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真理ないし認識についてのニーチェの思索は、彼の著作の中でまとまった形で道されているわけでは決してない。彼は哲学においてよくあるような認識論や真理論を展開しているわけではない。しかし、真理ないし認識の問題は彼の生涯を貫く関心事だった。例えば彼の初期には、未完に終り公刊されなかったが、「道徳外の意味における真理と虚偽について」という短い論文が迫されている。中期以降では、彼の箸作のほとんどが断章の形式で洲かれたことにもよるが、それらの断章のうちに、かつ一八八○年代の迫された断想のうちに、散らばった形で、真理ないし認識についての思索が展開されている。とくに一八八○年代の適された断想のうちでは、〃への意志の思想からして論じられているものが見出される。以下では、そうした彼の認識および真理についての思索を、主に『ツァラトゥストラはこう謡った』執筆時期以降の後期に苔かれた断章や断想において、検討してみたいと思う。
(1) 「「存在する」世界は一つの仮構である。或る生成する世界(⑦旨のごく①己の己のづ「の一芹)しかない。」「われわれの知性は、生成つ。「のaの。)を把握するのに適合してはいない。われわれの剛性は、胤身が諸形象から川米しているために、普遍的な不動性を証明しようと努める。すべての折学者たちは、永遠の持久を証明するという目標を目差し
(|) ニーチェの真理論(二)
池田俊彦
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しかし、「感じたり思考したりする働きはある。だがいったいいかにしてこうした働きが、生成の世界において可能なのか。諸感官の皮相性や鈍感さ、精神の緩慢さという消極的な諸固有性が、変じて積極的な諸力になった。何らかの心像を、わずかな情況証拠にもとづいて、措定し、仕上ったものにでっちあげること。何かを永続的なものとして、措定すること。というのも、人々は変化を見てとることがないからだ。こうした仮櫛力によって促進さ(P⑪) れた、生きる能力。」あるいはまた、こうも一一一一口われている。「定式化されがたいものとしての、「偽」としての、「自己矛盾する」ものとしての、生成の世界の性格。認識と生成とはたがいに排除しあう。その結果、認識は何か別のものとならなければならない。すなわち、認識しうるものたらしめようとする一つの道志が、先行していなければ(Ⅲ) ならない。|和の生成自身が、存在するものという迷妄をつくりあげなければならないのである。」一」一」では、認識する側のものも生成と呼ばれている。生成の世界を認識しうるものたらしめようとする一つの意志をもった生成、(戸0)である。ニーチェにとっては、生成はいかなる仮象状態でもなく、存在の世界一」そ仮象かもしれないとすれば、(8) 「生成しつつあるもの」、「現象的なるもの」一」そが、唯一の存在のあり方となる。しかもその「存在」については、(9) 「「生きている」(一のウのゴ)という以外の想念をわれわれはもっていない。」だから認識するものも、生成しつつある
てきた。というのも、知性はこの永遠の持久という点に、自身の固有の形式や作用を感ずるからであ垂・」ここに
見られるように、認識のいわば対象は、「生成」、「生成する世界」である。しかし、認識のいわば対象となる「生成の世界」は、変化し転変する感性的世界として、すなわち迷妄として、判決される世界ではない。この世界の彼岸に、ある一つの世界が真の世界として、永遠に変化することのない真に存在する超感性的世界として、裡造されるような世界ではない。そうした真の世界は、人間の心理学的欲求によって逃げ道として、組み立てられたものに(3) すぎない。この「真の世界」はそこではまた、「真理」、「存在」とも換王一一一口されている。典の世界を抜け道とする権利を人間は全くもっていないと悟るやいなや、生成の実在性こそが唯一の実在性として認められる。ついでに言え(1) ば、その生起は何の意味も、目的も、また全体性も、統一性も、もってはいない。それはこうした》&味での、変化ば、その生起は何の意味も、□し転変する生成の世界である。115
