著者 菅田 明子
出版者 法政大学大学院
雑誌名 大学院紀要 = Bulletin of graduate studies
巻 75
ページ 178‑153
発行年 2015‑10‑31
URL http://doi.org/10.15002/00012240
序 章 本稿は︑明治維新期に各地に設立された郷学所と地域の関わりを明らかにす
ることを目指している︒東京府に隣接した品川県五番組 ︵
が開校した太子堂郷学 1︶
所を考察の対象とし︑これまで五番組が郷学所の開校資金を捻出する経緯や資
金調達の実態について︑考察してきた︒ここにいう﹁郷学所﹂は︑元来近世の
郷村に武士身分のために設けられた学校の意で︑﹁郷学﹂﹁郷校﹂とも呼ばれ︑
幕末維新期に激増した郷学所は︑百姓身分の人々を対象とする初歩的な教育内
容をもつ郷学所が多く︑学制公布時期の公立学校の礎となった郷学所もあった︒
品川県五番組は︑太子堂郷学所を明治四年︵一八七一︶正月二〇日に開校し
た︒当初︑五番組内の代田・赤堤・上馬引沢・等々力・池尻村の寺院を巡回し
ながら授業が行われた︒五番組は︑その後四月二三日に三軒茶屋に新築された
本校校舎で︑太子堂郷学所を改めて開校している︒同年八月には︑北沢村と衾
村に太子堂郷学所の分校も開校された︒この太子堂郷学所の開校に関わる経緯
や太子堂村についてその概要を︑次頁の表1﹁明治二〜七年太子堂郷学所と太
子堂村﹂に示した︒
明治五年八月三日の学制公布を経て︑六年六月二日に太子堂郷学所は太子堂
村幼童学所と名称を変え︑翌七年一月九日には第七大区第二中区四番小学荏原 学校として開校されている︒なお衾村の分校も衾村幼童所と改称の後︑明治七
年一月一二日に第七大区第二中区五番小学八雲学校として開校された︒
太子堂郷学所に関する先行研究は︑通史として論述されたものが大半を占め
ており︑これらの多く論考は明治二二年︵一八八九︶九月に荏原小学訓導・宮
野芟平が編纂した﹁元郷学所初ヨリ︑沿革誌甲号︑荏原郡大子堂村 公立荏原
尋常小学 ︵
論るが究研行先られこ︑は稿本︒いてっよに﹂︶号甲誌革沿﹁下以﹂︵ 2︶
述した太子堂郷学所の①建学の理念・教育方針︑②教授ならびに運営組織︑③
教育課程・授業︑④財政︵予算・決算︶などからも︑幕末維新期の教育に関し
て啓発されてきた︒主な先行研究には︑倉沢剛氏の﹁学制以前品川県郷学校の
発足 ︵
編所堂子太﹁るよに纂所学究研育教立都京東﹂︑郷 3︶︵
﹂︑井原政純氏の﹁世田 4︶
谷における郷学所の設立基盤・要因に関する一考察 ︵
目黒区教育委員会﹂︑による 5︶
﹁太子堂郷学所 ︵
子太立成の所学郷堂開﹁展の筆執氏彦安森﹂︑と 6︶︵
﹂があげられよ 7︶
う︒しかし︑﹁沿革誌甲号﹂は︑郷学所の教育内容に関連するる記録がその大
半を占め︑本稿が考察対象とした郷学所開校資金︑特に村民からの備金取立に
関する史料の多くが省かれている︒そのため郷学所開校資金︑特に五番組によ
る村方からの開校資金の調達︑さらには︑五番組の各村における資金調達に関
する研究は看過されてきたといえよう︒
品川県に奏上した五番組の﹁郷学所建言之別紙 ︵
も明﹂よれば︑少なく見て治 8︶
堂 尽 無 校 開 所 学 郷 子 子 太 と 姓 百 村 堂 太 講
人文科学研究科 日本史学専攻
博士後期課程三年
菅 田 明 子
三年︵一八七〇︶秋頃から︑五番組は郷学所の開校を図っていた︒拙稿﹁太子 堂郷学所の開校と品川県五番組 ︵
つ学に立積の金資校開所郷るよに域地︑はで﹂ 9︶
いて次の点を明らかにした︒品川県五番組では︑まず五番組有志の者が開校資
金五〇〇両を備金として積立てた︒続いて五番組は︑組合村の全二二ヶ村 ︵
から 10︶
の郷学所開校資金五〇〇両の調達について衆議を重ね︑無尽講による備金積立
を決定した︒五番組は明治四年三月から九月まで全村参加の無尽講を七会開催
し︑開校資金五〇〇両を集めた︒その後明治四年七月︑榎本平造・斉田平太郎・
月村重蔵等の五番組有志の者は︑全村による積立無尽講から有志者による永続
的な無尽講へと改変を図った︒この時永続化された無尽講による積立備金は︑
学制開始時期の荏原小学開校の礎となっている︒
五番組は︑このように有志者と全二二ヶ村のから太子堂郷学所開校資金一〇
〇〇両ほどを積立てたが︑これまでの論考には︑村々で実際に誰がどのような
状況下で郷学所開校無尽講に関わったかに焦点をあて︑考察した論考はなかっ た︒本稿は︑この状況を探ると共に︑百姓身分の人々にとって︑村に郷学所が
開校されることはどのような意味をもっていたのかを考察したいと考えてき
た︒管見の限りではあるが︑五番組二二ヶ村の内︑太子堂郷学所の無尽講に関
わる史料が伝わるのは︑荏原郡旧太子堂村森家文書︵現世田谷区︶と同郡旧衾
村岡田家文書︵現目黒区︶のみである︒この内︑名主森家文書には︑太子堂村
の記録が天保年間から幕末維新期まで二六〇〇点余り蓄積・保存されている︒
そこで︑本稿では︑太子堂村名主森家文書から︑地域の人々の状況と無尽講に
よる郷学所備金取立との関わりを明らかにしていきたい︒また︑この考察を通
して︑幕末維新期の江戸近郊地域の人々の教育に関わる心情や意識を明らかに
したいと願っている︒
第一章
太子堂村の百姓の社会・経済状況と太子堂郷学所開校無尽講
はじめに 本章では︑品川県五番組が実施した太子堂郷学所備金積立無尽講が︑幕末維
新期のどのような状況下に行われ︑それが当時の人々にとってどのような意味
をもっていたかを︑五番組の一ヶ村であった太子堂村の史料を手がかりに考察
していきたい︒本章では︑まず幕末維新期の太子堂村の百姓の経済的社会的状
