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「久米島出張復命書」を中心に

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<研究ノート>廃琉置県処分後の沖縄統治と風説 : 

「久米島出張復命書」を中心に

著者 前田 勇樹

出版者 法政大学沖縄文化研究所

雑誌名 沖縄文化研究

巻 47

ページ 299‑336

発行年 2020‑03‑31

URL http://doi.org/10.15002/00023260

(2)

John Hopkins UP, 2007.

Yumiyama, Tatsuya. "Varieties of Healing in Present-Day Japan." Japanese Journal of Religious Studies, vol. 22,

nos. 3-4, 1995, pp. 267-282.

廃琉置県処分後の沖縄統治と風説

 

「久米島出張復命書」を中心に

前  田  勇 

はじめに

本稿では、一八七九年の廃琉置県処分(以降、置県処分)後、県当局による沖縄統治と沖縄社会とが直接的に接触する領域として「風説」(噂話)に着目し、「久米島出張復命書」を中心に考察を行う。置県処分当初の沖縄社会の様相ないしは新県への抵抗運動に関しては、旧王府士族層を中心とした血判誓約書による組織的な抵抗運動や清国への亡命嘆願を中心にこれまで研究が蓄積されてきた

)1

。置県処分後、旧琉球士族層は管内全域にわたる血盟書による団結を呼びかけ、外向きには清国へ救国のための亡命嘆願を試み、内向きには新県政へのボイコットなど抵抗運動を展開した。その一方、一般民衆層ないしは首里那覇以外の地方の人々は置県処分をどのように受け止め、また

(3)

士族層の抵抗運動にどれほど関与していたのだろうか。旧慣期の村と民衆についてはすでに平良勝保氏の研究によって言及されているが

)2

、置県処分当初に関しては史料的な制約から不明な点が多く残されている。本稿で取り上げる「久米島出張復命書」は、琉球大学附属図書館「原忠順文庫」(資料番号

HA011

)に収められており、現在は同図書館ホームページの「琉球・沖縄関係貴重資料デジタルアーカイブ」から資料の本文・翻刻・解説・英文解説が閲覧可能である。本資料は置県処分当時の琉球民衆社会の様子を非常に具体的に垣間見ることのできる貴重な記録である。デジタルアーカイブの解説には同資料について次のように述べられている。

明治一四(一八八一)年五月二三日付で、十等出仕豊見城盛綱(とみぐすく・せいこう)および三等属渡辺簡が大書記官原忠順に提出した出張報告書の原本である。沖縄県の罫紙。一ページ目に「原」印あり。当時の久米島では、「日清間に戦端が開かれた」「県令と大書記官は上京し、鹿児島県人の某が代理で事務をつかさどっている」「本県人は残らず辞職した」「首里分遣隊はすべて撤退した」「久米村に中国人が来着する」といった流言が飛び交っていた。これに対し豊見城らが情報源を糾し、その情報が虚偽であることを各村々に出向いて説諭するまでの経緯が記されている。 )3

本稿では、「久米島出張復命書」を中心に据えつつ、置県処分前後の資料を用いて沖縄統治を取り巻く琉球民衆社会の風説と新県官吏による対応を検討する。これを通して、県当局による平民層を対象とした治安対策の具体的な様相や、置県処分の民衆社会への影響など多様な側面を明らかにする事ができると考える。

一、県当局の平民対策と置県処分後の久米島

(一)松田道之の懸念まずは廃琉置県処分直前の統治方針から平民対策について見ていきたい。一八七八年一一月に処分官松田道之から内務省へ提出された処分案には、「処分ノ結果ノ大略」として処分後に想定される状況が士族層と平民(資料上は「土民」と記載)に分けて述べられている

)4

。松田は処分後の状況について、琉球が組織的な兵力を持っていない事から武力に訴える可能性は考えられないが、「陰顕百般の所為を以て政治の妨害をなし」と武力ではないあらゆる方法での妨害が想定されると述べる。そして、琉球の平民層については「最も困難なるは土民字を知る者少なく、言語通せさるを以て政令を布き政治を施すに、皆な士族以上の者を用ひて之か媒介をなさしめさるを得す」と記されている。言語の不通はヤマト人官吏たちにとって喫緊の課題であった。特にゼロからのスタートとなる統治初期の

(4)

士族層の抵抗運動にどれほど関与していたのだろうか。旧慣期の村と民衆についてはすでに平良勝保氏の研究によって言及されているが

)2

、置県処分当初に関しては史料的な制約から不明な点が多く残されている。本稿で取り上げる「久米島出張復命書」は、琉球大学附属図書館「原忠順文庫」(資料番号

HA011

)に収められており、現在は同図書館ホームページの「琉球・沖縄関係貴重資料デジタルアーカイブ」から資料の本文・翻刻・解説・英文解説が閲覧可能である。本資料は置県処分当時の琉球民衆社会の様子を非常に具体的に垣間見ることのできる貴重な記録である。デジタルアーカイブの解説には同資料について次のように述べられている。 明治一四(一八八一)年五月二三日付で、十等出仕豊見城盛綱(とみぐすく・せいこう)および三等属渡辺簡が大書記官原忠順に提出した出張報告書の原本である。沖縄県の罫紙。一ページ目に「原」印あり。当時の久米島では、「日清間に戦端が開かれた」「県令と大書記官は上京し、鹿児島県人の某が代理で事務をつかさどっている」「本県人は残らず辞職した」「首里分遣隊はすべて撤退した」「久米村に中国人が来着する」といった流言が飛び交っていた。これに対し豊見城らが情報源を糾し、その情報が虚偽であることを各村々に出向いて説諭するまでの経緯が記されている。 )3

本稿では、「久米島出張復命書」を中心に据えつつ、置県処分前後の資料を用いて沖縄統治を取り巻く琉球民衆社会の風説と新県官吏による対応を検討する。これを通して、県当局による平民層を対象とした治安対策の具体的な様相や、置県処分の民衆社会への影響など多様な側面を明らかにする事ができると考える。

一、県当局の平民対策と置県処分後の久米島

(一)松田道之の懸念まずは廃琉置県処分直前の統治方針から平民対策について見ていきたい。一八七八年一一月に処分官松田道之から内務省へ提出された処分案には、「処分ノ結果ノ大略」として処分後に想定される状況が士族層と平民(資料上は「土民」と記載)に分けて述べられている

)4

。松田は処分後の状況について、琉球が組織的な兵力を持っていない事から武力に訴える可能性は考えられないが、「陰顕百般の所為を以て政治の妨害をなし」と武力ではないあらゆる方法での妨害が想定されると述べる。そして、琉球の平民層については「最も困難なるは土民字を知る者少なく、言語通せさるを以て政令を布き政治を施すに、皆な士族以上の者を用ひて之か媒介をなさしめさるを得す」と記されている。言語の不通はヤマト人官吏たちにとって喫緊の課題であった。特にゼロからのスタートとなる統治初期の

(5)

段階では、県庁による沖縄統治を一般民衆まで浸透させる上で、士族層を媒介とする以外の方法は無かった。そのため、「処分ノ結果ノ大略」では次のような統治上の懸念が指摘されている。

而して其士族は則ち不平徒なれは、上意を偽伝し、下情を詐申し、実に土人に便益なる事件も、之を不便不益として告知する等、壅蔽離間至らさるなく、以て政治を妨害するの好手段となす、恰も盗みに鍵を保管せしむるか如し

県庁と平民層を媒介する士族層がそもそも「不平徒」であるため、県庁からの布達を偽って民衆へ伝え、民衆の状況もまた偽って県庁へ伝えられる可能性があり、本来有益である案件も不益なものとして伝えられかねないと述べる。このような状況を松田は「恰も盗みに鍵を保管せしむるか如し」と形容している。松田は平民層の統治に関して、「土民に於ては、営業上、租税上、宗旨上等の圧制苛酷を免るるに依り自然新政に陶冶馴致せらるる所あるへし」と楽観視しており、あくまで一番の懸念は統治者と民衆を媒介する士族層の動向であった。たしかに後述する「探偵書」の内容からも平民の生活は比較的穏やかであることが報告されている。置県処分直後に各間切へ派遣された県官吏からの報告書にも、士族層が徹底抗戦する構えであるのに対して、平民の生活については次のように報告されている。

