著者 菅原 伸郎
雑誌名 基督教研究
巻 63
号 2
ページ 9‑15
発行年 2002‑03‑12
権利 基督教研究会
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000004248
東京、名古屋、九州、北海道で発行している朝日新聞には「こころ」というページ がある。宗教を中心として人生を考えるページで、1994 年にその担当となった。その 編集長をやってきたのだが、この肩書は今日が最後で、2 日後には定年になる。引き 続き、嘱託という形で新聞記者は続けるし、同じ紙面を担当もするが、一応、今日が 区切りということで、とてもうれしいお招きである。
「こころ」面の担当になった時、初めは何を書いたらいいか、分からなかった。新 聞記者というのは大体、斬った、張ったという事件を書くものだから、「こころ」と いう動きのない世界をどう書いたらいいか、本当に困った。しかし、1 年後、運悪く というか、オウム事件が起きた。あの事件をきっかけに、何とか宗教を担当する新聞 記者としての役割が見えてきたように思う。
事件の半年後、ロシアへ出張した。当時はソビエトが倒れて数年後だったが、ロシ アではオウム真理教とか、その他、日本でも広まっている某宗教とかが盛んになって いた。70 年も唯物論の教育をしていた国で、どうしてああいうものが広がったのか。
スプートニク以来、科学をあれほど発達させた国でどうして広がったのか、取材して みたのだった。
それから半年後、「宗教と教育」という連載を、2 年半にわたって書いた。なぜ若者 たちがカルトに入ったのか。学校で宗教をきちんと教えていないからではないかとい う意見が出ていた。確かめてみたいと思ったのだ。その連載が拙著『宗教をどう教え るか』(朝日選書)になっているので、関心のある方は読んでいただきたい。
宗教教育について、日本では「宗教は阿片なり」という革新側の人たちと、宗教は 大事だと言いながら、実は支配の道具に使いたいという保守側の、両極端の間で議論 が行われてきた。宗教教育が必要だとか、いや必要じゃないと今も議論があるが、底 流としてはこの二つの流れがあるだろう。しかし、私は、そうした構図ではなく、オ ウム真理教事件を背景に宗教教育を考えてみたい。今日は宗教教育には「根源的な要
「畏敬の念」再考
"Reverence" Revisited
菅 原 伸 郎
Nobuo Sugawara
素」と「迷信的な要素」がある、という立場で話させていただきたい。
公立学校での宗教教育については賛否両論がある。しかし、私はその言葉が曖昧だ と思う。宗教教育には 5 つ種類がある。第 1 に宗教知識教育。これは東大寺ができた とか、十字軍とか島原の乱とか、お釈迦様やイエス様がお生まれになったという、宗 教についての知識を教えるということだ。宗教が人類の一つの文化遺産だと考えるな ら、当然どこの公立の学校であろうと、私立学校であろうと、もっと教えなければい けない。
2 番目に宗派教育がある。宗派、キリスト教、仏教について、お祈りをしたり、儀 式をしたりすることも含めての教育だ。当然ながら、公立学校ではやっていけない。
宗教系の私立学校では大いにやって結構、というジャンルだ。
3 つ目を飛ばして、4 つ目は対宗教安全教育。カルトに気をつけようという教育だ。
教科書できちんと扱い、先生の研修を行えば可能だろうと思う。たとえば、理科の授 業で、空中浮揚ということは起こらないとか、家庭科の授業で消費者教育の一つとし て、霊感商法はおかしいとか、社会科の授業で基本的人権をしっかり教えるとか、あ る程度はできると思う。フランスではそれを具体的にプログラムに組んで、校長先生 や生活指導の先生を中心に国民教育省が音頭をとって、今、広げている最中だ。
5 つ目は宗教寛容教育。これも大事なことではないか。私は昭和 23 年に小学校に入 ったが、振り返ってみて宗教的寛容を教わったことは一度もない。宗教を理由に差別 してはいけないと教わったことはなかった。ドイツでは熱心に行われている。ユダヤ 人を差別した歴史があるので、宗教寛容教育が必修になっている。小学 4 年生から、