さて、生成しつつあるものが生成する世界を認識しようとする。しかし、「認識自体は、生成においては不可能である。それゆえ、いかにして認識が可能であるのか。自身についての誤謬として、力への意志として、迷妄への(肥)意士心としてである。」あるいはまた、「生成の世界は、厳密な意味では、「概念」され、「認識」されえないかもしれない。「概念」し「認識」する知性が、全くの仮象性から組み立てられた、しかし確立してしまっているところの、すでにつくりあげられている粗雑な世界を眼前にしているかぎりにおいてのみ、つまり、この種の仮象が生を保存してきたかぎりにおいてのみ、「認識」というがごとき或るものが、換言すれば、以前の誤謬とその後の誤謬との(旧)相互測定が、あるのである。」すなわち、生成しつつあるものによる生成する世界の認識は、誤謬、迷妄、仮象、といった点に帰着する。次にこの点を見てみよう。感じたり思考したりする働きが、生成の世界においていかに可能なのか。諸感官の皮相性や鈍感さ、精神の緩慢(狐)さという「粗雑な」消極的な諸固有性が、変じて積極的な諸力になったにすぎない。知性と諸感官とは、何よりも ものであり、それはさらに、生きているもの、生、ということになる。あるいは、大いなる理性としての「身体」、(Ⅶ) またその意味での「自己」(い⑦一ヶ⑪一)、とも言える。しかも、われわれのすべての認識機関や感官は、生の保存。生(M) (肥)長の諸条件に関してのみ発達している。認識機関は、われわれの自己保存を満足せしめるよう発達する。知識や認識の仕方は、それ自身すでに生存の諸条件のもとにある。換言すれば、われわれの認識装置は、「認識」そのもの(皿)のために設けられているのではない。認識は、自己目的などではなく、外界を自身の身体に血肉化する(。ごく⑦再‐〈M)|の一ケのロ)ことによって生に仕えるのであって、生が認識に仕えるのではない。しかも、生そのものは力への意志で(脳)ある。認識意欲の度〈口いは、生における力への意志の生長の度〈pいに依存している。認識が力の墹大につれて生長(腿)(脈)する}」とは、明らかである。認識は、力の道具として働く。
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〆ワシ」まず単純化する或る装置(シロ日『昌)である。比較作川としてのすべての思考、判断、知覚の働きは、「同等のも(躯)のと見なす働き」を、.もっとさかのぼれば「同等のものにでっちあげる働き」を、前提としてもっている。認識の全装置は、一つの抽象化・単純化の装置であり、認識を目差しているのではなく、事物を「わがものにする」こと(鋤〉を目差している。だから、「認識とは、経験を可能にすることなのだが、一」のことは、現実的な出来事が、影響をおよぼす諸力の側においても、われわれの形態化する諸力の側においても、途方もなく単純化されることによってなされるのであって、この単純化の結果、類似した渚事物や等しい諸事物が存在するように見えるのだ。認識とは、多価多様な数えきれないものを、等しいもの、類似したもの、数えうるものへと、偽造することなのである。それゆえ、生はそうした偽造装悩の刀でのみ可能である。思考するとは或る偽造的変形の働きであり、感ずるとは或る偽造的変形の働きであり、趣欲するとは或る偽造的変形の働きである。これらすべてのうちには同化作用の力があく測)(郷)り、一」の力は、何かをわれわれと等しいものとする或る意志を前提する。」認識は一」のように、概括化、粗雑化、同等化、抽象化、単純化にもとづいており、しかもこの「偽造」によって、生成する世界をわれわれによく知られ(鰯)(郡〉たわれわれの世界に、要するにわれわれ(川身に、変える。こうして、認識は生成とは何か別のものとなる。あるいはまた、二認識する」のではなく、側式化する(⑫。}】C日昌⑩一の『の。)のである。われわれの実践的欲求を満たすにたるだけの規則性や形式を、カオスに課すのである。即性、諭即、範鴫が形成されるときには、欲求が、すなわち「認識する」欲求ではなく、理解し算定しやすくすることを、日的として包摂し図式化する欲求が、決定的(獺)となっていたのである。」だから論理学は、われわれがつくりあげた虚櫛の本質性についてのみ妥一当する。論理学は、われわれによって立てられた「存在の図式」にしたがって現実の世界を概念化する試み、いっそう正しくは、(鱒〉現実の世界をわれわれにとって定式化しやすいもの、計算I)やすいものたらしめる試み、にすぎない。すなわちだからまた結局のところ、|「すべてのものが生成であるとするならば、認識は「存在」を信ずることに(抑)もとづいてのみ可能である。」そこで、「存在するものを想定する一」とは、思考し推論しうるために必要である。論理学は、恒常不変なものにあてはまる公式のみを取り扱うからである。このゆえに、こうした想定は実在性を証明