土民に至ては実に平穏にして更に其藩と県との如何に関せす、只営業を是れ勉め、淳朴可愛中には政事の改良を希望して悦喜する者も往々あり、之を要するに事情の困難なるは役人社会と王族士族の社会とのみに止まるヿを視認めたり

)5

ここでもまた平民の生活状況は至って平穏であり、なかには琉球王府から沖縄県庁への政体の変化を好意的に受け入れる者もいると報告されている。そして、改めて統治を困難にしているのは「役人社会」「王族士族の社会」であると指摘する。このように、置県処分直前の計画段階において平民の統治対策はそれほど重要視されてはおらず、あくまでそれを媒介する士族層の問題として捉えられていたのである。次章で分析する「久米島出張復命書」においても、県官吏の説諭に対する受書の提出に際しては、間切役人だけでなく平民と間切行政を媒介する村役人や百姓頭にも提出が求められた。置県処分後の沖縄全域で懸念されたのは不平士族の煽動により民心が動揺し、統治に支障をきたすことであり、県当局と民衆を媒介する領域には特に注意が向けられたのである。

(二)久米島における置県処分の余波『仲里村史』をはじめとする久米島の地域誌や先行研究には、本稿で取り上げる「久米島出張復命書」についての記述は見られない。ここではまず、先行研究や地域誌に記録された「古老の話」に着

(6)

段階では、県庁による沖縄統治を一般民衆まで浸透させる上で、士族層を媒介とする以外の方法は無かった。そのため、「処分ノ結果ノ大略」では次のような統治上の懸念が指摘されている。

而して其士族は則ち不平徒なれは、上意を偽伝し、下情を詐申し、実に土人に便益なる事件も、之を不便不益として告知する等、壅蔽離間至らさるなく、以て政治を妨害するの好手段となす、恰も盗みに鍵を保管せしむるか如し

県庁と平民層を媒介する士族層がそもそも「不平徒」であるため、県庁からの布達を偽って民衆へ伝え、民衆の状況もまた偽って県庁へ伝えられる可能性があり、本来有益である案件も不益なものとして伝えられかねないと述べる。このような状況を松田は「恰も盗みに鍵を保管せしむるか如し」と形容している。松田は平民層の統治に関して、「土民に於ては、営業上、租税上、宗旨上等の圧制苛酷を免るるに依り自然新政に陶冶馴致せらるる所あるへし」と楽観視しており、あくまで一番の懸念は統治者と民衆を媒介する士族層の動向であった。たしかに後述する「探偵書」の内容からも平民の生活は比較的穏やかであることが報告されている。置県処分直後に各間切へ派遣された県官吏からの報告書にも、士族層が徹底抗戦する構えであるのに対して、平民の生活については次のように報告されている。

土民に至ては実に平穏にして更に其藩と県との如何に関せす、只営業を是れ勉め、淳朴可愛中には政事の改良を希望して悦喜する者も往々あり、之を要するに事情の困難なるは役人社会と王族士族の社会とのみに止まるヿを視認めたり

)5

ここでもまた平民の生活状況は至って平穏であり、なかには琉球王府から沖縄県庁への政体の変化を好意的に受け入れる者もいると報告されている。そして、改めて統治を困難にしているのは「役人社会」「王族士族の社会」であると指摘する。このように、置県処分直前の計画段階において平民の統治対策はそれほど重要視されてはおらず、あくまでそれを媒介する士族層の問題として捉えられていたのである。次章で分析する「久米島出張復命書」においても、県官吏の説諭に対する受書の提出に際しては、間切役人だけでなく平民と間切行政を媒介する村役人や百姓頭にも提出が求められた。置県処分後の沖縄全域で懸念されたのは不平士族の煽動により民心が動揺し、統治に支障をきたすことであり、県当局と民衆を媒介する領域には特に注意が向けられたのである。

(二)久米島における置県処分の余波『仲里村史』をはじめとする久米島の地域誌や先行研究には、本稿で取り上げる「久米島出張復命書」についての記述は見られない。ここではまず、先行研究や地域誌に記録された「古老の話」に着

(7)

目し、置県処分後の久米島の様子について押さえておきたい。一九七九〜一九八一年にかけて法政大学沖縄文化研究所が行った久米島調査の報告書『沖縄久米島』の冒頭論文「久米島の歴史」には、文久・慶應生まれの古老の話として次のような興味深い話が出てくる

)6

明治一二年の三月に廃藩置県が申し渡され、いよいよヤマト役人が久米島にも乗り込んでくるというので、間切役人をはじめ島中の人々は、どうなることかと戦々恐々、ある在番(久米島の)は、在番詰所に保管されていた書類をことごとく焼き捨て、仮妻(俗に仮屋アンマーといわれた間切からあてがった女)を伴い、その父親にくり舟を漕がせ、夜中にこっそり島を離れたが途中でシケに遭い、引返してきて伊保の浜の阿旦林の中に、しばらく身を隠していたという。

久米島には置県処分により島内が混乱する様子や、身の危険を感じて逃げ隠れする間切役人の話が残っており、この時に久米島の間切行政に関する重要な資料が多く焼き捨てられたようである。こういった置県処分後の混乱状態の中で、地方へ逃げる民衆の様子は、沖縄本島でも見られる。探偵書(一八七九年四月一七日条)には「一、戦争起ると小風呂敷包を携へ逃る婦人往々見当候事」という事例が報告されている

)7

。この事例では、日清間もしくは不平士族による武力蜂起の噂を耳にした人々が地方へと避難を始めた様子が伝えられている。この他にも、辻の遊女(ジュリ)達が情勢を鑑みて

田舎へ戻っている様子などが記録されている。本島では一触即発の緊張状態から、地方では主にヤマト人に対する恐怖心から逃散する人々の姿が見られる。また、久米島では実際にヤマト人官吏が島へ入ってきた際の様子について次のように記述されている。

人々はヤマト役人が入り込んで来るというのでただあわて恐れて、村々では毎日のように女男を村屋に集め、いろいろのこまかい注意を与えた。「ヤマト役人に道で出あったら、土下座して手を合わすように。首を曲げて下げたら切られる」などと、くだらんことを村役人はまじめに達したという。これは文久生れの老女の話であったが、その老女は当時一八、九の娘で、村外れの小川で二、三名の者と洗い物をしていると、赤毛布をおいた馬に乗った役人がお供を一人つれて現れたので、とっさに水の中にひざまずいて手を合わせた。すると役人は何かといって笑ったがそのまま通り過ぎたという。

この記述からも分かるようにさまざまな噂が飛び交う中で、人々は村屋に集まりその対応が協議されたようである。近世期にヤマト人役人(士族)が島々まで直接訪れることはほとんど無かった。そのため、島の人々にとっては得体の知れない畏怖の存在が突如島の統治者として赴任してくる現実を前にしてさまざまな憶測が飛び交っていた。置県処分後の久米島に関する他の先行研究にも同様の記

(8)

目し、置県処分後の久米島の様子について押さえておきたい。一九七九〜一九八一年にかけて法政大学沖縄文化研究所が行った久米島調査の報告書『沖縄久米島』の冒頭論文「久米島の歴史」には、文久・慶應生まれの古老の話として次のような興味深い話が出てくる

)6

明治一二年の三月に廃藩置県が申し渡され、いよいよヤマト役人が久米島にも乗り込んでくるというので、間切役人をはじめ島中の人々は、どうなることかと戦々恐々、ある在番(久米島の)は、在番詰所に保管されていた書類をことごとく焼き捨て、仮妻(俗に仮屋アンマーといわれた間切からあてがった女)を伴い、その父親にくり舟を漕がせ、夜中にこっそり島を離れたが途中でシケに遭い、引返してきて伊保の浜の阿旦林の中に、しばらく身を隠していたという。

久米島には置県処分により島内が混乱する様子や、身の危険を感じて逃げ隠れする間切役人の話が残っており、この時に久米島の間切行政に関する重要な資料が多く焼き捨てられたようである。こういった置県処分後の混乱状態の中で、地方へ逃げる民衆の様子は、沖縄本島でも見られる。探偵書(一八七九年四月一七日条)には「一、戦争起ると小風呂敷包を携へ逃る婦人往々見当候事」という事例が報告されている

