砕 け︑ 放射 状に 広が る波 しぶ き がア クセ ント とな って 画面 をひ きし める
︒こ れら 波の 描写 には
︑大 ぶり で
︑張 りの ある 流麗 な描 線が 使わ れ︑ 水面 や大 気の 変化 を表 現す る墨 の微 妙な 諧調 がこ れに 調和 し︑ 大胆 な洒 脱さ のな か に も 繊 細 な 写 実 性 が 感 じ ら れ る 画 面 と な っ て い る
︒南 側 四 面 の 右 下 部 に︑
﹁文 麟
﹂の 落 款 と︑
﹁鹽 文 麟 印
﹂︵ 白 文 方 印
︶︑
﹁ 子温 章﹂
︵ 朱文 方印
︶の 印章 があ る︵ 挿図 6︶
︒ 塩川 文麟
︵一 八〇 一〜 七七
︶は
︑幕 末か ら明 治初 期に かけ て活 躍し た四 条派 の絵 師︒ 安井 宮門 跡に 仕え
︑呉 春︵ 一七 五 二〜 一八 一一
︶の 門 下︑ 岡 本豊 彦
︵一 七 七三
〜一 八 四 五︶ に 師事
︒自 ら も︑ 幸 野楳 嶺
︵一 八 四四
〜九 五
︶︑ 野 村 文挙
︵一 八五 四〜 一九 一一
︶︑ 鈴木 松年
︵一 八四 八〜 一九 一八
︶な ど︑ 近代 京都 画壇 をリ ード する 逸材 を育 てた
︒先 述し た狩 野 永岳 と同 じく
︑安 政二 年︵ 一八 五五
︶の 御所 障壁 画制 作に 参加
︑万 延元 年︵ 一八 六〇
︶皇 女和 宮の 降家 の際 にも 調進 物 を制 作す る等
︑生 前に あっ ては
︑高 い評 価を 得て いた
︒そ れに も関 わ ら ず︑ その 画 業 につ い て の研 究 は 少 なく
!
︑現 状
︑充 分な 評価 が与 えら れて いる とは 言い 難い
︒
挿図5 竜王図 北側右より1面部分
挿図6 竜王図 落款・印章 来迎寺書院の襖絵について ― 460 ―
今日 まで に紹 介さ れて いる 作品 は︑ 風景 画︑ 次い で人 物画 が 多 く!
︑ 作風 は
︑微 妙 な大 気 の 変化 を 捉 え た︑ 所謂
﹁暮 靄 山水
﹂を 能く した と言 わ れる
"
︒人 物 画 で は︑ 仙人 や 高 士と い っ た伝 統 的 な 中国 の 画 題を 扱 っ た作 品 が 多 く#
︑ 本図 と 同じ よう に︑ 海上 に立 つ竜 王と 竜女
︑眷 属達 を描 いた 作 品 もあ る$
︒こ ち らは
︑来 迎 寺 の︽ 竜王 図
︾よ り も︑ 人 物の 数 が十 四人 と多 く︑ 描写 も詳 しい
︒来 迎寺 本と の前 後関 係は 不明 だが
︑深 く関 連す るこ とは 間違 いな い︒ 文麟 作品 全体 と 本図 を比 較す ると
︑目 が小 さく
︑頬 の大 きな 高雅 な雰 囲気 を持 った 独特 の人 間の 顔貌 や︑ 大気 や海 面の 変化 を︑ 微妙 な 墨の 諧調 で表 現す る点 が共 通す るこ とか らも
︑本 図が
︑塩 川文 麟の 筆で ある こと は明 らか であ る︒ 本図 の制 作年 代は
︑紙 の縦 寸法 の平 均値 五十 六セ ンチ メ ー トル が
︑来 迎 寺書 院 障 壁 画の う ち で最 も 大 きい こ と か ら︑ 本 図 が 最も 新 し い制 作 で あ ると 考 え られ る
︒ま た︑ 落 款か ら
︑﹁ 文 麟﹂ を 名乗 り 始 めた と さ れ る 天 保 七 年
︵一 八 三 六︶ 以 降 の 作で あ る と言 え る だろ う%
︒様 式 に よる 年 代 判定 が で きる だ け の 資料 が な いた め
