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有間皇子をめく?る歌群の形成と紀伊国行幸

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(1)

有間皇子をめく?る歌群の形成と紀伊国行幸

著者 駒木 敏

雑誌名 同志社国文学

号 81

ページ 30‑45

発行年 2014‑11‑20

権利 同志社大学国文学会

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000014303

(2)

有 間 皇 子 を め ぐ る 歌 群 の 形 成 と 紀 伊 国 行 幸

駒 木

はじ めに 万葉 集の 有間 皇子 に関 係す る歌 は︑ 大き く二 つの 流れ にま とめ ら れる

︒一 つは

︑次 節に

︿Ⅰ 有間 皇子 関係 歌群

﹀と して 示し た︑ 巻二 の挽 歌部 に収 める 六首 の一 連で ある

︒も う一 つは

︑二 節に 示し た

︿Ⅱ 持統 四年 の紀 伊行 幸歌

﹀︑ 及び 三節 に示 した

︿Ⅲ 大宝 元年 の紀 伊 国行 幸歌

﹀の それ ぞれ の歌 群で あり

︑そ の中 にい くつ か有 間皇 子歌 を踏 まえ た歌 が存 在す る︒ 端的 にい えば

︑Ⅰ は有 間皇 子の 辞世 歌と それ に続 く追 悼歌 群︵ 挽 歌︶ とし て︑

Ⅱは その 時々 の行 幸歌 群︵ 雑歌

︶と して

︑集 中で はそ れぞ れに 異な った 歌の あり 方を 持た され てい る︒ しか し︑ 二つ の流 れに つい て有 間皇 子歌 を媒 介項 にし て検 討し てい くと

︑そ れら はあ る部 分で 緊密 に関 連し てい るこ とが 知ら れる

まず 前者 は︑

﹁事 件﹂ の当 事者 たる 有間 皇子 の歌 と︑ 皇子 の歌 に 関わ りな がら その 悲劇 を共 有し

︑悲 嘆す る内 容の 歌群 であ る︒ 巻二 の編 集者 が有 間皇 子の 歌と それ に関 係す る歌 を一 連に 並べ て︑ 皇子 に対 する 追慕 の思 いを 主題 とす る歌 群を 構成 した ので ある

︒有 間皇 子以 外の 歌は

︑す べて 後世 の人 たち の歌 であ る︒ 万葉 集で は︑ ある 人の 歌に 時間 を隔 てて 追和 する とい う形 式が ある が︑ 今の 場合 のよ うに

︑過 去の ある 人の 歌を 想起 し︑ 後の 時代 の人 たち が︑ 数次 にわ たり それ に和 して いる 現象 は珍 しい

︒有 間皇 子事 件

皇子 が謀 反 の罪 に問 われ

︑紀 伊路 に松 を結 んで 祈り の歌 を歌 い︑ 短い 生涯 を閉 じた こと は

︑数 十年 の後 まで も語 り継 がれ てい たこ とに なる

︒ 本稿 は︑ 巻二 の歌 を中 心に 据え て︑ 他の 巻の 関係 歌も 関連 させ つつ

︑ 有間 皇子 関係 の歌 群の 内実 の一 端を 考察 する こと にす る︒

有間 皇子 をめ ぐる 歌群 の形 成と 紀伊 国行 幸

三〇

(3)

一 有間 皇子 関係 の歌 群 初め に︑ 巻二

﹁挽 歌﹂ 部冒 頭の 有間 皇子 の歌 をめ ぐる 一群

︵有 間 皇子 関係 歌群

︶を あげ

︑全 体を 確認 して おこ う︵ 記号 は便 宜の ため に付 した

︶︒

︿Ⅰ 有間 皇子 関係 歌群

︵巻 二︶

有間 皇子

︑自 ら傷 みて 松が 枝 を結 ぶ歌 二首

① 磐代 の 浜松 が枝 を 引き 結び ま幸 くあ らば また かへ り 見む

︵二

・一 四一

② 家に あれ ば 笥 に盛 る飯 を 草枕 旅に しあ れば 椎の 葉に 盛る

︵二

・一 四二

長忌 寸

︑結 び松 を見 て哀 しび 咽

ふ歌 二首

③ 磐代 の 崖

の松 が枝 結び けむ 人は かへ りて また 見け む かも

︵二

・一 四三

④ 磐代 の 野中 に立 てる

結び 松 心も 解け ず 古 思ほ ゆ

︿

二・ 一四 四︶ 山上 臣憶 良の 追和 する 歌一 首

⑤ 翼 なす あり 通ひ つつ

見ら めど も 人こ そ知 らね 松は 知る らむ

︵二

・一 四五

︶ 右の 件の 歌ど もは

︑柩 を挽 く時 に作 る所 にあ らず と

いへ ども

︑歌 の意 を准 す︒ 故

に挽 歌の 類に 載す

大宝 元年 辛丑

︑紀 伊国 に幸 す時 に︑ 結び 松を 見る 歌一 首︿

⑥ 後見 むと 君が 結べ る 磐代 の 小松 がう れを また 見け む かも

︵二

・一 四六

︶ 歌群 は︑

⒜有 間皇 子の 歌︑

⒝意 吉麻 呂の 歌と 憶良 の歌

︑⒞ 人麻 呂 歌集 の歌 の三 つの 要素 に分 けら れる

︒つ まり

︑最 初に 斉明 朝に 歌わ れた 有間 皇子 の歌 があ り︑ その 後︑ 長意 吉麻 呂が 有間 を偲 ぶ歌 を歌 って 憶良 がそ れに 自ら の思 いを 和し

︑最 後は 人麻 呂歌 集の 歌︵

⑥が 人麻 呂歌 集に 属す るも のか どう かに つい ては

︑四 節で 触れ るよ うに

︑ 問題 を残 す︒ この 点を も含 めて

︑以 下本 稿で は︿ 歌集 歌﹀ と表 記す るこ とが ある

︶が 大宝 年間 に︑ 同じ よう に有 間へ の思 いを 歌っ た︑ これ が歌 群の 示す 世界 であ る︒ 冒頭 の有 間皇 子の 歌は

﹁自 傷歌

﹂︑ つま り辞 世歌 であ り︑ 斉明 四 年に 謀叛 のこ とを 告発 され

︑紀 伊国 に送 られ る道 中の 歌で ある

︒① には

﹁磐 代﹂

︵和 歌山 県日 高郡 南部 町岩 代︶ の地 名が 詠ま れて いる

︒ ほぼ 同時 期の もの と思 われ る中 皇命 の歌

︵左 注の

﹃類 聚歌 林﹄ では 斉明 天皇 歌︶ にも

﹁君 が代 も我 が代 も知 るや 磐代 の岡 の草 根を いざ 結び てな

﹂︵ 一・ 一〇

︶と あり

︑や はり 磐代 の岡 に草 を結 び生 命の 無事 を祈 る歌 があ る︒ 磐代 は印 南側 から は切 目山 を越 えて 海岸 にで 有間 皇子 をめ ぐる 歌群 の形 成と 紀伊 国行 幸

三一

(4)

