はじめに
オスマン帝国において近代的年金制度の歴史は19世紀中葉に遡る。それまでは,高齢者,病 人,障がい者の保護は家族が,それが無理な場合はイスラームの信仰理念にもとづくワクフ(寄進 財)が担ってきた。スルタンや支配エリートが慈善としてこれに参画する場合も,ワクフ寄進とい う形がとられるのが通例であった1。その一方で,退職者に何らかの給付を施しその生活を支える 制度は近代以前から存在していた。引退して年金生活者となることをオスマン語では「テカーユト
(tekaüd)」という。この言葉は年金制度が出現する以前から用いられてきた2。その意味では,近 代化の名において西欧の制度をそのまま取り入れた他の多くの事例とは根本的に異なる。むしろ近 代以前の伝統的なシステムを援用し,西欧システムを内面化したといえよう。本稿ではこうした問 題関心にたち,オスマン帝国における近代的福祉政策としての年金制度がどのようなものであり,
それが社会や個人にどのような影響を及ぼしたのかを官営海運の史料を用いて考察する。
本稿の中心史料となるのはトルコ海運公社所蔵の「個人記録文書(Sicil dosyaları)」である。本 題に入る前に当該史料について歴史的背景とその性格を概説する。オスマン帝国時代の官営汽船 関連事業の史料の多くは,現在イスタンブルのトルコ海運公社総合史料室(Türkiye Denizcilik I·s¸letmeleri Genel Ars¸ivi)に保管されている。近年アンカラのトルコ共和国首相府公文書館(Türkiye Cumhuriyeti Bas¸bakanlık Ars¸ivi)への移管作業が進行しているが,個人の記録に関する史料は依然 として公社側に残されている。オスマン帝国の官営企業の史料がなぜここに集められたのかについ ては,トルコの汽船海運の歴史を遡る必要がある。
1837年,英国とロシアの汽船が各々1隻ずつ,帝都イスタンブルのボスフォラス海峡で旅客や 貨物の運搬を開始し,まもなくマルマラ海沿岸諸港へもロシアの汽船が定期的に運航を始めた。そ れまでのイスタンブルの海上交通手段といえばカユク(kayık)と呼ばれた手漕ぎボートが中心で,
国内海運業者の持ち船も大半は小規模な帆船であった。そうした中で輸送規模,速度,安全性にお いて在来船にはるかに優る汽船の出現は,これら土着の零細な業者を圧迫し,早晩彼らにとって代
オスマン帝国の年金制度と人々のくらし
―官営汽船の事例から―
小松 香織
わることを予感させた。しかし,当時列強との間に締結した不平等条約と古くからのカピチュレー ションの壁にはばまれて,オスマン政府は合法的に外国船を閉め出すことができなかった3。そこ で対抗手段として自国汽船会社の育成が喫緊の課題となったのである。とはいえ,当時民間には未 だそれに応えるだけの資本力も技術力も無かったため,1839年,さしあたり海軍が保有する汽船 を転用して国家主導で海運業を立ち上げることが決まった。その結果1844年,ボスフォラス海峡 およびマルマラ海沿岸諸港へオスマン帝国の汽船が運航を開始したのである。
外国資本に対抗する国策汽船会社の名称は君主の交代などによって変化した。スルタン・ア ブデュルアズィーズ(在位1861-76)時代にはその名を冠してアズィーズ局(I·dâre-i Azîziye)と 呼ばれていたが,アブデュルハミト2世(在位1876-1909)の即位にともない特別局(I·dâre-i
Mahsûsa)と改称された。この間海軍が次第に監督権を強化し,1888年ついにこれを直轄下に置
いて経営に深く関与するようになった。青年トルコ人革命後の1910年にオスマン海運局(Osmanlı
Seyr-i Sefâ‘in I·dâresi)となり,1923年オスマン帝国が消滅しトルコ共和国が誕生するとトルコ海運
局(Türkiye Seyr-i Sefâ‘in I·dâresi)と改称した。同局は1933年に廃止され,国営海運事業局(Devlet Denizyolları I·s¸letmesi Müdürlüg˘ü), アカイ事業局(AKAY4 I·s¸letmesi Müdürlüg˘ü),工場・ドック事 業局(Fabrika ve Havuzlar I·s¸letmesi Müdürlüg˘ü) という3つの組織に分割された。これらを引き継 いだのが現在のトルコ海運公社である。上記の組織に加えて,オスマン帝国末期からトルコ共和国 初期にかけて,海運に関連する活動を行っていたイスタンブルの港湾局(Liman I·dâresi),海難救 助局(Tahlisiye I·dâresi),海洋銀行(Deniz Bank),さらに民間の株式会社であったものが1945年 にトルコ海運局に統合されたボスフォラス海峡汽船のハイリーエ社(S¸irket-i Hayriye)に関する文 書もトルコ海運公社の総合史料室に保存されているのである。
次に,本稿が依拠した史料について概要を説明する。オスマン帝国時代の海運史料は必ずしも完 全なものとは言えない5。実際特別局(1876-1909)以前の文書はほとんど残っていない。現存する 史料群の中で本稿の中心史料となるのが「個人記録文書」である。この史料群はファイル形式と なっており,1人の職員にかかわる書類をまとめて1つの封筒に収め各々に通し番号が付されてい る。1万点以上におよぶことから1万人余りのデータが存在することになる。番号はおよそ年代順 になっている。とはいえほとんどは共和国期のもので,オスマン帝国期にあたるアズィーズ局,特 別局,オスマン海運局等のものは,はじめの1千件ほどに集中している。この種の文書はなぜ作 成されたのか。その目的を知るにはオスマン帝国における個人年金制度の歴史を概観する必要が ある。
近代的な年金の概念にあてはまる制度は,オスマン帝国では1866年に設立された陸軍の軍人年 金(Askeri Tekaüd Sandıg˘ı)を嚆矢とする。軍人の次にこの制度の恩恵にあずかるのは官僚たちで あった。1881年公務員のための年金制度が生まれた。そして官営企業であるがゆえか,3番手に特 別局が名乗りを上げる6。こうして官営汽船の職員たちは早くから軍人・官僚並みの老後を保障さ れることになった。年金の支給は在職中に支払った保険料を原資とし,受け取り資格を得るには一
定の在職年限を満たす必要もあった。また,支給される年金の額は退職までの給与に基づいて算出 された。そのため,一人の職員が入社してから退職するまでの間に,どのような職務につき,どれ ほどの給与を支払われていたか,日数単位まで厳密な記録が求められた。以上のような目的で作成 された各種の書類を個人別にファイルしたのが「個人記録文書」である。その内容は,当人の履歴 書や職員手帳(写真参照),退職後の年金支給に関する文書である。年金に関する書類とは具体的 には,支給の日付や金額などの記録,本人の死亡にともなう遺族年金の支給申請書である。全体の 数から見て全職員の記録が存在するとは考えにくい。おそらく年金支給上何らかの問題を生じた事 例が文書として残されたものと思われる。年金受給の権利を請求する訴訟に関する文書が多く含ま れていることがこの推測を裏付ける。「個人記録文書」から読み取れる情報は,本人の名と父親の 名(一部職業や称号など),出生地,生年,婚姻の有無,在職中の職種,給与,在職期間,最終役職,