況に関わる史料を探り︑郷学所開校備金の取立と百姓との関係を明らかにして
いきたい︒
第一節 太子堂郷学所開校無尽講と太子堂村 明治四年︵一八七一︶正月二〇日︑東京府に隣接した品川県五番組は︑﹁実 用便なる事ハ都而修業可為致事﹂と︑実用に役立つ学業修行の場として太子堂
郷学所を開校した︒太子堂郷学所の建学の理念は︑五番組が明治三年一一月品
年 月 日 太子堂郷学所・太子堂村等の事項 2 2 5 明治維新政府「府県施政順序」布達
3 太子堂村巳年宗門人別帳
3 1 22 太子堂村社倉米代金取立(小前持高調べ前年11月)
11 五番組月村重蔵他、郷学所建言別紙
(この頃)五番組斉田平太郎等14人、備金500両積立 4 1 20 太子堂郷学所開校(代田村円乗院にて巡回授業開始)
3 23 郷学備金仕法 1000本鬮各村割当
3 29 ・千本鬮初発無尽講開催(於 下北沢村森厳寺)
4 21 ・千本鬮二会目無尽講開催
4 23 太子堂郷学所開校(於 三軒茶屋新校舎)
4 25 太子堂郷学所、郷学規則を定める 5 25 品川県より太子堂郷学所布告 6 郷学所備金盟約「約則之事」を定める
7 10 斉田平太郎他、有志による郷学無尽講(50本鬮)計画 8 太子堂郷学所衾・上北沢村分校開校
9 16 ・千本鬮、最終七会目の無尽講開催
12 5 廃藩置県により品川県荏原郡の内85ヶ村が東京府へ移管 12 19 太子堂鄕学校、品川県より東京府へ移管
5 8 3 学制の公布
6 2 第七大区六小区太子堂村・衾村幼童所に名称改 7 1 9 第七大区第二中区四番小学荏原学校開校 7 1 12 第七大区第二中区五番小学八雲学校開校 無尽講、第三会5/16、第四会6/16、第五会7/16、第六会8/16
表1 明治 2 〜 7 年太子堂郷学所と太子堂村
川県に提出した﹁建言之別紙 ︵
のさ組番五①︒るいてれ告申にうよの下以︑に﹂ 11︶
有志者が積金をし︑その利金で郷学所の経費を賄うこと︑②郷学所には︑村々
の子どもは男女を問わず志ある者が入学すること︑③入学者には手跡稽古に必
要な机筆など素読書籍の類の一切を与え︑困窮者の費用を省くこと︑④︵入学
者は︶郷学所で実用に役立つ便利なことをすべて修行すること︑⑤郷学所は当
分の間︑五番組の村々の寺院や空家などの五︐六ヶ所で試行すること︑⑥郷学
所の修行は︑大教師と小教師の世話になること︑⑦修行には朝稽古と昼稽古が
あり︑農業繁多の者は朝昼の内一度出席すること︑⑧毎月一・六日を休日とし︑
その日は輪講を行うこと︒
ここには有志者の志が︑これまで困窮のために学業の修業に恵まれなかった
勉学を志す五番組の者すべてのために︑五番組が資金を集め︑学舎を設け︑実
用本位の筆算稽古の場を設けるという建学理念となって掲げられている︒
五番組有志者が求めた﹁実用本位の筆算稽古﹂の修業であるが︑大藤修氏は
﹁村と教育﹂の中で︑﹁江戸時代の村落における学文教育は︑近代の教育のよう
に生活から遊離して知識を注入するものではなく︑あくまで生活に密着したも
のであり︑その目的も将来家や村・地
域社会を担っていける人材を育成する
ところにあった ︵
﹂と論じている︒明治 12︶
三年に開校された太子堂郷学所の理念
には︑有志者の志の中に近世村落社会
におけるこのような村方の教育への考
え方が反映されていたといえよう︒
前述したように五〇〇両の郷学所
開校資金は︑明治三年秋から正月頃に
かけ代田村名主斉田平太郎を初めとす る一四ヶ村の有志者から︑郷学所﹁起立備金﹂として集められた︒その後︑五
番組二二ヶ村からの郷学所開校備金の取立方策について︑五番組では衆議が繰
り返され︑漸く明治四年三月六日に︑五番組は開校資金の取立を目的とした千
本鬮による郷学所開校無尽講の開催を決定したとみられる︒太子堂郷学所開校
期の無尽講は︑三月二九日に下北沢村森厳寺で発会し︑四月は二一日︑その後
は毎月一六日に開催され︑七回目の九月一六日に終了した︒ちなみに森家文書
には︑この時期の頼母子講・無尽講に関わる文書が︑二〇点程残されている︒
五番組による﹁郷学積備金仕法 ︵
い講つに高金と数鬮の尽無の毎回一︑はに﹂ 13︶
て︑﹁総鬮数凡千本︑但し壱本に付き金二朱宛積︑この聚金一二五両﹂と記さ
れている︒この仕法を表2太子堂郷学所﹁郷学積備金仕法﹂に示した︒表2に
もあるように集金一二五両から︑当り鬮と無尽講経費の五五両を差し引くと︑
毎月の積金は七〇両余で︑七回の郷学積立備金総額は四九〇両余となる︒この
七回の無尽講では︑全村が﹁丹精﹂の心で鬮の割当て数を超えて引き受けるこ
とで︑総額五〇〇両を超す﹁積立備金﹂が得られると積算されていた︒およそ
総額五〇〇両の無尽である︒五番組役所は︑この積立備金を﹁無尽積金﹂とし
て貸し付け︑利をあげ︑郷学所校舎の普請費用と一ヵ年の教師月給・生徒支援
等の運営費用にあてる計画であった︒
なお︑無尽講の経費の五五両の内には︑当り鬮すなわち無尽講が当りとして
還元する金高が︑﹁収金一二五両の内︑本当り一〇両一本︑大花三両四本︑中
花二分一二本︑小花一分一〇〇本︑総計五五両ほど﹂と︑定められていた︒こ
の時の鬮の還元率は四割強程にもなり︑村民の中には戻り金を期待して無尽に
参加した者もあったと考えられる︒
この時︑五番組は各村への割当て鬮数を﹁半高・半家数﹂割で決定し︑その 各村の割当て鬮数が前掲の﹁郷学積備金仕法﹂に記録されている ︵
︒鬮数﹁半高・ 14︶
半家数﹂割とは︑各村の割当て鬮数が村々の石高と家数を基に算定されること
2 1000 2000 125
10 1 10 3 4 12 2 12 6 1 100 15 2