た所

︵南 部側 から は峠 に差 しか かる 所︶ で︑ 旅の 安全 を祈 る神 聖な 場所 であ った と推 定さ れる

︵後 の熊 野街 道の 要衝 でも ある

︶︒ 有間 皇子 の① は︑ 一応 旅中 にあ って 生命 の無 事を 祈願 する 歌と 理解 され る︒ ただ

︑す でに 指摘 があ るよ うに

︑﹁ また かへ り見 む﹂ の類 型句 をも つ歌 のな かで

︑﹁ 真幸 くあ らば

~ま たか へり 見む

﹂と いう 条件 法の 表現 は類 型か らは 突出 して いる

︒ま た﹁ 幸く

﹂と 願望 する 言葉

︵歌

︶は

﹁始 めは 自然 や人 事の 双方 にわ たっ て﹂ 使用 され るも ので あっ たが

︑﹁

﹃真 幸く あら ば﹄ とい う仮 定で 表さ れる とこ ろに 暗さ が 感じ られ

︑そ こに

﹁皇 子の 心の 亀裂 があ り悲 劇が ある

﹂と いわ れる

︒ そこ に題 詞に おい て﹁ 自傷

﹂と され る︑ この 歌の 実質 があ ろう

︒ 次の

②は

︑旅 の不 自由 を託 つ歌 であ ろう

︒一 説に

﹁椎 の葉 に盛 る﹂

﹁飯

﹂は 神へ の供 えを 意味 し︑ これ は旅 先で の身 の安 全を 祈願 する 歌だ とい う解 釈も ある が︑ 状況 には そぐ わな い

とい われ る通 り で︑

︿家

﹀と

︿旅

﹀と を対 比し て︑ 旅先 にお ける 食事 の不 便︵ つま りは 旅の 辛さ

︶を 嘆い た歌 と解 され る︒ 構成 にお ける

︿旅 と家 の対 比﹀ とい う発 想の 枠組 み

は明 確で あり

︑基 本は 典型 的な 旅の 歌と 捉 えら れる

︒ さて

︑有 間の 歌に は自 作か 他作

︵仮 託︶ かと いう 問題 があ る︒ 自 作と する こと への 疑い は謀 叛を 告発 され 逮捕 され

︑慌 しく 都か ら

﹁紀 の温 湯︵ 牟婁 の温 湯︶

﹂ま で護 送さ れる 状況 十

月九 日に 護送

され

︑訊 問を 受け て藤 白坂

︵海 南市 藤白

︶に 処刑 され たの は十 一日 の

中で

︑歌 を詠 む時 間的

︑心 理的 余裕 はな かっ たで あろ うと す る立 場か らの 提言 であ る

︒そ こで 主張 され るの が仮 託論 で︑ 折口 信 夫

以来 の論 があ る︒ いま 本稿 はこ の論 議に 関わ らず

︑皇 子の 歌と し て考 察し てゆ く︒ ここ では

︑そ れが 仮託 であ った とし ても

︑皇 子の 死後 そう 時間 をお かず に形 成さ れた であ ろう と想 定し てお こう

︒後 で触 れる よう に︑ 三十 二年 後の 持統 四年 には 有間 を追 悼︑ 追慕 する 歌が 存在 して いる

︒そ して

︑﹁ 有間 皇子 の歌

﹂へ の共 通の 了解 がな けれ ば︑ 後人 がゆ かり の場 所で 有間 歌を 踏ま えた 追慕 の歌 を構 想す るこ とは でき ない

︒ この よう にな お問 題は 残さ れて いる が︑ 有間 皇子 の﹁ 磐代

﹂に お ける 二首 は︑ 罪人 とし て﹁ 死﹂ に向 かう 有間 の紀 伊へ の旅 と結 びつ いて 歌わ れ︑ 皇子 の悲 劇を 伝え るも のと して 受容 され てい たと 考え るこ とが でき る︒ また

︑﹁ 自傷 歌﹂ は二 首な ので ある が︑ 後に 有間 皇子 の辞 世歌 が 問題 にさ れる とき には

︑も っぱ ら﹁ 磐代 の﹂

﹁浜 松が 枝を 引き 結び

﹂ とあ る第 一首 目で ある とい う意 識も

︑早 い時 期か ら定 着し てい たよ うで ある

有間 皇子 をめ ぐる 歌群 の形 成と 紀伊 国行 幸

三二

(5)

二︱

㈠ 持統 天皇 四年 の紀 伊行 幸歌 有間 皇子 を追 悼す る歌 は︑ 巻二 の歌 群の ほか にも 存在 する

︒そ の うち

︑持 統四 年の 紀伊 国行 幸の 歌は

︑巻 二歌 群と の直 接関 係は もた ない が︑ 有間 皇子 追悼 歌群 の始 発を なす もの であ る︒ まず 持統 朝の 紀伊 行幸 は︑ 持統 天皇 四年

︵6 90

︶の 九月 十三 日~ 二十 四日 の十 一日 間で ある

︒当 年の 一月 には 持統 天皇

︵鸕 野讃 良皇 女︶ が即 位し てい る︒ この 行幸 は﹃ 続紀

﹄に よれ ば﹁ 紀伊 を 巡 行

むと す﹂

︵九 月十 一日 条︶ とあ り︑ 目的 地は 定か でな いけ れど も︑ 次に 掲げ る川 嶋皇 子の 歌に よれ ば︑ 有間 皇子 にゆ かり の﹁ 浜松 の 木﹂ が詠 み込 まれ てい るか ら︑

﹁磐 代﹂

︵日 高郡 南部 町岩 代︶ を通 っ てい るの は確 実で ある

︒万 葉歌 によ って

︑そ の目 的地 は紀 の温 湯で あっ たこ とが 傍証 され る︒ 関連 する 歌を 挙げ よう

︿Ⅱ 持統 四年 の紀 伊国 行幸 歌︵ 巻一

︶﹀ 紀伊 国に 幸す 時に

︑川 嶋皇 子の 作ら す歌

︿

① 白波 の 浜松 が枝 の 手向 けく さ 幾代 まで にか 年の 経ぬ らむ

︿

︵一

・三 四︶ 日本 紀に 曰く

︑﹁ 朱鳥 四年 庚寅 の秋 九月

︑天 皇紀 伊国 に 幸す

﹂と いふ

勢能 山を 越ゆ る時 に︑ 阿閉 皇女 の作 らす 歌

② これ やこ の 倭に して は 我 が恋 ふる

紀路 にあ りと いふ 名に 負ふ 背の 山︵ 一・ 三五

︶ さて

①は

︑題 詞に

﹁川 嶋皇 子の 作ら す歌

﹂と しな がら

︑注 記に

﹁山 上臣 憶良 の作 なり

﹂の 異伝 を記 して いる

︒さ らに は巻 九︵ 一七 一六 番︶ に次 のよ うな 形で 重出 歌が 載せ られ てい る︒ 山上 の歌

①′

白波 の 浜松 の木 の 手向 くさ 幾代 まで にか 年は 経ぬ ら む 右の 一首

︑或 は云 はく

︑川 嶋皇 子の 御 なり とい ふ︒ 巻九 では

︑題 詞に

﹁山 上の 歌﹂ とし

︑左 注に

﹁或 は曰 く﹃ 川嶋 皇子 の御 作歌 なり

﹄と いふ

﹂と 記し

︑作 者に つい ては 巻一 と逆 の所 伝を 示し てい る︒ また 表現 にも いく つか の相 違が あり

︑小 異な がら 輻輳 した 異伝 をも って いる

︒諸 注が 指摘 する よう に︑ 同じ 歌が 別ル ート を経 て定 着し たも ので あろ う︒ 作者 につ いて は︑ 歌の 実質 的作 者と 形式 的作 者の 関係 を反 映し た表 記で あり

︑実 質的 には 川嶋 皇子 の意 向を 体し て憶 良が 制作 した ので あろ う︒ 集団 の共 有性 をも つ前 期万 葉の 歌に はよ く見 られ る特 徴で ある

︒︵ 以下

︑こ の歌 につ いて は

︿川 嶋= 憶良 歌﹀ と表 記す る場 合が ある

︶︒ ただ しこ の歌 は︑

﹁白 波の

﹂︵ 次句

﹁浜 松﹂ を意 識し た枕 詞的 修 有間 皇子 をめ ぐる 歌群 の形 成と 紀伊 国行 幸

三三

(6)

辞︶ 打ち 寄せ る海 浜の 松の 木に 幣が 供え られ てい るこ とを 歌う ので あり

︑背 景が わか らな けれ ば︑ 単な る回 想の 歌と 受け 取ら れか ねな い︒ これ を持 統四 年の 行幸 時の 歌と する こと につ いて は︑ 行幸 の行 程や 目的 地が 定か でな いこ とや

︑残 され た歌 にも 手が かり とな る地 名が ない こと など から

︑﹁ 磐代

﹂で の有 間歌 を回 顧し た歌 とす るこ とに 否定 的な 見解 もあ る︒ けれ ども

︑こ れを 有間 の① の﹁ 磐代 の浜 松が 枝を 引き 結び

﹂と 重ね ると きに

︑そ れは 皇子 の結 んだ 松で ある こと にな ろう

︒中 西進 氏が

﹁浜 松が 枝﹂ の表 現に つい て︑

﹁他 なら ぬ有 間皇 子の 用語 であ る

﹂と して 有間 歌と の対 応を 指摘 され たこ と が想 起さ れる

︒こ うし て︑

﹁幾 代ま でに か年 の経 ぬら む︿ 年は 経に けむ

﹀﹂ の表 現は

︑皇 子が 松を 結ん で祈 った 時か ら今 に至 る時 間の 経過 を指 して いる

︒そ して

︑時 間の 経過 は﹁ 手向 けく さ﹂ を対 象に して いる ので ある から

︑手 向け はそ の死 を悼 んで の供 え物 をい って いる こと にな る︒ 磐代 が旅 の安 全を 祈る 場所 であ った とす ると

﹁手 向け くさ

﹂は この 地の 松の 木に 道行 く人 が捧 げ続 けて きた 幣と 理解 する こと も可 能で ある が︑

﹁浜 松が 枝の

﹂と いう 修飾 句が 付い てい る以 上︑ 有間 にゆ かり の﹁ 松の 木﹂ に捧 げら れた 幣と する のが 自然 な解 であ る︒ ポイ ント は﹁ 浜松 が枝