︑﹁ 文 麟﹂ の落 款 の 字 体で
︑さ ら に制 作年 代を 絞っ てみ たい
︒文 麟の 落款 は︑ 年代 が経 つに つれ
︑﹁ 文
﹂が 小さ く︑
﹁麟
﹂が 大き くな り︑ かっ ちり とし た 楷書 風の 書体 から 草書 風の こな れた 書体 のも のが 増え てい く傾 向 に ある
&
︒本 図 の 落款 の 書 体は
︑安 政 五 年︵ 一 八五 八
︶の 制作 とさ れる
︽砂 子梅 柿鳥 流水 魚屏 風︾
︵ 京都 市美 術館 編﹃ 山水 から 風景 へ 京都 日本 画の 流れ
﹄京 都市 美術 館︑ 一 九九 五︑ 図五
︶の 落款 に近 い
︒し か し︑ 文麟 は
︑安 政 五年
︵一 八 五 八︶ か ら二 年 ほ ど︑ 江州
︵現 在 の 滋賀 県 蒲 生 郡︶ の 日野 に移 住し てい た'
︒ した がっ て︑ 本図 の制 作は
︑こ れに 近い 時期
︑嘉 永期
︵一 八四 八〜 五四
︶頃 と考 えら れる
︒ 本図 がこ の場 所に 描か れた 理由 は︑ 隣に ある 壁貼 付の
︽釈 迦如 来図
︾に 由来 する と考 えら れる
︒な ぜな ら︑ 竜王 が釈 迦 を拝 する 図像 は︑ 主に 黄檗 宗の 影 響 から
︑江 戸 時 代に 流 布 し た︒ その 例 と して は
︑呉 彬 筆︽ 仏涅 槃 図
︾︵ 長 崎県
・崇 福 寺蔵
︑万 歴三 十八 年﹇ 一六 一〇
﹈︶ や(
︑滋 賀県
・信 楽院 の天 井 画︵ 高 田敬 輔 筆 寛 法三 年
﹇一 七 四三
﹈︶ が 挙 げ られ る)
︒こ の
︽釈 迦 如来 像
︾は
︑様 式 上︑ また 保 存 状 態か ら
︑江 戸 時代 後 半 まで の 制 作 と考 え ら れ
︑︽ 竜 王 図
︾よ り も 古 い もの と思 われ る︒ すな わち
︽竜 王図
︾は
︑こ うし た 黄 檗宗 由 来 の図 像 に 典 拠を 持 ち︑ も とも と あ った
︽釈 迦 如 来 図︾
― 461 ― 来迎寺書院の襖絵について
に 合わ せて ここ に描 かれ たと 考え られ るの であ るが
︑そ のき っか けが どこ にあ った のか
︑今 回詳 細を 明ら かに する こと は
︑出 来な かっ た︒
結び に か えて
│
│ 来迎 寺 襖 絵の 来 歴 につ い て 文麟
が描 いた
︽竜 王図
︾は
︑こ の来 迎寺 の為 に描 かれ た作 品で ある 可能 性が 高い
︒し かし
︑残 る三 つの 障壁 画の 来歴 は
︑未 だ明 らか では ない
︒︽ 楼 閣山 水 図︾ は︑ 寛永 七 年︵ 一 六三
〇
︶あ る い は寛 永 十 七年
︵一 六 四
〇︶ の創 建 時 と 同時 代 の 作 品で あ り︑ も し︑ これ が 制 作 時点 か ら 来迎 寺 に 伝わ っ た も ので あ れ ば︑ 来迎 寺 の 創建 に 関 わ る大 き な 意 味 を 持 つ
︒ま た︑
︽ 老松 図︾ と︽ 群鷺 図︾ は︑ 狩野 永岳 ある いは そ の周 辺 絵 師の 作 で あ り︑ これ が 来 迎寺 の た めに 描 か れ たの か
︑他 の建 物に 描か れた もの が持 ち込 まれ たの かは 分か らな い︒ もし 後者 なら ば︑ 来迎 寺の 檀家 総代 を代 々務 める 小川 家
︵二 条陣 屋︶ から 来た もの では ない かと
︑来 迎寺 東祟 住職 にご 教示 頂い た︒ 小川 家は
︑米
・両 替商 を営 みつ つ︑ 公事 宿!