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(靴)する力をまだJい)ってはいない。すなわち、「存在するもの」はわれわれの光学に属する。」ここでの「光学」(○日【)という用語は、「遠近法」(勺の『の己の百一ぐ。)という用語とほぼ同義と見てもよいだろう。「存在するもの」という捉え方は、われわれの特定の認識の仕方からして、静止させたもの、持続させたもの、不変化させたものを、(醜)そのように捉えているにすぎない。「存在」はIしたがってまた、静止したもの、停滞するものであり、固定的なもの、持続的なもの、持久するもの、不動のもの、自己同等のものであり、さらに、硬直化、永遠化、などとも呼ば(郷)れる。だから例えば、存在するものとしての「自我」(Q口の『、す)のみがわれわれにとって唯一の「存在」であり、この唯一の存在にⅢって、われわれは一切を存在せしめたり、理解しているとされるが、ここには或る遠近法に由(柵)米する幻想が働いている。つまり}」こには、すべてのものを一つの地平線のうちへのようにひとまとめに閉じこめてしまう、見せかけの統一が働いている。しかし、肉体を手引きとするならば、巨大な多様性がそこにあることは明らかである。生成や発展によって触れられることのない存在するものとしての自我、これは一つの偽造であり、
また同様のことが、「主観」の概念についても言われている。「主観」とは、何ら与えられたものではなく、何か(郷)〈秘)仮構されつけ加えられたもの、背後に挿入されたものであり、われわれの立場から解釈されたものである。「主観」は、岐高の実在感情のさまざまの契機すべての間の統一によせるわれわれの信仰を表わす術語にほかならない。「主観」とは、あたかもわれわれのもつ多くの同等の諸状態は唯一の基体の結果であるかのどとく見なす虚柵であ(抑〉る。明らかに、自我の場〈ロと同様に、「主観」を存在するものとして実体的統一と見なす一」と、および、認識の原因と見なすことが、拒絶されている。だからまた、こう言われている。「主観を一つだけ想定する必然性は、おそらくない。おそらく多数の主観を想定しても差しつかえなく、それら諸主観の協調や闘争がわれわれの思考の、総(鍋)じてわれわれの意識の、根底にあるのかもしれない。.:主観を多数と見なす私の仮説。」(鋤)精神も、理性も、思考も、意識も、雪巫魂も、意志も、虚構である。実体も、事物も、物体も、生起を「存在する(⑩) (帆)もの」の、存続するものの、一種の転位や移転として捉える試みであって、われわれの虚構であり、握造である。 虚構である。
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(鯉)「事物」の成立は、徹頭徹尾、表象し、思考し、意欲-)、感覚するものの作品であって、われわれが信じている(紬)「珊物」は、さまざまの述語の埜底として提造し加えられたにすぎない。存在の世界が.まず裡造され、存在するものに価値が与えられることから、生成するものを断罪しそれに不満をおぼえることが由来する。物体も、神も、理(Ⅱ) 念も、自然法則も、定式も、そうIした「存在するもの」の諸変形であり、裡造されたものにすぎない。また、「類」が表現するのは、一群の類似した存在者が同時に現われ出て、生長を続け自身を変化してゆくテンポが長期に渡って緩慢となっている、という卵爽にすぎない。このため、堀突止のささやかな継続や嫡大はたいして考慮に入らない。発達段階巾にあって発達が眼に見えていず、このため、一つの平衡が達成されているかのように思われ、ここでは一つの目標が達成されているとの、また発達のうちには一つの目標があったのだとの、誤った考えが可能にな(柵)る。