イスラム教、ユダヤ教についてキリスト教の宗教教育の中で必ずやることになってい る。日本でも戦後、そういう教育をやるべきだったろう。たとえば、この間、小泉首 相が靖国神社に参拝したが、内閣総理大臣が一宗教団体に参拝することが他の宗教の 人たちに対してどういう心の痛みを与えるのか、知っているべきだった。小泉さんは 私と同じ年だが、宗教的寛容ということを習っていれば、ああいうことは起きなかっ たはずだ。
問題は 3 番目の宗教的情操教育である。沖田先生がお話しになったように、明治 32 年の訓令 12 号で、日本の国公立のすべての学校から宗教の指導が排除された。ただ し、神社は宗教ではないという論理で、神社参拝は行われた。しかし、戦争に行って 死ななければならない兵隊に、神社の禊ぎとお祓いだけでは死ぬ覚悟は教えられない。
もう少し何とかできないかという発想が根底にあったのだろう。その中から宗教的情 操教育が教育界の中で議論されるようになり、さっきのお話のような指令になった。
戦後も引き続き宗教的情操教育が何とか取り組めないかと継承されてきた。最近では
「命の大切さを教えよう」といった「心の教育」もそうかもしれない。
これは議論の分かれる分野であり、特定の宗教に偏らない宗教的情操、宗教心はあ りえるか、戦後ずっと議論されてきた。これについては、私の本にも書いてあるので、
今回は別の角度から話させていただきたい。「畏敬の念」のことだ。文部科学省は現 在の学習指導要領の中に、道徳の時間の中で「人間尊重の精神と生命に対する畏敬の 念を家庭、学校、その他社会における具体的な生活の中に生かし」としている。この
「畏敬の念」という言葉は、1966 年に発表された中央教育審議会の「期待される人間 像」の中で登場した。「生命の根源すなわち聖なるものに対する畏敬の念が真の宗教 的情操であり、人間の尊厳と愛もそれに基づき、深い感謝の念もそこからわき、真の 幸福もそれに基づく」となっている。多分、主査を務めた哲学者の高坂正顕さんが書 いたのだろうが、「聖なるもの」という言葉は、ルドルフ・オットーの『聖なるもの』
という、岩波文庫から出ている名著が念頭にあったのではないか。
「期待される人間像」では、あくまで「聖なるものに対する畏敬の念」と書いてあっ た。ところが数年後、昭和 40 年代半ば、これが具体化される中で「聖なるもの」とい う言葉が「人間の力を超えたものへの畏敬の念」「生命への畏敬の念」というふうに変 わる。「聖なるもの」と言うと、どうしても宗教的なニュアンスがあるので、やめたの だろう。文部省の中でいろいろ議論があったらしいが、結果としては現行の形になって いる。いまの「中学校学習指導要領・解説・道徳編」を読むと、こういう説明がある。
「畏敬とは『敬う』という意味では尊敬・尊重と『畏怖』、すなわち尊い者を傷つけたり 踏みにじったりすることを禁じる気持ち」となっている。「指導にあたっては自然や芸 術作品などに出会ったときの『感動や畏怖の念、不思議』を大切にし、『有限な人間の 力を超えたものを謙虚に受け止める心』を育てる」と書かれている。
「畏敬の念」を教えるとは、実際はどう行われているだろうか。学校を回って先生と 話をしたり、副読本とか授業研究書を見ていくと、大抵は「畏敬の念」と言っても、自 然への驚嘆を教えているようだ。たとえば、天の川は美しいとか、サナギが蝶になる瞬 間を見て感動するとか、そういう話が多く載っている。これは大事なことだと思う。環 境問題とか生命倫理の指導には向いているとも思う。しかし、こういう驚きの感情から は、超越的存在とか救いとか罪とか、慈悲という、宗教の本当の問題にはまだまだ距離 があるのではないか。旧約聖書「申命記」には「天を仰ぎ、太陽、月、星といった天の 万象を見て、これらに惑わされ、ひれ伏し仕えてはならない」という言葉もあり、自然 への驚きイコール神の信仰ととらえてはいけない、と戒めているはずだ。
もちろん道徳教育の副読本には、命懸けの冒険をした人とか、肉親が病気になったと か、人生の危機に出会った主人公の祈りの気持ちとか、大いなるものへの関心という物
語がないわけではない。しかしどこまで踏み込むか、先生たちも苦労しているようだ。
仏と神の区別がつかない先生も多いのが現状だから。西行法師が伊勢神宮に行った時、
「何事のおはしますかは知らねども、かたじけなさに涙こぼるる」という有名な歌を詠 んだが、何だか分からないということでは学校では教えられない。現実に学校の先生た ちはどうやっているか。「何事もおはしまさぬと知りながら世の人並みにぬかづけりけ り」という戯れ歌があるそうだが、そんな気持ちではないか。校庭で飼っていたウサギ が死んだ時に、先生たちはそんな気持ちで頭を下げているのではないか。