)7

。この事例では、日清間もしくは不平士族による武力蜂起の噂を耳にした人々が地方へと避難を始めた様子が伝えられている。この他にも、辻の遊女(ジュリ)達が情勢を鑑みて

田舎へ戻っている様子などが記録されている。本島では一触即発の緊張状態から、地方では主にヤマト人に対する恐怖心から逃散する人々の姿が見られる。また、久米島では実際にヤマト人官吏が島へ入ってきた際の様子について次のように記述されている。

人々はヤマト役人が入り込んで来るというのでただあわて恐れて、村々では毎日のように女男を村屋に集め、いろいろのこまかい注意を与えた。「ヤマト役人に道で出あったら、土下座して手を合わすように。首を曲げて下げたら切られる」などと、くだらんことを村役人はまじめに達したという。これは文久生れの老女の話であったが、その老女は当時一八、九の娘で、村外れの小川で二、三名の者と洗い物をしていると、赤毛布をおいた馬に乗った役人がお供を一人つれて現れたので、とっさに水の中にひざまずいて手を合わせた。すると役人は何かといって笑ったがそのまま通り過ぎたという。

この記述からも分かるようにさまざまな噂が飛び交う中で、人々は村屋に集まりその対応が協議されたようである。近世期にヤマト人役人(士族)が島々まで直接訪れることはほとんど無かった。そのため、島の人々にとっては得体の知れない畏怖の存在が突如島の統治者として赴任してくる現実を前にしてさまざまな憶測が飛び交っていた。置県処分後の久米島に関する他の先行研究にも同様の記

(9)

述が見られるが、これ以上詳細な記述は管見の限り見られない。また、その後の状況についても「役所も設置され、讃否両論の多少のくすぶりはあったが、久米島では首里那覇にあったような騒ぎはなく、多数の者は長年の桎梏から解き放され、希望をもってヤマト世を迎えたようであるが、中には古い制度に恋々としている者もいて、彼らはわずかに結髪や服装などによって、それを表示しようとしている者もいたようである」との記述に止まっている。ヤマト人による統治について賛否両論は多少あったが、首里那覇ほどの激しいものではなく、比較的穏やかに置県処分を受け入れた印象を受ける。ただ、ヤマト人が新たな統治者として島を訪れてから久米島の統治が安定するまでの間、何も大きな出来事がなかったわけではない。次に取り上げる「久米島出張復命書」からは、置県処分後の久米島における県当局

島民間の不穏な緊張関係が垣間見える。

二、「久米島出張復命書」にみる風説と説諭

(一)「久米島出張復命書」の内容より 

—風説と治安対策

「久米島出張復命書」は「明治一四年五月廿三日」付で県庁十等出仕豊見城盛綱と同三等属渡辺簡から原忠順大書記官へ提出された「復命書」と別紙の「久米島出張日誌」から成る。復命書の内容は前述したように久米島の住民に対して直接説諭を行い、事態が安着した事が述べられている。

    復命書小官等久米島出張ノ命ヲ蒙リ、本月一日該島へ渡航シ、即チ間切吏員ヲ始メ人民ヘモ懇篤説諭ニ及ヒ候処、疑惑ノ筋全ク氷解シ、昨今ニ至リテハ別シテ安着致シタル景況ニ有之候、猶説諭ニ従ヒ受書等差出シタル詳細ハ別紙出張日誌ノ通リニ御座候此段復命仕候也    明治十四年五月廿三日      十等出仕豊見城盛綱        三等属渡辺簡     大書記官原  忠順殿

別紙の「久米島出張日誌」には、同年五月一日に豊見城らが那覇を出発してから同月二一日に帰庁するまでの久米島での事のあらましが詳細に記録されている。まずは日ごとに出来事の詳細を追っていく。

十四年五月一日  晴  正午八十二度一、

着口名二査巡部警橋ニ及谷板川久佐並之乗官間ニ署分察警切川リ志具時、五同陸。揚等小 那覇港解纜、海上順風ニシテ、午後四時久米島兼城湾外ニ到リ進船ヲ止メ(ボート)ヲ下シ

等谷板掛、用御川佐久等官小時、七前午外日等号時、九同ス。搭ニ龍出赤船郵ニ共ト仕一

(10)

述が見られるが、これ以上詳細な記述は管見の限り見られない。また、その後の状況についても「役所も設置され、讃否両論の多少のくすぶりはあったが、久米島では首里那覇にあったような騒ぎはなく、多数の者は長年の桎梏から解き放され、希望をもってヤマト世を迎えたようであるが、中には古い制度に恋々としている者もいて、彼らはわずかに結髪や服装などによって、それを表示しようとしている者もいたようである」との記述に止まっている。ヤマト人による統治について賛否両論は多少あったが、首里那覇ほどの激しいものではなく、比較的穏やかに置県処分を受け入れた印象を受ける。ただ、ヤマト人が新たな統治者として島を訪れてから久米島の統治が安定するまでの間、何も大きな出来事がなかったわけではない。次に取り上げる「久米島出張復命書」からは、置県処分後の久米島における県当局

島民間の不穏な緊張関係が垣間見える。

二、「久米島出張復命書」にみる風説と説諭

(一)「久米島出張復命書」の内容より 

—風説と治安対策

「久米島出張復命書」は「明治一四年五月廿三日」付で県庁十等出仕豊見城盛綱と同三等属渡辺簡から原忠順大書記官へ提出された「復命書」と別紙の「久米島出張日誌」から成る。復命書の内容は前述したように久米島の住民に対して直接説諭を行い、事態が安着した事が述べられている。

    復命書小官等久米島出張ノ命ヲ蒙リ、本月一日該島へ渡航シ、即チ間切吏員ヲ始メ人民ヘモ懇篤説諭ニ及ヒ候処、疑惑ノ筋全ク氷解シ、昨今ニ至リテハ別シテ安着致シタル景況ニ有之候、猶説諭ニ従ヒ受書等差出シタル詳細ハ別紙出張日誌ノ通リニ御座候此段復命仕候也    明治十四年五月廿三日      十等出仕豊見城盛綱        三等属渡辺簡     大書記官原  忠順殿

別紙の「久米島出張日誌」には、同年五月一日に豊見城らが那覇を出発してから同月二一日に帰庁するまでの久米島での事のあらましが詳細に記録されている。まずは日ごとに出来事の詳細を追っていく。

十四年五月一日  晴  正午八十二度一、

着口名二査巡部警橋ニ及谷板川久佐並之乗官間ニ署分察警切川リ志具時、五同陸。揚等小 那覇港解纜、海上順風ニシテ、午後四時久米島兼城湾外ニ到リ進船ヲ止メ(ボート)ヲ下シ

等谷板掛、用御川佐久等官小時、七前午外日等号時、九同ス。搭ニ龍出赤船郵ニ共ト仕一

(11)

ス。即チ分署長ニ向ヒ該島人民ノ動静ヲ尋問セシニ、未タ確タル事ヲ見留得ス、目下探偵中ナル趣ヲ報答ス。依テ直チニ仲里間切役所ニ赴カント人馬ノ雇入ヲ間切吏員ニ嘱シ、且該役所詰員斉藤山下等ノ上陸端船ノ手当ヲナサシム。同七時、分署出発。日夜十時、役所ニ到着。役所長ニ猶民情ノ景況ヲ問フニ、左ノ条々等流伝セシニ付、吏員共ヘハ決シテ不然旨説明示諭スレトモ、内心ハ猶不解ノ模様ニ有之。人民ニハ密ニ集合等致居趣キモ内聞ニ付、直チニ上聞ニ及ヒシト爾後別段相変ラス、未タ暴挙等ニ及ヘキ景況ハ無之旨ノ答アリ。因テ吏員始メ得ト了解セシメ其原因、且何辺ニテ集議セシヤ申出サスヘク所長トモ協議シ、翌日間切吏員呼出ノ手続ヲナス     一、東京ハ即今日清戦争相始マリ居シ事     一、長次官ニハ御上京下等属官鹿児島人何某代理庁務取扱ノ事     一、本県人ニハ不残辞職セシ事     一、首里分遣隊渾テ引払ノ事     一、久米村ニハ支那人来着アル事