退職理由などである。本稿ではこうしたデータや交信記録から官営汽船の年金制度の実態,問題点 を明らかにしていきたい。
なお,本稿で示す日付のうち西暦以外のものは,オスマン帝国の財務歴(Mâlî)である。また直 接引用文中の〔 〕は執筆者による加筆を示している。
機関士ムスタファ・エフェンディの職員手帳
Ⅰ.汽船局の年金規則
1.汽船局の年金基金の設立
官営の汽船運航事業体の年金制度は,特別局と称していた時代に誕生した。特別局の年金基金
(Tekaüd Sandıg˘ı)は1890年に制定された特別局年金規則(I·dâre-i Mahsusa Tekaüd Nizamnamesi)7 によって設立された。設立の背景は,海軍大臣から大宰相に送られた1885年3月1日付の上申書8 によって知ることができる。提出のきっかけとなったのは,特別局の局長に新たに就任した少将か ら提出された一通の文書だった。その内容は,35年以上勤続し脳卒中に倒れたフェラーノ船長と,
同じく30年以上勤続し眼病を発症したマルコ船長に800クルシュ,乗船中に足を切断した船員ハ サンには280クルシュ,ベシクタシュ号の事故で障がい者となった船員スレイマンにも同様に280 クルシュの月給を支払っているが,特別局には年金基金が存在しないというもので,この問題が海 軍会議(S¸ûrâ-yı Bahriye)で議論され,その答申が大宰相に以下のごとく上申されたのである9。
特別局には他の部局のような年金基金が無いため,この者たちに特別局の収入から給与を支 払うことは制度上適切ではないが,給与を支払わないというのも,このような者たちが困窮す ることになり,これもまた看過できないので,特別局の財政をこうした出費から救うため,同 時に,スルタン陛下のご厚情により,このような高齢者や身障者たちが困らないよう,彼らに 適切な形で給与を支払うべく,過去の慣例に従い,給与から5%を差し引き,年金基金を設立 する件を,(中略)大宰相閣下に上申し,ご承認いただければ,必要な措置の実行にご下命を 賜りたく……
すなわち基金設立の理由として2つの点があげられる。一つは年金を特別局の財政から支出する ことは難しかったという点,もう一つは高齢者・身障者の保護はスルタンの恩寵であるとの認識が あったという点である。
2.特別局の年金規則
1306年8月28日(1890年9月7日)付で制定された特別局の年金規則は2部6章から成り,第 1部「職員の年金」は第1章「年金の条件」1〜14条,第2章「職員の遺児および家族に支給さ れる年金のランク」15〜23条,第3章「年金基金の設立」24〜26条,第4章「年金基金の運営」
27〜38条,第5章「基金の資金調達」39〜45条,第2部「特別局の工場で働く工員と汽船・波止
場の繋留係,乗組員等の年金」,第6章「年金の条件」46〜52条という構成になっている。
第1章では年金支給の条件が規定される。まず年金を受け取る資格を有するのは,「特別局に雇 用される事務職員(memur),書記(kâtip),用務員(hademe),船長(kaptan),機関士(çarkçı),
船舶書記(yazıcı),操舵手(dümenci)」と定められており,これに該当しない者の年金について は第2部で規定される。
年金を受け取るための手続きは,本人あるいは遺族が申請し,海軍省による審査で適格とされた
場合は,年金基金に書類が送付されて支給が開始される。「何人も申請を行わない限り年金は支給 されない」(4条)とあることから,自動的に給付されるわけではなく,あくまでも申請を前提と していた。
審査にあたっては,1.就職の日付・年齢・初任給の額,2.勤務歴(職歴・期間・給与),3.離 職歴がある場合はその理由・期間,4.刑事罰による服役の有無,5.申請時に現役か否か,6.健 康上の理由で年金を希望する場合は傷病の時期,が確認される(3条)。
年金は2種類ある。一つは在職年数に対して支払われる年金,もう一つは傷病に対して支払わ れる年金である(5条)。前者に支払われる年金額の算定方法は次のように定められている。20才 を過ぎてからの有給期間が満30年であることを条件に,退職日から遡って10年間の平均月給の
50%を年金月額とする。30年以上勤務したものは,超えた年数1年につき前述の年金額の30分の
1を加算するので,45年勤続者は退職時の給与の75%を受け取ることとなる。ただし,45年を上 限とし,それ以上の加算は無い。30年勤続者の場合,この計算で年金が100クルシュ以下となっ ても100クルシュが支給される。45年勤続者の場合150クルシュを下回っても150クルシュが支 給される。離職期間については,刑事罰による免職期間を除き,2年までは全て,4年までは2年 分と残りの半分を在職年数に算入する。それ以上の離職期間は在職期間には参入されない(6条)。
これらの規定からわかるのは,長期在職者が優遇されていたこと,最低でも月額100クルシュの年 金が保障されていたことである。永久免職者および民法上の懲戒免職者は年金資格を失うものとさ れた。ただし,本人の死亡後,遺族は年金を受け取ることができた。これにより遺族の生活は保障 された(7条)。こうした条項は軍人年金10と同様である。
次に,傷病者に対する年金の場合であるが,重度の疾病,要介護の障がい者は最後の給与の半額 が年金として支給された。軽度の疾病,介護を必要としない障がい者は4分の1,勤続年数が10 年以上ならば3分の1が支給された。勤続年数による年金受給の資格を満たす者については,どち らか有利な方を適用することになっていた。疾病,障がいの程度は海軍省保健局の判定にもとづき,
特別局の経営委員会が審査・承認を行った(9条)。
年金の受給は,年金算定在職期間中に給与の5%を積立金として納付していることが条件とされ た。納付期間を満たさない場合は納付が完了するまで年金から10%が差し引かれた。たとえ本人 が死亡しても遺族年金から徴収され続けた(11条)。辞職・免職者が納付した積立金は半額を基金 に残し,半額は本人に返還された。転職者は前職の勤続期間を加算し,他の基金にそれまで納付し た積立金は利息と共に年金を支給する基金に収められることになっていた(8条)。