「顛一とは、脳肝にそうした仮象にすぎない。また「形式」3D、何か持続するもの、それゆえにより価仙の多いものと見なされているが、しかし、単にわれわれによって狸造されたにすぎない。新しいものが常に現われるが、われわれがその新しいものを古いものと比較し同等であるかぎりにおいて、その新しいものを形式という統一の中へと一緒に数え入れるにすぎない。あたかも或る類剛が達成されるべきであり、それがいわば形成作用を導いて、そこに内在しているかのどとく几なされるが、しかし、たとえどれほどしばしばⅢ一の形式が述成されるにしても、
(仇」これは同一の形式が「あプ(》」ということを意味しはせず、その形式は、われわれの虚構であり、仮象にすぎない。「法則」や「定式」も、「存在するもの」という根源的な虚構の諸変形とされる。こう言われている。「「認識する」とはどういうことか。未知のものを既知のものへと、柵れ親しんでいるものへと、迎尤することである。…われわれは或るものに慣れてくると、それはもはや謎や問題とはされなくなる。新しいものとして、異質なものとして出会ったときの感情が、次第に純化される。つまり、およそ規則性をもって起こることは、われわれにとって不思議(碑汕)ではなくなる。それゆえ、規則の探究こそが認識に励む者の第一の本能となる。」つまり認識は、生成を不変的な規則として捉えようとする。変化し転変する生成の世界のうちに、定式化された規則を、法則を、普遍的な不動性を、永遠の持久を、捉えることを目差す。しかしすでに見出された「法則」についても、例えば一つの点として、
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さきに形式について言われたことと同様のことが言える。すなわち、新しい生成が常に現われるが、われわれがその新しいものを古いものと比較し同等であるかぎりにおいて、その新しいものを法則という統一の中へと数え入れ、そこでその法則の正しさが証明されたとするにすぎない。あたかも生成のうちにすでに範型があり、その範型が生成を導いており、内在しているかのどとく見なされるが、しかし、たとえどれほどしばしばその法則の正しさが証明されるにしても、これはその法則が「ある」ということを意味しはせず、その法則は、それを「見出し」、「ある」とするわれわれの、虚柵であり、仮象にすぎない。しかしまた、いま引用した個所では続いてこう言われている。すなわち、「だが当然のことだが、規則が確認されただけでは、何も「認識」されたことにはならない。それゆえ、物理学者たちの迷信も出てくる。彼らが不変のものに固執することができるならば、つまり、現象の規則性のゆえに簡略な定式の適用が可能になるならば、認識が果たされたと彼らは考える。彼らはそこで「安全」を感ずる。だが、この知的安全の背後で起きているのは、恐怖心の鎮静である。彼らが規則を求めるのは、その規則によって世界の恐ろしさが取り払われるからである。学問(帆)の背後本能としての、予測不可能なものへの恐怖。」変化し転変する生成の世界は、われわれに汎凹怖を与える。新しいものは恐怖を呼びさます。他方で、新しいものを新しいとして捉えるためには、もともと恐怖が存在していな(伯)(釦)ければならない。そして恐怖は、区別すること、比較する一」とを教えこむ。こうして認識は、未知のものを既知のもへと還元しようとする。しかしそこでの規川の探究は、単に純粋に無垢に、現象の規則の認識に励まれているわけではない。捉えられた規則性が、それをもとに生成の世界に逆にわれわれの方から働きかけることができるような規則性であるときに初めて、認識は果たされたとされる。思考することそのものが最後には、征服であり、力の(則)〈認〉行使であると感ぜられる。そして捉えられた既知のものは、信頼感を引き起し、安定感を与えてくれる。一」うして、世界の恐ろしさが払拭される。認識は、変化し転変する生成の世界への恐怖心を鎮静化させる。認識の背後で起きている心理学を、ニーチェはこのように分析している。