を営 んで おり
︑そ こで
︑江 戸や その 他の 地方 から 来た 武士 たち が︑ 二条 城 や 京都 所 司 代︑ 京都 町 奉 行所 に 出 向 くた め に逗 留し てい たと いう
"
︒武 家と の浅 から ぬ関 係を 持つ 小川 家が
︑狩 野永 岳に 障 壁 画制 作 を 発注 し て も不 思 議 で はな い
︒あ る い は
︑小 川 家 を 通 し た︑ 来 迎 寺 か ら の 発 注 と い う 可 能 性 も あ る︒ な ぜ な ら︑ 来 迎 寺 は︑ 元 治 元 年︵ 一 八 六 四
︶︑ 後 に十 五代 目徳 川家 将軍 とな る 一橋 慶 喜 の命 で 上 洛 した
︑江 戸 町 火消 し
︑新 門 辰五 郎
︵一 八
〇
〇〜 七五
︶と
︑そ の 子 分 達の 逗 留 先と な っ て いた
#
︒す な わ ち︑ 来迎 寺 に も武 家 と の 相応 の 繋 が り が あ っ た こ と が 想 定 さ れ る か ら で あ る
︒来 迎寺 書院 の襖 絵は
︑そ の美 術史 上に 占め る意 義は 一 方 なら ぬ も のが あ る が︑ 来 歴や 制 作 状況 は 不 明な 点 が 多 く︑ 今 後の 詳し い研 究が また れる
︒
来迎寺書院の襖絵について ― 462 ―
! 註
﹃ 紫 雲 山 来 迎 寺 本 堂 落 慶 法 要 及 び 西 山 上 人 七 五
〇 回 忌 法 要
﹄︵ 平 成 八 年 三 月 二 十 四 日
︶ の 案 内 に 来 迎 寺 二 十 世 聖 空 東 嶺 住 職 が 書 か れ た 挨 拶 文 に よ る
︒
"
平 成 八 年
︵ 一 九 九 六
︶ の 改 修 時
︑ 取 り 外 さ れ た 鬼 瓦 に は
︑﹁ 明 治 十 九 年
︵ 一 八 八 六
︶ 八 月
﹂ の 年 紀 が 入 っ て お り
︑ 前 回 の 改 修 が 明 治 十 九 年
︵ 一 八 八 六
︶ に 行 わ れ た こ と だ け が 分 か っ て い る
︒ 書 院 の 襖 の う ち
︑ 能 筆 で も 知 ら れ る 幕 末
・ 明 治 の 剣 豪
︑ 山 岡 鉄 舟
︵ 一 八 三 六
〜 八 八
︶ に よ る 漢 詩 文 の 貼 付 が
︑ 十 二 面 あ り
︑ そ の 款 記 が
﹁ 明 治 十 九 年 七 月
﹂ と な っ て い る こ と か ら
︑ 前 回 修 理 の 際 に 合 わ せ て
︑ こ れ ら が 書 か れ た 可 能 性 も あ る
︒
# 武 田 恒 夫
﹁ 第 二 章 家 法 一 変
﹂﹃ 狩 野 派 絵 画 史
﹄︵ 吉 川 弘 文 館
︑ 一 九 九 五
︶︑ 同
﹁ 第 四 章 近 世 画 壇 に み る 新 局 面
﹂﹃ 狩 野 派 障 屏 画 の 研 究
│ 和 様 化 を め ぐ っ て
│
﹄︵ 吉 川 弘 文 館
︑ 二
〇
〇 二
︶ 等 に お い て
︑ 探 幽 が 打 ち 出 し た 新 機 軸
﹁ 減 筆 体
﹂ の 特 徴 と し て
︑
﹁ 筆 数 の 省 略