第2章は遺族年金に関する規定である。在職中に死亡し,その時点で年金受給資格を満たしてい る者,および,退職者で年金を受け取っている者が死亡した場合,遺族に年金が支給される(15 条)。遺族とは,20才未満の男子,独身の女子,母,祖母である(20条)。遺児には親が受け取っ ていた年金の半額が支給される。遺児が複数の場合はこの半額の年金を等分する。死亡者の年金の 半額が500クルシュを超える場合,遺児が1人であれば500クルシュに加えて超過分の半額が支給
される。2人の場合は同様に超過分の4分の3が,3人以上の場合は死亡者の年金の半額が満額支 給される。後に遺児のうち,死亡した者,男子で20才に達した者,女子で結婚した者が出れば,
その者への支給は停止され,その年金は残る遺児の年金に加算される。残った遺児の人数による支 給額は上記の算定方法と同様である。父親の死亡時に既婚者として遺族年金が支給されなかった娘 が後に離婚した場合,年金受給資格は回復し,他の遺児に加算された分が本人にもどされることと なる(15条)。
妻が複数いた場合,全員が有資格者となり妻への割当額を等分する。母,祖母も夫が死亡してい れば有資格者となり,母への割当額を等分する。複数の妻の中から死亡,再婚などで欠格者が出た 場合は,その取り分は残りの妻の年金額に加算される。母,祖母についても同様である(16条)。
欠格者の年金を他の遺族に加算したり,資格を回復した者の年金を他の受給者の加算分から戻す方 式は,基金からの拠出額を一定に保つ役割を果たしたであろう。
一人当たりの年金支給額が月額30クルシュに満たない場合は,基金が不足分を補填し最低限30 クルシュが支給される。ただし,この者が欠格者となり,その年金額が残りの遺族に加算される場 合は基金からの補填分は含まないものとする(17条)。この条項は最低年金額を保障するシステム として興味深い。他にも亡夫が公務員で年金を受け取っている女性でも,特別局から父親の遺族年 金を受け取ることができた(18条)。これは事実上複数機関からの年金の受給を意味するので,公 務員の遺族への優遇措置と解釈すべきなのか,検討の余地がある。
在職中に死亡し,その時点で年金受給資格の条件を満たしていない場合でも,勤続10年以上で あれば,有資格者の年金額の3分の1が支給される。その場合10年を超えた勤務年数に応じて支 給額が増えていく。ただし勤続年数が10年未満の場合は遺族年金は支給されない(19条)。この 規定からは年金受給資格を30年勤続としながらも,その恩恵から漏れる者をなるべく救済しよう とする意図が読み取れる。同様の考え方から,勤務時間中に事故もしくは病気で死亡した者の遺族 には,死者が年金資格の条件を満たしていない場合でも最終給与の4分の1が年金として支給され た(21条)。また,通常20才に達した男子,結婚した女子,母,祖母は欠格者となるが,生計収 入の無い障がい者であればその年金は終身支給された(20条)。この規定も障がい者保護の観点か ら注目される。
以上が遺族年金に関する規定であるが,総じてできるだけ多くの者が年金制度の恩恵に浴するこ とができるように配慮されている。このことは伝統的なイスラムの福祉精神が制度の根幹にあった ことを意味している。ただ,平等性を担保するがゆえに,全体的に広く薄く支給することとなり,
最低限の額は保障されたとはいえ,せっかくの年金も受給者の生計を支えるのには十分ではない場 合もあった。次章で示す具体的な事例の中でこの問題を見ていくこととしたい。
第3章は年金基金の設立に関する規定である。まず冒頭で,特別局の退職者,その遺族のため に基金を設立し,その名称を「特別局年金基金(I·dare-i Mahsusa Tekaüd Sandıg˘ı)」とするとし,
その資金調達の出所について述べている。基金の収入は以下の7つの手段によって獲得される。
1.特別局の職員の給与から毎月5%の積立金の徴収,2.退職者の年金から毎月5%の積立金の徴収,
3.1304年(1888/89年)から開始された管理職と職員の給与からの5%の積立金の徴収,4.管
理職の昇進にともなう昇給額の最初の1か月分,および管理職の昇給時の最初の1か月分の徴収,
5.新規採用の常勤職員の最初の給与の2分の1の徴収,6.死亡した職員の任地に相続人がいない
場合に局に留め置かれた給与(所定期間内に相続人が現れない場合は局のものとなる),7.47条 に示す工員,乗組員の給与からの毎月2%の徴収(25条)。
第4章は基金の運営に関するもので,主に経理組織と年金支給の事務手続きの実際についての 規定である。基金の運営は経営会議(meclis-i idâre)がこれにあたり(27条),申請書の審査を行 う(29条)。常時運営に携わるべく委員会(heyet)を設置する(27条)。委員会は経営会議のメン バーから1名の長と3名の代表により構成される。経理は特別局の職員から選出される1名の会計 係(muhasebeci)が携わり,基金の長(sandık emini)が名誉職として保証人となる。会計簿を作 成するため会計係を補佐する有能な書記1名と必要なら同僚を置く。彼らの給与は貸付〔後述〕の 登録料(100クルシュあたり4パラ)から支払う(27条)。基金の経理は年間収支台帳を作成し,
毎年2月末に決算報告を経営会議に提出する。報告書は経営会議の承認を経て海軍会議に送られる。
海軍会議の審査で適正であると判断されれば,基金の経営会議へ返却され保管される。会計監査は 任意で行われる(38条)。
年金申請の手続きは,本人・遺族など受給希望者が申請書を海軍省に提出することによって開始 される(3,22条)。支給決定までの流れは,まず申請書が海軍省から基金の委員会に送られ,適 合が確認されると経営会議で審査が行われる。その結果が文書で海軍会議に送られ,海軍会議での 検討・承認を経て文書で海軍省に上げられる。海軍省は必要に応じて指示を書き加え年金の支給が 決定する。ただし,管理職の年金は大宰相府へ上申し,スルタンの勅令によって認められるとされ ていた(29,30条)。
支給決定から実際に支給されるまでの流れは,まず本人に承認が通知され年金証書(sened)が 交付される。この証書には年金額,支払い条件が記載されている。証書所持者はクーポンの付いた 手形(sergi)で,イスタンブル在住者は基金から直接,地方在住者は沿海の代理店で年金を受け 取る。クーポンは毎月支給時に切り取られ,基金が保存し,監査の際に照合される(31〜34条)。
資格の確認については,本人または遺族は,イスタンブル在住者は半年に1度居住地のイマー ム11とムフタール12の月報を添えて基金の事務所に報告書を提出しなければならない。報告すべ きことがらは,受給者が存命か,女性は未婚か,男子は青年に達していないか,兵学校に在籍して いないかである。地方在住者は同様に村や町のイマームとムフタールから1通ずつの報告書を受け 取り,郡議会(kaza meclis)の承認を受けて代理店に提出するものとされた。書類作成に携わる役 人,イマーム,ムフタールが不正を行えば,公務員処罰法(Mülkiye Ceza Kanunu)により処罰さ れた(35,36条)。