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ところでまたニーチェは、「遠近法的に(己の「晩己の貢冒⑩8)観ることしか、遠近法的な「認識」しか、存在しない」と言う。さらに続けて、「そして、われわれがある事柄についてますます多くの情念を発言させればさせるほど、その同じ躯柄に対しますます多くの眼を、さまざまな眼を向けることができればできるほど、それだけその聯柄についてのわれわれの「概念」は、われわれの「客観性」は、いっそう完全になるだろう。それなのに、意志を全く排除し、情念を残らず取り除くということは、たとえそれがわれわれにできるとしてもどうだろう。それは、(繩〉知性を去勢することではないだろうか」と言われている。この「遠近法」(宅の『⑪己の丙牙の)という用濡はもちろん、自然の事物を眼に見えるのと同じような距離感で両面に描写しようと、ルネサンス以降の絵画史において確立された技法の名称である。しかしこの用語は、哲学史上においてもすでに、例えばライプニッッによって用いられている。彼によれば、無数に存在するモナドは、唯一の宇宙をそれぞれの視点から表象する。だから一つの宇市につい(恥〉て、速近法的には(己の『⑰ロの2くのロ〕のロ()無数の表象があることになる。しかしそれら無数の表象は、あくまでも同じ一つの宇宙についての表象であり、しかもそれらは予定調和によって完全に統一されている。それゆえ結局ライプーーッッの遠近法においては、ただ一つの真理が前提されている。この点、ニーチェは全く異る。「遠近法」という川語は、『人間的な、あまりに人間的な』においてもすでにⅢいられている。例えば、生その6(郷)のが「遠近法とその不公正とによって制約されている」、と一一一一口われている。しかし、ニーチェにおいてこの用語が積極的な意味で使われ出したのは、一八八五年頃からである。とくに、バーゼル大学でニーチェの同僚だったG・タィヒミュラーが一八八二年に出版した『現実の世界と仮象の世界』を読んだことが、一つの機縁となっているとされる。いずれにしても、さらにまたこう言われている。「人間の知性は、自分自身をも自身の遠近法的形式のもとに見るほかなく、しかもその形式の内でのみ見るほかはない。われわれは自分の存在する片隅の周囲を見ること (一一|)
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ところで認識に関してこの「遠近法」という用語は、ニーチェにおいてまず一方で、例えば形而上学的根本概念を解体するのに用いられている。すなわち、「真の世界なるものは全く存在しない。したがってそれは、われわれ(締)(銘)に由来する一つの遠近法的仮象(□の『いで⑦丙(旨い:①『⑭。。の一コ)である」とされる。また、目的、統一、存在、あるく卿)いは実体、魂などについても、同様のことが一一一口われている。「遠近法」という用語はさらに、既成の根本的概念を批判するのに用いられている。すでに見たように、「自我」の概念の形成には遠近法に由来する幻想が働いている、(艶)と言われた。また「主観」といった概念も、「見る時の一種の遠近法をもう一度見る行為そのものの原因として定(日)立する」というように「狸造」されたものである、とされる。さらに、「数は時間や空間と同じく、|っの遠近法(雌)的形式である。」「主観と客観」、「能動態と受動態」、「原因と結果」、「手段と目的」も、常にただ遠近法的な諸形式(醜)にすぎない。「本質「|も、「本質性」も、何か遠近法的なものであり、多数性をすでに伽提している。常に根底にあるのは、「これは私にとっては何か」(われわれにとっては何か、生あるすべてのものにとっては何か、など)とい(射)(侭)う}」とである、とされる。しかし他方で、「遠近法的観点が「仮象性」という性格を与えるのである」とされ、さらに、「「仮象」は、私の理解するところでは、諸事物の現実的かつ唯一の実在性である。…それゆえ私は、|‐仮象」を「実在性」と対立させないで、逆に仮象を実在性と見なす。ただし、この実在性は何らかの想像的な「真理の世(熊)界」へと変化させられることに抵抗するものである」と一一一一口われる。また、「生成の世界においては、「実在性」とは常に、実践的目的のための単純化であるか、機関の粗雑さにもとづく迷妄であるか、生成のテンポにおける差異性(観)であるかにすぎない」とされる。