﹂と いう こと にな る︒ こう 考え てく ると

︑こ の︿ 川嶋

=憶 良歌

﹀に は︑ 有間 の自 傷歌 と その 詠じ られ た場 とが

︑む しろ 意識 的に 踏ま えら れて いた 見て よい

ここ に︑

﹁︵ 引き 結ば れた

︶浜 松が 枝﹂ をキ ーワ ード とし て皇 子を 偲 んで ゆく 以後 の歌 の方 向が 決定 され たの であ る︒ さら に︑

︿川 嶋= 憶良 歌﹀ の伝 来に つい ては 興味 深い 現象 もあ る︒ 巻一

︵三 四番

︶と 巻九

︵一 七一 六番

︶と では 作者 異伝 のみ なら ず︑ 先に も触 れた 表現

︵助 詞・ 助動 詞の 用法

︶の 面で の微 妙な 異な りが ある 本 ︒ 文 白波 の浜 松が 枝の 手向 けく さ幾 代ま でに か年 の経 ぬら む

﹇之 枝乃

﹇年 乃経 去良 武] 異伝

㈠ 白波 の浜 松が 枝の 手向 けく さ幾 代ま でに か年 は経 にけ む

﹇年 者経 尓計 武] 異伝

㈡ 白波 の浜 松の 木の 手向 けく さ幾 代ま でに か年 は経 ぬら む

﹇之 木乃

﹇年 薄経 濫] 三通 りの 表現

︵表 記︶ があ るこ とに なる

︒口 承の 方法 によ る伝 誦の 過程 が三 つの 異な りと なり

︑そ れが 資料 のル ート の違 いに よっ て︑ 表記 に定 着し たの であ ろう

︒見 方を 変え ると

︑こ の歌 は当 時︵ 持統 朝︶ の宮 廷社 会に おい て広 く知 られ

︑定 着し てい たと いう こと でも ある 持 ︒ 統四 年の 行幸 時に おい て︑ 三十 二年 前の 有間 皇子 事件 に関 連す る歌 が歌 われ たこ と︑ ひい ては それ が宮 廷社 会で 広く 流布 され てい たこ とは

︑改 めて 確認 して おい てよ いと 思わ れる

有間 皇子 をめ ぐる 歌群 の形 成と 紀伊 国行 幸

三四

(7)

二︱

㈡ 阿閉 皇女 の歌 さて

︑も う一 首は

②の

﹁勢 能山 を越 ゆる 時に

︑阿 閉皇 女の 作ら す 歌﹂

︵一

・三 五︶ であ る︒ 阿閉 皇女

︵天 智皇 女︒ 元明 天皇

︶は 草壁 皇太 子の 妃で あり

︑草 壁は この 前年 四月 十三 日に 逝去

︵二 十八 歳︶ して いる

︒歌 は︑ 磐代 より はず っと 手前 の﹁ 背の 山︵ 和歌 山県 伊都 郡か つら ぎ町

︶で のも のだ が︑ 背の 山に 懸け て夫 を思 うこ の歌 には

︑ 夫の 草壁 皇太 子を 失っ た妻 の嘆 きが こめ られ てい ると の読 みは 定着 して いる とい って よい

︒﹁ 背の 山︵ 妹背 の山

︶﹂ を見 て︑ その 景物 か ら恋 の趣 向に 転じ て興 ずる のは 紀伊 路を 通る 歌の 一般 であ るが

︑今 の場 合は

︑歌 い手 にと って 夫を 亡く した のが 前の 年で ある こと に思 いを いた せば

︑歌 の裏 側に 夫へ の哀 惜の 念を 見る のが むし ろ自 然で あろ う︒ 倭に あり 夫へ の追 憶の 思い にあ る﹁ 我﹂ が︑ 紀伊 路に 来て

︑ やっ と﹁ 背︵ の山

︶﹂ にま みえ るこ とが でき たと いう 追憶 と解 放感 との 綯い 交ぜ られ たよ うな 思い を︑ 口語 的諧 調の なか で表 現し た歌 と理 解さ れる

︒ ここ で考 えて おき たい のは

︑持 統四 年の 行幸 の歌 二首 がと もに 亡 き人 を回 顧す る点 で共 通す るこ とで ある

︒こ れは 単な る偶 然で あろ うか

︒こ の折 の歌 が二 首だ けだ った のか どう かは は分 から ない

︒ま た︑ そう 考え るに して は︑ 片や

﹁背 の山

﹂︑ 片や

﹁︵ 磐代 の︶ 浜松 の

木﹂ と︑ 二つ の歌 の詠 まれ た地 点は ずい ぶん 距離 的に 離れ てい る︒ 想像 をた くま しく すれ ば︑ この 時の 行幸 でも

︑歌 が歌 われ る機 会が あっ たの だか ら︑ 場所 や景 物の 讃美

︑旅 情や 望郷 の思 いな どを 含め た多 くの 歌が 詠ま れた 可能 性は 否定 でき ない

︵持 統朝 の他 の行 幸で は歌 が多 く歌 われ てい る︶

︒つ まり

︑﹁ 浜松 が枝

﹂に 有間 を偲 び︑

﹁背 の山

﹂に 亡き 草壁 を偲 ぶ二 首が 並ん で記 載さ れて いる 背後 には

︑ 何ら かの 意図 や必 然性 が感 じら れる

︒歌 い手 はと もに 天智 天皇 の皇 子女 であ り︵ 川嶋 皇子 は天 智天 皇の 第二 皇子

︑阿 閉皇 女は 第四 皇 女︶

︑歌 の主 題も 松の 木や 背山 など の景 物を 対象 にし て︑ 若く して 亡く なっ た皇 子た ちへ の追 憶で ある 点で 共通 して いる から であ る︒ 皇女 の歌 には

︑そ のよ うな 夫を 追悼 する 意図 もあ った とし てよ いだ ろう

︒一 方の

︿川 嶋= 憶良 歌﹀ も︑ 亡き 皇子 への 追悼 の思 いに 貫か れて いる ので あり

︑二 つは 同じ 場で のも ので はな いに せよ

︑奇 しく も行 幸従 駕歌 であ りな がら

︑悲 しい 過去 への 回想

︑追 悼の 思い を込 めた もの とな って いる

︒た また まそ うな った とい うよ り︑ この 度の 行幸 歌の 一面 とし て確 かめ てお こう

︒ 三︱

㈠ 大宝 元年 の紀 伊国 行幸 歌 次は 大宝 元年 の行 幸と の関 係で ある

︒実 は巻 二の 有間 皇子 関係 歌 群は

︑憶 良の 追和 歌︵

⒝︱

⑤︶ を除 いて

︑す べて 大宝 時行 幸の 作 有間 皇子 をめ ぐる 歌群 の形 成と 紀伊 国行 幸

三五

(8)

によ り構 成さ れて いる よう であ る︒ 三首 とも

﹁磐 代﹂ での 歌で ある

︒ 制作 の時 点に つい ては 別の 見方 もあ る意 吉麻 呂の 二首 と︑ それ に追 和し た憶 良歌 の連 関か ら考 察を はじ めよ う︒ まず 意吉 麻呂 歌の 成立 時点 につ いて は︑ これ らが

﹁大 宝元 年辛 丑

~﹂ の題 詞を 伴う 歌集 歌と は一 四五 の左 注を 挟ん で分 断さ れて いる ので

︑大 宝時 の作 とは 見ら れな いと の判 断も ある

︒と する と残 るは 持統 四年 時以 外に はな く︑ 橋本 達雄

︑中 西進 氏な どは 意吉 麻呂 歌を 持統 四年 の作 とし

︑ほ ぼ同 時に 憶良 の追 和が あっ たと 推測 され てい る

︒こ の見 解は 大宝 元年 の行 幸時 に憶 良が 日本 にい なか った こと を 踏ま え︵ 後述

︶︑ 憶良 の﹁ 追和

﹂の 時点 を早 い時 期に 遡ら せよ うと する ので ある が︑

﹁追 和﹂ は集 中の 事例 に照 らし ても 時間 を隔 てた 場合 の歌 の方 法と 見ら れる

︵澤 瀉﹃ 注釈

﹄︶ から

︑必 ずし も意 吉麻 呂歌 の制 作時 まで 遡ら せる 必要 はな い︒ 一方 で︑ 長意 吉麻 呂の 他の 歌が ほぼ 文武 朝以 後の もの であ るこ と