五月一日の午前に那覇を出港した一行はその日の夕方に久米島へ入り、早速警察分署と仲里間切役所において島の状況を尋問した。役所長との問答において次の五つの「流言」が島内に出回っている

ことが明らかになる。

   ①日清間の戦争が始まった

   ②

県令と大書記官は上京しており、代わりに下等属の鹿児島県人某が代理で事務をつかさどっ

ている

   ③本県人(琉球人)は全員辞職した    ④首里分遣隊はすべて撤退した    ⑤久米村に中国人が来着するこれに対して役所の官吏によって説諭を繰り返しているが、住民は疑念を持っており密かに集まって何かを話し合っているという。暴挙に出るような状況は報告されていないが、派遣官吏と協議して翌日から村役人を呼び出し事情聴取する準備が進められた。流言①や⑤は置県処分直後に首里那覇を中心に同様の噂が流布していた。②に関しては、たしかに長官である県令は中央政府との調整のために上京する事が多く、その間は書記官が県政を担った。「鹿児島人何某」が事務を司っているという点は何が根拠になっているのか不明である。ただ、警察や商人など多くの鹿児島出身者が沖縄へ流入している同時代状況から出てきた話であろう。こういった久米島島内の状況に対して、翌二日から派遣官吏による間切役人への説諭と噂の出所や住民の動向に関する調査が本格的に始められた。

(12)

ス。即チ分署長ニ向ヒ該島人民ノ動静ヲ尋問セシニ、未タ確タル事ヲ見留得ス、目下探偵中ナル趣ヲ報答ス。依テ直チニ仲里間切役所ニ赴カント人馬ノ雇入ヲ間切吏員ニ嘱シ、且該役所詰員斉藤山下等ノ上陸端船ノ手当ヲナサシム。同七時、分署出発。日夜十時、役所ニ到着。役所長ニ猶民情ノ景況ヲ問フニ、左ノ条々等流伝セシニ付、吏員共ヘハ決シテ不然旨説明示諭スレトモ、内心ハ猶不解ノ模様ニ有之。人民ニハ密ニ集合等致居趣キモ内聞ニ付、直チニ上聞ニ及ヒシト爾後別段相変ラス、未タ暴挙等ニ及ヘキ景況ハ無之旨ノ答アリ。因テ吏員始メ得ト了解セシメ其原因、且何辺ニテ集議セシヤ申出サスヘク所長トモ協議シ、翌日間切吏員呼出ノ手続ヲナス     一、東京ハ即今日清戦争相始マリ居シ事     一、長次官ニハ御上京下等属官鹿児島人何某代理庁務取扱ノ事     一、本県人ニハ不残辞職セシ事     一、首里分遣隊渾テ引払ノ事     一、久米村ニハ支那人来着アル事

五月一日の午前に那覇を出港した一行はその日の夕方に久米島へ入り、早速警察分署と仲里間切役所において島の状況を尋問した。役所長との問答において次の五つの「流言」が島内に出回っている

ことが明らかになる。

   ①日清間の戦争が始まった    ②

県令と大書記官は上京しており、代わりに下等属の鹿児島県人某が代理で事務をつかさどっ

ている

   ③本県人(琉球人)は全員辞職した    ④首里分遣隊はすべて撤退した    ⑤久米村に中国人が来着するこれに対して役所の官吏によって説諭を繰り返しているが、住民は疑念を持っており密かに集まって何かを話し合っているという。暴挙に出るような状況は報告されていないが、派遣官吏と協議して翌日から村役人を呼び出し事情聴取する準備が進められた。流言①や⑤は置県処分直後に首里那覇を中心に同様の噂が流布していた。②に関しては、たしかに長官である県令は中央政府との調整のために上京する事が多く、その間は書記官が県政を担った。「鹿児島人何某」が事務を司っているという点は何が根拠になっているのか不明である。ただ、警察や商人など多くの鹿児島出身者が沖縄へ流入している同時代状況から出てきた話であろう。こういった久米島島内の状況に対して、翌二日から派遣官吏による間切役人への説諭と噂の出所や住民の動向に関する調査が本格的に始められた。

(13)

五月二日  晴  寒暖計正午八十二度一、

間切吏員一同(具志川間切吏員ハ両三名来ル)役所ヘ呼出シ、前浮説ノ虚事ナルヲ一々説明

シ、懇篤申諭シ、昨今集合ノ景況、且其流言ノ由テ出ル所申出ツヘク、決シテ罪人ヲ取ニアラス、猶説諭ノ次第モ有之旨懇示セシニ、略々解悟ノ模様モ有之。一応対坐セシメシニ、其末集合ノ人員及場所並流言ノ源等取調方翌三日マテノ猶予ヲ請フ。因テ猶右ハ警察署等ノ手ニ渡シ煩スニ非ス、然トモ事実不申出ニ於テハ不得止警官ニテ可為取糺抔抑揚相諭シ、而シテ又何カ人民不満意アルカ或ハ役員旧慣ヨリ不足ニシテ差支等ノ義アラハ役所長ニ可申立、小官共ニモ亦協議ニ可及ニ付集会ノ有体申出方至急可取計達ス

間切役人全員が役所へ呼び出され、噂が嘘である事を説明した上で、住民たちが密かに集まっている状況や噂の出所について申し出るよう伝えられた。その際、集会の参加者や噂を流した人物を罪人として警察へ連行する訳ではないと再三強調している。ただ、間切役人から翌日まで解答の猶予を求められた際には、事実が明らかになるのが遅くなればやむを得ず警察で糾問する可能性を示唆しつつ、併せて住民の不満や間切行政上で差し支えある事柄について申し出るよう通達された。置県処分後、旧士族層の抵抗運動に対して県当局は同年八月ごろから警察による弾圧を断行した。この弾圧は首里那覇を中心に全県的なものであったが、その後警察権力を恐怖の対象として深く印象付けること

になる。翌三日の記述には「一、仲里間切吏員ヨリ浮説ヲ信シ集会等致タル村々并凡人員トモ毎村々取調候ヘトモ不相分旨所長迄申出ニ付、猶精シク取調ヘク相示シ具志川間切吏員ノ申出ヲ待ツ」とあり、その詳細は明らかにはならなかった。事態が大きく動きだすのは五月四日のことである。

五月四日晴  正午八拾三度一、

午時、具志川間切吏員一同役所出頭。浮説ノ原ハ本島旧山里夫地頭譜久里某及那覇商人某々

帰着ノ上、右浮説ヲ談話シ、随テ紬ノ価格モ大ニ下落セリ抔ト言フ。其新珍ノ説ナルヨリ、一人二人ト来リ四五名モ相集マリ聞承シタルノミニテ、別段集議等致セシ義無之段申出、其商人ハ何ノ誰々ト記載差出ス。該間切ノ方ハ事実相違モ無之模様ニ付、右吏員共へ猶又懇々説諭、今後縦令流言浮説有之トモ、決シテ信用致ス間敷ク、役所ヨリ達示ノ外ハ都テ邪説ト可相心得、新聞紙等ノ如キモ即チ商法上ニ出ツル旨ヲ説示セシニ感覚氷解ノ色相見ユ。因テ説諭ノ次第違背セサルニ於テハ、其受書可差出相達シ、別紙誓書之ヲ取ル一、

右浮説ヲナセシ那覇商人ニハ具志川間切滞在ノ趣ニ付、翌五日役所出頭致スヘキ様取計方該

間切吏員共へ役所ヨリ相達ス

(14)

五月二日  晴  寒暖計正午八十二度一、

間切吏員一同(具志川間切吏員ハ両三名来ル)役所ヘ呼出シ、前浮説ノ虚事ナルヲ一々説明

シ、懇篤申諭シ、昨今集合ノ景況、且其流言ノ由テ出ル所申出ツヘク、決シテ罪人ヲ取ニアラス、猶説諭ノ次第モ有之旨懇示セシニ、略々解悟ノ模様モ有之。一応対坐セシメシニ、其末集合ノ人員及場所並流言ノ源等取調方翌三日マテノ猶予ヲ請フ。因テ猶右ハ警察署等ノ手ニ渡シ煩スニ非ス、然トモ事実不申出ニ於テハ不得止警官ニテ可為取糺抔抑揚相諭シ、而シテ又何カ人民不満意アルカ或ハ役員旧慣ヨリ不足ニシテ差支等ノ義アラハ役所長ニ可申立、小官共ニモ亦協議ニ可及ニ付集会ノ有体申出方至急可取計達ス