だから、諸々の概念そのものが、特定の視点と一定の角度とから見られて形成された狸造、虚構、仮象にすぎない。しかしこの仮象を措いて、他に実在性があるわけではない。そしてそうした譜概念にもとづいた認識も、われわれが事柄をある特定の視点に制約されて一定の角度から見て解釈しているにすぎない。したがってまた、われわれは常に事柄をある一定の側面において見ているにすぎない。遠近法的認識という ができない。(蹄)しかない。」 そのほかにもどんな別種の知性や遠近法がありうるかを知ろうとするなどは、見込みのない好奇心で
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ことで、ニーチェはこうしたことを意味しようとしているのだろうか。だからまた、こう言われている。「総じて「認識」という言葉が意味をもつかぎり、世界は認識されうるものである。しかし、世界は別様にも解釈されうるのであり、世界は自身の背後にいかなる意味をももってはおらず、かえって無数の趣味をもっている.l「遠近(鍋)法主義」(での『mCの丙与冒⑩ヨロの)。」認識が遠近法的であるとされることによって、事柄それ自体(&①の:。の⑫の一ヶ⑫{)の認識、純粋無垢な認識、客(的)観的な認識、絶対的な認識、などは斥けられる。しかしそれは、認識が常に個々のいわば主観に依存しており、一」のために認識が常に相対的である、ということを意味するだけではない。「視覚、触覚、聴覚の捉えるこの遠近法(、)的世界」と一一一一口われており、認識が遠近法的であるのも、いわば身体が認識するためである。だから、人間に共通す(、)るあるいは人間に「通用する」認識が一方で成立するにしても、それ側体が人間という特疋祇の遠近法的認識ということになろう。だから、「認識は、高級極の生物のところでは、現今ではまだ必要となっていない新しい諸形式(ね〉をもつにいたるだろう」と一一一両われている。さらに言えば、認識の遠近法も、人間の生に根差すものとされ、生に基(河)礎づけられている。すなわち、「あらゆる生の根本条件である遠近法的なもの」とされており、さらにこう一一一両われている。「生存の述近法的性桁は、どこまで及んでいるのだろうか。あるいは、生存には何かまだそれとは別の性格もあるのだろうか。解釈なき生存、意味なき生存とは、まさに無意味に陥るのではなかろうか。他方から言えば、(刑)生存はすべて本質的に、解釈する生存ではないのだろうか。」
認識が遠近法的であるのは、遠近法的なものがあらゆる生の根本条件だからであり、しかもいま岐後に引用したところでは、「解釈」(シ冨一のmp目)こそが生存のもっとも基本的な与件であるとされている。しかもさらに、こう言われている。「どのようなものだけが認識でありうるのか。「解釈」であり、意味の置き入れ(のご旱
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認識は解釈であって説明ではない、とされる。というのも、認識とはすでに対象として存在するものそれ自体の実在性を受動的に受容して把握すること、といった見解が斥けられるからである。さきに見たように、「存在するもの」という捉え方こそ、もっとも根源的な虚構であり、偽造だった。認識に関して、存在するものの方にではなく、いわば徹底的なコペルニクス的転回によって、「存在するもの」という虚柵をつくり出す認識する怠志や欲求の方に定位される。認識と生成とはたがいに排除しあい、生成は厳密な意味では認識されえないかもしれない。そ(”) れゅえ認識には、認識しうるものたらしめようとする一つの恵士心が先行していなければならない。また認識には、実践的欲求を満たすために、カオスに規則性や形式を課し、理解し算定しやすくすることを目的として包摂し図式(犯)化する欲求が、働いている。しかもそのうえで認識は、生成を能動的に概括化し、粗雑化し、同等化し、抽象化し、単純化することにもとづいており、その結果としての偽造であり、虚構である。「パルメーーデスは言った、「存在しないものを思考することはできない」と。われわれは他の極端をとって言う、「思考されうるものは、必ずや虚構(ね)でなければならない」と。」