︵稲 岡﹃ 全注 巻二

﹄︶ は留 意さ れて よい

︒こ れを 持統 四年 とす ると

︑ むし ろ歌 群の 他の 歌の あり 方と 抵触 して しま うの では ない か︒ つま り︑ 持統 四年 の行 幸の 場に 従駕 して いた 憶良 が川 嶋皇 子歌 の代 作を なし つつ

︑一 方で 同行 者の 意吉 麻呂 歌に も﹁ 追和

﹂し てい たこ とに なる

︒こ のあ り方 は﹁ 追和

﹂の 方法 から して

︑理 解し がた い︒ のみ なら ず︑ 巻二 の有 間皇 子歌 群に

︿川 嶋= 憶良 歌︶ のみ が持 ち込 まれ

てい ない こと もま た不 自然 とい わざ るを えな い︒ そう する と︑ 巻二 の意 吉麻 呂歌 に関 して は︑ 大宝 元年 時の 行幸 に 意吉 麻呂 が従 駕し てい て︑ 他に も詠 歌︵ 巻九

・一 六七 三︶ をな して いる 事実 が重 視さ れる べき であ り︑ 意吉 麻呂 の歌 が大 宝元 年時 のも ので ある こと はま ず動 かな いと ころ であ る︒ さて

︑実 際に はこ の二 首に 憶良 が追 和し てい る︒ とこ ろが 憶良 は 文武 天皇 の行 幸︵ 大宝 元年

︶の 年に は遣 唐使 に任 命さ れて いる

︒続 紀に 遣唐 使出 発の 具体 的な 日時 の記 事は ない が︑ 一度 出航 した 船が 暴風 に押 し戻 され

︑ど うや ら待 機中 であ った らし い

︒そ のよ うな 状 況下 では

︑憶 良の 行幸 への 参加 はあ りえ まい

︒し たが って

︑意 吉麻 呂の 歌に

︑憶 良の 追和 の歌 が付 され たの は︑ おそ らく 憶良 が中 国か ら帰 還し て遣 唐使 の任 を終 えた 後︵ 慶雲 元年 七月 一日 以降

︶の ある 機会 であ ろう

︒意 吉麻 呂が 自作 の歌 を示 した のに 対し て︑ 憶良 が追 和し たと いう 関係 が推 定さ れる

︒ これ に関 して 伊藤 博氏 は︑ 意吉 麻呂 の歌 の文 字遣 いに

﹃遊 仙窟

﹄ の強 い影 響を 見て

︑そ れは 大宝 年間 の遣 唐使 によ り舶 来さ れた

﹃遊 仙窟

﹄を 憶良 がい ち早 く意 吉麻 呂に 示し

︑意 吉麻 呂が それ を取 り入 れて 歌作 した 結果 であ ると 想定 され る︒ そし て︑ ここ の追 和に つい ても

︑憶 良が

﹃遊 仙窟

﹄を 意吉 麻呂 に示 した 折に

︑意 吉麻 呂の 方か ら憶 良に この 歌が 示さ れた ので あろ うと され る

︒妥 当な 推論 であ り︑

有間 皇子 をめ ぐる 歌群 の形 成と 紀伊 国行 幸

三六

(9)

首肯 され よう

︒ さて

︑こ の行 幸で 意吉 麻呂 はも う一 首の 歌を 遺し てい たの であ っ た︒ 以下 の考 察の ため

︑そ の歌 を含 む歌 群全 体を 掲示 する

︿Ⅲ 大宝 元年 の紀 伊国 行幸 歌︵ 巻九

︶﹀ 大宝 元年 辛丑 の冬 十月

︑太 上天 皇・ 大行 天皇

︑紀 伊国 に幸 す 時の 歌十 三首

① 妹が ため

我玉 求む

沖辺 なる

白玉 寄せ 来 沖つ 白波

︵九

・一 六六 七︶ 右の 一首

︑上 に見 ゆる こと 既に 畢り ぬ︒ ただ し︑ 歌辞 少し く換 はり

︑年 代相

ふ︒ 因以 りて 累ね て載 す︒

② 白崎 は 幸く 在り 待て 大船 に ま梶 しじ 貫き また かへ り 見む

︵同

・一 六六 八︶

③ 三名 部の 浦 潮な 満ち そね

鹿島 なる 釣す る海 人を 見て 帰り 来む

︵同

・一 六六 九︶

④ 朝開 き 漕ぎ 出て 我は

湯羅 の崎

釣す る海 人を 見て 帰り 来む

︵同

・一 六七

〇︶

⑤ 湯羅 の崎

潮干 にけ らし

白神 の 磯の 浦廻

あへ て漕 ぐ なり

︵同

・一 六七 一︶

⑥ 黒牛 潟 潮干 の浦 を 紅の

玉裳 裾引 き 行く は誰 が妻

︵同

・一 六七 二︶

⑦ 風

の 浜の 白波 いた づら に ここ に寄 せ来 る 見る 人な しに

︵同

・一 六七 三︶ 右の 一首

︑山 上憶 良の 類聚 歌林 に曰 く︑ 長忌 寸

吉麻 呂︑ 詔に 応へ てこ の歌 を作 る︑ とい ふ︒

⑧ 我が 背子 が 使ひ 来む かと 出

の この 松原 を 今日 か過 ぎな む︵ 同・ 一六 七四

⑨ 藤白 の み坂 を越 ゆと 白た への 我が 衣手 は 濡れ にけ る かも

︵同

・一 六七 五︶

⑩ 勢能 山に 黄葉

敷く 神岡 の 山の 黄葉 は 今日 か散 るら む︵ 同・ 一六 七六

⑪ 倭に は 聞こ え行 かぬ か 大我 野の 竹葉

り敷 き 廬

りせ りと は︵ 同・ 一六 七七

⑫ 紀伊 の国 の 昔猟 夫

鳴り 矢持 ち 鹿 取り なび けし 坂の 上に そあ る︵ 同・ 一六 七八

⑬ 紀伊 の国 に 止ま ず通 はむ 妻の 杜

妻寄 しこ せね 妻と い ひな がら

︿一 に云 ふ︑

﹁妻 賜は にも 妻と いひ なが ら﹂

﹀︵ 同・ 一六 七九

︶ 右の 一首

︑或 は云 はく

︑坂 上忌 寸人

の作 なり とい ふ︒ 右の

⑦が 意吉 麻呂 歌で ある

︒左 注に

︑憶 良の

﹃類 聚歌 林﹄ に基 づ く作 歌事 情を 伝え る︒ この 歌群 で作 者名 が記 され るの は︑ 今の 意吉 有間 皇子 をめ ぐる 歌群 の形 成と 紀伊 国行 幸

三七

(10)

麻呂 と⑬ の坂 上人 長だ けで ある

︒し かも

︑こ の二 首に のみ

﹁一 云﹂ の形 で歌 詞の 異伝 が付 され る点 も共 通し てい る︒

⑬歌 と﹃ 類聚 歌 林﹄ との 関係 の有 無は 不明 とい わざ るを えな いが

︑少 なく とも 意吉 麻呂 歌の あり 方か らす れば

︑意 吉麻 呂と 憶良 との 資料 の共 有性 が想 定さ れる であ ろう

︒﹃ 類聚 歌林

﹄を 編む 際の 資料 の一 つと して

︑意 吉麻 呂を 通し ても たら され た資 料の 存在 が浮 かび あが って くる ので ある 巻 ︒ 九の 行幸 歌十 三首 は︑ 作者 名を 記さ ない のが 原則 であ り︑ 一方 で︑ 巻二 に切 り取 られ たと 思わ れる 有間 皇子 関連 の歌 には

︑作 者名 が明 記さ れる とい う相 違点 があ る︒ 憶良 はこ の行 幸に 関し ては 事情 を知 らな いわ けで ある から

︑先 の追 和歌 の関 係を 重ね てみ ても

︑意 吉麻 呂の 側の 資料 に基 づき

﹁歌 林﹂ が記 録し た可 能性 が高 いと 思わ れる

︒大 宝時 の行 幸歌 群の 資料 は︑ その 行幸 に参 加し てい た意 吉麻 呂の 側に も持 ち伝 えら れ︑ その 資料 があ る機 会に 憶良 に提 供さ れた とい う事 情が 推測 され る︒ この よう に考 える と︑ 大宝 年時 の意 吉麻 呂歌 と憶 良の 追和 歌の 営 みに は︑ さら に持 統四 年時 の憶 良歌 が影 を落 とし てい た可 能性 を見 てよ いの では ある まい か︒ 意吉 麻呂 歌と 憶良 の追 和歌 の成 りた ちに は︑ 何が しか の交 友関 係が 前提 とな って いよ う︒ そし て憶 良の 追和 の機 会が