第5章は基金の資金運用についての規定で,基金の資金は最も信頼できる銀行に預けて口座を開
き運用すること。特別局の被雇用者限定で貸付を行うことが定められた(39条)。貸付額は元本,
利子,手数料の合計が債務者の給与の1.5カ月分を超えてはならないとされた(40条)。
第2部第6章は「特別局の工場で働く工員(amele)と,波止場の繋留係(çımacı),汽船の乗組 員の年金に関する規定」である。第1条に定められた者以外の汽船の乗組員,石炭船,輸送船,は しけの乗員,波止場の繋留係,工場の工員は,傷病者に限り年金を支給する。ただし,30年もし くは45年勤務し,高齢のため働けなくなった者に対しては特別手当(ikramiye)を支給するもの とし,その額は30年勤続者の場合,30年勤続者の年金額の1.5年分,45年勤続者の場合は,45年 勤続者の年金額の2.5年分となる(46条)。傷病者年金,特別手当の支給を受け取るためには,給
与の2%を基金に積み立てる必要がある(47条)。すなわち第2部のカテゴリーに入れられた者は
勤続年数に対する年金の適用外とされたのである。
以上,特別局年金規則の条文を確認した。次章においては,この規則がどのように運用されたか を,具体的な事例から見ていきたい。
Ⅱ.年金規則とその運用の実態
本章では,トルコ海運の「個人記録文書」にみる具体的な事例から年金授受の実態を明らかにし ていく。まず始めに,年金受給者が死亡した場合に遺族が年金を受け取るまでの手続きの流れを追 う。ただし,汽船局の職員の多くがオスマン帝国末期に創始されたこの年金制度の恩恵に浴するの は,トルコ共和国以後のことである。もちろんオスマン帝国期に年金受給資格者となって年金を受 け取った者はいたが,記録に残された事例が少なく実態の検証が難しい。そのため,本稿では共和 国初期の記録を手掛かりとしたい。なぜなら,オスマン帝国からトルコ共和国へと国家体制が激変 したにもかかわらず,官営汽船の組織はそのまま維持され,労使関係も旧体制下に定められたルー ルが継承されたことが,海運関係史料から読み取れるからである。したがって,以下に述べる手続 きに関与する組織,公官庁の名称は共和国期のものである。
1.申請手続き
まず申請は,本人もしくは遺族の代表者の居住する町や村の長老会(heyet-i ihtiyariyesi)が発給 する申請者の家族構成を証明する報告書を添付して,汽船局の人事部(Zatiye Müdürlüg˘ü)に対し て行われる。これを受けて人事部は当該町村の属する郡(kaza)の戸籍所(nüfuz dairesi)に内容 に間違いがないか照会する。この問い合わせの文言は定式化されているため,印刷された書式が用 いられ,申請者はこれに自身の情報を記入すればよかった。公式記録を確認したとする文書が汽船 局に返送されると,有資格者と認定された者たちに年金が支払われることになる。
例えば,1875年イスタンブル生まれのムスタファ船長(「個人記録文書」No. 191,以下番号の みを記す)は,1893年18才で特別局に入局し,さまざまな汽船の船長を務めた後1926年に退職,
年金受給者となった。年金は月額1,100クルシュだった。彼は5年後の1931年12月3日に死亡する。
同月8日,未亡人サリエがトルコ海運局の人事部に年金受給申請書を提出する。その際本人と息子 メフメト・リファト(1916年生まれ,15才)以外に年金受給資格を有する者はいないとする,居 住地パシャバフチェ区インジルキョユ町の長老会が発給した報告書が添付された。これを受けて照 会が行われ,当該地区を所管するベイオウル郡ガラタ戸籍所の返信により公式記録による確認が終 了した。その結果,本人が受け取っていた年金月額が500クルシュを超えない場合は満額の500ク ルシュを,超過する分については,遺族が2人であればその4分の3を加えて支給するという年金 規則第15条に従って,各人269クルシュ,計538クルシュの年金が死亡日である1931年12月3 日以後支給されることとなった。ムスタファ船長には3人の息子がいたが,長男,次男はこの時す でに成人しており,年金受給の権利を喪失していた。この事例からわかるように,オスマン帝国期 の年金制度はトルコ共和国期においても引き継がれ,たしかに機能していたのである。さて,こう した手続きを経て申請者たちは年金を受け取ることになるのだが,その中で様々な問題が生じる。
以下に具体的な事例を見てみよう。
2.年金受給の諸問題 a)遺族年金の分割・継承
最初は,遺族年金受給資格者の変更と年金の分割・継承の事例である。1873年生まれのメフメ ト・サーリム・エフェンディ(No. 449)は,1922年8月,レシト・パシャ号の2等機関士であっ た時50才で退職した。勤続30年を満たしていたため,以後月額698クルシュの年金を受け取って いたが,翌1923年12月25日に亡くなった。その時点で遺族年金受給の資格を有していたのは,
妻ゼヴジェ,長男ムアンメル(17才),次男ムザッフェル(15才),3男マデル(6才)の4人だっ た。そこで,死亡時の年金698クルシュの半額349クルシュを4人で分割した結果(分割にあたり,
4等分できるようにと349クルシュから1クルシュを引いて348クルシュとして計算され,差し引 いた1クルシュは基金の取り分となった),一人当たり87クルシュの年金がメフメトの死亡時より 支給されることとなった。その後,1927年5月に長男が成人に達して年金受給資格を喪失したため,
その年金87クルシュは残りの遺族3人に等分に加算された。すなわち一人当たりの年金額は116 クルシュとなる。さらに1928年3月には次男も成人して欠格となったので,116クルシュは残る2 人に等分され,同月18日より一人174クルシュの年金が支給されるようになった。受給資格の変 動は定期的に確認されたが,欠格者が出た場合,残る有資格者は加算分を速やかに受け取ることを のぞんで,変更事由が生じるや否や届け出を行っていた。それでも承認審査にある程度の時間を要 したことが当事者間の交信記録から推察される。また,ここに示したのは息子が成人して受給資格 を失った場合であるが,娘の婚姻による欠格,および離婚による受給権の復活の場合も,同様に申 請手続きが求められた。この件に関しても多くの文書が残っている。
b)年金種類の選択
次は,病気による傷病年金の申請が通常の年金とされた事例である。ムスタファ・エフェンディ