間切役人全員が役所へ呼び出され、噂が嘘である事を説明した上で、住民たちが密かに集まっている状況や噂の出所について申し出るよう伝えられた。その際、集会の参加者や噂を流した人物を罪人として警察へ連行する訳ではないと再三強調している。ただ、間切役人から翌日まで解答の猶予を求められた際には、事実が明らかになるのが遅くなればやむを得ず警察で糾問する可能性を示唆しつつ、併せて住民の不満や間切行政上で差し支えある事柄について申し出るよう通達された。置県処分後、旧士族層の抵抗運動に対して県当局は同年八月ごろから警察による弾圧を断行した。この弾圧は首里那覇を中心に全県的なものであったが、その後警察権力を恐怖の対象として深く印象付けること

になる。翌三日の記述には「一、仲里間切吏員ヨリ浮説ヲ信シ集会等致タル村々并凡人員トモ毎村々取調候ヘトモ不相分旨所長迄申出ニ付、猶精シク取調ヘク相示シ具志川間切吏員ノ申出ヲ待ツ」とあり、その詳細は明らかにはならなかった。事態が大きく動きだすのは五月四日のことである。

五月四日晴  正午八拾三度一、

午時、具志川間切吏員一同役所出頭。浮説ノ原ハ本島旧山里夫地頭譜久里某及那覇商人某々

帰着ノ上、右浮説ヲ談話シ、随テ紬ノ価格モ大ニ下落セリ抔ト言フ。其新珍ノ説ナルヨリ、一人二人ト来リ四五名モ相集マリ聞承シタルノミニテ、別段集議等致セシ義無之段申出、其商人ハ何ノ誰々ト記載差出ス。該間切ノ方ハ事実相違モ無之模様ニ付、右吏員共へ猶又懇々説諭、今後縦令流言浮説有之トモ、決シテ信用致ス間敷ク、役所ヨリ達示ノ外ハ都テ邪説ト可相心得、新聞紙等ノ如キモ即チ商法上ニ出ツル旨ヲ説示セシニ感覚氷解ノ色相見ユ。因テ説諭ノ次第違背セサルニ於テハ、其受書可差出相達シ、別紙誓書之ヲ取ル一、

右浮説ヲナセシ那覇商人ニハ具志川間切滞在ノ趣ニ付、翌五日役所出頭致スヘキ様取計方該

間切吏員共へ役所ヨリ相達ス

(15)

この日出頭した間切吏員の話により、噂の出所が「旧山里夫地頭譜久里某」と「那覇商人某々」である事が発覚する。さらに、彼らは置県処分による混乱に起因して久米島の重要産品である紬の価格が大幅に下落しているとの噂まで流布していた。この話が一人二人と島民間に広まり、このような事態となった。派遣官吏は役所からの達示以外は「邪説」なので、信用しないよう間切官吏たちに説諭し、受書(誓書)の提出を求めた。また、噂を流した那覇商人が久米島の具志川間切に滞在していることが判明し、具志川間切の間切吏員に対して当人を翌日久米島役所へ出頭させるよう達した。翌五日の記述には、実際に噂の犯人が出頭してきた事で、事件のあらましが具体的に明らかとなる。

五月五日晴  正午八十二度一、

那覇商人左記名ノ者共役所出頭シタルニ付、流言浮説ノ次第取糺シタルニ、右等ノ義ハ決シ

テ談話セシ事無之段申張ルニ付、然ラハ警官ヘ可引渡筈ナレトモ猶勘考可致、一応退席セシム、然ル処右ノ者共ヨリ内々役所員ニ面会ヲ請ヒ、前段流言ノ原ハ私共ニ出タルニ相違無之、右ハ那覇於テ風評有之、加之紬一端ヨリ七八十銭ノ損失ヲ蒙リシ次第モ有之、旁其価ヲ廉ニセシ為四五名ニ話セシ事ナリ。然シ以後決シテ右等ノ浮説流伝不致ニ付、此度ハ宥免セラレ度旨、事実白状ニ及ヒ、全ク商法上ノ為ナル義判然ニ付、今後ヲ警メ別紙証書ヲ出サシム

     那覇久米村八十四番地内二号        稲嶺恒裕      同西村百四十七番地内二号        宮平永悦 五日、噂の出所である二人の那覇商人が久米島役所へ出頭した。一人は「那覇久米村八十四番地内二号  稲嶺恒裕」、もう一人は「同西村百四十七番地内二号  宮平永悦」であった。彼らは最初噂の出所であることを否定していたが、官吏が警察への身柄引き渡しを仄めかした事で事実を認めた。彼らは当時那覇で流布していた噂話に加え、紬の価格を廉価にするために噂を久米島の住民に流したと白状している。派遣官吏たちも商売上の動機である事が判明したので、今後を戒める証書を提出させ、お咎めなしとした。現在でいう所の詐欺事件に近い内容であるが、派遣官吏たちは治安維持の面で噂の流布を警戒していたため、当人を厳罰に処す事はなかったのである。

(二)出所発覚後の対応過程 

—説諭と受書

その後の状況についても「久米島出張日誌」には詳細に記録されている。

(16)

この日出頭した間切吏員の話により、噂の出所が「旧山里夫地頭譜久里某」と「那覇商人某々」である事が発覚する。さらに、彼らは置県処分による混乱に起因して久米島の重要産品である紬の価格が大幅に下落しているとの噂まで流布していた。この話が一人二人と島民間に広まり、このような事態となった。派遣官吏は役所からの達示以外は「邪説」なので、信用しないよう間切官吏たちに説諭し、受書(誓書)の提出を求めた。また、噂を流した那覇商人が久米島の具志川間切に滞在していることが判明し、具志川間切の間切吏員に対して当人を翌日久米島役所へ出頭させるよう達した。翌五日の記述には、実際に噂の犯人が出頭してきた事で、事件のあらましが具体的に明らかとなる。 五月五日晴  正午八十二度一、

那覇商人左記名ノ者共役所出頭シタルニ付、流言浮説ノ次第取糺シタルニ、右等ノ義ハ決シ

テ談話セシ事無之段申張ルニ付、然ラハ警官ヘ可引渡筈ナレトモ猶勘考可致、一応退席セシム、然ル処右ノ者共ヨリ内々役所員ニ面会ヲ請ヒ、前段流言ノ原ハ私共ニ出タルニ相違無之、右ハ那覇於テ風評有之、加之紬一端ヨリ七八十銭ノ損失ヲ蒙リシ次第モ有之、旁其価ヲ廉ニセシ為四五名ニ話セシ事ナリ。然シ以後決シテ右等ノ浮説流伝不致ニ付、此度ハ宥免セラレ度旨、事実白状ニ及ヒ、全ク商法上ノ為ナル義判然ニ付、今後ヲ警メ別紙証書ヲ出サシム

     那覇久米村八十四番地内二号        稲嶺恒裕      同西村百四十七番地内二号        宮平永悦 五日、噂の出所である二人の那覇商人が久米島役所へ出頭した。一人は「那覇久米村八十四番地内二号  稲嶺恒裕」、もう一人は「同西村百四十七番地内二号  宮平永悦」であった。彼らは最初噂の出所であることを否定していたが、官吏が警察への身柄引き渡しを仄めかした事で事実を認めた。彼らは当時那覇で流布していた噂話に加え、紬の価格を廉価にするために噂を久米島の住民に流したと白状している。派遣官吏たちも商売上の動機である事が判明したので、今後を戒める証書を提出させ、お咎めなしとした。現在でいう所の詐欺事件に近い内容であるが、派遣官吏たちは治安維持の面で噂の流布を警戒していたため、当人を厳罰に処す事はなかったのである。

(二)出所発覚後の対応過程 

—説諭と受書

その後の状況についても「久米島出張日誌」には詳細に記録されている。

(17)