︑遣 唐使 とし ての 渡唐 との 関係 から 大宝 の行 幸よ りも ずっ

と下 るで あろ うこ とは 先に 述べ た︒ いわ ば︑ 憶良 の留 守中 の出 来事 を意 吉麻 呂は 報告 し︑ それ に憶 良が 応え たの が追 和歌 の成 立な ので あっ た︒ そう する と︑ ここ に︑ 二人 の交 友関 係と 同時 に︑ 有間 皇子 を追 悼す る歌 を契 機と する 結び つき の線 が浮 かび あが る︒ つま り︑ 意吉 麻呂 は憶 良が かつ て有 間皇 子追 悼の 歌を もの した 事実 を知 って おり

︑自 らも その 流れ に身 を置 き有 間皇 子追 悼の 歌を 制作 した

︒帰 朝後 の憶 良に 意吉 麻呂 がこ れを 示し たの は︑ それ が二 人の 共有 の体 験だ った から であ り︑ 憶良 も当 然こ れに 応え た︒ 追和 した 憶良 の内 部に は︑ その よう な有 間皇 子追 悼歌 の流 れが 強く 意識 され てい ても おか しく ない

︒そ して

﹁追 和﹂ とい うあ り方 はま さに 憶良 の方 法な ので ある

︒ この よう な資 料の 同一 性︵ 共有 性︶ を手 掛か りに する と︑ 皇子 の 追悼 とい う主 題に 即し てた 歌人 の交 流が 想定 され てく る︒ 皇子 の自 傷歌 を冒 頭に 置き

︑そ の﹁ 結び 松﹂ を﹁ 見る

﹂こ とを 通し て後 人が 追悼 する 一連 の緊 密な 歌群 の形 成が 用意 され るこ とに なる

︒ 以上 が︑ 巻二 の有 間皇 子追 悼歌 群の 中核 をな す︿ 意吉 麻呂 憶︱ 良﹀ 歌の 形成 の背 景で ある

︒ 三︱

︿意 吉麻 呂︱ 憶良

﹀歌 の構 成 ここ で巻 二歌 群に 即し て︑ 一連 の表 現の 内実

︵あ り方

︶に つい て

有間 皇子 をめ ぐる 歌群 の形 成と 紀伊 国行 幸

三八

(11)

整理 する こと にし たい

︒ 先述 のよ うに 持統 四年 の︿ 川嶋

=憶 良歌

﹀の 表現 は︑ 有間 歌の

﹁︵ 結ん だ︶ 浜松 が枝

﹂を キー ワー ドと して 踏襲 して いた

︒巻 二の

︿意 吉麻 呂︱ 憶良 の追 和﹀ もそ の方 向性 は同 じで あり

︑有 間へ の追 悼歌 は一 貫し て﹁

︵磐 代の

︶結 び松

﹂が 主題 とな って いる

︒ 詳し くい えば

︑⒝

③︱ が︑ 願望 を託 して 結ん だ磐 代の 松を

︑そ の後 見る こと がで きた ので あろ うか とい う形 で︑ 皇子 への 哀悼 の思 いを 表出 して いる こと であ る︵ ちな みに

︑⒝

④︱

︵意 吉麻 呂の 二 首め

︶は 歌い 手の 心情 表出 が主 眼と なっ てい る︶

︒題 詞の 表現 もそ の内 容に 呼応 して 整え られ てい るか のよ うで ある

︒編 集過 程に は違 いが ある と思 われ るも のの

︑こ のこ とは

︑願 望を 託し て結 んだ 松の 木末 を再 び見 たで あろ うか と皇 子へ の思 いを いう

︑︿ 歌集 歌﹀ にま で及 んで 共通 する

︒有 間皇 子歌 を承 ける 形で

︑意 吉麻 呂歌 も︿ 歌集 歌﹀ も︑ その 題詞 では

﹁見 結松

﹂と 記し

︑対 応す る歌 の表 現も

﹁磐 代の 崖の 松が 枝結 びけ む人 は~

﹂︵ 一四 三︶

・﹁ 磐代 の野 中に 立て る結 び松

﹂︵ 一四 四︶

・﹁ 後見 むと 君が 結べ る磐 代の 子松 が末 を~

︵一 四六

︶の よう に︑ 思い を託 して 結ば れた

﹁結 び松

﹂︵ 一四 一︶ を 通し て皇 子を 追憶 する 構成 をと って いる

︒憶 良の 歌の みが

︑﹁

︵結 び︶ 松﹂ を対 象に しな がら も︑ 後世 の人 の立 場か ら過 去の 人を 思い やる ので はな く︑

﹁人

﹂に は見 えな いけ れど も﹁ 松﹂ こそ は知 って

いる とし て︑ 霊魂 と化 した 皇子 を見 続け てい る︵ 霊魂 と交 流し あっ てい る︶ 松を 主体 に歌 って いる

︒地 名や 修飾 語を 一切 介在 させ ない で表 現し てい るが

︑皇 子と の関 連は やは り﹁ 松﹂ を媒 介に 歌わ れる

︒ つま り︑ 追悼 歌群 のキ ーワ ード

﹁結 び松

﹂を 軸に 表現 は構 成さ れて いる ので あっ た︒ 憶良 の追 和歌 につ いて

︑田 中大 士氏 は﹁ この 歌の 前後 をな す︑ 奥 麻呂 歌︑ 柿本 人麻 呂歌 集歌 が︑ 過去 の人 とし て詠 む有 間皇 子を

︑今 も霊 とし て存 在し てい ると 詠む 点︑ 大き く突 出し てい る﹂ とす る︒ それ は﹁ 亡き 人と の間 に長 い時 間が 立ち はだ かっ てい る嘆 き﹂ を歌 う同 じ憶 良の 三四 番歌

︵持 統四 年︶ との

﹁手 法﹂ の違 いで もあ る

と され る︒ 憶良 の手 法と いう こと もあ るか も知 れな いが

︑や はり

﹁追 和﹂ の歌 であ るこ と︵ 場を 共有 して いな いこ と︶ が一 つの 理由 でも あっ たろ う︒

﹁人 はか へり てま た見 けむ かも

﹂と 事件 の進 行す る時 間の 中に ある 皇子 の行 動を 推し 量り

︵一 四三

︶︑ その ゆか りの 結び 松に 心結 ぼれ たま まで ある こと を嘆 く︵ 一四 四︶ 意吉 麻呂 歌の 二首 に和 しつ つ︑ ゆか りの 松と の交 流を 現に 続け る霊 魂の 存在 を幻 視し てい る︒ 前者 が時 間的 距離 の隔 たり を強 調し 嘆く

のに 対し て︑ 後者 は空 間的 な世 界の 隔た りを 強調 する 方向 へと 転換 させ るの であ る︒ 憶良 の追 和歌 は︑ 皇子 の霊 魂と 交感 関係 にあ る松 の木 を想 起し なが ら︑ 現実 と幽 冥界 との 隔絶 の思 いを 歌っ てい ると して よい

︒死 の事 有間 皇子 をめ ぐる 歌群 の形 成と 紀伊 国行 幸

三九

(12)