117 55
70
70 =490 500
表 2 太子堂郷学所「郷学備金仕立法」
で︑一〇〇〇本鬮の内の五〇〇本分は各村の石高から︑五〇〇本分は村の家数
から算定して︑その総額を各村に割当てることである︒太子堂村には︑﹁半高・
半家数﹂割で︑鬮一八本が割り当てられた︒金高に直すと︑割当て額は二両一
分となる︒
第二節 太子堂村百姓の経済的な状況と無尽講 太子堂村は︑明治五年に調査し︑明治七年に刊行されたの﹃東京府志料﹄巻
之三 ︵
によると︑戸数五七戸︑人口二七五人︵男一四八人︑女一二七人︑︶であっ 15︶
た︒日本橋から三里ほどの地に位置し︑田は六町一反六畝余で一二%︑畑は四
五町三畝余で五八%︑野林一二町三反七畝余で二五%と︑畑が村の半ば以上を
占めていた︒また﹁用水ハ烏山用水ヲ引トモ便ナラス︑故ニ陸田多く︑痩せ地﹂
であった︒村の物産として︑米・早稲米・大麦・小麦・大豆・小豆・黍・栗・
稗・蕎麦・萊菔・甘藷・茄子・番南瓜・牛蒡・筍・柿子・栗子・竹・薪・杉丸
木・鶏卵・濁酒が列挙されている︒太子堂村はこのように畑作中心の村といわ
れ︑これまで田畑からの米を年貢として納め︑農間稼ぎに畑や野林からの大根・
茄子・牛蒡等の蔬菜や薪炭等の産物を︑青山市場の前栽渡世の者などに直売り
するなどして暮らしていた︒
明治四年︵一八七〇︶三月二三日︑五番組は︑無尽講の一〇〇〇本鬮の内か
ら﹁半高半家割﹂の算定で︑太子堂村には一本二朱の鬮十八本を割当てた︒前
述したように各村には無尽講に﹁丹誠﹂することが求められ︑太子堂村は鬮一
本を﹁丹誠﹂し︑村は実際には一九本の鬮を引き受けることとなった︒
では︑太子堂村の百姓は︑どのようにこの一九本の鬮に関わったのであろう
か︒この割当て状況を︑残された史料︑明治四年九月﹁郷学所備金無尽掛金取
立帳 ︵
月三太郡原荏州武︑帳別人門宗﹁村年堂二治明︑﹂︶帳金掛尽無﹁下以﹂︵子 16︶︵
﹂ 17︶
︵以下﹁人別帳﹂︶︑等から考察し︑明らかにしていきたい︒ ﹁人別帳﹂の末尾には︑太子堂村家数は六二軒と記されたが︑﹁人別帳﹂に記
された圓泉寺堂守と借家人九人︑さらに圓泉寺は︑この郷学所無尽講には関わ
っていない︒そこで︑本稿は家数六二件から一〇軒を除いた︑本来的な太子堂
村の百姓五二人について︑その無尽講への関わり方や百姓の社会経済的状況に
ついて考察していく︒
ところで︑明治初頭の太子堂村百姓の経済的また社会的な状況を知る手がか
りとなる︑村の百姓を﹁四区分﹂に分けた史料が残されている︒それは明治三
年正月﹁社倉御取建成候ニ付米代金小前取立帳 ︵
﹂で︑明治政府による布達が契 18︶
機となって︑品川県が社倉米代金を太子堂村の百姓からも取り立てた際の記録
である︒
明治二年︵一八六九︶二月維新政府は︑﹁府県施政順序 ︵
﹂を公にし︑その第六 19︶
条﹁凶荒預防ノ事﹂で︑幕府や諸藩が奨励・実施してきた﹁貯穀﹂に習い︑府
県は﹁社倉﹂を設け︑凶年・非常の事態に備えるようにと布達した︒これを受
け︑旧武蔵国の一つである品川県も︑旧武蔵国の大宮・小菅県同様に﹁社倉﹂
の実施を図っている︒明治二年一一月品川県は︑各番組の御用取扱い方に﹁貯
穀石代金積立方ニ付キ布達 ︵
ち川持高の上以石五︑は県品時のこ︒たし付送を﹂ 20︶
百姓は壱石に付き二升︑五石以下﹁上竈﹂は壱軒に付き四升︑五石以下﹁中竈﹂
は三升︑五石以下﹁下竈﹂は一升五合分の米代金を︑至急に納入することを命
じている︒村には︑﹁極困窮﹂あるいは﹁極難﹂と呼ばれる階層もいたので︑
この時品川県の百姓は﹁五区分﹂に分けられたことになる︒品川県は︑太子堂
村からも明治三年正月と翌明治四年正月に社倉米代金を取り立てた︒太子堂村
の貯穀米代金は︑明治二年一一月﹁社倉御取建ニ付小前持高書上帳 ︵
﹂を目安に 21︶
取立てられている︒この書上帳の百姓の持高は︑従来の﹁宗門人別帳﹂の持高
にほぼ一致している︒なお太子堂村には︑五石以上の高持ち百姓はいなかった
ので︑太子堂村の場合は百姓は﹁四区分﹂に分けられたことになる︒
表3 太子堂村百姓の状況と郷学所無尽掛金
註 1 百姓の名前は、「明治2年宗門人別帳」による。労働人口は、左記の13歳から58歳の数、無尽講実施の明治4年には15〜60歳に相当。
子ども数は当主直系の13歳未満の子と孫の数、明治4年15歳未満とに相当。
2 百姓の持高は、前掲「人別帳」による。太子堂村の百姓持高の記載が零細な高なのは、『村名主森家文書目録』解説によれば、村が無検 地の村で、持高が年貢納高を示したことによる(173頁)。「区分」は「明治三年社倉御取立ニ付米代金小前取立帳」によるが、基になっ た明治二年「今般社倉御取立ニ付田畑高取調帳」の持高は、前掲「人別帳」に同じ。ただし、忠左衛門は2斗、鉄五郎は 9斗3升余に増 加している。
3 無尽本数と無尽掛金は、「明治四年九月一六日会鄕学無尽掛金取立帳」他による。ただし、鬮掛金の村民の内、音次郎は倅増五郎の分、
大次郎は倅平七の分、五郎次郞は倅清吉、佐太郞は父金五郎、多左衛門は養子伊三郎の分を記載。
4 名主は忠左衛門、年寄は市郎兵衛・利右衛門、百姓代は富之助、与十郎は年寄見習。
(台)
衛
衛
工
表3﹁太子堂百姓の状況と郷学所無尽掛金 ︵
く借除を寺・人家・守堂︑はに﹂ 22︶
太子堂村の五二軒に関する一覧で︑百姓の無尽掛金・持高・家業・家族数など
を史料から整理し︑そこに﹁四区分﹂を附記して表に示している︒表の四区分
は︑品川県の指示による太子堂村の百姓の﹁四区分﹂で︑①五石以下﹁上﹂︑
②同断﹁中﹂︑③同断﹁下﹂︑④﹁極困窮﹂として記した︒