(No. 408)は1890年に14才で特別局に入局した。入局後10年で機関士となり,オスマン帝国末 期から共和国初期まで一貫してこの職にとどまった。ムスタファは初等,中等教育を受け,近海航 路13の一等機関士の資格を有していた。1926年汽船ブルガズ号の機関長であった時,病気を理由 に退職を希望し年金受給者となった。その際,傷病年金の受給を申請したが,審査の結果,勤続年 数に対する年金が支給された。この間の経緯は次のようなものであった。1926年7月1日付トル コ海運局機関部から総務部宛の文書によると,ムスタファは1924年以降体調不良が続き,診断書 を添付して,職務を遂行できない状態であると傷病年金を申請した。そこで7月3日人事部から局 の医師長に対して,年金額を算定するため本人を診察し,年金規則第9条にもとづいて病気の程度 を報告するよう依頼がなされた。医師長は7月15日,診察の結果,任務遂行は不可能ゆえに〔働 いて〕生計を維持することはできない状態であると報告した。そこで人事部は病気を理由に年金を 申請しているムスタファは,年金規則第9条第1項に該当するとし,決定を重役会議(encümen-i
müdiran)に委ねた。会議の判断は,診断書からはムスタファが9条1項の4条件(全身・手足の
麻痺,全盲,精神異常,介護を要する身体的障がい)にあてはまるとは思えない。傷病年金を適用 することは躊躇される。同人は33年10か月勤続していることから,通常の勤続年数による年金 を支給するというものであった。この結果,ムスタファには,33年の勤続期間のうち,20才以前 の3年を差し引いて勤続30年と算定し,1,801クルシュの年金を支給すべきであるとの結論が出さ れた。その理由として,重役会議は1326年7月27日付決議で,「介護が必要なほど重病ではなく,
援助は必要ない」とし,その場合の傷病年金額は1,801クルシュよりも15クルシュ低くなると指 摘している。すなわち,傷病年金と比較してより額の多い通常の年金が選択されたのである。
c)職員手帳の修正
上記ムスタファには在職中に交付された職員手帳(写真参照)の記載の修正を要求した記録も 残っている。職員手帳とは汽船局職員一人一人に交付された小型の記録簿で,本人の略歴,入局以 後の職歴,給与がすべて記載されている。休暇や事故や病気による休職,賞罰による特別報奨金や 減給も記され,勤続年数と受け取った給与の総額を知ることができる。年金の手続きもこの記録に もとづいて行われる重要な文書であった。1911年11月8日付のムスタファからオスマン海運局総 務部宛の文書で,「私は,3年間局の工場で働いたのちに汽船へ異動となった。このことは私の履 歴書に記載されている。しかし,このたび渡された手帳には,工場での勤務歴が載っておらず,(中 略)1311年9月1日(1895年9月13日)付の給与は320ではなく360クルシュである。1314年2 月分も(中略)20クルシュ少なく340クルシュとなっており,(中略)将来,年金受給者となった 時〔不利益とならないように〕,工場での勤務歴と受取っていた給与も訂正し,別の〔新しい〕手 帳を返してほしい」と訴えた。これに対し,調査が行われたらしく,1912年1月24日付の局の修 理工場書記長の文書には「ムスタファが修理工場で一時雇用の工員として1305〜1308年(1889〜
92年)の間に4ないし8クルシュの日給で2年4か月働いたことが記録から確認された」とある。
ただ,この工場での勤務歴は後に通常の年金の手続きが行われた際には考慮されなかった。年金額
の算定において重要な役割を果たす職員手帳だが,記入漏れや誤りもあったので,修正を求める文 書が残されているのも当然であろう。
d)申請漏れ
年金運用上の重要な問題点の一つは,年金の支給はあくまでも受給者の自己申告を前提としてい たことである。つまり申請しなければ年金はけっして自動的に支払われることはなかったのであ る。そのため本人死亡後の遺族年金について,本来は有資格者であるにもかかわらず恩恵にあずか れない者が少なからずいたと推測される。特に遺族が未亡人のみであると,当時の女性の識字率,
社会性のために申請をしない,出来ないケースもあった。また,地方在住者に関しても情報伝達の 不備から申請漏れが発生した可能性がある。例えば,ガリポリ号の倉庫係アブデュルヴァヒト・ア ア(No. 737)は,1919年に勤続29年7か月で退職して故郷のリゼに帰ったが,3か月後に死亡した。
その間は年金を受け取っていたというが,死後はなぜか兄弟のエユップに年金が支払われ,この人 物も2年後に死亡したため支払いが打ち切られたようである。そして約半世紀を経て1970年に未 亡人ネシベが初めて年金の申請を申し立てた。彼女は夫の死後叔父の元に身を寄せており,遺族年 金の申請手続きをしなかったという。女性で遠隔地に居住している場合の申請の難しさを示す事例 といえる。
e)年金支給額への不満
支給された,あるいは支給される予定の年金額が少なく,生計を維持するのが困難なケースも あった。例えば,カドキョイ号の2等機関士アリ・エフェンディ(No. 666)は,年金を申請した ものの,「現在施行されている年金規則により私に支払われる年金で生活するのは不可能であるこ とから,年金手続きの延期をお願いしたい」と汽船局総務部宛ての文書で述べている。つまり,予 想される年金額が少ないため,申請を撤回して働き続けることにしたのである。また,近隣航路14 の波止場職員アリ・アア(No. 386)は,1925年7月9日65才で年金受給者となったが,年金だけ では生計を維持することが困難となり,1929年11月20日救貧院(darül’aceze)15に入った。彼は そこで1年を待たず1930年6月8日に亡くなっている。遺族の申し立てによれば,入所以後年金 は本人にも施設にも支払われなかったという。
本人の死後,遺族年金の申請があると,当局により受給資格者と認定された者への年金支払いが 始まるが,後に新たな遺族年金有資格者が判明して年金の再分割が行われるケースもある。オスマ ン汽船局から年金を支給されていた元フェネルバフチェ号の甲板長シャーキル・レイス(No. 530)
が1916年9月14日に死亡したため,イスタンブル在住の妻アイシェは唯一の遺族年金受給資格者 として月額110クルシュの遺族年金を受け取っていた。ところが,16年後の1931年に,遥か遠く の黒海沿岸トラブゾン州リゼ在住のハティジェという女性が,自分もシャーキルの妻であると名乗 り出たため,調査が行われ,婚姻関係が確認されたため,2人の間で年金が等分されることになり,
各人に月額55クルシュの年金支給が決まった。アイシェにとっては,突然支給額が半分になって しまったことになる。この間の経緯は次のとおりである。ハティジェから1931年12月20日付の