実を 通し ては そこ に長 い時 間を 実感 しつ つも

︑ゆ かり の景 物と 交流 する 霊魂 の存 在を 通し ては

︑な お微 かな 共存 の感 覚を 持っ てい たの であ ろう か︒ 憶良

︑な いし はそ の時 代の 霊魂

︵生 命︶ 観念 がほ の見 えて いる かも 知れ ない

︒ 四 柿本 人麻 呂歌 集歌 の問 題 巻二 歌群 は最 後に

﹁人 麻呂 歌集 歌﹂ を置 いて いる

︒こ の歌 につ い ては いく つか の問 題が ある

︒そ の一 つは 題詞 の﹁ 大宝 元年 辛丑

~﹂ のよ うな 精緻 な書 式は 人麻 呂歌 集で は異 例で ある こと から

︑題 詞の 下の 小書

︵﹁ 柿本 朝臣 人麻 呂歌 集中 出也

﹂︶ の注 記は その まま 認め ら れな いの では ない かと いう 問題 であ る︒ 本文 どお り大 宝元 年の もの で﹁ 歌集

﹂に 属す ると の見 解

が多 い中 で︑ 肝心 なの は稲 岡耕 二氏 の 指摘 され た︑ 第五 句の 表記 のあ り方

︑す なわ ち﹁ また 見け むか も

︵又 将

見香 聞︶

﹂の

﹁将

﹂字 を助 動詞

﹁け む﹂ にあ てる 用字 法は

︑ 人麻 呂歌 集及 び人 麻呂 作歌 では 例を みな いと いう 異質 さ︵ 不自 然 さ︶ が解 決さ れて いな いこ とで ある

︒本 稿で は︑

﹁歌 集﹂ 歌で ある かど うか はな お課 題を 残す もの の︑ 巻九 の大 宝時 の行 幸の 一群 の歌 から 取り 出さ れた もの であ るが

︑そ の際 に何 らか の誤 記が あっ たか

とす る見 解に 従う こと にし たい

︒ 次に は︑

︿歌 集歌

﹀が 大宝 時の 歌と する なら ば︑ なぜ 同時 の意 吉

麻呂 作歌 と巻 二に おい て切 り離 され て収 載さ れて いる のか に疑 問が もた れる

︒こ れに つい ての 一つ の解 答は

︑憶 良歌 まで が第 一次 の整 理段 階で

︑﹁ 歌集

﹂歌 はそ の後 に増 補さ れた とい う編 集過 程の 結果 とす る見 解︵

﹃釈 注 巻二

﹄︶ であ る︒ しか しそ れに して も︑ もと も と同 じ場 で歌 われ たと 推定 され る意 吉麻 呂歌 と︿ 歌集 歌﹀ が分 断さ れた 経緯 には

︑あ るい は憶 良の これ 以前 の歌 の存 在が 大き かっ たの では ない か︒ すで に触 れた

﹁白 波の 浜松 が枝 の︵ の木 の︶

﹂の

︿川 嶋= 憶良

﹀歌 であ り︑ 巻九 の﹁ 山上 歌﹂

︵九

・一 七一 六︶ はそ の位 置か らし て人 麻呂 歌集 に属 する と見 られ る︒ 実は 有間 皇子 への 追悼 歌を 初め て歌 った のは 憶良 であ り︑ 意吉 麻呂 はそ れを 知っ てい るか らこ そ大 宝時 の自 分の 歌を 憶良 に示 した とい う事 情が 想定 され る︒ そう だと すれ ば︑ 有間 皇子 の歌 を意 識し て追 憶し た意 吉麻 呂歌 があ り︑ さら にそ れに 和し た憶 良歌 があ り︑ その 流れ で有 間皇 子追 悼歌 群の 構成 がな され たこ とは 分か りや すい

︒視 点を 変え れば

︑意 吉麻 呂︱ 憶良 ライ ンに よる 資料 に基 づい た歌 群の まと まり であ る︒ そこ に第 一次 の有 間皇 子歌 群の 形成 を考 える こと がで きよ う︒ この 筋道 から する と︿ 歌集 歌﹀ がは み出 すの も︑ ある 意味 では 自然 のな りゆ きで ある

︒ 以上 のよ うな 次第 であ ると する なら

︑︿ 歌集 歌﹀ はこ れら の歌 群 と共 通性 をも たな いの かと いえ ば︑ 表現

︵﹁ 結び 松﹂ を﹁ 見る

﹂と

有間 皇子 をめ ぐる 歌群 の形 成と 紀伊 国行 幸

四〇

(13)

歌う 主題

︶か らは むし ろ共 通性 が認 めら れよ う︒ 当該 歌は

︑題 詞を 疑え ば持 統四 年の 行幸 時の もの とも 考え 得る が︑ そう する と︑ 意吉 麻呂 の第 一首 はあ まり に︿ 歌集 歌﹀ と近 似し た歌 にな って しま う︒ やは り大 宝時 の行 幸︑ すな わち 意吉 麻呂 歌と 同一 の場 で形 成さ れた もの する のが よい であ ろう

︒ 二首 が同 じ場 で詠 まれ たこ とを 示す 徴証 は︑ 共に 第五 句に

﹁ま た 見け むか も﹂ の同 一表 現を もつ こと にも 認め られ る︒ 通常

︑同 一の 場で 歌わ れた 歌が 同じ 句を 含む こと は決 して 多い とは いえ まい が︑ 大宝 の行 幸時 の詠 歌の 特徴 に︑ 同一 句な いし 類似 句を 含む もの の多 いこ とが ある

︒村 瀬憲 夫氏 の指 摘に よれ ば︑ 紀伊 行幸 歌群 のな かに は次 のよ うな 類句

・類 型的 表現 が見 られ る

︒ 56768

③ 三名 部の 浦潮 な満 ちそ ね鹿 島な る釣 する 海人 を見 て帰 り来 む

④ 朝開 き漕 ぎ出 て我 は湯 羅の 崎釣 する 海人 を見 て帰 り来 む 56768

⑧ 我が 背子 が使 ひ来 むか と出 立の この 松原 を今 日か 過ぎ なむ

⑩ 勢能 山に 黄葉 常敷 く神 岡の 山の 黄葉 は今 日か 散る らむ

* 後れ 居て 我が 恋ひ をれ ば白 雲の たな びく 山を 今日 か越 ゆら む これ らを 挙げ て村 瀬氏 は︑

﹁こ のよ うな 現象 が生 じる のは

︑こ れら の歌 が多 くの 人々 の前 で歌 われ

︑広 く享 受さ れる 共通 の場 があ った こと を示 して いる

﹂と 述べ られ た︒ この 現象 は︑ 同じ 行幸 の機 会に もの され た巻 二の 有間 追悼 歌群 につ いて もい える

︒意 吉麻 呂の

③と

︿歌 集歌

﹀が とも に﹁ また 見け むか も﹂ の結 句を 持つ こと であ る︒ 有間 皇子 追悼 歌の 一群 の中 でみ ると き︑ 意吉 麻呂 歌と 歌集 歌と がと もに 同一 の句 を持 つこ とに はや や違 和感 を覚 える

︒か とい って

︑二 首は 同一 歌と いう ほど に近 いわ けで もな く︑

﹁人 は︵ かへ りて

︶﹂

︵意 吉麻 呂歌

︶と

﹁君 が︵ 結べ る︶

﹂︵ 歌集 歌︶ とい う対 象に 対す る 把握 の仕 方の 差異 も見 られ る︒ こう して

︑む しろ 類句 を共 有す る形 での 集団 的詠 歌の あり 方が 想定 され てよ いと する なら

︑二 首は 場を 共に する 同時 の歌 と見 るこ とが 許さ れよ う︒ 五 大宝 元年 行幸 と有 間皇 子追 悼歌 前節 まで にお いて

︑巻 二歌 群と 大宝 時の 歌群 の場 の同 一性 を想 定 して きた が︑ 二群 の場 の同 一性 につ いて は︑ 必ず しも 自明 のこ とで はな い︒ 巻九 の行 幸歌 につ いて は︑

﹁藤 白の み坂

﹂︵

⑨︶ の歌 を除 き︑ 大か た有 間皇 子歌 と結 びつ くよ うな 歌は 見当 たら ない

とさ れて きた

︒ とこ ろが

︑見 てき たよ うに

︑巻 二の 有間 皇子 歌群 中の 意吉 麻呂 歌︑

︿歌 集歌

﹀は 大宝 行幸 時の 作と する ほか はな い︒ とす れば

︑巻 二歌 群と 巻九 歌群 は︑ 歌の 場は 同じ であ って も初 めか ら別 々の 資料 とし て定 着を みた ので あろ うか

︒ そこ で想 起さ れる のが 巻九 歌群 に有 間皇 子追 憶の 歌の 存在 を指 摘 する 伊藤 博氏 の論

であ る︒ 伊藤 論が

﹁藤 白坂

﹂の 歌以 外に も有 間皇 有間 皇子 をめ ぐる 歌群 の形 成と 紀伊 国行 幸

四一

(14)