表3にあるように︑階層﹁下﹂の兵蔵は持高は一石一斗九升余で︑階層﹁中﹂
の角次郞の持高の一石二斗九升余に次ぐ持高が記されているが︑区分は﹁下﹂
に位置している︒他にも﹁上﹂と﹁中﹂︑﹁下﹂と﹁極困窮﹂の境界の前後をみ
ると︑百姓の持高の多寡がそのままに︑この時の﹁区分﹂が決定されてはいな
かったことが見てとれよう︒品川県が五石以下の百姓を︑﹁有高無高ニ拘ズ撰分 ケ上中下三段ニ分ケ﹂るよう命じたことにより︑村役所が持高とともに家の家
業や家族の状況をも配慮し︑上・中・下・極困窮の﹁区分﹂分けに反映させた
と考えられよう︒本稿は︑当時の百姓の状況を反映したと考えられるこの﹁区
分﹂を手がかりに考察をすすめてみたい︒
表3からも︑百姓の区分の上下や家族のあり方によって︑無尽講の関わり方
に差違が窺える︒この差異を明らかにするために︑﹁四区分﹂された百姓と郷
学備金取立との関わりを︑表4﹁太子堂百姓の経済状況と無尽講掛金﹂に示し
た︒表4から︑村では郷学所備金無尽講の際に五二軒の内︑七五%にあたる三
九軒が掛金を掛け︑一三軒は無尽に参加していなかったことがわかる︒
また﹁四区分﹂に即して無尽講との関わりを考察すると︑以下のようになる︒
五石以下﹁上﹂区分の家五軒すべては︑無尽講に参加している︒﹁上﹂の五人
の当主は︑鬮一本二朱の掛金︑七回総計では一四朱分︑すなわち金三分二朱の
掛金をかけている︒また︑五石以下﹁中﹂の九軒中︑一軒の当主が鬮二本で四
朱︑総計では二八朱︒二人が一本鬮で二朱ずつ︑総計では一四朱ずつ︒六人が
鬮半本で一朱ずつ︑総計では七朱ずつと︑すべての﹁中﹂の当主が無尽講に掛 けている︒
森安彦氏は︑﹁太子堂村は︑全村五二軒の内︑
五石以下﹁下﹂の困窮した家と﹁極困窮﹂の家
が︑三八軒七三%を占める村自体が困窮化した
村であった﹂と述べている ︵
︒この五石以下﹁下﹂ 23︶
の当主一五名の内︑掛金に応じたのは一四名で︑
二人が鬮半本︑一人が鬮三分の一本︑一一人が
鬮四分の一本分の掛金をかけている︒なお︑
﹁下﹂では︑一軒が無尽講には不参加なので︑
無尽講への参加率は九三%となる︒
続いて極困窮人の二三人であるが︑一一人が
掛金をかけているので参加率は四八%になる︒
内︑二人が鬮三分の一本分で総計で四・七朱︑
九人が鬮四分の一本分で総計では三・五朱の掛
金をかけている︒一方︑極困窮人の内一二人は︑
無尽講には関係していない︒郷学所の無尽に掛
けなかった一二人の内︑大半の八人は﹁壱人男﹂
世帯であった︒
ところで︑前述の明治二年﹁社倉金取立帳﹂ の末尾には︑﹁百姓五拾三軒之内廿三軒者︑極 困窮人ニ付積立兼候而︑相願候処︑御免ニ相成
申候事 ︵
除窮免金代倉社の人困極が人役村︑と﹂ 24︶
を品川県役所に願い上げ︑県役所は願いを聞き
届け︑極困窮者は﹁社倉御免﹂の扱いとなった
と記されている︒ここには﹁極困窮人ニ而︑社
表4 太子堂村百姓の経済状況と無尽講掛金
*5石以下ー中の名主・忠左衛門は、鬮2本、4朱の掛金
倉積立不仕御免相候もの﹂として︑幸吉から定吉まで二三名の極困窮者の名も
列記されている︒この二三名には︑安政三年︵一八五六年︶八月の大風雨で居
宅が全壊した家︑また先代当主が行方不明になった家も含まれている︒翌年に
も︑品川県は﹁社倉米代金﹂を取り立てたが︑この時も品川県は︑極困窮者は
﹁社倉御免﹂とした︒村の極困窮人は︑このように持高ともに家業や家の暮ら
し向きが考慮され︑極困窮とされたと考えられる︒
この﹁社倉米代金﹂の取立と﹁太子堂郷学所無尽講掛金﹂の取り立てとの相
違は︑社倉米代金では﹁取立御免﹂扱いの極困窮者二三人の内一一人が︑郷学
所無尽講では掛金の取り立てに応じたことにあり︑本稿はこの点に注目してい
る︒
第三節 太子堂村百姓の社会的な状況と無尽講 一 農耕中心の家と無尽講 太子堂村の五二軒の内︑﹁農業一派﹂の家と記された農耕を主に家業を営ん
でいた家は︑四十軒程あったと考えられる︒これら農業一派の家は︑幕末維新
期にはどのような状況にあり︑どのように郷学所の無尽講にかかわったのであ
ろうか︒
都市江戸では在住の武家・町人への生鮮野菜の供給が恒常的に求められ︑江 戸近郊では野菜を作れば作るだけ売れるという風説 ︵
が流布し︑近郊の農村は蔬 25︶
菜を栽培・販売し︑また薪炭等も生産・販売する地域となっていった︒農家の
諸稼ぎを論じた深谷克巳氏は︑﹁江戸時代の農家の暮しは︑直接の﹃農耕﹄労
働に各種の﹃稼ぎ﹄仕事とが組み合わされて維持されてきた ︵
﹂とし︑百姓家に 26︶
とっての諸稼ぎの必要を説いている︒
管見の限りであるが︑五番組の村々︵現世田谷区︶から江戸の町へ蔬菜や薪
炭を売る記録が登場するのは︑安永九年︵一七八〇︶四月の﹁奥沢村村鑑﹂で ある︒奥沢村は太子堂村の南々西に位置する村で︑村は﹁江戸へ道法三里余﹂
の距離にある︒この村鑑には︑﹁農業之間男女稼ニ者︑つみ草等仕︑三里余ノ江 戸町江罷出︑売代替え其者ニ而夫食等相調︑老人子供ヲ養育仕候 ︵
﹂と記され︑村 27︶
民が季節の﹁つくし・わらび・せり﹂の類の摘み草を採取し︑江戸町まで出か
けて売り︑老人・子供を養うなどして暮らしていた︑とある︒太子堂村の北西
部に位置する天明八年︵一七八八︶四月の﹁松原村鑑帳﹂には︑﹁農業之間︑
男者夏瓜茄子作り江戸問屋江附出売申候︑秋者大根作︑各江戸江附出売申候︑其 外芋牛蒡少々宛作出申候 ︵
を瓜根大はに秋︑を子茄・はに夏は村原松︑りあと﹂ 28︶
江戸に出売りし︑その他芋・牛蒡も少々作っている︑と記されている︒
北根岸村に居住した儒者の古河古松軒は︑江戸近郊を巡検して寛政六年︵一 七九四︶﹃四神地名録 ︵