鈴木大拙さんが「信仰宗教と迷信邪教」という短い論文を書いている。その中にこ ういう文章があった。「自分の力の及ばぬところに何かを求めるといふことは、いつ も不安の状態を起すものである。力及ばずのところは吾不關焉(われ関せず)でおけ ばよいのだが、どうもさう行かぬところがあるので、捨てるには捨てられず、取らう にも取られず、いつも不安の心におびやかされてゐるのが吾等凡夫の生活である」。
この文章に出会った時、ああそうか、そうだったのかと思った。学習指導要領で言 っている「畏敬の念」とは何か。大拙さんに言わせれば、それは「不安の心」という ことになるだろう。「人間の力を超えたもの」にしても「力及ばずのところ」を指し ているのではないか。そうであれば、不思議なものを無批判に畏怖することを学校で 教えていることになる。「畏敬の念」の指導は、呪術の世界に通ずる要素があるので はないか。あえて言えば、カルトや迷信に対する批判力を削ぐことにならないかと心 配している。
日本の教育界での「畏敬の念」という概念は、アルベルト・シュヴァイツァー博士 が提唱した「生への畏敬」という概念に影響されているだろう。日本の仏教がアニミ ズム的な風土の中で発展させた「草木国土悉皆成仏」、草や木にも仏性があるという 考え方があるが、それに通ずるものとしてシュヴァイツァー博士の「生への畏敬」を 取り上げたのではないか。しかし、よくよく考えてみると、ちょっとおかしい。「畏 敬の念」を教育界に取り入れた当時、仏教の人は仏性を考えただろう。神道の人は御 霊、みたまを考えた。キリスト教の人は霊、プネウマを考えたかもしれない。それぞ れ自分たち流に考えて、それを「聖なるもの」として考えたのだ。当時のことを知る 人に取材したが、「あまり議論はなかったんですよ」ということだった。つまり、そ れぞれが全く違う概念を思いながら、何となく「命」という言葉、「心」という言葉 で合意してきたのが、現在の日本の教育ではないか。教育学者、教育現場の方たちと お話しすると、はっきり言って、かなり怪しい宗教理解の方もおられる。沖縄にはユ タという職業があり、青森県下北半島の恐山にはイタコという女性もいるが、そうい う霊魂観に近い人もかなりいるのではないか、と見ている。
少し乱暴なことを話すことになるが、そもそも宗教にとって「おそれ」は必須条件 なのだろうか。確かに旧約聖書には「主を畏れ、敬え、主を畏れる人には何も欠ける ことかない」という言葉が出てくる。「おそれ」を持つということが宗教的人間の必 須条件のように書かれている。日本聖書協会が出している新共同訳は、神に対する畏 れは「畏れ」の字を使っている。一方で、雷とかライオンとか偶像に対するおそれは
「恐れ」を使っている。CD − ROM 版の新共同訳聖書を開くと、この二つの区別がは っきりわかる。旧約聖書全体では「畏」という字を使った畏れ、つまり神への畏れは 263 回ある。しかし新約聖書では、全体で 25 回しか出てこない。10 分の 1 以下だ。し かもイエスご自身が登場する4福音書では3回しか出てこない。そのうちの 1 回は、
身籠もった時に発したマリアの言葉だ。イエスご自身は「畏れ」という言葉を 2 回し か使っていない。両方、同じ章にある言葉で、「神を畏れず、人を人とも思わない裁 判官がいた」という「ヤモメと裁判官」という見出しのついたルカ 18 章だ。旧約聖 書で 263 回も出ていた言葉が、イエスになって、福音書には 3 回しか出てこないとは どういうことか。ユダヤ教からキリスト教に移った時に、イエスという新しい指導者 によって父権的な威圧的な神への畏怖感情が変質したのではないかと思う。
仏教については、仏様は「畏れ」の対象ではないということだ。確かにお寺に行く と金剛力士像とかが恐い顔をして立っているが、あれは古代のインドの神々を引き継 いでいるだけだ。太秦の広隆寺の弥勒菩薩像などを見て、「畏れ」という感情はどう しても湧いてこない。中村元さんの『仏教語大辞典』で調べると、仏教語に「畏れ」
という字はほとんどない。あるのは「施無畏」という言葉くらいだ。これは観音様の 別名で、「おそれるな」という意味だ。
西田幾多郎さんに「仏教に於て観ずると云ふことは、対象的に外に仏を観ることで はなくして、自己の根源を照すこと、省ることである。外に神を見ると云ふならば、