子と の関 連を もつ もの とし て挙 げる のは

︑ま ず﹁ 白崎 は幸 く在 り待 て~

﹂︵

②︶ の歌 であ る︒ この 歌の

﹁幸 く﹂

︑﹁ また かへ り見 む﹂ な どに つい て︑

﹁表 現が 酷似 し︑ 趣が 通う

﹂点 で︑ 有間 皇子 の自 傷歌 第一 首︵ 一四 一︶ を想 起さ せる とさ れる

︒次 に︑

﹁風 莫の

~﹂

︵⑦

︶ の歌 をあ げて

︑﹁ 見る 人な しに

﹂の 句が 志貴 皇子 挽歌

︵二

・一 三一

︶ など にに 通じ る﹁ 挽歌 的表 現﹂ であ ると の判 断に 立ち

︑こ の歌 は前 歌と のつ なが りで は﹁ 家で 待つ 妻を 指す

﹂の だが

︑﹁ 続く 歌の あり よう によ って は有 間皇 子そ の人 を指 すこ とも あり 得る

﹂と して

︑も とも とは この 歌の 直後 に巻 二の

︿歌 集歌

﹀が あっ たと 推定 され た

︵伊 藤論 は巻 九行 幸歌 群か ら巻 二に 切り ださ れた のは

︿歌 集歌

﹀の みと 判断 され てい る︶

︒ 巻二 の有 間皇 子歌 群と 大宝 時の 歌群 の関 係が 論議 され ず︑ むし ろ 関連 の言 及に 慎重 であ るよ うに 思わ れる のは

︑︿ 意吉 麻呂 憶︱ 良﹀ 歌の 制作 時点 が不 確定 であ るこ とが 影響 して いる であ ろう

︒ま して

︑ 肝心 の有 間皇 子事 件は すで に四 十三 年も 以前 の出 来事 であ る︒ 確か に巻 九歌 群だ けを 読ん でい る限 りで は︑ そこ に有 間皇 子歌 との つな がり は見 えに くい とい って よい

︒し かし 問題 は︑ 巻二 歌群 の形 成事 情を 見通 すこ との でき たい ま︑ それ らの 歌群 を巻 九歌 群に 重ね てみ ると

︑そ こに は新 たな 映像 が立 ちあ がっ てく るの では なか ろう か︒ その 点で

︑伊 藤論 の指 摘は まさ に先 見的 であ った と思 う︒

ここ で︑ 伊藤 論が 有間 皇子 の歌 との 重な りを 推断 した

②の 歌に つ いて

︑あ えて 巻二 の歌 の類 同的 な表 現に 照ら して みる と︑ 次の よう な関 係に なる

Ⅲ・

② 白崎 は幸 く在 り待 て大 船に ま梶 しじ 貫き また かへ り見 む

﹇Ⅰ

・① 磐代 の浜 松が 枝を 引き 結び ま幸 くあ らば また かへ り 見む ]

Ⅰ・

③ 磐代 の崖 の松 が枝 結び けむ 人は かへ りて また 見け むか も

Ⅰ・

⑥ 後見 むと 君が 結べ る磐 代の 小松 がう れを また 見け むか も 第五 句に 呼応 する 表現 をも つ右 のよ うな 類句 関係 が見 えて くる ので ある

︒② の﹁ 白崎

﹂歌 の歌 い手 の意 図い かん にか かわ らず

︑﹁ また かへ り見 む﹂ から 有間 歌の

﹁結 び松

﹂が 呼び 起さ れる のは 必然 であ ろう

︒﹁ 白崎

﹂︵ 日高 郡由 良町 大引

︶と 磐代 は距 離的 に離 れ過 ぎて は いる が︑ この 歌群 で地 名の 表わ れは 必ず しも 旅程 の順 序に 対応 して はい ない

︒② は前 半﹁ 海浜 の歌

﹂の 冒頭 歌で あり

︑白 崎へ の讃 美で ある とと もに

︑旅 の安 全を 託す 機能 をも 担っ てい る︒ その 表現 は有 間皇 子の 歌と 響き 合う 表現 性を もつ がゆ えに

︑お そら く磐 代の 地と 結び つく 時に

︑意 吉麻 呂歌 や歌 集歌 のよ うな あり 方を 誘発 する ので はな いだ ろう か︒ 巻二 の歌 群の 対応

︵構 成︶ がそ のま ま巻 九の 現場 で再 現さ れた など とい うつ もり はな い︒ 有間 皇子 歌が 早く に﹁ 表 現﹂ とし て存 在︵ 確定

︶し てい る以 上︑ その 現場 にか かわ る行 幸の

有間 皇子 をめ ぐる 歌群 の形 成と 紀伊 国行 幸

四二

(15)

地で 巻九 の② が発 想さ れる のは

︑一 つの 可能 性と して の方 向で ある

︒ そし て︑ 巻九 の② が有 間歌 を内 包し うる 表現 であ る以 上︑ これ と映 発し 合っ て巻 二の

③・

⑤が 表現 化さ れる のも

︑集 団的 詠歌 のあ り方 とし て可 能な 方向 であ る︒ 現在 の巻 九の 前半 詠の 中で は︑ 地理 的関 係は かな り緩 やか に並 ん でい て︑ それ は行 程の 順序 より も︑ 歌の 一連 が景 物や イメ ージ の繋 がり とい う︑ 内面 的な 趣向 を優 先し てい る

こと から すれ ば︑ ここ で︑

﹁有 間皇 子﹂

・﹁ 磐代

﹂・

﹁結 び松

﹂を 通し た数 首が 歌わ れた とし ても

︑ それ は一 つの 自然 な流 れで あっ たろ う︒ 仮に 歌の 場が 同一 の宴 席の 場で ある なら ば︑ これ らは 間髪 をお かず 歌い 継が れた か︑ 場合 によ って はむ しろ 類同 的な 語句 を積 極的 に用 いて

︑集 団の 紐帯 関係 を活 性化 する よう な動 態の なか で形 成さ れた こと を示 して いよ う︒ いま 具体 的な 歌の 場所

︵位 置︶ を特 定し よう とす るの では ない が︑ 巻二 の歌 群は

︑同 じ場 で制 作さ れた 可能 性が 強い ので はな いか と思 う︒ もと もと 巻九 歌群 は︑ 冒頭 に斉 明朝 の行 幸歌 の少 異歌 を置 くこ と から から 始ま って いる

︒ 妹が ため

我玉 拾

ふ 沖辺 なる

玉寄 せ持 ち来

沖つ 白波

︵九

・一 六六 五︶ 歌群 の①

︵一 六六 七番

︶は 左注 にも 説明 して いる よう に右 の少 異歌

であ る︒ かつ ての 紀伊 国行 幸時 の詠 歌と して

︑そ の往 時を 回想 する ため に誦 詠し た古 歌な ので あろ うか ら︑ 同一 の歌 とみ てよ い︒ ここ には 斉明 朝へ の追 慕︑ ない しは 有間 皇子 の時 代へ の回 顧の 意識 が働 いて いた とい える

︒ さら に︑ 後半 の復 路︵ 陸路

︶の 旅の 歌に は︑

﹁藤 白の み坂

﹂が 歌 われ てい る︒ こう して

︑大 宝時 の歌 群に は︑ 時と して 過去 の紀 伊行 幸へ の回 想︑ 追慕 の意 識が 表れ てい る︒ さら に本 稿が 考察 して きた 歌群 も︑ その よう な列 に並 べて 考え るこ とが でき るの であ る︒ 巻二 の追 悼歌 群の 表現 が臨 場感 に支 えら れた もの であ った こと が 想起 され る︒ 結び にか えて 以上

︑巻 二の 有間 皇子 関係 歌群 につ いて

︑巻 二以 外に 収め られ る 二回 の紀 伊国 行幸 にお ける 歌群 との 関係 を手 掛か りに

︑そ の形 成の 過程 を探 って きた

︒万 葉の 歌に よれ ば︑ 二度 の紀 伊国 行幸 の機 会に

︑ 有間 皇子 の自 傷歌 第一 首に 関わ る﹁ 磐代

﹂の

﹁結 び松

﹂を キー ワー ドと して

︑皇 子追 悼の 歌が 詠じ 続け られ た︒ 巻二 の有 間皇 子歌 群は その 主要 な歌 群を 集積 し︑ 一つ の流 れに 構成 した もの であ る︒ 持統 天皇 四年

︵六 九〇 年︶ の紀 伊国 行幸 にお いて

︑︿ 川嶋

=憶 良 歌﹀ が﹁ 浜松 が枝

﹂を 軸に して 有間 皇子 への 追悼 歌を 歌っ たの は︑ 有間 皇子 をめ ぐる 歌群 の形 成と 紀伊 国行 幸

四三

(16)