﹄を著わした︒太子堂村の北西に位置する上北沢村につい 29︶
て︑古松軒は百姓の言葉をひき︑﹁土あしく︑五穀のそたちよろしからず﹂﹁し
かし江戸通ひすれば︑其日其日に銭の二百と三百とは手にはいる事故に︑我も我 もと日々に江戸へ通ひて︑地の利をとらんと働きするものハすくなし﹂と記し︑
江戸近郊の﹁余稼ぎ﹂﹁手間取り稼ぎ﹂に暮らす百姓の状況や心情を語ってい
る︒
ところで︑太子堂村の記録が森家に集積されるようになるのは︑六代目忠左
衛門が名主役に就いた天保九年︵一八三八︶以降から幕末・明治期であり︑村
明細帳などの記録も︑管見の限りでは天明四年︵一七八四︶七月﹁村鑑帳︑下
書﹂が最初のものとなる︒そこには︑﹁家数五七軒︑男百三拾人︑女百十四人︑
馬十二匹﹂﹁当村道中附之村ニ而無御座候﹂﹁農業之間男之稼ハ薪取︑女者着類等
拵申候 ︵
女記述りや薪取の男ぎとしての農間稼︑やの﹂馬十二匹︑﹁てされ記と﹂ 30︶
の着物拵えが記されているが︑他の余業や江戸との関わりについての記述はな
い︒前述天保九年︵一八三八︶七月の﹁諸商人諸職人取調書上帳﹂には︑村の
家数は五五軒︑内﹁農業一派渡世﹂といわれる農耕作を主に家業を営んでいた
家は四一軒とある ︵
︒ 31︶
太子堂村の天保一四年︵一八四三︶三月﹁村明細書上帳﹂には︑﹁前栽者之 儀者︑茄子芋牛蒡其外︑菜大根ヲ作︑江戸青山江出し︑前栽商渡世之者江直売仕 候﹂﹁作物の儀者︑麦稗を主ニ作り候 ︵
﹂と︑記されている︒松原・奥沢村に比べ︑ 32︶
江戸青山の市場に近接した太子堂村では︑これらの村々以上に早い時期から︑
前栽物としての茄子・芋・牛蒡・菜・大根︑さらに薪・丸太等を江戸に出荷し
ていた︑と考えられよう︒
この二十年後の文久三年︵一八六三︶一二月に太子堂村と江戸との緊密な往
来を物語る史料が︑新関所に拘わる史料として残されている︒文久元年三月︑
幕府は尊皇攘夷派の動きに手を焼き︑江戸市中の出入口に見張番所を設けさせ
た︒さらに幕府は︑翌々年の将軍家茂の上洛留守中︑﹁近在之渡世之もの共ニ而︑ 日々御府内江出入致し候百姓︑町人并人足稼之もの共﹂等に︑﹁壱人別︑町所︑ 名前﹂入りの役人連印の鑑札を携えた関所通行を命じた ︵
︒この時︑太子堂村近 33︶
隣を預かる木村董平代官所も︑近在からの江戸への出入を厳重に制限した︒関
所や番所が村役人に渡した印札を改めた後︑百姓を通行させよとの趣旨で︑﹁御
年貢納其外御用筋者︑不及申ニ差向候︑私用或者魚類青物売当之諸稼ニ而︑御府 内江罷出候もの﹂にも印札の改めを命じ︑この一件で百姓一同の連印請書も提
出させている︒
半年後の元治元年七月に︑池沢・下北沢・池尻・太子堂・三宿・代田の六ヶ 村の名主・年寄等は︑同役所宛に﹁新規関所通行許可願書 ︵
﹂と呼ばれる次の願 34︶
書を提出している︒
乍恐以書付奉願上候
武州荏原郡池沢村外五ヶ村役人共一同奉申上候︑先般御当地口々御関門
御取建ニ相成候ニ付︑在方ゟ御府内江立入候ものハ村役人之印札ヲ以通行
可致旨被 仰触︑承知奉畏︑右之通取計罷在候処︑今搬猶亦御守衛とし て青山道渋谷宮益町江新規関門御取建ニ相成︑私共村々之義ハ御当地手
近之村方ニ而︑野菜亦ハ下掃除等ニ而︑日々御当地江立入︑銘々営方仕罷 在候義ニ候由ニ而︑当月廿日村役人共之印札ヲ以小前之もの共通行いたし 候處︑右御関門ニ而御差留相成︑通行難相成立戻候由申聞候間︑右被 仰触も有之候旨ヲ以歎願仕候處︑村役人共之印札候共其相筋ゟ当関所江 御廻し相成︑見合ニ可致印札有之候ハゝ︑以来無差支通行可致旨被 仰 渡候間︑何卒以 御慈悲ヲ前書次第御聞済被成下置︑別紙印札雛形其御 筋ゟ右御関門江御廻し相成候様被 仰付被下置度奉願上候︑以上 元治元年子年七月廿二日 武州荏原郡 木村董平様 御役所
この願書によると︑青山道の渋谷宮益町に新規の関門が建ったが︑印札を所
持し新関門を通行しようとした村の小前の者が︑ここで差し留られ村に立ち戻
る事態が生じたと︑述べている︒池澤村名主佐市はじめ六ヶ村の名主たちは︑
印札があれば請書通りに差支えなく江戸町方へ通行できるようにと︑﹁私共村々
之義ハ︑御当地手近村方ニ而︑野菜亦ハ下掃除等ニ而︑日々御当地江立入︑銘々
営方仕罷在候﹂と述べ︑新規関門のすみやかな通行を願い出ている︒
太子堂村も﹁野土﹂といわれる痩せ地で︑田畑には下肥・馬糞等を多く施肥
していた︒この下肥には︑繁昌の地︑江戸の町屋の﹁下掃除﹂から入手した肥・
ばりも用られていた︒村で中層の区分とされた名主忠左衛門の家では︑天保一 池澤村 名主 佐市
下北沢村 名主見習 平蔵 池尻村 年寄 長吉 太子堂村 名主 忠左衛門 三宿村 同 佐太郞 代田村 年寄 藤兵衛
四年五月の日傭二人の江戸の町への一日稼ぎとして︑延べ一五日間にわたって 肥・ばりの荷駄仕事をした記録もある ︵
︒また︑慶応三年︵一八六七︶︑五番組頭 35︶
村︑下北沢村寄場に提出した下掃除に関する太子堂村の文書 ︵
には︑青山・赤坂・ 36︶
渋谷・麻布・麹町が百姓の下掃除場として連記されている︒太子堂村では下掃
除からの肥料が農耕の再生産条件となり︑多くの家が江戸西域の武家や商家等
との結びつきを極めて強くもっていた︒
この元治元年七月の一件を契機に︑太子堂村の江戸への関門印札は増加して
いき︑九月の印札は代官所の雛形通りに名主が印札を作り︑﹁名主印札村方一
同江相渡請印帳 ︵
こ七︒るいてし渡を札印の枚九に姓百︑らがなりとを錄記に﹂ 37︶
れらおびただしい印札配布の記錄も︑太子堂村と江戸との日常的で繁多な往来
を物語っていよう︒
農耕を中心に生計をたてていた太子堂村の百姓は︑江戸との結びつきが極め