すなわち、「われわれが意識するすべてのものは、徹頭徹尾、まず秩序づけ》われ、単純(抑)化され、図式化され、解釈されている。」しかしまさに、「}」のように創造したり、論理化したり、秩序づけたり、偽造したりする働きが、もっともよく保証された実在性そのものなのではなかろうか。要するに、「蛎物を定立す(抑)る」もののみが、実在的なのではなかろうか。」かくて、「われわれは、われわれ日身がつくりあげたⅢ界のみを把 (犯)違いない。」 認識は解釈であって説明ではない。「物理学とても一つの世界解釈、世界整理なのであって(失礼ながらわれわれの見解によれば)、世界説明ではない。このことが、どうやらやっと五・六人の頭にぼんやりと解りかけてきたようだ。だがしかし、物理学が感覚に対する信仰を頼りにしているかぎり、それは解釈より以上のものと見なされ、そしてこれからさきも長いあいだ相変らず、解釈より以上のものとして、すなわち説明として、認められてゆくに とされる。 (一□)三二のヨ|・ぬ。ご)であって、説明ではない。」遠近法的な認識とは結局、生の遠近法の形式としての「解釈」である
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(晩)握する}」とができる。」認識は説明ではなく、解釈である。というのも例えば、「思考が発達してゆくうちに、事物の固有性として表示されているものは、感覚する主観の感覚であるということが意識されるという点にまで、至らざるをえなくなった。(鮪)このことで、固有性は事物に属することをやめた」からである。事物が性質「自体」(山】]⑫一。■)をもっているとい(綱)う}」とは、絶対に放棄されねばならない独断的な考え、全くくだらない仮説である。事物という概念そのものと同(綱)じく、すべての固有性が、徹頭徹尾、表象し、思考し、意欲し、感覚するものの作ロ加であり、解釈にもとづくもの
であ麺・同様のことが「質」についても、「質はわれわれにとっての遠近法的真理であって、いかなる「それ自体 のもの」でもない」という形で言われてい麺・さらにまた、「いかなる「事実自体」(己曽すの⑫画且目印]&)もな(狐〉く、或る事実がありうるためには、一つの意味が常にまず置き入れられていなければならない。」事実というもの(鮨)はなく、すべてのものが、流動的で、捉えがたく、逃げ去ってゆく。あるいは、「事実はまず、解釈されなくてはならない。というのも、この事実がそれ自体として、あらゆる物自体と同様に、永遠に愚かしくもそこに存立して〈鋤〉(飢)いるからである。」われわれは事実なるものに、決して突きあたる一」とはない。だから、「現象に立ちどまって、「あるのはただ邸実のみ」と主張する実証主義に反対して、私は言うだろう。いや、まさしく馴実なるものはなく、あるのはただ解釈のみ、と。われわれは、いかなる事実「自体」をも確かめることはできない。おそらく、そのよ(肥)うな}」とを欲するのは背理だろう。」すなわち、考察して感性的・精神的にわがものとするときのあらゆる遠近法(伽)から離れて、何ものかがある、「それ自体」(シロの-,コ)があるとしても、それを脈かめる}」とはできない。「われわれがわれわれの存在に、われわれの論理や心理学的先人見に、還元することのなかった世界は、世界「自体」と(引)して現存してはいないc」「目的と手段」、「原因と結果」、「主観と客観」、「能動と受動」、「物自体と現象」、これらも解釈であって事実では(鰯)ないとされる。ただしそ一」ではさらに加えて、次のように言われている。これらは「どこまでおそらくは必然的解(難)釈なのだろうか。・・・すべてこれらは力への意志という意味において、必然的解釈である。」また、「必然性はいかな