﹂ と
﹁ 広 や か な 余 白 の 設 定
﹂︑ そ し て 筆 法 の
﹁ 草 体 化
﹂ が 指 摘 さ れ て い る
︒
$ 源 豊 宗
﹁ 元 和 寛 永 期 に お け る 幾 何 学 的 構 図 形 式
﹂﹃ 美 術 史
﹄ 五 十 号
︑ 美 術 史 学 会
︑ 一 九 六 三
% 高 木 文 恵
﹁ 伝 統 と 革 新
│ 京 都 画 壇 の 華 狩 野 永 岳
│
﹂﹃ 伝 統 と 革 新 京 都 画 壇 の 華 狩 野 永 岳
﹄ 展 図 録
︑ 彦 根 城 博 物 館
︑ 二
〇
〇 二
︑ 一 二
〇
〜 一 二 一 頁
&
松 本 直 子
﹁ 隣 華 院 改 修 と 狩 野 永 岳
│ 山 楽 回 帰 の 意 味
│
﹂﹃ 美 術 史
﹄ 五 十 四 号
︑ 二
〇
〇 五
︑ 二 八 五
〜 九
〇 頁 ' 二 条 城 二 の 丸 御 殿 障 壁 画 の う ち
︑ 大 広 間 四 の 間
︽ 松 鷹 図
︾ の 筆 者 は
︑﹁ 御 城 内 御 本 丸 二 之 御 丸 御 殿 向 絵 図
﹂︵ 紙 本 墨 画
︑ 江 戸 時 代
︑ 中 井 正 知
・ 中 井 正 純 氏 所 有
︑ 大 坂 市 立 住 ま い の ミ ュ ー ジ ア ム 寄 託
︶ の 記 載 に 基 づ き
︑ 狩 野 探 幽 と す る 説 と
︑ 桃 山 様 式 を 色 濃 く す る 構 図
︑ モ チ ー フ か ら
︑ 狩 野 永 徳 の 高 弟
︑ 狩 野 山 楽 と す る 説 が あ る
︒ ( 元 離 宮 二 条 城 事 務 所
・ 松 本 直 子 氏 の ご 教 示 に よ る
︒ ) 松 本 直 子 氏 は
︑﹃ 狩 野 永 岳 研 究
│ 様 式 選 択 の 論 理
﹄︵ 博 士 論 文
︑ 二
〇
〇 七
︶ に お い て
︑ 永 岳 の
﹁ 水 平 的 な 構 図
﹂ を 円 山
・ 四 条 派 と の 親 近 性 と 指 摘 す る
︵ 四 十 二 頁 他
︶︒
* 松 本 前 掲 論 文
︑ 二
〇
〇 七
︑ 六 十 二 頁 他 + 文 麟 の 経 歴 に つ い て は
︑ 没 後 か ら 戦 前 ま で
︑ そ の 略 伝 が 幾 つ か 書 か れ て は い る が
︑ 基 礎 研 究 と し て
︑ 落 款
︑ 印 章
︑ 先 行 研 究 を 大 系 的 に 整 理 し た 論 文 は
︑ 岩 田 由 美 子
﹁ 研 究 ノ ー ト
・ 塩 川 文 麟 の 画 歴 に つ い て
﹂︵
﹃ 滋 賀 県 立 近 代 美 術 館 研 究 紀 要
﹄ 第 一 号
︑ 滋 賀 県 立 近 代 美 術 館
︑ 一 九 九 五
︶ が ほ ぼ 唯 一 で あ る
︒ 他 に
︑ 原 田 平 作
﹃ 京 都 画 壇 江 戸 末
・ 明 治 の 画 人 た ち
﹄︵ ア ー ト 社 出 版
︑
― 463 ― 来迎寺書院の襖絵について
一 九 七 七
︶︑ 京 都 市 美 術 館 編
﹃ 山 水 か ら 風 景 へ 京 都 日 本 画 の 流 れ