て強く︑農間稼ぎの蔬菜・薪炭販売市場として︑また田畑へ施肥する肥料の入
手場所としていた︒表5﹁農耕の家と無尽講﹂のように︑太子堂村では農耕を
主に家業を営む三九軒の内︑二九軒︑七四%近くの家が︑無尽講に参加した︒
本稿は︑御府内に隣接した太子堂村では︑江戸との恒常的な往来や関係を通し
て︑農耕一派の当主は︑農家経営を支える手立てとして︑まず筆算の習得が意
識化され︑今日でいうところの教育欲求を要請する社会
が形成されつつあったと考えている︒四〇軒近い農耕一
派の家の大半が︑この時郷学所無尽講にかわったこと
が︑当主らの筆算修行への希求を物語っていたといえよ
う︒ 二 太子堂村の農間余業の家︵農商職工︶と無尽講
津田大淨の﹃遊歴雑記﹄によれば︑文政一二年︵一八二九︶頃 ︵
に見聞した大 38︶
山道が分岐する三軒茶屋付近は︑すでに都会の土地にも似た立場の賑わいの場
所であったようだ︒また江戸根岸住まいの儒者原徳斉は︑天保三年︵一八三二︶
六月︑青山から大山道を抜け玉川に遊んでいる︒この途中に三軒茶屋を通り︑
﹁程なく三軒茶やといへるに来る︑爰ハ旅人の立場にして茶店・酒肆軒をつらね︑ 三軒の名ハむかしの事にてありつへし⁝⁝ ︵
や立屋茶てしと場の手相人旅︑と﹂ 39︶
居酒屋が建ち並び賑わう三軒茶屋の景観を︑﹃松の栞﹄に書き残している︒
大山道が分岐する太子堂村と中馬引沢村に挟まれた三軒茶屋の賑わいは︑村
に残された史料にはどのように記されていたのであろうか︒また︑太子堂村の
農間余業の百姓はどのような物を商い︑明治四年の太子堂郷学所の無尽講にど
のようにかかわっていたのであろうか︒
まず太子堂村の農間渡世の諸商職人について︑前述の天保九年︵一八三八︶
七月の﹁武蔵国荏原郡太子堂村諸商人諸職人取調書上帳﹂︑天保十四年︵一八
四三︶三月の﹁村方明細書上帳﹂から考察していきたい︒在方商人の取調べは︑
寛政の改革時期の寛政六年以降︑幕府が関東全域に改革組合村の結成を指令し
た文政一〇年前後の時期︑天保の改革時期では天保七・九年と一二・一四年の
時期と︑世田谷一帯も度々の取調べがあった︒まず︑天保六年十一月︑関東御
取締御出役が触継に御拳場 ︵
を調じ命くし厳状取廻の株売商の内た 40︶︵
から︑商売株 41︶
に関する命令を次に記したい︒
一︵前略︶御拳場内商売株御取調被 仰候ニ付︑去ル寛政之度御調節書
上候帳面之振合ヲ以︑村々落無之様小商者迄御取調御書出可被成候︑ 一寛政之度ゟ名前相改メ候者︑并株式譲り請候者迄何之誰ゟ誰へ何年以
前譲り受け商売致候与申す儀御取調可被成候 一寛政之度後相初メ株式無之分︑右草履草鞋之小商迄も︑何年以前ゟ仕
表 5 農耕の家と無尽講
来候与申儀取調可被成候︵後略︶ このように︑御拳場内の商売には小商いに至るまで商売株が求められ︑寛政
の取調帳面との比較確認が求められている︒商売株の譲渡に関しては︑具体的
な誰から誰への譲渡などと具体的に取り調べを命じている︒同年七月六日の廻
状には︑代官宛の﹁商株書上帳 ︵
明商の有保株商の者のいの内村︑れらめ求が﹂ 42︶
示が求められた︒太子堂村は江戸から三里︑御拳場内の村でこの商売株保有の
確認調査圏内にあった︒
天保九年六月関東御取締御出役は︑改めて厳重な倹約令を廻状 ︵
したが︑そこ 43︶
に在方すべての商職人に関する詳細な調査を命じている︒取調べは︑文政十年
の改革に遡って商売屋を例示した雛形も示され︑調査には村の惣代や重立者な
ど村役人の立会も命じている︒この時の取調書上が︑前掲天保九年七月の太子
堂村の前掲﹁諸商人諸職人取調書上帳﹂であろう︒ここには︑村の﹁家数五拾
五軒﹂の内︑﹁家数四拾壱軒農業一派渡世之分︑拾四軒農間商并諸職人類渡世
之分﹂とあり︑村の商職人は一四軒︑諸職商人の家数は村の二五%ほどにあた
る︒この取調書上帳には︑百姓吉藏は﹁蕎麦・酒・醤油・菓子を商仕候﹂とあ
り︑以下松五郎︵穀物・荒物︶︑直次郎︵蕎麦・菓子︶︑半兵衛︵煮売・居酒︶︑
利左衛門︵刻多葉粉︶︑留之助︵菓子︶︑兼次郞︵酒・醤油︶︑粂次郞︵醤油・
菓子︶︑熊次郎︵菓子︶︑市五郎︵餅︶と︑店借りを含む村の商人と商い物が連
記されている︒この商家は︑穀屋・蕎麦屋・菓子屋等を問わず︑その大半が草
履・草鞋も商い物としていた︒取調書上帳には︑さらに大工の台︵大︶次郞︑
桶屋の八五郞︑仙の鉄五郎と金次郞と職人が続き︑︑店借の髪結久五郎と湯屋・
薬湯の佐五左衛門も記されている︒
改めて九月九日には︑代官中村八郎衛門様御手付宛の﹁食類商人名前書上帳 ︵
﹂ 44︶
も提出された︒ここにも半次郎︵煮売・居酒︶︑吉藏︵酒・蕎麦︶︑留之助︵菓
子︶︑直次郎︵蕎麦・醴菓子︶︑兼次郞︵居酒・醤油︶︑市五郎︵餅菓子︶︑熊次 郎︵菓子・餅︶︑粂次郞︵菓子・醤油︶と七月同様に食類商人名前が連記され︑
この九月の取調が在村に拡大する食い物商いの実態把握であったことがわか
る︒なお同年九年九月には︑同代官手付宛ての﹁質屋渡世書上帳 ︵
﹂もあり︑そ 45︶
こに質屋の清助と利左衛門の名が記されている︒ その後天保一二年七月廿五日にも︑鷹場組合村触次・下北沢村名主半三郎は 御拳場内で寛政以降商売株不所持のまま︑商売する家の有無を確かめる触 ︵
を︑ 46︶
太子堂村にも廻達している︒太子堂村には︑この商株譲渡証文︑天保一二年
︵一八四一︶七月﹁売渡申商株証文之事 ︵
﹂が残されている︒売渡主庄太郞が︑代 47︶
銀一五匁で酒・酢・醤油︑其外残らず商株を︑佐吉に売り渡した証文である︒
商株を入手した佐吉は︑酒・酢・醤油小売商人となり︑後に家業は佐吉から倅
佐太郞︑さらに金五郎へと継承されていった︒