それは魔法に過ぎない」(「場所的論理と宗教的世界観」)という言葉がある。おそれ にしろ何にしろ、外に対して対象を持たないことが仏教の本質だろうと思う。親鸞聖 人の言葉で、真宗の方たちが日常的に読んでおられる『正信念仏偈』に《南天竺に龍 樹大士世に出て、ことごとくよく有無の見を摧破(ざいは)せん》という言葉がある。
これは「外におそれの対象を持つことはおかしい。そんなものは破ってしまえ」と言 っているのだ。「諸法無我」が仏教の本質だから、西田さんがいう通り、畏怖という のは迷いに過ぎないことになる。
「畏怖の念」というのは、科学が未発達な時代の宗教観ではないか。雷とか伝染病 とか日蝕とかを見ておそれおののいて、そこに神を見たのだ。あえていえば呪術とか シャーマニズムの世界ではないかと思う。よくよく考えてみると、自然への驚きとか、
私がここになぜ在るのかという実存的な問いは、そもそもが畏怖とは関係ないはずだ。
素直な美的感動であって、わざわざ恐ろしいという感情を持ち込む必要はないのだ。
未知なもの、美しいもの、不可解なものが、イコール神仏への畏怖ということにはな らないはずである。
教師が宗教における迷信的な要素を信じ込んで強制的に教えることは危ういと思っ ている。ルソーは『エミール』の中で「神の奇怪な姿を子どもの精神にきざみつける ことの大きな弊害は、それが一生のあいだ子どもの脳裏に残っていて、大人になって も子どもじみた神のほかには神というものを考えなくなることだ」と言っている。
このあたりについては議論がいろいろあると思うが、ともかく「畏敬の念」「畏怖 の念」についてはもう少し考えないといけない。カルト対策を学校で教えるために、
これは避けて通れない議論なのだ。呪術やカルトと本当の宗教を明確に区別すること ができなければ、学校で宗教を教えることはできないと思う。
そうは言っても、そこまでの議論はなかなか難しいかもしれない。とりあえずの方 法としては、小さい変更で済ませるのなら、「畏敬の念」ということはやめて「敬虔 の念」という言葉を使ってはどうか。ともかく、今後の「道徳」や「心の教育」の指 導では、おそろしいという畏怖感情を教えることをやめ、キリスト教で言えば、遠藤 周作さんが「父権的でないキリスト教」「母性的な宗教観」を何度もおっしゃってい たが、そういう感情から宗教を教えるべきではないか。あるいは、「目覚め」という ことを前提にした教育にすべきではないだろうか。
たとえば、公立学校でもできることだと思うが、孤独ということをもっと大切にす べきではないか。今の若者は孤独がなさすぎる。学校へ行く途中でも電車の中で携帯 電話で友だちと話す。子ども部屋にいてもインターネットでおしゃべりをしている。
私が取材したドイツのカトリックの学校では、毎年、高校 2 年生を連れて近くの修道 院に行く。「その日は 1 日何もしゃべらない」という条件で連れていくそうだが、お 会いした宗教担当の先生は「それによって劇的に変わる子どもがいます」と話してい た。沈黙は大切な指導なのだ。
死ということを正面から教えることも大事だ。上智大学のアルフォンス・デーケン 教授が「死への準備教育」を 20 年近く唱えておられる。デーケンさんの授業では、
末期がんの患者に授業に来ていただき、子どもたちの前で「あなたはあと 3 か月だそ うですが、ご気分はどうですか」といった話を聞く。がんの告知について語り合う、
といった授業もできるはずだ。
結論になるが、今、伝統宗教が急に勢いを盛り返すことは考えられないと思う。こ れからは唯物論の人、宗教嫌いの人も皆、快く受け入れる方法を見つけなければいけ ない。そうしなければ、道徳教育も宗教教育も「心の教育」も成り立たない時代だ。
宗教系の学校で行われている宗派教育、ソビエトの唯物論教育、フランスで公民教育、
そして日本の公立学校での道徳教育を見て、それぞれに限界があると思った。それら を 21 世紀はどう乗り越えていくか。あえて言えば、宗教にある迷信的な部分、と言 えば、お叱りを受けるかもしれないが、そういう要素を排除した「根源的な部分」を まず大事に教えることだ。あえて言えば「根源的な目覚め」ということであり、それ を目指して、「宗教的情操教育」というよりは「根源的情操教育」に取り組むことが できないだろうか。そんなことを提案して、一回目の話を終わることにしたい。