﹄︵ 京 都 市 美 術 館
︑ 一 九 九 五
︶ に 掲 載 さ れ た 廣 田 孝 氏 に よ る
﹁ 塩 川 文 麟
﹂ 解 説 文 が
︑ 要 点 を 抑 え た も の と な っ て い る
︒
! 塩 川 文 麟 の 作 品 の 画 題 は
︑ 以 下 に 掲 載 さ れ た 写 真 図 版
︑ タ イ ト ル 等 で 確 認 し た
︒ 野 村 文 挙 編
﹃ 文 麟 翁 三 十 三 回 忌 遺 墨 展 覧 会 画 集
﹄ 画 報 社
︑ 一 九 一
〇 飯 塚 米 雨 編
﹃ 日 本 画 大 成
﹄ 第 十 四 巻
︑ 東 方 書 院
︑ 一 九 三 一 飯 塚 米 雨 編
﹃ 日 本 画 大 成
﹄ 第 二 十 一 巻
︑ 東 方 書 院
︑ 一 九 三 二 原 田 平 作 編
﹃ 京 都 画 壇 江 戸 末
・ 明 治 の 画 人 た ち
﹄ ア ー ト 社 出 版
︑ 一 九 七 七 京 都 府 文 化 財 保 護 基 金 編
﹃ 京 都 の 江 戸 時 代 障 壁 画
﹄ 京 都 府 文 化 財 保 護 基 金
︑ 一 九 七 八 京 都 府 文 化 財 保 護 基 金 編
﹃ 京 都 の 美 術 工 芸
﹄ 中 丹 編
︑ 京 都 府 文 化 財 保 護 基 金
︑ 一 九 八 一 京 都 市 美 術 館 編
﹃ 山 水 か ら 風 景 へ 京 都 日 本 画 の 流 れ
﹄ 京 都 市 美 術 館
︑ 一 九 九 五 岩 田 由 美 子
﹁ 研 究 ノ ー ト
・ 塩 川 文 麟 の 画 歴 に つ い て
﹂︵
﹃ 滋 賀 県 立 近 代 美 術 館 研 究 紀 要
﹄ 第 一 号
︑ 滋 賀 県 立 近 代 美 術 館
︑ 一 九 九 五
︶
"
原 田
︑ 岩 田
︑ 廣 田 前 掲 論 文
# 内 海 吉 堂 は
︑ 師 匠 の 文 麟 に つ い て
︑﹁ 其
︵ 岡 本 豊 彦
︶ の 弟 子 で 師 匠 文 麟 は 無 論 四 條 派 で あ り ま す が
︑ 精 神 は や は り 支 那 で
︑ 晩 年 に な つ て 蕪 村 を 学 び ま し た が
︑ も と も と 支 那 好 で す か ら
︑ 西 園 雅 集 と か
︑ 飲 中 八 仙 の や う な も の に な る と
︑ 芦 雪 や 南 岳 と 違 ふ て
︑ 其 時 代 と 人 物 の 風 来 な ど 熟 慮 し て 描 く と い ふ 方 で
︒
⁝
⁝ 支 那 の 楼 閣 人 物 は
︑ 殊 に よ く 描 き ま し た
︒﹂
︵ 黒 田 譲 著
・ 発 行
﹃ 名 家 歴 訪 録
﹄ 上 編
︑ 一 八 九 九
︑ 一 三
〇 頁
︶ と 語 っ て い る
︒
$ 野 村 文 挙 編
﹃ 文 麟 翁 三 十 三 回 忌 遺 墨 展 覧 会 画 集
﹄︵ 画 報 社
︑ 一 九 一
〇
︶ に
﹁ 京 都 熊 谷 治 八 君 蔵 竜 女 得 脱 図
︵ 法 華 経 の 意
︶﹂ と し て 竜 王 と 竜 女
︑ 眷 属 た ち を 描 い た 作 品 の 写 真 が 掲 載 さ れ て い る