天保一四年から一五年を経た万延元年︵一八六〇︶の﹁御請連印帳 ︵
﹂には︑ 48︶
太子堂村の商職人一〇人の連署が残されている︒名主忠左衛門とともに大山道
を往来する怪しい風体の旅人の取締りに関する請書で︑万延元年の主立った商
職人が窺えよう︒煮売り商の兼吉が筆頭人になり︑続いて質屋五郎次郞︑蕎麦
屋仙松︑餅屋伊左衛門︑醤油商左右衛門︑菓子屋栄助︑仙工鉄五郎︑醴屋初五
郎︑多葉粉屋利左衛門が連記している︒
一方︑天保一四年六月の﹁御触﹂は︑菜種買上の者に国々の油絞り者の世話
になることを命じたが︑この﹁御触﹂ともに︑同年十一月の菜種買上に関する
寄場役所宛の村役人と油絞り者の請書なども︑残されている ︵
︒ここには︑太子 49︶
堂村の松五郎が︑松原・中馬引沢村の二人ともに油絞り稼ぎ者として記され︑
太子堂村には油絞りで稼ぐ百姓もいたことがわかる︒
これらの記錄を合わせ︑太子堂村の農間余業の家を︑表6﹁農商農工の家に
おける商い物や稼ぎなどの一覧﹂にまとめた︒なお表6は︑まず郷学所無尽講
が実施された頃の当主名などを記し︑そこに各家の系譜を遡って天保一四年頃
の商職人の名前を記した ︵
てでしと人職商の業余間農内村でま頭初治明・末幕︒ 50︶
認知されて家業を営んでいた家は︑このように系譜をたどると︑およそ一三軒
前後と考えられる︒この一三軒は︑質屋が二軒︑煮売り屋・蕎麦屋・菓子屋を
含む食べ物屋が五軒︑穀類・醤油・酒・酢を扱う食料品屋が三軒︑草履・線香
などの大山参詣の旅人向け雑貨商が九軒︑さらに職人は大工・杣工・桶工が三
軒であった︒草履・草鞋などの雑貨の商いは重複するので︑商物を扱う商家の
延べ数は多くなってくる︒このように太子堂村では農間余業の家は︑村人の暮
らしに関わる家業と共に︑旅人目当ての家業の家も多かったようだ︒
また︑経済的な状況を推しはかる﹁四区分﹂をみると︑商職人の家は﹁上・
中﹂の区分の家が三軒︑﹁下﹂区分が五軒︑﹁極困窮﹂が四軒でである︒﹁下﹂ や﹁極困窮﹂区分の家が大半を占めてはいるが︑﹁上・中﹂の区分の家もあり︑
村内の各区分にわたって商工に従事していたといえよう︒
この商職人は︑農間稼ぎの商人・職人として認知された在村の農間余業の者︑
あるいは農間稼ぎの者と呼ばれる百姓である︒農間稼ぎについて︑小百姓の労
働を論じた白川部達夫氏は︑﹁所持地だけでは︑生活を維持できる小百姓は少
なく︑一七世紀後半からは︑農間余業が生活をささえる大きな要素となった ︵
﹂ 51︶
と︑小百姓経営における農間余業の必要性を説いている︒太子堂村では︑前記
の表3﹁太子堂村百姓の郷学所無尽掛金と経済社会的な状況﹂にあるように︑
﹁下﹂﹁極困窮﹂の百姓は零細な田畑を耕作し︑さらに小商い・作工・荷駄稼ぎ
などの諸稼ぎで︑その日その日の生計をたてていた︒一方︑商職人で﹁上﹂の
百姓は田畑林を三七反余も保持しながら余業の商いでも稼ぎ︑﹁中﹂の区分に
あって旅籠も営んでいたと伝わる煮売渡世者の商売高も︑余業の域を超えた稼
ぎがあったと伝わっている︒
これら農間の商職人と無尽講とのかかわりを︑表
3﹁太子堂村百姓の状況と
郷学所無尽掛金﹂・表7﹁農間余業︵商・職人︶の家と無尽講﹂を以下にまと
めた︒
農商・農工の家と郷学所の無尽講との関わりは︑以下のとおりである︒﹁上﹂
の一軒は鬮一本︑﹁中﹂の二軒は鬮二分の一本ずつ︑﹁下﹂の二軒は鬮三分の一
本ずつ︑また四軒が四分の一本ずつの鬮を受けるなど︑﹁下﹂六軒すべてが無
尽講の取立に応じている︒また︑﹁極困窮﹂一軒も︑四分の一本分の鬮の取立
に応じている︒ちなみに︑﹁極困窮﹂で鬮に応じなかった一軒は︑明治五年に
離村している︒また一軒は︑姉と二人で醴屋を営む一六歳の当主の家であった︒
さらに一軒は︑旅人相手の餅屋の娘聟一家が借財に追われて欠落騒ぎを起こし
た︑高齢単身の当主であった︒
これらの家の状況を見ると︑太子堂村では︑当時の商職人の当主のほとんど
表6 農商農工の家における商い物や稼ぎなどの一覧
註
1 「区分」は、前掲の明治3年正月「社倉御取立米代金小前帳」による。
2 明治2年当主は、 前掲の明治2年3月「宗門人別帳」による。
3 天保14年当主ならびに「農商の商い物と農工」は、前掲同年太子堂「村明細 書上帳」)並びに天保14年「卯年人別帳」(F1-6)による。
4 質屋(平次郎・五郎次郎)は、安政6年11月「質屋冥加永上納金取立帳」(C4-22)
(安政6年から明治4年分までの記録)による。なお、平次郎の質屋は、先 代久太郎が、安政2年理左衛門から譲り受けた質屋株を相続したもの、「質屋 渡世向譲渡証文」(K6-13)。
5 煮売(兼吉)は、万延元年11月「御請連印帳」(A2-60)による。
6 杣工(鉄五郎)は、天保9年7月「諸商人諸職取調書上帳下書 」(K6-2)他 による。
7 油絞り(五郎次郎)は、嘉永元年2月「油絞稼ぎ跡受ニ付願書」(世田谷区史 料426P)。
8 前掲天保9年「諸商人諸職取調書上帳 」に、髪結久五郎(店借)文政10年書 上候分、湯屋薬湯佐五衛門(市太郎父)天保4年より始候分とあり、太子堂 村で営業。
が︑無尽講に関わっていたと考えられよう︒草履や草
鞋も売るような零細な小商人も含め︑ほとんどの商職
人の家が︑郷学所の無取立にかかわっていたのは︑家
業の継承には︑﹁筆算﹂の力が役立つと考えていたこ
とによるのであろうか︒大山街道の分岐に位置した良
い立場の三軒茶屋の賑わいの中で︑農間余業とは称さ
れていたが︑村で商いを営む富裕な百姓も零細な百姓
も︑日々の商売家の中で︑商人としての心性︑﹁商売
の家に生るる輩︑幼稚の時より︑先ず手跡・算術の執行︑肝要たるべき ︵