斉明 天皇 四年

︵六 五八 年︶ の有 間皇 子事 件か ら三 十二 年後 のこ とで ある

︒さ まざ まに 背景 は推 測さ れて いる が︑ 謀反 の大 罪を 犯し た皇 子に 対す る行 為と して は奇 異な 印象 が持 たれ ない でも ない

︒こ の時 の紀 伊行 幸の 経緯 がそ のま ま受 け継 がれ たの かど うか は分 から ない が︑ それ から さら に十 一年 後の 大宝 元年

︵七

〇一 年︶ の紀 伊国 行幸 にお いて も︑ 有間 皇子 の自 傷歌 や事 件を 意識 した 場所 で︑ やは り皇 子を 追憶 する 歌が 詠じ られ てい た︒ 本文 でそ れに 関説 する こと はし なか った が︑ 意吉 麻呂 の歌 の注 記に

︑﹃ 類聚 歌林

﹄で は詔 に応 へて この 歌を 作る

﹂と する 実態 を伝 えて いる よう に︑ 歌の 場に は天 皇︑ ある いは 持統 太上 天皇 が臨 席し てい た︒ とす れば

︑有 間皇 子に 対す る追 悼の 歌群 は︑ 公に は許 容さ れて あっ たこ とに なる

︒ 持統 四年 と大 宝元 年の 同じ 天皇

︵持 統お よび 持統 太上 天皇

︶の 両 次の 行幸 歌に は︑ 有間 皇子 追慕 の思 いが 歌わ れて いる ので ある

︒数 十年 にも 亙り

︑宮 廷人 に皇 子へ の追 悼︑ 追憶 の意 識を 持た せた 要因 は何 なの か︑ これ は単 に行 幸が 有間 皇子 ゆか りの 紀伊 路を 通過 する から とい った 理由 から だけ では ある まい

︒先 の考 察に よっ ても

︑有 間皇 子追 慕の 感情 は集 中的 に表 われ てお り︑ 宮廷 集団 の意 思的 動向 が働 いて いる とみ られ るか らで ある

︒ 持統

・文 武朝 の両 度の 紀伊 国行 幸従 駕歌 には

︑か なり 意志 的な 有 間皇 子追 慕の 営み があ った と確 認し て結 びと した い︒

① 阪下 圭八

﹁有 間皇 子﹂

﹃初 期万 葉﹄ 一九 七八 年︑ 平凡 社︒ 初出

︑一 九 七五 年︒ また 穂積 老の 巻三

・二 八八 とそ の異 伝と 思わ れる 巻十 三・ 三二 四一 歌も 同じ 表現 をも つ︒

② 稲岡 耕二

﹁有 間皇 子﹂

﹃万 葉集 講座 第五 巻﹄ 一九 七三 年︑ 有精 堂︒

③ 注② に同 じ︒

④ 注② に同 じ︒ なお 伊藤 博﹃ 万葉 集の 表現 と方 法 下﹄ 一九 七六 年︑ 塙 書房

︒第 八章 第二 節︒

⑤ 吉永 登﹃ 万葉 集﹄

︵一 九五 七年

︑三 一書 房︶ 護送 の強 行日 程を 指摘

︒ 仮託 論の 論拠 のひ とつ とな る︒

⑥ 折口 信夫

﹁万 葉集 短歌 輪講

﹂﹃ 折口 信夫 全集

二十 九巻

﹄一 九六 八年

︑ 中央 公論 社︒ 初出

︑一 九二

〇年

⑦ 伊藤 博﹃ 万葉 集の 構造 と成 立 下﹄ 第八 章第 二節

︒一 九七 四年

︑塙 書 房︒

⑧ 中西 進﹁ 磐代 にて

﹂﹃ 山上 憶良

﹄河 出書 房新 社︑ 一九 七三 年︒ 初出 一 九六 九年

⑨ 橋本 達雄

﹁人 麻呂 周辺 の歌 人﹂

﹃万 葉宮 廷歌 人の 研究

﹄一 九七 五年

︑ 笠間 書院

︒初 出一 九六 七年

︒中 西︑ 注⑧ に同 じ︒

﹃続 日本 紀﹄ 大宝 二年 六月 乙丑

︵二 十九 日︶ 条に

︑前 年出 航し た遣 唐 使ら が暴 風に 遭い 戻っ てい たが

︑こ の日 に筑 紫か ら出 港し たと 記し てい る︒

⑪ 伊藤 博﹃ 万葉 集の 歌人 と作 品 上﹄ 第六 章第 二節

︒一 九七 五年

︑塙 書 房︒ 三七 五頁

⑫ 同時 の歌 は巻 一・ 五四

~五 六に も載 せる が掲 出は 省略 する

⑬ 村瀬 憲夫

﹁岩 代の 追和 歌﹂

﹃紀 伊万 葉の 研究

﹄一 九九 五年

︑和 泉書 院︒ 初出

︑一 九七 六年

有間 皇子 をめ ぐる 歌群 の形 成と 紀伊 国行 幸

四四

(17)

⑭ 田中 大士

﹁紀 伊国 行幸 時の 憶良 歌﹂

﹃セ ミナ ー万 葉の 歌人 と作 品 第 五巻

﹄二

〇〇

〇年 九月

︑和 泉書 院︒

⑮ 注⑭ に同 じ︒

⑯ 阿蘇 瑞枝

﹃増 補柿 本人 麻呂 論考

﹄一 九九 八年

︑お うふ う︑ 初版

︑一 九 七二 年︒ 金井 清一

﹁柿 本人 麻呂 歌集 非略 体歌 の作 歌年 代に つい て﹂

﹃国 語と 国文 学﹄ 平成 十年 五月 号︑ 同﹃ 全注

巻九

﹄概 説︒

⑰ 稲岡 耕二

﹃万 葉表 記論

﹄第 一篇

︵下

︶第 四章

︒一 九七 六年

︑塙 書房

︒ 初出

︑一 九六 九年

⑱ 伊藤 博﹃ 釈注

巻二

﹄︒ 稲岡 耕二

﹃和 歌文 学大 系万 葉集

①﹄ 補注 一四 六︒

⑲ 村瀬 憲夫

﹃万 葉集 の歌 人

と風 土

︿和 歌山

﹀﹄ 一九 八六 年︑ 保 育社

︒七 一頁

⑳ 注⑲ に同 じ︑ 七二 頁︒ ただ し※ 印の 歌︵ 九・ 一六 八一

︶は

﹁後 れた る 人の 歌﹂ の一 首な ので

︑場 は同 一で ない 可能 性が 高い

㉑ これ につ いて も有 間皇 子と の関 係は ない との 見解 があ るが

︑村 田右 富 実氏 によ って

︑関 係が 明確 にさ れた

︵﹃ 柿本 人麻 呂と 和歌 史﹄ 第四 章第 五節

︒二

〇〇 四年

︑和 泉書 院︶

㉒ 伊藤 博﹃ 万葉 集の 歌群 と配 列 上﹄ 第五 章第 三節

︒一 九九

〇年

︑塙 書 房︒ 初出

︑一 九八 八年

㉓ 注㉒ に同 じ︒ 四〇 九頁

㉔ 注㉒ に同 じ︒ 四〇 五頁

︹付 記︺ 本稿 は︑ 森浩 一先 生に 同行 した 御坊 市で の﹁ 御坊 歴史 再発 見シ ン ポジ ウム

︿二

〇一 二年 十一 月十 日﹀ の資 料を もと に整 理し たも ので ある

︒与 えら れた 課題 は︑ 万葉 の紀 伊関 係の 歌に 有間 皇子 の事 件が どの よう な影 を落 とし てい るか であ り︑ その 一つ に有 間皇 子関 連の

歌群 の形 成過 程を 探る こと があ った

︒御 坊市 の岩 内一 号墳 を皇 子の 墓に 想定 する 森浩 一説

︵﹁ 磐代 と有 間皇 子﹂

︑森 浩一 編﹃ 万葉 集の 考 古学

﹄一 九八 四年

︒﹁ 敗者 の古 代史 有

間皇 子と 塩屋 連鯯 魚

﹃歴 史読 本﹄ 二〇 一二 年十 二月 号︶ を視 野に おき なが ら︑ 万葉 集に 有間 皇子 の影 を追 う作 業は 難行 であ った が︑ 有間 皇子 関連 の歌 が深 い奥 行き をも つこ とに

︑改 めて 気付 かさ れた

﹁も う一 冊︑ 万葉 集を 書き たい

﹂と の先 生の 願い の実 現に

︑立 ち 合う こと がで きな かっ たの は心 残り であ る︒ 合掌

︒ 有間

皇子 をめ ぐる 歌群 の形 成と 紀伊 国行 幸

四五

参照

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