一、

仲里間切吏員一同列席セシメ、猶又集合ノ景況取糺タルニ何分相分ラス、右ハ商人共弁益上

ヨリ流伝セシ事判然セシ上ニテ、強テ糺迫スルハ却テ疑惑ヲ生スルモ難計、事実格別ノ義ニモ無之被察ニ付、既往ヲ不咎、自今ヲ取締メ具志川間切同様懇篤説諭別紙誓証之ヲ取ル

仲里間切の吏員を呼び出して、噂を広めないよう説諭した上で、具志川間切と同様に受書が取られた。その際、何も分からないと言っている間切官吏をこれ以上強く問いただしても不信感が生じるだけであり、噂の流布に対するほかの理由や事情も見られないので、これ以上追及しないことにしたという。また、受書の提出範囲は間切吏員だけでなく、資料中において「一、右了テ役所近傍各村ノ奉公人(平民中筆算ヲ心得タルモノニテ旧吏員モアリ)、百姓頭及寄留人共、各其人員ノ多少ニ依リ二三名乃至五六名ツヽ出頭セシメ懇諭スル。前吏員同様ニシテ奉公人ノミハ別紙受証之ヲ取ル本日出頭ノ村々左ノ如シ」とあるように、村役人にも提出を求めた。この日は仲里間切の真謝村、宇根村、謝名堂村、宇江城村、比屋定村、阿嘉村の村役人から受書を取っている。各村の提出人数については次のような記載が見られる。

   中里間切真謝村   姓名等ハ別紙ニ記載ス奉公人  六名   下皆同シ百姓頭  四名   寄留   二名   同  宇根村奉公人  四名百姓頭  四名寄留   二名

  同  謝名堂村奉公人  四名百姓頭  四名   同  宇江城村百姓頭  四名寄留   一名

  同  比屋定村奉公人  一名

(18)

一、

仲里間切吏員一同列席セシメ、猶又集合ノ景況取糺タルニ何分相分ラス、右ハ商人共弁益上

ヨリ流伝セシ事判然セシ上ニテ、強テ糺迫スルハ却テ疑惑ヲ生スルモ難計、事実格別ノ義ニモ無之被察ニ付、既往ヲ不咎、自今ヲ取締メ具志川間切同様懇篤説諭別紙誓証之ヲ取ル

仲里間切の吏員を呼び出して、噂を広めないよう説諭した上で、具志川間切と同様に受書が取られた。その際、何も分からないと言っている間切官吏をこれ以上強く問いただしても不信感が生じるだけであり、噂の流布に対するほかの理由や事情も見られないので、これ以上追及しないことにしたという。また、受書の提出範囲は間切吏員だけでなく、資料中において「一、右了テ役所近傍各村ノ奉公人(平民中筆算ヲ心得タルモノニテ旧吏員モアリ)、百姓頭及寄留人共、各其人員ノ多少ニ依リ二三名乃至五六名ツヽ出頭セシメ懇諭スル。前吏員同様ニシテ奉公人ノミハ別紙受証之ヲ取ル本日出頭ノ村々左ノ如シ」とあるように、村役人にも提出を求めた。この日は仲里間切の真謝村、宇根村、謝名堂村、宇江城村、比屋定村、阿嘉村の村役人から受書を取っている。各村の提出人数については次のような記載が見られる。

   中里間切真謝村   姓名等ハ別紙ニ記載ス奉公人  六名   下皆同シ百姓頭  四名   寄留   二名   同  宇根村奉公人  四名百姓頭  四名寄留   二名

  同  謝名堂村奉公人  四名百姓頭  四名   同  宇江城村百姓頭  四名寄留   一名

  同  比屋定村奉公人  一名

(19)

百姓頭  三名寄留   一名   同  阿嘉村百姓頭  四名寄留   一名

   〆六ヶ村

また、翌六日からは派遣官吏や役所官吏が久米島中の村々を回って、各地の仮番所や布屋などに周辺村落の人々を集め、噂の真偽について説諭し、村役人の受書を取って回っている。この日は仲里間切の四村と具志川間切の五村を対象に回ったようである。

一、

諭シ受証ヲ取ル。前ニ同シ 山城村等ヲ経テ儀間村布屋ニ抵リ、左ノ村々奉公人、百姓頭、寄留人等ヲ集メ前同様懇切説

廻八属ト共ニ午前時八出発、比嘉村、巡等屋説佐諭之為、小官等久勝川、板谷及役所村長   仲里間切比嘉村奉公人  二名

百姓頭  三名寄留   二名   同  島尻村奉公人  四名百姓頭  四名寄留   二名

  同  山城村奉公人  四名百姓頭  三名寄留   三名   同  儀間村奉公人  拾三名百姓頭  拾二名寄留   三名右四ヶ村

(20)

百姓頭  三名寄留   一名   同  阿嘉村百姓頭  四名寄留   一名

   〆六ヶ村

また、翌六日からは派遣官吏や役所官吏が久米島中の村々を回って、各地の仮番所や布屋などに周辺村落の人々を集め、噂の真偽について説諭し、村役人の受書を取って回っている。この日は仲里間切の四村と具志川間切の五村を対象に回ったようである。

一、

諭シ受証ヲ取ル。前ニ同シ 山城村等ヲ経テ儀間村布屋ニ抵リ、左ノ村々奉公人、百姓頭、寄留人等ヲ集メ前同様懇切説

廻八属ト共ニ午前時八出発、比嘉村、巡等屋説佐諭之為、小官等久勝川、板谷及役所村長   仲里間切比嘉村奉公人  二名

百姓頭  三名寄留   二名   同  島尻村奉公人  四名百姓頭  四名寄留   二名

  同  山城村奉公人  四名百姓頭  三名寄留   三名   同  儀間村奉公人  拾三名百姓頭  拾二名寄留   三名右四ヶ村

(21)

一、右畢テ嘉手苅村兼城村ヲ経テ、大田村仮番所ニ到テ、左之村々人民へ懇諭其他前ノ如シ   具志川間切嘉手苅村奉公人  三名百姓頭  六名寄留   二名

  同  兼城村奉公人  四名百姓頭  六名寄留   一名   同  大田村奉公人  三名百姓頭  七名一、右畢テ西銘村布屋ニ抵リ、左ノ二ヶ村人民へ説諭スル前ノ如シ

  同  西銘村奉公人  五名百姓頭  八名   同  上江洲村奉公人  四名百姓頭  六名寄留   壱名

官吏一行は具志川間切上江洲村の上江洲智綱宅に一泊し、翌七日は仲地村の布屋において仲地村・山里村の二カ村へ、仲村渠村の布屋において仲村渠村・具志川村の住民に対して説諭と村役人の受書提出を行った。

一、午前八時、西銘村出発仲地村ニ到リ、同村布屋於テ左ノ二ヶ村人民へ説諭スル前ノ如シ

  同  山里村奉公人  五名百姓頭  五名   同  仲地村奉公人  五名百姓頭  六名

(22)

一、右畢テ嘉手苅村兼城村ヲ経テ、大田村仮番所ニ到テ、左之村々人民へ懇諭其他前ノ如シ   具志川間切嘉手苅村奉公人  三名百姓頭  六名寄留   二名

  同  兼城村奉公人  四名百姓頭  六名寄留   一名   同  大田村奉公人  三名百姓頭  七名一、右畢テ西銘村布屋ニ抵リ、左ノ二ヶ村人民へ説諭スル前ノ如シ

  同  西銘村奉公人  五名百姓頭  八名   同  上江洲村奉公人  四名百姓頭  六名寄留   壱名

官吏一行は具志川間切上江洲村の上江洲智綱宅に一泊し、翌七日は仲地村の布屋において仲地村・山里村の二カ村へ、仲村渠村の布屋において仲村渠村・具志川村の住民に対して説諭と村役人の受書提出を行った。

一、午前八時、西銘村出発仲地村ニ到リ、同村布屋於テ左ノ二ヶ村人民へ説諭スル前ノ如シ

  同  山里村奉公人  五名百姓頭  五名   同  仲地村奉公人  五名百姓頭  六名

(23)

一、右了テ具志川村ヲ経テ仲村渠村布屋於テ左之村々人民へ諭説スル前ニ同シ   同  具志川村奉公人  二名百姓頭  五名

  同  仲村渠村百姓頭  六名 八日の記述を見ると「一、前件御用相済ミ帰庁セント碇泊那覇船ニ乞便ヲ約ス。然ルニ積荷等ノ整頓ニ至ラサルヲ以テ、出帆日限ハ未タ定メ難キヲ告ク。因テ時々役所出頭。人民共和ニ関スル事件其他ノ事等ヲ協議セリ」とある。この後「十三日開帆」に決まったとあるが、風の都合から出帆することができず、結局派遣官吏一行は同月二二日の午前に那覇へ戻った 8