年金受給の申請書を受け取った旧汽船局人事部は,シャーキルの死亡から16年も手続きをせず放 置していた者へ支給が認められるか否かについて法律顧問に諮問した。その回答は,妻であること が確かならば支給しうるというものだった。1934年8月29日付でリゼ一審裁判所から受け取った 相続権利証書によって,ハティジェもまた妻であったことが確認されたため,現在もう一人の妻ア イシェが受け取っている年金110クルシュを等分し,1934年8月29日以後月額55クルシュの年 金を支給することが,1934年9月11日の重役会議16で決定されたのである。こうした年金の分割 は,遺族の数が多いほど一人当たりの額が減少することとなり,前述したような生計維持困難の要 因ともなった。
f)再雇用の問題
次に一度退職して年金受給者となった者の再雇用問題を取り上げる。1870年イスタンブル生ま れのレシト・パシャ号船長イッゼト・ベイ(No. 594)は1922年8月にいったん解雇されたものの,
2年後の1924年に再び雇用されることとなった。その後8年間働いた末に退職にあたって改めて 年金支給を希望した際,自らの処遇について不服申し立てを行っている。その理由は,汽船局側が,
同人は1922年に年金受給者となっており,2度目の雇用は年金受給退職者(mütekaid)としての 採用であり,正規の有給職員(tavzif)としてではないとし,年金受給の条件となる勤続年数,最 終給与額は最初の年金手続き時点に遡って算定するとしたためである。イッゼトの申し立ては,2 度目の雇用も正規の有給職員としてのものである。その証拠に再雇用後も昇進,昇給を重ね,給与 から毎月年金積立金も差し引かれているというもので,最初の年金申請は無効であるので,年金額 の算定に際しては現在までの勤続年数と最終給与が基準とされなければならない。特に給与は1度 目の申請時は2,500クルシュであったが,その後の昇給を経て現在は6,250クルシュに上がってい るというものであった。年金支給額は退職前10年間の平均月給の2分の1であるので確かにこの 差は大きい。これを不服とするイッゼトはトルコ海運局を相手取り,アンカラの国政会議(Devlet S¸ûrâsı)に提訴した。ここで問題となったのが,旧汽船局の年金規則に再雇用の規定が無いことで,
この点は会社側も認めるところであった。史料には判決文が付されていないため,どのような裁定 が下ったかは不明である。訴状においてイッゼトは,タラート・エフェンディという人物を例に挙 げ,彼は病気のため,いったん傷病者年金受給者となり,その後病状が回復して再雇用され,2度 目の退職にあたり以前の年金手続きは取り消され,その後のキャリアが通算されたとし,自分も まったく同じケースであると主張している。
ここで,引き合いに出された「タラート・エフェンディのケース」とはどのようなものだったの か。アフメト・タラート・エフェンディ(No. 515)は,ブルガズ号の機関長であったが,1923年 11月21日付で病気により退職し,966クルシュの年金を支給されていた。その後病状が快復した ため,1924年4月14日付で予備役機関長(ihtiyat bas¸ makinist)として復職した。そして1928年 12月7日に死亡している。その際未亡人サフィエの申請により,遺族の特定と年金の分割が行わ れた。復職後の期間の加算は年金規則に規定が無いとの理由で,最初の退職時に本人に支給された
966クルシュの2分の1にあたる483クルシュを2人の子供(娘と息子)と2人の妻の間で分割す ることとなった。ところが遺族側は再雇用後に年金積立金を徴収されていたとし,年金額の加算を 要求した。申請を受理したトルコ汽船局人事部は総務部に諮問する。総務部は,公務員の年金規則 第72条ではこうしたケースは加算を認めている上,個別の規則が不備な場合は公務員の規定に従 うようにとの経済省の通達もあることから,タラートのケースも2度目の加算を認めるとした。し かし,この答申を受けた重役会議は,この件では年金規則に規定が無いことから,再雇用時に徴収 した年金掛け金の合計137リラ35クルシュを遺族に支払うことで要求に応えることを決定する。
この措置であれば年金規則にも抵触しないと判断したためである。ところが,遺族はこの決定に納 得せず,汽船局に対して訴訟を起こした。裁判では汽船局が公的機関か否かが問われたが,国家に 帰属する営利組織であるとされた。また,2度目の雇用時に積立金を徴収するにあたり,本人に加 算を約束していたことも明らかとなった。このため,年金の加算が認められ,徴収分の合計額を返 却するという決定は撤回された。結果的に遺族の要求は受け入れられたのである。
以上2名は年金受給後にふたたび同じ汽船局に戻っているが,別の組織に再就職した場合,年金 はどうなったのであろうか。この点を知る手掛かりとなる記録がある。
ゲリボル号船長アフメト・ラフミ(No. 634)は,1898年22才で見習い船長として入局し,1926 年9月18日付で年金受給者となった。1939年8月8日に死亡したため,未亡人ケヴセルが遺族年 金を申請した。その申請書の中で「汽船スメル号の船長として勤務中に死亡した」とある。それで も,唯一の年金受給資格者であるケヴセルに,夫が得ていた年金960クルシュの2分の1,すなわ ち480クルシュを支給することが認められている。すなわち,アフメトは退職後,年金を受け取り ながら局以外の汽船で船長として働いていたのである。つまり,年金以外の収入があっても受給資 格に変更はなかったことになる。実際「特別局年金規則」にもその後の修正条項にも,再就職に関 する規定は見当たらない。したがって退職後の再就職は問題とされなかったことがわかる。
それどころか年金受給後に高給を得ていた事例もある。1909年9月20日付で汽船局経営会議 書記長職を退任したアブデュルアハト・ヌリ・エフェディ(No. 719)17は,退職後に月額1,823ク ルシュの年金を支給されたが,同月29日よりサロニカ州タシュオズ県(Tas¸oz sancag˘ı)に県知事
(kaymakam)として赴任したのを皮切りに,1912年9月13日まで地方官庁の高官職を歴任し,年 金と同時に月額2,500クルシュの給与も得ている。さらに1913年2月7日には再び汽船局の経営 会議書記長に復帰し,2,000クルシュの給与を受け取っているのである。
以上,本節においては,「個人記録文書」にファイルされた様々な文書から,年金受給の実態を 探った。そこからは規則の条文からは読み取れない実際の運用にあたっての問題点が浮かび上がっ てきた。その多くは受給資格の変更と年金額への不満に関連したものであることが確認された。
おわりに
本稿では近代オスマン帝国における福祉政策としての年金制度について,官営汽船の「個人記録 文書」から,その制度設計と運用の実態を明らかにしようと試みた。特に前節では,具体的な事例 をあげて,年金制度が受給者の人生にどのような影響を及ぼしたかを見てきた。その結果,申請手 続きや支給額に関するいくつかの問題点が浮かび上がった。最後に,「特別局の年金制度は妥当な ものだったのか?」という問いに対する答えを,統計的数値から導き出してみたい。