︒ 彼 ら は
︑ す べ て 竜
︑ 鯛
︑ 河 豚 等
︑ 海 洋 生 物 の 頭 部 を 持 ち
︑ 首 か ら 下 は 人 間 の 姿 で あ る
︒ 海 洋 生 物 を 擬 人 化 し て い る こ と は 来 迎 寺 本 と 同 じ だ が
︑ そ の 方 法 が 統 一 さ れ て い る 点 は
︑ 来 迎 寺 本 と 異 な る
︒
% 岩 田 前 掲 論 文
︑ 二 十 二
︑ 二 十 七
〜 八 頁
&
滋 賀 県 立 近 代 美 術 館
・ 國 賀 由 美 子 氏 の ご 教 示 に よ る
︒ ' 岩 田 前 掲 論 文
︑ 二 十 八
〜 九 頁
来迎寺書院の襖絵について ― 464 ―
! 高 橋 亜 季
﹁ 研 究 ノ ー ト 長 崎
・ 崇 福 寺 蔵 呉 彬 筆
﹁ 仏 涅 槃 図
﹂
│ 水 上 の 龍 王
│
﹂﹃ 黄 檗 文 華
﹄ 一 二 四 号
︑ 二
〇
〇 五
"
國 賀 由 美 子 氏 は
︑﹁ 研 究 資 料 高 田 敬 輔 筆 信 樂 院 天 井 畫
﹂︵
﹃國 華
﹄ 一 三 六 八 号
︑ 二
〇
〇 九
︶ で
︑ 信 楽 院 本 堂 の 外 陣 北 室 に 八 大 竜 王 を
︑ 本 堂 の 仏 壇 後 壁 に は
︑ 釈 迦
・ 阿 難
・ 迦 葉 を 描 い て い る こ と を 紹 介 し て い る
︒
# 公 事 と は
︑ 今 で い う 民 事 裁 判 の こ と
︒ 小 川 平 右 衛 門 は
︑ 屋 敷 が 創 建 さ れ た 寛 文 年 間
︵ 一 六 六 一
〜 七 三
︶ 当 初
︑ 弁 護 士 や 司 法 書 士 の よ う な 仕 事 を す る
﹁ 公 事 師
﹂ と し て 身 を 起 こ し
︑ 屋 敷 は
︑ 公 事 の た め 江 戸 か ら 来 て 京 に 逗 留 す る 武 士 の た め の 宿 泊 施 設
﹁ 公 事 宿
﹂ と し て 使 用 さ れ て い た
︒
$ 二 条 陣 屋 ホ ー ム ペ ー ジhttp://nijyojinya.net/
の
﹁ 二 条 陣 屋 の 歴 史
﹂ よ り
% 新 門 辰 五 郎 と そ の 子 分 た ち の 来 迎 寺 滞 在 に つ い て は
︑﹃ 新 門 日 記
﹄︵ 紙 本 墨 書
︑ 一 冊
︑ 一 八 六 四
︑ 元 離 宮 二 条 城 事 務 所 所 蔵
︶ に 記 載 さ れ る
︒ 追 記 本稿 を成 すに 当た り︑ 貴重 な障 壁画 の調 査を お許 し頂 いた 紫雲 山来 迎寺 二十 世 聖空 東崇 住職 はじ め︑ 元離 宮二 条城 事 務所
・松 本直 子学 芸員
︑滋 賀県 立近 代美 術館
・國 賀由 美子 主任 学芸 員に は多 大な ご教 示︑ ご協 力を 頂い た︒ ここ に深 く 御礼 申し 上げ ます
︒
― 465 ― 来迎寺書院の襖絵について
大広間 北側 和室
南側 和室
西側 仏間 和室
広間
仏間
来迎寺書障壁画配置図
(現状)
(改修前)
来迎寺書院の襖絵について ― 466 ―