。以上が「久米島出張日誌」の概要と事件のあらましである。原忠順文庫所収の明治一四年一一月一二日付「原忠順宛立川節郎上申」(資料番号

HA056

)には、久米島での民衆動揺の件について、詰役人から報告書が出ているので原へ謄写を送ると記されているが、その詳細は分からない 9

。しかし、「久米島出張日誌」に記された五月の県庁官吏派遣から少なくと同年一一月頃までは状況がくすぶっていたのではなかろうか。久米島出張復命書の内容から分かるように、県庁は地方の不穏な空気に対

し県庁官吏を派遣して説得にあたらせた。同時期のさまざまな資料に県庁官吏による「説諭」という用語が出てくるが、久米島出張復命書の内容からは「説諭」の過程や詳細が具体的に見えてくる。久米島の事例では、ただ説得するのではなく、時には警察の動員をちらつかせながら説得にあたった。それだけ、置県処分直後の警察による抵抗運動への一斉弾圧は沖縄の人々に対して大きなインパクトと恐怖心を与えていた。さらに、ここでは受書(請書・請証)にも着目したい。資料中での受書の内容は不明であるが、祐徳稲荷神社蔵鹿島鍋島家史料には一八七九年の旧王府士族層を中心とした不服従抵抗運動に対する受書のフォーマットが残っている。

  各間切各村請書写    御請書過般廃藩ノ際ニ当リ、大ニ不良ヲ生シ、新県ノ命令ニ不随ノミナラス、徒党数箇ノ誓約ヲ講結シ、政府ニ背反仕候儀、何共恐懼有余ノ至リ、実ニ酔生焚死ノ心ヲ以テ、如斯ニ立至リ、今更悔悟仕候、就テハ夫々厳罰ヲ蒙ル可キノ処、政府寛大、特別ノ仁慈ヲ垂レ、如斯ノ重罪、如斯大科ヲ法ニ準セス、律ニ問ハス、一統御赦免ニ相成候段、一同感泣至極奉存候、依テハ各自憤発、旧来ノ悪弊ヲ洗除シ、愈益大政府ヘ報義謝恩ノ為メ、且前非悔悟ノ赤心ヲ顕シ可奉為メ、将来如何

(24)

一、右了テ具志川村ヲ経テ仲村渠村布屋於テ左之村々人民へ諭説スル前ニ同シ   同  具志川村奉公人  二名百姓頭  五名

  同  仲村渠村百姓頭  六名 八日の記述を見ると「一、前件御用相済ミ帰庁セント碇泊那覇船ニ乞便ヲ約ス。然ルニ積荷等ノ整頓ニ至ラサルヲ以テ、出帆日限ハ未タ定メ難キヲ告ク。因テ時々役所出頭。人民共和ニ関スル事件其他ノ事等ヲ協議セリ」とある。この後「十三日開帆」に決まったとあるが、風の都合から出帆することができず、結局派遣官吏一行は同月二二日の午前に那覇へ戻った 8

。以上が「久米島出張日誌」の概要と事件のあらましである。原忠順文庫所収の明治一四年一一月一二日付「原忠順宛立川節郎上申」(資料番号

HA056

)には、久米島での民衆動揺の件について、詰役人から報告書が出ているので原へ謄写を送ると記されているが、その詳細は分からない

)9

。しかし、「久米島出張日誌」に記された五月の県庁官吏派遣から少なくと同年一一月頃までは状況がくすぶっていたのではなかろうか。久米島出張復命書の内容から分かるように、県庁は地方の不穏な空気に対

し県庁官吏を派遣して説得にあたらせた。同時期のさまざまな資料に県庁官吏による「説諭」という用語が出てくるが、久米島出張復命書の内容からは「説諭」の過程や詳細が具体的に見えてくる。久米島の事例では、ただ説得するのではなく、時には警察の動員をちらつかせながら説得にあたった。それだけ、置県処分直後の警察による抵抗運動への一斉弾圧は沖縄の人々に対して大きなインパクトと恐怖心を与えていた。さらに、ここでは受書(請書・請証)にも着目したい。資料中での受書の内容は不明であるが、祐徳稲荷神社蔵鹿島鍋島家史料には一八七九年の旧王府士族層を中心とした不服従抵抗運動に対する受書のフォーマットが残っている。

  各間切各村請書写    御請書過般廃藩ノ際ニ当リ、大ニ不良ヲ生シ、新県ノ命令ニ不随ノミナラス、徒党数箇ノ誓約ヲ講結シ、政府ニ背反仕候儀、何共恐懼有余ノ至リ、実ニ酔生焚死ノ心ヲ以テ、如斯ニ立至リ、今更悔悟仕候、就テハ夫々厳罰ヲ蒙ル可キノ処、政府寛大、特別ノ仁慈ヲ垂レ、如斯ノ重罪、如斯大科ヲ法ニ準セス、律ニ問ハス、一統御赦免ニ相成候段、一同感泣至極奉存候、依テハ各自憤発、旧来ノ悪弊ヲ洗除シ、愈益大政府ヘ報義謝恩ノ為メ、且前非悔悟ノ赤心ヲ顕シ可奉為メ、将来如何

(25)

ナル命令ヲモ違背仕間敷、依之謹而御請書如斯候、以上    明治十二年十月一日           何 沖縄県何村之誰印        連名

)(1

本資料は県当局への恭順を示す内容となっているが、久米島出張日誌にある受書は官吏による説諭に対する了解や誓約を意味するものと推測される。どちらも県当局の命令を受け入れる旨を表明し、村単位で署名する点では共通している。一八七九年の旧王府役人による抵抗運動と県当局による弾圧および県官吏への取り込みについてはすでに拙稿で詳述している

)((

。この際、鍋島県令の代理として王府士族との折衝に当たった原忠順は再三にわたり受書の提出を求めていた。王府士族たちは同年九月に恭順を示し、引用した受書に署名するのであるが、県官吏へ採用された王府士族の多くが鍋島県令辞任後に県官吏を辞任している。中には富川盛奎(旧三司官)のように脱清亡命した人物もおり、鍋島県政期に頻繁に出された受書の実際の効力は、せいぜい鍋島県令在任時期に限られるだろう。ただ、久米島の事例は鍋島県政のおこなった官吏派遣による説諭と受書を用いた民衆統治の最終盤の事例に当たる。この後、鍋島から県政を後継した上杉茂憲は自ら現地に赴く手法をとっており、県当局による民衆統治の変化を捉える上で久米島出張日誌は改めて重要な資料と言える。

では次に、これまで見てきた「久米島出張復命書」の内容を踏まえつつ、そもそも置県処分直後の沖縄では誰がどのような風説を流布し、県当局は何を警戒したのか分析を加えたい。具体的には一八七九年の「探偵書」から、県当局の平民対策と地方への風説の伝播についてみていく。

三、置県処分期における風説

(一)「探偵書」にみえる風説「探偵書」は警察や地方への派遣官吏および探訪人大湾朝功ら置県処分への協力者によってまとめられたレポートである。主に士族層の動向や脱清行為に関する内容が多くを占めているが、中には風説や平民に関する内容も含まれている。この「探偵書」に見える平民(農民)像に関しては、すでに我部政男氏の研究(「探偵者の報告書に現れた農民」)において言及されている。我部氏は沖縄島各地の報告事例を挙げており、その記述からは置県処分後も平民がいたって平穏な状況にあり、士族層の煽動や妨害さえなければ県当局と平民は良好な関係にある様子が窺えると述べる。我部氏はこのレポートを踏まえて、「政府の目的は、沖縄の士族と農民が統合して、反抗することを阻止することであり、政府と士族との矛盾をそれ自体として凍結し、処理すること、すなわち、その影響が農村社会に波及することを極力くいとめることにあった。政府は、農民に対する施政のいかんによっては、士

(26)