汽船局の年金制度は端的に言えば,「20才以後の勤続年数が30年以上の者に,退職後終身現役 時代の給与の2分の1を年金として毎月支給する。本人死亡後も遺族年金として一定額の支払いを 継続する」というものであった。これは年金の恩恵を受ける者たちにとってはたして妥当な制度と いえただろうか。以下統計の数値からこの点を検討する。筆者は官営汽船の職員805人分のデー タ18から,彼らの入社年齢,退社年齢,勤続年数,給与などの分布,平均値を割り出した19。
図1は805人の入社年齢の分布である。平均は24.4才で,18〜20才,25,26才で入社する者が 多いことがわかる。図2は退社年齢の分布で,平均は52.4才,51,52才で退職する者が多いが,
55才から65才までの退職者も決して少なくはない。中には70才を過ぎてなお現役であった者も いる。図3は勤続年数の分布を示している。平均は26.4年であるが,30〜35年間勤めた者が多い。
図1で注目すべきは,20才以前に入局した者も少なくないという事実である。したがって勤続 年数の算定において,20歳未満の実績がカウントされないのは彼らにとって不合理といえなくも
人 数
年 齢
図
1 入社年齢
ない。図3の勤続年数において,30年が29年の2倍以上,31年がさらにこれを上回り最も人数的 に多くなっているのは,年金満額支給資格の取得が勤続30年以上であることに起因するのは間違 いない。30年で退職した場合,途中で少しでも休職期間があると資格を満たさないことから,31
人 数
年 齢
図
2 退社年齢
人 数
年 齢
図
3 勤続年数
年での退職者が最多となったと推察される。図2の退職時の年齢については,20才で入局した者 が30年の勤続年数を満たす50〜51才をピークに65才までの間に集中している。以上,統計の数 字からみると,多くの者は26才までに入局しており,年金受給権を得られる30年という勤続期間 は,56才ころまでに満たされることから,年数的にはほぼ妥当な設定であるといえよう。
それでは,現役時代の半額という支給額はどうか。彼らの現役時代の給与水準,当時の平均的な 生活費のレベルなどから,この問題を検討してみたい。給与水準については,洋上勤務者と地上勤 務者とにはそれぞれ別の給与体系があった。洋上勤務者の給与は,1291(1875/76)年度の汽船メ ダル・テヴフィク(Medar-ı Tevfik)号の記録20によれば,職種ごとにそれぞれ,船長の月給が2,000 クルシュ,以下2等航海士1,400,3等航海士1,000,船舶書記1,000,出納係1,000,甲板長500,
船倉係400,船大工400,ウィンチ係400,操舵員400,水夫350,1等スチュワード300,2等スチュ ワード250,3等スチュワード200,機関長2,000,2等機関士1,250,3等機関士900,機関員長
500,火夫400,石炭夫300となっている。ただし,汽船が修理やメンテナンスのためドック入りし,
稼働していない期間は「陸上手当(kara mahsusat)」という名目で給与は減額された。地上勤務者 については,アブデュルハミト2世の治世初めの給与台帳21によれば,局長補佐5,000クルシュ,
経営会議メンバー1,000〜1,500,経理部長3,000,文書部長2,400,代理店統括部長2,400,上級の 書記・記録係1,000〜2,000,役職付きの事務員および一般的な書記・記録係や事務員400〜750,用 務員・お茶くみ・警備員400といったところであった。こうした彼らの給与水準が当時のオスマン 帝国社会においてどれほどのものであったのか。それを知る手がかりとして,ここでは先行研究と 統計を参照する。
まず洋上勤務者や地上のブルーカラーの給与と比較対照できるデータとして,当時のイスタンブ ルの建設業に従事した労働者たちの賃金の記録がある22。それによれば,1881年の日雇労働者の 日給は7.6クルシュで,月平均20日働いたと仮定すると月給としては152クルシュとなる。以下 同様の計算により,月給に換算して示すと,大工が360クルシュ,れんが職人が386クルシュ,左 官が300クルシュであった。ちなみにこの統計によれば20年後の20世紀初めの1901年の給与は,
それぞれ日雇労働者160,大工370,れんが職人350,左官346クルシュである。船長,機関士は 別格として船大工,火夫,石炭夫らの給与水準はほぼ建設業界の職人レベルであったことがわかる。
次に地上勤務者の書記や一般事務員と比較対照できるデータとしてフィンドレイのオスマン帝国 の官僚たちに関する研究がある23。彼によれば,1890年代の公務員が一家族を養うためには1,000 クルシュの月給が適当であるとされていたという。その一家族とは,本人と妻,2〜3人の子供,1〜
2人の他の扶養家族から構成されるものとしてのことである。1897年に,ある公務員は「600クル シュの月給では家族を養えない」と配属されたポストを辞退する嘆願書を書いたという。1912年 の記録では,外務省で良質な人材を確保するためには1,500〜2,000クルシュの給与を支払う必要が あるとされた。1914年にイスタンブルの商工会議所が発表した数値によれば,中流家庭の家計で ひと月の生活費は平均945クルシュであった。しかもこの数値には家賃,タバコ代などの嗜好品,
交通費は含まれていなかった。これらのデータと比べると,特別職の地上勤務者のうち書記や一般 事務員の給与は公務員よりやや低く,管理職になれば中級公務員よりもかなり高い給与が望めたと いうことがわかる。
以上が汽船局職員の現役時代の給与だが,年金額はこの半分である。洋上の船長,機関長,地上 の管理職といった高給取りは別として,下級職員の給与はかなり少ない。400クルシュの月給を得 ていた者が退職すると年金は単純計算では200クルシュとなる。しかも基本となるのは退職時から 遡って過去10年間の給与の平均値であるため,実際にはさらに低い額となる。これでは日雇い労 働者と大差ない。そのためか,基本給にさまざまな手当を加算し,年金額を上乗せしていたようで ある。ただし,こうした措置は年金規則には記載されていない。おそらくは年金受給者の要求に応 えて,彼らが生計を維持できるように,あくまでも運用上の特別加算という扱いで処理していたの であろう。それでも支給額への不満が恒常的に存在したことは前節の事例から明らかである。
もう一つの問題点は申請手続きの煩わしさである。その原因として考えられることは,年金の支 給はあくまでも受け取る側の申請によってはじめて実施されるものであったことによる。当時のオ スマン社会において,民間人の識字率は極めて低く,書式に則って申請を行い,公的機関から証明 書を発給してもらうことは,かなりハードルの高い行為であったはずである。また,オスマン帝国 末期からトルコ共和国初期は,バルカン戦争,第一次世界大戦,祖国解放戦争と戦乱が続き,社会 が激しく動揺した時期であった。多くの男性が戦役に従事し,残された家族が都市から地方に移住 するなど,人口の流動性も高かった。こうした要因も年金支給申請の遅滞,漏れを招いたと推測さ れる。