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(w) る事実でもなく、|っの解釈である。」或る↓閏)のが必然的に起こるとされるとき、「われわれがまずその必然性を、生起のうちへと解釈し入れて(三口の一三貝○s『の二の『のロ)おいたのである。われわれは、生起が定式化されうるとい(犯)う一」とを、その生起を支配している必然性の帰結であるとして、解釈してきた。」さらにまた、「主観」というのが、(卿)われわれの立場から解釈されたものである。「「すべてのものは主観的である」ときみたちは言う。しかしこの一」とがすでに、解釈なのである。「主観」は、何ら与えられたものではなく、何か仮構されつけ加えられたもの、背後に挿入されたものである。解釈の背後になお解釈者を立てることが、結局は必要なのだろうか。すでにこのことが、〈エ)仮構であハリ、仮説である。」さて、いまの最後の問いに、ニーチェ自身は次のように述べている。「「解釈しているのはいったい誰か」と間うてはならない。そうではなくて、解釈する働きそのものが、力への意志の一形式として実現している、(しかし一(風)っの「存在」とIしてではなく、一つの過程として、|っの生成として)一つの欲情として実現しているのである。」世界を解釈するもの、それはわれわれの欲求であり、われわれの衝動と衝動の賛否である。いずれの衝動も、一種の支配欲である。いずれの衝動も、その遠近法をもっており、自身の遠近法を規範としてその他のすべての衝動に(配)強制-)たいとしている。だから、これまでの解釈は、此のうちで、すなわち力への意志のうちで、刀の生長への怠(伽)志のうちで、われわれの自己保存を可能ならしめる遠近法的評価である。このように、「力への意志が解釈する。:。(邸)解釈は、何J頚)のかを支配して主となるための手段そのものである」とされる。(四〉他方、解釈とは意味を置き入れること、とされた。いったい、それ自体のもののうちに、怠味があるのか。意味(醜)し」は必然的に、まさに関係的意味であり、遠近法であるのではないのか。‐)かも、すべての意味は力への意志であ
る、とされ麺・さらにまた、「世界の価値は、われわれの解釈のうちにある。」解釈とは意味を置き入れる}」とであ
(硬)(劫こり、「われわれの価値は、事物のうちへと解釈し入れられている。」すなわち、解釈はまた価値評価(-どの「(の。颪(‐(Ⅸ) 侭巨ロ、)であり、さらに、「価値評価が「真理」の本質にほかならない。」
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これまで、ニーチェの「解釈」についての論を見てきた。が彼によれば結局、真の認識とされるものは一つの解(肌)釈である、ということになる。だから、「「真理への意志」とは本質的に解釈の技術である」と一一一一口われる。しかし、「真理への意志とは、固定的なものをでっちあげること、真なる。持続的なものをでっちあげること、あの偽りの性格を度外視すること、このものを存在するものへと解釈し変えることである。だから「真理」とは、現存する或るもの、見出され、発見されるべき或るものではなく、つくり出されるべき或るものであり、|っの過程のための名称の役を果たす或るもの、それのみならず、それ自体終わることのない征服の意志のための名称の役を果たす或るもの、のことである。すなわち、真理を置き入れるのは、一つの無限の過程として、一つの能動的に規定する働きとしてであって、それ自体で固定し碓立しているかに見える或るものを意識化することとして、ではない。それ(腿)は、「力への意志」のための一つの用語である。」このように一一一一口われるのも、真理とは認識するものと認識されるそれ自体で存在するものとの一致(囚88口:C)、という見解をニーチェがとらないからである。いやそればかりか、彼は真理への接近ということも斥ける。「「真理」なるものはないがゆえに、決して真理に近づくことはない」とさ(Ⅲ) れる。そして、「多種多様の眼がある。スフィンクスもまた、眼をもっている。したがって多種多様の「真理」がくⅢ)あり、したがっていかなる真鰯もない」と一一『。われる.1次に、ニーチェの「真鯉」についての論をさらに検討してみたい。(以下次号)
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二言・三門・函患・「牽強、修正、簡約、省略、充填、擾造、偽造、その他が、解釈することの本質に属する」と言われている(○三》ロュヰの鈩菖・Z拭瞳)。
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