ナル命令ヲモ違背仕間敷、依之謹而御請書如斯候、以上    明治十二年十月一日           何 沖縄県何村之誰印        連名

)(1

本資料は県当局への恭順を示す内容となっているが、久米島出張日誌にある受書は官吏による説諭に対する了解や誓約を意味するものと推測される。どちらも県当局の命令を受け入れる旨を表明し、村単位で署名する点では共通している。一八七九年の旧王府役人による抵抗運動と県当局による弾圧および県官吏への取り込みについてはすでに拙稿で詳述している

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。この際、鍋島県令の代理として王府士族との折衝に当たった原忠順は再三にわたり受書の提出を求めていた。王府士族たちは同年九月に恭順を示し、引用した受書に署名するのであるが、県官吏へ採用された王府士族の多くが鍋島県令辞任後に県官吏を辞任している。中には富川盛奎(旧三司官)のように脱清亡命した人物もおり、鍋島県政期に頻繁に出された受書の実際の効力は、せいぜい鍋島県令在任時期に限られるだろう。ただ、久米島の事例は鍋島県政のおこなった官吏派遣による説諭と受書を用いた民衆統治の最終盤の事例に当たる。この後、鍋島から県政を後継した上杉茂憲は自ら現地に赴く手法をとっており、県当局による民衆統治の変化を捉える上で久米島出張日誌は改めて重要な資料と言える。

では次に、これまで見てきた「久米島出張復命書」の内容を踏まえつつ、そもそも置県処分直後の沖縄では誰がどのような風説を流布し、県当局は何を警戒したのか分析を加えたい。具体的には一八七九年の「探偵書」から、県当局の平民対策と地方への風説の伝播についてみていく。

三、置県処分期における風説

(一)「探偵書」にみえる風説「探偵書」は警察や地方への派遣官吏および探訪人大湾朝功ら置県処分への協力者によってまとめられたレポートである。主に士族層の動向や脱清行為に関する内容が多くを占めているが、中には風説や平民に関する内容も含まれている。この「探偵書」に見える平民(農民)像に関しては、すでに我部政男氏の研究(「探偵者の報告書に現れた農民」)において言及されている。我部氏は沖縄島各地の報告事例を挙げており、その記述からは置県処分後も平民がいたって平穏な状況にあり、士族層の煽動や妨害さえなければ県当局と平民は良好な関係にある様子が窺えると述べる。我部氏はこのレポートを踏まえて、「政府の目的は、沖縄の士族と農民が統合して、反抗することを阻止することであり、政府と士族との矛盾をそれ自体として凍結し、処理すること、すなわち、その影響が農村社会に波及することを極力くいとめることにあった。政府は、農民に対する施政のいかんによっては、士

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族を孤立無援の立場に追い込むこともできた」と指摘した

)(1

。これまでの内容を踏まえると、たしかに我部氏の指摘にあるように処分官や県当局は士族層によるあらゆる妨害(抵抗運動)が民衆社会へ影響する事に神経をとがらせていた。我部氏の研究においては、農民の描かれ方と県当局の統治論理への言及にとどまっているが、本稿で着目する風説はまさに県当局が神経をとがらせる民衆社会への影響が具体的に立ち現れてくる事例といえる。ここではまず、一八七九年の「探偵書」の中から新県統治に抵抗する士族層が発信源と思われる風説から見てみたい。当時どのような風説が流布してしたのか、典型的な事例として四月九日の報告には、「一、村々へ達しには日本より仮令金額沢山恵まるる共、又は役人になる共、如何様の事にても決して御請致す間敷候事」とある

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。内容はシンプルなもので、日本(県当局)から金や役人ポストを与えられても絶対に受けてはいけないという。士族間の血判誓約書の延長線上に捉えられるが、首里那覇だけに止まらず、村々まで隈なく布達されていた事がわかる。また、日清関係についても次のような風説が流れていた。

首里金城村大城筑登之の噺には、今般支那の使節が日本へ来り。琉球事件に付ての談判は素より琉球国は尚清国の隷属たるに、何の故を以て日本の属国と見做し、貴国より着手し、管轄に致されたるやとの詰問なる由、就ては無程取極めに相成、元の政事に回復すべしと一統申居段承り候

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この事例では「首里金城村大城筑登之」の話として、近々清国の使節が日本へ訪れ、置県処分に関して日清間で談判を行う予定という士族たちの風説が報告されている。清の使節が日本の琉球領有を詰問し、程なく琉球は元の状態に回復するだろうと述べられているが、この時期は日清交渉に入る前であり、あくまで士族たちにとって都合の良い内容であった。この風説と同系統のものに、清国の使節が那覇の久米村へ近々やってくるという内容のものもあり、前述した久米島での「久米村ニハ支那人来着アル事」という風説はこれが元になっていると思われる。士族層をはじめ脱清人による清国での救国運動に期待した人々にとっては一縷の望みをかけた切実な話であった。また、次に挙げる五月一三日に報告された風説は明治政府の統治能力そのものを疑問視し、世情を楽観的に捉える内容である。

一、

日本は西洋より国債夥敷事につき竟には返済なり難く、西洋に国を奪るる筈なりとの風説あ

り。然れは清国より当国へ援ひ来らすとも西洋の為めに却て助けらるることあるべしと首里泊久米村の徒論議する者あるよし。又老人輩は嘆願のことは数年なれとも御聞済なし、然れは我国の運之極りなれは、屈服して御管轄を仰く方上策なり、我等共今死して国に報するとも、子孫に至り何之益かあらんと落涙して嘆息論をなす由

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族を孤立無援の立場に追い込むこともできた」と指摘した

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。これまでの内容を踏まえると、たしかに我部氏の指摘にあるように処分官や県当局は士族層によるあらゆる妨害(抵抗運動)が民衆社会へ影響する事に神経をとがらせていた。我部氏の研究においては、農民の描かれ方と県当局の統治論理への言及にとどまっているが、本稿で着目する風説はまさに県当局が神経をとがらせる民衆社会への影響が具体的に立ち現れてくる事例といえる。ここではまず、一八七九年の「探偵書」の中から新県統治に抵抗する士族層が発信源と思われる風説から見てみたい。当時どのような風説が流布してしたのか、典型的な事例として四月九日の報告には、「一、村々へ達しには日本より仮令金額沢山恵まるる共、又は役人になる共、如何様の事にても決して御請致す間敷候事」とある

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。内容はシンプルなもので、日本(県当局)から金や役人ポストを与えられても絶対に受けてはいけないという。士族間の血判誓約書の延長線上に捉えられるが、首里那覇だけに止まらず、村々まで隈なく布達されていた事がわかる。また、日清関係についても次のような風説が流れていた。

首里金城村大城筑登之の噺には、今般支那の使節が日本へ来り。琉球事件に付ての談判は素より琉球国は尚清国の隷属たるに、何の故を以て日本の属国と見做し、貴国より着手し、管轄に致されたるやとの詰問なる由、就ては無程取極めに相成、元の政事に回復すべしと一統申居段承り候

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この事例では「首里金城村大城筑登之」の話として、近々清国の使節が日本へ訪れ、置県処分に関して日清間で談判を行う予定という士族たちの風説が報告されている。清の使節が日本の琉球領有を詰問し、程なく琉球は元の状態に回復するだろうと述べられているが、この時期は日清交渉に入る前であり、あくまで士族たちにとって都合の良い内容であった。この風説と同系統のものに、清国の使節が那覇の久米村へ近々やってくるという内容のものもあり、前述した久米島での「久米村ニハ支那人来着アル事」という風説はこれが元になっていると思われる。士族層をはじめ脱清人による清国での救国運動に期待した人々にとっては一縷の望みをかけた切実な話であった。また、次に挙げる五月一三日に報告された風説は明治政府の統治能力そのものを疑問視し、世情を楽観的に捉える内容である。

一、

日本は西洋より国債夥敷事につき竟には返済なり難く、西洋に国を奪るる筈なりとの風説あ

り。然れは清国より当国へ援ひ来らすとも西洋の為めに却て助けらるることあるべしと首里泊久米村の徒論議する者あるよし。又老人輩は嘆願のことは数年なれとも御聞済なし、然れは我国の運之極りなれは、屈服して御管轄を仰く方上策なり、我等共今死して国に報するとも、子孫に至り何之益かあらんと落涙して嘆息論をなす由

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参照

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