本稿はオスマン帝国末期に誕生した近代的な年金制度について,その実態をみてきたが,この制 度がオスマン帝国の消滅,トルコ共和国の誕生という激動の中でも,途絶えることなく引き継がれ たことは注目に価する。はじめに述べたように,オスマン帝国期の官営汽船は共和国期に至る過程 で,名称・組織,所管官庁等において様々な変転を重ねてきた。しかし個人記録文書はきちんと保 管され,年金の申請・支払いは継続されたのである。
(本研究はJSPS科研費JP25370840の助成を受けたものである。)
[注]
1 ワクフと慈善・福祉に関しては,林佳世子「都市を支えたワクフ制度―イスラム世界の宗教寄進制度の経済的側面」
(加藤博編『ネットワークのなかの地中海』青木書店1999,256-284頁)参照。
2 例えば,老齢,障がい等の理由で退職した者たちに,tekaüdiyye, arpalık, oturak ulufesiといった名称の下に,生計 に足るだけの金額の給与を支払っていた。高位の軍人やウラマーは引退すると生活を維持する年金が与えられ,こ
れをarpalıkといった。宮廷に仕える者たちも,引退するとtekaüd ulufesiが,引退したイェニチェリにもoturak
ulufesiが与えられた。(Özbek, Nadir 2002, Osmanh I·mparatorlug˘u’nda Sosyal Devlet ; Siyaset, I·ktidar ve Mes¸ruiyet (1876-1914), I·stanbul, I·letis¸im Yayınları, p. 45)
3 オスマン帝国がイギリスとの間に1838年に取り交わした通商条約の第1条に「英国船に関するすべての権利・特
権・免除は過去の協定に則って今後も適用され効力を有することがこのたび確認された」とある(Kurdakul, N.
1981, Osmanlı Devleti’nde Ticaret Antlas¸maları ve Kapitülasyonlar, I·stanbul, p. 216)
4 AKAYというのはAdalar,Kaıdöy,Anadolu yakası,Yalovaというイスタンブル発の主要航路の名称の頭文字をとっ て名付けられた。
5 汽船運航組織のあった建物はアズィーズ局時代(1869?)に焼失し,その後移転を繰り返したとされる(Abdülahd Nuri 1926, Seyr-i Sefâin I·dâresi Tarihçesi, I·stanbul, p. 21)。
6 Makal, A. 1997, Osmanlı I·mparatorlug˘u’nda Çalıs¸ma I·lis¸kileri 1850-1920 Türkiye Çalıs¸ma I·lis¸kileri Tarihi, I·mge Kitabevi Yayınları, Ankara, p. 215.
7 Düstûr, 1. Tertip, Cilt 6, s. 717-728.
8 Bas¸bakanlık Osmanlı Ars¸ivi, S¸ûrâ-yı Devlet (S¸D), 5-27.
9 オスマン帝国において,特別局のような公的機関の規則の制定には勅許が必要であった。勅許を得るためには,ま ず大宰相に上申し,大宰相がこれをスルタンに上奏するという手続きを経なければならなかった。ただし,アブ デュルハミト2世の専制期には,大宰相を経由せず直接スルタンに上奏する者が後を絶たなかった。
10 1881年制定の軍人年金規則Askerî Tekaüd Sandıg˘ı Nizamnamesi 第7条 (Düstûr, 1. Tertip, Cilt 5, s.728)。
11 イマーム(imam)とはモスクの礼拝の導師。
12 ムフタール(muhtar)とは村長,町長など最小行政単位の長。
13 汽船局の定期航路は近隣(sevâhil-i mütecâvire),近海(sevâhil-i karîbe),遠洋(sevâhil-i bâide)の3つのカテゴリー に分類され,近隣航路はイスタンブル港湾周辺,近海航路はマルマラ海沿岸,遠洋航路は黒海・エーゲ海・地中海 で汽船を運航していた。
14 近隣航路の波止場はイスタンブル市内にあった(注13参照)。
15 1890年に開設された貧困者を収容する公的施設(Özbek, Nadir 1999, “The Politics of Poor Relief in the Late Ottoman Empire: 1876-1914”, New Perspectives on Turkey, n.21, pp. 1-33参照)。
16 当時すでに汽船局は廃止され,これを引き継いだアカイ社の重役会議(AKAY I·s¸letmesi S¸efler Encümeni)が審議に あたった。
17 オスマン帝国時代の汽船局の社史(Abdülahd Nuri, op. cit.)の著者でもある。
18 「個人記録文書」のファイル番号No. 1からNo. 999までの999人の中から官営汽船以外の組織に所属した者を除き,
805人分のデータを抽出した。その内訳は洋上勤務者が589人,地上勤務者が216人である。
19 このデータの詳細については,Kaori Komatsu 2014, “Civil Sosiety in the Ottoman Modern Period as Seen in
“Maritime Personnel Records””, Memoirs of The Research Department of The Toyo Bunko, No. 72, pp. 125-160参照。
20 トルコ海運史料,Maas¸ Defteri, Cilt 1, 3.
21 Ibid., Cilt 1, 2, 3.
22 Pamuk, S¸evket(ed.) 2000, I·stanbul ve Dig˘er Kentlerde 500 Yıllık Fiyatlar ve Ücretler 1469-1998, Ankara, pp. 196-197 より抜粋。元の数値は最も小額の貨幣単位であるアクチェ(akçe)で記されていたが,筆者がクルシュに換算した。
23 Findley, Carter Vaughn 1989, Ottoman Civil Officialdom : A Social History, Princeton University Press, Princeton, pp. 320-322.