﹂とい 52︶
う心情を養っていたと考えられる︒家業の発展に結びつく確かな計算能力や文
書を読み書く能力を︑このような百姓が希求することは十分に窺えよう︒太子
堂村の農間余業を営む商人・職人すべてが︑村に開校された郷学所の無尽講の
備金取立てに応じたことに︑彼らの心情が垣間見られるといえよう︒
おわりに 五番組の村では︑村民が郷学所の無尽講にどう関わったかを︑太子堂村を事
例として考察してきた︒まず太子堂村の百姓の家の﹁四区分﹂からみる経済的
な状況と無尽講︑さらに社会的経済的な状況を︑農耕を主として家業を営む家︑
農間余業の家に大別し︑それぞれ経済的社会的な条件の異なる家が︑郷学所の
開校備金集積を図る無尽講の取立てにどのように関わったのかを考察した︒こ
こから次のような点が明らかになってきた︒
⑴ ﹁四区分﹂された百姓の家は︑その﹁四区分﹂により無尽講の参加に差違
がみられる︒持高五石以下の﹁上﹂﹁中﹂とされた区分の一四軒すべてが︑
無尽講に参加した︒掛金総額は﹁上﹂五軒は各一四朱︑﹁中﹂九軒は平均
一〇・八九朱であった︒持高五石以下の﹁下﹂では︑一五軒中一四軒九三 %が参加︑一四軒の平均掛金は四・〇八四朱で︑﹁極困窮﹂では︑二三軒
中一一軒︑四八%が参加し︑一二軒は取立てに応じていない︒一一軒の平
均掛金は三・七一朱であるが︑﹁極困窮﹂一一軒の無尽講掛金総額は︑四
〇・九朱︑五両程にもなる︒このように太子堂村では︑全家五二軒中三九
軒七五%がこの時無尽講に参加している︒一方︑二五%の家が無尽講の掛
金の取立てに応じてはいない︒このような郷学所開校時期の無尽講の取立
ては︑学制期に民費として学校費用が︑全家から徴収された方式とは異な
る性格をもっていたといえよう︒ ⑵ 太子堂村では農耕を主に家業を営む家の大半が︑無尽講に参加している︒
江戸近郊の商品流通圏の一角に位置する太子堂村にあっては︑農耕を主に
家業を営む家は︑︑大消費都市江戸との恒常的な往来の中で︑大半の当主
が家の経営維持の基礎的な条件として︑実学としての筆算の習得を希求し
ていたと考えられる︒
⑶ 太子堂村の商家は︑大半が大山道沿いに居宅を構え︑旅人目当ての草鞋・
抹香・線香などを商う家や︑煮売・蕎麦や・餅・菓子などの食類家業の家
が並んでいた︒農間余業として商工を営む家のほとんどがこの時の無尽講
に加わり︑なかなかの掛金をかけている︒農間稼ぎのこれら商職人の家業
にかかわる筆算習得への欲求の高さが窺えよう︒
郷学所開校備金無尽講と太子堂村の村民の家業との関わりを考察してきた
が︑次章では︑これまでの考察でも窺われた家族と無尽講の関わりを考察し︑
郷学所無尽講が村の百姓にとってどのようなものであったかを考察していきた
い︒
表 7 農間余業(商職人)
の家と無尽講
第二章 太子堂村百姓家族と太子堂郷学所開校無尽講 はじめに 第一章﹁太子堂村百姓の社会・経済的状況と太子堂郷学所開校無尽講﹂では︑
地域の人々︑当時の百姓の経済的社会的状況が︑無尽参加の是非に深く関わっ
ていたことを明らかにした︒太子堂村では︑農耕中心の百姓も︑農間稼ぎの商
職人も︑多くが無尽講に関わっていた︒また極困窮といわれた百姓も無尽講に
関わった者がいた︒
一方︑第一章にも記した﹁郷学所建言之別紙﹂に︑五番組は﹁童蒙男女に手
跡稽古など実用便なることすべてを修行させる﹂と︑述べている︒翌年六月の
五番組有志の﹁約束之事﹂にも︑郷学所では﹁素読・手習算術修行﹂とあり︑
今日の初等教育や社会教育に相応する修業に重きがおかれていた︒
太子堂村で︑家族を率いて家業を営んでいた当主にとって︑五番組が実生活
に役立つ筆算修行の場を開校することは︑どのような意味をもっていたのであ
ろうか︒本章﹁太子堂村百姓家族と郷学所開校無尽講﹂では︑太子堂村百姓家
の家族の状況が︑太子堂郷学所開校無尽講にどのように関係したかを明らかに
していきたい︒
第一節 太子堂村の家族と太子堂郷学所無尽講 明治四年三月五番組役所は組合村二二ヶ村に︑郷学所無尽講取立掛金を半高
半家割り換算し︑村毎に鬮を割当てた︒前述した﹁郷学積備金仕法﹂によれば︑
七会の無尽講の鬮は一本二朱︑一〇〇〇本を七回割当て︑五〇〇両の集金が目
論まれている︒五番組の二二ケ村への割当て状況は︑拙稿﹁太子堂郷学所の開
校と品川県五番組 ︵
よ太数当割鬮金備所学郷村堂子のへ々村組番五﹁2表︑中﹂ 53︶
り試算鬮割当数﹂にも示した︒この時太子堂村の割当鬮は︑丹誠を含め一九本
であった︒ 各村では︑村に割りあてられた鬮をさらに村内の百姓に割りあて︑掛金の集
金を図ったと考えられる︒無尽講の鬮掛金をどのように百姓に割当てたかを具
体的な記錄として伝えているのは︑管見の限りでは五番組村々の内︑衾村・太
子堂村の二ヶ村のみである︒衾村に残された史料は︑﹁辛未四月︑学校相続七
会講連名帳︑衾村 ︵
合治掛尽無金備学郷﹁月年四明は料史の村堂子太︑で他﹂九 54︶
取立帳︑太子堂村 ︵
﹂他である︒ 55︶
太子堂村の上記史料は︑第一章の表3﹁太子堂村百姓の状況と郷学所開校無
尽掛金﹂中にも示したが︑ここで改めて取立帳の九月分を記し︑太子堂村の百
姓の家族の在り方と郷学所無尽講の関わりを明らかにしていきたい︒
︵表紙︶﹁明治四年九月︑郷学所備金無尽掛合取立帳︑太子堂村﹂ 覚
一金二朱 安五郎 一金二朱 松五郎 一金二朱 平次郎 一金二朱 弥五郞 一金二朱 忠左衛門 一金二朱 同人 一金二朱 市郞兵衛 一金二朱 清太郞 一金二朱 角次郎
一金二朱 恒次郎・利右衛門 一金二朱 兼吉・栄助 一金二朱 佐右衛門・仙松 一金二朱 宇之助・平吉・清吉・平七 一金二朱 兵蔵・久蔵・与十郎